音楽を歌い分ける技術

 中森明菜さんの「駅」好きです(笑)理屈なくすごいと思います。
それを無理やり言語化します。←やめとけ(笑)
 歌手も演奏家も「役者」です。普段の生活、考え方、性格を「音楽」で包み込み、見る人、聴く人を「引き込む」のが仕事です。聴く二兎にとって、演奏する人は音楽の向こう側にいる「偶像」で良いと思います。
 音楽によって表現方法を変えるのが「技術」です。そんな意味でも中森明菜さんが様々な音楽を歌い分ける技術に、ただ驚くばかりです。
 「クラシックは違うんだ!」とは思いません。アレンジが変わるだけで音楽は変わります。楽器が変われば音楽が変わります。
 楽譜は音楽ではありません。「記号」であり「設計図」です。それを「音楽」にするのが演奏家です。楽譜がなくても、音楽は生まれます。
楽譜の通りに「音を出す」だけで音楽になるのではありません。
むしろ「音」を音楽にすること、そのものが「音楽」だと思います。
 言葉や音符を「音楽」にする技術は、前提として演奏者の「感情」があってのものです。「こんな音楽にしたい」という欲求や、自分が演奏する音楽で自分が感じる「感情」があっての技術です。
・技術が豊かであれば、感情の幅も大きくなります。
・感情が繊細であれば、技術も繊細になります。
感情のない演奏は「無機質」です。
 やっぱりあきなちゃんはすごい(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の基本は「点」

 私たちは3次元の世界に生きています。「縦・横・高さ」簡単に言えば「立体の世界」です。「1次元」は「点」だけの世界です。当然動きはありません。
 もう一つの「時間」という概念で考えると、秒・分・時間・日・週・月・年などの単位で表されますが、日常生活で「秒」よりも小さい単位の時間を意識することはありません。「一秒間に〇△回の動き」と言う言葉を機ことはあります。例えば、空気が一秒間に442回振動する音が「A」と言う使い方があります。メトロノーム記号で♩(四分音符)=120と書いてあれば、一秒間に2回♩が演奏される速さを表しています。

 上記の二つ「動き」と「時間」を組み合わせて考える時、「一瞬で止まる」とか「突然動き出す」という表現ができます。また「少しずつ速く動く」「だんだん遅く動く」とも言います。
 動きを「止めている」状態で「一秒間」待つ場合、動きは「点」であり、時間は「一秒間」です。
 一秒後、「動き出す」速度が速くても遅くても、動き出す「瞬間」が存在します。時間の「点=瞬間」です。
 動き出して=音が出始めてから「一秒後」に運動を「止める」場合、だんだん遅くなっていも突然止まったとしても「境目」があります。これも「点=瞬間」なのです。

 要するに「動き」には「静止」と「動き」があり、時間には常に「点」が存在することになります。時間が止まることはないのです。常に「時」は動いています。sの細かさをどれだけ細かく感じられるか?が大きな問題になります。時間の点=瞬間を意識するためには、その点の「前」に点を意識することが必要になります。聴いている人には「突然の瞬間」でも、演奏する人には「準備して決めた循環」なのです。
 音を出す瞬間・音を止める瞬間は、常にすべての音に存在します。レガートの途中の音であっても、無音の状態から最も小さい音で演奏し始めても「点」は存在します。
 「音を出す仕組み」は楽器によって違います。ヴァイオリンの場合は「弓の毛が弦を擦って動き出した瞬間」に音が出始めます。ピチカートなら「弦をはじいた瞬間」です。
弓で音を「止める」点もあります。弓の動きを「止めた瞬間」と「反対方向に弓を動かす瞬間」です。多くの生徒さんは「弓を止める」ことに意識がありません。また、運動を「止める」事がうまくできないのもアマチュアによく見られ宇ことです。「弓を動かし始める点」と「弓を止める点」を両方とも意識することです。

 音を出し「始める=動き出す」「終わる=止まる」「瞬間」を予測し、必要な準備の運動を「いつから?」始めるのかを考えることです。この「いつ」も時間です。音が出るよりも前の時間=瞬間から準備の運動が始まります。
 指揮法で言えば「直接運動」です。腕(指揮棒)が動いた瞬間にオーケストラ音を「出す」運動です。そのために点を「予測させるための静止るる時間」が必要になります。「先入=せんにゅう」と呼ばれます。演奏にも同じような「法則」を考えていけば、思った時間に思った音が出せるようになっていきます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家が後世に残すべきこと

 生き物は必ずいつか「死」を無噛めます。
人が生きている間に「物」として残す「物」もあります。絵画や楽譜がその一つです。
演奏は?形もなく手に触れることもできない「無形」な音の芸術です。録音することができるようになる「以前」から演奏は行われてきました。それらの演奏を今、聴くことは出来ません。それでも「パガニーニの演奏は〇△だった」と言う、文字の記録だけは残っています。どんな人の演奏であっても、まったく同じ演奏を再現することは不可能です。
ましてや、他人が誰かの演奏とまったく同じ演奏をすることは絶対に不可能です。
 どんな演奏であっても、その演奏を「聴く人」にとっては、唯一無二のチャンスであり貴重な体験になります。
 より完璧な演奏をしたいと思うのは、自然なことです。多くの人が「素晴らしい」という演奏を「一流の演奏」「名演奏」と称賛するのも間違っていません。
 演奏家が演奏する「音楽」はその場で消えるものです。その演奏を、直接聴くことができる人は限られています。それは昔も今も変わりません。
 一部の階級の人だけが演奏を聴いて楽しめた時代もありました。貴族や皇族、教会だけで演奏される音楽もたくさん残っています。それは「楽譜」が残っているから可能なのです。そして「演奏技術」が伝承され、楽器作りの技術が伝承されているから、今もその楽譜を演奏できるのです。
 演奏技術を構成残すのは、誰の役割でしょうか?紛れもなく演奏家です。伝える方法は様々です。
1.自分の演奏を聴いてもらって伝え残す。
2.弟子に言葉や行動で伝え残す。
1.で伝えられることもたくさんありますが練習の方法や「考え方」までは伝えられません。
2.を「レッスン」「教育」という形で考えると、演奏の時間を削ることになります。

「一流からしか一流は育た谷」という考え方もあります。確かに二流の芸しか出来ない人に、一流の劇を伝えることは不可能です。
 では「一流の人だけを育てる」用とするのは、正しい事でしょうか?
だれでも最初は「二流」です。と言うより「初心者」から始めます。特殊な才能を持った人だけを選抜して育てる…無理だと思います。そもそも人は全員「違った能力」を持っている生き物です。「才能を育てる」と言う言葉には大きな疑問を感じます。それを言うなrあ「個性を伸ばす」というべきです。
 一流の演奏家・指導者に習っても、二流に歯科粗朶だたなかった「私」が書いても説得力が無いかもしれません(笑)が、私の周りにいる「一流」の演奏家と私の「違い」は、恐らく「努力の差」しかないと思うのです。才能がある、ないの差ではないと感じています。
 一人でも多くの人に「演奏する楽しさ」「希望」「夢」を残すことも、演奏家の役割ではないでしょうか。
 一流の演奏家が、普段演奏している「仲間」よりも優れた演奏家と「コミュニティ」を作って「悦に入る」姿、その演奏に私は魅力を感じません。そこまでするなら、生活の拠点を、その「コミュニティ」に変えるるべきです。「超一流」だけが集まる演奏集団を「素晴らしい」と言うのであれば、「普通の一流」の演奏は不要なのでしょうか?
 自分や自分たちが受けることのできた、音楽教育を、自分が教える側になって子供たちに教えることを、もしも演奏家全員がやめてしまえば、演奏家はいずれいなくなります。
「指導は二流の演奏家がやることだ」と言うのであれば、この先一流の演奏家は生まれないでしょう。
 芸を授かった人間は、その芸を延焼することが「恩返し」だと思うのです。
習う環境、教える環境を作ることが出K理るのも「一流の演奏家」ではないのでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導する側・される側

久しぶりの投稿です。
「指導」と言う言葉は一般的に、子供が家族などから日常的な事を学ぶ事柄とは違うものとして理解されています。学校で先生から学業を「習う」ことは「指導」の一つです。法的に「指導要綱」「指導要領」と言う言葉が学校教育で使われている事もその証です。
 ヴァイオリンやピアノを学校外で「習う」場合も「指導」の一つです。
「ヴァイオリン指導者」と言えば、ヴァイオリンを誰かに教えている人を指しています。指導を受ける人は「生徒」や「弟子」「門下生」などと呼ばれます。
小学校に通うう子供は「児童生徒」、中学・高校では「生徒」大学の場合は「学生」と呼び方が変わります。学校以外の習い事では主に「生徒」弟子」「門下生」などと呼ばれますが、共通するのは「指導者から学び取る」のが指導を受ける側の立場であり「学ぶ意志がある」ことが前提です。
 本人が幼く「学ぶ」「習う」と言う意味や本質を理解していないことは珍しくありません。かと言って「保護者が習う」ことでもありません。
大人が自分の意志で学ぶ場合なら、指導する人への礼儀や態度、言葉遣いは「常識」としてわきまえているはずです。幼児の場合には親が子供に「教えていく」のが礼儀であり当然のことです。

 指導する人も「元は指導された人」です。自分が受けた指導がベースになる場合と「反面教師」になる場合があります。それも普通の事です。
 問題は指導を受けた自分の印象や結果は、あくまでも「自分だけ」の事だという事です。自分以外の人にとって、同じ指導を受けたとしても違う印象や、結果があったはずなのです。
 要するに「自分が良いと感じた指導」だから、他の人(生徒や弟子)にも良いt者だとは限らないという事です。その逆も当然あります。
 例えて言えば、些細な事にも厳しい指導をする指導方法が「良い結果」を生む場合と「悪い結果」を生む場合があるのも事実です。いわゆる「スパルタ」で指導した場合に、指導された側が「暴力を受けた」と感じる場合と「当然のことだ」と受け入れられる場合があります。
「ハラスメント」を直訳すると「悩ますこと、いやがらせ、悩み(のたね)」です。
先述のように、指導者された側が「嫌なこと」と感じたら「ハラスメント」だと安直にしてしまうと「もっと練習しないと!」とか「音程が悪い」と言われただけで「嫌に感じる」からハラスメント!になってしまいます。
ならば!指導者が生徒・弟が、嫌な気持ちにならないように!と、出来ていないことを指摘するのを控え、出来ていなくても「じょうず」とだけ言えば?
ハラスメントで訴えられることはないでしょうが「やる気がない指導者」と岩惣です(笑)
この問題は世界中で議論される「教育の在り方」に関わります。

 音楽教育に範囲を絞って考えてみます。
楽器や声楽の演奏・作曲・指揮・音楽学などいくつかに分類されます。
例えば楽器を演奏する技術を「指導する」場合に、具体的に必要な知識と技術を考えます。
1.楽器の構造(音の出る仕組みや扱い方など)
2.楽譜を「音楽」にする知識と技術
極論すれば上記二つの項目につきます。「2.」の項目は楽譜を用いて音楽を演奏することの「必要性」によって不要な場合もあります。
 一般的な「レッスン」では、楽譜を正確に・美しく演奏できるように指導者が生徒に「指導」を行います。
 生徒によって、楽譜を音にする技術のレベルが違います。楽器のよって、そのレベルも違います。ピアノとヴァイオリンでは「楽譜」に書かれた音符の数、音部記号が全く違います。どんな楽器で演奏する場合であっても、必要な技術があります。「楽譜を頭の中で音楽にする技術・能力」です。楽器がなくても、楽譜を見て音楽を頭の科で「音」にする技術です。楽器演奏の技術ではありません。
「読譜技術」とも呼ばれます。多くの場合、子供の頃に「文字」を覚える時期に「楽譜を読む」力が身に着けられます。大人になってからでも身に着けられます。
「音名」「音の長さ」「音の高さ」を同時に組み合わされて「音楽」になります。
この技術は、楽譜を見ながら楽器を演奏する人にとって、生涯ついて回ります
多くの生徒さんの場合、この技術を「ゼロ」から始めます。
同時に楽器の「音を出す」レッスンも行われます。

 指導者にとって、生徒・弟子の「上達意欲」と「練習環境」は本来は無関係です。逆(習う側)から言えば、上達したい気持ちと練習できる環境によって、指導者の「存在価値」が変わってしまいます。
「意欲」があっても「環境」が悪い場合もあります。
「環境」が整っていても「意欲」が足りない場合もあります。
むしろ、意欲がないのに「習う」事、自体が無駄な気もします。
 では、指導者は生徒の「意欲」を高めることは必要でしょうか?
「音楽学校」には音楽を学びたい人が通います。
…ともっていましたが、この頃はどうなんでしょうか?(笑)
「興味があって」「弾いたことがないけれどやってみたい」と習い始める人に、初めてのレッスンをする機会の多い私です。
 音楽学校の生徒・学生とは「次元」が違います。何よりも「意欲」を維持する指導技術が必要不可欠です。楽譜の「ドレミ」を知らない生徒も言えれば、4分音符と8分音符の違いをまったく理解していない生徒が殆どです。
 ヴァイオリンを手にして初めて出せた音に「出せた!」「お~!」という反応があります。その音を「きれいに」「長く」出せるようになるだけの練習でも、長い時間の練習が必要になります。その練習と楽譜を音にする練習を、同時進行します。この途中段階で「無理」と、楽器の練習をあきらめる人がたくさんいます。
「楽譜が難しい!」と思うのは大人です(笑)子供にとって、新しい漢字を覚えたりすることと大きな違いはありません。大人が「新しいこと」を覚える体験が少なるのは自然なことです。だからこそ「楽譜」という新しい言語に対して、必要以上に抵抗を感じてしまうのかもしれません。

 最後に「指導者」に求められる技術と感性を考えてみます。
「演奏者」に求められるそれとは、明らかに違います。
何よりも生徒・弟子一人一人の個性に対応して、指導方法を決める「柔軟性」です。同じ内容でも、生徒によって吸収できる量も内容も違います。
指導する側が指導方法を一種類しか持っていなければ、その指導に順応できる人だけが上達していくことになります。「わかる人だけで良い」と割り切ってしまうのは簡単です。指導者の「語彙(ボキャブラリー)が少なければ、伝わるものも少なくなります。生徒によって、一つの技術を習得するまでの時間=期間が全く違います。レッスンの時間内に理解してある程度できるようになる生徒もいれば、そうでない生徒もいるのが当たり前です。
 優れた演奏家が優れた指導者とは限りません。これは以前のブログでも書いたことですが、人に教えることが苦手だったり、嫌いな演奏家もいます。
また外見的には指導の場を作っている人でも、その中身は「自分のお気に入りだけを育てる」と言う指導者もいます。もちろん、指導者も生徒も人間ですから「相性」が合わない人もいます。教わる側=生徒が学び取りたいという意思を持っていても、指導者の言葉遣いや態度、性格や感性に違和感や嫌悪感を持つことは仕方のないことです。それでも!学びたいことがあれば、レッスンを受け続けるでしょう。その意味でい言えば、生徒が先生を選ぶということになります。
 指導者が生徒を選ぶことも起こり得ます。生徒の態度や言葉遣い、指導者の求める練習量や内容、子供の場合は保護者の対応など、指導する側にも生徒を選ぶ「権利」は当然にあります。一言で言ってしまえば「指導者と生徒の価値観の相違」かも知れません。レッスン時間に5分でも遅れてくることを許さない指導者もいます。逆に指導者がと遅れてくるケースもあります。お互いの「価値観」やモラルが一致していなければ、師弟関係は崩れて当たり前です。
 音楽を学びたい人と、伝えたい人が価値観とモラルを共有しあうこと。
その上で、指導者は生徒の個性に合わせた指導を行うスキルを身に着けることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕の使い方、今と昔。

シェリングのボウイング
ヴェーグのボウイング
ヴィタリ シャコンヌ 野村謙介

 今回のテーマ「ボウイング」について。
弓を弦に乗せて動かす「だけ」で音が出る弦楽器のヴァイオリン族。音色と音量を決定するのが「弓」を動かす運動の方法です。多くのチュートリアル動画がある中で、「ボウイング」や「右手」「右腕」で調べても、なかなか「右腕・右肩・背中の使い方」についてのものは見つかりません。弓の持ち方に関する動画はすぐに見つかりますが。
 ヴァイオリニストの個性が最も大きく表れるのが、右腕の使い方による音色と音量の「違い」だと信じています。
 ヴァイオリン奏法が「進化」しているとは思いません。むしろ、50年以上の前に録音されたヴァイオリンに、演奏者の個性が強く出ている気がします。

 右腕は「右肩」から始まりますが、右肩は「右の背中」と「首の右側」の筋肉によって動きます。逆に弓を持っている「指」「手」をいくら動かしても演奏は出来ません。人間の背中の筋肉と首の筋肉、さらに鎖骨周辺の筋肉を使う事こそ、ボウイングの「基本」だと思っています。
「弓を動かす」のは手や指ではなく、背中・首の筋肉です。
 弓元半分を使う時の右腕の「上下運動」があります。弓先半分は右ひじの「曲げ伸ばし」が主な運動になります。4本の「どの弦を演奏するのか」によっても、右腕の高さが変わります。
 弓の毛の長さと、右腕の長さを良く考えてみるべきです。

 腕の重さを使う事、より大きな筋肉を使う事、関節を柔らかく使う事。ボウイングは弦楽器奏者の「個性」を表す最大の技術だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

16回目のリサイタルを終えて

2024年1月6日(土)代々木上原ムジカーザで、浩子さんとのデュオリサイタル16を無事に終えることができました。
 16年と言う時の流れと共に、リサイタルで160曲ほどの曲を二人で演奏してきました。40代で始めたコンサートをいつまで継続できるのかは、私たちにもわかりません。コンサートを開くことで、私たち自身が演奏に向き合うことができて、お客様に喜んで頂くことができると言う幸せを感じます。一方で「自費演奏会」ならではの刑事a的な事情と、現実的に体力的な問題も回を重ねるごとに厳しくなっているのも事実です。言ってしまえば、やってもやらなくても「構わない」コンサートでもあります。だからと言って「やめたい」と思ってもいません。現実は厳しいものです。
 今回、多くの新しい曲たちに取り組みました。動画のタンゴもその一つです。
 ソナタが嫌いと言う意味ではなく、小品の良さを一人でも多くの方に「生」で味わっていただきたいと思い続けています。
 もっと「マニア向け」と言われる曲や、「超絶技巧」のヴァイオリン曲に取り組むことも「不可能」だとは思いません。
 自分たちの「身の丈に合った曲」を選ぶことが、安直な妥協だと言われれば甘んじて受け入れます。技術の低さを「隠す」気持ちはありません。だからこそ、演奏することに必死になる難曲よりも、聴いてくださる方がクラシックを普段聞かない方でも「癒される」音楽を演奏したいと思っています。
 ヴィタリのシャコンヌをプログラムの最後に演奏しました。私にとって40年ぶりの演奏でした。地元でもムジカーザでも、多くの方に楽しんで頂けたようでした。
 小品…と言うには演奏時間が長く、一般のヴァイオリンリサイタルでは「前プロ」的に演奏されることが多い曲です。
 自分の技術不足を少しでも克服する練習をし続けて16年。その前の20年間はヴァイオリンから離れた生活をしていました。
7歳頃から始めたヴァイオリンを習い続けたのが16年間。
 こうして考えると、63年の人生で3分の1ずつを「学び」「生活し」「音楽に生きる」時間として使ってきました。
 音楽にも人生にも言えることは「誰かにいかされている」ことです。自分が生まれることも楽器を習い始めるt事も「親」がいたからできたことです。その「終わり」を自分で決めることは出来ません。もちろん、人前での演奏をやめることは自分の意志でするべきことです。ただ、楽器を弾けなくなっても音楽と共に生きることはできます。その「終点」がいつなのかは、自分で決められません。
 誰かのために。誰かの笑顔のために。音楽を演奏できる間は、頑張りたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲者=演奏者の楽譜について

 動画はフリッツ・クライスラーが演奏する[シャミナーデ作曲 スペイン風セレナーデ クライスラー編曲」です。
クライスラーは自身が演奏するための楽譜を多く出版しました。中には昔の作曲家の名前を勝手に(笑)使って、「〇△作曲」と発表したものもあったようです。理由は?自身の演奏会で、すべての曲が「クライスラー作曲」だという事に本人が抵抗を感じての事だとか。これって「ゴーストライター」と言えるのか?(笑)謎です。
 テーマはクライスラーが演奏する自分で書いた楽譜の「録音物」と「楽譜」の関係です。
結論を言えば、楽譜を見ながら聴いて「なるほど。そういうことか!」と納得できる部分と「え?そんなこと書いてないじゃん!」という部分があります。作曲者本人が演奏するのですから「間違い」ではなく「この時はこう演奏した」というだけの事。私たちは?楽譜の通りに演奏するべきですが(笑)録音を聴いていると「そっちの方が素敵!」と思う事も。
 あなたならどちら(楽譜・作曲者の演奏)を採用しますか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使い・ボウイングを変えて演奏することのメリット・デメリット

チャイコフスキー ノクターン もみじホール
チャイコフスキー ノクターン ムジカーザ

 今回のテーマは、左手の「指使い」と右手の「弓使い=ボウイング」に関するものです。どちらも演奏する曲を練習する段階で、楽譜に書かれている場合・場所もあれば、書かれていない楽譜も普通に存在します。
 Youtubeで多くの演奏家の演奏動画を比較してみていても、同じ曲でも指使い・弓使いが異なっているものが殆どです。同じソリストが同じ曲を、違う指使いで演奏しているものも多数見かけます。
 上の二つの動画は、昨年末(2022年12月)と今年の年明け(2023年1月)に同じ曲を演奏した動画ですが、よく見ると指使いもボウイングも違います。
「なぜ?同じように演奏しないのか?」
「なぜ?指使いや弓使いを変えるのか?」
この問いに対して「変えることは決めていないから良くない」という考え方と「その時々で変更することは出来た方が良い」という考え方があります。
 楽譜に書かれている指示通りに演奏すれば良い…とは限りません。事実、印刷の間違いとしか思えない指示がある場合も珍しくありません。また、同じ曲でも出版社によってまったく違う指示が書かれているものも当たり前です。
 練習していく中で、複数の選択肢が生まれてきます。「どれが正しい」と言う正解はありません。選択する理由も様々です。「演奏しやすいから」という理由もあれば「音色を優先」「音量を優先」「速く演奏できることを優先」などの理由で「ひとつ」を選ぶことになります。
 演奏は「時間の芸術」であり、まったく同じ演奏を2回することは不可能です。だからこそ、指使いや弓使いを「変えない」と言う考え方も理解できます。逆に言えば、演奏する時の体調や気温、湿度、ホールの響きによって、自分が思っていた音色や音量、効果がない場合もあります。その時に、前回演奏したときと違う指使いや弓使いをする・出来ることも、演奏家に求められる技術だとも言えます。
 私は上記の後者=その場で決めるケースが多く、演奏するたびに指使いも弓使いも違います。「安定感が下がる」「再現性が下がる」「練習の効率が悪い」と言われればその通り!(笑)です。
 自分の音が、どんな演奏の場所でも同じように聴こえ、ピアノの音とのバランスもいつも同じように聴こえるのであれば、変えないほうが無駄も少なく、混乱するリスクも減ります。
 学生の頃には、同門の先輩が演奏した楽譜をお借りし、指や弓を書き写させてもらったものです。その通りに演奏することに疑問も違和感も感じませんでした。「そうするもの」だと信じていました。自分で考えることより、先輩や師匠の考えられたものを忠実に演奏すること。それが当たり前でした。
 レッスンから離れ、自分で選んだ曲を自分で考えて指使い・弓使いを決めるようになってから、初めて「考える」ことの大切さを知りました。
 言うまでもなく、自分で考えられるようになるまで、楽譜の指示通りに演奏する習慣は身に着けるべきです。教本などに書かれた指示を守ることは「セオリー」を覚えるために必要な練習です。
 人によって「好きな指使い」が違います。ボウイングも同じです。
自分の選択肢を増やすための研究と、実際に演奏してみて「結果」を反省することの繰り返しが、最終的に自分にあった演奏方法を見つけることに繋がります。
 きっと、これからも混乱して迷子になりますが(笑)どうぞ、暖かい目で見てやってください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の重さ・指の重さ

 写真は世界一、手触りの良い肩当て「ぷりん」(笑)
 リサイタルに向けて。地球の重力を最大限に利用しています。
 卵のLサイズ1個の重たさは約60グラム。ヴァイオリンの弓の重さも約60グラムです。この「重さ」には理由があります。弦と弓の毛の「摩擦」は、弓の重みだけでも発生します。ダウン・アップ方向に動かす運動のエネルギーは、人間の腕によって作られます。弓の60グラムの重さをうまく弦に「乗せる」ことが如何に難しいか?逆に言えば、押し付ける力を指で作ってしまうのは簡単なことです。まして、2本の弦を同時に演奏し続ける場合、圧力で2本を演奏しようとする気持ちが無意識に生まれて今いがちです。
 左手の「指」にも重さがあります。
指1本の重さを測ることは出来ませんが(笑)、弦の振動を「止める」ことさえ出来れば、必要以上の力で弦を押さえることは無意味です。
 指を「弦に落とす」イメージ。指の「速度」を重視することです。
 左手の指が「弦の上を滑り動く」映像を過去の偉大なヴァイオリニストの演奏で見られます。どんなときにも「楽器」を中心に、身体で包み込む意識をもって演奏しています。
 今度のリサイタルでその「途中経過」が発揮できることを根差しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小鉢の「お献立」

 12月1月のリサイタルが近づいてきました。
「コンサートに休憩は付き物」と思われがちです。
クラシックの演奏会の場合、多くは「前ププロ「中プロ」「休憩」「メインプロ」で構成されます。休憩がどこにはいるか?は、前プロの長さにもよrします。コンサートの開演から「アンコール」の1~2曲まで含めての時間は?休憩を含めると2時間「前後」のコンサートが多いように思います。
 2時間=120分を長いと感じるか?短いと感じるか?は、人そ玲央ぞれの「好みと「生活習慣」で大きな違いがあります。好きなことに没頭していれば「あっという間の2時間」でも、いらいらしながら過ごす時間や嫌なことをしている時間は「まだ10分か」と思うものです。
 コンサート会場の環境でも感じる時間の長さは違います。固くて座り午後地の悪い椅子に、じっと座って1時間…これ、苦痛を通りこして拷問(笑)
コンサートでエコノミー症候群って笑えませんよね。
映画館でポップコーンを食べながら、ピールやジュースを飲みながらの2時間は長い?これも映画の内容にもよりますが、映画が30分で終わる場合は「ショートむーぼー」扱いです。

 前回のリサイタルから「休憩」をはさまずに、すべてのプルグラムを演奏しています。今回、どうしよう?と二人で色々なケースを考えてみました。
・1曲ごtの演奏時間が短いこと。
・音楽の印象が異なる曲が続くこと。
・曲の開設やトークをところどころに加えること。
・お客様の年齢層が幼稚園児から高齢者まで幅広いこと。
・もみじホールはクッションのある椅子。
・ムジカーザはクッション性の低い椅子。
・前回のリサイタル演奏時間が、約1時間20分。
などなどを考え合わせ、今回も休憩なしで演奏しようかと思っています。
 前回より少し「正味の」演奏時間が短いので、トークを短め・少なめに(笑)すれば高齢者やお子さんでも大丈夫かな?という結論です。
 曲を「小鉢」に例えましたが、味や触感の違うお料理です。
ヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノ独奏という「違い」もあります。
 休憩の「意義」として、演奏者が休むことも要素の一つです。
ただもみじ・ムジカーザともに、楽屋(控室)から舞台袖・媚態までの移動で体が冷えるという現実もあります。疲れもさることながら、演奏で一度温まった指や体が休憩で「冷える」のも案外つらいものです。
 通常のクラシックコンサートのような構成ではありませんが、時間を短く感じられる演奏会にしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介