楽譜に書かれていないこと

 映像はデュオリサイタル14で演奏したピアソラの「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブ。
 楽譜に書かれていないことって?ダウンやアップ?指使い?
もちろん、楽譜によって指使いの指定やボウイングの指定があるものと無い楽譜があります。今回はそれ以外に書かれていないこと…例えば音色やグリッサンド・ポルタメントの有無、微妙な音量の変化や音符の長さの変化についてです。
 楽譜の通りに演奏することがクラシック音楽ん基本でもありますが、他方で演奏者の個性は楽譜に書かれていない「演奏技術」で決まります。極論すれば演奏者の感性とこだわりが発揮されるのが「楽譜に書かれていないこと」です。
 特にクラシック以外の演奏になるとやたらとグリッサンドやポルタメントを多用するヴァイオリニストが増えます。大いなる勘違い(笑)だと思います。グリッサンドすれば「色っぽい」と思い込んでいるのかもしれません。ポピュラー音楽の中で「演歌」でもこのポルタメントは「肝=きも」でしか使いませんよね。ロックギターのチョーキングやアーム奏法でも効果を考えて使います。
 楽譜に書かKれていないからこそ、演奏者の「品」が問われます。下品にならず、かと言って淡白でもない演奏はグリッサンドだけで表現できるはずがないのです。
 バッハの音楽を演奏する時に「しない」事は基本ポピュラーでもしないのが当たり前です。意図的に色を付けるために一種の「効果音」として考えるべきだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小品の定番曲?

 映像は今から14年前!デュオリサイタル2杜のホールはしもとでの演奏動画です、二人とも…若いと言うか(笑)当たり前ですが14年年月が経てば見た目も中身(笑)も変わるのが人間です。変わっていないのは使っている楽器ぐらい。
 変わらないものの一つに「曲=楽譜」があります。演奏は言うまでもなく毎回違うものです。今回のテーマ「小品の定番曲」ですが、私たちが演奏する曲は主に「小品」と呼ばれる曲です。厳密な定義はありませんが、小品とは呼ばないものに「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」や「ヴァイオリン協奏曲」があります。編成=演奏人数の問題ではなく、1曲の演奏時間が短い物や、楽章が複数「ない曲」が小品と呼ばれるようですね。
 愛の挨拶はエドワード・エルガーの作品です。エルガーは愛の挨拶の他にも多くのヴァイオリン小品を残しています。またヴィオラのための小品も書いています。ヴァイオリンの小品が演奏されるのは、なぜか?小品ではない曲のコンサートで「アンコール」と言うケースが多いのは事実です。ヴァイオリンの小品は「デザート」的な扱いなのでしょうか?

 多くのヴァイオリンとピアノで演奏する小品を書いたフリッツ・クライスラー。自身が演奏するための曲を作曲し、数多くの作品を残しました。代表作の一つ、愛の悲しみの演奏動画。

 こうした小品を文学に例えるなら短編小説や詩などに近いものがあります。
また食事に例えるならソナタや協奏曲がコース料理で、小品は「一品料理」かも知れません。いずれにしても読む人や食べる人がその時々に選べるものです。
 コンサートで小品だけを演奏するのは、いわゆるクラシック音楽マニアからすれば本来の楽しみ方ではないと言われるかもしれません。演奏する人と聴く人が同じ楽曲構成=プログラムを求めていれば他の人が口を挟む意味はありません。バッハの無伴奏ヴァイオリン曲6曲をすべて演奏するコンサートを「聴きたい」と思う人がいても不思議ではありません。同様に小品だけのコンサートで楽しみたいと言う人もいるはずなのです。
 短い音楽が軽薄で、長い演奏時間の曲が崇高だとは限りません。
小品を組み合わせる難しさもあります。言ってみれば色々な料理を少しずつ楽しめることに似ています。フルコースの料理もあれば、飲茶のような料理もあります。要は食べる人・聴く人のニーズに応えながら期待を超える完成度にすることが何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとヴィオラの聴き比べ

 今回のテーマは同じ曲を音じ人間がほぼ同じ時期に、同じ音域で演奏したヴァイオリンとヴィオラの音色の違いです。
 上の映像はデュオリサイタル7で演奏したロベルト・シューマンの歌曲「リーダークライス作品39」を前半はヴァイオリンとピアノ。後半の背景が赤くなっている動画はヴィオラとピアノで演奏しています。
 好みの問題が分かれるのは当然ですが、一般的にヴィオラはアンサンブルやオーケストラで「影の存在」と思われがちです。
 ヴァイオリンより低くチェロより高い音(笑)
そんな印象を受けるヴィオラですがただ単に音域の違いだけではありません。
ヴァイオリンに比べてボディーのサイズが大きく、低音の響きの量と質がヴァイオリンとは全く異なる楽器です。
 同じ演奏者が同じ曲を演奏するとより違いが明確になります。
ピアノと一緒に演奏することで音の熔け具合がわかります。
 ヴィオラ特有の音色は管楽器で言えばホルン・トランペット・コルネット・トロンボーン・チューバ・ユーフォニウムなどとの音色や音域の違いに似ています。サキソフォンでもソプラノ・アルト・テノール・バリトンなどの違いがあることはご存知の方も多いかと思います。
 私は原曲が歌曲の場合にヴィオラで演奏するのが好きです。
ぜひお聞き比べください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声と楽器の音

 上の映像はヴィオラとピアノで演奏したレイナルド・アーン作曲の「恍惚の時」下はカウンターテノールで歌っている映像です。
 音楽の演奏は「歌」と「器楽」に大別できます。
自然界の音や楽器の音ではない音…例えば金属をハンマーでたたく音を音楽の中に用いたりサイレンの音を用いることもありますが、一種の楽器として考えることもできます。
 歌声=人間の声と器楽=楽器の音に優劣をつけることは不可能です。
それぞれに「できること・できないこと」があって、人間が出せない高さ・低さの音を器楽では出せますが、楽器は言葉を話すことが出来ません。
 よく「〇△は人間の声に一番近い!」と楽器の音を例える人がいますが、根本的に人間の身体を音源にする声楽と、楽器が出す音を比較すること自体が無意味です。人の身体は「生命体」であり楽器はあくまでも「人工物」ですし、身体は部品を交換できません。
 人間の声は音楽の起源でもあります。どんなに古い楽器も人間の声より古くから存在した楽器はあり得ません。
 人間の声は人によってみんな違い、私たちは人の声を聴いて育ちました。
生まれつき聴覚が不自由な人たちにとって「音」は想像でしかありませんが、健常者にとって人間の声は生涯で一番たくさん聴く「音」なのです。無人島で一人生活していたり、独房で誰とも会わず生きている場合は別ですが。
 その声が音楽を奏でることが一番自然な音楽に感じるのは、考えてみれば当たり前のことです。どんな楽器より一番親しみのある音=歌声は唯一無二の存在です。歌う人によってすべて違う声…これは楽器でも同じことが言えますが「好きな声」と「嫌いな声」は不思議なことですが生理的にあるように思います。
 話し方…とは違い、声の質の問題です。その意味では声楽家の場合、持って生まれた「声」で音楽を奏でる宿命ですから、器楽とは全く違いますね。
 楽器の演奏で最も大切なことは「聴く人にとって心地よい音であること」だと確信しています。人によって好みがあって当たり前です。聴く人すべてが心地良く感じる音は存在しません。それも現実です。歌声でも同じです。
 人間らしい器楽の演奏
先述の通り器楽は声楽=声では出せない高さや速いパッセージを演奏できます。
ただそれは単に楽器の特質であり演奏者の技術とは無関係です。
速く正確に高い音や低い音を演奏できる「だけ」の演奏にならないように常に気を付けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の前に

 ヴァイオリンを練習しようと楽器と弓を手に取って、調弦をして…
その次に何を?練習しますか?スケール=音階・エチュード・曲
 長い時間をかけて練習することができない環境の人も多い上に、何を最初に練習するのか回も決まっていない人が圧倒的に多いのが現実です。
 これが正しいと言うものはありませんが、ヴァイオリンの演奏で最も大きな運動をする右腕の筋肉をストレッチする「ウォームアップ」をお勧めします。
 上の楽譜の1番は♩=60でメトロノームを鳴らしながら、一つの音を弓の元から先まで残さずに使いながら(先が届かなければ無理をせず)一つの音符に4秒ずつかけて同じ音量・同じ音色で演奏します。
 4秒×2(ダウン・アップ)×7種類で56秒×2(上行と下降)で約2分です。
2番は2本の弦を弾きながら一方の弦だけを0→1→2→3→4→3→2→1→0と押さえていく練習です。この練習で約3分。二つの練習で5分です。
 ぜひ!お試しください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出の曲

 中学生の頃に学校のクラブ活動オーケストラで演奏した記憶の消えない「ミスターロンリー」当時はレターメンの歌が大好きでした。
 人間の記憶は最後まで残るのが嗅覚=香りの記憶だそうですが音楽と結びつく記憶もありますよね?
 人によって記憶はすべて違います。その人の「人生」が音楽によって蘇ることも素敵な事だと思います。
 単に懐かしい…と言う以上に当時の光景や人の顔が走馬灯のように思い浮かぶ瞬間があります。

 こちらは松田聖子さんの歌っていたスイートメモリーズ。ペンギンが(笑)
そんな音楽を自分で演奏する時「自己満足」にならないように、聴いてくださる方が初めて聴いて印象に残るような演奏をしよう!と心掛けています。
 同じ世代の方には懐かしい音楽ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

美しいメロディは枯渇したの?

 映像は1960年(偶然私の生まれた年)のフランスとイタリアの犯罪映画「太陽がいっぱい」のテーマ音楽をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 作曲は巨匠ニーノ・ロータ。この他にもたくさんの映画音楽を手掛けた大作曲家です。
 今回のテーマであるメロディの枯渇は60代の私が感じる「オジサンネタ」ですのでお許しください。
 映画音楽といわゆる流行歌の違いがあるとすれば「お金のかけ方」かも知れません。1970年代のようなアイドル全盛期にはひとりのアイドルを世に売り出すために、億単位のお金をかけていました。当然元手が取れたからです。
 バブルが始めた後から2023年に至るまで、日本の流行歌文化は低迷したままだと言って過言ではないと思います。大きな要因はビジネスとしてアイドル歌手を売り出すメリットがなくなったことです。その他の要因として「覚えやすいメロディの枯渇」があげられます。
 DAW(デジタルオーディオワークス)の普及で音楽を学んだ経験が全くなくても自宅で音楽を作って「それらしい」音楽が作れる時代です。
 中にはコード進行の知識もなく、ただ思いついた和音=コードで曲を作っている人も珍しくありません。それが当たり前になれば「1度→4度→5度→1度」の和声進行は忘れ去られるのでしょうか?
 一つの時代に生きている人の世代は年々広がっています。少子高齢化が進み昔よりも、高齢者の割合が増えている現代で「脈略のない和声進行」や「音域の狭いメロディ」が受け入れられるとは思いません。
 実際に現代の若い人たちの間でも1970年代のポップスを愛好する人が増えています。ファッションの復刻も含めて「メロディの覚えやすさ・美しさ」を求めている気がします。
 私たちのデュオリサイタルで演奏する曲を探す作業も年々難しくなっています。何よりも昔の美しいメロディの「アレンジ楽譜」が少ないことです。
 メロディだけならすぐにでも演奏できますが肝心のピアノアレンジが…楽譜としてあまりにも少ないのです。
 私たちの記憶にある美しいメロディを、もう一度素敵なアレンジで演奏してみたい!聴いてみたい!と願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

 映像はデュオリサイタル1で演奏したブラームス作曲ヴァイオリンソナタ第1番第1楽章。今から15年前、私たちの初めてのデュオリサイタルでの演奏です。
 この曲は私が20歳の時に初めてリサイタルを開かせてもらった時のプログラムに居れた曲です。当時は全楽章演奏し、ほかにバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番を演奏しました。学生時代からこの曲「だけ」は(笑)室内楽のレッスンを受けていました。
 一般にピアノソナタは星の数ほど(笑)あるのに対して、ヴァイオリンとピアノのためのソナタは演奏される機会のあるものが限られています。
 一方でなぜか?ヴァイオリンは協奏曲に人気があります。
ピアノ協奏曲をアマチュアの人が練習することはあまり多い事ではないのですが、ヴァイオリンの場合にはソナタをレッスンで演奏することの方が少ないのが実状です。
 音楽大学の実技支点の場合で考えても、ピアノの場合はソナタが課題曲になることが多く、ヴァイオリンの場合は協奏曲が課題曲になります。
 理由を考えると、ピアノとヴァイオリンの為のソナタ=ヴァイオリンソナタの場合にはピアニストとヴァイオリニストが対等な関係で演奏するため、二人のアンサンブル=室内楽的技術が不可欠になります。ヴァイオリンの実技試験でピアニストと合わせる技術を評価するのは、ヴァイオリンの演奏技術以上のものを評価することになってしまう事がその原因だと思います。
 もちろん協奏曲=コンチェルトであっても「伴奏」に合わせる技術は不可欠です。ヴァイオリンソナタのピアニストは「伴奏」ではありません。あくまでもヴァイオリンと対等な関係の「ピアノ演奏者」として扱われます。本来コンチェルトでもソリストと共演する・協演するのが正しいオーケストラ(代わりのピアノ)であるべきです。ただコンチェルトでは「独奏」と言う言葉が用いられるために「伴奏」と言う表現になるのだと思っています。
 ヴァイオリンソナタは、ヴァイオリニストとピアニストが相手の演奏する音楽を自分の音楽の一部として考える能力・技術が不可欠です。一人だけで練習しても二人でソナタを演奏することは出来ません。それがソナタの美しさであり難しさでもあります。
 このブラームスのソナタは私の中で一番好きなヴァイオリンソナタです。
ちなみに動画の中で大傷が(笑)あるのですが…実はこの第1回のデュオリサイタルだけ、私は「楽譜を見ながら=譜面台を立てて」演奏しました。
 そして!譜めくりに失敗したのでした(涙)1小節休符の間に譜めくりする場所で見事に失敗したのには「深いわけ」がありまして、実は暗譜で弾こうか迷っていたのです。暗譜で弾けなくもなかったのになぜ?見栄なのか?譜面台を立てたばかりに演奏しながら「このまま暗譜で弾く!」と言う私と「いや!最後の曲だから譜面を見る!」と言う気弱な私が戦い、手を出す=譜めくりするタイミングを逃したのでした。とほほ・・・・
 教訓「見るなら迷わずに見る!」です。
いつかまた、二人でこの曲を演奏することもあるかも知れません。
今度は暗譜で演奏します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな音楽を感じるままに…

 映像はヴィオラとピアノで演奏したエンニ・モリコーネ作曲の「ガブリエルのオーボエ」です。
 ヴァイオリンを習う人の多くが先生に指定された「教本」を使って技術を身に着けていきます。先生や教室によって指定される教本や内容が違うものです。
 どの教本を使って何を練習して、どんな技術を身に着けるべきなのか?
習う人の年齢や楽譜を読む技術、練習できる環境や本人の性格、目的によっても使う教本や内容を選んでいます。
 音楽の学校に進むことやコンクールで入賞することを「目の前の目標」にする人の場合には「身につけなければならない」最低限?の技術があります。
 最低限に「?」を付けたのは音楽の学校やコンクールのレベルによって最低限のレベルが大きく違うからです。簡単に言えば「どんなレベルの音楽学校でもいい」場合に必要な技術はさほど多くありません。
 趣味でヴァイオリン演奏を楽しみたい人にとって必要な技術ってなんでしょう?

 習う人、教える人によって違うのですが私は「好きな音楽を感じるままに演奏できるように」してあげたい、なって欲しいと持っています。
 年齢に関わらず人によって到達できる技術レベルは違います。それは才能などではなく環境や考え方の違いによるものです。限られた「練習できる時間」の中で「やる気=モチベーション」を維持しながら上達できる練習方法をアドヴァイスするのがレッスンだと思っています。
 生徒さん自身が感じる「足りない技術」や「身に着けたい技術」は時として段階を飛び越えている場合があります。逆に「この曲は自分には演奏できない」とか「あんな風に演奏できるはずがない」と思い込んでいる場合もあります。
 どちらの場合も生徒さんにとっては「未知の世界」のことですから仕方のない当たり前のことです。

 例えばヴィブラートを出来るようになりたいと「思わなければ」何年楽器を演奏してもできるようにはなりません。またヴァイオリン演奏に必要な技術の多さをまだ知らない段階で「演奏できないのは才能がないから」とか「自分に(我が子に)向いていない」と決めつけるのも間違いです。

 弦楽器は管楽器より難しいと言うのは大嘘(笑)
私に言わせれば管楽器の方がはるかに難しいと感じますが、それも正しい事ではないのです。なぜならすべての楽器は、それぞれ難しさが違うのですから。比較できません。

 自分の好きな楽器で、好きな曲を演奏して楽しいと感じられることが、楽器演奏の究極の楽しみだと思います。
 音階の練習やポジション移動の練習、ロングトーンの練習など練習方法は無限にあります。それらの中で何を練習すれば自分の好きな曲を「生きている間に」演奏できるようになるか?その問いに正面から答えてくれる指導者に出会えること・探すことが何よりも大切な事なのかもしれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「ながら族」は演奏家向き♡

 映像はデュオリサイタル08で演奏したシェルブールの雨傘です。
BGMにどうぞ(笑)
 さて中学生や高校生の頃に、勉強机に向かいながら←勉強しているとは言えなかったので(笑)ラジオ番組を聞いたりカセットで音楽を聴いたりしていたのは私だけ?違いますよね!きっと多くの人が「ながら勉強」していたのではないでしょうか?もちろん人によっては「集中できないから」と静かにお勉強した人もいますよね。
 ヴァイオリンの練習をしながら音楽を聴くことはかなり難しい(笑)のですが実は楽器の演奏は「〇〇しながら△△する」ことがほとんどです。
・音色を考えながらリズムを考える。
・音程を気にしながら音量を考える。
・自分の演奏を気にしながら他の楽器の演奏を気にする。
などなど「ながら演奏」できることが必要不可欠です。

 二兎を追う者は一兎をも得ず
このことわざから様々な考え方ができます。
一度に多くを得ようとすることで自分のキャパシティを超えてしまう場合もありますが、逆に目先の利益や安直さを優先してしまえば失うものも多くなります。
 一つの考え方…例えば自分の価値観だけを大切にする人は、一兎を得るためなら迷惑を顧みない人…とも言えます。
 一つの目標を達成するために様々な「寄り道」や「回り道」をする事も大切なことです。
 楽器の演奏は同時にいくつものことを考える作業です。
何かひとつを犠牲にすれば全体が崩れます。どうすればよいのでしょう?
一つの事に完璧を目指すより、二つ三つの事に興味を持つことの方が楽しいと思うのです。出来なくても失敗しても、より多くの事を体験することが私は重要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介