半音・全音の聴感的な修正と間違ったチューナーの使い方

eizouha

 映像は「カール・フレッシュ音階教本」の1番最初に出てくる音階をピアノでゆっくり演奏している動画です。音階教本の中で「バイブル」とも考えられるこの教本、音階とアルペジオ、半音階などを徹底的に練習することが可能です。

 多くのアマチュアヴァイオリン奏者にとって「音程」「ピッチ」を正確に演奏することは大きな課題になります。当然、プロを目指す人や実際にプロになれた人間でもそれは同じことです。たくさんの生徒さんを見てきた中で、陥りやすい落とし穴とでもいうべき間違った練習方法と、本人の気付きにくい「音程感」について書きます。

 もっともよく目にするアマチュア弦楽器奏者の間違いは「チューナー」の使い方を間違っていることです。操作方法の事ではありません(笑)
 スマホのアプリにも多くの「チューナー」があります。測定精度や反応速度の優劣もありますが、使い方の問題です。
 「音を出す→チューナーを見る→修正する→次の音を出す→チューナーを見る…」を繰り返していませんか?「一音ずつ確かめている!」そんな満足感がありますが、ちょっと待った(笑)自分の耳で正しいピッチを「判断する」練習になっていませんよね?「いつか、正しいピッチを覚えられる!」いいえ(笑)それは無理です。正しいピッチや正しい音程を、自分で判断=記憶しようと思わなければ、いつまでも補助輪をつけた自転車で走っているのと同じです。いつも誰かに「修正」してもらわなければ、自分で正しいピッチを見つけられないままです。
 では正しいチューナーの使い方は?
 「開放弦の音を聴く→最初の音を出す→開放弦からの音程を耳で測る→チューナーを見る→修正する→もう一度開放弦から最初の音を探す→あっていると思ったらチューナーで確認し次の音を出す→前の音からの音程を自分で測る…」
 文章にすると長いですが要するに「自分の耳で開放弦=あっている音からの音程を測る習慣をつけ、あっていると思ってからチューナーで確かめる」繰り返しです。

 もう一つの方法です。チューナーでA=ラの音を出し続けます。
その音を聴きながら自分の音を聴いて「音程」を確かめる方法があります。

なんで?こんな面倒くさいことをお勧めするのでしょうか?
 「相対音感」の人がほとんどだからです。

 以前のブログでも書きましたが、絶対音感を持っている人はごくわずかです。
Youtubeの中に「怪しげな絶対音感」のことを「絶対音感」と紹介している人がいますが、私の言う絶対音感は「442ヘルツと440ヘルツを聞きわけられる・言われた音名の音を正確に歌える」音感です。この音感があれば、弦楽器の演奏で自分の出している音の高さに疑問を持つことはあり得ません。そんな便利な音感のない「私」を含めた多くの人は「相対音感」で音の高さを考えています。
 「ある音」からの「幅=高さの違い」で次の音の高さを見つる音感です。
チューナーは「絶対音感を持っている人」の耳と同じです。もうお分かりですよね?相対音感の人が、絶対音感を持つ人の「真似」をしても絶対音感は身につかないいのです。「そんなバカな」と言う人のために(笑)
たとえば「甘さ」の違う5種類の砂糖があったとします。どれも「甘い」砂糖です。絶対味覚(笑)がある人は、その一つ一つの甘さをすべて「記憶」しています。どんなに順番を入れ替えても、絶対味覚の人は、砂糖をなめた瞬間に「これは2番目に甘い砂糖です」と正解を言えます。
 相対味覚の人は?順番に二つの砂糖をなめていきながら「こっちのほうが甘い」、次にその次の砂糖を舐めて先ほどの二つの砂糖と「比較」するしか方法はありませんよね?これが「相対音感」です。正確に言えば「常に二つの違い=差を測る」ことです。一度に三つの違いを測ることは不可能です。音楽で言えば、「順番に二つの音の高さの差を測る」ことです。

 音階を練習する「目的」があります。一番大きな目的は「1番目と2番目、2番目と3番目…の高さの幅=音程を正確にする」ことです。もちろん綺麗で均一な音を出し続けるボウイングが求められます。音色と音量が揺れてしまえば正確な音程やピッチは測れません。2本の曲がった線同士の幅を測れないのと同じです。まっすぐな音を出しながら、音と音の「幅」を確かめる練習です。
 次の音名に変わることを「順次進行」と言います。上行も下降もあります。
隣同士の「ド→レ」も「レ→ド」も順次進行です。音階の場合、和声短音階の場合だけ「増二度=全音+半音の幅」がありますが、その他は「全音=長二度」か「半音=短二度」の順次進行です。まずはこの「目盛り」にあたる幅を正確に覚えることが「正確な相対音感」を身に着けるための必須練習です。
「簡単だよ」と思いますよね?(笑)いいえ。これが本当に正確にできるなら、その他の音程も正確に測れるはずなのです。嘘だと思ったら(笑)、あなたはゆっくり上記の音階を演奏し、誰かにチューナーで一音ずつ見ていてもらうか、そのチューナ-映像とあなたの音を同時に「撮影」してみてください。すべての順次進行「上行」「下降」がぴったり平均律で弾けるなら相当な相対音感の持ち主です。

 相対音感の人間は「音が上がる」と時と「音が下がる」時の「二音感の幅」が違って聞こえることがあります。それは「メロディー」として聴こえるからです。階段を上がる、下がるのと同じです。階段の幅が同じでも上がる時と下がる時で幅が違うように感じます。
 特に「半音=増一度・短二度」の幅はえてして「狭く」してしまいがちです。
相対音感の人にとって「少し高くなる」のと「少し低くなる」のが半音です。
この「少し」の感覚が決定的な問題なのです。一番狭い目盛りが狂っていたら?定規になりません。
 練習方法として、
A戦で「0→1→2→3→2→1→0」の指使いで以下の3通りをひいてみます。
①「ラ→シ→ド♮→レ→ド♮→シ→ラ」
②「ラ→シ→ド♯→レ→ド♯→シ→ラ」
③「ラ→シ→ド♯→レ♯→ド♯→シ→ラ」
できるだけゆっくり。特に次の音との「幅=高さの差」を意識して練習します。
これは、4の指を使う以前に半音と全音の正しい距離をつかむ練習になります。

 次に3度以上の音程=全音より広い幅を練習するときの注意です。
・1本の弦上で、1から4の指で4つの音が出せる原則を忘れない
・1と2、2と3、3と4の3か所をすべて「全音」にする「像4度」が最大の幅
例 1全音2全音3全音4=増4度 シ♭ド♮レ♮ミ♮など。
・上記3か所のうち、どこか1か所を半音にすると「完全4度」の音程になる
例1..1半音2全音3全音4=完全4度 (シ♮ド♮レ♮ミ♮など)
例2.1全音2半音3全音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♮ミ♮など)
例3.1全音2全音3半音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♯ミ♮など)
・上記3か所のうち、2か所を半音にすると「減4度」=「長3度」の音程になる。
例1.1半音2全音3半音4=減4度 シ♮ド♮レ♮ミ♭など。
例2.1半音2半音3全音4=長3度 シ♮ド♮ド♯レ♭など。

 次のステップで「移弦を伴う全音と半音」の練習をしましょう。
一番最初に、解放弦から全音下がって戻る練習
・E線0(ミ♮)→A線3(レ♮)→E線0(ミ♮)
・A線0(ラ♮)→D線3(ソ♮)→A線0(ラ♮)
・D線0(レ♮)→G線3(ド♮)→D線0(レ♮)
弦が変わると音色が変わるため、感覚的な「ずれ」が生じます。
もちろん、解放弦を使わず「4」の指を使えば、同じ弦ですがあえて「移弦」する練習も必要です。指の「トンネル」が出来なくても、まずはこの音程を覚えるべきです。

 最後はポジション移動を含む「全音・半音」です。
実は一番上のカール・フレッシュの画面は、G線だけで演奏する前提です。
つまり「ポジション移動ができる人」のための練習です。そうなると突然難易度が上がりますね(笑)ポジションで言えば、サードポジションから始まり、第5ポジションを経過して、第7ポジションまで上がりまた、戻ってきます。
 指使いで言えば、2→1で「レ→ミ」と全音上がります。ポジションが変わっても、弦が変わっても「音程=高さの差」は変わらないのです。それを耳で覚える練習が音階の練習です。

 半音のことを、短2度と言うほかに「増1度」とも言います。
ド♮→ド♯は「増1度」で「半音」です。短2度とは言いません。
ド♮→レ♭は「短2度」で「半音」です。増1度とは言いません。
…要するに(笑)音の名前と「半音・全音」の関係の両方を理解する必要があるのです。
 指使いで思い込むこともあります。例えばA線のド♯を見たら「2」の指で押さえたくなりますよね?同じA線のレ♭を見たら「3」の指が動きませんか?
どちらも同じ「高さ=ピッチ」の音です。もしもA線のド♮から弾けば、どちらも「半音」ですが使う指がきっと違います。おそらくド♮→ド♯は「狭く」なりすぎ、ド♮→レ♭は「広く」なりすぎる人が多いと思います。

 音階の練習はすべての練習の基本と考えられています。
言い換えれば、どんな音楽を演奏するのであっても、音階を正確に弾く技術が必要だということです。音階は下手で音程が正しいという人はいません。
音階を聴けばその人の「性格」が見えます。正確に美しく弾くことを大切にしているか?テキトーに演奏しているのか?判断できます。
 音を出して楽しむ「だけ」で終わるなら必要のない技術・能力です。
少しでも「うまくひきたい」と思うのであれば、半音と全音を正確にひけるように頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

集客とラーメン屋の関係

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した「ふるさと」ヴィオラとピアノバージョンです。このアレンジでヴィオラとピアノで演奏しているのは、恐らく私たちだけ。完全に「耳コピ」による演奏です。その意味ではオリジナルの「カバー」でもあり、演奏スタイルで言えば私たちのオリジナルです。

 さて、今回のテーマはちょっと大胆な(笑)考察です。
クラシックコンサートを開いても、お客様が来てくださらなければ、コンサートとして成立しないばかりか、主催者にすれば「大赤字」です。その状態が続けは次回のコンサートを開催する資金も、やがて底をつきます。演奏者へのギャランティも主催者が自腹で支払うことになります。演奏者自身も苦々しい思いをすることになります。仮に、200名収容できるホールに、来場者が数名だとしたら…
考えただけでもむなしい光景です。来場者も同じ気持ちになるでしょう。
 同じホールで満席の来場者があれば、演奏する人も嬉しいでしょうし、お客様にしてもどこかしら「満足感」を得られるものです。
 では、クラシックコンサートの集客は、どうすれば良いのか?どうするとダメなのか?考えてみます。

 前提になるのは以下の項目です。
・有料のコンサートである
・プロの演奏者が演奏する
・広報費・会場費などの経費が必要
・演奏者と主催者が利益を得られること
逆に考えれば、無料で利益を考えなくて開く場合は前提が変わってきます。
 上記の前提で考える場合、来場者が何を求めているのかを探る「マーケティングリサーチ」が不可欠です。入場者数は演奏者によって、恐ろしいほどの差があります。一言で言えば演奏者の「知名度」による差です。その知名度は?話題になっている演奏者かどうか?に尽きます。ただそれだけです。テレビに出ている人。最近のコンクールで入賞したニュースが流れた人。マスコミが取り上げた人…要は「有名人」なら人が集まると言ういたって幼稚な原理です。
 知名度に関係なく集客できるコンサートは開けないのでしょうか?

 さぁ!ここでラーメン屋さんの登場です(笑)
チェーン展開のラーメン屋さんと、そうでない「街のラーメン屋さん」がありますよね?チェーン店の場合、どの店で食べても同じレベルの味が提供されます。店による個性はほとんどありません。一方、街のラーメン屋さんの場合、そのお店でしか食べられない味があります。
 食べる人それぞれの、好みの問題があります。考え方も違います。
今回、チェーン店を「有名人のコンサート」に置き換え、個人経営のお店を「有名ではない人のコンサート」に例えてみます。
 強引と思うかもしれませんが、チェーン店の場合には店舗数と来店者数、さらには企業の規模が個人店とは比較にならない「大きさ」です。言ってみれば「知名度が高い」ラーメン屋なのです。一方、街のラーメン屋さんは、広告宣伝費もなく、来てくれた人の「口コミ」と「リピーター率」が生命線です。
 よほどのラーメンマニアでなければ、初めての街で知らないラーメン屋さんに入るのは、かなり勇気と決断が必要ですよね?「大丈夫か?」って思います。
チェーンラーメン屋さんがあれば「ま、ここでもいいか」って思いますよね?
 つまり、あまり関心のない人にとって「安心感」が優先するのです。リスクを避けたいのです。コンサートで言えば「あ、この人テレビで見たことがある」という人のコンサートの方が安心なのです。
 では、チェーン店のラーメンはすべて美味しいのか?と言われれば、答えは違ってきます。さらに言えば、個人経営のラーメン屋さんの方が、美味しい場合も当然あるのです。ここからが「勝負」です(笑)

 何よりも「個性」が大切です。個性とは「奇抜」と言う意味ではなく「コンセプトの独自性」です。他のラーメン屋さんにない「その店ならでは」がなければ、チェーン店に太刀打ちできるはずがありません。では何が?個性になるでしょうか?
1.はずは、食べて=聴いてもらうための独自性(工夫)
・他のコンサートにない選曲
・親しみのある曲を含んでいる
・演奏者の人柄を感じられる広告
・初めての人でも安心できそうな内容と価格
2.リピーターになってもらうための内容
・聴いていいて「負=マイナス」の要因を感じさせない
・もう少し=もっと聴きたいと思える内容と時間
・演奏者の人柄を感じられる内容
つまり「最初のきっかけ」と「その後の印象」を、一人でも多くの人に感じてもらう事しか方法がないと思うのです。当然、時間=繰り返す回数が必要です。
最初から多くのファンを集めることを望むのは間違いです。知らないのですから。どんな企画(業種)でも「最初は人が集まる」ものです。それは好奇心によるものです。北海道新幹線、然りです。珍しいから乗ってみる。でも飛行機の方が便利だから二度目はない(笑)
 ラーメン屋さんで言えば「メニュー」にあたるのが「演奏者と演奏曲」です。
あるお店の醤油ラーメンが大好きで、行くたびに食べていても、たまには!塩ラーメンも食べてみたいかな?(笑)
 通常、コンサートは、同じ演奏者の場合でも毎回のように曲目が変わりますよね?しかし、コンサートのコンセプトは変えるべきではありません。お店の「個性」を捨てるのと同じです。
 長く愛される街の飲食店には共通点がたくさんあります。
お客様と店主の「信頼関係」です。物=商品ではなく、人同士の絆があってこそ「名店」になれるのだと思います。
コンサートの場合も同じではないでしょうか?演奏そのものが大切なのは、ラーメンの味と同じです。ただ、コンサートに「人」を感じることが非常に少ない気がしませんか?特にクラシックコンサートの場合は顕著です。「ファン」を大切にしないコンサートに、お客様は二度と来ないのは当然です。どんなにラーメンが立派でも、店員の態度が悪ければ、二度と食べたくないですよね?
 「無名のコンサート」で良いと思います。何度も聴きに来てくれる人が増えれば、それで利益は生まれます。その人が友達を誘ってくれればさらにリピーターを増やせます。時間をかけて!無名万歳!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と演奏のクオリティ

 映像は小学4年生と中学1年生の姉妹が独奏をひいた、メリーオーケストラ第41回定期演奏会の映像です。バッハ作曲「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」第1楽章。この曲は多くのアマチュアヴァイオリン奏者が演奏を楽しむ定番曲です。
 独奏を誰にするか?と言う難題を抱えます。じょうずな人が良いと言う安直な答えではありません。「子供の健全な育成・音楽の普及」を目的として活動するメリーオーケストラです。子供たちが精いっぱい練習し、多くのお客様の前・多くの大人演奏者の前で演奏する緊張感に耐え、弾き終えた達成感を感じてもらうことが一つの目的です。さらに、聴いてくださる方が満足できるクオリティも、音楽の普及という目的達成のためには不可欠です。この一見、相反する二つの目的を達成する補法とは?

 一つは演奏する子供たちに「演奏する責任と演奏する楽しさ」を体感させることです。この二つのバランスが取れていないと成長にはつながりません。
責任感だけでは子供が長く演奏を楽しむことになりません。
楽しいだけでは聴いてくださる方々に対して失礼です。
この両面を子供に体感させるためには、年単位の時間が必要です。
一度覚えれば一生忘れることのない感覚になります。
「できない」「ひけない」で諦めさせない練習。
「これでいい」「もうだいじょうぶ」という妥協をさせない。
「本番で失敗しても大丈夫」という具体的な解決策を示す。
「舞台では主役になる」準備と演出を行なう。
これらをすべて考えて子供の成長を見守ります。

 もう一つは演奏の完成度=クオリティの意地です。
聴いてくださる方々に「身内の発表会」と思われたら終わりです。
あくまでも「オーケストラの演奏会」を楽しんで頂くことを忘れません。
アマチュアだから…
「下手でもいい」と言う甘えの上に立って演奏するのは間違いです。
「うまくひきたい」「満足してもらいたい」気持ちが第一に必要です。
無料のコンサートなんだから、下手でも仕方ない…なんて絶対あり得ません。
コンサート会場に足を運ぶことだけでも大変な労力と時間が必要です。そのことを演奏者は忘れてはなりません。
 今回のように子供がソロを演奏する場合、当然ですが本番で失敗するリスクを伴います。たとえ練習よりうまく弾けたとしても、さらに高い満足感を感じてもらう気持ちが必要です。
 昔から私が用いる手法の一つに「独奏の二重化」と言う方法があります。
ヴァイオリンのソロに限らず、打楽器の目立つソロ部分、フルートやオーボエのソロ部分を「主役」となる演奏者と「アシスト」を担当する先輩演奏者のペアで演奏します。「それでは若手が育たない」と思いがちですが、先輩や上級者・指導者の「サポート」を感じることは問題ありません。むしろ、演奏の責任を強く感じさせるためにも有意義です。そのアシストがない場合、「失敗すればお客様が疑問に感じたり不満に感じる」ことを理解させることも必要なのです。
 今回の演奏会では、独奏の二人に加えてプロのヴァイオリニストお二人に、ファースト・セカンドヴァイオリンの2番(トップの隣)で演奏してもらいました。これも練習時に試し、独奏の子供たちにも確かめさせました。映像を見ると、子供ソリストの向こう側で同じ動きをしている演奏者が見えると思います。
 子供が演奏するピッチとプロのピッチが合わないのは仕方ありません。
それでも子供たちにとって「必要」なアシストです。

 「初めてのおつかい」と言う番組があります。幼児が自宅から初めての買い物をする様子をたくさんのカメラスタッフが追いかけながら撮影する番組です。「やらせ」の部分も見えますが、それでも子供にしてみれば不安な気持ち、怖い思いをしていることは本当です。さらに子供の安全を見守るテレビ局の責任もあります。これとメリーオーケストラの「仕掛け」が重なって見えます。
 アマチュアにプロのような演奏技術を求めるのは間違いです。
一方で、アマチュアをプロがアシストすることで演奏のクオリティが高まり、聴く人の満足感が格段に高くなることも事実です。さらに演奏するアマチュアも、プロの演奏者と一緒に演奏する感動を体感できます。

 演奏するアマチュアとプロの演奏を、聴く人も楽しめるなら、こんなに素敵な演奏会はないと思うのです。特にプロの演奏者は「交通費」だけで参加していることも特筆すべきです。利益のための演奏ではなく演奏することは、プロにとって「特別」なことです。いつもいつもこの演奏では生活できません。
しっかり演奏への対価を得る演奏会も絶対に必要なのです。
そのための「土台=地盤」である音楽のすそ野を広げることに従事してくれるプロの仲間に敬意を表したいと思います。。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

表情・動きと音楽表現

 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌詞がなくても歌に聴こえる音楽

 映像はメリーオーケストラが演奏する「いのちの歌」
作曲は村松崇継さん、作詞はMIYABI=竹内まりあさん。
昨年末、今年年明けに実施した私と浩子さんのデュオリサイタルでは、ヴィオラとピアノで演奏しました。
 今回、メリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏しよう!と決めてから、ホルン奏者で編曲のお仕事もされている音楽仲間、田中大地さんにいつものように(笑)アレンジをお願いしました。演奏会当日まで、すべての楽器が揃う事がないので、毎月一度の練習時にその場にいる楽器メンバーで、リズムと音の確認作業をし続けました。原曲=オリジナルの演奏が多数あります。
様々な歌手が歌う動画をたくさん見つけられます。
それぞれの歌手が、それぞれのアレンジで演奏しています。
ピアノをひきながら歌う人、ピアノと弦楽アンサンブルで歌う人など。
ただ、歌のない状態=インストゥルメントで演奏している動画はあまり見受けません。歌詞のすばらしさが先行しているのかな?いやいや!メロディーとハーモニーが素晴らしい!間奏も素敵な転調をしています。
 こうした「歌もの」と呼ばれる楽曲を、歌なしで演奏すると歌詞を知らなくても「美しさ」を感じる音楽があります。このいのちの歌もそのひとつです。

 

 こちらは、昨年末にヴィオラとピアノで演奏した「いのちの歌」に歌詞を入れた動画です。同じ曲、同じキー=フラット5つの調性ですが、オーケストラの演奏と全く違う味わいがあると思います。どちらが良い?のではなく、個性が違ってきます。
 オーケストラの特色は…
・音色が多彩=楽器の種類が多い
・音量の幅=小さい音と大きい音の差が大きい
・パート数が多いため、複雑な副旋律・対旋律を作れる
・アンサンブル=調和を取るために指揮者が必要
 などです。では?ヴィオラとピアノだと?
・旋律楽器=ヴィオラの繊細な音色・音量の変化が浮き立つ
・ピアノとヴィオラ2種類の音色で聴きやすい
・指揮者が不要
どちらが簡単…とも言えません。

 いずれの演奏も歌詞はありませんが、音だけを聴いていて感じる「風景」が、歌詞の内容を見事に表しているように感じます。
 器楽の演奏で「歌う」と言う言葉を使うことが良くあります。「歌うように弾く」は、歌詞を感じてひくこととは違います。もちろん、歌詞のある楽曲を楽器で演奏する際に、歌詞を思いながら演奏することもありますが。
 楽器を使って歌うとは、自分が自分の声=言葉で、相手に自分の意思を伝えようとする「ような」器楽演奏だと思っています。感情のない言葉や、意味のない声でしゃべっても、誰も魅力を感じないと思うのです。それは楽器で演奏する時も同じです。
 語りかけるように歌う
 訴えるように歌う
 喜びを歌う
 悲しみをこらえて歌う
ただ「歌う」と言っても様々なシーンがありますね。
楽器を演奏している時に感じる感情を、表現するのがテクニックです。
間違えずに演奏するのがテクニックだと思い込んでいる人がいますが、それは「メカニカル」です。機械のように正確に演奏できると言うのは、現代で考えれば「いくらでも機械で速く間違えずに何度でも演奏できるよ」と言う結末に落ちます。
 歌がなくても、詩の内容を知らなくても、美しい音楽を演奏することは可能だと思います。難しい「分析」や「歴史」を知らなくても、聴いた瞬間に鳥肌が立つような=弾きこまれるような演奏は出来るはずです。演奏者が自分の「感じたもの」を表現するテクニックさえあれば。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本に唯一のNPO法人オーケストラ

映像は、NPO(特定非営利活動)法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会での「ダッタンの踊り」です。今回、初めて挑戦したボロディンの作品。壮大なスケールと圧倒的なエネルギーに満ちた音楽を、アマチュアの会員と音楽家の仲間たち総勢68名で演奏しています。
 演奏の細かい傷はあります。多くの原因はアマチュア会員の技術の限界と、当日の午前中1回だけのリハーサルで、午後に演奏会と言う条件によります。
もっと何回もリハーサルをすれば、もっと演奏のレベルが高くなるのは当然です。しかし、営利を目的としない「NPO」として、演奏会に係る費用、練習に係る費用のすべてを会員と賛助会員の負担で行っているので、これが限界です。
毎月一度の練習に集まる会員が、約半年間練習して当日を迎えます。
リハーサルで初めて全員が揃うことにも慣れました。当日にすべてのプログラムを2回ずつ演奏するわけで、体力的な負担も大変なものです。
 これまで20年間、積み重ねてきたのは演奏技術だけではありません。
何よりも「人との絆=人の輪」です。このメリーオーケストラにしかない、個性があります。

 ジュニアオーケストラではありません。大人のメンバーもいます。
一般のアマチュアオーケストラと違い、目的と活動内容は定款によって決まっています。オーケストラの収支や活動内容を毎年、役所に提出します。法人ですから法人税の対象となりますが、減免申請することで免除されています。税務署への申告も必要です。それら多くの「事務」をこなしながらの活動になります。

子供も大人も高齢者も、初心者もプロも、クラシック好きもジャズ好きも。
演歌も、ミュージカルも,J-POPも、クラシックも。
演奏する人と聴く人が、誰一人取り残されないコンサートです。
それぞれに特化したオーケストラがあります。
演奏技術の高さで考えるなら、プロオケよりうまく演奏できるはずがありません。
子供だけに限定すれば、大人は参加できません。
継続しないオーケストラなら「寄せ集め」で事は終わります。
営利を目的としたオーケストラではない事を公的に認められたオーケストラです。入場料を頂かないコンサートを継続するために、会員の会費と賛助会員の賛助会費で運営します。会員でない「プロ」たちに、謝礼をお支払いできない事情があります。それでも参加してくれるプロがいるのは、彼らが本当に音楽を愛し、子供たちと市民に音楽の楽しさを伝える「魂」を持っているからに相違ありません。そんな音楽仲間を心から尊敬します。

 日本で唯一無二の「NPO法人オーケストラ」は音楽業界に取り上げられることもありません。非営利という言葉が「偽善」に聞こえるのは無理もありません。
株式会社としてオーケストラを立ち上げたと言うニュースは話題になりますが、
演奏家の営利をいくら前面に押し出しても、日本の音楽文化は変わらないと考えています。

演奏家が演奏して、多くの人が聴きにくれる環境を作ることが何よりも先決です。文化はお金で買えません。人々が欲することが「文化」になるのです。需要のない娯楽、一時的な流行は文化として根付きません。
 オーケストラって面白いねと、子供でもわかるものでなければ、本当の文化だとは思いません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長 野村謙介


アマチュアオーケストラの演奏技術とは?

 映像は、メリーオーケストラの演奏するオペラ座の怪人。
この音楽に限らず、ミュージカルや映画、ドラマなどのために作曲された音楽がたくさんあります。それらの映像を見たり、ストーリーを知っている人もいます。当然、見たことがない、ストーリーも知らないという人もいます。
 その人たちが同じ音楽を聴いて感じるものも違って当たり前です。
「この音楽はこんな場面の音楽」と言う関連を知らなくても音楽だけを聴いて、勝手に想像することができるのが「音楽」の楽しみでもあります。
 逆に言えば、音楽を聴く前にその音楽が使われたり、作られた「背景」を知ることで、新しいイメージが生まれて楽しめることもあります。
 どちらも「音楽の楽しみ方」として正しいと思っています。

 楽器を演奏する楽しさと難しさは、実際に演奏しなければ実感できないのは当たり前です。聴く楽しみとは違う次元の楽しさが体感できます。当然、演奏するための技術を身に着ける練習が必要です。練習して初めて、難しさと楽しさを実感できます。思っていたよりも難しいことを発見することもあります。
 独学で身に着けられる限界も、実際に練習してみなければわかりません。
練習して自分で納得できる演奏ができるまでの時間は、練習の質=内容で大きく変わります。練習方法は無限と言えるほど、たくさんあります。
 ある人が上達できた練習方法が、他の人にも効果的とは限りません。
一人一人の生活環境と目的によって、最適な練習方法を選んでくれる指導者が必要です。

 オーケストラで演奏するメンバーは、一人一人の演奏技術が違います。特に、アマチュアオーケストラの場合には、その差は「初心者」から「専門家レベル」まで様々です。プロオーケストラの場合は、オーディションに合格できる演奏技術を持っている人しか演奏していません。
 メリーオーケストラの場合、演奏会までの約6か月間、月に一度の合奏があるだけです。それ以外は各自が自分のペースで楽器の練習をします。言ってみれば「メンバー任せ」です。演奏技術が人によって違い、練習できる時間も千差万別、それでも一緒に演奏することに全員が「満足」できる充実感と達成感を維持する秘訣とは?

・演奏会での成功経験~達成感
・合奏練習で得られる連帯感~音楽仲間との交流
・必要で正しい演奏技術の指示~プロ演奏家による合奏指導
・お互いの環境を認めあう優しさ~練習意欲の喚起
・持続できる運営~資金面、指導体制の構築
これらは、私自身の経験に基づいています。
公立中学での穏やかで和やかな音楽部活動、師匠の門下生による合宿での合奏、音楽高校・音楽大学で学んだ専門的技術と合奏、プロのオーケストラででエキストラとして演奏した経験、20年間の中学・高校での教諭として勤務した経験、さらにメリーオーケストラを20年間育ててきた経験、自分が今も音楽に関わっていられる現実と過去、それらすべてが「アマチュアオーケストラの指導」につながっています。

 演奏している人が楽しんでいなければ、聴いている人が楽しいはずがありません。音楽は学ぶものではなく、感じるものです。だからこそ、演奏を楽しむための「スキル」が必要だと思っています。オーケストラは家族に例えられます。また、社会にもたとえられます。多くの楽器と、さらに多くの人が同じ音楽を演奏することは、一人で演奏することに比べて膨大な労力と準備が必要です。
家族が助け合うように、社会が支えあうように、オーケストラはお互いの演奏者を必要としています。誰か一人が書けただけでも、元気がなくなります。苦しみを共有できなければ、楽しみを共有することは出来ません。
 メリーオーケストラは、いつも新しい賛同者を待っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

手作りの味~退化する日本人

上の画像は2022年8月7日に実施する、NPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会で使用したチラシ=ポスターの素材と出来上がったものです。
毎回のように、会員が手書きで書いてくれる素敵な「書」で作っています。
一文字でコンサートへの思いを表すのも、ずいぶん長く続いています。
パソコンで「行書体」などの様々なフォントを使えるようになった現代ですが、人が書く味わいのある文字は、見る人を惹きつけますね。

 スマホ、クラウド、コンピューター、デジタル、AIなどなど、私たちの生活は年々「機械化」されて「便利」になっている反面、人が手で作る暖かさも消えていく気がします。私(昭和35年生まれ)の場合、小学生の頃の記憶にある「機械」は、現代の若い人からは想像もできない「不便」なものです。
洗濯機は、手でハンドルを回して洗濯物を絞る「機械」が付いていました。
お米はお釜かお鍋で炊いたものを「ジャー」に入れていました。
温めなおす時には「蒸し器」を使っていました。テレビは白黒で、チャンネルもボリュームもテレビの前面についていて「リモコン」なんてありませんでした。
電話は「黒電話」当然、ダイヤルを指で回していました。
コピー機が出来たのは恐らく中学生頃です。それまで、楽譜は買ったものか手書きで写したものでした。
 そんな生活に不便さを感じることはありませんでした。当たり前だったのです。私の親世代、さらにその親世代の人たちにすれば「なんて便利になったんだ!」と思っていたはずです。
 生活が便利になるのは、良いことです。それは間違いありません。
ただ、その陰で人が「退化」していることも事実です。
運動機能が退化するだけではない気がします。
「感覚」も退化している気がしています。特に「人に感謝する気持ち」が退化していることを悲しく感じます。
 自動的に機械がやっている…と思い込めば、ありがとう!と言う言葉が消えていきます。料理も、書類も、音楽も「人が作っていない」と思えば感謝の気持ちは生まれません。とても恐ろしい気がします。

 生活する中で、不便に感じたり不満に感じることがあったとき、それを解決してくれるのは「人」です。不便や不満を解決するために「機械」を作っているのは人間です。ただ、実際に動くのは機械なのです。
 テレビに映っている人、ヘッドフォンから聴こえる音楽を演奏している人は、確かに私たちの眼の前にはいません。「仮想」の世界です。
 冷凍食品を作っている人がいます。味付けや食感を研究している人がいます。
でも電子レンジに入れて「チン」で料理が出来上がります。
 いずれ、テレビに映る人、演奏する人、料理を作る人が「ロボット」になる時代が来ます。見る、聴く、食べるのが「人」になる時代です。それが進むと、その人さえ「ロボット=機械」になる時代が来ると思いませんか?
 機械が機械を作る技術は、すでにあります。今は人間が「指示」を出していますが、やがて機械が支持を出す時代が来るはずです。
 生物としての人が感じる、喜びや悲しみは機械には不要です。
感情が退化することが、人類の終わりを意味していると思います。
便利の陰に隠されている「ありがとう」の気持ち。
忘れたくないですね。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

10代のオーケストラと40歳の顧問・指揮者のエネルギー

 2001年3月、横浜みなちみらい大ホールでの演奏。
中学生・高校生のオーケストラ(ハープだけはプロ)の演奏です。
パイプオルガンも当時高校生。指揮をしている私が40歳。
 演奏の技術、オーケストラの完成度以前に「エネルギー」がハンパないです。
このホールで演奏会を開いて2回目でした。子供たちが生き生きと演奏している姿。指揮者がぐいぐい笑引っ張る「むちゃぶりしています。
 今、振ったら楽をすることを考えそうです。子供たちの「テンション」を上げ続けることが顧問としての第一の仕事。学校の反対を理論でねじ伏せ、客席を満席にすることを条件に開く演奏会なって、どこかおかしいですね(笑)会場には、紺離職はおろか、顧問以外の教員は一人も顔を見せず「そこまで嫌うか?」
 若い人の持つ「情熱」は、どんな技術にも勝ります。
今は今で「楽しむ」技を覚えた私です。この生徒たちも今は「おじさん・おばさん」の仲間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日常生活と音楽と

 映像は我が家の姫「ぷりん」トンキニーズ、女の子、7歳です。
子供のころから{犬派」だったのですが、7年前に出会った瞬間から猫派に寝返りました。すみません。あ、でも、いまでも犬大好きです。

 と言うお話ではなく(笑)、今回のテーマは「音楽」と、生きているすべての人の生活とのかかわりです。
 まったく同じ生活を送る「日」はありません。また、自分とまったく同じ生活を送る人もいません。「似たような生活」になることがあります、たとえばケガや病気で入院したとき、同じ病室にいる患者さんの生活は、起きる時間から食べる時間、寝る時間までが同じです。その人でも、退院すればまた「日常生活」に戻るのです。
 人それぞれに、日々それぞれに、違った生活をするのが、私たち人間です。

 音楽を演奏することを職業とする人の「日常生活」とは?
その人の、音楽との関わり方と、生計の立て方によって大きく違います。
プロのオーケストラで演奏する「正規団員」の場合でも、給与だけで生活できる人とアルバイト=副収入がないと生活できない人がいるのが日本の現状です。多くは後者です。
 ソリストと呼ばれる、ごく一部の演奏家の場合の年収も人によって大きく違います。ただ、オーケストラの団員とは比べ物にならない年収です。
 オーケストラメンバーの場合、多くはほぼ毎日「出勤」して練習か演奏会で日々の生活を終えます。サラリーマンと変わりません。
 ソリストの場合、演奏会の頻度にもよりますが、世界中で演奏するソリストの場合、移動移動の繰り返しに多くの時間を割くようです。移動した先で、練習する時間も限られ、すぐに演奏会。終わればすぐに移動。体力勝負ですね。
 音楽大学で学生を指導する「先生」の場合、会議などの「校務」も含めて学校からの給与で生計を立てられる人と、その他の副収入がないと生活できない人がいますが、多くは後者です。「教授」であれば恐らく前者ですが、大学でレッスンをする人の多くは「講師」つまり教授と言う肩書ではない人がほとんどと言っても過言ではありません。
 

 私の場合は「会社経営」で生計を立てていますが、これを音楽家と言えるか?については自分なりに疑問も感じますが、気持ちとしては間違いなく「音楽」で生きているつもりです。
 フリーランスの演奏家の場合、収入は不安定になる人がほとんどです。コロナの影響で生活が苦しくなり、音楽以外の仕事で生計を立てているフリーの音楽家が日本中にいます。それを放置している「日本の政府」が世界の中で最低の政府であることは言うまでもありません。

 アマチュア、つまり趣味で楽器を演奏する人にとっての日常生活。
これもひとそれぞれ、全くと言っていいほどに違います。生活のために必要なお金を得るために「働く」人もいます。家庭で家族を支える「仕事」をする人もいます。働きたくても事情があり、働けずに家や施設で暮らす人もいます。
 そんな中で楽器を演奏する楽しみを持つ人を、私は心から尊敬しています。

 プロでもアマチュアでも、どんな生活にしてもその人が望んだ生活とは限りません。他人の生活がうらやましく感じられるのも珍しい事ではありません。他人の生活をすべて知っている人はいません。自分の生活「だけ」が基準になります。日々の生活に「満足感」「幸福感」「充実感」を感じられるか?と言うのも、自分だけの基準で感じるものなのです。他人と比べられるものでは絶対にありません。
 音楽と言う「楽しみ」を生活のコア=核にすることは、どんな生活をしていたとしてもできることです。
 生活の「時間の中心」つまり、一日24時間、一週間、一か月という単位の中で音楽に関われる「時間」だけを考えれば、ほとんどの人は、ごく一部のはずです。週に1日、1時間だけ楽器を演奏できる人にとって、その1時間の楽しみが「生活のコア」であっても不思議ではありません。
 その1時間以外の時間に楽器を演奏できないからこそ、楽しめる1時間。
それまでの時間を「楽しみ」のために使う時間だと考えられれば、音楽がその人にとって、何物にも代えられない「中心」になるはずですよね。
 時間だけが生活の中心ではないと思っています。先述の通り、生活の基準は人によって違います。どこにも「平均」はありませんし、幸福感の「ボーダーライン」もありません。すべては個人の「考え方」で決まります。

 現実に自分が少しでも、一時間でも楽器に触れていたい、音楽に関わっていたいと思う気持ちは、音楽家の誇りでもあり「証」でもあります。それができない生活だからと言って、自分が音楽から離れるのは「逃げ」だと思います。
私自身は20年間、ヴァイオリンから遠ざかりました。ほとんど楽器のケースも開けませんでした。日々の生活は「サラリーマン」として生き、家族を支えることに徹しました。その期間にもしも「ヴァイオリンを弾きたい!」と思っていたら退職していたか?おそらく生活のために、現実的には「住宅ローンのために」やめられなかったと思います。その20年間、自分の楽器から遠ざかっている間は「ただ家族のため」に生きました。そして今。
 ぷりんと浩子という、二人の姫と共に暮らす人生の「コア」には音楽があります。お金もない、時間も体力もない、健康に不安もある生活ですが「音楽」が人生の「ど真ん中」にあることだけは疑いません。それが他人からどう?見えるかは関係のないことです。音楽に関わって、家族と暮らせれば満足です!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介