新年度スタート

桜の花びらが舞い散る4月です。
メリーミュージックの生徒さんたちにも「新学期」らしい出来事が。
幼稚園から高校生まで、多くの生徒さんが新しい年度に入りました。
中学校に入学する生徒さんが今年はとても多く、それぞれの思いを胸に新しい学校に通い始める準備を楽しんでいます。
小学生もちょっと前まで「いかにも!」だったおこちゃま(笑)が、すっかりお姉さん、お兄ちゃんになっていきます。
大人の生徒さんにとっても、新年度は何かと忙しい時期。加えて「花粉症」
お気の毒です。

子供の成長は楽器を弾いている姿からも感じられます。
本人が気づくわけでもないのですが、こんなことが。
・集中力を持続できる時間が伸びる。
・私たち「先生」の話を聴く気持ちと態度がそなわる。
・表現したいことが増えてくる。
そのほかにもたくさん!あるのですが、時にヴァイオリンの場合、「先生の真似をしたい」気持ちが芽生えます。これ、教える側にはうれしいと同時に、どきっとします(笑)
私はレッスンでできるだけ、生徒さんの横で一緒にヴァイオリンを弾くようにしています。そんなレッスン中に「じーーーーーー」っと私の左手を瞬きもせずに子供が見ていたら「びぶらーとってどうやるのかなぁ…」なのです。
その目の先で「わかりやすく」ヴィブラートをかけて子供の弾いている曲を弾きます。こどもの好奇心と観察力、集中力が一気に高くなる瞬間です。
理屈や言葉ではなく「感覚」として真似をしてみたくなるのが、一番大切です。

少し大きくなった生徒さんたちの成長は「音楽を演奏する」感情が起きてくることです。
ただ音を出す。楽譜を弾く。間違えずに弾く。ことから、「何かを感じる」音楽への変化も言葉で教えられません。
音楽を演奏することで、本当にたくさんの感覚が研ぎ澄まされ、我慢すること、達成すること、もっとうまくなることを繰り返す中で、音楽以外の能力も高められます。
「楽器を習えば勉強ができるようになる」ことはあっても
「勉強ができるから楽器が弾ける」わけではないのです。
勉強に限らず、日常生活でもメリハリのある生活が生まれます。
新しい生活に音楽を!

メリーミュージック
野村謙介

好奇心と音楽

大人になると子供のころような「好奇心」が薄れていくことが多い…むしろ好奇心が薄れいていることに気づかないことが多いかも知れません。
音楽に限ったことではありませんが、日常生活中に小さな疑問を持ったり、興味を持ったりすることが、とても大切だと思っています。
考える以前に「感じる」ことが好奇心だと思います。好奇心は考えてから感じるものではないからです。
何気ないことでも、逆に自分が本気で取り組んでいることでも、その好奇心の有無(ゆうむではなく「うむ」と読みましょう笑)が変化や成長のカギになると思います。
自分の音楽への好奇心を失うことを「飽きる」と言ってもよいでしょう。
壁に突き当たって、行き詰った時にも好奇心のアンテナを伸ばすと、新しいアプローチができたりします。

昨日は生け花…と言ってしまって良いのかわかりませんが、
花と空間の不思議な世界を体験しました。
生まれて初めて「生け花」というものを実際に感じた日でした。
私自身が好奇心がなければ、なにも感じないのはもちろんですが、
その空間を作り出している「先生」がとても素敵な方でした。
短い時間でしたが先生とお話を交わさせていただいて、不思議なくらい「若さ」を感じたのは先生の好奇心が子供のように旺盛に感じたからかもしれません。
創造力、独創性は努力の上にある「好奇心」の結晶に思えます。

そして、今日のレッスンで自作の「エレキギター」を見せてくれた中学生男子生徒。
彼もまた、好奇心の旺盛な少年です。「レゴ」少年です(笑)その少年が作ろうとするものは、純粋に「おもしろい」ものを作っています。
ヴァイオリンを作ろうと思ったら、大きくと重くなってしまうと話す彼に、私の好奇心もメラメラ(爆笑)

何かを創りたければ、そのもの以外に好奇心を持つことが大切です。
「どうなってるのかな」
「どうやるのかな}
「多分…」
そこから時間をかけて考えていけば、きっと自分の知らなかった自分の能力に出会えると思っています。

野村謙介

オーケストラで演奏する

一人で楽器を演奏するのも楽しいです。
二人で一緒に演奏するとまた、違った楽しさを感じると同時に、ひとりで弾く時と違う難しさを感じます。
さらに大人数になると、二人で弾く時とはまた違った楽しさと難しさを感じます。
オーケストラのメンバーとして演奏する経験は、とても貴重な経験です。
プロのオーケストラは「個人もプロ」です。一人で演奏出来て当たり前の人たちの集まりです。それでも難しいのです。
指揮者の要求に応えるために、個人とそれぞれの楽器やパートで合奏までに練習します。しかも限られた時間と回数の中で。その練習の成果を指揮者が評価しさらに要求を出す繰り返しです。

アマチュアオーケストラは「趣味の演奏家」の集まりです。
ひとりで楽器を弾くことも、まだ未熟なのが当たり前です。
その人がみんなで一緒に演奏することを「無理」「不可能」という人もたくさんいます。
合奏するための演奏技術は、一人で演奏する技術に加えて身に着けるものですが、ひとりで演奏する技術を身に着ける「目標」として合奏できる技術の習得を目指すことを私は「メリーオーケストラ」で実現しています。
メリーオーケストラだけではなく、過去の学校部活動指導の経験の中で実践してきました。
誤解を避けるために書きますが、現在多くの学校で行われている「毎日必ず参加しなければならない部活」とは全く違います。実際、私の部活指導は、
合奏は週に一度。全員が参加するのは合奏。その他の日は、各自の生活計画を最優先し、拘束はしない。自己責任で練習するという部活でオーケストラを指導してきました。

話を戻しますが、合奏するために必要な個人の技術を、個人が練習するときに
「なにを練習し、だれが評価するのか」が重要です。

メリーオーケストラには各楽器の指導者と指揮者(私)が常に合奏の指導を行っています。
指揮者の要求する技術を身に着けるための具体的なことを、各楽器の講師がメンバーに指導します。
どこまでできれば?
これも指揮者の指導責任です。
すべての人が違う環境で暮らしています。
技術も楽器も違います。
だからこそ、求める水準を指揮者が全員に伝えるのが合奏です。
一人一人の演奏技術を合奏に参加できる高さに引き上げるために、
厳しい言葉をはっきり伝えます。あいまいな言葉にすると人によって、とらえ方が変わってしまいます。

「練習したのに評価が低い」「できるようにならない」

その不満や不安はオーケストラで演奏する人なら、アマチュアでもプロでも感じることなのです。それを承知で指揮者は要求します。それぞれの努力を一人ずつ評価するのではなく「オーケストラとして」評価していくことが指揮者の仕事です。

自転車の補助輪を外して乗れるようになるまでの涙を覚えていますか?
転んで、倒れて、その時一緒にいてくれた家族が、もしも「もうやめていいよ」と言ってしまったら、乗れないで終わってしまったはずです。
「もっと前を見て」「怖がらないで」「力を抜いて」と言いながら、荷台を押して子供と一緒に汗を流した経験はありませんか?
「できなくてかわいそうだから同調する」だけでは、できるようにならないのです。
出来るようになった時に、子供と一緒に喜べるから「心を鬼にして」頑張らせるのが「親心」だと思います。

オーケストラは楽しいけれど難しい
難しいから楽しい
それがわかるまで、負けずに頑張ってほしいといつも願っています。

メリーオーケストラ代表
野村謙介

メリーオーケストラ定期演奏会を終えて

今年で16年。毎年2回の定期演奏会を一度も欠かさず続け、33回目の定期演奏会が2月4日に終わりました。
70名の演奏者がステージに集まり、同じ音楽を作り上げることは、楽器を演奏する中で最も規模の大きな演奏になります。
オーケストラで演奏するために必要な技術と、ひとりで楽器を演奏するために必要な技術について考えてみます。

もちろん、順序で言えば「個人の技術」→「合奏の技術」です。
一つの楽器をひとりで好き勝手に演奏するだけでも難しいものですよね。
いい音で、正しい音の高さで演奏する。
そして決められた音符と休符の長さで演奏し、音の大きさを変えられること。
それだけの事が出来るようになるのに、何年も何十年もかかります。
これが「ひとりで演奏する個人の技術」なのですが…
これをマスターしてから「一緒に演奏する=オーケストラの一員として演奏する」ことに進むとなると、ほとんどの方は途中でドロップアウトしてしまいますし、「これが出来たらオーケストラに入れる」という基準は

ありません!!

アマチュアオーケストラでオーディションを行うことに、強い疑問を感じます。
プロのオーケストラの場合、演奏しようとする曲を、プロの演奏として自分たちが決めた水準以上の技術を持った人だけを集めます。
これは正しいことだと思います。
一方でアマチュアオーケストラの場合は、メンバー個人の問題より、合奏する「演奏者」が趣味で演奏を楽しむ人の集まりなのです。
メンバー個人の技術力に差があることを認めないのは、間違っていると私は思っています。
「そうはいっても、サードポジションができなければ交響曲は弾けないだろう」と言い切る人がいますが、これもアマチュアオーケストラとして考えれば間違っています。
現にメリーオーケストラにはサードポジションでまだ弾けないヴァイオリンのメンバーが何人もいます。構わないのです。
その子供たちやメンバーだけを特別に扱っているのではありません。
「できないから出来るようにがんばる」のが趣味の世界です。
「できて当たり前」がプロの世界です。
5歳のちびっこヴァイオリニストが、9曲のプログラムすべてに「すべて」参加しました。
弾けない音もたくさんありました。それでも、最後まで楽譜を目で追いかけ、ほかのメンバーと一緒に弾ける場所の弾ける音だけを弾きました。
その子供が次回の演奏会で、もう少し多くの音を弾けます。
さらに次の演奏会、次の演奏会と経験を重ねる中で、やがてすべての音を演奏できるようになるのが「成長」なのです。
今現在、できることだけで線を引いてしまい「あなたはできるから一緒に」と弾けない人を排除するのがアマチュアオーケストラのオーディションです。82歳の元ちびっこヴァイオリニストもメリーオーケストラにいます。
その方にとって、練習に来ること、本番に出ることは体力的にとても厳しいことです。
その方が生き生きと演奏している姿に純粋に感動しました。
その方の演奏技術が問題でしょうか?その方だけを特別扱いしていません。
メリーオーケストラは全員が特別なのですから。
一緒に演奏するための技術は、一緒に演奏してみないと必要な技術、自分に足りない技術がわかりません。
だからこそ、初めてのオーケストラで学ぶことが大切なのです。
出来ないことをできるようになるまで、個人一人一人が練習して、また合奏に参加することの繰り返し。一人で練習しなければ合奏だけで弾けるようにはなりません。「アマチュアだから」という言葉はこの面では言ってはいけません。自分がオーケストラで楽しみたいのなら、合奏の前に一人で練習することが「必要」なのです。その量や内容はみんな、違います。でも、

「合奏までに練習する気持ち」を持つことが一番大切です。

メリーオーケストラ代表
野村謙介

音楽大学に通う人に

音楽大学に通う若い人たちに思うことを書きます。
時代が変わっても、音楽を学ぶ気持ちに変わりはないはずです。
「プロ(職業音楽家)」を目指すのか、純粋に「音楽を学びたい」のか。
私たちの学生時代(30年以上前)にも、卒業後の進路としてプロを目指していない人も中にはいた「かも」知れません。それはそれで間違ってはいません。
音楽を学ぶことは、今も昔も音楽大学に通わなくてもできることです。
また、通いたくても経済的な理由で進学できなかった人も多いことも変わりません。
音楽大学に入学するための事前の努力は、入学後に学ぶための「土台」となります。
その土台をスタート地点とすれば、入学後の一日一日が延々と続く「学ぶ」時間です。学ぶことは「練習と授業」だけではありません。日々の生活そのものから、自分に必要な何かを学び取れる人は、人間として、音楽家として成長し続けます。

「自分はどこを目指すのか?」
せっかく努力して音楽大学に入っても、自分の目標を見つけられなければ、時間は無情なほどに早く過ぎていきます。
私自身は演奏が専門ですので「演奏家」について書きますが、おそらく作曲や音楽学でも同様のことが言えると思っています。

目指す演奏が自分の師匠にあるはずです。
レッスンで自分に演奏を教えてくださる先生(師匠)の演奏を目標にするのは当たり前のことだと私は思ってます。むしろ、そうでないなら習う意味はないと考えます。
その師匠が仮にいわゆる「演奏家」ではない場合も考えられますが、優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないことは言うまでもありません。
一方で優れた指導者が優れた演奏家であるとも限らないと思います。
ただ後者の場合、指導者が弟子を上手にすることが「うまい」のであって、弟子の立場から見れば、師匠の求める演奏、指導の内容を忠実に練習し、師匠の要求に応えていくことが「目標」であるわけです。
いずれの場合も、弟子が師匠から学び取ることは容易なこと、安直なものではありません。教える側からすれば「もっと!」「まだまだ!」と思ってもそれが弟子に伝わらず、歯がゆい思いをしていることも多いのです。
音楽大学で学ぶ人にとって、自分の演奏技術を認識するのは、師匠からの言葉以外には、他の学生との比較になります。もう一つ、重要なのは自分で自分の技術を評価することです。その3つのバランスが一番大切です。
師匠の言葉、他の学生との比較、自己評価。
偏りがちなのは、2番目の他の学生との比較です。成績や順位。これはとても大切な評価ポイントですが、あくまでも「その時いる人との比較」ですから、むしろ流動的な評価です。学校の中、学年の中での評価です。一喜一憂する必要はないのです。
自己評価を客観的にできるようになるための学生生活です。
自分に足りない技術と知識を常に発見しようとする姿勢は、ともすると「後ろ向き」と思いがちですが、上達したいのなら自分の欠点を長所に変える覚悟がなければ無理でしょう。
自分の長所を見つけるのは自分ではなく、師匠です。
自分の欠点は師匠からの指摘と、もう一人の自分からの指摘です。
もう一人の自分を常に持つことこそが「客観的な練習」です。
友人との競争より、もう一人の自分からの指摘に負けないことが重要です。
若いからできることをしてほしいと思います。
そしてやがて、自分が経験と年齢を重ねたときに、若い時の記憶がどれほど重要だったのかを知ることになります。後悔してもどうにもならないのが、若い時に苦労することを避けた「甘え」なのです。

若い音楽家のみなさん。
どうか夢を諦めないで大きな目標を見据えてください。
これからの音楽世界を作るのは、若い人たちなのですから。

野村謙介

弓の毛を張り替えること

弦楽器奏者にとって「弓の毛の張替え」は弦の借り換えと同様、いつ変えようかな¨と迷うことの一つです。
馬のしっぽの毛ですから、弾かずにいたとしても時間とともに劣化します。
人間の髪の毛を考えればよくわかりますが、カットしたり、抜け落ちた髪の毛は弾力がなくなり、細くなっていきます。馬のしっぽの毛も同じです。
古くなると、弾力がなくなり、細くなります。表面の凸凹は残っていたとしても、新しい毛の柔らかさは失われます。
使わなくても、せても1年に1度は張り替えてもらいたいと思っています。
その張り替える職人さんの「技術」は演奏家にわかりにくいものですが、
技術と経験が足りない職人さんが張り替えた場合との違いは、明らかにあります。
弓の木の弾力を見極め、すべての毛を均等な間隔(幅)で揃え、その時の乾燥や湿度と、弓の長さを考えて、緩めたときに、毛だけでなく弓の木(スティック)も完全に休める状態に長さを決める¨。
さらに、くさびを正確に削り、抜けない。でも次に張り替える時に外せる大きさにする。
なさに「職人芸」だと思います。

毛の良しあしも大切ですが、私の経験で言えば「職人の技術」の方が重要です。

私は中学生の時から「毛替えは目の前で職人さんがしてくれるもの」だと思ってきました。自分の大切な弓を目の前で触ってくれるので、なにも心配がありません。その意味で、主治医「櫻井樹一氏」は私が楽器、弓のすべてを任せられる唯一の職人さんです。

張り方の好みや、楽器調整の好み、職人さんとの相性は大切ですが、ヴァイオリンンの主治医を見つけることがなによりも大切なことです。

みなさんも、信頼できる職人さんを探しましょう。
難しければ「信頼できる師匠」に紹介してもらいましょう。

野村謙介

私の個性的な「眼」

網膜色素変性症という治療法のない眼の病気です。
進行性の病気で原因も不明。多くの場合、失明に至ります。
その進行の速さや内容は人によって大きく違います。
日本だけでも約3万人の患者がいる「難病指定」の病気です。

私の場合、3歳ごろに夜盲の症状があって両親が気付き、この病名だとわかりました。
進行が遅かったので、20代までは夜盲症状以外、日常生活に支障がなかったので車の運転も、教員生活にも困ることはありませんでした。

45歳を過ぎたころから、視野の狭窄(見えない部分がどこかきまっていません)と夜盲の症状が進みました。
10年前は普通の大きさの楽譜を見ながら演奏することもできました。
次第に楽譜が見えずらくなり、A3サイズの紙横向きに数段の楽譜を拡大し、暗譜しながら弾くようになり、今はそれも辛くなり、21インチのタブレットに楽譜をアクロバットファイルにしたものを好きなだけ(笑)大きくして、覚えては弾く、覚えては弾くの繰り返しです。

そんな生活ですから、夜、駅前教室でレッスンが終わって、外に出る時は白い杖を持っています。
白い杖を持っていると「全盲」、つまりまったく光を感じられれない人だと思われるので、電話をしようと携帯を出したりすると「にせもの?」という目で見られてしまいます。「半盲」という言葉があります。私が今そうです。見えるものもあるが、見えないものが多い。
視覚障害1種2級の手帳も持っています。でも人から見て、どのくらい見えないのかはわからないのが現実です。

ステージが暗転するときややステージ袖。
私には「真っ暗闇」の世界で、光っている電球「だけ」が見えます。
そんな病気なのです。

その夜盲の私が幼いころから「夢」だったのが「夜見えるメガネ」
魔法のような世界、あったらいいな、ドラえもんに近い夢でした。

とうとう、できました。

メディカルウエラブルというメガネの形をしたカラーで透明な有機LEDディスプレイに高感度カメラの映像を映し出す道具。

12月に発売予定でしたが、さらに改良を加えるため、来年1月に量産のモデルを手にします。その前に、最新のプロトタイプ(試作品)をリサイタルまでにお借りすることになりました。

「0.5ルクスの明るさで歩くことができる」というお話。
この明るさは「月夜で街灯のない道の明るさ」だそうです。
私には街灯がどんなにあっても「街灯」だけしか見えませんが、このウエラブルを付けると真昼のように見えます。

まだ、厚労省が「補装具」として認めてくれないので全額負担です。
開発にかかった費用、高感度カメラの価格などを考えると40万円は高くないのです。むしろ、私たちの「目」がこの値段で買えるのなら。

楽譜はどうやっても見えないのは同じですから、少しでも見える間に、少しでも多くの曲を暗譜したいと思っています。

リサイタルで演奏する16曲。頭に書き込みました。
舞台から客席の皆様の顔が見えませんでした。暗いので。
今度のリサイタルでは皆様の表情が見えます。
気持ちよくお昼寝している方の表情や、喜んで腐っている方の表情が見える。
夢のようです。
リサイタルのステージに、似つかわしくないサングラスをして登場します。
そんなヴァイオリニスト、世界で今は一人です。楽しんで下さい。

野村謙介

師匠と弟子の関係

だいぶ前にも書いた記憶がありますが、今回は時代とともに変わる師弟関係について考えます。
先生と呼ばれる職業には、幼稚園や学校の教師、お医者さんがあります。
議員を「先生」と呼ぶ人もいますが私には違和感があります。

師匠と呼ばれる人の「職業」は様々です。落語家、舞踏家、いわゆる芸人なども思いつきます。
相撲部屋の「親方」は師匠なのかな?と迷ったりします。「親代わり」という意味合いでの親方という呼称なのでしょうね。大工さんにも親方っていますね。

さて、音楽の世界で「師匠」と呼ばれる人と、その「弟子」に当たる人の関係を考えます。
本来、師匠は弟子に「頼まれて」芸や技を教え、伝えるものだと思います。
師匠が「私の弟子になってください」と頼む光景は想像しにくいですよね。
自分がヴァイオリンを学ぼうと思い、技術を向上させたいと思ったとき、
あなたなら「誰に」技術を教えてもらいたいですか?
「誰でもよい」とは思わないのではありませんか?
「あのヴァイオリニストに習いたい」と思うのが「芸の世界」だと私は思っています。もちろん、例外もあります。私もその一人です。

両親がなんの予備知識もなく「有名だから」という理由だけで、私の師匠のお宅の門をたたきました。私はその先生(師匠)のお名前も存じ上げませんでした。それが私と久保田良作先生(師匠)との出会いです。
こんなことってあるんですね。案外多いのかもしれませんが。

話を戻して、自分の意志で師匠を選べる年齢であれば、自分で師匠に弟子入りをするのが礼儀だと思います。それが「芸事の常識」だと思います。

落語の世界で弟子入りし、「内弟子」として家の用事を手伝いながら住み込みで師匠の芸を「いつか教えてもらえる日」を待つ世界があります。
とても分かりやすい「師弟関係」です。
その師弟関係にも言葉にしない「契約」があると思います。
つまり、どんな師弟関係にも、「信頼」という契約がなければ、お互いに不幸な結果につながるのです。

音楽大学で学生にレッスンをする「教員」は、大学という組織の一員です。
その大学と先生の「契約」がまず、存在します。内容は様々ですよね。
その先生が教える学生は、先生と「師弟関係」と言えるのでしょうか?
これはすべての学生と先生に言えることですが、「大学の一員」という契約と、先生と生徒という関係が「師匠と弟子」という関係か否かという問題があると私は思います。

「権利と責任」は学生にも教員にもあります。その意味では「公平」な関係です。
一方で「師弟関係」は明らかに師匠が「上の立場」なのです。そういう契約なのです。弟子は師匠に逆らえません。どうしても我慢や納得が出来なければ、「破門」されるしか方法はありません。もちろん、師匠が常識的に考えて、許されないことを弟子にしたのならそれは別の問題ですが、多くの場合は、弟子が「耐える」のが芸事の世界だと思います。

大学生に話を戻すと、学生も先生も「お互いを選ぶ」権利を持っています。多少の制約はありますが、師弟関係の場合とは違います。大学という組織が決めたルールでお互いが巡り合います。

自分の望まない先生・自分の望まない生徒に巡り合ってしまった場合を考えます。
どちらも「不幸」です。ですが、それは大学が決めたルールの中で巡り合ったことなのでどちらも諦めるしかありません。
つまり、大学の場合は「師弟関係」としてお互いの信頼関係が成り立つか否かは、後になってからしかわからないということなのです。

学校を離れ、私的な立場で師匠を探し、門下として弟子入りするならば、師匠が「もう教えることはない」というまでは、弟子であるべきだと私は信じています。
弟子の立場で「もう習うことはない」と師匠の門下を離れ、違う師匠のもとに弟子入りするのは、個人的に嫌いなのです。はっきり書いてしまいましたが、自分自身が久保田良作先生という師匠に弟子入りして以来、他の先生に習いたいと思ったことがないので、正直に書きました。気分を害されたらすみません。

現代は信頼よりも契約が優先する時代です。要するに「気持ち」よりも「紙切れ」が大切だということなのです。
心のない演奏は音楽ではありません。
音楽を習うということは技術を習うのではなく、師匠の心を覗き見る努力をすることだと私は思っています。

野村謙介

レッスンを受けましょう!

レッスンをしている立場の私が書くと営業っぽく感じますが、
私たちプロの演奏家も、元をただせば「一人の生徒」でした。
レッスンで先生に習うことと、自学自習することの違いはなんでしょう?

ネットや書籍、教本を見るだけでも、楽器の音は出せます。曲も弾けます。
ならばレッスンを受ける必要なんてないように感じますね。
動画を見てプロの演奏技術を真似することも「できそう」に思えますね。

レッスンを受けて初めてわかることがあります。

それは、自分の演奏技術の問題点を見つけてもらえることです。
プロの真似をしたくても、どうすれば出来るのかわからないだけではありません。
自分の癖を指摘してもらいながら、自分の演奏を先生に聞いてもらう、
これだけは、独学では解決できません。

生徒さんの演奏技術を見極めて、生徒さんの出したい音、弾きたい曲を確かめながら、自宅での練習方法を伝え、次のレッスンで確認し、新しい課題を生徒さんに提示するのが私たち指導者の役割です。

指導者である私たちに求められるのは、技術とレッスン経験です。

どんなに演奏技術が高い(演奏が上手な)指導者でも、指導(レッスン)の経験が浅いと生徒さんに的確なレッスンはできません。
素晴らしい演奏家が素晴らしい指導者とは限りません。
レッスンを受ける先生を選ぶことは、とても難しいことです。
自分にあった先生であるか?はレッスンを受けてみなければわかりません。
同じ先生からレッスンを受けたからと言って、だれもが同じように上手になるとも限りません。生徒さんひとりひとり、違った環境があり、個性があるからです。
「才能の差」ではありません。どんな上手な演奏家でも違った個性があるのです。生徒さんから見れば、どんなプロもうまく見え、どんな先生も上手に演奏できるように見えます。その一人一人が異なった環境で育っているのです。みんな先生に習ってきたのです。

レッスンで指摘されたことを素直に受け止め、出来る限り自分で練習しましょう。
そしてまたレッスンを受けて、自分の練習内容が良かったのか、あるいは何が不足していたのかをまた、レッスンで教えてもらうのです。

習うだけではうまくなりません。

習ったことをできるように努力し続けることが一番大切です。

レッスンを受けることで、自分の練習の成果を確かめてもらい、これからの練習の課題を教えてもらえるのが、独学とは違う点なのです。

ぜひ、レッスンを受けてみてください。
きっと、自分ができなかったことの「理由」と出来るようになるための「道順」を教えてもらえるはずです。

野村謙介

練習の成果

「頑張って練習したのに‥‥」

以前にも書きましたが、「出来るようになった感覚が少しでもなければ練習したことにならない」と私は思っています。
その続きですが、今日の練習の成果を感じて楽器をしまって、次の日に同じ場所を弾いてみたら、昨日の練習の成果を感じられないという経験はありませんか?
練習の成果を例えるなら「薄い紙の積み重ね」です。

練習のたびに感じられる成果は、間違いなく「上達の成果」なのです。
まず、そのことに自信と確信を持つことが何よりも大切です。
そうでないと、「練習してもうまくならないのは、才能がないからだ」と思い込んでしまうからです。どんな上手に弾ける人でも、自分の演奏技術に不満があるものです。それを「自分だけ下手なんだ」と思ってしまったら、だれも演奏なんてできないですよね?

どうすれば、薄い紙の積み重ねを実感できるのか?

簡単に言えば、重ねる紙の枚数を増やすこと。そして、一枚の紙の厚みを少しでも増やすことです。

繰り返さなければ身体は自然に動きません。
「勝手に動いてしまう」のとは違います。
自分の思った通りに身体を動かせるようになるまでに必要な時間(紙の枚数)は、皆さんが思っているよりもずっと、ずっと多くの時間、多くの枚数が必要なのです。
どんな技術でも、考えなくても出来るようになるまでに時間がかかることは大人なら経験で知っていますよね?失敗を重ね、それでも繰り返すしかありません。
楽器の練習でも全く同じです。すぐに出来るようになることなど、ないと思えば良いのです。すぐに出来ないから、楽器の練習は面白いのです。

子供にレッスンをするときに「簡単にできちゃうゲームってつまらないよね?」そんな話をします。難しいから面白い。それがわかるまで、時間をかけるのも大切です。難しいから、いつまでもできないから「やめる」のは簡単です。それを乗り越えることこそが「練習」であり、乗り越えて見えてくるものが「練習の成果」なのだと、私は思っています。

野村謙介