だめだこりゃ…になった時

 今月23日に長野県木曽福島で開かれるコンサートで、久しぶりに演奏することにした、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」
映像はマキシム=ヴェンゲロフさまによる「憧れの演奏」です。
 こんな演奏をしてみたいのですが、現実には…

 過去に自分が演奏したこの曲の動画、3本のどれを見ても「逆」なんです。
なにが?(笑)アウフタクトに感じるパッセージを「アップ」、その後の重さのある1拍目を「ダウン」という運動…これ自体は間違っていないのですが、長い音をアップで膨らませたい!となると、アウフタクトを「ダウン」にして1拍目を弓先から「アップ」にしたい!のに…体と脳が「忘れてくれない」現象が起きています(泣)
 そもそも、楽譜と音楽と動きを頭の中で一つの「イメージ」にして記憶するようになってから、特に弓のダウン・アップの優先順位は「下位」になっています。むしろ「音楽」が先頭に来ているので、運動はあまり意識せずに演奏する習慣がついてしまっています。
 意図的に、弓の動き=ダウン・アップを優先しようとすると、音楽が引き算されると言う最悪の状態になります。だめだこりゃ!…と長さんの声が聞こえます(笑)しかも、楽器が「借り物」なので思ったところに思った音がない(笑)という現実。

 自分が「できない」と思う壁に直面することは、楽器を演奏する人には避けて通れない「運命的」なことです。しかも、それまである程度「出来ている」と思っていたこと、「なんとかかんとか弾けている」と思っていた曲に対して、自分自身が「ダメ出し」をして出来ていない・ひけていないことを発見したときの悲壮感…それまで見えていなかった部屋中の「ゴミ」が一気に見えてしまって、まるで五味屋敷の中に突然いるような恐ろしさと挫折感(笑)。
 どこから?手を付けても綺麗になる気がしない・できる気がしない…その気持ちに負けない「精神力」「気力」を生み出せるのは、結局自分自身だけです。
 誰かに助けてもらったとしても、きっとまた「汚れる・できなくなる」という不安が付きまといます。自分の手でゴミを一つずつ・できないことを一つずつ拾って片づけることの繰り返しをするのが一番です。
 自分にとって「苦に感じない」ことのつもりで片づけるのが有効な方法です。
私の場合、単純作業で「いつか終わる」…例えば教員時代にテストの採点を、1学年200人分を一晩で終わらせることには、ほとんど苦痛を感じないでやっていました。今でも、発表会やメリオケの動画編集を、その日のうちに終わらせる(笑)ことにも「大変だ!嫌だ!」と感じたことはありません。嫌なことはしない主義なので(笑)人によって「苦にならない」事は違います。他人から見れば「変なの」と笑われたり驚かれたりするのが、実はその人の「特技」かも知れません。ぼーっとするのが好きなひとなら、それが一番の特技です。本を読みだしたらいつまででも読みたい人なら「読書が特技」だし、どこでも寝られる人なら、それが特技です。その特技を「できない」と思う事に利用する方法を考えます。何も考えずにいることが「特技」なら、なにも考えずに演奏してみるのが一番の解決方法です。寝るのが特技の場合には?寝ている時の「快感」を感じながら演奏してみる…のかな(笑)
 私の場合には、日常が出来ないことだらけなので「できないこと」への耐性ががある程度(笑)ついていますが、今回の「だめだこりゃ」は結構しんどいです。まずは、頭の中で音楽と「腕の動き」を一致させるイメージトレーニングと、物理的にどうすれば「長い音が弓先から始まるか」を考えて、長い音の前の音、さらにその前の音からの「連続」で、どうやっても=考えなくても、長い音が弓先から始まるように「身体に覚えさせる」繰り返ししかなさそうです。
 身体が慣れるまで、頭を使う。これが鉄則です。身体の動き=運動が、意識しなくても理想の運動になるまでは、常に運動の前に「意識」する習慣をつけます。その意識があるうちは、他の事は意識できません。なので、出来るだけ、「エアーヴァイオリン」で練習するのが私流です(笑)「ラファソラレ~」「シドレラ~」右腕を動かす…変なおじさんになるので、人のいない場所で(笑)
 壁を超える→また壁にぶつかる→壁を超える
この繰り返しを楽しめるようになりたい!ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラ・ヴァイオリンのヴィブラートを比較する

 映像は、チャイコフスキー作曲の「ノクターン」
チェロで演奏されることの多いこの曲を次回のデュオリサイタルで「ヴァイオリンとピアノ」で演奏してみます。そこで、参考までにヴァイオリンでの演奏を探してみました。

え  

 演奏の好みは別の問題として、今回はヴィブラートの違い…特に、チェロとヴァイオリン・ヴィオラの違いについて考察してみます。
 私自身、ヴァイオリンのヴィブラートよりもチェロのヴィブラートが好きです(笑)「言い切るか!」と思われそうですが、高校時代の親友がチェリストだったこともあり、自分のヴィブラートに不満のあった(今もある笑)私が、観察の対象にしていたのが「チェロのヴィブラート」なのです。
 特徴として「動きの可動範囲が大きく速い」「波=音の高低が滑らか」であることがヴァイオリンとの違いです。演奏技術によって差はあります。ただ、多くのチェリストのヴィブラートを聴いても、やはりこの「違い」は明らかです。
 ヴィオラでチェロの「真似」をしようと足掻いてみたことがあります。
サン=サーンスの白鳥やシューベルトのアルペジオーネソナタ、他にも多数。
ただ…どう頑張ってもなにか不自然に感じます。それは「音域」の違いと「筐体=ボディーサイズ」の違いだけではなく、ヴィブラートそのものに違いがることに気が付きました。

 「逆手」と「順手」と言う言葉をご存知でしょうか?
鉄棒や「ぶら下がり健康機」を手でつかむ時の「向き」のことです。
順手は手の甲が自分の方を向き、逆手は掌=てのひらが自分の方を向きます。
二つの握り方によって、使われる筋肉が変わります。特に「懸垂」で筋肉を鍛える場合には、に切り方によって鍛えられる筋肉が違います。
 マッチョを目指さない私にとって(笑)、懸垂は出来なくても良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを演奏する「左手」は実は逆手になっています。
一方、チェロやコントラバスの場合、左手は「順手と逆手の中間」つまり、腕を体に沿わせて「だらん」と下げた状態の時の、手の向きになります。掌が「身体の内側」に向き、手の甲が「外側」に向きます。この状態で普段、私たちは歩行しています。日常生活の中でも、掌を下に向けて作業することは、ごく自然にできます。何かにつまずいて、前のめりになった時に「手をつく」のは「順手」です。尻もちを付いて手を付く時にも、掌を下にします。つまり、私たちの祖先に近い「猿」が両手を使って「歩く」こともあるように、掌は下に向いた状態「順手」が自然な状態なのです。進化した私たちは「両手を内側に向ける」ことも、自然な「手の向き」になりました。

 逆手「以上」に掌をひねりながら演奏する楽器は、ヴァイオリンとヴィオラしかありません。管楽器…フルートの場合でも左手が「逆手」ですが、あくまでも掌が自分の方に向く角度までで演奏できます。クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、打楽器、ピアノ、ギター、ハープ…どの楽器も掌の向きは「順手」もしくは、順手に近い向きで楽器を構え演奏します。逆手であるがゆえに、ヴァイオリン・ヴィオラは、楽器の「肩」部分に左手が当たって、ハイポジションでの演奏がさらに困難になります。当然この掌の角度でヴィブラートは極めて「不自然」な動きになります。
 その点、チェロとコントラバスは、ハイポジションになっても、左手の親指を指板の上に出すことで、掌と手の甲の「向き」は変えずに弦を押さえられます。
「理にかなった弦の押さえ方」です。ヴァイオリンを最初に演奏し始めた「誰か」がいるはずなのですが、恐らく「チェロの原型」や「胡弓」「二胡」「馬頭琴」のように、弦が「縦方向」に張られているのが弦楽器の「ご先祖」だと思います。それを「首に当てて=弦を水平方向に張る向きで演奏する」という「業虚?荒わざ」を試して、「だめだこりゃ」にならず「うん!これだ!」って感じたんでしょうか?(笑)
高い音を出したくて「小さくした」のか?それとも、持ち運びを考えて「小さく」したのか?どっちにしても、チェロの構え方のままで演奏すればよかったのに…。ぶつぶつ…。

 ヴァイオリン、ヴィオラのヴィブラートは、手首と肘関節の運動でかけます。
一方でチェロ、コントラバスのヴィブラートはもっと自然に「左腕全体」を利用してかけられます。どの弦楽器も「指で弦を押さえる」事に違いはありません。
ギターのようにフレットのないヴァイオリンやチェロの場合、押さえ方を少し変えるだけで、音の高さが変わってヴィブラートがかけられます。左手「指関節の柔軟性=可動範囲の大きさ」でヴィブラートの幅が決まります。
 ヴィブラートは「自然に聴こえるための技法」だと思っています。
ただ速く動かすだけを意識したヴィブラートは、聴いていて不自然に感じます。
「痙攣ヴィブラート」「縮緬=ちりめんヴィブラート」と呼ばれる「細かいヴィブラート」」を好むヴァイオリニストもおられますが、私にはヒステリックに感じてしまいます。
 遅すぎず、深すぎないヴィブラートを理想にしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


フラットが5つ付くと何が起こる?

 映像は6年ほど前に演奏したラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」です。
日本語の表記で書くと「変ニ長調」英語表記なら「D flat Najor」ドイツ語表記なら「Des dur」です(笑)

 ヴァイオリンの為に作曲されたヴァイオリン協奏曲は「D dur」ニ長調のものが多い理由はご存知の方も多いと思いますが、ヴァイオリンの開放弦が低い方から「G・D・A・E」ソレラミで、D durの「主音」がD=レ、「下属音」がG=ソ、「属音」がA=ラ、加えて言えばE線の開放弦である「E=ミ」の音は、「属和音=A・Cis・E」の第5音でもあり、結果としてすべての開放弦の音がD durの「核となる音」になります。このことで、ヴァイオリンの持つ「倍音」が最も響きやすく、かつ演奏しやすいのがシャープが二つの音「ファ・ド」に付く調性「ニ長調=D dur」で、ヴァイオリンの持つ最大限の「ポテンシャル」を発揮できることになります。チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト、ブラームスのヴァイオリンコンチェルト、ベートヴェンのヴァイオリンコンチェルトはすべて「ニ長調」で書かれています。
 では、それ以外の「調性」だとヴァイオリンの音色は「悪くなる」のでしょうか?結論は「いいえ」です。それを説明します。

 冒頭のラプソディは「シ・ミ・ラ・レ・ソ」にフラットが付く調性なので、開放弦の音は「音階固有の音ではなくなる」つまり、臨時記号が出てこない限り、開放弦の音は使われずに演奏される曲になります。音楽全体が「柔らかい音」になる…あるいは「すべての音が均一な響きになる」とも言えます。
 シャープ系の調性の場合、たとえば先述のニ長調の場合で考えると、音階固有の音は「レ=D・ミ=E・ファ♯=Fis・ソ=G・ラ=A・シ=H・ド♯=Cis・レ=D」になりますので、7種類の音の中で4つは「開放弦にある音」で残りの3つが「開放弦にない音」になります。当然、この2種類で大きな違いがあります。
作曲家はそれを逆に利用して音楽の「色付け」を考えます。
 有名な曲でフラットいっぱい!の曲をもう一曲。

 先日のブログでピアノがうまい!とピアノ演奏をご紹介した名ヴァイオリニスト「フリッツ=クライスラー」が演奏するドヴォルザーク作曲の「ユーモレスク」フラット6つ!の調性「変ト長調=Ges dur」がオリジナルの曲です。ヴァイオリン教本などでは、半音高く移調して「ト長調=G dur」シャープ1つの調性で弾きやすくしてあるものが見かけられますが、ご本家はこちらです(笑)演奏を聴いていただくと、すべての音が「均一」という意味が伝わるかと思います。かと思えば「それ、やりすぎちゃん(笑)」と思えるものもおまけに。

 このお方も先日の「ピアノがうますぎ!」に登場していただいた、ヤッシャ=ハイフェッツ大先生が「編曲」し「ヴァイオリンを演奏」されている、サン=サーンス作曲の動物の謝肉祭より「白鳥」ですが…オリジナルは「ト長調=G dur」なのに、わざわざ!半音下げた「変ト長調=Ges dur=フラット6つ」に移調して、ピアノの楽譜も「やりすぎ~」な感が否めません(笑)移調するだけでは気が済まなかったのか…。ヴァイオリンらしさを出したかったのか…。

 最後にもう一曲。こちらは以前にも紹介したジャズピアニスト小曽根真さんのアレンジされた「ふるさと」を採譜=楽譜に起こして、ヴィオラとピアノで演奏したものです。これも「フラット5つ」の、Des dur=変ニ長調で演奏されていたのでそのままの調性で演奏しています。歌の場合、歌いやすい高さに移調することが一般的です。恐らく歌われていた神野美鈴さんが一番歌いやすい調性だったのでそうね。

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまく弾くより、大切に弾きたい。

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した、村松崇継さん作曲MIYABIこと竹内まりあさん作詞の「いのちの歌」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 自分で聴いて演奏は「傷」だらけです。この演奏で自分がなにを伝えたかったのか…。演奏できることへの「感謝」です。歌詞の最後「この命に ありがとう」にすべてが込められた音楽に感じながら。「生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと その すべてに ありがとう」という詩から続く「いのち」への感謝。演奏できることは「命がある」ことです。私たちは生きていることが「当たり前」で、今生きていることに感謝する意識を持っていません。「生きていてよかった!」と言う言葉は、九死に一生を得た人の言葉だと思っています。「死ななくてよかった」と思うのに、普段は生きていて当たり前って矛盾していますよね。それ以外の場面で「今までの人生で最高に幸せ!」と感じる時にも、このセリフが出ますが(笑)それまで生きていて感謝してこなかったのか!と突っ込みたくなりませんか?(笑)

 さて、テーマは「大切に弾く」ことの「大切さ」…かぶってます。
少しでもうまく弾きたいとか、うまく弾けないとか、自分はうまくないとか…自分の演奏に納得できない人は(私もです)「上手な演奏」を理想にしています。そのくせ、何が上手なのか?について、じっくり考えもしないで「自分はへただ」と思い込む謎(笑)このテーマは過去にもブログで書きましたが、演奏する人にとって最大の「命題」です。
 音楽を大切にすることは、自分の考え方を大切にすることです。
もっと言えば、自分が生きること、生きていることを大切にすることだと思います。「けっ。安っぽい説教か」と思う皆様。ごめんなさい(笑)あくまで私自身の「懺悔」です。お許しを。
 ヴァイオリンを演奏して生活するための「学校」を卒業し、ヴァイオリンから20年間離れて生活したのは「生きるため」に他なりません。その長い時間を終えて「再スタート」してから18年と言う時間が経ちました。まだまだ演奏したい気持ちもあります。ヴァイオリンに「蓋」をした20年間がなければ今、ブログを書いている私も存在していません。
 楽器を演奏するひとは「じょうずに弾きたい」という一種の「麻薬」にはまります。楽器に限らず、スピードの出せる車に乗ると「もっと速く走りたい」という欲望=麻薬に駆られます。パソコンの性能も同じです。「もっと」と言う欲の根源が自分自身の力ではなく、他人の作った「比較」の世界から始まっていることに気付かないのが最も恐ろしいことです。
 楽器も音楽も「誰か」が造り出したものです。それをただ、演奏して楽しんでいるのが「演奏者」です。さらに他人が自分よりじょうずか?自分の方がじょうずか?は「他人の技術」の問題をただ自分と比較しているだけです。自分の技術とは無関係なことに、イライラしたり「負けない!」と思うのは考えてみれば「アホらしい」ことだと思うのです。
 自分の出している音を、練習中も大切に思う事。楽譜に書かれている音を、大切に思う事。楽器を大切に思う事。
大切にすることを「怯える」と同義語にしないことです。むしろ反意語「雑に扱う」「無視する」に注意すべきです。演奏することに怯えていては、大切にできません。テキトーに「チャラビキ」するのが最も「雑な演奏」です。
 いくら言葉や外見を装って「大切にしているの!風演技」をしても、聴く人には嘘がばれてしまいます。その違いは、時間が経てばたつほど、明確になります。偽物は時間と共に「劣化」します。本物は時間と共に「深化」します。絵画にしても文学にしても建築物にしても、時間が経っても人々に愛され続ける「本物」と、「中古」として価値が下がり続けるものに分かれます。
 演奏はその場だけの芸術です。録音は「時間を切り取ったもの」です。
私たちが演奏する「音楽」は、無意識にしている「呼吸」と同じです。
じょうずな「呼吸」を目指すより、呼吸できることに「感謝」するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の重さと軽さ

 映像はクライスラーの「美しきロスマリン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。同じ曲を杜のホールはしもとで演奏した動画が下の映像です。

 テンポの違い、弾き方の違いで音楽のイメージが大きく変わることがお分かりいただけるかと思います。好みは人によって違います。今回のテーマである「音楽の重さ・軽さ」は音楽を演奏する人の「技術」に関わるお話です。

 そもそも、音楽=音には物理的な「質量=重さ」は存在しません。人間の感覚的なものです。音楽以外にも「重苦しい雰囲気」「重たい話」と言う言葉や、「軽い食感」など実際の「重さ」とは違う表現で「思い・軽い」と言う言葉を使います。音楽の場合の重さ・軽さとは?どんな感覚の時に使うのでしょうか?
「重く感じる音楽や音」
・遅い・長い音・大きい・芯のある音色
「軽く感じる音楽屋音」
・速い・短い音・大きくない・高い音
例外もあります。さらに前後との「相対=比較」でも重さは変わります。
当然、組み合わせられて、より「重く・軽く」感じるものです。
これは推論ですが、私たちが実際に感じる「重たい物・軽い物」を持った時の「感覚」と関係があるようです。
 重たい荷物を手に持って歩く時、遅くなりますよね?腕や肩、腰、背中、足にも「力」を入れます。長い時間や距離を歩くと息切れします。速く「下に置きたい」気持ちになります(笑)
 軽い荷物なら?何も持っていない時と同じ速度で歩けます。走ることもできます。もしそれまで、重たい荷物を持っていたら「軽くてらくちん!」と思うはずです。
 ところが!「重厚」と言う言葉と「軽薄」と言う言葉を考えると、どうも…重たい方が「偉いらしい」(笑)気もしますね。「重みのある言葉」とか「軽率な行動」とか。「重たいことはいいことだ」あれ?どこかで似たような歌を聞いた覚えが…(笑)重鎮…まさに偉そう過ぎて嫌われる人の事。

 音楽で重たく感じることが「良い」とは限りません。ちなみに「軽音楽」と言う表現でポピュラー音楽をまさに「軽蔑」するひとを私は「軽蔑」します(笑)
ブルースやジャズが「軽い」とは思いません。クラシックが「重たい」と言うのもただの先入観にすぎません。
 曲によって、重たく聴こえるように演奏したほうが「ふさわしい」と思える曲もあります。逆に軽く聴こえるように演奏「したい」と思う場合もあります。

 映像はフォーレの「シシリエンヌ」をデュオリサイタル12で演奏している映像と、デュオリサイタル9の演奏にぷりんの写真をつけたものです。
 一般にこの曲は、下の演奏のテンポで演奏されることが多いのですが、ゆったりしたシシリエンヌの場合「安らぎ」や「落ち着き」を感じる気がしてあえて、テンポを遅くして演奏してみました。これも好みが分かれますが「このテンポで弾かなければいけない」という音楽はあり得ません。弾く人の「自由」があります。それを聞いた人が「これもいい」と思ってくれるかも知れません。

 最後に、演奏を意図的に重くしたり、軽くしたりする技術について。
前述の通り重たく弾きたいのであれば、実際に「重たい荷物を持って歩く」時の筋肉の使い方を演奏中に感じてみることです。速くは出来ないはずです。力を抜いてしまえば荷物を落としてしまいます。常に「一定の力」を維持することが必要です。さらに坂道を上るとしたら…音楽で言えば「クレッシェンド」と「音の上行」が同時にあれば、ますます「遅く・苦しく」なるはずです。
 軽く演奏したいなら、身体の力を「外」に向かって開放するイメージで演奏してみます。楽器を「中心=コア」に感じて、楽器から外に向かって「広がる」イメージを持つと、筋肉の使い方が「外側」に向く力になります。脱力するだけでは、まだ「重さ」が残っているのが人間の身体です。重力には逆らえませんから(笑)、浮上することは出来ません。力を身体の外に「放出」する方向に力を使えば、軽くなるイメージがつかめるはずです。
 一曲の中にはもちろん、ひとつの「音」にも重さの変化が付けられます。
軽く弾き始めてから、徐々に重くできるのが弦楽器や管楽器、声楽です。
その「特徴」を最大限生かすことも、弦楽器奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしもピアノが弾けたなら♪

 映像は、ゲーテの詩にチャイコフスキーが曲を作った「ただ、憧れを知る者だけが」を、「ソ連」を代表する歌手「ヴィシネフスカヤ」が歌い、夫であるチェリスト「ロストロポーヴィチ」がピアノを演奏しているものです。
 次回のリサイタルで演奏するための「予習」で色々な演奏者の演奏を聴いています。そんな中でロストロポーヴィチのピアノが「うますぎる!」(笑)
 私自身、ピアニストの演奏技術については無知なので、この演奏が本当に「うまい」のか?ピアニストの方から見たものとは違うと思います。
 学生時代、ロストロポーヴィチが桐朋学園に来られた際、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮し、ハイドンのチェロコンチェルト第1番を演奏して「実地訓練」(笑)をしてくださったことを懐かしく思い出します。
 指揮にしてもソロにしても「音楽の静と動」特に「前に進む音楽」を強く指示されていました。かと思えば弦セレの1楽章中にある「リタルダンド」部分で「アイシテル!アイシテル!ア・イ・・シ・・テ・・・ル~♪」と日本語で歌いながら「流れを止める」技術(笑)も見せてくれました。
 そんな偉大なチェリストが演奏する「声楽の伴奏ピアノ」を聴いて思い起こすのは、世界的なヴァイオリニスト「ヤッシャ=ハイフェッツ」のピアノ演奏です。実際に演奏している動画がこちらです。

 うますぎる(笑)「天は二物を与えず」って嘘だべ。
ここまで来たらこの人のピアノも(笑)フリッツ=クライスラーの演奏するドボルザークのユーモレスク。

 なんだなんだ!みんなピアノうますぎるぞ。
音楽高校入学試験に「ピアノ副科」があります。私も受けました。
高校・大学で副科のピアノは必修で試験も受けました。高校3年のピアノ副科試験でベートヴェンの「悲愴」1楽章を弾きました。スケール全調…その場で試験官の先生から指定される音階を私も弾きました。
 さらにさらに!20年間、中学校・高校の音楽教諭として合唱の指導で「音取り」のピアノも「伴奏ピアノ」も弾いていました。校歌も20年間、事あるごとに弾いてました。なのに。あーそれなのに(笑)どーして、私にはピアノがうまく弾けないのでしょうか。
 答えは簡単「うまくなる気がない」それだけです(笑)練習しないのに、うまく弾けるはずがありません。当然です。
 …ん?そうすると,ロストロポーヴィチもハイフェッツもクライスラーも「ピアノを練習した」のです。それ以外ありえません。あんなにチェロやヴァイオリンがうまい方たちが「ピアノもうまい」わけです。
仮説(笑)
「ピアノが楽器演奏の基本だからピアノもうまくなった」
「彼らはピアノを演奏するのが好きだった」
「チェロもヴァイオリンもうまい人はピアノもうまい」
「野村謙介は特にピアノがへたである」
恐らくすべて正解です。
ピアノを上手に弾ける方々を、心から尊敬しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ジャンルを超えた「感性」

 八神純子さんの「パープルタウン」です。
ウィキペディアによれば…
[1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。
3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。
一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。
愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。」
だそうです(笑)

 私と同世代の八神純子さんの歌う声に、学生時代から不思議な魅力を感じ、レコードを買い「オーディオチェック」にも使わせてもらっていました。ちなみに、当時オーディオチェックには「岩崎宏美」さんのレコードも良く使われていました。人間の「声」を美しく再生できることが良いオーディオの基準でしたので、この二人の声はジャンルに関係なく、多くのオーディオファンが聴いていました。

 ただ「高い声を出せる」とか「声域が広い」と言う歌手は他にもたくさんいます。また、その事を売りにしている歌手もいます。それはそれですごいと思います。私が「感性」と書いたのは、音の高さ…では表せない「歌い方」の個性を強く感じているからです。
 ヴァイオリンに置き換えるなら「音程の正確さ」「音量」よりも「演奏の仕方」です。
 歌は人間の声を使って音楽を演奏します。当然、一人一人の「声」は違います。楽器の個体差よりも、はるかに大きな個人差があります。聴く人の好みが大きく分かれるのも「声=歌」です。八神純子さんの「声」が好きなだけ?と問われれば…否定は出来ません(笑)
 八神さんの「歌い方の個性=技術」を考えてみます。

「ヴィブラートの使い方」
「長い母音の歌い分け」
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」
「音域ごとの声質の使い分け」
どれも「プロの歌手ならやってる」のでしょうね(笑)
もう一度、このポイントを覚えてから、映像の歌声を聞いてみてください。
「普通じゃない」ことに気付いてもらえると思います。
これらのポイントはすべて「ヴァイオリンの演奏」に置き換えられます。
「ヴィブラートの使い方」←そのまんま(笑)ヴァイオリンに言えます。
「長い母音の歌い分け」←長いボウイングでの音色・音量のコントロールです。
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」←弓を返してもフレーズを切らない。
「音域ごとの声質の使い分け」←弦ごとの音色の使い分けです。
ヴァイオリンでこれらのすべてが「個性」につながることは、以前のブログでも紹介しました。
 しかも八神純子さんの「正確さ」についても、述べておきます。
ピッチの正確さは、どの歌手にも劣りません。しかもピアノを弾きながら歌うことがほとんどの彼女が、バックバンドのドラムやペースのライブ音量=大音量の中でも正確に歌っている姿を見ると、ピアノの「音」を聴きながら同時に自分の声を聞き取ろうとしている…と推測できます。

 歌手の「うまさ」をどんな基準で測るのか?と言う問題には様々な意見があります。それはヴァイオリンやピアノの演奏技術、フィギアスケートの評価などにも言えることです。
「間違えないこと」が「うまい」ことは確かです。
では「間違えないだけ」がうまいことの「基準」かと言えば違います。
「他の人が出来ないことをする」のも、うまいの一つです。
言い換えれば、「まちがえない人」が、できないこと…これは「相対比較」なので無限にあります…をできるのも「うまい」ことの基準だと思います。
 たとえば「高い音にヴィブラートをかける」ことや「短い音にヴィブラートをかける」こと、ヴァイオリンなら「重音にヴィブラートをかける」←ヴィブラートの話ばっかり(笑)その他にも「音色の豊富さ」「音量の変化量」など、「正確」以外の要素も聴く人に感動を与える要素だと考えています。
 世界中に「歌のうまい歌手」はたくさんおられます。
それぞれの歌手が「個性的」で、聴く人の心に訴えかける「なにか」を持っています。その「なにか」を「人間性」と言う人もいますが、私はそれこそが「技術」だと思っています。
 自分の演奏を聴いて「いい演奏だ」と思える日が来るまで、人の演奏を聴いて感動することも大切な「貯金」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介