愛のある「演奏」と後味の悪い「チャラ弾き」

 今回のテーマも、きわめて個人的な「私見」ですので、お許しください。
始めに書いておくと、これから書く内容はあくまで「演奏家」に対して思う事であって、趣味の演奏者=アマチュアの人への差し出がまし意見ではありません。特に、若い演奏家、あるいは演奏家を目指す学生たちへの「はなむけ」と、街中で繰り広げられる「ストリート△〇×」に感じることです。

 演奏に愛を持っているか?
大上段から切り込みましたが、プロの演奏家として演奏する人が、持つべきものはたくさんあると考えています。「誇り=プライド」も大切です。「責任感」がなければ職業とは言えません。「技術」は自分の出来る限りの努力で身に着けるものです。何よりも「人への感謝=愛」だと私は思います。自分への愛も含め、親、師匠、作曲者、聴いてくれる人、支えてくれるスタッフなど、演奏できることへの感謝があってこそ、聴いていて「心地よい」演奏、料理で言えば「おいしい=愛情のこもった手作り料理の味」だと思います。
 下の動画は私が好きな演奏家の動画を三つだけ選ばせてもらったものです。

 今回の動画はこれだけです。「チャラ弾き」だと感じる演奏については、ご本人のプライドもありますし、あくまで私見ですので「これ!」と言う具体的な指摘は致しません。
 上の演奏は単に「すごい」だけではなく、感じるものがあります。
直接、ご本人に伺ったわけではないので想像でしかありませんが、どの演奏にも演奏者の「こだわり」を感じるのです。速く演奏するためだけに練習したとは思えません。速く演奏すること以上に、その音楽への愛情を感じます。「好きなんだろうな~」と聞いていて感じるのです。

 一方で私の考える「チャラ弾き」の定義です。
・自分の演奏する音楽を、深く考えずに演奏している。
・聴いてくれる人への「敬意」を感じない。
・その場の「受け」を優先している。
 それが演奏者の本位でない場合も当然にあることです。
聴いていて・見ていてそう、感じるという意味です。
私自身が音楽を学び、ヴァイオリンやヴィオラを演奏し、生徒さんに演奏を教える「生活」をしているから感じる面もあります。
 つまり、一般の人=演奏家でない人や、私の先輩や師匠の皆様が感じられるものは、私と違って当然だと思うのです。
 演奏を聴いて後味の悪い印象を感じる演奏が「チャラ弾き」です。
料理で言えば、明らかな「手抜き」の「レンチン」「レトルト」料理を食べ終わった後の感覚に似ています。断っておきますが、私は近頃の「冷食」大好きです。屋台のラーメン、お好み焼き、たこ焼きも大好きです。
 母の作ってくれた料理は、決して見た目の綺麗な料理ではありませんでした。
「野村家」のカレーは、両親が辛いものが大嫌いだったので「辛くないカレー」でした。今思うと、もしかするとハヤシライスに近い食べ物を「カレー」だと思って育ちました。それでも、そのカレーが大好物でした。家族への「愛」が甘いカレーを作ったのだと思います。
 料理に「インスタント」はあってしかるべきだと思います。手軽に作れて、栄養もとれるのですから、むしろ素晴らしい食べ物です。
 ではプロの演奏家に「インスタント」は許されるのでしょうか?
・楽譜をただ、何も考えずに演奏するだけ。
・ただ速いだけや音量が大きいだけの演奏。
・聴く人によって演奏のレベルを変える=わからない人だと思えば適当にごまかして演奏する・試験になると減点されないだけの演奏をする。

 聴く人がだれであっても、自分の出来る限りの演奏をするのが「プロ」だと思います。自分の演奏技術の「ひけらかし」が通用する相手としない相手がいるのは事実です。通用しないと「つまらない演奏」でも減点されない=まちがえない演奏に終始するのは、根本的に間違っています。技術は、聴いてくれる人に自分を表現するための「手段」です。自分を表現しない演奏は、音楽ではなく「音=ノイズ」です。雑音でなくても「音」でしかありません。
 ストリートピアノにも様々な演奏があります。
演奏者の「愛」や「魂」を感じる演奏もあります。
アマチュアの人が、楽しんで演奏しているYoutube動画は、ほほえましく見られます。一方で「まさか…音大生?じゃないよね…」と思われる映像を見かけると、ぞっとするのは私だけでしょうか。だれか言ってあげないのでしょうか。それ、今後の仕事に差し支えるからやめたら?と。本人の価値観ですから良いのですが、プロの演奏家として生活することを「なめて」いるとしたら、大間違いですよね。はい。老婆心でした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器が変われば弾き方も変える

 上の二つの動画はどちらも「ラベンダーの咲く庭で」と言う映画のテーマ音楽です。演奏者は見ての通り(笑)私たち。演奏場所は、(上)代々木上原ムジカーザと(下)長野県木曽町のホールです。使用しているヴァイオリンは、(上)1808年サンタ=ジュリアーナ製作の愛用楽器、(下)2004年陳昌鉉氏の製作した「木曽号」。弓はどちらも私の愛用弓。浩子さんの演奏しているピアノは、(上)ベーゼンドルファーと(下)恐らく戦前に作られたスタインウェイ。
録音の方法が全く違うので、比較にはならないかも知れませんが、この二つのヴァイオリンを演奏した経験で「楽器による演奏の仕方の違い」を書いてみます。

 陳昌鉉さんのヴァイオリンを使って、陳さんゆかりの場所である木曽町でのコンサートを依頼されてから、この楽器で演奏に至るまでに、多くの問題がありました。まず、初めて手にした時に、およそ陳さんの作った楽器には思えない、見た目と音でした。調べた結果、アマチュアヴァイオリン奏者に貸し出した際に、その人が「指板」「駒」「魂柱」を別のものに付け替えていました。東京のヴァイオリン工房で作業した領収書がありましたので間違いありませんでした。当然、まったく違う楽器になってしまいました。駒と魂柱だけは、交換した「オリジナル」がヴァイオリンケースに無造作に入れてありましたが、指板はなし。陳さんの奥様に相談し、陳昌鉉さんが使用していた未使用の指板を頂き、信頼できる職人に依頼し、さらに陳昌鉉さんの制作した遺作ヴァイオリンを持ちこんで「復元作業」を施してもらいました。
 その後、その楽器でコンサートのための練習を開始することができました。

 陳昌鉉さんの木曽号は、新作であるにもかかわらず「枯れた音色」が特徴的な楽器です。陳昌鉉さんがご存命なら、私の「好み」に楽器を調整して頂くことも可能でしたが、それも叶わず、これ以上楽器に手を入れることも当然許されず…。出来ることと言えば、弦を選ぶことと「演奏方法を考える」ことです。
 木曽号は枯れた音色の「グヮルネリ・モデル」ですが、高音の成分が比較的少ない音色のために、「音の抜け=音の通り」に弱さがありました。
 普段、私はピラストロ社のガット弦「オリーブ」を使っていますが、音の明るさ=高音を足すには適さない弦です。同じピラストロ社のガット弦「パッシォーネ」も試しましたが、明るさは補えるものの弦の強さにヴァイオリンが負けて、音量が出し切れません。最後に選んだのが、トマステーク社の「ドミナント・プロ」でした。比較的新しく開発された弦で、テンション=張力は標準、高音の成分が多く明るい音色で、抜けの良さが特色の弦です。ただ、低音の太さが足りず、結果として音量をだすための演奏技術が必要になりました。

 まず楽器を自分の好みの音色で演奏するための「ひきかた」を楽器に問いました。弓の圧力・駒からの距離・弓の速度・ビブラートの速さと深さ・弦ごとのひき方など。そうやって、毎日少しずつ木曽号と「仲良く」なる時間を作りました。それが「正しい弾き方」かどうかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の好きな音に近付けたことは事実です。

 映像を見比べて頂くと、指使いが違う事、ボーイング=弓のダウン・アップが違う事にも気づいていただけると思います。会場の響きも、一緒に演奏するピアノも違います。何よりもヴァイオリンが違います。指も弓も「同じ」で演奏できるはずがありません。仮に同じ指・弓で演奏すれば、もっと違う演奏になっていたはずです。
 演奏自体が満足のいくものだったか?と言われれば、いつもの事ながら反省しきりです。それでも、最善の準備と練習をして臨んだ演奏です。
ぜひ、ふたつの演奏を聴き比べて頂き、「演奏の傷の場所と回数」ではなく(涙)違いを感じて頂ければと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の「らしくない曲」

 映像の音楽は、私と浩子さんがデュオリサイタル1で演奏した、チャイコフスキーの懐かしい土地の思い出という曲集のひとつ「メロディー」です。
あと2曲は「瞑想曲」と「スケルツォ」ですが、懐かしい…で検索すると多くは「メロディー」がヒットします。言い換えれば、一番人気のあるのがメロディーということなのでしょうか?
 私個人の「好み」の問題でもありますが、この曲がなんとなく「チャイコフスキーの作品らしくない」気がするのです。チャイコフスキーが作曲したのはおそらく間違いのない事実です。
 矛盾するようですが、私はチャイコフスキーの作品が大好きです。
無謀にも、高校2年生後期実技試験でチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトに挑戦した「若気の至り」から始まります。
 弦楽セレナーデ、交響曲4番・5番・6番、くるみ割り人形、ロメオとジュリエットなどなど、私の「お気に入り」の中にチャイコフスキーの作品がたくさんあります。その中で、この懐かしい…の「メロディー」に、チャイコフスキーの「らしさ」を感じないのです。

 作曲家によって、作品に個性が感じられる場合があります。
それはクラシックに限りません。他の作曲あの曲と、似ている「要素」は当然たくさんあります。
「らしさ=個性」は、作曲家の「好み」でもあります。
同じ作曲家の作品でも、曲によって「テーマ」「和声進行」「リズム」「テンポ」などが違って当たり前です。作品ごとの「テーマ」「モチーフ」と呼ばれる音楽の印象を決定づける「要素」があります。また、主旋律とそのほかの楽器との「アレンジ」にも個性があります。

 チャイコフスキーの作品の「どんなところが好き?」を少し言語化してみます。
 「情熱的」「感情的」「しつこい(笑)」「ひとつのテーマが長い」「音楽の最後に繰り返しが多い」「テーマの旋律が美しく覚えやすい」「聴いていて拍子が分からなくなる」などなど。食べ物で言うと「スパイスの利いたおいしいカツカレー」って、違います?(笑)少なくとも「おそうめん」ではないですよね?

 この「メロディー」が美しい曲で、親しみやすさもあることには何も異論はありません。違う言い方をすれば「チャイコフスキーの一面」だとも感じます。
作曲家と言う「職業」であっても、人間としての「苦悩」はあるものだと思います。作曲家として高い評価を得られても、その評価が「重荷」に感じることもあるはずです。すでに誰かの作った旋律を使えば「盗作」と叩かれ、前衛的でも評価されない。演奏家は、うまければ評価されます。その意味でこの「演奏家よりも厳しい評価にさらされるのが作曲家です。
メロディー」が誰の作品かということより「美しい曲」として考えればよいだけなのでしょうね。
最後に、チャイコフスキーの「作品番号2-3」である「ハープサルの思い出=無言歌」をクライスラーが編曲した演奏動画をご覧ください。

チャイコフスキーが27歳の時の作品です。私の思っているチャイコフスキー「らしさ」は、あまり感じられません。どんな作曲家でも年を重ねるうちに、作品が変容するのが自然です。
これから先、演奏するであろう「音楽」たちを、先入観を持たずに演奏できるように、もっと知識を持ちたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラとヴァイオリン

 映像はデュオリサイタル8で演奏した、サン・サーンスの白鳥。チェロを演奏できない私がヴィオラで、浩子さんのピアノと演奏したものです。
作曲者が「特定の楽器」のために楽譜を書いた作品はたくさんあります。
この白鳥に限らず、私たちが耳にする演奏の多くは、オリジナルの楽器で演奏されたものです。オーケストラで演奏するための楽譜、声楽とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、弦楽四重奏などなど音楽のほとんどには「オリジナル」の楽譜があるものです。
中には作曲者自身が、異なった種類の楽器でも演奏できる楽譜を書き残した作品もあります。エルガーの愛の挨拶も、ヴァイオリン用の楽譜は「Edur」フルート・チェロで演奏するために「Ddur」のが区譜を書いています。そのほかにも、シューマンのアダージョとアレグロは、ヴァイオリン・ヴィオラ・ホルン・チェロの楽譜が掛かれています。サービス精神旺盛(笑)

 オリジナルの作品を、のちに違う楽器で演奏できる楽譜にする=演奏することも、珍しくありません。ポピュラーで言えば「カバー」と呼ばれるのもこの類です。
その場合、オリジナルの「演奏=音」に慣れ親しんでいる人にとって、時に違和感や不快感を感じるケースもあります。自分が好きな曲・演奏ほど、その傾向は強くなります。私の場合、オフコースが歌っていた「眠れない夜」と言う曲を、ある歌手がカバーして歌っているのを聴くのが、とても不快でした。その人がうまいとか下手とか言う問題ではなく、ある意味でその曲が「神聖な」ものに感じていたからです。皆さんも似たような経験はありませんか?私だけ?

 さて、白鳥に話を戻します。
この演奏は、オリジナルのチェロ演奏と、まったく同じ高さの音=同じ音域でヴィオラで演奏しています。ヴァイオリンでこの「実音」を出すことは不可能です。
だからと言って、チェロの音と「そっくりの音」になるかと言うと、残念ながら?当たり前のことながら、そうはなりません。音の高さは同じでも、楽器の構造が違いすぎるからです。4本の弦を「C・G・D・A」に調弦することはチェロとヴィオラは同じです。ただ音の高さが実音で1オクターブ違います。楽器の筐体=ボディの大きさがまるで違います。弦の長さ・太さがまるで違います。
 音域・音量・音色のすべてが違う楽器なのです。似ていることはいくつもありますが、「音」としては、まったく違うものです。
コントラバスやチェロで演奏できる「高音」は、ヴィオラやヴァイオリンと同じ音域を演奏できる上、とても近い音色」が出せます。単純に音域の広さの問題だけではなく、太い弦で弦の長さを短くして出せる「高音」は、ヴィオラとヴァイオリンに近い音色を出すことができるという「強味」があります。
 ヴィオラでチェロの「雰囲気」は醸し出せても、チェロの音色は出せません。
私たちがこの曲を演奏する時も、オリジナルの演奏「チェロの音」が好きな人にはもしかすると「嫌な感じ」に聴こえるかもしれないことを、演奏前に予めお話してから弾き始めます。

 先述の通り、楽器のよって演奏できる音域=最低音から最高音が違います。
特に「低音」の幅が大きい楽器、弦楽器で言えばコントラバスやチェロのために書かれている楽譜を、音域の狭いヴィオラ、ヴァイオリンで演奏すると単純に「高く書き換える=移調する」だけでは演奏できないか、できたとしても「途中で折り返す=低い音に下がって上がり直すしかありません。。
一つの例ですが、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」と言うチェロのために書かれた曲を、ヴィオラで演奏しようと挑戦したことがあります。
様々試してみましたが、どうしてもこの曲の最大の魅力でもある「アルペジオ=分三和音」を原曲の通りには演奏できない=ヴィオラの音域が狭いために、聴いていいて違和感が強すぎて諦めました。実際にヴィオラで演奏している動画もいくつか見かけますが、オリジナルを知っている人間には「無理してひかなきゃいいのに」と言う印象が残ってしまいます。

 前回のリサイタルで演奏した、カール・ボーム作曲の「アダージョ・レリジオーソ」と言う曲は、原曲=オリジナルはヴァイオリンの楽譜です。実際に以前のリサイタルではヴァイオリンで演奏しました。それを、ヴィオラで演奏するために、オリジナルとは違うオクターブにしたり、カデンツァを書き換えたりしました。あまり演奏されることのない(笑)曲なので、お聴きになったお客様方にも違和感がなかったようでした。

 最後になりますが、作曲者が考えた「楽器と音楽」を、違う楽器で演奏する場合に、原曲との違いを演奏者がどのように「処理」するかの問題だと思います。
聴いてくださる人の中には、嫌だと思われる人も少なからずいらっしゃるはずです。それでも、自分が演奏する楽器で、お客様に楽しんでもらえる「自信」と「覚悟」がないのなら、演奏すべきではないと思います。
ピアノ曲をヴァイオリンで演奏し他場合に「なんか変」と多くの人が思う曲もあると思います。「それ、ありかも」と思われるピアノ曲もあるでしょう。単に楽譜があったからという理由や、有名な曲だからと言う理由だけで、「異種楽器演奏」することには、私は賛成できません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノのアレンジで変わる音楽

 映像は、ドボルザークの「ロマンティック・ピース」第1回のデュオリサイタルで演奏したときの録音です。ふたりで開く初めてのリサイタルでした。

 今回のテーマは主にピアニストとの二重奏で感じる「ピアノアレンジ」について。アレンジと言うと、いかにも編曲したと言うイメージになりますが、要するに「ピアノパート」の楽譜について、ヴァイオリン演奏者として考える内容です。ピアノをまともに演奏できない私が「偉そうに!」と思われるのを覚悟で書かせてもらいます。

 今までに浩子さんとふたりで、本当にたくさんの「二重奏」を演奏してきました。
その中には作曲者自身が、「ピアノとヴァイオリン」の楽譜を書いた作品もありますし、原曲はオーケストラの楽譜だったり、ボーカルとバンドの楽譜だったり、ギターとヴァイオリンの楽譜だったりと様々な「楽譜」を、ピアノとヴァイオリン、ピアノとヴィオラで演奏できるように書かれた楽譜を使ったり、自分たちで楽譜を作ったりしたものもたくさんありました。
 その音楽の中で「ピアノパート」は、主旋律を変えずに音楽の印象を根底から変える重要性があると思います。その理由を考えていきます。

 何よりも、ピアノと言う楽器は旋律も和声も演奏できる楽器だと言う当たり前の事を考えないでは話ができません。言い換えれば、ピアニスト一人=ピアノ1台で「音楽を完成できる」楽器なのです。一方で、ヴァイオリン・ヴィオラは「単旋律楽器」の部類に属します。確かに重音=2声の和音を演奏できますが、管楽器と同様に主に旋律を演奏することに特化した楽器です。
 先にヴァイオリン・ヴィオラがピアノに「出来ない」こと=ヴァイオリン・ヴィオラに出来ることを挙げておきます(別に悔し紛れではありません笑)
・発音してから音の大きさを自由に変えられる。
・音の高さを半音より細かく変えられる=ビブラートがかけられる。
以上です(笑)あ。持ち歩ける…(悔し紛れ)
 では、ピアノに出来てヴァイオリン・ヴィオラに出来ないことです。
・3つ以上の音を同時に演奏できる。
・音域がすべての楽器の中でも特に広い(ヴァイオリンの3倍以上)
・ヴァイオリンより大きな音量で演奏できる。
細かいことは除いて考えて、上のような違いがあります。
その違いが二重奏で、どのように活かされているか?について考えます。

 ピアノで演奏する場合に、発音された音は必ず「減衰=だんだん小さくなる」のが打弦楽器の特性です。ゆっくりした音楽の長い音符を、ピアノで演奏した場合は、どんなに頑張っても音は次第に弱くなっていきます。同じ高さの音をヴァイオリンで演奏した場合、音の大きさを次第に大きくすることも、ピアノと同じ速度で弱くしていくこともできます。当然ですが音の高さが同じでも、ピアノとヴァイオリンは音色が決定的に違いますが、音量を二人(ピアノとヴァイオリン)がコントロールすることで、聴いている人に「ピアノとヴァイオリンの音が溶けて聴こえる」現象が起こります。簡単に言えば「新しい音色」が生まれることになります。音量のバランスは以前に書いた通り、演奏者自身が感じるバランスと客席で聴こえるバランスは全く違います。客席で聴いている「耳」にふたつの楽器の音量が同じように聴こえる時にしか生まれない「音色」です。

 ヴァイオリンが主旋律を演奏し、ピアノがその旋律とは違う旋律と和声を演奏する場合を考えます。
ピアノは同時に演奏できる音が多いだけではなく、連続して=短い音で演奏することもできる楽器です。和音の状態で連続して演奏もできる優れた楽器です。
 ヴァイオリンが「長い音」を演奏し、ピアノが「短い和音」を連続して演奏した場合に、ピアノの音量がヴァイオリンよりも大きく聞こえてしまうケースがあります。物理的な音量バランスよりも、感覚的にピアノの動きが耳に付きすぎる場合に、ヴァイオリンがより大きな音を出そうとすれば、前後の音との相対的な音量の変化が少なくなりがちです。簡単に言えば「弱く弾けない」ことになります。さらにピアノとヴァイオリン・ヴィオラの「音域」が、近い場合と開離している場合でも、聴感上のバランスに影響します。
ヴァイオリンの旋律と近い音域でのピアノは、混濁して=溶けて聞こえます。
音域が明らかに違う場合には、それぞれの音が独立して聞き取りやすくなりますが「溶けない」印象が残ります。

 ピアノが旋律を演奏し、ヴァイオリンがオブリガートを演奏する場合もあります。極端なたとえが、ベートーヴェンのスプリングソナタですね。
ピアノが冒頭部分で演奏している分散和音を、ヴァイオリンが演奏しピアノが主旋律を演奏する部分。正直に言えば私は、とても違和感を感じます。
先述の通り、ピアノは旋律と和声を一人で演奏できる楽器です。ピアノが主旋律を演奏している時のヴァイオリンの「立ち位置」の問題です。
私はヴァイオリンパートが、無くても良いと思うときにはピアノだけの演奏で良いと思う人間です。ピアノの「良さ」をあえて下げてまでヴァイオリンの音を上乗せする意味をあまり感じないからです。

 少し前のブログにも書いた通り、ピアノは伴奏楽器ではありません。
二重奏でも三重奏でも、それは変わりません。ピアノトリオ(三重奏)の曲は、どうしてあんなにピアノに頑張らせるのか(笑)、私には理解できません。
ピアノ・ヴァイオリン・チェロが「ソリスト」的に演奏すると言う意図は理解できますが、ピアノになにからなにまで(笑)押し付けているように感じるのは私だけでしょうか?もっと少ない音の数でも、ピアノの良さは感じられると思います。それこそ「オーケストラの代わり」をピアノに担当させているような気がしてなりません

 最後にピアノパート=アレンジに私が求めることを書きます。
ヴァイオリンが主旋律を演奏するのであれば、ピアノが対旋律と和声を組み合わせた音楽で、主旋律の音域、テンポと音の長さ、音量を考えたうえで、両者の音が「溶ける音」と「独立した音」が明確になっている「アレンジ」が好きです。
声楽曲に多く見られる「ピアノも主旋律を演奏する」安直なアレンジは好きではありません。ユニゾンを効果的に使い、主旋律の進行に、不自然さを感じさせない副旋律が好きです。
「それ書いてみろ」と言われてもできません。ごめんなさい。
楽譜が作曲家の「作品」だとしても、演奏者が違和感を感じる場合に、手を加えることが「タブー」だとは思っていません。聴く人が自然に聴こえる「楽譜」こそ、二重奏の楽譜だと感じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

モーツァルトと歌謡曲

上の映像は、モーツァルトのヴァイオリンソナタ 21番 e moll K.304
デュオリサイタルで私と浩子さんが演奏したものです。演奏中の映像は撮影していませんでした(笑)
下の映像は、中島みゆきの「糸」を同じくデュオリサイタルでヴィオラとピアノで演奏したものです。この2曲でなにを比較しようって?そこが音楽の楽しみ方です。

 「旋律と和声をヴァイオリン(ヴィオラ)とピアノで演奏している」
この点は、モーツァルトのソナタも、中島みゆきの糸も同じです。
「曲の中に短調と長調の部分がある」これも同じ。
「ソナタは2つの楽章で構成されているが、糸は同じ旋律で1番・2番がある」
この点で大きな違いがあります。言い方を変えると、モーツァルトのソナタは「2つの曲から出来ている」という事になります。

 モーツァルトの音楽は完成度が高く、糸は低いのでしょうか?
ソナタは高尚で、糸は低俗でしょうか?音楽として台頭に比較してはいけないのでしょうか?
 すべての音楽に共通することを考えます。
・曲を作った人がいる。
・演奏に関わった人がいる。=人が演奏するとは限らない。
それ以外について、たとえば旋律だけの音楽もあります。和声だけで主旋律がない「カラオケ」も音楽です。演奏が声でも楽器でも機械でも、音楽です。
美しい旋律だけが音楽でもありません。リズムが感じられなくても音楽です。
当たり前ですが「嫌い」でも音楽は音楽なのです。

作曲された時代が古ければ「クラシック音楽」の部類に分類されます。
クラシック音楽に用いられる「様式・形式」で、現在生きている人が作曲したら?それは、クラシック音楽ですか?おそらく「ダメ!」ですよね。
以前のブログでも書きましたが、ゲーム音楽や映画音楽を「音楽」としてだけ聴いた時に、その作曲年代や作曲者を正確に言い当てられる人間は、作曲者本人以外に存在しないはずです。それでは、クラシック音楽と現代の音楽に何も差はないのか?と言えば、歴然とあります。それは…

クラシック音楽と言われる音楽を作曲した人たちと、その曲を初めて演奏した演奏者たちの多くは「現代音楽」もしくは「前衛的な音楽」を作曲し演奏していた人たちです。私たちは、バッハやモーツァルトの時代を知りません。文献や絵画で想像するしかありません。その当時の「観客=聴衆」の感覚も知りません。当時の人たちの生活も知りません。音楽をどうやって聴いて楽しんでいたのかさえ、想像でしかありません。
 私たちが生きている間に作曲された音楽を、私たちが演奏する時の様子を、モーツァルトの時代の人がもしも見たら、どう?感じるでしょうね。
「この音、なんの楽器?」
「あれ?俺の作った曲に似てるぞ?」
「え!?人間がいないのに音楽が聴こえる!」
「かっちょえー!この和声と旋律、いただきっ!」(笑)
これ妄想でしょうか?大きなタイムトリップは現代の科学では不可能とされています。もし未来にタイムマシンが出来ていたとしたら、私たちは未来の人に会っているはずなので、それがないという意味では未来にもタイムマシンができていないと言う科学者もいます。「いや!それは!」と言うお話もあるでしょうね(笑)話がそれました。すみません。

 クラシック音楽の作曲者は、試行錯誤しながら当時の聴衆の反発と冷笑に耐えながら音楽を作り続けました。その音楽は楽譜として残され、今も演奏することができます。もしも楽譜と言う「記号」がなければ、当時の音楽を「正確に」再現=演奏することは不可能です。民謡のように「音楽」が伝わることはあったでしょうが、少なくともほとんどの「クラシック音楽」は演奏できなかったはずです 。
 その音楽の「様式・形式」に慣れた、現代の私たちが作る音楽「ポピュラー」を大切にすることも、クラシックの音楽を大切にすることに繋がっていると思います。そうでなければ、クラシックの作曲者が作った音楽は、いずれ歴史の中に埋没します。今も誰かが「似たような音楽」を作り続けることに大きな意味があると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムは「献立」

 映像は、デュオリサイタル13(2021年1月)の後半部分をまとめたものです。長い&多い(笑)こんなプログラムのコンサートって、邪道?かもしれませんね。多くの「ヴァイオリンとピアノによる」クラシックコンサートの場合、
「ヴァイオリンソナタ」が必ずと言っていいほどプログラムに組み込まれています。「それでこそ!」と言われればその通りです。過去14回のデュオリサイタルで、ソナタを全楽章演奏したプログラムは一回しか!(笑)ありません。私たちには、それなりに理由があるのですが、それが「音楽の切り取りだ」とのご意見も甘んじて受け入れます。むしろ、そちらがスタンダードだと思いますが、ソナタの単一楽章を演奏することに、不満を感じる人ばかりではないと言うのも事実です。以前にも書きましたが、多くの人が知っている「クラシック音楽」は1曲の中の一部分であることがほとんどではないでしょうか?それは、単にクラシック音楽を知らないからだという理由だけではないと思います。楽しみ方の違いでもあります。
映画は2時間程度の長さの物が多く、テレビの番組は長くて1時間位ではないでしょうか?演劇や歌舞伎、オペラやミュージカル、落語、ロックやジャズ、ポップスのライブなどで、演目の時間や休憩時間は様々です。ライブの場合、飲み物を飲みながら演奏を楽しむこともあります。クラシック音楽を昔から楽しむ文化のあるヨーロッパでは、子供を寝かせた後に、正装してコンサートに出かける「伝統」がありました。日本では考えられないことです。歌舞伎では「幕」の合間に食事をする「幕の内弁当」が今でも伝統として残っています。
イベントの楽しみ方も時代と共に変化して当たり前だと思います。

 コンサートの内容を紙に書きだした「プログラム」に曲目解説などの「ノート」を書き込めば、お客様に情報は伝えられます。演奏者は演奏だけで終始してもお客様は満足するでしょう。「音楽を聴くだけならの話です。音楽を演奏している「人」や演奏者が曲を選んだ「理由」と「思い」について、お客様に隠す理由もないと思います。私たちのリサイタルでは、曲管にお客様にお話をすることで、私たちがそれぞれの曲に対して思うことや、エピソードを私たちの言葉で語ります。トークの専門家ではないので、うまく話せなくてもお客様に伝わるものがあると思っています。

 演奏会全体のプログラムを組み立てる時に、調性を重視します。そのほかにもテンポ、曲全体の強さと高さも考慮します。聴いている人が飽きずに楽しめる「構成・進行」を考えているつもりです。思った通りに伝わらなくても、私たちの「思い」だけは伝わると思います。ここでまた、ヴァイオリンとピアノによるコンサートで、多く目にする傾向を考えます。
・特にテーマやコンセプトのないコンサート
・作曲家や時代・地域などに「スポット」を当てたコンサート
・知名度の高さ・希少性を意識したコンサート
・難易度の高い曲を選んだコンサート
などが多く見受けられます。他方、私たちのリサイタルのような「お子様ランチ」もしくは「昔ながらの定食屋ランチ」にも似たプログラム構成はあまり見かけません。もしかすると「簡単すぎて集客力がない」と思われているのかもしれません。集客力だけで考えれば、クラシックマニアの喜びそうなプログラムは考えられます。そのコンサートで、普段クラシックを聴かない人が楽しめるかどうかは別の問題です。私はメリーオーケストラのプログラムでも、リサイタルのプログラムでも一貫して、できるだけ多くの人に一曲でも楽しんでもらえるコンサートを目指しています。料理で言えば、プログラムは献立だと思います。一つの料理でおなか一杯になる献立=プログラムもあります。色々な料理が少しずつ出てくる献立もあります。コース料理はまさにそれですよね。

私の考えるプログラムはクラシックファンには物足りないプログラムだと思います。でも私を含め、クラシック音楽が好きな人間が、それ以外の音楽を聴かない理由はありませんし、少なくとも演奏を聴いてから好き嫌いを感じてもらいたいと思っています。「ポピュラーだから」「映画音楽なんて」「歌曲をヴァイオリンでひくなんて」という固定観念を持たずに、演奏を楽しんでもらえるコンサートを開き続けたいと思っています。
 いろいろなコンサートがあって良いと思います。他の人と同じようにしなければいけない理由もありません。自分や自分たちが考える曲構成=プログラムに自信を持ってコンサートを開いてほしいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

眠れる演奏

 映像は横浜にあるイングリッシュガーデンで撮影した写真に、ヴィオラとピアノで演奏した「アニーローリー」「オンブラマイフ」「「ロンドンデリーの歌」「私を泣かせてください」を重ねたものです。
 皆さんはクラシックのコンサートで演奏を聴いていて「気持ちよくなってうとうと」って経験ありませんか?私はその時間が大好きです(笑)
「入場料払ってまで寝るなんて!」「演奏者に失礼だろ!」と言うお考えもごもっともです。私は逆に感じています。自分が安らげる時間の為に、チケットを買って何が悪い?演奏しているときに、静かに寝ていて演奏者が気づくのか?いびきかいていないぞと。

 音楽療法と言う医学療法があります。患者の好きな音楽を聴かせることで、精神を落ち着ける効果が認められています。興奮しているときや、同じことをぐるぐる考えてしまう時に、人間は「β=ベータ波」を脳が出しています。一方で安らいでいるときには「α=アルファ波」が出ています。心が休まると「副交感神経」が刺激され、興奮したりイライラすると「交感神経」が刺激されます。
音楽ならなんでもよいわけではありません。心地よく感じる「音」は人によって違います。音色、音量、音楽の内容、歌詞の有無など、多くの要素の中で、その人が最も心地よい「音楽」を聴きながら身体も心も休ませることが「治療」につながります。ハードロックを聴いているとα波が出る人も事実いるのです。モーツァルトやクラシック音楽だけが「心地よい」のではありません。

 私たちのリサイタルも演奏会までに、多くの時間をかけて準備します。練習もします。それは「お客様に聴いてほしい」と思うからです。だからと言って、自分の演奏を聴いて「つまらない」と思う人がいても不思議ではありません。
また、聴き方にしても人それぞれだと思うのです。目をつむって聴く人もいれば、演奏者を観察している人もいます。他に聴いている人が不快に感じる「聴き方」は誰からも認められません。演奏が気に入らなければ、静かに曲間で退席すればよいのです。元より演奏が気に入るかどうかは、聴いてみなければわからないのですから「つまらないから、お金を返せ」とは言えません。
演奏を聴いていて、どうしても咳を抑えられなくなることも人間なら当たり前です。障がいがあって、うれしくなると声を出してしまう人もいます。それを演奏者が我慢できないなら、無観客で演奏会を行えば良いだけです。観客が咳ばらいをしただけで、演奏を中断し以後、演奏をキャンセルした「有名なピアニスト様」の逸話があります。私はその場にいませんでしたので、どのような状況だったのか知りませんが、仮に咳払いだけで腹を立てたなら、演奏者の「懐が狭すぎる」と思います。映画のセリフではありませんが「殿さまだって、屁もすりゃ糞もする。偉そうなんだよ!」だと思います。生理現象を我慢してまで、命がけで音楽を聴く必要はありませんよね。

 聴いてくれるかたが、心地よいと感じる演奏をしたいと願っています。
会場でじっと座って聴いてくださっているのは、お客様です。「おもてなし」の気持ちと「感謝の気持ち」があって、さらに自分の演奏を聴きながら「寝てもらえる」くらいの心のゆとりが欲しいと思っています。録音された自分の演奏を聴くとイライラするものですが、それでも我慢して何度も聞いていると、やがて自分の演奏を聴きながら寝られるようになります(笑)自分が聴いて不快に感じる演奏を、人さまにお聞かせするのは演奏者の「傲慢」だとも言えます。自分の演奏を自分の「音楽療法」に使えるようになりたい!いや…その前に、もう二度と精神を病みたくないと思うのでした(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切る楽器管理方法

 映像は、2020年に相模原北公園で撮影した紫陽花(アジサイ)の写真にヴィオラとピアノで演奏したビリーブを合わせたものです。

 日本の梅雨は草花にとっては恵みの雨が続くシーズンですが、ほとんどが木で出来ている弦楽器にとっては「地獄のシーズン」です。楽器に使われている木は、水分をほとんど含まない乾燥した木で出来ています。だからこそ、空気中の湿度をまるで除湿機のように吸い寄せてしまいます。
 楽器を組み合わせている「膠=にかわ」は、表板や裏板の木が、水分を含んで膨張したことによって割れてしまうことを防ぐために、意図的に弱い接着力で木材同士を張り合わせています。高温になると膠は柔らかくなります。ますます接着力が弱くなります。治癒時にこの膠で張り合わされた、表板い・横板・裏板の接合部が「剥がれる」場合があります。職人さんに膠を付けてもらい、圧着と感想をする数日間は、楽器を演奏できなくなります。
 剥がれなくても、板が水分を含むことで、楽器本来の響きを失います。湿気た木を叩いても「カンカン」という音ではなく「コツコツ」という鈍い音になります。こもった音色になり、余韻が少なくなるのが梅雨時の弦楽器の「異変」です。

 特に古い楽器ほど、楽器が水分を吸い寄せます。新しい楽器は、楽器表面のニスに水分が残っており、さらにニス自体も厚みがあるので簡単には水分をしみこませません。その点、100年以上たっている楽器は、ニスが乾ききり薄くなっています。そこに湿度が加われば、当然木材が湿気るのは自然現象です。
 この梅雨時を乗り切る方法を私なりに経験からまとめます。

1.自宅で管理する方法
練習していない時間は、ケースにしまわないことです。
出来る限り風通しの良い場所に、「立てた状態」で管理するのが理想です。
エアコンの風が直接当たる場所は避け、エアコンを切っている状態であればできれば弱い風で良いので、扇風機やサーキュレーターで楽器の周囲の空気を動かすことで楽器が結露したり、余分な湿気を含まずに管理できます。
 ケースに入れない理由は簡単です。ケースの中で、ケースの内張や楽器を包んでいる布に、楽器の表面が密着します。楽器表面に湿気が常に当たる状態になります。ましてやケースの内部は、高音になればますます湿度が高くなります。
湿気た布団にくるまって、暑い夜を過ごせますか?その状態がケースに入れられたヴァイオリンです。極力、板に何も接しない状態が理想です。

2.外に持ち歩く場合
当然、ケースに入れるのですがケースの内部を可能な限り「乾燥」させることが大切です。自宅でケースの中に入っているものをすべて出してから、ドライヤーの温風で内張の布を手でさわれる熱さまで加熱します。その熱さならケースを痛めることなく、水分を飛ばすことができます。その後、完全に冷めるまで待ってから楽器をしまいますが、その時に「からからにアイロンをかけたタオル」を一枚、楽器の上に「掛け布団」のようにでかけてあげます。当然ですが、タオルも冷めた状態でないと大変です。このタオルがケース内部で、楽器の表面に一番近い空気の湿度を吸い寄せてくれます。このタオルを頻繁に変えてあげることで、ケースの内部、特に楽器の周辺の湿度が下げられます。
 やってはいけないこと。「水をためる除湿剤を入れる」ことです。万一、この水が楽器ケース内で楽器に係ることがあれば、どんな事態になるか想像してください。押し入れに入れて湿度を「水」に替えるタイプの除湿剤です。水分が実際に「水」になるので効果が実感できますが、ケースの中ではまさに「自爆行為」です。
シリカゲルを使った除湿剤は、周囲の空気から湿度を吸い寄せます。が!
そもそもヴァイオリンケースの「密封度」は大した数値ではありません。雨の水がしみこむ程度の密封度で、シリカゲルを入れてもケースの外の湿度を一生懸命吸ってくれているだけです。ケースの中の湿度はほとんど下がりません。
 ケースに付いている「湿度計」は信じてはいけません。ご存知の方なら、正確な湿度計の仕組みはあの「丸い時計」では作れないことがわかるはずです。あれはあくまでも「飾り」です。嘘だと思うなら、楽器の入っていないケースをお風呂場に持って行ってみてください。針が動かないものがほとんどです。振動で動いていることはありますが(笑)

 楽器にとって、過剰な湿度は良くありませんが、だからと言って乾燥のし過ぎも危険です。「楽器が割れる」まで乾燥することは日本では考えにくいのですが、クラリネットやオーボエなどでは、乾燥しすぎて管体が割れることがあるようです。ヴァイオリン政策の「メッカ」でもあるイタリアのクレモナ地方は、意外なことに湿度の高い気候だそうです。適度な湿度は必要です。
 湿度計に頼るのは賢明ではありません。むしろ、楽器の手入れを擦れば、楽器表面が「重たい」感じなのか「軽く拭ける」のかで湿度がわかるはずです。
温度と湿度の関係も絡みますが、あまり神経質になるよりも、演奏者本人が「不快に感じる」場所は楽器にとっても不快なのです。楽器を自宅に置いて出かける時にこそ、赤ちゃんを部屋に置いて出かけるくらいの「慎重さ」が必要です。
 楽器が鳴らない梅雨の時にこそ、楽器の手入れを丁寧にしましょう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じ音楽を感じながら

 動画はフリッツ・クライスラー作曲「シンコペーション」
ピアニストと二人で演奏することが多いバイオリンやヴィオラの音楽は、どちらかが「主役」で片一方が「脇役」ではありません。以前にも「伴奏」と言う言葉について、疑問を呈しましたが、ピアノが「伴奏する」と言う言葉の裏に、ヴァイオリンが主役と言う意味が隠されているように感じます。
 ヴァイオリンソナタの場合に「ピアノ伴奏」と言う言葉は使われません。
ところが、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分をピアノで演奏するときに「ピアノ伴奏」と言うことが多く、動画のような「小品」を演奏する場合にも時々「伴奏」と言う言葉が使われます。伴奏とは「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。」だそうです。主奏部って要するに「主旋律を演奏する人」だと思われますが、ピアノが主旋律を演奏する部分があっても「伴奏」なんでしょうか?府に堕ちません。

 オーケストラの場合、指揮者が音楽の交通整理をします。具体的には「テンポ」や「音符休符付の長さ」「強弱」「バランス」について、演奏者=オーケストラの演奏者に指示を出し、実際に指揮棒や腕を使って、音楽を表現します。
 二人で演奏する場合、人によって違いますが私たちは、その場その場で「お互いに」合わせる=寄り添うことを目指して演奏しています。練習の最初の段階は、それぞれが自分の演奏するパートを一人で練習します。その後、二人で同じ音楽を演奏するときに、お互いがどう?演奏したいのかをお互いに探り合います。
言葉で確認することもあります。「こうするかも知れないし、しないかもしれない」ということも確認します。打ち合わせをしても、私が間違って演奏した場合に、臨機応変に対応してくれることが「たまに、よく、しょっちゅう」あります。
 どんなに事前に打ち合わせをしたとしても、会場で演奏する「本番」の時には、リハーサルと違う演奏になることもあります。それはお互い様です。
 お互いを意識しなくても、相手の演奏している音楽と自分の音楽が「一致」していることが実感できれば、それが「ひとつの音楽」だと思います。

息が合うと言う言葉は、同じ速度、同じ深さで呼吸することを指していると思います。相撲の立ち合いもそうです。また、逆に相手に自分の動きを「読ませない」ことが重要な武道や、ボクシングの場合は、自分の呼吸を相手と意図的にずらすことも必要です。
呼吸を合わせるとは言っても、二人で演奏する音楽のすべての時間、完全に同期=同じ息で演奏することは、物理的に不可能です。ただ、音楽を二人で同時に演奏している「意識」は常に保っています。
 ピアニストがヴァイオリニストを「視野に入れる」のは必要なことだと思います。なぜなら、ピアニストは両手でいくつもの声部を感じながら演奏し、さらにそこにヴァイオリンの声部が加わるのですから、楽譜と同時にヴァイオリニストの弓の動きが見えることで、安心して演奏できると思うからです。ヴァイオリンは「弓が動いていなければ音は出ていない」のですから。ヴァイオリニストがピアニストの指を見ながら演奏しても、効果は薄いと思います。ましてや、両手の動きが見える位置と向きでヴァイオリニストが立てば、客席にお尻を向けて演奏することになるからです。加えて、ピアニストの出す「音」が聞こえないヴァイオリニストはいないのです。その逆はあり得ます。どんな位置にヴァイオリニストが立って演奏しても、ピアノの音は聞こえますが、ピアニストにはヴァイオリニストの、音も聞こえない、弓も見えない状態で、合わせられるはずがないのです。

 どんなジャンルの音楽でも、演奏する人たちがお互いを認め合い、必要な意見のすり合わせをして、初めて「ひとつの音楽」になると思います。
「二人」という最小単位のアンサンブルは、聴く人にとってオーケストラとは違った面白さがあると思います。もとより、気の合わない二人の演奏は、どんなに演奏技術が高くても、二つの音楽が同時に鳴っているだけの「水と油」です。
時に溶け合い、時にどちらかを浮き立たせながら、音楽が広がることこそがアンサンブルだと思います。
 どうか!伴奏と言う言葉を使わずに、それぞれの演奏者を、対等な呼び方にしてください。簡単です。「ヴァイオリン△△、ピアノ〇〇」で良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介