メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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楽器・弓

演奏者の「予習と復習」

 映像はアンドレギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。次回リサイタルではヴィオラで演奏する予定ですが、今回敢えてヴァイオリンで演奏してみました。
 さて今回のテーマは、予習と復習。「学校か!」と突っ込まれそう(笑)
プロでもアマチュアでも「練習」する時に、自分がなにを?練習しているのかをあまり考えずに「ただ練習している」ことがあります。練習の中身をカテゴライズ=分類することも、効率的に練習することに役立つかも…とテーマにしました。

 初めて演奏する曲を練習する時、あなたは何から始めますか?
その人の楽譜を音にする技術「読譜力」によって大きな違いがあります。
すぐに楽譜を音に出来る人なら、手元に楽器がなくても、楽譜を見て「曲」が頭に浮かびます。
それが出来ない多くの生徒さんの場合、まず「音源」を聴くことからスタートするのではないでしょうか?私は、初めからヴァイオリンを使って「音」にすることはお勧めしません。ヴァイオリンで音の高さを探しながら、リズムを考え、指使いを考えながら演奏すれば、音が汚くなったり姿勢が崩れるのは当たり前です。さらに演奏に気を取られ、間違った高さやリズムで覚えこんでしまう危険性も高くなります。ぜひ、初めは音源を聴きながら楽譜とにらめっこ!してください。これらの練習が「予習」にあたります。
 さらに、作曲家について、作品について「ググる」事も予習です。他にどんな曲があるのか?この楽譜を他の楽器で演奏している
動画や音源はないか?などなど情報を集めることも立派な練習=予習です。

 予習はそのまま「復習」につながります。え?すぐに復習?(笑)
自分の演奏技術を再確認しながら練習することは「復習」ですよね?前に演奏した音楽を練習すること「だけ」が復習ではありません。譜読みや音源を聴く「予習」が終わったら、実際に楽器を使って音を「創る」作業に入ります。演奏の癖の確認、修正したい持ち方や弦の押さえ方の確認、なによりも「音」を出すことへの復讐が必要です。
 今までに知らない演奏方法がある場合には「予習」が必要です。自分の知っている演奏方法を確認しながらの作業です。例えば「重音の連続」だったり「フラジオレットの連続」だったり「左手のピチカート」だったり…。どうやるのかな?を学びます。
 常に予習と復習が「入り混じった練習」になりますが、曲を完全に「飲み込む=消化する」までの期間は、どうしても技術の復讐よりも予習が優先します。
 自分の身体に曲が「しみ込んで」身体が「自然に反応する」まで繰り返すうちに、次第に「復習」の要素が強くなります。つまり「思い出す」ことが増えてくるのです。

 生徒さんの多くは「自分の演奏動画・録音を聴くのが一番イヤ!無理!」と仰います(笑)気持ちはよく理解です。ただ自分の演奏を「何度も聴く・見る」つまり「復習」をしなければ、上達は望めません。何が出来ていなくて、何ができているのか。。「思っていた=できると思っていた」演奏と現実の具体的な違いはなにか?出来なかった「原因」はどこにありそうか?などの推察など、演奏からでしか得られない「復習課題」を失敗を見るのが嫌だから見ない・聴かないのでは、子供が点数の悪いテスト解答用紙を、破り捨てるのと同じことです。反省こそが最大の復習です。
 さらに自分の演奏を他人に聞いてもらう・見てもらう事も重要です。その感想が良くても悪くても、自分の「感想」と違うはずなのです。自分で気づかない「良さ」や「課題」を見つけられる貴重な機会です。
 練習がただの「運動の反復」にならないように、子供の頃の「予習と復習」を思い出して、自分の演奏技術を高めましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習・本番の「コツ」ってなに?

 発表会を明日に控え、生徒さんたちの「緊張と焦りと不安」が目に浮かびます。私も含め、楽器を演奏するひとにとって「本番」でうまく弾きたい!どんな「練習をすれば本番でうまくいくの?と言う自問自答を繰り返します。
 今回は主に「メンタル=気持ち」を考えます。「うまくひきたいなら、練習だろ!」というごもっともなご意見はありますが、まぁお読みいただければ(笑)

 「人間の潜在能力」「平常心」と言う言葉を耳にします。
人間の「脳」の働きは未だに完全には解明されていません。脳の一部分だけを使って活動している…と言うことも諸説あります。眠っている能力=潜在能力を発揮するには!という解説動画が山ほどあって、ほとんど皆さんが違う方法を説いておられることから、その方法も定かでないことも事実です。
 一方で不安や緊張、安らぎや眠りについての「脳の働き」はかなり立証されています。さらに多くのアスリートからの経験談で「メンタルトレーニング」に関する実証もされています。
 前回のブログで紹介した「仏教」や「禅」の世界で「心」を考えることも、長い歴史に裏付けられている点でとても興味があります。
 それらの「情報」と少ないながら私の経験も併せて考えて、私たちの演奏に役立てられないか?考えてみます。

 「努力=練習は一気にやらないこと」
人間の脳の集中力は90分が限界と言うことが多く言われています。疲労を我慢して続ける練習や勉強は「記憶されない」ことも実証されています。少しずつ…の繰り返しが最も効果的です。
 「運動のイメージを最小限の力で行う」
人間は「考えながら運動する」と運動速度が遅くなります。
だからといって何も考えなければ、運動はおきません(笑)
自分がこれから行う「成功した運動」をイメージし、筋肉を緩めておくことで最速の運動ができます。
 「常に成功する自己暗示をする」
これも脳科学で実証されています。ボクシングで「自分が勝つ」と思っていないひとが買ったことはないそうです。当たり前ですよね?本番だけではなく、練習の時に「自分にはできる」ことを思い続けることです。ただし休みながら!
 「緊張している自分をもう一人の自分が見る」
これは仏教の教えですが、私たちの言う平常心は仏教では「揺れない」「動かない」ことではなく、それを「受け流せる」「柔軟性」のようです。知らない人が緊張している姿を見ても自分は緊張しませんよね?自分の緊張していることを自分で冷静に見ることです。そしてそれを無理やり排除=なくそうとせずに、まず受け入れて力を抜いて穏やかに考えることです。固いコンクリートで壊れないようにするよりも、柔らかく軽いスポンジで力を「受け流す」ことです。
特に本番前や演奏中に「緊張している」ことを意識するのは、いたって当たり前の心理です。それを無くそう!減らそう!とあがけばあがくほど(笑)自分を失います。「あ…緊張してきた…そりゃそうだ…でもできるから大丈夫」という自分との会話と暗示をしてみましょう。

 最後は自分が今できる演奏を、自分自身で認めることです。
出来ていないことを、今すぐに出来るようにすることは誰にもできません。
時間をかけて出来るようにすれば、いつか!できると考えることです。
どんなにたくさんある作業でも、少しずつやればいつか終わります。
どんな分厚い本でも、少しずつ読めば最後の1ページになります。
一度に全部を終わらせる必要もないし、かき氷のように急いで食べる必要もありません。

自分が演奏している音楽を「自分の言葉・動き・感情」にすることです。
「楽譜の通りにひこう」「まちがえないようにひこう」と思うのは、指示されて動いていることと同じです。自分の意志で次にすべきこと・ひく音を感じながら演奏数事です。
本番「だけでも」うまくひこうと思うのはやめて、「できる」イメージをもち続けて最後まで弾くことだけを考えるべきです。音楽はひく人も、聴く人も「その演奏時間」を楽しむためにあります。苦痛や焦りを感じるよりも、今、舞台で演奏できる「うれしさ」と「期待」を感じることが大切です。
 今の自分の演奏は、今の自分にしかできない!
それがすべてだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

曲が好き?音が好き?

 映像はチェリスト宮田大さんと作曲者である村松崇継さんのピアノによる「Earth」
 今回のテーマは主に「聴く側」に立って考えるものです。もちろん、演奏する立場の人にとって、最も重要なことでもあります。

 どんな曲でも、どんな演奏でも「音=サウンド」と「曲=旋律・ハーモニー・テンポ」が統合された「音楽」が作られています。
 音だけでは音楽とは言えません。音のない音楽もありません。
私は「曲」が好きな音楽と、演奏された「音」が好きな音楽が明確に異なっています。
 前者の「曲が好き」と言うひとつの例えが、以前のブログにも登場した「お気に入り」の曲たちです。

 誰の演奏?と言うよりも曲が好きなんです(笑)聴いていてゾクゾクする感じ。これらの「好きな曲」を「好きな音」で聴くことが最高の幸せでもあります。

 次に「好きな音」について。こちらは音楽のジャンルに関わらず、自分の好きな「サウンド」とも言えます。音楽以外でも例えば、浜辺で聴く波が打ち寄せる音…木立の中で聴く枝と葉がざわめく音…焚火で木がはじける音…など、自然界にも自分の好きなサウンドはあります。心が休まる「音」です。嫌な音もありますよね?黒板を爪でひっかく音…歯医者さんのあの!音…ガラス同士がこすれあう音…バイクの排気音←私は好きですが(笑)など、生理的な「好き嫌い」でもあります。
 音楽の中で使われる「音」には、様々な楽器の音と人間の歌声が含まれている場合があります。複数の違った「音」例えば人間の声とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、エレキギターやドラムと歌声の「混ざった音」にも、好きな音と嫌いな音があります。演奏の技術という一面もあります。特に、前述のように複数の音が混ざっている場合に「この音は嫌い」と言う音が含まれている場合も珍しくありません。
 わかりやすい例で言えば、歌手の歌声は好きだがバックのバンドの音が大きすぎて嫌い!とか、ヴァイオリンの独奏の音は好き!でも共演するオーケストラの中のチェロの音がうるさくて嫌い!などなど。

 好みの問題であることは当然のことです。人によって違います。
演奏する人が好きな曲を好きな音で「音楽」にしていることが、まず前提です。
思ったように演奏できなかったとしても、最大限の努力をして好きな「音」にするのが演奏者の仕事だと思います。曲を指定される場合もあります。特にプロの場合、主催する側から「この曲を演奏してください」と言われれば、断るのはとても難しいことです。「その曲、ひけません」と言えば「では違う演奏者にお願いするので結構です」になり、以後演奏以来は来ません。演奏者自身が嫌いな「曲」だったとしても、主催者からのオファーがあれば演奏するしかありません。断ることができるのは、「断ってもその後の仕事に困らない地位」を確立したソリストに限定されるのではないでしょうか?
 話がそれましたが、自分(たち)で選んだ好きな曲を、好きな音で演奏する努力=練習を積み重ねる過程で、その音を聴く人にどう?聴こえるか、どんな印象の音に聴こえるか?を確かめる作業が必要だと思っています。得てして、自分の好きな音を目指して練習すると、自分の好きな音を「みんなも好き」と思い込みがちです。とても危険なことだと思います。
 ラーメン屋さんを開こうとするひとが、自分の好きなラーメンを作り上げる努力をする過程で、絶対!?誰かに食べてもらって感想を求めるのではないでしょうか?どんなに自信家であっても、自分の舌だけを100パーセント信じてラーメン屋をオープンすることはあり得ないと思うのです。
 演奏者が自分(たち)の演奏を演奏会で多くのお客様に聴いてもらう前に、信頼できる複数の人の「感想」を謙虚に聞き入れて、修正することは必要なことだと思っています。仮にある人が自分の好みの真逆だったとしても、それも現実として受け入れることができなければ、ただの自己満足にしか過ぎないと思います。
 一人だけで演奏する場合と違い、複数の演奏者で演奏する場合の「音」は混ざり合ってお客様に届きます。その混ざり具合を演奏者がリアルタイムに確かめることは不可能です。録音して確かめるか、誰かに聞いてもらうしか方法はありません。バランス、客席の位置による聴こえ方の違いを確かめるには、演奏会場で確かめるしかありません。会場が変わればすべてが変わります。厳密に言ってしまえば、リハーサル時と満席になった時点での残響=響き方は全く違います。さらに空調によっても音の「流れ」が生まれます。少なくとも、リハーサル時に自分の耳で客席で聴こえる音を確かめ、自分の演奏を誰かに聞いてもらうことが必要だと思っています。

 聴く側にすれば、自分の好きな曲=プログラムの演奏会を選びます。
わざわざ嫌いな曲の演奏を聴こうとは思いません。知らない曲の場合には、期待と不安があります。
 聴いた音が自分の好みの音であれば、幸せな時間を過ごせます。自分の予想していなかった「嫌な音」だったとすれば、途中で席を立てない「苦痛」を耐える時間になってしまいます。
 演奏する人の「限界」があります。それはすべての人の好みに応えることは不可能だという事です。だからこそ、一人でも多くの自分以外の「感想」を予め聴くことが大切だと思うのです。出来れば正直な感想を言ってくれる人が理想です。「うん。きれいきれい」とか「問題ないと思う」と言われるのが普通です。
「こう弾いたらどう?」と音量のバランスを意図的に変えてみたり、立ち位置を変えてみたりすれば、「前のだと●●だな~」とか「それだとヴァイオリン頑張りすぎ」などの率直な感想をもらえるものです。そんな工夫も大切だと思います。
 演奏者と聴く人が「幸せ」な気持ちで最後まで過ごせるコンサート、
私たちの理想のコンサートです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏を自己評価すること

 映像はデュオリサイタル5、代々木上原ムジカーザでのサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」です。
生徒さんが発表会で緊張して「失敗した」と感じる話を毎回のようにお聞きします。「今度こそは」という決意表明も「あるある」です(笑)
 そんな生徒さんたちに私がお話するのは
・緊張することは自然なことで悪い事では決してないこと。
・自分の評価の「ボーダーライン」は自分だけにしかわからない。
・失敗の記憶が強く残るもの。演奏を後で見返すと違う「良さ」もある。
・「成功」と「失敗」は相対=比率の問題。
・失敗しない演奏を目標にしてはいけないこと。
これ以外にも生徒さんの性格によっては、もっといろいろなアドヴァイスをすることも珍しくありません。要するに、一人一人が自分の演奏について「自分なりの評価」があって、多くの場合「傷」や「失敗」を減らすことにばかりに気持ちが向いてしまう事です。自分の演奏の「良さ」を見つけることを例えれば…
・草原で四つ葉のクローバーを見つける難しさ。
・壊れた部品に紛れている、使える部品を探す難しさ。
・苦手な相手の良いところを見つける難しさ。
・悪い点数のテストの答案用紙を見返して出来ている問題を見直すこと。
自分が「ダメだ」「できない」と思うこと・認めることが「上達・成長」のスタート地点です。すべてが出来ていると思い込めば、それ以上の上達や成長はないのです。
 同時に「良い部分」を見逃してしまえば、成長の妨げになります。
言い換えればできないことと、出来ていることの「違い」を見つけることが何よりも大切だと思うのです。自分の演奏に「良いところなどない!」と思う人にも共感できる私です(笑)自分の演奏の動画に自分で点数を付ければ「不合格」しかありません。それでも自分で見返すこと。他人の素晴らしい演奏と見比べること。まるで「ガマの油」ですが、上達するために必要な「試練」だと思っています。

 演奏する曲の長さ、曲数によって練習時間=量も変わります。
演奏する曲が増えると何よりも「集中力」を持続することが難しくなります。
もっと正確に言えば、演奏する瞬間=一音ごとの「イメージ=注意書き」が増えることで、頭の中の記憶と運動の記憶を呼び戻すことが難しくなっていきます。
極端に言えば「一音だけ」演奏する場合と、1曲3ページの小品を演奏する場合の「音符の数」の違いです。一音で終わる曲はありませんが、単純にページ数が増えれば演奏する音符は増えます。時間も長くなります。楽譜を見ながら演奏したとしても、瞬間的に思い出せる情報に「濃淡」が生まれる可能性が増えます。
 練習する時に「本番」のつもりで演奏する練習と、少しずつ演奏しては繰り返す練習のバランスも重要です。当然、本番では「止まらない・ひき直さない」ことを優先します。さらに傷=失敗に自分で気づいても動揺を最小限にとどめ「先に進む」ことが大切です。
 練習でも「完璧」を求め続ける練習が良いとは限りません。
一か所だけ=数小節を何時間・何日もかけて練習して、他の小節を練習しないのは間違った練習です。その「バランス」が一番難しいことです。
 違う見方をすれば「妥協」が必要になることでもあります。
妥協して、やり残したことは、時間=日数をかけて練習します。
「出来るようになった」感じ方もひとそれぞれです。
一回うまくひけて「できた」と思う人もいれば、同じ個所を数回続けてひけて「できた」と思う人もいます。さらに、その部分より前から何回でもひけて「できた」と思う人も。出来るようにする「方法」も含めて覚えても、運動が安定しないために「失敗」することもあります。
 「成功の確率」を高める練習を、効率的に行うことが重要です。
がむしゃらに、失敗する連続を繰り返して「いつか出来るようになれ!」という繰り返しても時間と体力の無駄になります。「根性」だけでは成功の確率は上がらないのです。失敗の原因を見つけて「修正」成功する感覚を覚える繰り返しが必要な練習です。

 最後に自己評価と「他人からの評価」の受け入れ方について考えます。
先述の通り、自己評価の基準は自分だけのものです。自分以外の人を評価する場合でも「自分なりの基準」でしかありません。誰かから自分の演奏を評価してもらうことは必要なことです。音大生やプロを目指す人が師匠や他の先生から「改善すべきこと」を指摘してもらえるケースもありますが、多くの場合は「良かった」主旨の評価を受けます。社交辞令・リップサービスだと思うより、自分で気づかない自分の演奏の「良い印象」を素直に受け止めることも成長には必要です。
 専門家=演奏家の評価とは別に、一般のかたの「感想」を聴くことも大切です。自分の感覚とは違う「音楽の印象」が大きな参考になることもあります。
これも「バランス」が大切で、褒められてうぬぼれてもダメ、お世辞だからと自分を責めてもダメ。常に両方があることを認めることがポイントです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

日本語と音楽

 映像はヴァイオラとピアノで演奏したドビュッシーの「美しい夕暮れ」
原曲は歌詞のある「歌曲」です。フランス語の詩と旋律と和声。
私たち日本人が使っている言語「日本語」は世界の言語の中でも最も複雑だと言われています。日本で生まれ育った私にとって、英語の方がはるかに難しく感じるのですが(笑)
 中学校で習い始めた英語。高校で第二外国語が必修だったのでドイツ語を選択。大学でもドイツ語を選択しました。外国語を学ぶことが好きなひとを心から尊敬します!中学時代「日本で暮らすのに英語がいるんかい!」と逆切れしていた記憶があります。海外に留学する友人たちの多くが、中学前に語学の学校に通っていました。「あの!●●がドイツ語?」と笑ったこともありました。
それでも彼らは外国の音大での授業や、外人の先生のレッスンをちゃんと受けて学んでいたのですから、やはり素晴らしいことだと尊敬します。

 さて、音楽は「世界共通の言語」と言われることがあります。
楽譜を記号として考えれば、どんな国で音楽を学んだ人でも、同じように楽譜を「音楽」にできます。言葉を交わせない外国の人とでも、同じ楽譜を見ながら一緒に演奏できることがその証明です。演奏しながら考えている「言語」は人それぞれに違っても、出てくる音は同じなのです。例えば音名を「ドレミ」で考えながら演奏する人もいれば、英語音名の「シーディーイー」で考えている人、ドイツ音名「ツェーデーエー」で考えている人もいます。それでも出てくる音は「同じ高さの音」ですよね。

 ルールが世界で共通のスポーツの場合はどうでしょうか?
お互いの意思疎通を専門用語でかわすことは出来ますが、その言葉がどこかの組の言葉であることがほとんどです。例えば、柔道の場合「まて!」「はじめ!」「いっぽん!」などの日本語が用いられています。
 囲碁やチェスの対戦には、言葉がなくても可能ですね。
絵画や美術品の場合、製作の過程で言葉や記号は必要なものではないかも知れません。
 世界で様々な「単位」があることは以前のブログでも書きました。
センチ・インチ・メートル・フィート・尺などの長さの単位。
グラム・ポンド・貫などの重さの単位。これも国や地域によって様々です。
 こうして考えると「楽譜」は確かに世界で共通の「記号」であることはとても希少なことかもしれません。

 音楽に文法がある…という話を音楽大学で学びました。
日本語の文法の場合、主語・述語・名詞・動詞・形容詞・副詞・助詞・仮定・命令・過去形など様々な文法がありますね。「かろかっくいいけれ」って覚えてませんか?(笑)英語やドイツ語の「文法」については、あまりに暗い過去があるので触れないことにします。申し訳ありません。
 音楽の場合、「句読点」「文節」「起承転結」など、文や文章を分析したり、実際に手紙や文章を書いたりするときに私たちが使っている「日本語」に例えて考えられます。
 日本語は英語やドイツ語と、明らかに文法が違いますよね?
つまり私たち日本人が使い慣れている「日本語」の文法は日本語特有のものなのです。それを音楽に当てはめて考えるのは、日本語で音楽を考えていることになります。

 言葉が理解できない人同士でも、自分の感情を笑顔や動作で伝えることができますよね。相手の感情を言葉ではなく表情で感じることもあります。
 音楽は「音」だけで作曲家と演奏家の「意図」を伝えます。聴く人もまた、自分の感じるものが別にあります。「言葉」のように明確に何かを示すことはできません。絵画や美術品と似ています。
演奏者が楽器で音楽を演奏する時に、歌詞のある「歌」のように聴く人に言葉を伝えられません。楽器の音だけを聴いて、伝えられることが歌よりも少ないのは事実です。しかし「言葉」も人によって感じ方が違います。時には人を傷つけるのも言葉です。日本語のように、言い方がたくさんある言語の場合には特に難しい面もあります。敬語などの使い方も難しいですよね?
相手に何かを頼まれた時の「返事」ひとつをとっても様々な言い方があります。
「うん」だけで良い場合もあれば、
「承知いたしました」だったり「あいよ!」だったり「はーい」だったり。
断る時にはもっと難しいですね。
「いや」で済む友達もあれば「大変申し訳ありませんが」と前置きをして断る場合、「お引き受けしたいのですがあいにく別の要件が決まっていて」と「嘘」をついて断る倍など様々です。
 言葉の難しさのない音楽。伝えたい「気持ち」「風景」が、聴く人の勝手な「気持ち」「風景」になったとしても、聴いた人が嫌な気持ちにはなりません。自分の好きなように「解釈」するだけです。たとえ、演奏者の思いと違っても、誰も気づかず、誰も困らず、みんなが気持ちよく演奏を楽しめます。
 演奏者が自分の感情を表情に出す場合がありますが、自然に出てしまうのは良いとして「演技」で表情をつけるアマチュア合唱団や部活吹奏楽は「いかがなものか」と思っています。
 難しい日本語・美しい日本語を日常会話に使う私たちが、音楽をより豊かな表現で伝えられるように思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く楽しさと弾く楽しさ

 映像は、ミルシテイン演奏のヴィターリ作曲「シャコンヌ」
昔FMを録音したカセットテープが擦り切れそうになるまで聴いた演奏です。
なにが?どこが?好きなのか言葉にするのが「鬱陶しい」(笑)ですが、
強いて言うなら「聴いていて美しい」と感じるのです。
演奏がじょうずか?じょうずでないか?って問題ではないし、誰かと比べてどちらが好きか?と言う話でもないのです。自分の記憶の中にある、この演奏との「出会い」もきっと好きな要因の一つなのかもしれません。
いつも食べ物の例えばかりですが(笑)、昔に食べたものの美味しさを、忘れられないことってありませんか?それが「駄菓子」や「おふくろの味」だったりすることもあります。旅先で偶然立ち寄ったお店の「美味しさ」の風景を思い出すこともあります。グルメ評論家の「点数」より、懐かしい味が恋しいこともあります。明治のカールとか(笑)

 クラシック音楽は基本的に聴いて楽しむものです。見て「も」楽しめるオペラは特殊なものです。ポピュラー音楽の中でも「聴く楽しみ」が強い音楽もあります。ライブの演出が「見て楽しい」ものもあります。客席の連帯感が楽しかったり、演奏中の「掛け声」が楽しい場合もありますよね。
 多くのクラシック音楽は、演奏される「音」を楽しむ芸術です。
その楽しみを味わうために、時間をかけてコンサートホールに行って、チケットにお金を払うクラシックコンサート。聴く人が、聴くことに集中できる環境も大切ですよね。固くて座り心地の悪い椅子に、長時間じっと座って「心地良い」人はいません。それでも「聴きたい」と思う人もいるのは事実です。
立ち見でもホール客席の階段に座ってでも!演奏を聴きたいと思ったことも実際にあります。むしろ極別な「クラシックファン」だと思います。
 自宅で好きなクラシック音楽を聴いて楽しむ時を想像してください。
リラックスできる雰囲気で、好きな物美濃を飲みながらくつろいで聴く時間。
オーディオにこだわる人もそうでない人も「安らぎ」を感じるはずです。
自分だけの時間を満喫する「趣味」とも言えます。好きな音楽を好きな演奏で、好きな部分だけ聴くのが自然ですよね。

 映画を映画館で見る人もいれば、自宅で楽しむ人もいます。それぞれに楽しみ方があります。自分流の楽しみかたが、ますます多様化しているのが現代です。
手軽に自宅で楽しめる「良さ」もあり、映画館で見る「良さ」もあります。
音楽の聴き方も変わってきました。ウォークマンが発売された当時、屋外で歩きながら音楽を聴くことは「斬新」なことでした。「マイカー」で「カーステレオ」のカセットテープで音楽を楽しんだ時代もありました。オーディオ全盛期には大きなスピーカーが憧れの的でした。椅子が振動する「ボディソニック」が流行った時期もありました。次第に「簡単」が優先される時代になり、音楽を聴くことにかける「手間」も惜しまれるようになりました。
 最近、ビデオテープやLPレコード、カセットテープが見直される傾向が強くなってきました。「手間」の面白さが再認識されている時代です。
 クラシックの音楽を演奏する楽しさも「手間」の楽しさです。生活が「簡単」になって自分で作る楽しさや、出来た時の嬉しさが「懐かしく」感じられるようになった今、ヴァイオリンやピアノ、アコースティックギターなどの「自分で音を出す楽器」の良さが再発見される日が来たように思います。
 音楽は「聴く」楽しさと「演奏する」楽しさがあります。まったく違う楽しみ方のものです。少なくとも演奏してみると、聴く楽しさが何倍にも増えます。
言うまでもなく演奏するのは簡単な事ではなく、聴いたように演奏するためには、長い時間がかかります。それでも音が出せる楽しさがあります。難しさを知ることで聴く時の楽しみ方も変わります。
 プロの演奏者が「聴く楽しさ」を意識せずに演奏するのは傲慢と言うものです。どんな曲であっても、聴く人のための演奏であるべきです。演奏者のための演奏なら他人の前で演奏する意義はないはずです。客席で聴いてくださるひとが、初めて聴く音楽「かも知れない」と思って演奏することも必要だと思います。いつ終わるとも知れない音楽に感じるかも…と言う思いやりもあって良いと思います。クラシックマニアのかたには「勉強してから聴きに行け」と怒られそうですが、生まれながらのクラシックマニアはいません(笑)「初めてのクラシック」の印象も大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音楽を頭と体に刷り込む作業

 今回のテーマは音楽を自分の「言葉」にするテーマです。
年末、年始のデュオリサイタルで演奏予定の曲立ちは…

「無言歌」 クライスラー/チャイコフスキー
「ノクターン」 チャイコフスキー
「ただ、憧れを知る者だけが」 チャイコフスキー
「シュピーゲル イン シュピーゲル」 アルヴォ・ペルト
「祈り」 ラフマニノフ「
「彼方の光」 村松崇継
「無言歌」 メンデルスゾーン/クライスラー
「アリオーソ」 バッハ
「明日」 アンドレ・ギャニオン
「Earth」 村松崇継
とりあえず10曲の小品たち。どの曲も浩子さんと選んで練った(笑)愛すべき音楽たちです。ヴァイオリンで演奏する曲とヴィオラで演奏する曲があります。
今回も、購入したり手に入れた楽譜を、そのまま演奏する曲は1曲もありません。多くは浩子さんのピアノ楽譜をアレンジするケースですが、旋律のオクターブ、装飾音符、リズムなどもオリジナル?にしています。
 言うまでもなく、楽譜に書かれていないことの方が多いわけで、言ってみれば毎回の演奏で少しずつ変化していきます。「再現性」を大切にするのがクラシック演奏の基本かも知れません。確かに自分のこだわる演奏が、演奏ごとに変わることは矛盾するかもしれません。そのことを否定しませんが、音楽を生き物として考えるなら、演奏する人間との会話が変化するのは自然なことに感じています。

 音楽を誰かに聞いてもらう演奏者の心のどこかに「傲り(おごり)」があるように感じられる場合があります。いくら隠しても、演奏の合間の言葉に「得意げな自慢話」があれば、聴く人にとって不愉快なだけです。「特別に聞かせてあげます」と言えばお客様がありがたがる?(笑)思いあがりでしかありません。
そんな気持ちを感じてしまうと、演奏を聴いて楽しめるはずがありません。
 演奏を誰かに「聴いてもらう」気持ちは「聞かせてあげる」とは全く違うのです。自分(たち)の演奏に誇りを持つことは必要不可欠です。ただそれは「自分の中にしまっておくべき」ことです。決して人に見せるものではありません。
 自分(たち)の演奏を作り上げるプロセスは、人によって違います。
私たち二人が音楽を自分から自然に出てくる「言葉」にするために、何度も繰り返して頭と体に刷り込みます。楽譜を覚える…ことではないと思っています。
 ひとつの音楽を演奏する時間は、親しい友人や家族と過ごす時間のようにありたいと思っています。特別な事を考えなくても、相手が今なにを考えているのかを、お互いが自然に感じられる関係。音楽が自分に語りかけてくることもあります。「もう少し速く歩きたいな」とか「静かにリラックスしたい」と感じるのは、音楽から演奏者へのメッセージです。その演奏を聴いてくださる方が、演奏者と音楽の「会話」を楽しんでもらえればと願っています。
 さぁ!もう少し!がんばるべ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音大オーケストラの歴史

 映像は1975年(だと思います)桐朋学園大学オーケストラの定期演奏会を客席で録音したウィニアウスキー作曲、ヴァイオリンコンチェルト第1番、第1楽章です。当時中学3年生だった私が師事していた久保田良作先生門下の兄弟子…大先輩で、受験のための「下見レッスン」をしてくださっていた安良岡ゆう先生の独奏です。小柄で長い髪の見合う、明るく優しい憧れの先生でした。
ご自宅に毎週通って受験まで親身になってに指導をしてくださったおかげで桐朋に合格できました。

 カセットデンスケ…知っている方は私世代です(笑)と、ソニーのステレオマイクをバッグに入れて録音しました。もちろん、独奏の安良岡先生からのご指示で録音したもので、悪意のある隠し録音ではありません。この録音を留学のためのテープに使用されるとのことでした。
 音は現代の録音に比べると「回転ムラ」が感じられます。でも、演奏の「質」はしっかり伝わってくる気がします。
 この翌年から、私が高校生として通い、大学を卒業するまで通った当時の桐朋。高校生と大学生、研究生、ディプロマ生、聴講生、子供のための音楽教室に通うう子供たちが、同じ建物で学びました。
当時、3階建ての旧館と4階建ての新館、新館の地下に高校生の学ぶ10の教室がありました。
 オーケストラはすべての弦楽器・管楽器・打楽器の高校生と大学生が、高校・大学の枠を設けず全員が必修の「授業」でした。
 高校・大学の新入生は「ベーシック・オーケストラ」で学びます。
弦楽器と管楽器がそれぞれの合奏を学び、合奏の前に「ベーシックスタディ」と呼ばれる基礎練習を学びます。裏打ちの練習、2対3で演奏する練習など。
 実技試験の成績と全員が受けるオーケストラオーディションの成績で、学年が上がるときに「レパートリー・オーケストラ」の一員になれます。定期演奏会で「前プロ」を演奏することができますが、演奏旅行はありません。合宿は当時、北軽井沢の「ノスタルジック=ボロボロ」合宿所でした。
 さらに学年が変わり成績が良ければ「マスター・オーケストラ」で演奏できます。金曜日の夕方に行われていました。合宿先も豪華になり、当初は志賀高原「天狗の湯」、その語習志野市の施設「ホテル・アルカディア」だった…気がします。演奏旅行があれば学生は無料で参加できました。大阪、仙台、沖縄に行った記憶があります。昔はニューヨークの国連本部で演奏したこともあったようですが、私の在学中には一度も海外演奏は行われませんでした。

 どのオーケストラでも、合奏の前に「分奏」がありました。弦楽器は、ファースト・セカンド・ヴィオラ・チェロ・コントラバスがそれぞれ別の部屋で「分奏韻」と呼ばれる指揮科の学生が合奏で指揮をする先生の指示を受けて、パート別の練習を行います。実技指導の先生も立ち会われていました。
 ちなみに、ファースト・セカンド・ヴィオラのどのパートになるか?は、曲ごとに変わります。先生たちが考えてパートと席順を掲示板に張り出します。学生はそれを見て初めて、自分が次になんの曲でどのパートを演奏するのか知らされます。ヴァイオリン選考の高校生・大学生は、全員ヴィオラも担当しました。ヴィオラ選考のひとは、当然ヴィオラを演奏しますが、人数が足りないのは当たり前です。ヴィオラは学校から無料で貸し出されました。そのヴィオラにもランクがあり、一番上級のものが「特室-1」などの番号がついたヴィオラ。A-1~10?、B-1~10、C-1~10、D-1~10などが、一部屋の楽器棚に保管されていました。
 大きさも暑さも重さも「様々」ですが、割り当てられたヴィオラで演奏するしかありませんでした。

 文藻が終わると、楽器と楽譜を持って「403」という大きな部屋に移動します。ここは入学試験、実技試験にも使われる教室で、当時の校舎では最も広い教室でした。多くの打楽器もおこ荒れていて、合奏前に平台を並べ、譜面台やチェロ用の板を並べるのも学生たちで行っていました。
 合奏で指揮をされる先生は、時によって様々でした。森正先生だったり、小澤先生だったり、秋山先生だったり、小泉ひろし先生、山本七雄先生などなど。
時々、学生指揮者が演奏会の前プロを指揮することもありました。覚えているのは、デリック井上さん。
 桐朋のオーケストラでは、先述の通り高校生も大学生も関係ありません。
レパートリーオーケストラに高校2年時に上がれる人もいれば、大学4年生でレパートリーオーケストラにいる人も普通にたくさんいましたので、年齢差も様々でした。年功序列はなく、完全に「能力別」でした。評価する基準や歩法に、興味はありませんでした。あれ?私だけ?(笑)

 そんな当時でさえ、卒業された先輩方からは「甘っちょろくなった」と言われていたようです。創設者の斎藤先生が亡くなられた翌年からのことですから、言われても仕方のないことだったように思います。
 「弦の桐朋」と呼ばれていた時代です。東京芸大や国立音大、武蔵野音大、東京音大との「違い」も報じられたた時代でした。私自身は高校入試で、国立音大付属高校と豆桐朋女子高等学校音楽科を受験しましたが、当時の入試の難易度はまさに「天と地」ほどの違いがありました。生意気に聴こえてしまうのはお許しください。一度きりの受験経験で感じた難易度の違いです。聴音のレベルは、比較に値しない差がありました。実技試験でも、国立は無伴奏でコンチェルトを演奏するのに対し、桐朋は一日だけの伴奏合わせで試験当日、伴奏の先生とコンチェルトを演奏します。
 他大学との「差」は他大学のレベルを知る機会がなかったので私にはわかりません。ただ、冒頭の録音を聴いて感じるように、プロオーケストラの演奏技術と比べ、弦楽器のレベルは「学生」のレベルではないように感じます。

 ヴァイオリンの「教授陣」は今考えても、ぞっ!とするほど(笑)高名な指導者の先生方が揃っていました。それぞれの先生方が、個性的な指導をされ、門下生も個性的でした。先生方同士も試験の合間に、とても和やかでした。
当然ですが、桐朋の卒業生で先生をされている方はまだ少ない時代でした。
 私が入学した当時「25期生」でした。つまり、桐朋が出来て25年目に高校生になったわけですが、それまで多くの「桐朋生」を育て卒業させてきた指導者が、まだ現役だった時代だったのかも知れません。
 一人の「先生」で考えると、たとえば30代で指導者になったとすれば、25年間経てば50代後半の年齢です。その間に、さらに新しい「若手指導者」が入れば、指導者の連携ができます。
 私が学生だった当時、あまり若い指導者がいらっしゃらなかったように記憶しています。言い換えれば「教授陣が同世代」だったように感じます。

 現代、桐朋に限らず「母校=出身大学」で教えていない先生方が、あまりに多いように感じます。それぞれの先生方の「価値観」があって当然ですが、部外者の目からすると、違和感を感じます。経営者と教授陣が「別」の考え方になることは珍しくありません。多くの大学で「経営陣の権限>教授陣の意見」です。
 桐朋が仮に「全盛期」を過ぎたとすれば、全盛期には「経営=教授」に近かったのかもしれません。現実、桐朋は「お金儲けの下手な音大」でした。
学生一人に対する教授の数が多すぎる=指導者の人数が多大よりも多いことを学生としても感じていました。だからこそ、学生に対するレッスンの質と時間が担保されていたのかも知れません。人件費にほとんどの授業料を使う音大が、ホールを持てなくても当然です。ホールがなくても、素晴らしい先生がたくさんいる方が魅力ある音大だと思うのは私だけでしょうか?
 箱モノより中身です。
学生を集めるための「おしゃれな学内カフェ」よりも「習いたい先生がたくさんいる」ことが大切だと思います。これからの音楽大学に不安を感じる「音大卒業生」のボヤキでした。老婆心、お許しください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介