音楽と身体の「同期」と「独立・分離」

 映像は10年前のデュリサイタルで演奏した、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。
代々木上原ムジカーザでの演奏です。
 今回のテーマは、多くの生徒さん…特に大人の生徒さんたちが頭を悩ませる内容です。

 まず音楽を演奏する時に使う身体との関係です。どんな楽器でも声楽でも「身体」のどこかを使って音楽を演奏します。コンピューターが自動的に音楽を演奏してくれる状態は「演奏」とは言いません。敢えて言うなら「機械の操作」です。
 音楽を演奏する人にとって、自分の「身体の「どこ」を「どう」動かすのか?そしてそれが「思ったように」動いているか?を常に考える必要があります。「無意識」に身体の一部を動かすこともできますが、まず!自分の意識で筋肉や関節を「思った通り」に動かせるようにする訓練が必要です。
 演奏を「運動」として捉える時に「音楽との同期」を考えることが先決です。わかりやすく言えば「音楽と身体の動きを紐づける」ことです。小さな子供が音楽に合わせて体を動かしたり、首を激しく振ったり、手を叩い理するのも「音楽に合わせて体が動く」ことの表れです。逆の例え話だと、音楽に合わせて手拍子をしている人の中で、少しずれている人が必ずいるものです。

 音楽を聴いて「感じる」もの。耳が聞こえる人なら「音=空気の振動」で、耳の聴こえない人なら「身体に感じる振動」です。
「音」と「音楽」の違いがあります。音は音楽とは限りません。車の走行音、鳥の鳴き声などを音楽とは感じません。音楽に感じるかどうか?は個人差もありますが、ほとんどの人…音楽を普段聞かない人も含めて「音楽」に感じるのは「メロディーに聴こえる音」「和音に感じる音」が聴こえた場合です。メロディーとは「音の高さとリズム」で創られます。
しかも「ランダム=不規則」に音の高さと長さ(リズム)を組み合わせた「音の連続」は音楽に感じる人はごくわずかです。
 また同じ高さの音を同じ長さで、延々と繰り返していると「何かの機会の音」に感じます。電話の「話し中」の音や、アラームの「ピピ・ピピ・ピピ・と言う音に感じます。
 和音は「異なる高さの二つ以上の音が同時になったときに響き」ですから、半音違う二つの音が同時になっていても「和音」です。

「聴きなれた和音」例えば「ドミソ」のような音の重なりを聴くと、音楽を知らない人でも、何の音か?わからなくても「安心感」「親しみ」を感じます。 

 音を音楽として感じられた後の「感覚」として、速さ・強さ・明るさを感じられます。
 速さは「音の長さ・短さ」でも感じますし「拍と拍の間隔」にも左右されます。さらに言えば「楽譜で見た目」の速さと実際の演奏で感じる「速さ」は別のものです。
 冒頭の動画「ツィゴイネルワイゼン」で後半に演奏するヴァイオリンは「速い」と関zる部分です。演奏する「テンポ」を変えれば、遅く感じます。当たり前です。

 音の大きさは「生」で聴く場合と「録音」を再生して聴く場合で全く違います。生で聴く場合も「大ホール」の後ろで聴く場合と「サロン」で目の前の演奏を聴く場合で違います、
 「明るさ」は音楽的に「長調・長音階・長三和音」として判断できる人は限られています。「なんとなく」感じるのが音楽の明るさです。本来「調性」とは無関係の「ゆったりした静かな音」は暗い…と思われがちで、「速く大きな音の音楽」は明るいと勘違いする人もいます。歌詞がある「歌」なら歌詞の内容や歌い方でも暗いと感じる人もいます。

 演奏する人が音楽に合わせて動けるか?感じた「明るさ」「強さ」を身体で表現できるか?を考えます。例えば「振付」や「ダンス」を真似事でも良いので考えることができるか?という事です。激しく速く明るい音楽を「身体全体」を使って表現するとしたら、どんな動きを想像しますか?逆に、緩やかで穏やかな暗い音楽を表現するとしたら?
 まずは「ここから」だと思います。

 自分が演奏するわけですから、自分の「頭の名K」で決めた「速さ・大きさ・明るさ」を自分の身体を動かして楽器を演奏することになります。頭の中にそれらがなければ?ただ、「音が出た」と言う結果だけが残ります。出してしまった音に「同期」することは不可能です。なぜなら「同期」するためには「予測」が不可欠だからです。次に演奏🅂る「音」の「時間」「大きさ」「明るさ=音色」を決めてから演奏することが「音楽との同期」だからです。誰かが演奏する生音楽に、完全に同期させることは物理T劇に不可能です。当たり前ですよね?予測できないからです。「聴こえた音に反応する」のでタイムラグが起きます。つまり「遅れる」か「飛び出す」ことになるのが当たり前なのです。偶然にタイミングが合うこてゃあり得ても、それは「まぐれ」です。同期とは言いません。

 最後に「独立・分離」の話を書きます。
一般に体は「同時に同じ動きをする」ものです。例えば、右手と左手で同じ「グー」「チョキ」「パー」を続けて出すことは誰でもできます。でも右手と左手で、いつも違うグー・チョキ・パーを続けることはものすごく難しいことです。
 ヴァイオリンの生徒さんの多くは「右手と左手」が一緒に動いてしまいます。例えば、弦を押さえるのと同時に「弓を返す」こてゃ出来ても、「先に弦を押さえたり離したりする」つまり、右手が止まった状態で左手の指だけを動かすことが出Kないのが普通です。
 スラーの場合は、右手を動かした状態で左手を動かすので「何とか」出来ても、移弦を交えると右手の移弦の運動とスラーが「分離」出Kません。さらに左手の動きとスラーが無意識に同期=一緒に動いてしまいます。
 私たちが日常生活の中で、左右の手足・指・声・注視するものなどを「バラバラ」に動かしている場面があります。車の運転、自転車の運転、原稿を読みながらのスピーチなどが思い浮かびます。

 運動神経と呼ばれるものにも「瞬発力」「持続力」「反応速度」などがあります。
音楽家に「運動音痴」が多いのも事実です。幼いころ個から楽器だけを演奏し、球技は「柚木を痛めるから御法度」(笑)で育った人も多いので仕方ありません。
 キャッチボール、サッカーをして遊び、縄跳びや跳び箱は小学校の体育の時間に習います。球技の場合は「予測」と「反応」が重要です。ボールが飛んでくる場所を予測し、そこにグローブやバットを出すと言う一連の運動です。
 他人の動きを「予測する」「反応する」ことが求められるスポーツの代表が、ボクシングだと思います。いくら腕力が強くても相手の動きが「読めない」ボクサーは勝てません。
 他人とシンクロするスポーツの一つが「シンクロナイズドスイミング」と「新体操」です。音楽に合わせて全員が「それぞれに」動く。音楽の「拍」を予測する能力と、身体を同期させる技術が不可欠でです。
 スポーツではありませんが「マーチングバンド」の場合にも楽器の演奏をしながら、歩幅を完全に一致させながら「歩く」「曲がる」「止まる」ことが求められます。

 楽器を演奏する時、音楽を聴いて楽しむ場合とは異なる「運動の制御」が求められます。
1.自分が作りだす「体内時計=インターナルクロック」は演奏する前から始動させます。
2.自分が作った「速さ=流れ」が決まったら、音を出す」前」から運動を開始させます。実際に指や弓を動かす運動ではなく「音を出すための予備運動」です。「力を貯める」「動きながら音を出す」「ヴィブラートをかけは踏める」なども予備運動です。
3.音を出しながら次の「運動」を感が増す。当然「今現在、出ている音を聴きながら」の運動です。
4.運動を意識して音を出す練習を繰り返すことで、意識しなくても運動を同期・分離できるようになります。習得に係る時間は様々ですが「必ず」出来るようになります。
5.演奏しようとする音楽・音と、そのために必要な予備運動と実際に音を出す運動、さらに次の音への「リレーション」を、「音色」「音量」「ピッチ」それぞれに考える習慣をつけましょう。
 大切なことは「音を出してから考え・動く」のではなく「考え・運動を開始してから音を出す」ことです。聴いている人には「突然始まる」音楽であっても、演奏者には「その前」が必ずあるのです。

 違う言い殻を擦れば「音を出す目の運動があって音を出す運動につながる」のです。
 手漕ぎボートを想像してください。ボートが進む=動くためには、オールを自分の身体より「後ろ」の水面に沈めなければ、水を「掻く」ことは出来ません。
 演奏中、常に「音」の前に予備運動があり、音を出す運動も様々な筋肉や関節を「バラバラ」あるいは「同時」に動かす技術が必要になります。常に自分が「音の前に居る」意識を持つことが大切だと思っています。

 下の演奏は、作曲者サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンの雑音を消去したものです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供と大人の「緊張」

  映像は保護者の方の同意を頂いて使わせていただいた、小学校2年生の生徒さんが演奏する動画です。エルガー作曲の「6つのやさっしい小品」です。幼稚園の頃からヴァイオリンを教えているのですが、レッスンに同伴されるお母さんに「言いたい放題」の甘えん坊=反抗的な幼児(笑)のまま小学生になりました。これまでにも、多くの「絶賛反抗期中」の子供たちを見てきているうえに、自分自身も似たり寄ったりの幼少期を過ごしたので扱いには「慣れたもの」です。
 この少年(仮名A君)に限らず、子供でも日常と違う環境に遭遇したときに、普段と違う態度・言動・心理状態になるものです。「子どもは緊張しない」と言う人がいますが、私は違う気がします。例えば、言葉を話せない赤ちゃんがお母さん以外に抱っこされると、不安になって泣きだすことは誰でも知っています。話せるようになった幼児が「人見知り」するのも、ごく普通の事です。成長につれて「抑制」することを覚えます。それでも緊張や不安は感じるのが人間です。言い換えれば「日常」と「非日常」を区別する能力があるから起こる現象です。人間以外の動物にも見られることですよね。知らない人に吠える犬。知らない人が来ると物陰に隠れる猫なども、不安と緊張から自然に行動として現れます。

 音楽を演奏していて「緊張」したときに起こる現象は様々です。足が震える・膝ががくがくする・手に汗をかく・頭が真っ白になる・演奏している感覚がない・終わっても何も覚えていないなどなど。楽器の演奏に限ったことではなく、人前で話をしたり、初めての人と会話する時にも「緊張」しているはずです。ただ「慣れることで人前で話したり、初対面の人と笑顔で会話したり「コントロール」できるようになるだけです。
 どんなに慣れたことでも、環境が変われば緊張するものです。演奏に関して言えば、人前で演奏し慣れている人でも、演奏する曲によって不安を感じることもあります。また、体調によっては演奏に不安を感じることもあります。
不安は「過緊張」につながります。ある程度の緊張は、日常生活で頻繁に直面します。言ってみれば「耐性」が出来ています。

動画でヴァイオリンを演奏している、A君のレッスン時の演奏とお母様から聴いている自宅での練習、そして本番での演奏を考えてみます。
 レッスンで生徒さんの演奏を聴くと、自宅での練習内容は指導をする経験を重ねると説明がなくても想像ができるようになるものです。前回のレッスンで指摘したことを、本人がどの程度、理解していたか。それを出来るようになる「努力」をどの程度していたか。レッスンの都度、多少の違いはありますが、A君は私が指摘し課題にしたことを、70~90%程度、出来るようにしてきます。すごい事だと思います。とは言え、小学2年生の男子!なのでレッスン時の集中力にはムラがあります。大人とは大きな違いです。
 本番で演奏前に「足が震えた」とご家族に話したそうです。演奏前、演奏中の表情も普段とは別人のような「緊張」した顔でした。
 演奏は?レッスンの時に集中して弾けたときと同じ演奏が出来ていました。素晴らしい!むしろ、レッスン時に気が散っている時や、うまく出来ずにイライラして拗ねている時の演奏に比べて、はるかにきれいな音で丁寧に演奏していました。
 レッスンで間違えたことのない場所で、初めて聴く「作曲」はしていましたが(その部分は割愛しました)、その直後に立ち直りました。
 子供らしい「緊張の表れ」が動画の最後に見られます。演奏が終わり拍手が始まっている時に、ヴァイオリンを構え直しています。もしかすると…「お辞儀」と「演奏の合図」がすり替わったのかもしれません(笑)可愛らしくて思わず袖で吹き出しました。

 大人の生徒さんが過緊張で「パニック」状態になることがあります。子供は間違えても、パニックにはなることは、ほとんどありません。
 子供は「言われたことをその通り」にしようとします。お辞儀にしても、合図にしても、演奏の仕方にしても、基本的にいつもの通りに行動します。無意識に表情や言動が変わることはありますが、演奏については普段と変わりません。
 本番の時に「うまく弾こう」とか「本番だから」という特別感が演奏には現れません。
 大人の場合には?「本番」で「特別感」が演奏に多く表れます。「いつもより」落ち着こうとしたり、「いつもより」失敗しないことを考えたり、「いつもより」が良くないのです(笑)頭の中では「いつも通り」と思っていても無意識に「いつもより」が頭の中を支配します。結果、普段と違う「思考」「行動」をしてしまします。
 レッスンだけ考えれば、子供より大人の生徒さんの方が、指示やアドヴァイスを素直に受け入れてくれます。メモを取ったり、楽譜に書きこんだりするのも大人の生徒さんです。自宅で練習する時も、そのメモや書き込みを見直し、レッスン時の指示を思い出すのも大人の生徒さんです。なのに!本番では普段と違う演奏になってしまいます。

 音大生やコンクールを受ける人、あるいは人前で演奏する機会の多い人たちは「緊張」しないのか?と言えば、答えは「緊張します」なのです。どんな人間でも「初めての環境」に遭遇すれば普段とは違う感覚を感じます。犬や猫でもそうですよね?どんなに経験を重ねても「初めて」の曲や会場、お客様の前で、いつもと違う感覚になるのは当たり前です。ただ、その経験を繰り返すと、その「新しい感覚」にも「慣れる」のだと思います。
 例えば、いつも新しいお客様に対応する店員さんは、初めての人と会話をすることに慣れていきます。いつも違う場所で講演する人も同じです。私たちの日常でも、常に新しい環境に出会っていますが緊張しないのは、そのこと=新しい環境に遭遇することになれているからです。
 趣味で楽器を演奏する大人の生徒さんが、その「新しさ」になかなか慣れないのは無理もないことです。むしろ「子ども」が特別なのです。
 子供は大人よりも「新しいこと」に出会う機会が多いのです。学校や日常生活で「学ぶ」経験や知識が圧倒的に多いのです。
 子供にとって発表会で演奏することも、学校で始めて「九九(くく)」を習う事も「似たり寄ったり」なのです。
 さらに大人の生徒さんは子供に比べて「音・音楽」以外の事に気を遣いながら練習します。これは「良いこと」なのですが、本番でそれが悪い方に出てしまうケースがあります。
 例えば「指使い」を間違えないように気を付けて練習している時に、「音」が意識の外に行ってしまうケースです。スラーやヴィブラート、ポジション移動など練習の「内容・項目」は演奏する部分によって違います。音楽が「細切れ」になってしまい、一度間違えると収拾がつかなくなる原因の一つです。
 以前のブログにも書きましたが、音楽を「連続したひとつの流れ」として記憶することが大切です。 大人は年齢を重ねるほど「新しく覚える」機会が減ります。その結果「記憶したものを思い出す」ことも意識して行なうことが少なくなります。演奏は「記憶」によって行われるものです。楽譜を見ながら、情報をすぐに処理して「音」にする技術・能力は一朝一夕に身に付きません。いわゆる「初見」能力です。音楽の先=次を予測する技術も、経験で身に付けるしかありません。
 大人も子供も本来の「演奏能力」には大差ないはずです。むしろ大人の方が多くの知識と、長時間の集中ができます。楽譜を見ながら弾けばいつも通り弾ける…と思い込むのも大人です。楽譜の情報を常に読み取っていない=楽譜が役に立っていないのも大人です。
 頭が真っ白になっても、足が震えても、いつものように演奏できる「子ども」を見習うべきことがあります。「音楽を体で覚える」ことです。子供は「運指」や「ダウン・アップ」「スラー」を間違えても「音楽」を思い出して演奏します。途中で止まっても「続き」を思い出してつなげて演奏します。演奏中に客席に友達や家族を探してキョロキョロしながら演奏できます。
 九九を覚えるつもりで、1小節ずつ・1音ずつ音楽を覚えていけば、どこからでも演奏できるはずです。
 練習方法こそ「子どもに学べ」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の評価と価値・価格を考える

 上の映像は「格付けチェック」でどちらが高い楽器の演奏かを当てる場面です。この番組でわかることは?結論「わかるわけない」(笑)
 そもそも、録音された音をイヤホンやスピーカーで聴くわけですから「生の音色・音量」ではありません。さらに言えば、演奏者の技量も不明です。
 今回のテーマは、楽器の「評価」を「価値」と「価格=値段」で考えてみるものです。あくまでも私の個人的な考えですが、可能な限り客観的な事実を中心にして書いていきます。

 以前にも書きましたが、どんな楽器でも演奏する人のための「道具」であることは否定できません。美術品や絵画のように「道具」としての価値とは別の観点で評価が決まるものもあります。お茶の道具、刀剣などは、本来「使用する目的」がありました。使う人の為に作られた道具に「付加価値」が付いたものが美術品として扱われます。どんな高価な茶碗でも、もとより人間が作った「物」です。壊れることもあります。使えば汚れていくものです。「使えない道具」を作る食職人いるでしょうか?もし使えなくても良いと考えて作った賭したら、道具ではなく「物」でしかありません。

 楽器は音楽を演奏するために作られます。楽器で演奏された音楽を聴いて楽しむ人にとって「道具」にどんな価値があるでしょうか?
 演奏する私たちにとっての楽器の価値は「自分の好きな音楽を表現するための道具」です。好きな音、好きな形(外観)、好きな手触りがあります。演奏者それぞれに違うはずです。
 自分の価値判断=評価の基準がない人は、「誰かが良いと言った」ものを良いと思い込みます。仮に師匠から「これが良い」と言われたとしても、次第に自分独自の「価値観」が育つのが成長です。事実ストラディヴァリも、師匠であったアマティのヴァイオリンとは違うスタイルのヴァイオリンを作りました。自分が良いと思った楽器を作った「だけ」です。
 演奏者が選ぶ=手にできる楽器は「変える楽器」「貸してもらえる楽器」という条件があります。どんなに好きな楽器に出会ったとしても、それを演奏できない人の方が絶対に多いのです。では「妥協」なのでしょうか?
私は違うと思います。巡り会った人と人生を共にすることに近いものだと思います。人との関係でも、それが続かないことは珍しいことではありませんよね。だからと言って「誰でもいい」とは思わないはずです。今、一緒にいるパートナーを「妥協の結果」と思う人がいたら(笑)かなり危機的な状態ですね。

 冒頭の動画のように「聴き比べ」をするの楽しみは、あって良いものだと思います。むしろ聴く側にとって、自分の好きな演奏・音色を比較しながら探すのは、最高の楽しみでもあります。新しい演奏に出会うたびに、自分の価値観=好みにどれだけ近い演奏なのかを味わえます。好きなラーメンを食べ歩いて探す人もお同じです。仮にいつも同じレトルトカレーを食べ続けている人が違う味のカレーを「食べたことがない」としたら?さすがに極端ですが、現実に私たちが食べたことのある「カレー」の中で一番好きな味のカレーがあるだけです。それでも満足できるのが人間です。
 地球上に現存ずるすべてのヴァイオリンを「比較することは不可能です。
恐らくすべてのヴァイオリンが違う個性を持っています。推測ですが(笑)
それらの中で自分が演奏できるヴァイオリンは「唯一無二」の存在です。
人間と同じで、自分が感じる「長所」も「短所」もあるはずです。
自分の好み、そのものが完全でない以上「完全に好みと一致するヴァイオリン」は存在しないことになります。

 自分が出会って「買うことのできるヴァイオリン」が複数あった場合を考えます。いわゆる楽器選びです。私自身、生徒さんの楽器を選ぶ作業に立ち会い、アドヴァイスをすることが頻繁にあります。(楽器店経営者でもあるので)どんなヴァイオリニストでも、自分の演奏技術でしか楽器を演奏することは出来ません。初心者であれば、解放弦を演奏するのが精いっぱいの人もいれば、自分の好きな曲を「それなりに」演奏できる人もいます。
「もっとうまく演奏できるようになりたい!」と誰もが思います。
未来の自分の演奏技術は誰にもわかりません。自分の好みが変わることも当たり前です。「未来は未定」なのです。今、現実に自分が出せる音でヴァイオリンを選ぶしかないというのが現実です。
 生徒さんに代わって私がヴァイオリンを弾き比べ、「違い」を確認してもらいますが、それはあくまで「野村謙介が演奏したら」という前提です(笑)生徒さん自身が未来に、どんな演奏をするのかは誰にもわかりません。そもそも、私の演奏方法法・出そうとする音が生徒さんの「好み」と違うことも当然にあります。その上で「違い」を聴いて、ひとつのヴァイオリンを選ぶことになります。
 楽器の「外観」で選ぶのも選択肢の一つです。ただ、パーツを変えれば明らかに楽器の音色は変わりますし、弾く心地も変わります。職人がこだわって付けたパーツもあれば、楽器店が「適当」に付けたパーツもあります(笑)
 音色と音量の「選択肢」が無限にあるのが楽器です。
いくつかの点を挙げてみます。
・4本の弦を「解放弦」で引いた時の音色と音量の「個性=バランス」
・弦を押さえて演奏した時の、解放弦との音色・音量の「差」
・弓の圧力・速度を変えて演奏した時の音色・音量の「差=幅の広さ」
難しく考えないで(笑)言ってしまえば、演奏する人の感じる「音色と音量のボキャブラリー」を見極めることです。演奏技術でボキャブラリーは増えます。ただ楽器の「個性」は変わりません。人間の声で例えるなら、トレーニングによって、高い声をきれいに出したり、ヴィブラートで変化を付けたりできても「声帯」「骨格」は取り替えられません。持って生まれた「個性」を大切にしながら、より好みの声・音を出せるように努力することはできます。

 楽器による違いに序列をつけるのは「個人の価値観」でしかありません。
他人の価値観にただ、流されてお金を払うことに疑問を感じます。
自分が良いと思ったものに「妥当な金額」と感じるお金を払うのが現代社会の基盤です。流行に流されて、自分に似合う?似合わないを考えずに洋服を選ぶ人。テレビで放送されたから「このお店の料理はおいしい」と思い込む人。「〇〇ちゃんも持ってるから買って~!」と駄々をこねるおこちゃま(笑)
 ヴァイオリンの価値は「人によって違う」のです。どんな楽器でも愛情を持って「道具」以上の存在として接するべきです。確かに楽器は道具です。だからこそ「お金で買える」のです。お金に換算できないのが「価値」です。価値は自分の評価で決めるものです。納得できなければ「自分の評価」を優先するのが正しい判断だと私は考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色×音量=個性

 映像はアン・アキコ・マイヤーズの演奏する「シンドラーのリスト」
彼女の個性的な演奏に、昔から惹かれています。グリッサンドの個性だけでなく「指使い」「弓使い」へのこだわりが「半端ない」(笑)もちろん好き嫌いの分かれる演奏であることは否めません。むしろ、自分の「こだわり」が他の人の演奏方法と違う時、多くの場合「否定されることを恐れる」のが人間です。実際、個性が強ければ強いほど「異端児」的に扱われるのも事実です。
 言い換えれば「こだわりのない演奏」が受け入れられるとも言えます。さらに言えば、演奏家が何に?こだわるのか?と言う本質的な問題があります。聴衆からすれば、そのこだわりを感じることで好き嫌いが分かれる結果になります。
 例えがあまりに庶民的ですがこだわりが強い「ラーメン屋」を考えてみます。
「〇〇系」と言われるラーメン屋さんが多数あります。お店を選ぶ側にしてみれば「選ぶ目安」として、自分の好きそうなラーメン屋さんか?と言う基準の一つにはなります。
 こだわりのないラーメン屋とは?店名で判断できるでしょうか?〇〇系と書けば「こだわり」でしょうか?違う気がします。集客力は高くなりますが、ただ〇〇系ラーメンと言うだけで、本当に自分が好きな味なのか?は判断できないはずです。
 ヴァイオリンの演奏に「個性」があるとしたら、あなたは何を第一に挙げますか?
・テンポ・音符休符の長さの設定
・強弱の設定
・音色の設定
演奏中の表情や動きは「音楽」とは無関係です。また「アレンジ」は「演奏のこだわり」ではなく「音楽のこだわり」ですのでここでは触れません。
「正確に演奏できる=失敗しない」ことを個性と呼べるか?には疑問を感じます。他の演奏家より「速く」「はずさずに」演奏できることは素晴らしい技術ですが「個性」とは違います。
 ライブ=生演奏でのこだわりと、録音物でのこだわりは違います。むしろ「音=サウンド」へのこだわりになります。その意味ではホール選びや、立ち位置も「音へのこだわり」ですが演奏のこだわりとは別次元のものです。

 ヴァイオリンの場合、音色の変化と音量の変化の「変化量=幅」が小さい楽器の一つだと思っています。
 音量の幅で考えると「ピアノフォルテ=ピアノ」に比べてはるかに少ない音量差です。
もちろん「音圧=デシベル」として物理的に比較する音量と「音色=波形」として人間が強く感じたり弱く感じる「感覚的な音量」は違うものです。わかりやすく言えば、黒板をひっかく「きー」と言う音は、音圧的に小さくても「不快」に感じ「大きく」感じます。地下鉄車内の音圧と同じ「オーケストラの音」を同じ「音の大きさ」には感じないかも知れません。
 音色の変化量で考える時、音圧で比較するのと違い「波形」と「高低」が大きく関わります。
波形は「正弦波・矩形は」で全く違った音色になります。さらに倍音の含まれ方で波形は変わります。
 倍音は言うまでもなく「音の高さ」でもあり、中心になる=大きい音が442ヘルツの「A」でも、2倍音=884Hz、3倍音=1326Hzの音の含まれる量によって変わります。
 音量とピッチの「違い」は多くの人がこだわることですが、案外「音色」にこだわる人が少ないと感じるのは私だけでしょうか?(笑)
 ヴァイオリンの音色のバリエーションを増やす技術。
・左手の押さえ方(硬い指先・柔らかい肉球(笑)・押さえる力)
・弓を弦に押し付ける圧力(摩擦力)
・弓を動かす速さ
・弓を弦に充てる位置(駒からの距離)
・弓と弦の角度
・弓の毛の量=弓の傾け方
・弓の張り具合=弓の場所による聴力(テンション)の違い
弦の種類を選ぶことは、演奏技術とは別の話です。同様に楽器による個性も技術とは違います。

 音色の個性ではありませんが「ヴィブラートの個性」も大きな個性になります。
速さと深さ=ピッチの変化量・変化の滑らかさを「音」単位で変化できるか?一辺倒=一種類のヴィブラートなのか?で大きな違いが生まれます。ヴィブラートによって「倍音」が変わり、結果的に音色が変わることは事実です。ヴァイオリンのボディー=筐体の中と、演奏していない弦の「残響・共振」現象が起こり、ヴィブラートをしない時とは、明らかに聴こえ方が変わります。

 音楽的な解釈を、テンポと音量の変化などで「言語化」するのは簡単です。比較も容易です。
ただ「音色の個性」を言語化するのは非常に難しいことです。さらに「音量・音色」の組み合わせを考えると複雑になります。特に弦楽器は管楽器や声楽と同様に、一音の中で音量や音色を「無段階」に変化させることができます。ピアノは自然な減衰とペダルによる音量の変化は可能ですが、一音のなかで音色を変化させることは構造上不可能です。(他の音との共鳴を利用することは可能です。)
 音色と音量の「組み合わせバリエーション」がヴァイオリン演奏の大きな個性となります。
右手・左手の運動を組み合わせることになります。演奏の個性を「解釈の個性」と考えることもできます。大きく違うのは「音色」の個性=違いを言語化しにくいという点です。主に音楽の解釈は、音量とテンポの設定で表現されることがほとんどです。他方、演奏の「個性」は音色の個性が際立つものだと思います。簡単に言えば「音の長さと大きさ」を真似することはできても「音色」を真似することがどれだけ難しいか?という事です。
 これからも音色の個性を大切にしたいと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の個性を引き出す演奏技術

 映像は、昨年秋に長野県木曽町で演奏したときのものです。
ヴァイオリンは私が常日頃、使用しているヴァイオリンとは違う「木曽号」と呼ばれている陳昌鉉さんが木曽町に贈られた楽器です。今年も10/7・10/8と11月に同じ楽器を使って、木曽町で演奏する機会を頂きました。今回のテーマは「楽器の個性を引き出す」と言う技術について。

 すべての楽器ごとに異なった「個性」があります。特に構造がシンプルな楽器ほど、その個性は大きな違いがあります。ヴァイオリン・ヴィオラは、ほとんどの部分が「木材」です。それを膠=にかわで接着して組み立てられている単純な構造です。実際に音を発生する「弦」の素材は、大昔の「生ガット」から、ガットの周りに金属の糸を巻き付けた「ガット弦」と呼ばれる弦に進化し、さらにその後にガットの代用として「ナイロン」を使用したナイロン弦が開発されました。金属をガットの代わりに芯にした「スチール弦」も金属加工技術が発達したおかげで、現在も使用され特に「E線」はほとんどの場合、スチールの弦を使用しています。
 弦のメーカーや種類によって、それぞれ「個性」があります。
・音量が大きく音色の明るい「スチール弦」
・音色の柔らかさと明るさ・強さを兼ね備えたガット弦
・ガット弦より安価で種類の豊富なナイロン弦
それぞれに一長一短があります。「どれが良いか?」という結論は誰にも出せません。使用する用途=演奏する楽器や場所・曲・経済力(笑)で選ぶのが正解です。
 ちなみに、陳昌鉉さんはご自身が製作された楽器には「ドミナント」が一番合うと生前に何度も言っておられました。「好み」の問題です。陳さんのお気持ちを尊重し、私が演奏するときに「ドミナント・プロ」を使用しています。

 普段、自分が演奏している楽器とは違う楽器の個性・特色を見極める「観察力」と、弓の圧力や駒からの距離、弦を押さえる「スポット」を見つけ、倍音の含まれ方を聞き分ける「技術」が求められます。自分の耳で感じる「音色・音量」と客席で聞こえるそれは、明らかに違います。
 弾きなれた楽器、演奏しなれた会場ならば曲ごとに、自分で想像することが可能ですが、自分の楽器でもなく初めて演奏する会場だと不確定な要素が多くなります。
 ピアニストの場合には、楽器を選ぶことができないわけですから、ある意味では同じ条件になります。

 「木曽号」と「ドミナント・プロ」の組み合わせで、楽器と弦の持つ「個性」を良い方に引き出す練習をしています。普段の楽器との違いに戸惑うことや、自分の弾きなれた楽器と比較してしまうのは避けられませんが、お客様にすればコンサートでの「音」がすべてです。一人でも多くの方に、気にいってもらえる音色・音量に感じる演奏方法を模索します。
 低音域から中音域・高音域の「聞こえ方」のバランスを取ることがまず第一の「技術」です。4本の弦の「聞こえ方」はすべて違います。

 同じ人が・同じ会場で・同じ曲を、「違う楽器」で「弾き比べ」をすると、音楽に関心のない人でも「何かが少し違う」と感じます。その多くは「音域・4本の弦ごとのバランスの違い」です。
 言い換えれば、演奏者が楽器ごとの「特性=弦ごとのバランス」を見極めて演奏すれば、楽器ごとの「違い」を軽減することもできます。逆に違いを強調することも技術があれば可能です。
「高音が強く出る楽器」という印象を強調するのなら、低音域と中音域(G線・D線)を弱めに演奏すれば良いだけです(笑)し、その逆もできます。そんな「リクエスト」が無い場合には、聴いていて「バランス」の良い演奏を心掛けるのが正しい演奏法だと思っています。

 以前のブログで書いたことがありますが、テレビ番組「格付けチェック」で、ストラディバリウスを言い当てるコーナーがあります。予備知識=直前に回答者の前で弾き比べるなどを行わないで正解することは不可能です。過去に世界中で何度も「プロのバイオリニスト・プロの楽器製作者」が同じような実験をして「判別できない」ことは実証されています。

「良い楽器」とは聴く人が「良い音」と感じる楽器の事です。演奏する人も「聴く人」の一人です。陳昌鉉さんの楽器にも「固有の音色・特色・個性」があるわけで、ましてや演奏する人によって「音色・音量」はまったく違うものになります。プロの演奏が「うまい」と感じる人もいれば、アマチュアの演奏の方が「うまい」と感じる人もいるのが真実です。すべての人にとって「良い楽器・うまい演奏」は存在しません。楽器を作る人・演奏する人の「こだわり」が聴く人に共感してもらえることができれば、みんなが幸せに感じられる瞬間だと思います。
 誰が正しい…という問題ではないのです。個性を認め合う「心の広さ」が演奏者にも聴衆にも広がって欲しいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

慣性の法則とヴァイオリンの演奏技術

 音楽高校、音楽大学「しか」出ていない私(笑)、物理とは無縁の人生だと思っていましたが!
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏をしながら、自分と生徒さんの「運動」を観察し、考えることが増えました。
「考えてないで練習しなさい」はい。ごめんなさい(笑)

「慣性の法則」とは「止まっている物体は止まり続けようとし、動いている物体は動き続けようとする」状態の事を言います。止まっている電車が動き出す時に、進行方向と逆に体が「倒れそうになる」のがこの法則を体感できるものです。ある速度で走っていた車がブレーキをかけると身体が前に倒れたり、止まっている車に後ろから衝突されると、身体が「後ろ」に押し付けられて首をねんざするのも「慣性の法則」が原因です。

 ヴァイオリンの演奏で右腕と左腕に、それぞれに違った「慣性の法則」が観察できます。
1.右腕
①動き始める時・ダウン・アップをする運動
②移弦をするときの運動
2.左腕
①ポジション移動の運動
②ヴィブラートの運動
③弦を「叩く」指の運動

言うまでもなく、すべて「筋肉」を使って意図的に動かすことで生まれる「慣性」です。
上下方向=天井と床方向の運動には「重力」も関わります。楽器と弓の「質量=重さ」や右腕、左腕が下に下がろうとするのも重力です。

 演奏していて「じゃま!」に感じる慣性があります。
1.ダウン・アップ・ダウンと弓を「返す」時の慣性
2.E→A→E→Aのような「移弦を繰り返す」時の慣性
 逆に慣性を利用することが望ましいのが
手首のヴィブラート これは「腕の動き」と逆方向に動く「手首から先の動生き」を活用するものです。
 どの運動にしても先述の通り「筋肉」を使った運動です。弓を「返す」運動にしても「移弦する」運動も「時間差をつけた逆方向の運動」で慣性力を「弱める」ことが可能です。
つまり、ダウンからアップになる「前」に、弓から遠い身体の部位…例えば上腕=二の腕を「先にアップ方向に動かす」ことで、腕全体を使って逆方向に動きだす「衝撃」を緩和することが可能です。
当然、アップからダウンの場合にも「直前にダウンの運動を始める」ことで、慣性を緩やかに打ち消すことが可能になります。
 移弦の場合にも、「弓を持つ手先→手首→前腕→上腕」の動きを「ずらす」ことで、慣性を利用して移弦することが可能になります。
 文字にすると複雑になりますが(笑)、一言で言えば「慣性を利用する」運動を考えることです。
もっと言えば「力学を考える」ことです。難しい数式は覚えなくても良いと思います。
力だけで無理やりに弓や腕を動かすのは、間違っています。どんな運動にも「補足」があるのです。
それを観察し考えることで、自分の思った運動=演奏をすることに近付けると思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

練習の「時間=量」と「内容=質」で到達するレベル

 今回のテーマは楽器の演奏を楽しみながら、少しでも多くの技術を身に着けたいと思う、すべての人にとって共通の問題を考えるものです。
 上の動画は、恥ずかしながら私(野村謙介)が中学2年当時の演奏から始まり、音楽高校1年・2年・3年・音楽大学1年・2年(たぶん笑)・4年・5年(突っ込み禁止笑)の演奏を抜粋してつなげた動画です。年月にして14歳から23歳までの9年間。一人の師匠に習いながらの「記録」です。

 さて、どんな年齢から始めても「時間」には変わりありません。4才からの1年間も40才からの1年間も長さは同じです。練習する時間やレッスンで習う時間も、年齢や経験には関係なく等しい「時間」です。
 毎日の事であれば「何分」「何時間」という練習時間の量があり、それを「毎日・365日」続けた場合の「時間=量」と、一日おきや一主幹に数回程度で練習を続けた場合の「時間=量」はどうでしょうか?
「年月」と言う単位で考えれば、上記のどちらも「1年練習した」「5年練習した」と言えますが、実際に楽器を練習した「総時間数」は?全く違いますよね?
「練習の頻度」つまり練習と練習の「間隔」も多筋違いがあります。毎日練習する人と、3日おきに練習する人では、総練習時間が同じでも結果は大きく違います。
「幼稚園の時から中学卒業まで」楽器を練習していた人でも、到達するレベルは大きく違う一つの原因がこの「時間」です。

 次に練習の「内容=質」の違いによる到達レベルの違いを考えます。どんな練習をするのか?と言う内容と、練習ごとに自分を「観察する力」が大きな差を生みます。
 同じ時間でも「なんとなく」練習するのと「目的と結果を確認する」練習では、全く違う到達レベルになります。
独学なのか?レッスンで習っているのか?でも大きな違いが生まれます。一見、同じように感じますが独学の場合、自分の「課題」を見つけることが非常に難しくなります。
動画や書物で「知識・情報」を得たとしても、自分が演奏して「出来ている・間違っている」ことを確認してくれる人がいる「レッスン」の効果は習ってみないと理解できません。
さらに「教えてくれる人の技術」によっても、到達レベルが変わります。演奏のレベルだけではなく「指導技術」のレベルです。優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないのが現実です。学校や塾で「勉強を教える」人を例えにすればよくわかります。指導技術の優れた人に教えてもらえば、効率よく学習で木「希望通りの進学先」に行ける子供が多くなります。
指導する人のいない「部活」の場合にも、ある程度の演奏技術が習得できるのは、上記「時間」の問題です。毎日、学校で好きなだけ練習できる部活の場合、レッスンで楽器を習う人よりも明らかに長時間、しかも毎日欠かさず楽器を練習できるから「ある程度」上達します。

 どんな人でも到達できるレベルがあります。
「時間」+「内容」に比例して、到達できる演奏技術レベルがあります。個人差があるのは事実ですが、それを「才能」と言うのは間違っています。多くの子供が、受験や楽器以外の興味が原因で、練習することをやめてしまいます。練習を「やめた」時のレベルが、その子供の「能力」だと思い込むのが「親」なのかも知れません。
やmないで続けていれば、到達レベルは無限に高くなります。「100点満点」「ゴール」「頂上」はありませんから、続けている限り上達する地言っても過言ではありません。
歯きり言えるのは「練習をやめれば、その先の楽しみは体感できない」と言うことです。
 ぜひ、楽器を演奏する「楽しみ」を持ち続けて欲しいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

気持ち=意思と身体=運動

 映像は「私を泣かせてください」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは演奏する時に「考えること」と「身体を動かすこと」の両立について考えるものです。
 結論から言えば、意識と無意識を「融合」させることだと考えています。
具体的に言えば、考えて何かをしようとする時、同時に考えなくても何かを出来るようにすることです。
 例えば、車を運転する時に、目で前方やサイドミラー、バックにらー、スピードメーターを見ながら、無意識にハンドルやウインカーを動かし、足てアクセルやブレーキを操作しています。考えているのは「見ているもの」についての情報処理…前方の信号や前の車の動き、歩行者などを見ながら次の行動を「無意識」におこなっています。これが「意識と無意識の融合」です。
 楽器を演奏する場合はどうでしょうか?
楽譜を見て演奏している場合、書かれている情報…音符や休符、弓や指、記号などを「読み取って」無意識に右手や左手を動かしているはずです。
さらに細かく言えば、左手の指番号を考えている時にでも右手の弓を動かす運動は「同時に」行われています。この場合の右手は無意識に動いています。
 人間は同時に二つの事に「集中」することは出来ません。
聖徳太子のように何人もの話を一度に理解する場合、実は頭の中では一人ずつの「声と言葉」を分離して、個別に記憶しています。そんなバカな!と思われますが、音楽の専門技術の中に「和声聴音」があります。同時にいくつも演奏される「音=和音」を楽譜に書きとるものです。これがまさに「聖徳太子」なのです。同時になっていても「いくつ鳴ったか」「なんの音だったか」「何分音符だったか」を聴きながら頭の中で処理=記憶していきます。訓練すれば誰にでも身に着けられる技術です。
 この場合は音に「意識」を集中させています。楽譜を書くと言う行動は無意識に近いものです。
 もっと身近なことで言えば「音読」がまさにそうです。
目では文字を読みながら、声では「読んで記憶したものを思い出しながら」さらに「目では先を読んでいる」ことの繰り返しが音読です。この場合、声に出していることが「主目的」なのですが、実際の脳は「読む」事に使われています。
 演奏しながら「何かを考える」のは当たり前のことです。
その時、考えていないことも「同時に無意識に」運動していることを忘れてはいけません。一つの事を考えている「だけ」のつもりでも、無意識にほかの事をしているのです。それができるのは「慣れ」以外にないのです。
 歩く時に両手・両足を動かすのも「慣れ=学習」の成果です。息をする・心臓を動かす・食べたものを消化する…これらは「本能」です。
 何も考えずに演奏することができたとしても、音楽を「創る」ためには考える力が絶対に必要です。自分の意志で音楽を創造することが、もっとも大切な「技術」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介