演奏技術の継承

 映像は1924年、パリ生まれのヴァイオリニストでパリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリに師事し、1943年、ロン=ティボー国際コンクールで優勝し、コンセルバトワールで長年ヴァイオリンを指導した「Michele Auclair~ミシェル・」オークレール」女史の演奏動画。
 学生時代、同門の優秀なヴァイオリン奏者たちが久保田先生の薦めて留学し師事した指導者でもあります。不出来の私にはそんなお話は一度もなく(笑)指をくわえて眺めていたのを覚えています。

 こちらはシャンドール・ベーグ氏の二重奏演奏動画です。ベーグ氏の公開レッスンも印象的でした。
 桐朋でヴァイオリニストの公開レッスンが頻繁に行われていました。
オークレール、ベーグなど偉大な指導者たちのレッスンがあるたびに、久保田門下生からもレッスンんを受けている人が多く、そのレッスンが終わると久保田先生は印象に残った「演奏技術」を他の生徒…私にも伝えてくださいました。


 ヴァイオリンの演奏技術に明確な「流儀」はありません。ただ指導者によって大きく違うのも事実です。それぞれに姿勢・右手(弓の持ち方やボウイング)・左手(親指の位置や指の置き方)などに個性がありました。
 音楽の解釈や細かい奏法を指示する指導者もいれば、生徒の個性を尊重する指導者もおられました。現代のヴァイオリニストたちを見ると。どうも姿勢やボウイングなどに個性が感じられなくなりました。それも時代の流れなのかもしれません。特に右腕・右手の使い方について、指導者の関りを感じられなくなった気がします。ヴァイオリニストが音を出す基本は、弓の使い方に大きなウエイトがあると感じている私にとって、演奏家の個性が薄くなってきた気がしてなりません。
 ヴィブラートの個性も指導者の「歌い方」が無意識のうちに弟子に伝承されるものです。それさえも「速くて鋭いヴィブラートが良い」とも感じられる現代のヴァイオリニストの演奏に、指導者が演奏技法を伝承する意味が薄れていく気がしてなりません。
 演奏家の個性は「基礎」の上に出来上がるものだと思います。ヴァイオリン演奏の基本をどこに置くのか?と言う問題でもあります。ヴァイオリンと言う楽器が300年以上前から変わっていないことを考えると、演奏方法を後継者に継承することも大きな意義があると思うのは老婆心なのかもしれません。
 せめて自分だけでも、師匠から習った多くの事を理解し、実行し、次の世代に継承できればと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

無くて七癖 無意識の修正

 自分の演奏に嫌気がさすお正月を過ごしております。(笑)
右手一生。私の場合、左手は2~3回生まれ変わらないと人並みになりません。
右手の小指。たかが小指。されど小指なのです。
恩師久保田良作先生に、何億回も指摘され続けたのが「右手の形」
特に、親指と小指の使い方。、今自分の演奏を見返すと、元弓で小指が使えていません。その結果がどれだけの悪影響を無意識に与えているか…、恐ろしや久保田先生であります。

 簡単に言ってしまえば、右手の親指・小指・人差し指の三点で弓の傾斜と圧力をコントロールしているわけです。その三点に加えて弓の毛と弦が振れる場所が4点目になります。理科で習った「てこの原理」を思い出しましょう。
支点・力点・作用点
弓の毛と弦が振れている状態、つまり弦に弓の毛を置いている状態の場合には、作用点が弓の毛と弦の接触点。支点が右手親指。そこまでは弓のどの部分でも変わりませんが、弓のバランスの中心点より先を弦に置いた場合には、小指は力の作用をしていません。極論すればなくても演奏は出来ます。
しかし弓の重さの中心より元に弦を当てた場合には、小指の仕事が急激に増えます。弓の傾斜を保つ力・人差し指と共に弦に対して直角方向の力が必要になります。
 特に私の「癖」が最も感じられるのが元弓で弓をアップからダウンに返す瞬間です。この部分では弓の音さのほとんどが、自分から見て左側=弓先方向にあります。最も不安定な場所でもあり同時に、最も弦に圧力をかけやすい場所でもあります。この場所で最大の仕事をするのが「右手の小指」です。」
 弓を元で返す一瞬前に弓先を下方向に下げ=小指側が上がり、弓を返した直後に弓先が上方向に上がる=小指側が下がるという「無意識の運動」
 恐らく学生の頃からこの癖はあったと思われます。ただ昔は映像で確認する方法が学生にはなかったので、本番中の癖までは自分では発見できませんでした。
現代、自分の弓の動きをこうして確認することができる有難さと同時に
「いい加減に直せよ!」とも思うのです。
 1月7日までに修正するべ!やってやる!
再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いと弓使いを考える

 

今回のテーマはヴァイオリンやヴィオラを演奏する時に不可欠な「指使いと弓使い」について、持論を書かせていただきます。
 楽譜に印刷されている「指番号」「ダウン・アップ・スラー」の指示に従って演奏するのは「基本」です。以前にも書きましたが、この指示は作曲者が書いたものより、圧倒的に「減収者の指示」である場合が多いのは事実です。
 指示通りに演奏することで、自分なりの指使いと弓付けを考えられるようになるまでの「学習」ができます。言い換えれば「セオリー」おを学ぶことがまず大切です。ただ単に「弾きやすいから」という理由だけで考えるのは最も良くないことです。人によって、多少の得意不得意は許されますが、セオリーを無視して何も考えずに指使いや弓使いを決めるのは「個性」とは言いません。単なる「我流」でしかありません。

 上の動画はラフマニノフ作曲、クライスラー編曲の「祈り」原曲はピアノ協奏曲第2番の第2楽章です。この楽譜を含めて楽譜に書かれている指使いや弓使いは、すべての音に対して書かれてはいません。つまり「自分で考える」事が出来なければ、演奏はできないことになります。
 ヴァイオリン教本の場合には、ほとんどの場合指示がされていますから、見落とさなければ指示通りに演奏できます。そこが大きな違いです。
 指使いには、どんなこだわりが必要でしょうか?

 最も大切にしているのは「演奏する弦の選択」です。次に「音のつなぎ方=グリッサンドやスライドなど」そして当然のことですが「ふさわしい音色と音量を出せること」です。演奏する速さにもよります。それらをすべて考えて、最適な指使いを選びます。これも当たり前ですが「前後関係」を考慮します。
 ヴァイオリン・ヴィオラは4本の指と開放弦しか使えません。チェロやこんっトラバスの場合には親指も使えます。限られた指の数で4本の弦を「使いこなす」ために、考えられるすべての指使いを試してみることが大切だと思っています。初めは「この指使いはないかな?」と思っていても、実はそれが最適な場合も良くあります。選択肢は本当にたくさんあります。どんな指使いが「正しいか」よりも音楽として適しているのはどれか?を考えることです。

 弓使いについては。ダウンアップよりも「弓のどこで演奏するか?」が重要です。それぞれの場所で個性が違います。向き不向きがあります。
それを理解して初めて自分なりの弓使いが決まります。
 私は「レガート」で必ず一弓で弾くとは決めていませ。
弓を返してもレガートで演奏できる技術を身に着けることが大切です。
 どんな弓使いであって、演奏者のこだわりがなければ「行き当たりばったり」になります。自分で考えることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の立体感=奥行・広がり

 映像はチャイコフスキー作曲のノクターン。ヴァイオリンとピアノで演奏したものです。今回のテーマは「立体感」です。
音楽は目に見えるものではありませんが、奥行や広がりを感じる演奏と平坦で窮屈な感じを受ける演奏があります。その違いはどこから生まれるのでしょうか? 

 一つには「演奏する音色と音量の変化量」が関係します。
どんなに正確に演奏したとしても、一定の音量と変わらない音色で演奏すれば聴いている人にとって平面的な音楽に感じます。
 一つの音の中でも音量と音色を変化させられる弦楽器の場合と、それが出来ないピアノの場合では少し違います。どんな楽器でも共通するのは、一つ一つの音の「個性」を意識することです。言い換えれば全く同じ個性の音が二つ並んで存在することは確率的にゼロに等しいという事です。

 視覚障碍者の私にとって「コントラスト」の弱いものは見つけにくいものです。また、遠くにある者は輪郭がはっきりしません。音楽に例えて考えると、一つ一つの音の「輪郭」と前後の音との「コントラスト」です。さらに具体的に言えば、同じように「小さく聴こえる音」でも、遠くで鳴っていて小さく聴こえる音のイメージと、耳の近くで鳴っている小さな音は明らかに違うものです。
 広がりについて考えます。これは先述の「遠近」と違い「上下左右の空間」です。例えていうなら狭い部屋で楽器を弾いた時の響きと、残響の長い大きなホールで響きわたる音の違いです。一般的に残響の少ない音を「ドライ」「デッド」と表し、逆に豊かな残響のある音を「ウェット」「ワイド」などと表します。
 演奏する場所の問題だけではなく、演奏に余韻や適度な「間=ま」のある演奏で広がりを感じられます。押し付けた音色や揺らぎのない演奏を聴いていると、窮屈なイメージ・閉鎖的なイメージを感じます。

 オーケストラのように多くの種類の音色が同時になる音楽と、ピアノとヴァイオリンだけで演奏する場合では特に「立体感」が異なります。音の大きさにしても、50人以上が演奏するオーケストラの「音量差」はピアノ・ヴァイオリンとは比較になりません。二人だけで演奏する場合の繊細な音量差と、微妙な音色の違い、一音ごとの輪郭の付け方が、音楽の奥行と広がりを決定します。

 手に触れられないもの。例えば空に浮かぶ雲にも色々な形や色、大きさがあります。雲を絵に描こうとすると難しいですよね?コントラストや輪郭、微妙な色の変化などを表現することの難しさがあります。音楽も似ています。
 手で触ることができるリンゴや草花を描く時にも、実際の大きさを見る人に感じてもらうために他のものを一緒に書き入れることもあります。
 写真で背景や周りのものを意図的に「ぼかす」ことで、奥行や広がりを表現できます。音楽でも際立たせて、近くに感じさせる音と、背景のように感じる音の違いを作ることが重要です。

 難しそうな技術に感じますが、私たちが会話をするとき無意識におこなっていることでもあります。伝えたい言葉を強く、はっきり話すはずです。小声で話をするときには、普段よりゆっくり、はっきりと話すはずです。遠くにいる人に大声で何かを伝える時なら、一言一言をはっきり叫ぶはずです。
 楽器の演奏を誰かに語り掛ける「言葉」だと思えば、きっと誰にでもできることです。文字をただ音にしても意味が通じないこともありますよね?
 あげたてのてんぷら
 きょうふのみそしる
アクセントや間のとり方で意味が変わります。音楽で特定の意味を伝えることはできますぇんが、弾き方を変えることで聴く人の印象が変わることは言葉と同じです。大切に語り掛けるように、楽譜を音にすることを心が得たいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ちゃんとコンチェルトを弾いていたから今がある!

 今回は何とも「いかがわしい」タイトルのブログです。
動画は私が大学4年生当時に、恩師久保田良作先生門下生の発表会で演奏したときの録音です。銀座のヤマハホール、ピアノは当時アンサンブルを一緒に学んでいたピアニスト林(現在は同銀)絵里さん。私の大学卒業試験直前の発表会で、試験で演奏する時間までの部分しか練習していないという(笑)
 今聞いてみて感じること。「さらえばそれなりに弾けるんじゃん」という笑える感想です。当たり前ですが、桐朋学園大学音楽学部卒業試験でチャラけて演奏するする奴はいませんよね。この発表会では何か所か「大傷」がありますが恐らく卒業試験の時には、これよりもまともに演奏した…はずです。
 荒っぽい弾き方が耳障りな部分もたくさんありますが、今の自分の課題と同じ課題が多いことに驚きます。ん?つまり、成長がとまっている?(笑)

 高校大学時代に学んだ「クラシック音楽の演奏」が今の自分にとって、なくてはならないものだったことを感じます。
 クラシック音楽は長い伝統に支えられ、今もそれは継承されています。
さらに言えば。多くのポピュラー音楽はクラシック音楽の基礎の上に成り立っています。「俺にはクラシック音楽なんて必要ない!」と思い込んでいる人は、悲しい勘違いをしています。演歌もロックもジャズも、バッハの時代に作られた音楽を土台にして作られているのです。もし、あの時代の音楽=楽譜が、一枚も残っていなかったら、ポピュラー音楽は今、当たり前に聴いている音楽とは全く違う種類の音楽だったはずなのです。
 ドボルザークヴァイオリン協奏曲を、ひたむきに練習していた20代の自分がいたから、色々な音楽を演奏するための「土台」ができました。
 もしも、これからこの曲を練習したとしたら?
きっと、22歳の自分とは違うドボルザークヴァイオリン協奏曲が演奏できると思います。それが「成長」なのかもしれません。でも…この時のような筋力と体力が今、あるか?は、はなはだ疑問です(笑)
 どんな音楽にしても、真剣に向き合って練習することが、必ずその後の自分にとって「骨格」になるのだと思います。
 無駄な勉強や、無駄な練習はない。無理だと口にする前に、やってみること。
生きている限り「欲」があります。実現するための時間こそが、生きている証=あかしだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

丸い音楽を目指して

 映像はデュオリサイタル15で演奏したヴァイオリンとピアノによる「ふるさと」小曽根真さんが演奏した折られたピアノパートを浩子さんが「耳コピ」したものです。前回のリサイタルではヴィオラで演奏したのですが、多くの生徒さんにも演奏してもらえるようにヴァイオリンで演奏してみました。

 「丸い音楽」の意味は?
旋律は音の高さと音の長さの組み合わせで作られます。
その旋律を平坦に演奏すると聴いていて違和感を感じます。
かと言って「角張った音の連続になれば音楽全体が凸凹に感じます。
 音の角を丸くする…イメージですが、ただ単に音の発音をぼかすだけでは丸く感じません。音の高さの変化と、音量の変化を「真似らかに」することがたいせつです。さらにヴィブラートを滑らかにすることで、丸さが際立ちます。
 音楽によっては「角」があった方が良いと感じるものもあります。
どうすれば?音楽の角を丸くできるのか?考えながら演奏すると、自然に音も柔らかくなります。ぜひ試してみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の挑戦

 2022年12月18日(日)相模原市緑区のもみじホール城山で、私と妻浩子のデュオリサイタル15を無事に開催することができました。
 ここ数週間、自分が慣れ親しんだ構え方を見直し、大きな(自分としては)改革をしました。結果がどうであれ、自分にとって正しいと思ってきたものに手を入れることには勇気が必要でした。リスクも考えました。「いまさら」と言う気持ちが心を支配しそうになりながら、「いまだから」と言う気持ちで取り組んでみました。
 リサイタル当日までに、自分の筋力の疲れをコントロールしながら、出来るところまで…と言うのが正解ですが、やれることをやった気持ちでいます。
 当然のことですが、楽器の構え方=持ち方=姿勢を変えることは、自分の音の聴こえ方もピアノの聴こえ方も大きく変わります。これが「良い選択」だったのか?は誰にも判断できません。むしろ、自分自身で冷静に観察し続けるしかありません。少なくとも、今まで使って来なかった筋肉がパンパンに(笑)張っていることを考えると、自分の考えていた演奏方法に近かったことは事実です。

 プログラム中の7曲目に演奏したゴダール作曲「ジョスランの子守歌」
ホールの空調(暖房)が弱く、この1曲前が終わったときに、温度を上げてもらうようにお願いした直後の演奏で、まだ左手指が攣りかけています(笑)
 練習で思ったようにはひけていませんが、「目指していたこと」には少し近づいた気がします。特に演奏しながら自分を観察する「引き出し」を増やせたことは、演奏しながら感じていました。おあまりに多すぎて(笑)すべては書けませんが、右手の親指、小指の位置、重心、左手の親指、手首の力、左ひじの位置、楽器と首の接触部、鎖骨下筋と肩当ての接触、背中の筋肉の使い方、膝の関節などなど…。最終的に「音楽」については、自分の記憶にあるボウイング、フィンガリング、テンポ、音色、音量を「その場」で考えながら演奏しました。
 まだ、完全に自分の身体に音楽が入っていない曲でもあり、不安な要素は多々あります。傷もたくさんあります。それでも「やりたかったこと」の一部は達成していました。

 こちらは、ヴィオラで演奏したメンデルスゾーン作曲の無言歌。以前、ヴァイオリンで演奏したことのある曲ですが、ヴィオラで挑戦しました。構え方を変えれば、ヴィオラの音色も以前とは変わります。これも依然と比べ、どちらが良い?とは今の段階で判断できません。陳昌鉉さんの楽器特有の「甘さ・柔らかさ」はそのままに活かしつつ、強さと明るさ、音色のヴァリエーションを増やすことを意識しています。まだまだ練習が足りないのは否めません。

 こちらはアンコールで演奏したシューベルト作曲のセレナーデ。ヴァイオリンで演奏してみました。いつもの私なら迷わず「ヴィオラ!」な曲ですが、今回敢えてヴァイオリンで低音の響きにこだわりました。大好きな曲なのに、実は今回二人が初めて演奏した曲です。歌曲ならではの「フレーズ」を壊さずに演奏することの難しさを感じます。

 来年1月7日(土)代々木上原ムジカーザでのリサイタルでは、同じプログラムをサロンの豊かな響きとベーゼンドルファーの太く柔らかい音色で演奏します。
 それまでに私たちが出来ることを「できる範囲で」やってみます。
お聴きになる方にとって、演奏者の「努力」は関係のないことです。
演奏者のどんな言い訳も通用しません。ただひたすらに「楽しめる演奏」を目指したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

肩甲骨の位置と鎖骨下筋

 さて、今回のテーマはヴァイオリン演奏時の肩の位置を考えるお話です。
私は中学生の頃から大学を卒業するまで、演奏中の肩の位置を「前方=胸側・下」にすることを心掛けてきました。もう少しわかりやすく言えば、背中にある「肩甲骨」を開いた状態…まだわかりにくい(笑)。「大きなドラム缶を両手で抱えて持つときのイメージ」です!…だめ?
・背中が「たいら」になるイメージ。
・両肘を出来るだけ前に出した時の肩甲骨と肩の位置
如何でしょうか?少しイメージできました?
この肩の位置で演奏することで、両腕が身体から前方に離れ、自由度が増えることを優先した「背中と肩の使い方」です。
この場合、身体の前方…つまり胸側は「狭く」「窮屈な」状態になります。
鎖骨が両方の肩より「後ろ」にあるイメージです。逆から言えば、両肩が鎖骨より前にある感じです。

 鎖骨の下にある筋肉が「鎖骨下筋」と言われる筋肉で、その下には「大胸筋」があります。
 話を背中側に戻しますが、肩甲骨の位置と肩の位置は連動しています。さらに、肩の位置と身体の前の鎖骨下筋も連動しています。つまり「背中と肩と鎖骨」のつながりなのです。

 私は「肩当て」を使いますが、鎖骨の少し下に肩当てを当てています。左肩=鎖骨の終端が、楽器の裏板に直接当たるような肩当ての「向き」にしています。
 この構え方で先述の「肩甲骨・肩・鎖骨下筋」の関係を思い切って変えてみました。
・肩甲骨の間隔をやや狭める。
・両肩をやや後ろ・下方に下げる。
・鎖骨下筋を上方・前方に持ち上げる。
簡単に言うと「胸を張った立ち方」のイメージです。
子の場合、両腕・両肘は今までよりも体に近づきます。それでも、自由度は大きく損なわれないことに改めて気が付きました。
 さらに、首を後方・上方向に持っていくことで、楽器の安定感が大幅に増します。
 背中から首にかけての筋肉がゆるみ、自然な位置に肩がある感覚です。
さらに背中に「有害な緊張」がある時にすぐに気が付きます。
背中の緊張を緩めることで、肩の周りの筋肉の緊張がゆるみます。
肩の緊張が緩めば、上腕・前腕の緊張も緩められます。

 楽器の構え方、肩の位置などはヴァイオリニストそれぞれに違います。なぜなら、筋肉量も違い、肩関節の柔らかさも人によって大きく違うからです。
首の長さ…と言うよりも、鎖骨の微妙な位置や筋肉の付き方、形状も人によって違います。
それらの「個人差」がある中で、自分の身体に合った構え方や、肩の位置を見つけることの重要性は言うまでもありません。
 師匠から習ったことの「本質」を考える年齢になって、改めて自分の身体を観察できるようになった気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介