メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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無信仰でも演奏します

 映像はカッチーニ作曲の亜アヴェ・マリア。
私自身、神様や仏様を信仰する人間ではありません。だからと言って、信仰する人を変だとは思いません。何かを信じる気持ちは、人間が想像する力を持っていることの証だと思っています。あ。「想像」なんて言ったら怒られるのかな(笑)
 通っていた幼稚園はキリスト教系の幼稚園でしたが、両親ともに無宗教でしたし、家にはお仏壇もありませんでした。そんな私が演奏する「アヴェ・マリア」がインチキ(笑)だと信者の方に言われるのかもしれませんが(言わない?)楽譜として手に入る音楽や、普通に耳にすることのある音楽は、誰のものでもないと思うのです。所有権の問題ではありませんからね(笑)

 宗教的な音楽に限らず、世界中に多数存在する民族の「伝統的な音楽」があります。時間的に何十年、何百年経過したら「伝統」になるのか定義は知りません。音楽の場合、人から人に「歌い継がれて」現代も演奏される音楽と、「作曲者が楽譜に残した」音楽があります。さらに「録音が現存する」音楽も、歴史としては短いながらも、あります。
 日本でも「雅楽」「民謡」など伝統的な音楽があります。演歌を「日本固有の音楽」と言えるかどうかは意見の分かれるところだと思います。
 地球が一つの大陸だった頃から始まり、恐竜がそこら中にいた時代を経て、巨大な隕石の衝突などで地球上に氷河期があって…とにかく、恐ろしく長い年月をかけて人類が誕生した「歴史」があります。
 音楽がいつ?始まったのかを答えられる人はいません。
そもそも、どんな音を「音楽」に感じるのか?音楽と言える音とは?
なんて考えだすと、良く寝られそうです(笑)

 一人の人間が、生まれてから物心がつくまでの期間に、聴いて育った音楽のほとんどは、覚えていないのが普通です。「胎教」とか「英才教育」をどこまで?科学的に証明できているのか知りませんが、まだ解明されていない「遺伝子」の中には、自分のご先祖様が聴いていた音楽に反応する「能力」が…ないのか、あるのか(笑)
 私たちが演奏する音楽は、いわゆる「西洋音楽」です。西洋って…じぶんんおおざっぱですね。いいんですけど、別に。
 少なくとも、私のように日本で生まれ日本で育った両親の愛第二、同じように日本で生まれ育った「日本製」の人間にとって、日本の音楽もヨーロッパの音楽も「音楽」であって、特別な違いを感じないのですが?
 それは私が生まれた1960年当時にはすでに、西洋で作曲された音楽が、日本中で流れていたはずですから、当たり前だと思います。生まれてからずっと、民謡以外の音楽を聴かずに育った人が大人になって、ある日ベートーヴェンの運命を生で聴いたら?「うるせぇな!」と思うかも。

 ヨーロッパに留学した音楽家の皆さんが「作曲家の暮らしていた土地に行ってみると、何か感じる」とおっしゃるのを度々耳にします。私は、留学経験が一日もない人間ですので、その「感覚」は想像できないのかもしれません。
 ひがみっぽく感じるかもしれませんが、留学した人たちの「感じる」ものは、先述の「想像力」だと言えます。確かに、写真や映像、音を聴いただけでは感じられない「香り」と「肌に触れる空気」は、その場でしか感じられない五感の一つです。それは外国に限らず、海辺、山道、雪道などでも感じられる感覚です。
 信仰する人は、神様や仏様を感じると言います。また、愛を感じると言う言葉もあります。それらは、人間の五感ではなく「想像力」で生まれるものだと私は思っています。現実に存在するものではないのです。ちなみに「空気」は目に見えないし触った感覚がないだけで、現実に存在しています。その証拠に、空気のないところに行けば…苦しくなって気付いた時には、違う世界にいます(笑)
 音楽は「音」です。空気の振動です。確かに存在します。
音を聴いて、何かを感じるのは人間の想像力です。そこに「民族の血」や「作曲家の魂」やら「思い」を感じようとするのは、人間の欲望です。それが悪いとは思いません。人間は欲の塊ですから(笑)
 感じる人が優れているような伝え方には、不快感を感じます。
自分の想像したものを、他人に求めるのは、ただの押し売りです。何も優れてい入ません。ショパンの心に触れた!とか、聴くと「こいつ大丈夫か?」と思うのは失礼でしょうか(笑)とは言え、想像するのは自由です。敢えて言うなら、それを「想像できたから●●が出来た」と他人に言うのも、ご本人の自由ですが、信じない人からすると「変な人」にしか思われないと思います。

 想像したことを、言語化するのが逃げてな人はたくさんいます。
現実には存在しない「もの・こと」を言葉にするためには、言葉のボキャブラリーが必要です。人間の「五感」をすべて使って、イメージを言語化すると、案外簡単に言葉に出来ます。
・触った感覚=やわらかい・冷たい・つるつるなど
・見える感覚=明るい・まぶしい・立ちはだかる・落ちていくようななど
・聴こえる感覚=ささやきのような・遠くの雷鳴・せせらぎなど
・味の感覚=甘い・からい・酸っぱい・舌の上でで溶けるなど
・香りの感覚=自分の好きな花の香り・ご飯前の台所の香りなど
音楽から想像する「もの・こと」は、なんでも良いのです。
正解も間違いもありません。人によって違って当たり前です。
想像「できない」のではなく、「していない」のです。
子供でも大人でも、記憶にある「五感」があれば何かを想像できるはずです。
出来るなら、自分の好きな「五感」を寄せ集めて想像しながら演奏したほうが、演奏していても気持ちいいはずです。わざわざ「苦しい」「悲しい」「辛い」「痛い」「臭い(笑)」五感を想像しながら演奏する必要はありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 
 

集客とラーメン屋の関係

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した「ふるさと」ヴィオラとピアノバージョンです。このアレンジでヴィオラとピアノで演奏しているのは、恐らく私たちだけ。完全に「耳コピ」による演奏です。その意味ではオリジナルの「カバー」でもあり、演奏スタイルで言えば私たちのオリジナルです。

 さて、今回のテーマはちょっと大胆な(笑)考察です。
クラシックコンサートを開いても、お客様が来てくださらなければ、コンサートとして成立しないばかりか、主催者にすれば「大赤字」です。その状態が続けは次回のコンサートを開催する資金も、やがて底をつきます。演奏者へのギャランティも主催者が自腹で支払うことになります。演奏者自身も苦々しい思いをすることになります。仮に、200名収容できるホールに、来場者が数名だとしたら…
考えただけでもむなしい光景です。来場者も同じ気持ちになるでしょう。
 同じホールで満席の来場者があれば、演奏する人も嬉しいでしょうし、お客様にしてもどこかしら「満足感」を得られるものです。
 では、クラシックコンサートの集客は、どうすれば良いのか?どうするとダメなのか?考えてみます。

 前提になるのは以下の項目です。
・有料のコンサートである
・プロの演奏者が演奏する
・広報費・会場費などの経費が必要
・演奏者と主催者が利益を得られること
逆に考えれば、無料で利益を考えなくて開く場合は前提が変わってきます。
 上記の前提で考える場合、来場者が何を求めているのかを探る「マーケティングリサーチ」が不可欠です。入場者数は演奏者によって、恐ろしいほどの差があります。一言で言えば演奏者の「知名度」による差です。その知名度は?話題になっている演奏者かどうか?に尽きます。ただそれだけです。テレビに出ている人。最近のコンクールで入賞したニュースが流れた人。マスコミが取り上げた人…要は「有名人」なら人が集まると言ういたって幼稚な原理です。
 知名度に関係なく集客できるコンサートは開けないのでしょうか?

 さぁ!ここでラーメン屋さんの登場です(笑)
チェーン展開のラーメン屋さんと、そうでない「街のラーメン屋さん」がありますよね?チェーン店の場合、どの店で食べても同じレベルの味が提供されます。店による個性はほとんどありません。一方、街のラーメン屋さんの場合、そのお店でしか食べられない味があります。
 食べる人それぞれの、好みの問題があります。考え方も違います。
今回、チェーン店を「有名人のコンサート」に置き換え、個人経営のお店を「有名ではない人のコンサート」に例えてみます。
 強引と思うかもしれませんが、チェーン店の場合には店舗数と来店者数、さらには企業の規模が個人店とは比較にならない「大きさ」です。言ってみれば「知名度が高い」ラーメン屋なのです。一方、街のラーメン屋さんは、広告宣伝費もなく、来てくれた人の「口コミ」と「リピーター率」が生命線です。
 よほどのラーメンマニアでなければ、初めての街で知らないラーメン屋さんに入るのは、かなり勇気と決断が必要ですよね?「大丈夫か?」って思います。
チェーンラーメン屋さんがあれば「ま、ここでもいいか」って思いますよね?
 つまり、あまり関心のない人にとって「安心感」が優先するのです。リスクを避けたいのです。コンサートで言えば「あ、この人テレビで見たことがある」という人のコンサートの方が安心なのです。
 では、チェーン店のラーメンはすべて美味しいのか?と言われれば、答えは違ってきます。さらに言えば、個人経営のラーメン屋さんの方が、美味しい場合も当然あるのです。ここからが「勝負」です(笑)

 何よりも「個性」が大切です。個性とは「奇抜」と言う意味ではなく「コンセプトの独自性」です。他のラーメン屋さんにない「その店ならでは」がなければ、チェーン店に太刀打ちできるはずがありません。では何が?個性になるでしょうか?
1.はずは、食べて=聴いてもらうための独自性(工夫)
・他のコンサートにない選曲
・親しみのある曲を含んでいる
・演奏者の人柄を感じられる広告
・初めての人でも安心できそうな内容と価格
2.リピーターになってもらうための内容
・聴いていいて「負=マイナス」の要因を感じさせない
・もう少し=もっと聴きたいと思える内容と時間
・演奏者の人柄を感じられる内容
つまり「最初のきっかけ」と「その後の印象」を、一人でも多くの人に感じてもらう事しか方法がないと思うのです。当然、時間=繰り返す回数が必要です。
最初から多くのファンを集めることを望むのは間違いです。知らないのですから。どんな企画(業種)でも「最初は人が集まる」ものです。それは好奇心によるものです。北海道新幹線、然りです。珍しいから乗ってみる。でも飛行機の方が便利だから二度目はない(笑)
 ラーメン屋さんで言えば「メニュー」にあたるのが「演奏者と演奏曲」です。
あるお店の醤油ラーメンが大好きで、行くたびに食べていても、たまには!塩ラーメンも食べてみたいかな?(笑)
 通常、コンサートは、同じ演奏者の場合でも毎回のように曲目が変わりますよね?しかし、コンサートのコンセプトは変えるべきではありません。お店の「個性」を捨てるのと同じです。
 長く愛される街の飲食店には共通点がたくさんあります。
お客様と店主の「信頼関係」です。物=商品ではなく、人同士の絆があってこそ「名店」になれるのだと思います。
コンサートの場合も同じではないでしょうか?演奏そのものが大切なのは、ラーメンの味と同じです。ただ、コンサートに「人」を感じることが非常に少ない気がしませんか?特にクラシックコンサートの場合は顕著です。「ファン」を大切にしないコンサートに、お客様は二度と来ないのは当然です。どんなにラーメンが立派でも、店員の態度が悪ければ、二度と食べたくないですよね?
 「無名のコンサート」で良いと思います。何度も聴きに来てくれる人が増えれば、それで利益は生まれます。その人が友達を誘ってくれればさらにリピーターを増やせます。時間をかけて!無名万歳!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

表情・動きと音楽表現

 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

https://youtube.com/watch?v=h0YpPbjqRpA

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本に唯一のNPO法人オーケストラ

映像は、NPO(特定非営利活動)法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会での「ダッタンの踊り」です。今回、初めて挑戦したボロディンの作品。壮大なスケールと圧倒的なエネルギーに満ちた音楽を、アマチュアの会員と音楽家の仲間たち総勢68名で演奏しています。
 演奏の細かい傷はあります。多くの原因はアマチュア会員の技術の限界と、当日の午前中1回だけのリハーサルで、午後に演奏会と言う条件によります。
もっと何回もリハーサルをすれば、もっと演奏のレベルが高くなるのは当然です。しかし、営利を目的としない「NPO」として、演奏会に係る費用、練習に係る費用のすべてを会員と賛助会員の負担で行っているので、これが限界です。
毎月一度の練習に集まる会員が、約半年間練習して当日を迎えます。
リハーサルで初めて全員が揃うことにも慣れました。当日にすべてのプログラムを2回ずつ演奏するわけで、体力的な負担も大変なものです。
 これまで20年間、積み重ねてきたのは演奏技術だけではありません。
何よりも「人との絆=人の輪」です。このメリーオーケストラにしかない、個性があります。

 ジュニアオーケストラではありません。大人のメンバーもいます。
一般のアマチュアオーケストラと違い、目的と活動内容は定款によって決まっています。オーケストラの収支や活動内容を毎年、役所に提出します。法人ですから法人税の対象となりますが、減免申請することで免除されています。税務署への申告も必要です。それら多くの「事務」をこなしながらの活動になります。

子供も大人も高齢者も、初心者もプロも、クラシック好きもジャズ好きも。
演歌も、ミュージカルも,J-POPも、クラシックも。
演奏する人と聴く人が、誰一人取り残されないコンサートです。
それぞれに特化したオーケストラがあります。
演奏技術の高さで考えるなら、プロオケよりうまく演奏できるはずがありません。
子供だけに限定すれば、大人は参加できません。
継続しないオーケストラなら「寄せ集め」で事は終わります。
営利を目的としたオーケストラではない事を公的に認められたオーケストラです。入場料を頂かないコンサートを継続するために、会員の会費と賛助会員の賛助会費で運営します。会員でない「プロ」たちに、謝礼をお支払いできない事情があります。それでも参加してくれるプロがいるのは、彼らが本当に音楽を愛し、子供たちと市民に音楽の楽しさを伝える「魂」を持っているからに相違ありません。そんな音楽仲間を心から尊敬します。

 日本で唯一無二の「NPO法人オーケストラ」は音楽業界に取り上げられることもありません。非営利という言葉が「偽善」に聞こえるのは無理もありません。
株式会社としてオーケストラを立ち上げたと言うニュースは話題になりますが、
演奏家の営利をいくら前面に押し出しても、日本の音楽文化は変わらないと考えています。

演奏家が演奏して、多くの人が聴きにくれる環境を作ることが何よりも先決です。文化はお金で買えません。人々が欲することが「文化」になるのです。需要のない娯楽、一時的な流行は文化として根付きません。
 オーケストラって面白いねと、子供でもわかるものでなければ、本当の文化だとは思いません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長 野村謙介


手作りの味~退化する日本人

上の画像は2022年8月7日に実施する、NPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会で使用したチラシ=ポスターの素材と出来上がったものです。
毎回のように、会員が手書きで書いてくれる素敵な「書」で作っています。
一文字でコンサートへの思いを表すのも、ずいぶん長く続いています。
パソコンで「行書体」などの様々なフォントを使えるようになった現代ですが、人が書く味わいのある文字は、見る人を惹きつけますね。

 スマホ、クラウド、コンピューター、デジタル、AIなどなど、私たちの生活は年々「機械化」されて「便利」になっている反面、人が手で作る暖かさも消えていく気がします。私(昭和35年生まれ)の場合、小学生の頃の記憶にある「機械」は、現代の若い人からは想像もできない「不便」なものです。
洗濯機は、手でハンドルを回して洗濯物を絞る「機械」が付いていました。
お米はお釜かお鍋で炊いたものを「ジャー」に入れていました。
温めなおす時には「蒸し器」を使っていました。テレビは白黒で、チャンネルもボリュームもテレビの前面についていて「リモコン」なんてありませんでした。
電話は「黒電話」当然、ダイヤルを指で回していました。
コピー機が出来たのは恐らく中学生頃です。それまで、楽譜は買ったものか手書きで写したものでした。
 そんな生活に不便さを感じることはありませんでした。当たり前だったのです。私の親世代、さらにその親世代の人たちにすれば「なんて便利になったんだ!」と思っていたはずです。
 生活が便利になるのは、良いことです。それは間違いありません。
ただ、その陰で人が「退化」していることも事実です。
運動機能が退化するだけではない気がします。
「感覚」も退化している気がしています。特に「人に感謝する気持ち」が退化していることを悲しく感じます。
 自動的に機械がやっている…と思い込めば、ありがとう!と言う言葉が消えていきます。料理も、書類も、音楽も「人が作っていない」と思えば感謝の気持ちは生まれません。とても恐ろしい気がします。

 生活する中で、不便に感じたり不満に感じることがあったとき、それを解決してくれるのは「人」です。不便や不満を解決するために「機械」を作っているのは人間です。ただ、実際に動くのは機械なのです。
 テレビに映っている人、ヘッドフォンから聴こえる音楽を演奏している人は、確かに私たちの眼の前にはいません。「仮想」の世界です。
 冷凍食品を作っている人がいます。味付けや食感を研究している人がいます。
でも電子レンジに入れて「チン」で料理が出来上がります。
 いずれ、テレビに映る人、演奏する人、料理を作る人が「ロボット」になる時代が来ます。見る、聴く、食べるのが「人」になる時代です。それが進むと、その人さえ「ロボット=機械」になる時代が来ると思いませんか?
 機械が機械を作る技術は、すでにあります。今は人間が「指示」を出していますが、やがて機械が支持を出す時代が来るはずです。
 生物としての人が感じる、喜びや悲しみは機械には不要です。
感情が退化することが、人類の終わりを意味していると思います。
便利の陰に隠されている「ありがとう」の気持ち。
忘れたくないですね。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

10代のオーケストラと40歳の顧問・指揮者のエネルギー

 2001年3月、横浜みなちみらい大ホールでの演奏。
中学生・高校生のオーケストラ(ハープだけはプロ)の演奏です。
パイプオルガンも当時高校生。指揮をしている私が40歳。
 演奏の技術、オーケストラの完成度以前に「エネルギー」がハンパないです。
このホールで演奏会を開いて2回目でした。子供たちが生き生きと演奏している姿。指揮者がぐいぐい笑引っ張る「むちゃぶりしています。
 今、振ったら楽をすることを考えそうです。子供たちの「テンション」を上げ続けることが顧問としての第一の仕事。学校の反対を理論でねじ伏せ、客席を満席にすることを条件に開く演奏会なって、どこかおかしいですね(笑)会場には、紺離職はおろか、顧問以外の教員は一人も顔を見せず「そこまで嫌うか?」
 若い人の持つ「情熱」は、どんな技術にも勝ります。
今は今で「楽しむ」技を覚えた私です。この生徒たちも今は「おじさん・おばさん」の仲間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「すそ野」を広げるのも音楽家

 映像は、メリーオーケストラのリハーサル風景です。
音楽はどんな人でも公平に得られる「楽しみ」です。ハードロックでもジャズでも演歌でもクラシックでも、音楽であることは変わりません。人それぞれに、好きな音楽があって当たり前です。音楽に関心のない人がたくさんいるのも、当たり前です。音楽が「つまらない」と思う人もいます。その理由も様々です。
 音楽を演奏して楽しむ人が、聴いてくれる人も楽しんでもらえたら、演奏する楽しさは何倍にも大きくなります。聴いてくれる人が減っていけば、いずれ演奏する人も減り続けていきます。
 クラシック音楽の演奏技術を学ぶ人にとって、目指すのは「一流の演奏家」です。少なくても「三流の演奏家」「へたくそ」と呼ばれたくて学ぶ人はいないのでは?と思います。演奏技術を高め、競争に勝ち抜き、演奏家としての「名誉と地位」を得た人が「一流の演奏家」なのでしょうか?

 演奏技術に「序列」を付けたがる人もいます。その人が思うだけなら、何も問題はありません。厳密には「○○さんが一番うまいと私は思う」と言うだけのことです。それを言葉や文字にするのも、その人の自由です。
 うまい・へたと感じるのは「個人の感性」であり、音楽を聴いて楽しいと思えるか?つまらないと思うか?も「個人の感性」です。先に述べたように、音楽は本来「楽しい」と感じられるもののはずです。技術を競い合うための物ではありません。どんなに演奏技術を高めたとしても、聴いてくれる人が「楽しそう」と思わなければ聞いてもらえないのです。

 音楽を聴くこと、演奏することに興味や関心のない人の方が多いのです。特にクラシックの演奏会、オーケストラの演奏会に行ったことのない人の方が、圧倒的に多いのが現実です。その現実を少しでも変えていくことが「音楽のすそ野を広げる」ことだと信じています。
 音楽を聴くことが楽しいと思ってもらえるために、何ができるでしょうか?
演奏会に「行ってみようかな?」と思えるコンサートを作ることです。
休日の昼間に、入場無料で子供連れでも赤ちゃんと一緒でも聴けるコンサート。
曲目の中に「タイトルを聴いたことがある」曲や「知っている」曲を含めること。
クラシックを知らなくても楽しめる「雰囲気」を感じられるプログラムにする。
これらを具現化したのが、メリーオーケストラの演奏会です。
 実施するために必要な「お金」を演奏するアマチュアメンバーの会費と演奏会参加費、さらに活動に賛同してくださる「賛助会員」からの賛助会費で賄っています。プロの演奏家には「交通費」しか支払えません。それが現実です。それでも毎回、多くのプロの演奏家が参加してくれています。
 彼らの協力がなければ、この活動は維持できません。アマチュアメンバーだけでも演奏会は開けますが、聴いてくださる人への「インパクト」がまったく違います。それこそが「演奏技術」なのです。アマチュアにはできない演奏をプロが出来るのです。その演奏を聴いた人が「楽しい」と思ってくれれば、プロの演奏会にも「行ってみようかな?」と思ってくれる信じています。
 演奏技術が高くても、演奏する場がなければ「宝の持ち腐れ」です。
未来の演奏会に、一人でも多くのお客様が聴きに行ってもらえるための活動を、誰かがしなければと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

性格と音楽

 映像はメリーミュージック駅前教室で行った「ワンコインコンサート」で演奏した、カッチーニ作曲のアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏しています。
 さて、今回のテーマは人それぞれに違う「性格」と音楽の関りについて。
自分の性格が「どんな?」と考えたこと、ありますか?
他人の性格は、行動や表情、言動から感じるものです。その本人が感じている本人の性格とは違う場合もあります。一緒にいる時間が長い人ほど、その人の性格を感じる場面があります。家族や同じ職場の人、友人など。
 自分の感じる自分の性格は、他人と比較しない限り「普通」に感じているものです。たとえば、待ち合わせの時間に「5分」遅れることが、許せない人もいれば、そのくらいなら…と思う人もいます。「え?5分ぐらい仕方ないでしょ?」と思う人は、5分でも送れるのが嫌な人と自分の違いを初めて感じます。
 性格を表す時に使われる「分類」
1.ポジティブ(楽観的)⇔ネガティブ’(悲観的)
2.のん気⇔短期
3.おおざっぱ⇔几帳面
4.外交的⇔内向的
5.行動派⇔慎重派
6.積極的⇔消極的
7.寛容⇔厳格
8.強気⇔弱気
などなど、ほかにも考えられますが色々な「性格の違い」があります。
 上記の中で、いくつかを組み合わせるともっと性格がはっきりします。
試しに、左側だけを並べると以下のような「人」になります。
ポジティブでのん気、おおざっぱで外交的、行動派で積極的で強気
なんとなく、「元気で明るい人」に感じますね。
逆に右側だけ選んで並べると…
悲観的で短気で几帳面、内向的で慎重派、消極的で厳格で弱気
この人「ネクラで付き合いにくい人」に感じませんか?
(笑)

 では、性格と音楽はどんな関係があるでしょうか?
まず「練習」の段階で性格によって、何が違うでしょう。
自分の演奏に「こだわり」が強い人は、恐らく「几帳面」で「厳格」なタイプではないですか?その上に「悲観的」と「短気」が加わると、すぐにイライラします。できるまで繰り返す人は「積極的」「寛容」な面がありますよね。
逆に、なんとなくぼんやり音楽を楽しんで練習する人は
「ポジティブ」で「のん気」「おおざっぱ」で「寛容」なタイプ。
人によって性格は様々です。自分の練習方法を冷静に観察することが、まず第一です。練習方法も人それぞれですから「正解」はありません。
 日常生活で気付かない自分の性格が、練習の効率を下げている可能性もあります。特に練習時には「短気」は禁物です。「うまくならない」と思い込むのは「悲観的」で「短気」な人が多いようです。

 
 人前で演奏する時に、あがる=過緊張になる人は「悲観的」「消極的」で「厳格」「弱気」な人が多く見られます。
 演奏に個性があるのは素晴らしいのですが「癖」に感じる演奏をする人は、
「強気」で「厳格」「内向的」な人に感じます。
 音楽を聴いていると、その人の性格を感じることがあります。
自分の演奏にこだわりを持ちながら、聴いている人を楽しませ、謙虚な気持ちを感じる演奏家と、その「逆」の演奏をする人がいるように感じます。
それが「性格」でないとしたら、ほかに原因があるでしょうか?
「うまく弾きたい」と思う気持ちの強さは性格で変わります。
他人から評価された自分の演奏を、どう受け止めるかも性格次第です。
他の演奏者と協調できるか?も性格です。他人のせいにするのも性格です。
「性格が悪い」と言う悪口があります。実際には悪いのではなく、多くの人に嫌われる性格だったり、自分の嫌いな性格のことです。
性格を変えることは、本質的には無理かもしれません。でも、音楽を演奏するのであれば、自分の性格の「欠点」「改善点」を謙虚に見つめることが必要です。
 人の性格は、「話さず」「目立たず」「人に会わない」なら誰にも知られません。音楽を演奏する「行為」は、自分の感情を人に伝えることです。性格は隠せません。だからこそ、自分の性格を考えることが大切だと思うのです。
他人に言われると腹が立つ!のであれば、自分で考えるしかないのです。
「普通」「当たり前」「それしかできない」と思い込まずに、自分を改善する気持ちを持ちたいですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

優しい演奏は易しいか?

 演奏は、私と浩子さんのCD「Tenderness」に収録した「ハルの子守歌」
渋谷牧人さんの作品を、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
前回のブログ「レッスン」で私が書いた「指導者のコピー」についての私見にもつながりますが、2022年の世界で一番大切なキーワードは「優しさ」ではないでしょうか。

 国際コンクールで技術を競い合う事より、もっと大切なことがあると思うのです。もっとはっきり言うなら、音楽で競いあう時代はもう終わっていると思うのです。「ソリストの〇〇さんより上手に演奏する」ことを目指すことに、私は意義を感じません。演奏家に求められているのは、聴く人の心を和ませ、穏やかな心にしてくれる演奏ではないのでしょうか?怖い顔をしながら演奏する音楽に、人は癒されないと思うのです。「癒しだけが音楽ではない」ことはわかっています。人を勇気づける音楽もあります。故郷を思い出す音楽もあります。激しい音楽もあります。ただ、どんな音楽であっても、演奏している人の「暖かさ」を感じない演奏が増えている気がしてなりません。それは、習う人の問題ではないと思います。教える側の責任です。教える立場になったとき、自分の経験で得た技術を、生徒に伝えるのは大切なことです。技術は教えられても「音楽」はその人、固有のものです。神様でも仏様でもない人間が、他人に自分の「感覚」を伝えることは不可能です。自分の表現を、生徒に「真似させる」ことは実は難しい事ではありません。教えられた生徒は「うまくなった」と勘違いします。自分の感覚で作ったものではない「形=表面」をいくら練習しても、自分の音楽にはなりません。生徒に「安直にうまくなれた」と思わせるのは、生徒に喜ばれます。「上手ね」と言われているのと同じことです。

 人間の優しさは、その人の音楽に現れると確信しています。
一方で、人間の「強さ」は他人に見せびらかすものではありませんし、「強がる」人間は自分の弱さを隠しているだけだと思います。「誰かに負けない」と言う発想は強さではありません。それは他人が自分よりも弱いことを願っているだけなのです。戦争をしたがる人は、自分では決して血を流しませんよね?それと同じです。
 CDに書いた言葉です。
強くなくても
目立たなくても
すごくなくても
優しい音が(人が)

好きだから

  他人に優しくすることは、一番難しいことだと思います。
聴いている人を「優しい気持ち」にする演奏は、自分が他人に優しくなければできないと思っています。演奏の技術にしても、人を驚かせる演奏より、人を優しくさせる音楽の方がずっと難しいと思うのです。
「北風と太陽」のお話みたいですが、今の時代に「北風」を感じる演奏よりも、「太陽」を感じる暖かい演奏が必要だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

愛のある「演奏」と後味の悪い「チャラ弾き」

 今回のテーマも、きわめて個人的な「私見」ですので、お許しください。
始めに書いておくと、これから書く内容はあくまで「演奏家」に対して思う事であって、趣味の演奏者=アマチュアの人への差し出がまし意見ではありません。特に、若い演奏家、あるいは演奏家を目指す学生たちへの「はなむけ」と、街中で繰り広げられる「ストリート△〇×」に感じることです。

 演奏に愛を持っているか?
大上段から切り込みましたが、プロの演奏家として演奏する人が、持つべきものはたくさんあると考えています。「誇り=プライド」も大切です。「責任感」がなければ職業とは言えません。「技術」は自分の出来る限りの努力で身に着けるものです。何よりも「人への感謝=愛」だと私は思います。自分への愛も含め、親、師匠、作曲者、聴いてくれる人、支えてくれるスタッフなど、演奏できることへの感謝があってこそ、聴いていて「心地よい」演奏、料理で言えば「おいしい=愛情のこもった手作り料理の味」だと思います。
 下の動画は私が好きな演奏家の動画を三つだけ選ばせてもらったものです。

 今回の動画はこれだけです。「チャラ弾き」だと感じる演奏については、ご本人のプライドもありますし、あくまで私見ですので「これ!」と言う具体的な指摘は致しません。
 上の演奏は単に「すごい」だけではなく、感じるものがあります。
直接、ご本人に伺ったわけではないので想像でしかありませんが、どの演奏にも演奏者の「こだわり」を感じるのです。速く演奏するためだけに練習したとは思えません。速く演奏すること以上に、その音楽への愛情を感じます。「好きなんだろうな~」と聞いていて感じるのです。

 一方で私の考える「チャラ弾き」の定義です。
・自分の演奏する音楽を、深く考えずに演奏している。
・聴いてくれる人への「敬意」を感じない。
・その場の「受け」を優先している。
 それが演奏者の本位でない場合も当然にあることです。
聴いていて・見ていてそう、感じるという意味です。
私自身が音楽を学び、ヴァイオリンやヴィオラを演奏し、生徒さんに演奏を教える「生活」をしているから感じる面もあります。
 つまり、一般の人=演奏家でない人や、私の先輩や師匠の皆様が感じられるものは、私と違って当然だと思うのです。
 演奏を聴いて後味の悪い印象を感じる演奏が「チャラ弾き」です。
料理で言えば、明らかな「手抜き」の「レンチン」「レトルト」料理を食べ終わった後の感覚に似ています。断っておきますが、私は近頃の「冷食」大好きです。屋台のラーメン、お好み焼き、たこ焼きも大好きです。
 母の作ってくれた料理は、決して見た目の綺麗な料理ではありませんでした。
「野村家」のカレーは、両親が辛いものが大嫌いだったので「辛くないカレー」でした。今思うと、もしかするとハヤシライスに近い食べ物を「カレー」だと思って育ちました。それでも、そのカレーが大好物でした。家族への「愛」が甘いカレーを作ったのだと思います。
 料理に「インスタント」はあってしかるべきだと思います。手軽に作れて、栄養もとれるのですから、むしろ素晴らしい食べ物です。
 ではプロの演奏家に「インスタント」は許されるのでしょうか?
・楽譜をただ、何も考えずに演奏するだけ。
・ただ速いだけや音量が大きいだけの演奏。
・聴く人によって演奏のレベルを変える=わからない人だと思えば適当にごまかして演奏する・試験になると減点されないだけの演奏をする。

 聴く人がだれであっても、自分の出来る限りの演奏をするのが「プロ」だと思います。自分の演奏技術の「ひけらかし」が通用する相手としない相手がいるのは事実です。通用しないと「つまらない演奏」でも減点されない=まちがえない演奏に終始するのは、根本的に間違っています。技術は、聴いてくれる人に自分を表現するための「手段」です。自分を表現しない演奏は、音楽ではなく「音=ノイズ」です。雑音でなくても「音」でしかありません。
 ストリートピアノにも様々な演奏があります。
演奏者の「愛」や「魂」を感じる演奏もあります。
アマチュアの人が、楽しんで演奏しているYoutube動画は、ほほえましく見られます。一方で「まさか…音大生?じゃないよね…」と思われる映像を見かけると、ぞっとするのは私だけでしょうか。だれか言ってあげないのでしょうか。それ、今後の仕事に差し支えるからやめたら?と。本人の価値観ですから良いのですが、プロの演奏家として生活することを「なめて」いるとしたら、大間違いですよね。はい。老婆心でした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介