ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

気持ち=意思と身体=運動

 映像は「私を泣かせてください」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは演奏する時に「考えること」と「身体を動かすこと」の両立について考えるものです。
 結論から言えば、意識と無意識を「融合」させることだと考えています。
具体的に言えば、考えて何かをしようとする時、同時に考えなくても何かを出来るようにすることです。
 例えば、車を運転する時に、目で前方やサイドミラー、バックにらー、スピードメーターを見ながら、無意識にハンドルやウインカーを動かし、足てアクセルやブレーキを操作しています。考えているのは「見ているもの」についての情報処理…前方の信号や前の車の動き、歩行者などを見ながら次の行動を「無意識」におこなっています。これが「意識と無意識の融合」です。
 楽器を演奏する場合はどうでしょうか?
楽譜を見て演奏している場合、書かれている情報…音符や休符、弓や指、記号などを「読み取って」無意識に右手や左手を動かしているはずです。
さらに細かく言えば、左手の指番号を考えている時にでも右手の弓を動かす運動は「同時に」行われています。この場合の右手は無意識に動いています。
 人間は同時に二つの事に「集中」することは出来ません。
聖徳太子のように何人もの話を一度に理解する場合、実は頭の中では一人ずつの「声と言葉」を分離して、個別に記憶しています。そんなバカな!と思われますが、音楽の専門技術の中に「和声聴音」があります。同時にいくつも演奏される「音=和音」を楽譜に書きとるものです。これがまさに「聖徳太子」なのです。同時になっていても「いくつ鳴ったか」「なんの音だったか」「何分音符だったか」を聴きながら頭の中で処理=記憶していきます。訓練すれば誰にでも身に着けられる技術です。
 この場合は音に「意識」を集中させています。楽譜を書くと言う行動は無意識に近いものです。
 もっと身近なことで言えば「音読」がまさにそうです。
目では文字を読みながら、声では「読んで記憶したものを思い出しながら」さらに「目では先を読んでいる」ことの繰り返しが音読です。この場合、声に出していることが「主目的」なのですが、実際の脳は「読む」事に使われています。
 演奏しながら「何かを考える」のは当たり前のことです。
その時、考えていないことも「同時に無意識に」運動していることを忘れてはいけません。一つの事を考えている「だけ」のつもりでも、無意識にほかの事をしているのです。それができるのは「慣れ」以外にないのです。
 歩く時に両手・両足を動かすのも「慣れ=学習」の成果です。息をする・心臓を動かす・食べたものを消化する…これらは「本能」です。
 何も考えずに演奏することができたとしても、音楽を「創る」ためには考える力が絶対に必要です。自分の意志で音楽を創造することが、もっとも大切な「技術」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を変える技術

 映像はサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」10年前の演奏です。
ヴァイオリンを演奏する…一言で演奏と言っても、楽譜に書いてある音符を音にするという意味もあれば、演奏者が楽器を使って「イメージを表現する」ことでもあります。
 ヴァイオリンは弓の毛で弦を擦って音を出すことが通常の演奏です。
音の高さは弦の太さ・張りの強さ・弦の長さで変わります。
音のと良さは、弦の振動の幅と筐体=ボディーの反響と残響で決まります。
音色は?どうやって変えるのでしょうか?
前提として「現状の楽器」で音色を変えることにします。
弦を張り替えたり、弓の毛や松脂を変えたり、楽器の調整をすれば音色は近Pんから変わります。それらに手を加えず「技術」だけで音色を変えることが、ヴァイオリン演奏の楽しみだと思っています。

 簡単に言ってしまえば「右手と左手」の技術の組み合わせです。
★右手…弓を扱う右手の使い方。弓を弦に押し付ける力のコントロール・弓の傾け方=弦にあたる弓の毛の量・弦に弓を当てる駒からの距離と力の方向・弓の場所による毛の張りの強弱の活用・前述の技術の組み合わせ
★左手…弦を押さえる指の場所・抑える力の強さ・ヴィブラートを始めるタイミング・ヴィブラートの深さ・ヴィブラートの深さ・これらの組み合わせ
★右手と左手の組み合わせ…上記の技術を組み合わせて音色の変化を作る

 厳密にはもっと細かい「技術」がありますが、おおざっぱに言っても上記のような「音色を変える技術」があるわけです。
 楽譜で支持されている弦の指定、音量の指示はあくまでも「指示を書き込んだ人の意図」であり必ずしも作曲家の意図=指定とは限りません。出版社によって指示が違うのは日常茶飯事です。
 自分で音色を変える楽しさを「発見」することがヴァイオリンの演奏の醍醐味だと思っています。
 ぜひ!楽譜に書かれていない音色の世界を楽しんでみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「音楽を演奏する」という目的を見失わない!

 映像はチャイコフスキー作曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 さて今回のテーマは楽器の練習をする人…楽器に限りませんが(笑)、自分が何を目的に?楽器を練習しているのかと言う「目的」を再確認するテーマです。
「楽器を弾くのが好きだから」だけで十分!と言われればそれまで(笑)
多くの演奏家が様々な「壁」にぶつかります。自分の技術や知識の少なさに心が折れることもあります。もうやめよう…無理だ…向いていない…才能がない…
私だけではないようで、生徒さんたちも同じように「挫折」するのが当たり前のようです。
 多くの人は先述のように「楽器を弾くのが面白い・面白そう」と思っていた時期があるはずです。ところがいつの間にか「うまく弾けないからつまらない」と言う気持ちが自分のやる気を焼失させます。それでも楽器を弾くことが好き!と言う人は少数のようです。
 楽器を「上手に弾こう!・弾きたい!」と思う気持ちは大切です。間違えずに、正確に何度でも思ったように演奏で着たら「さぞかし!」気持ちいでしょうね(笑)それが「目的」になってしまうと「出来ないからつまらない」になるのでは?つまり「音楽を演奏したい」と言う目的意識を忘れないことが何よりも大切だと考えるのです。
楽器を演奏することと音楽を演奏することは、明確に違います。
音楽を「上手に」演奏することは不可能ですし、日本語としても不可解です。
楽器を「上手に」演奏できるか「へたくそ」かの「違い」は確かにあります。
速く・正確に・何度でも演奏できれば「上手」で、それが出来ないと「へたくそ」に近づきます。
 へたくそでも音楽は演奏できますし、楽しむこともできます。
「それじゃ自己満足じゃん!」他人の技術について「偉そうに」語る人に限って、自分の演奏にケチを付けられると火が付いたように怒り狂います(笑)それこそが「自己満足」だと本人が気付いていないだけです。
 他人の技術についてどう思おうと、それは人の自由ですが、自分の中だけに収める問題です。他人に公言することではないはずです。
 技術を点数化することが大好きな人もいます。優劣を競うことが好きな人もいます。それも自分の中だけで楽しむべきです。他人の技術に序列をつけられるほどの技術があるなら、自分がその中で一番にならなければ無意味ですよね?(笑)できもしないことに「あの人は下手だ」と言える自信は、いったいどこから生まれるのやら理解ができません(笑)
 自分の音楽に誇りを持ちましょう。誰からも批判されるものではありません。
自分だけの音楽を演奏することが、楽器を演奏する楽しさのはずです。
じょうずに演奏するより、自分だけの音楽を楽しんでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度をコントロールする

 映像は私の地元、相模原市橋本駅前にある「杜のホールはしもと」での演奏風景。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」の演奏です。
 このホール、残響が美しい!演奏していて気持ちのよいホールです。
さて今回のテーマは「弓の速度」です。ヴォカリーズの演奏を見て頂くとよくお分かりいただけると思いますが、弓の速度は常に一定…とは限りません。
 もちろん、基礎技術として「同じ音色」「同じ音量」でダウン・アップがそれぞれに演奏できるように練習することは、日々欠かさずに練習します。
一方で曲の中で「一音」の中でも音色や音量を変えることが音楽的に求められる場合もあります。逆に言えば、すべての「一音」を「べた塗」すれば全体が平面的なな音楽になります。音の立体感=奥行を表現するために、ヴィブラートや弓の速度・圧力をコントロールする技術が不可欠です。
 同じ長さの音符でも、意図的に弓の速さ=弓の量を変えることで、音色が大きく変わります。音の大きさをコントロールするのは、むしろ「圧力」と「音の立ち上がり」が大きく影響します。弓を速く動かせば音が大きくなると「勘違い」している人も見かけます。弓の速度を遅くすれば「詰まった音=芯のある音」に近づき、逆に速くすれば「空気の含まれた音=軽い響きの音」が出せます。圧力との組み合わせでさらに大きな変化量が生まれます。
 また、演奏する弓の「場所」も本来は音色に影響します。}弓先と弓元は「硬い音」を出すのに適しています。一方で弓中は「ソフトな音」「軽い音」を出すのに適しています。
 これらの要素を考えながら弓を決めることが大切になります。ホールの響きや曲によって弓の速さも変わります。
 ぜひ、自分の好きな曲で試してみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「何年経っても…」の嘘と本当

 映像は40年前の私の演奏です。この時から今日までに、どれほど?私の演奏技術は進歩したのでしょうか?演奏は進化したのでしょうか?40年…昔なら人間の一生の時間でした。しかも、この演奏をした時に23歳という事は、立派な「おとな」だったはずです(笑)今?お爺さんになりかけております。
 さて、生徒さんの「いつまで経っても上達しない」と言う声を時々耳にします。生徒さんで40年、私に習っている人は今のところいませんが少なくとも、何カ月・何年と言ったスパンでの「いつまで経っても」なのですが。
 私自身も同じように思うことがあります。ヴァイオリンを習い始めて50年以上。音楽の学校で学び始めてからでも15歳からとして48年という年月が経ちました。人間に限らず生物は「退化」するものです。その速度も内容も
千差万別ですから一概に「何歳になったら」と言う概念はありません。私の場合でも、筋力や体力は明らかに退化していますが「気力」だけはさほど衰えていない気がします。
 いつまて…の嘘の部分。
これは人間の「欲」が基準になっている話であり、客観的な上達の内容とは寒けないという事です。他人…例えば自分のことどもに対して「いつまで経っても」と言うのも結局は自分の価値判断=欲で測っているから言えることです。
 現実には演奏の技術は少しでも練習すれば必ず上達するのです。それは紛れもない事実です。仮に楽器を演奏しない=練習しない時にでも、ふとした時に感じる感覚が自分の演奏に結び付くことも「上達」には必須のy増件です。荷物をもって「重たいなぁ」と感じることも楽器の演奏には必要な感覚です。音楽の解釈にも「重たい」と言う感覚を知ることが重要です。
 いつまで…の本当の部分
これは私の話ですが、うまく出来ないことを「いつまで経ってもできない」と思うのが人間だと思います。「いつまで経ってもできる」ことが実はたくさんあるのです。もちろん老化や病気、自粉でそれまで出来ていたことができなくなることもあります。それでも「子供の頃から今でもできること」はたくさんあるのです。
 では若いころから(40年前から下手=苦手なことはどうなのでしょうか?
私なりの結論で申し訳ありません。苦手なことがあって「当たり前」だと思うようになりました。「開き直りか!」とか「努力=練習から逃げているだけだ!」というお叱りは甘んじて受けます。ただ、現実に自分の中で、他の「できること」と比較して明らかに「できない」ことは、誰にでもあるはずなのです。
 演奏に限ったことではなく、あるレベルまでは努力で到達できても、それ以上のレベルになるために「死に物狂い」で努力しなければ到達できない人と、本人にはそれほど?努力しなくても到達できる=演奏できる人がいても、当たり前だと思います。出来る人が「天才」なのではなく、それが「個性=生物の個体差」だと思うのです。
 多くの人ができるから自分もできる…レッスンではつい、生徒さんに言ってしまいがちな言葉です。ただ現実にはできるようになるまでの「努力の時間と内容」は人によって大きな差があるのも事実です。

 時間をかけて出来るようにすることを「学習」と言います。多くの生物は学習能力を持っています。長く時間をかければ「学習内容」が常に上書きされていきます。
 一方で「好きなこと・嫌いなこと」は誰にでもあります。その原因やシステムは未だに証明されていません。出来ないことにコンプレックスを感じるのは「欲」の副産物です。欲がなければ楽になるとはいえ、生きる楽しみは「欲」そのものです。生きたいと言う欲、うまくなりたいと言う欲、それが私たちのエネルギーの源なのです。出来ないと言うストレスも、見方を変えれば「生きるために必要な壁=抵抗」なのかも知れません。出来ないことを受け入れながら、考えて出来るようにすることが「楽しみ」に感じられれば良いですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テクニカルな曲の演奏を楽しむ

 映像はサン・サーンスさ曲「序奏とロンドカプリチオーソ」
そして、下の映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」言わずと知れた「技巧的な」な曲です。私はこの手の音楽で速さと正確さを競い合うヴァイオリニストたちに「近づきたい」と思えません。負け犬の遠吠えと言われても受け入れます。技巧の裏に「音楽」がある演奏をする人を尊敬します。自分もそうありたいと思っています。

 どんな音楽であっても「機械のように」ではなく「人間らしく」演奏することが理想です。人より優れた技術を身に着けようとするより、自分の音楽を好きになれる努力をすべきです。他人と比較する自分ではなく、自分を観察する気持ちを持ち続けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

感性は鍛えられる?

 映像はデュオリサイタル10で演奏したメンデルスゾーン作曲「歌の翼に」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 音楽を演奏する人の「感性」は技術や知識のように増やしたり、強くしたりできるものでしょうか?それとも…
 そもそも感性と言う言葉は心理学辞典によると「美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。」とあります。感覚も感情も完成の一部なのですね。
 感覚はトレーニングよって「敏感・精細」にできます。聴覚で言えば単に「音が聞こえる」と言う意味もあれば「音の高さを答えられる」事も聴覚の一部です。動体視力も資格の一部です。ボクシングの選手やF1パイロット、プロ野球の選手のように高速で動くものを、瞬間的に「見る」能力が求められることもあります。
 一方で「感情」は鍛えたり強くしたりできるでしょうか?
感情を抑える「理性」簡単に言えば「我慢すること」はある程度強くすることももできますが限界がありますよね(笑)「堪忍袋の緒が切れる」「我慢の限界」と言われる状態です。
 音楽は「音」を「音楽=作品」として感じることで初めて音楽になります。
自分と同じ「人間が作った作品=楽譜」を音にして、その音から「感情」や「感覚」を湧き上がらせることが「演奏」だと思います。つまり、ただ音を出すだけの段階では特定の感情…悲しい・楽しいなどや、感覚のイメージ…暖かい・冷たい・軽い・柔らかいなどのイメージは感じられず、「サウンド・ノート」ではなく「ノイズ=聞き取れる空気の神童」でしかありません。
 感性をより「敏感」に「精細」にしたいと思うのであれば、何よりも自分の記憶を呼び覚ますことです。感情の記憶は日々、無意識のうちに積み重なるものです。多くの記憶は長く覚えていられないものですが、強く印象に残った「感情の記憶」は誰にでもあるものです。私たちの年齢で「昔…」と言えば大体10年以上前の話ですが、小学生が「昔ね~…」と言うと思わず吹き出します。感情を伴う記憶が多いほど、音楽のイメージを作りやすいはずです。
 感性はずばり「その人の経験」から膨らむものだと思います。
もし、今までに一度も悲しい経験をしたことのない人がいたら「悲しい」と言う感情は理解できません。楽譜を「音楽」にする時に、ぜひ自分の記憶の扉を開いてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介