作曲者=演奏者の楽譜について

 動画はフリッツ・クライスラーが演奏する[シャミナーデ作曲 スペイン風セレナーデ クライスラー編曲」です。
クライスラーは自身が演奏するための楽譜を多く出版しました。中には昔の作曲家の名前を勝手に(笑)使って、「〇△作曲」と発表したものもあったようです。理由は?自身の演奏会で、すべての曲が「クライスラー作曲」だという事に本人が抵抗を感じての事だとか。これって「ゴーストライター」と言えるのか?(笑)謎です。
 テーマはクライスラーが演奏する自分で書いた楽譜の「録音物」と「楽譜」の関係です。
結論を言えば、楽譜を見ながら聴いて「なるほど。そういうことか!」と納得できる部分と「え?そんなこと書いてないじゃん!」という部分があります。作曲者本人が演奏するのですから「間違い」ではなく「この時はこう演奏した」というだけの事。私たちは?楽譜の通りに演奏するべきですが(笑)録音を聴いていると「そっちの方が素敵!」と思う事も。
 あなたならどちら(楽譜・作曲者の演奏)を採用しますか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使い・ボウイングを変えて演奏することのメリット・デメリット

チャイコフスキー ノクターン もみじホール
チャイコフスキー ノクターン ムジカーザ

 今回のテーマは、左手の「指使い」と右手の「弓使い=ボウイング」に関するものです。どちらも演奏する曲を練習する段階で、楽譜に書かれている場合・場所もあれば、書かれていない楽譜も普通に存在します。
 Youtubeで多くの演奏家の演奏動画を比較してみていても、同じ曲でも指使い・弓使いが異なっているものが殆どです。同じソリストが同じ曲を、違う指使いで演奏しているものも多数見かけます。
 上の二つの動画は、昨年末(2022年12月)と今年の年明け(2023年1月)に同じ曲を演奏した動画ですが、よく見ると指使いもボウイングも違います。
「なぜ?同じように演奏しないのか?」
「なぜ?指使いや弓使いを変えるのか?」
この問いに対して「変えることは決めていないから良くない」という考え方と「その時々で変更することは出来た方が良い」という考え方があります。
 楽譜に書かれている指示通りに演奏すれば良い…とは限りません。事実、印刷の間違いとしか思えない指示がある場合も珍しくありません。また、同じ曲でも出版社によってまったく違う指示が書かれているものも当たり前です。
 練習していく中で、複数の選択肢が生まれてきます。「どれが正しい」と言う正解はありません。選択する理由も様々です。「演奏しやすいから」という理由もあれば「音色を優先」「音量を優先」「速く演奏できることを優先」などの理由で「ひとつ」を選ぶことになります。
 演奏は「時間の芸術」であり、まったく同じ演奏を2回することは不可能です。だからこそ、指使いや弓使いを「変えない」と言う考え方も理解できます。逆に言えば、演奏する時の体調や気温、湿度、ホールの響きによって、自分が思っていた音色や音量、効果がない場合もあります。その時に、前回演奏したときと違う指使いや弓使いをする・出来ることも、演奏家に求められる技術だとも言えます。
 私は上記の後者=その場で決めるケースが多く、演奏するたびに指使いも弓使いも違います。「安定感が下がる」「再現性が下がる」「練習の効率が悪い」と言われればその通り!(笑)です。
 自分の音が、どんな演奏の場所でも同じように聴こえ、ピアノの音とのバランスもいつも同じように聴こえるのであれば、変えないほうが無駄も少なく、混乱するリスクも減ります。
 学生の頃には、同門の先輩が演奏した楽譜をお借りし、指や弓を書き写させてもらったものです。その通りに演奏することに疑問も違和感も感じませんでした。「そうするもの」だと信じていました。自分で考えることより、先輩や師匠の考えられたものを忠実に演奏すること。それが当たり前でした。
 レッスンから離れ、自分で選んだ曲を自分で考えて指使い・弓使いを決めるようになってから、初めて「考える」ことの大切さを知りました。
 言うまでもなく、自分で考えられるようになるまで、楽譜の指示通りに演奏する習慣は身に着けるべきです。教本などに書かれた指示を守ることは「セオリー」を覚えるために必要な練習です。
 人によって「好きな指使い」が違います。ボウイングも同じです。
自分の選択肢を増やすための研究と、実際に演奏してみて「結果」を反省することの繰り返しが、最終的に自分にあった演奏方法を見つけることに繋がります。
 きっと、これからも混乱して迷子になりますが(笑)どうぞ、暖かい目で見てやってください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の重さ・指の重さ

 写真は世界一、手触りの良い肩当て「ぷりん」(笑)
 リサイタルに向けて。地球の重力を最大限に利用しています。
 卵のLサイズ1個の重たさは約60グラム。ヴァイオリンの弓の重さも約60グラムです。この「重さ」には理由があります。弦と弓の毛の「摩擦」は、弓の重みだけでも発生します。ダウン・アップ方向に動かす運動のエネルギーは、人間の腕によって作られます。弓の60グラムの重さをうまく弦に「乗せる」ことが如何に難しいか?逆に言えば、押し付ける力を指で作ってしまうのは簡単なことです。まして、2本の弦を同時に演奏し続ける場合、圧力で2本を演奏しようとする気持ちが無意識に生まれて今いがちです。
 左手の「指」にも重さがあります。
指1本の重さを測ることは出来ませんが(笑)、弦の振動を「止める」ことさえ出来れば、必要以上の力で弦を押さえることは無意味です。
 指を「弦に落とす」イメージ。指の「速度」を重視することです。
 左手の指が「弦の上を滑り動く」映像を過去の偉大なヴァイオリニストの演奏で見られます。どんなときにも「楽器」を中心に、身体で包み込む意識をもって演奏しています。
 今度のリサイタルでその「途中経過」が発揮できることを根差しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小鉢の「お献立」

 12月1月のリサイタルが近づいてきました。
「コンサートに休憩は付き物」と思われがちです。
クラシックの演奏会の場合、多くは「前ププロ「中プロ」「休憩」「メインプロ」で構成されます。休憩がどこにはいるか?は、前プロの長さにもよrします。コンサートの開演から「アンコール」の1~2曲まで含めての時間は?休憩を含めると2時間「前後」のコンサートが多いように思います。
 2時間=120分を長いと感じるか?短いと感じるか?は、人そ玲央ぞれの「好みと「生活習慣」で大きな違いがあります。好きなことに没頭していれば「あっという間の2時間」でも、いらいらしながら過ごす時間や嫌なことをしている時間は「まだ10分か」と思うものです。
 コンサート会場の環境でも感じる時間の長さは違います。固くて座り午後地の悪い椅子に、じっと座って1時間…これ、苦痛を通りこして拷問(笑)
コンサートでエコノミー症候群って笑えませんよね。
映画館でポップコーンを食べながら、ピールやジュースを飲みながらの2時間は長い?これも映画の内容にもよりますが、映画が30分で終わる場合は「ショートむーぼー」扱いです。

 前回のリサイタルから「休憩」をはさまずに、すべてのプルグラムを演奏しています。今回、どうしよう?と二人で色々なケースを考えてみました。
・1曲ごtの演奏時間が短いこと。
・音楽の印象が異なる曲が続くこと。
・曲の開設やトークをところどころに加えること。
・お客様の年齢層が幼稚園児から高齢者まで幅広いこと。
・もみじホールはクッションのある椅子。
・ムジカーザはクッション性の低い椅子。
・前回のリサイタル演奏時間が、約1時間20分。
などなどを考え合わせ、今回も休憩なしで演奏しようかと思っています。
 前回より少し「正味の」演奏時間が短いので、トークを短め・少なめに(笑)すれば高齢者やお子さんでも大丈夫かな?という結論です。
 曲を「小鉢」に例えましたが、味や触感の違うお料理です。
ヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノ独奏という「違い」もあります。
 休憩の「意義」として、演奏者が休むことも要素の一つです。
ただもみじ・ムジカーザともに、楽屋(控室)から舞台袖・媚態までの移動で体が冷えるという現実もあります。疲れもさることながら、演奏で一度温まった指や体が休憩で「冷える」のも案外つらいものです。
 通常のクラシックコンサートのような構成ではありませんが、時間を短く感じられる演奏会にしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートの種類

 映像はミルシュテインの演奏動画です。数多くの偉大なヴァイオリニストの中で、ヴィブラートが同じ…と言う人たちはいません。当たり前ですが(笑)それぞれに「こだわり」を感じます。YOUTUBEでヴィブラートと検索すると大変な数の「アドヴァイス動画」がヒットします。自分の思ったようにヴィブラートが出来ない人にとって「藁をもつかむ」で動画を参考にするのは賢明なことかもしれません。
ただ残念なことに、どんなに李其ヴィブラートに出会っても、それを他人に伝えることは最終的には不可能なことだと言えます。「音の変化」として真似をすることはある程度可能です。
 身体=筋肉や関節の動かし方を、理論的に解説することは出来ますが、実際に自分の身体の「どの部分に」「どんな力を」「どのくらい」使ってヴィブラートをしているのかを言語化することには限界があります。さらに、それを読み・聴いた人が自分の身体に置き換えて実行することは、さらに無理があります。
 例えるならば、バスケットボールのフリースローを成功させるための「技術」を誰かに完全に伝えることに似ています。もし、完全に言語化でき、誰でも真似を出来るなら、失敗する人はいなくなることになります。

 今回のリサイタルでも、左手の使い方をゼロから作り直しています。現に触れる「指の皮膚」と皮膚の下の柔らかい「肉球(笑)」さらにその中にある「骨」にかかる力を感じることから始めます。
「動き」で考えれば、指先の関節それぞれの動く方向と量を考えます。当然、指に力を入れれば関節の動きは制約されます。抜きすぎれば弦を押さえることができません。親指も同じです。
 手首の動き・手首から肘までの前腕の動き・肘から肩までの上腕の動きにも「筋肉の弛緩と緊張」「動きの方向」ででヴィブラートが大きく変化します。それらがすべて「連動」と「独立」を繰り返すので、言語化さるのは不可能に近いことです。
 自分の耳で「波=ヴィブラートの深さと速さと滑らかさ」を確認し、楽器が揺れる大きさと方向を目と身体で確認します。

 ヴィブラートは1素類ではありません。どの音に、どんなヴィブラートを、いつからいつまでかけるのか?それは演奏者の「こだわり」以外の何物でもありません。
 そこに右手の運動のコントロールが加わることで、さらに大きな変化が生まれます。
 自分の好きな音を出せるまでの、永い道のりを楽しみたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしも…

 写真は私と兄、母を父が撮影した写真です。私はどれ?ってすぐわかりますね(笑)札幌の社宅に住んでいた頃の写真です。3歳頃かな?60年前の写真になります。
「もしも」と言う仮定の話は、意味がないか?いえいえ。自分が生きている限り、反省をもとに新しい生き方を始められますから「もしもあの時」と言う反省は有意義です。
 多くの「もしも」は、選択肢が複数ある場合に、違う選択をしていたら?と言う振り返りに使われます。
 結論を言ってしまえば、現実の「今」が正しく、違う選択をして生きていた自分がいれば、その自分が正しい。結局、何を選んだとしても結果は一つしかないのです。

 音楽に関わることで生計を立てている今の自分は、生まれた時から親や自分が選んだ選択の「成果」です。
 両親が私にヴァイオリンを習わせてくれた時、両親とも数十年後の私を想像していなかったはずです。もしも、ヴァイオリンを習わせてくれていなければ今の自分は存在しなかったはずです。遡れば、上の写真で妙な笑い方をする(笑)私の身体が弱くなければ、ヴァイオリンを習わせる気持ちにならなかったかも知れません。もしも、私の目の病気がなかったら、ヴァイオリンを習わせようと思わなかったかもしれません。
 その後、もしも久保田良作先生に巡り合わなければ、ヴァイオリンを習い続けてはいなかったはずです。公立中学で、顧問をされていた室星先生に出会わなければ、教員になることはなかったはずです。
 もしも父が借金をしてまで、私にヴァイオリンを買ってくれていなければ、ヴァイオリンは弾いていなかったと思います。
 もしも、中学3年生の私に「音楽高校を受験してみますか?」と久保田先生に仰っていただけなければ、音楽高校の存在さえ知らなかった私たち家族が、桐朋を受験する選択はしなかったはずです。
 もしも、黒柳先生にSHMと楽典を教えて頂いていなければ、桐朋には合格しなかったはずです。
 もしも、桐朋に受かっていなければ都立の高校に通っていたはずです。
 もしも、音楽大学で留年しなければ教員にはなっていませんでした。プロのオーケストラに入団していたかも知れません。
 もしも、教員になっていなかったら今の自宅は建てられていなかったはずです。多くの生徒たちにも出会わず、新設の学校にオーケストラを作ることもなかったはずです。
 もしも、2004年に退職していなければ、ヴァイオリンに二度と触ることもなかったはずです。
 もしも、ミクシィで浩子姫と何十年ぶりかでつながらなければ、リサイタルを開くこともなかったはずです。

 選択の連続・偶然の連続が今の自分を生かせています。これからも変わりません。選択に悩み続け、どれか一つだけを選ぶことが続きます。
「生きること」と言う選択もいつか終わります。選択ではなく、生まれたことと同じように、自分で人生の終わりを決めることは出来ないのが「自然の摂理」です。少なくTも「生きるか死ぬか」と言う選択をすることは、自分を生み育ててくれた両親への裏切りです。生きることを願いながら、楽しみながら音楽に向き合いたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕と左手の「分離」

 映像は、ユーディ・メニューインの演奏動画。
私が学生時代にメニューインの書いた演奏技法に関する本を何度も読み返していました。当時は、カール・フレッシュの分厚い演奏技法に関する本もありましたが、両者ともに「理論的」に演奏を解析しているものでした。
当時は「意味わからん」と(笑)内容を把握していなかった気がします。
 現代の若手ヴァイオリニストたちの技法とは完全に一線を画す演奏方法です。大きく違うのは「右腕の使い方」です。もちろん、左手のテクニカルな面でも当時と今では明らかに違います。
 演奏の自由度=音色の多彩さが今とは比べ物にならないほど大きかった気がします。言い換えれば、現代のソリストたちに共通して感じられるのは
「音量」と「正確さ」を競うための技術が優先しているように感じます。
ハイフェッツやオイストラフ、シェリングやメニューインが「技術が低い」のではなく、演奏技術のベースに「音色のバリエーション」が必ずありました。ヴィブラート一つ取り上げても、パッセージや一つ一つの音単位で、速さと深さを変えていました。また、右腕に至っては、まさに「ヴァイオリンの基本はボウイング」だと思わせるものがありました。
 以前にも書いたように、ヴァイオリンは音量の「差=幅」の少ない楽器です。クラシックギターやハープ、チェンバロに比べれば、多少なりとも大きな音量差は付けられますが、ピアノなどと比較しても「音量の変化」は微細なものになります。だからこそ、音色の変化量で補う一面があります。

 今回のリサイタルに向けて、左手の「力」を必要最小限に抑えることを心掛けています。特に親指をネックに充てる力を意識しています。
右手の親指も、無意識に必要以上の力を入れていることがあります。
左手の場合、必要最小限の「運動量」で演奏することで、自由度が増し移動も速く正確になることが感じられました。一方で、左腕の運動が左手につられて小さくなってしまうことに気づきました。
 意識の中で「力を抜く」「無駄に動かない」と考えているうちに、右腕も引っ張られて(笑)運動が手先に偏ってしまう傾向があります。
 演奏し長ら「エネルギー」が欲しい時に、つい両腕に力が入ってしまう。本来は右腕おt左腕は「まったく違う役割」を持っています。当然、力の量も違います。なんとなく、両方の腕に同じ力がかかったり、力が抜けたりするのは「独立=分離」が出来ていないためです。これはピアノでも他の楽器でも同じことが言えるのだと思います。わかりやすいたとえで、ドラムの演奏動画をご覧ください。

身体のすべてが「音楽」「楽器」になるドラマーと言う演奏者を見ると、私の悩みがちっぽけ(笑)に感じます。
 技術は音楽のためにあります。考えることと感じることは、お有る意味で「同じ」またある意味では「別桃の」です。感じたことを表現し、表現したことを感じる連鎖が演奏です。
運動と感性も同じ事です。右腕と左腕が別荷動きなら、ひとつの音を出す。
考えなくても思ったように動かせるようになるまで、考え抜きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンサート色々

 今回のテーマは「音楽会」にも色々ありますよね?と言うお話です。
音楽のジャンル、開催される場所、使われる楽器などによって、いわゆる「音楽会」は「コンサート」だったり「ライブ」だったり「ショー」だったりします。当然のことながら、音楽を聴くことが最大の楽しみであり、一人一人「楽しみ方」が違います。観客の「聴き方・楽しみ方」も様々です。会場が一体になるライブもあれば、舞台の上で演奏される音楽を、静かに座って聴くことを楽しむ音楽会もあります。「どれが正しい」という答えはありません。聴く人の「自由」が一緒に聴いている人の迷惑にならない限り、どんな楽しみ方も許されるのが音楽会です。
 私と浩子さんのデュオリサイタルと、メリーオーケストラの演奏会では、曲の合間に会場のお客様に向かって話しかける「スタイル」で15年間以上、行ってきました。曲の解説をすることもあれば、練習でのエピソードをお話しすることもあります。演奏「だけ」を楽しみたい方にとって「不快」だったり「無駄な時間」に感じられることも当然、あり得ることです。
 私の考える「トークコンサート」は、何よりもお客様との「共感」を大切にすることです。先述の通り、演奏だけを楽しみたい方にとっては「共感できない」コンサートです。
コンサートに行ったことがない方や、クラシックの音楽も含め「聴いたことのない音楽」「タイトルを知らない曲」を聴くことに興味のない方が、私たちのコンサートで「楽しい」と思っていただけることを願っています。音楽を聴いていただき、楽しんで頂くことが何よりも大切であることは忘れていません。その音楽を演奏する「人間」を知って頂くことで「クラシックとは!」というネガティブな先入観を少しでも減らしてもらえれば私は満足です。
 実際にあったお話ですが、メリーオーケストラの定期演奏会が「初めてのクラシックコンサート」だった方が、オーケストラの演奏会に興味がわいて、違うオーケストラの演奏会に行ったところ「指揮者が一言も話をしないのでびっくりした」と言う笑い話があります。指揮者や演奏者が「しゃべる」コンサートが正しいと言い切るつもりはまったくありません。「それも、あり」だと思うのです。
演奏会の「スタイル」を画一化することは、音楽を自由に聴く楽しみに「枠」を作ることになると考えています。「クラシックコンサートだから」「ロックのライブだから」と言う限定的な狭い考え方より、自分にとって「居心地の良い」コンサートを選べる多様性があって良いと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の毛替えを考える

 写真は私が20歳の頃から愛用している「本番用の弓」です。
当時、弓に強い関心があってヴァイオリン職人で、楽器を斡旋してくれた田中さんにも相談していました。「自分の足で楽器屋を回って、良いと思った弓を持っておいで」とアドヴァイスされました。東京近郊のヴァイオリン専門店を回り、自分で「これだ」と思った弓を数日、貸し出してもらって南青山の田中工房へ。
 「この弓のどこがいいんだ?返してこい」の繰り返しを約1年間続けました。
この「勉強」は今も役に立っています。「北の狐」と隠語で呼ばれていた、東欧のヴァイオリニストたちが日本に来た際、外貨稼ぎに自分の弓を売っていた時代でした。その中の1本が、田中さんの手元に入り「これで弾いてみな」といわれててにしたのが、この弓です。都内で借りていた「有名な弓」よりはるかに安い金額で購入することができました。
 レッスンで久保田良作先生に弓を見て頂きました。「ほ~!違うものだね!」と大変気に入ってくださいました。その後、先生の演奏会や録音があるたびに「野村君、弓を貸してくれる?」と仰り、何度も演奏会で使って頂いた弓です。

 弓の毛は消耗します。馬のしっぽの毛は、表面に無数の凸凹があります。そこに松脂が「粘着質」なこぶを作り、弦との間に摩擦が起きて「音が出る」仕組みです。演奏すれば、少しずつ凸凹が小さく=薄くなります。松脂がいくら毛になじんでも、凸凹がなくなれば摩擦が長続きしなくなります。
 さらに馬のしっぽの毛は、人間の髪の毛と同じで、皮膚から離れた時から栄養が供給されず「経年劣化」します。水分と油分が抜け、細く・硬く変化します。
 加えて演奏中に何本かの毛が切れていきます。演奏の仕方や曲にもよります。
「どのくらいの頻度で張り替えればよい?」と聞かれることがあります。
諸説あり「200時間程度演奏した」と言う説や「1年ごとに」と言う説もあります。毎日演奏していると、なかなか気付きにくいのですが「摩擦が減った」感覚と「毛の弾力が減った」に注意することです。張り替える技術を持った職人さんはたくさんいます。弓の毛替えは、ヴァイオリン職人にとって「基本の技術」でもあるようですが、その技術差は明らかにあります。誰でも同じ…ではありません。
 自分の大切な弓の毛替えをしてもらう人を選ぶ「基準」について。
「目の前で毛替えしてくれる職人」かどうか?私はこれに尽きます。
実際、私の弓(写真の弓)の毛替えは、今まで数人の職人にしかお願いしていません。そのうちお二人は、私の目の前で20~30分で毛替え作業を終わらせてくれていました。作業しながらお話を聞かせてもらえる「技術」があります。
 楽器の修理の場合でも「信頼できる人」かどうか?の見極めは、目の前で作業を見せられう人か?見せない人か?ですぐに判別できます。もちろん、時間のかかる作業もあります。私の知る限り、剥がれの修理は1か所であれば、その場で終わらせられます。固定し完全に乾く間、職人さんに預けることがあっても信頼できる職人さんなら問題ありません。「作業を見せられない」と言う職人さんを信頼することは不可能です。

 弓の毛の「長さ」と「量=毛の数」と「張り方=バランスや重なりの有無」が悪ければ、演奏しにくくなります。演奏者の好みもあります。
 私は弓の毛を、可能な限り弱く張って演奏します。演奏する際の「張りの強さ」と「弓の毛の長さ」には大きな関連があります。
 強く張って演奏したい人は「毛箱」がスクリュー側に寄ります。
逆の場合、弓に巻いてある「革」と毛箱の隙間が狭くなり、毛箱が弓の中央に寄ることになります。
 結論として「毛替え」を任せられる職人さんとの出会いがなければ、安心して演奏することができないことになります。人間の身体と同じです。信頼できる医師に診察してもらわないと不安ですよね?楽器は「言葉を話せない」ので、赤ちゃんと同じです。何をされても言葉に出来ない楽器や弓だからこそ、信頼できる職人を探しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

体力=気力

  映像は14年前、第2回のデュオリサイタルで演奏したエルガーのマズルカ。
今回のテーマは「体力」つまり肉体的な変化と「気力」精神のかかわりについて考えるものです。
 「老化」というとネガティブなイメージを受けますが、どんな生き物にも「寿命」があるのが自然の摂理です。永遠に生きられる生物は地球上に存在しません。生まれてすぐの人間は、呼吸する事・母乳を飲む事・手足を動かすこと・泣くことしかできません。そこから「体」が成長し体の一部である「脳」がより複雑なことをできるように発達します。肉体の成長は一般的に20歳ごろまで発達し、少しずつ低下していきます。その間に感じた「記憶」が脳に蓄積されて、知性・理性が創られていきます。肉体的な「老化」は、脳の老化より早く表れるのが一般的です。もちろん、病気によって脳の働きが低下することもあります。

 楽器の演奏をして消費するカロリーは、楽器によって・演奏する曲によって大きな違いがあります。「運動」であることは間違いないのですが、若い人が1時間、休まずに演奏した時の疲労と、年齢を重ねてからの疲労は明らかに違います。若い頃、練習して疲れたと感じることがあっても、回復も早かったことを懐かしく思い出します(笑)筋肉の疲労がなかなか回復しないのも老化の現れです。疲労が蓄積してしまう結果になります。
 筋力・体力の衰えを補うのが「技術」と「気力」です。力を使わずに演奏する技術と、筋肉に負荷をかけない演奏技術。気力は?脳の働きは衰えていなくても「体が付いてこない」ことで、気力も衰えるものです。
 気力がなくても筋力は下がりませんが「楽器を弾こう」という気持ちがなくなれば、体力があっても練習は出来ません。
 63才になった今、昔のような筋力・持久力はありません。見栄を張っても現実は変わりません(笑)衰えを受け入れたうえで「気力」を落とさないために目標を作ることも大切です。さらに、少しでも「楽に」演奏できる技術を模索することも必要になります。
 著名な演奏家たちが、60才を過ぎても若い頃より素敵な演奏をしていることを考えると、気力と技術が体力の衰えを上回っている象徴だと思います。
体に無理をかけずに演奏する技術を身に着けることは、気力を維持することにつながります。「体力=気力」だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介