音色を変える技術

 映像はサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」10年前の演奏です。
ヴァイオリンを演奏する…一言で演奏と言っても、楽譜に書いてある音符を音にするという意味もあれば、演奏者が楽器を使って「イメージを表現する」ことでもあります。
 ヴァイオリンは弓の毛で弦を擦って音を出すことが通常の演奏です。
音の高さは弦の太さ・張りの強さ・弦の長さで変わります。
音のと良さは、弦の振動の幅と筐体=ボディーの反響と残響で決まります。
音色は?どうやって変えるのでしょうか?
前提として「現状の楽器」で音色を変えることにします。
弦を張り替えたり、弓の毛や松脂を変えたり、楽器の調整をすれば音色は近Pんから変わります。それらに手を加えず「技術」だけで音色を変えることが、ヴァイオリン演奏の楽しみだと思っています。

 簡単に言ってしまえば「右手と左手」の技術の組み合わせです。
★右手…弓を扱う右手の使い方。弓を弦に押し付ける力のコントロール・弓の傾け方=弦にあたる弓の毛の量・弦に弓を当てる駒からの距離と力の方向・弓の場所による毛の張りの強弱の活用・前述の技術の組み合わせ
★左手…弦を押さえる指の場所・抑える力の強さ・ヴィブラートを始めるタイミング・ヴィブラートの深さ・ヴィブラートの深さ・これらの組み合わせ
★右手と左手の組み合わせ…上記の技術を組み合わせて音色の変化を作る

 厳密にはもっと細かい「技術」がありますが、おおざっぱに言っても上記のような「音色を変える技術」があるわけです。
 楽譜で支持されている弦の指定、音量の指示はあくまでも「指示を書き込んだ人の意図」であり必ずしも作曲家の意図=指定とは限りません。出版社によって指示が違うのは日常茶飯事です。
 自分で音色を変える楽しさを「発見」することがヴァイオリンの演奏の醍醐味だと思っています。
 ぜひ!楽譜に書かれていない音色の世界を楽しんでみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の弾きこなす意味

 映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏したものです。陳昌鉉さんのヴィオラ、私にはとても魅力的に感じています。
 今回のテーマは前回のブログに引き続くものです。
演奏者が楽器の個性を引き出すこと。違う言い方をすれば、楽器の弾きこなすことでもあります。先日、会社で税理士さんと「なぜ?ヴァイオリンだけ特別に高いのか」と言う話題になりました。皆さんはどう?考えますか?
 ピアノの「最高峰」と言われるフルコンサートグランドピアノで約2500万円。
パイプオルガンは建物と一体化していることが多く、単純に楽器だけの金額を評価することは不可能です。
 フルート、トランペット、ティンパニなどなど多くの楽器がある中で、ヴァイオリンだけが「10億円以上」のがっきがあります。はてな?素朴な疑問ですよね。結論は「楽器の性能・ポテンシャルとは無関係に資産取引の対象」なのです。ゴッホやピカの絵画、人間国宝の作った焼き物などが本人の意思や、「物としての価値」ではなく「金儲け=ビジネス」の道具になっています。
 ヴァイオリンは300年以上前に「完成された楽器」とされています。その頃から現在まで、壊れずに=修理を続けながら演奏し続けてきた楽器に「プレミア的な価値」があるのは自然なことです。ただそれは、楽器の音色とは無関係です。

 さて、楽器を弾きこなす技術とは、いったいどんな技術でしょうか。
一般に「うまい」とされる演奏は「正確性」「再現性」が判断の基準です。
 この二つの技術は、楽器がどんなヴァイオリンであっても不変です。
ストラディヴァリならうまく弾ける?魔法か!(笑)初心者にとって「正確に何度でも演奏できる」事は大きな課題になります。どんなに上達したとしても、それはゴールのないものです。単純に「ミスの数」だけで点数化することもできます。フィギアスケートの審査と似ていますね。
 ではうまければ楽器を弾きこなしていると言えるでしょうか?
楽器はすべて、音色も音量も違います。「木材」を主材料にする以上、当たり前の事であり、それはストラディヴァリの楽器であろうと、大量生産のヴァイオリンだろうと「差」があることには変わりありません。
★楽器による個性を知るこための技術
1.演奏方法のバリエーションを持つこと
2.弾き方による音色や音量の小さな違いを聞き取る耳
3他人の意見を聞き入れる心の広さ
★個性を引き出すための技術
1.楽器との対話=自分の技術と楽器の個性を常に客観視する気持ち
2.楽器の変化と自分の聴こえ方の変化を並行的に観察する力
3.自分の好きな音色・音量を維持する根気
4.時間をかけて楽器と対話する「一途な気持ち」
 多くのヴァイオリニストが自分の楽器に不満を持つようです。それは初心者、アマチュアよりも「プロのヴァイオリニスト」に強く表れるようです。
 アマチュアから考えれば「それだけの技術があるからきっとわかるんだろう」と推測します。楽器の違いが判り、自分には物足りないと「買い替える」事がヴァイオリニストのステイタスなのでしょうか?そうしなと満足できるヴァイオリンに巡り合えないのでしょうか?
 楽器を「人間」として考えてみると答えはすぐに分かります。
完璧な人間はいません。自分が「パートナー」として選んだ相手に完璧を求めるでしょうか?パートナーのために自分を完璧にできるでしょうか?
 欠点があり長所があり、変化するのが人間です。長く付き合えばさらにその変化は大きくなります。相手の変化、自分の短所をお互いに「受け入れながら」いるのが人間同士のパートナーですよね?どちらかが、我慢できなくなれば「コンビ解消」(笑)になるのは仕方ないと思います。一方だけが我慢することはお互いのためになりません。
 楽器は自分で変わることは出来ません。演奏する人が「変える」事はできます。人間に例えるなら「言葉を話せない乳児(あかちゃん)」にも似ています。
親の思う通りにならないのがあかちゃんです。それでも「愛情」があるから受け入れられる。
ヴァイオリンを「買い替える」ことは「道具なんだから」と思えばできることです。それを「自分の子供」だと考えたら「気に入らないから買い替える」って…出来ないと思います。自分が育てる。自分も成長する。それが楽器を育て、自分を成長させることだと思います。
 赤ちゃんが、言葉にならない意思表示をするとき、親は子供のすべてを観察して「もしかして?」と子供の意思を探りますよね。ヴァイオリンにそれをしているでしょうか?
 楽器の個性は人間の個性と同じだと思います。相手によって変わるものです。
人間はヴァイオリンを選べます。ヴァイオリンは演奏者を選べません。
 どんな楽器だろうと、その個性を最大限に引き出すために何年かかろうと、一生かかろうと私は厭いません。私にとって今のヴァイオリンとヴィオラは「大切な家族」なのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦楽器の価値は楽器で決まるのか?演奏者で決まるのか?

 映像は陳昌鉉さんが2010年に作られたヴィオラで演奏した赤とんぼです。

 上の画像はそのヴィオラの写真とラベルです。一般に新作の楽器はオールド(製作から100年以上経過した楽器)より「価値が低い」とされているのが弦楽器の不思議な「定説」ですが、私はこの固定観念は間違っていると確信しています。
 誤解のないように言葉を足せば「古い楽器が新しい楽器より価値があるとは限らない」と言うことです。
「ストラディヴァリはどうだ!」「グヮルネリは?」「アマティはどうだ」
必ず食いつく人がいますが(笑)「名作」と言われている楽器を、初心者が演奏して良い音が出ると思いますか?「プロが弾かなければ価値がわからないんだ!」と仰る方が、プロの演奏するストラディヴァリの作った楽器と新作のヴァイオリンを聴き比べて「当たる確率」は50パーセントと言う世界的なデータを否定できるでしょうか?「聴く人の耳が悪いだけだ!」いいえ。それも違います。
プロのヴァイオリニスト、ヴァイオリンの製作者が聴いても結果は同じです。50パーセントの確率です。つまり?
 演奏する人の技術の差の方が、楽器の違いよりも大きい
事は紛れまない事実です。演奏する技術が足りなければ、どんな楽器を演奏しても「それなり」の音しか出せません。言い換えれば、その人が安い楽器を演奏しようが高い楽器を演奏しようが「大差はない」のです。
 楽器を買えれば音色も音量も変わります。それは事実です。
演奏技術が高いほど、楽器の個性を見つけられ、固有の音色を引き出せます。
楽器固有の音と演奏者の「相性」がすべてです。要するに好みの音を持っている楽器に根巡り合うことが、演奏者の喜びであり「運命」なのです。
 高い楽器を手に出来ないから、演奏技術が低い。
論理的に間違っていますよね。
 高い技術があれば、どんな楽器でも良い音が出せる。
これ、間違っていませんよね?
つまり、演奏技術を高めることが楽器の価値をあげることになるのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器を「オールドには劣る」と決めつける人を見かけます。自分の好みではない音…だと言われれば否定は出来ませんが、それは「好み」の問題であり客観的な基準・事実ではありません。
「日本で一番おいしいラーメン屋さん」
ありえないですよね(笑)それと同じことです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「音楽を演奏する」という目的を見失わない!

 映像はチャイコフスキー作曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 さて今回のテーマは楽器の練習をする人…楽器に限りませんが(笑)、自分が何を目的に?楽器を練習しているのかと言う「目的」を再確認するテーマです。
「楽器を弾くのが好きだから」だけで十分!と言われればそれまで(笑)
多くの演奏家が様々な「壁」にぶつかります。自分の技術や知識の少なさに心が折れることもあります。もうやめよう…無理だ…向いていない…才能がない…
私だけではないようで、生徒さんたちも同じように「挫折」するのが当たり前のようです。
 多くの人は先述のように「楽器を弾くのが面白い・面白そう」と思っていた時期があるはずです。ところがいつの間にか「うまく弾けないからつまらない」と言う気持ちが自分のやる気を焼失させます。それでも楽器を弾くことが好き!と言う人は少数のようです。
 楽器を「上手に弾こう!・弾きたい!」と思う気持ちは大切です。間違えずに、正確に何度でも思ったように演奏で着たら「さぞかし!」気持ちいでしょうね(笑)それが「目的」になってしまうと「出来ないからつまらない」になるのでは?つまり「音楽を演奏したい」と言う目的意識を忘れないことが何よりも大切だと考えるのです。
楽器を演奏することと音楽を演奏することは、明確に違います。
音楽を「上手に」演奏することは不可能ですし、日本語としても不可解です。
楽器を「上手に」演奏できるか「へたくそ」かの「違い」は確かにあります。
速く・正確に・何度でも演奏できれば「上手」で、それが出来ないと「へたくそ」に近づきます。
 へたくそでも音楽は演奏できますし、楽しむこともできます。
「それじゃ自己満足じゃん!」他人の技術について「偉そうに」語る人に限って、自分の演奏にケチを付けられると火が付いたように怒り狂います(笑)それこそが「自己満足」だと本人が気付いていないだけです。
 他人の技術についてどう思おうと、それは人の自由ですが、自分の中だけに収める問題です。他人に公言することではないはずです。
 技術を点数化することが大好きな人もいます。優劣を競うことが好きな人もいます。それも自分の中だけで楽しむべきです。他人の技術に序列をつけられるほどの技術があるなら、自分がその中で一番にならなければ無意味ですよね?(笑)できもしないことに「あの人は下手だ」と言える自信は、いったいどこから生まれるのやら理解ができません(笑)
 自分の音楽に誇りを持ちましょう。誰からも批判されるものではありません。
自分だけの音楽を演奏することが、楽器を演奏する楽しさのはずです。
じょうずに演奏するより、自分だけの音楽を楽しんでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロだとかアマチュアだとか、どうでもいいでしょ(笑)

 映像はポーランドの初代大統領でもあったピアニスト・作曲家の「パデレフスキー」作曲のメロディー。オリジナルはピアノ曲ですがヴァイオリンとピアノで演奏できる楽譜があります。
 さて、今回のテーマは「プロ」「アマチュア」という「区別」について。
以前にも書いたことですが、この千匹にいったいどれほどの?意味があるのでしょうか。
 「プロなら●●」「プロなのに××」「アマチュアだから★★」「アマチュアの割に△△」という枕詞。単なる先入観と固定観念で話しているとしか感じません。そもそも誰が?どんな基準でプロとアマの「基準」を作れるのでしょうか?
「職業音楽家」がプロだと言う定義を使う場合でも、演奏だけで生活できない・生活していない演奏家は「プロ」ですか?「アマチュア」ですか?
「趣味で演奏する人がアマチュア」だと言う定義の場合にも疑問があります。先述の通り「金銭目当てではなく趣味で」演奏する人はすべてアマチュア?あれれ?
最悪な線引きは「うまければプロ」「うまくなければアマチュア」これ小学生でも間違っていることがわかるレベルですよね。技術の違いだけで区別されるものでもありません。
 結論を言えば、日本語で言われる「プロ・アマチュア」の違いに明確な定義がないと言うことです。職業として「音楽家」でも決まった組織(法人)で給与を受け取れば「会社員」ですから明確な「音楽家」と言う職業さえ存在しないことにもなります。「音楽家」「演奏家」が「プロ」でも「アマチュア」でも
呼び方はど~でも良いと思うのです。
 誰がなんと言おうが、自分が音楽を演奏することが好きなら加賀滝や呼称にこだわる必要はありません。プライドのために「プロ」と言いたい人はそれで良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト…なのか?(笑) 野村謙介

高級レストランやレトルトもいいけど家庭の味が好き

 映像はアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したもの。撮影と録音「コンデジ」(笑)場所駅前教室
 さて、今回のテーマも音楽を「食事」に例えたお話。
家庭の味…おふくろの味とも呼ばれます。それぞれの人に「懐かしい味」があります。家庭でなくても昔の記憶が蘇る「味」「香り」「料理」があるものです。
 私の場合…母の作ってくれた料理が「家庭の味」でした。
・作る時によって違う色のコロッケ(笑)
・最後に焼かずに食卓に出るマカロニグラタン(笑)
・水炊きと言う名の鍋
・まったく辛くないカレー
・バナナケーキ(これはいつも美味しかった!)
・お腹を壊すと食べさせられた南瓜(かぼちゃ)←明らかに逆効果
・鶏肉ご飯と言う名の炊き込みごはん
・コロッケに小麦粉・卵を付ける「前」の具を玉子でくるんだ謎のコロッケ
・あまったマカロニグラタンをケチャップで炒めた「あれ」
思い出してもきりがないほど(笑)
 高級フランス料理店や高級すし店、高級←やたらこだわる(笑)中華料理店には縁のない生活で育ち今でも(笑)
 音楽にも「コース料理」に似たものもあれば「家庭料理」に似たものもあります。ジャンルとは無関係に「音楽を聴く楽しみ方」の問題です。
 形式を重んじるコンサートもあります。ポピュラーのライブでも初めて行くと周りに圧倒される「決まり事」があったりして(笑)
 いつ、だれが聴いても「懐かしい」と感じたり「癒される」と感じるコンサートが私の理想です。聴いたことのない音楽を知らない人が演奏していても「おいしい」と感じる演奏。
 おいしいチャーハンを作りたい!のです。
一見「ただのチャーハン」でも食べ終わって「また食べたい」と感じる「あれ」です。もちろん「非日常」を求めてコンサートに行く方もおられます。
「格式を楽しみたい」方もおられます。それを演奏する人も。
 私は「見栄えより雰囲気」を楽しんでもらいたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大きな小品(笑)

 映像はサン・サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」
10年ほど前の演奏です。この曲はソロヴァイオリンとオーケストラで演奏するのがオリジナルの楽譜です。ピアノとヴァイオリンで演奏することも多いの楽曲の一つです。サン・サーンスはヴァイオリン協奏曲も作曲していますが、この「ロンカプ」はヴァイオリンコンチェルト…とは呼ばれません。
 単一楽章で完結する楽曲は「小品」として分類されます。が…この曲、かんり大曲です(笑)

 オーケストラと共演する場合とピアノと共演する場合の違い。
・オーケストラは楽器の種類が多い(弦・木管・金管・打楽器)
・オーケストラの音量差=一人~全員演奏のが大きい
・オーケストラは音色の違う楽器とヴァイオリンの共演
・オーケストラで演奏する楽器はほとんどが「純正調」ピアノは「平均律」
・オーケストラとの練習は大がかり(笑)
などなど違いは様々です。ヴァイオリンコンチェルトをピアノとヴァイオリンで演奏する場合、オリジナルの演奏とは全く違う「音」になるのは当然です。
作曲家が意図した音色や音量のバランスも、オーケストラとピアノでは違います。
 作品によって、オリジナル=オーケストラとソロヴァイオリンがあっても、ピアノとヴァイオリンの「楽譜=音楽」を聴いて素晴らしい!美しい!と感じる曲も多くありますが、残念!な楽譜も多くあります。
 この序奏とロンド・カプリチオーソの「オリジナル」をご存知の方にとって、ピアノとの演奏は「物足りない」と感じる人もおられますよね?
 もちろん「好み」の問題がありますが、ピアノとヴァイオリンで演奏するロンカプ「も」好きな人もいます。
 ピアノは「オーケストラの代用楽器」ではないのです。フォルテ・ピアノと言う一つの楽器です。そのピアノで演奏して美しい曲もあれば、「?」と言う楽譜もあります。ヴァイオリンでも同じことが言えます。
 クラシック「おたく様」の中には「オリジナルの楽譜=編成でなければ良さがない!」と言い切る方もおられますが、私はそう思いません。音楽の「好み」は人によって違うのです。作曲家の「狙い」とは別に演奏する人・聴く人の好みがあります。それが音楽だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏で優先されることの違い

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏した「ダッタン人の踊り」
オーケストラを立ち上げてから21年間、毎年2回の定期演奏会と毎月一回の公開練習を続けて今日も活動を続けています。「継続は力なり」まさに私たちのオーケストラを表している言葉だと思っています。
 どんな演奏であっても「演奏家の魂」があります。魂のない演奏は「音」だと思っています。「魂とは?」哲学ですね(笑)頭の弱い私が表現できるとは思えませんが、少なくとも「目に見えないもの」であり「感情の一部」であることは言えると思います。

 演奏する人・人たちにとって優先するものがあるはずです。
それが「お金」であっても間違ってはいません。「楽しみ」であっても良いと思います。楽しみ方も「自分の楽しみ」だったり「聴く人の楽しみ」だったりしますよね。聴く人の意志とは無関係に、演奏する人の「意思」があることになります。いくつもの意思=狙いがあるコンサートも存在足ます。お金=入場料も必要・演奏者の喜び・聴く人の笑顔・社旗への貢献などなど。
 そんな中で「何を優先するのか?」が大切だと考えています。
優先するものがあれば「我慢する」ことも必然として生まれます。我慢に勝る価値があるから優先するわけです。

 私がメリーオーケストラを立ち上げてから今日まで優先し続けていること。
「誰からの束縛も受けずに好きな音楽だけを演奏する喜び」を得ることです。
音楽性や演奏技術よりも、音楽を演奏すること・できることの「本質」がそこにあると思っています。
 言うまでもなく「自由」を優先することは多くの「壁」を作ることになります。経済的な問題もありますが、一番大きな壁は「継続性」なのです。
 自由に演奏することを、一度だけ実行するなら誰にでもできます。
それを継続して実行することは本来「優先事項」ではないのですが、自分たちの意思で演奏活動できることが、演奏家にとって最も大切なことだと信じている私にとって「やめる」ことは「敗北」を意味します。立ち上げた人間の責任として、自分が指揮をできる間は…期間限定?(笑)続ける意地があります。

 浩子さんとのリサイタルにも同じ「魂」があります。違いがあるとすれば、演奏者の人数だけです。メリーオーケストラの演奏者は、ここ数年70~80名です。
アマチュアもいればプロもいます。プロの方には当日の交通費だけで演奏に参加していただいています。会場の費用や開催に必要な金額は会員と賛助会員の「会費」と会員の参加費で賄います。規模が大きいメリーオーケストラに比べ、夫婦二人で毎年2回の演奏活動を15年間続けて来られたのは、紛れもなく「魂」だと思っています。好きな音楽を演奏したいという気持ちだけです。

 最後になぜ?私が自由を優先する気持ちになったのか…
20年間、学校と言う組織の中で子供たちに「音楽の楽しさ」を伝える仕事をした時の経験が「自由」の大切さを教えてくれた気がします。
 学校でオーケストラ…なんて理解のある学校!外部から見れば間違いなくそう見えたはずです。事実、何度も取材を受けるたびにその言葉を耳にしました。
 現実は?日々、管理職を含めた他の教員との闘いでした。大げさな話や誇張ではなく事実です。当然、教務の仕事など「校務分掌」を当たり前にこなしたうえで、部活動オーケストラの指導をしていましたが、99パーセントの教職員は「音楽活動」を教育活動とは考えていませんでした。管理職に至っては「私立学としての広報」と言う発想さえできない無能ぶりでした。
 簡単に言えば「潰したい部活」がオーケストラで「排除したい教員」が私だったわけです。その中で20年間、最終的には150名のオーケストラを引っ張るための戦いは「自由を得るための闘い」でした。父の介護で退職しましたが、辞めた後も執拗に私への攻撃は続きました。それが「学校」という組織であり、自由と真逆にある組織だったことを学べました。

 演奏する人が何を優先しても良いと思います。
何かを得ようとすることが「煩悩」だとしても、演奏自体が人間の欲求で行うものですから否定されるものではないはずです。堂々と自分の「欲」を表に出す勇気も必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度をコントロールする

 映像は私の地元、相模原市橋本駅前にある「杜のホールはしもと」での演奏風景。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」の演奏です。
 このホール、残響が美しい!演奏していて気持ちのよいホールです。
さて今回のテーマは「弓の速度」です。ヴォカリーズの演奏を見て頂くとよくお分かりいただけると思いますが、弓の速度は常に一定…とは限りません。
 もちろん、基礎技術として「同じ音色」「同じ音量」でダウン・アップがそれぞれに演奏できるように練習することは、日々欠かさずに練習します。
一方で曲の中で「一音」の中でも音色や音量を変えることが音楽的に求められる場合もあります。逆に言えば、すべての「一音」を「べた塗」すれば全体が平面的なな音楽になります。音の立体感=奥行を表現するために、ヴィブラートや弓の速度・圧力をコントロールする技術が不可欠です。
 同じ長さの音符でも、意図的に弓の速さ=弓の量を変えることで、音色が大きく変わります。音の大きさをコントロールするのは、むしろ「圧力」と「音の立ち上がり」が大きく影響します。弓を速く動かせば音が大きくなると「勘違い」している人も見かけます。弓の速度を遅くすれば「詰まった音=芯のある音」に近づき、逆に速くすれば「空気の含まれた音=軽い響きの音」が出せます。圧力との組み合わせでさらに大きな変化量が生まれます。
 また、演奏する弓の「場所」も本来は音色に影響します。}弓先と弓元は「硬い音」を出すのに適しています。一方で弓中は「ソフトな音」「軽い音」を出すのに適しています。
 これらの要素を考えながら弓を決めることが大切になります。ホールの響きや曲によって弓の速さも変わります。
 ぜひ、自分の好きな曲で試してみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介