運動を正確に再現する技術

https://youtube.com/watch?v=UJB3Hmu_Tas

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声の個性と楽器の個性

 

映像は、ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」をカウンターテノールでアンドレアス・ショルが歌っているものと、私がヴィオラで浩子さんのピアノとデュオリサイタル5(代々木上原ムジカーザ)で演奏した動画です。比べちゃダメ(笑)って憧れのショルさんの歌声ですからね。

 さて、今回のテーマですが人間の身体を楽器として演奏する「声楽=歌声」と、楽器を使って演奏する…たとえばヴィオラやヴァイオリンとを「個性」の面で考えてみるものです。
 当然ですが、まったく同じ身体の人間は「クローン」を使用しない限り「一卵性双生児」ですら存在しないはずです。見た目にまったく同じ「双子」でも発達によってその身体には違いがあります。
 それでも「声」に関して言えば、親子で声が良く似ていることは珍しくありません。私も父親・兄と声が似ているそうで、母に電話をすると「だれ?」(笑)
当時「おれおれ詐欺」がなくて良かったと痛感するほどです。母でさえ、親子兄弟3人の電話口の声を聞きわけられなかったのです。もちろんお互いに聴いている自分の声は、他人が聴く「私の声」と違うので、お互いに「私の声はふたり(私から見れば父と兄)とは全然違う!」と主張します。兄も父も(笑)同じ主張をしますが、母だけは「その言いあっている声が同じなの!」

 昔「ザ・ピーナッツ」と言う双子姉妹の歌手が歌っているのを聴いたことのある人なら、あの「そっくり!」の歌い方を思い出せると思います。考えてみると、自分に聴こえる自分と相手の声が違うはずですから、第三者が聴いてどちらの声がどう?もう一人と違うのかを指摘していたはずです。すごいことだったんだなぁと今更に思います。

 声楽家の話し声と歌う声は、まったく同じではありません。特にクラシック音楽を歌う「声楽家」の場合には、身体が出来てから自分の歌う「声」を育て作っていきます。それは「技術」と「練習」で作られる声=音です。
同じ「声域=音の高さの範囲」の歌手でも、それぞれに声に個性があります。
声楽家ではない私が感じる「個性的な声楽家」は、単にうまい!と言うだけではい「独特の個性」を感じるのです。一言で言ってしまえば、生理的な好みなのかもしれません。「それを言ったらおしまいだろ!」と怒られそうですが(笑)、誰にでも「好きな声」と「嫌いな声」ってありませんか?その好みが他人と一致しないことも感じたことがあると思います。おそらく理由はないのです。自分の好きな「声」はもしかすると両親の声に近いもの?だとしたら、私は自分の声を録音して聴くのが「なによりも嫌い!」なので、考えると混乱しますね(笑)

 パヴァロッティの歌声はどんな曲を歌っていても「あ!」とわかるのは、私だけではないはずです。では、音だけを聴いて「ハイフェッツ」と「オイストラフ」と「アイザック=スターン」の誰の演奏か?すぐに当てられる人は、かなりのマニアでは?録音の個性…ノイズ=雑音で聞き分けるのは「反則」です(笑)とは言え、まったく同じ録音状況は存在しませんから、私たちが今聴くことのできる「偉人」たちの演奏は録音状態によって変わってしまいます。
 それでも!ハイフェッツの演奏する「個性」とオイストラフの「個性」は間違いなくあるのです。どうして?それを言い切れるのか。

 ヴァイオリンと弓と弦、細かく言うなら使う松脂の種類も「すべて同じ」状態で、違う二人の演奏家が弾いた時、なにが起こるでしょうか?
「格付け」番組で高い楽器と安い楽器を当てる遊びは目にしますが、同じ楽器を二人の人が弾いて「どちらがプロでどちらがアマチュアか?」って絶対にないですよね?何故だと思います?(笑)ダンスや吹奏楽で「プロ・アマ」を当てるコーナーはあるのに、なぜか?ストラディヴァリとペカットの組み合わせで、プロ・アマを当てるコーナーがありません。演奏するプロのプライドか?(爆笑)
 テレビはともかく、間違いなく演奏者が変われば音は変わるのです。
「楽器と弓が同じなのに?」と思うのは、人間には、同じ身体の人が二人いないので、比較の方法がありませんが、もし!まったく同じ身体の人間が二人いたとして、それぞれが違った環境で育てば、好きな歌い方が違ってくるはずです。自分の好きな「歌い方=声」を出そうとするはずです。仮に話し声が同じでも、歌う声は違っても不思議ではありません。
 楽器・弓・弦を使って、演奏者が自分の好きな音を出そうとします。
その好きな音が全員違うのです。まったく同じ「好み」の人間がふたり揃う確率は天文学的(笑)に低いと思っています。
 実際、私の楽器と弓を私の自宅で、ある尊敬する先輩に、少しだけひいてもらったことがあります。「自分で聴く自分の楽器の音」は自分の声と同じです。離れた場所で聴く「私の演奏する音」は違って聞こえます。なので、先輩が演奏される「私の楽器」の音を聴くことはとても新鮮でした。
 その時、先輩が演奏し始めた時から、次第に音が変わっていくことを感じました。その原因は?
 演奏者の「出したい音」を楽器と弓を使って「探す」からです。
この探すと言う作業が演奏技術「そのもの」です。楽器と弓の「個性」を自分の演奏技術をフルに使って「探る」ことで、楽器の音が変わっていくのです。
 要するに演奏者が変われば、同じ楽器・弓でも、出てくる「音量」「音色」が違うのです。それが「演奏者と楽器の個性」なのです。

 生徒さんが楽器を選ぶとき、どんな楽器を演奏しても同じように感じるとおっしゃることがよくあります。正確に言えば「何がどう違うのか言語化できないから、好きとか嫌いと言えない」のです。その楽器を「ひきこなす」ことは、その楽器の「個性」を引き出す技術を持つ子です。
 個性のない楽器はありません。しかし、大量生産された楽器の「個性」は製作者の「こだわり」がいっさいありません。おそらく完成した大量生産のヴァイオリンを「試し演奏」することもせずに売られているものが多いと思います。
製作者のこだわりがない楽器にも個性はあります。しかしそれは「癖」と呼ばれるものに近く、良いものではない場合がほとんどです。
 一方で、製作者の魂を感じる楽器には、弾き方によって「そうじゃない!」「それ!」と言う声を感じます。楽器に問いかける「技術」に対して「違う」とか「あったりー!」というレスポンスがある楽器こそが、本物の楽器だと信じています。
 長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「好きなように弾けない」理由

 映像は、ポンセ作曲、ハイフェッツ編曲「エストレリータ」英語に訳すと「Little star」小さな星と言うタイトルの、メキシカンラブソングです。
シャープが6つ付く調性「Fis dur」の楽譜で書かれています。
原曲の「歌」も色々な歌手が歌っています。

 大人の生徒さんにレッスンをしていて、生徒さんが「好きなように演奏するのが一番難しい」と言われることがあります。。以前ブログに書いたことがありますが、指導者の好みの演奏を、生徒さんにそのまま「完コピ」させることには否定的に思っています。生徒がんが大人でも子供でも、その人にしか感じられない「気持ちよい演奏」が必ずあるはずです。仮に指導者の演奏を「そのまま真似したい」と光栄なリクエストを生徒さんから頂いたら、指導者はどうするでしょう?
一音ずつの詳細な演奏技法をそのまま、伝えることより生徒さん自身が自分の好きな演奏を考えることが「指導」だと思っています。

 自分の好きなように…
・料理を作って食べる
・自分の洋服を選ぶ
・絵をかいて楽しむ
・草花を育てる
などなど、趣味でも職業でも考えられる話です。
「自己流」で初志貫徹(笑)するひとも多くいます。
誰かに基本を教えてもらって、あとは自分の好きなように…と言うひとも。
誰かの真似をしてみる…イチローの真似をするとか、昔は王貞治さんの「一本足打法」の真似をしたひとも多いのでは?←私、しました(笑)
 楽器演奏の場合、プロの演奏を真似したいと思うのは、なぜかプロを目指す人「音大生」に多く、アマチュア演奏家には少ないのが現実です。
スポーツでも音楽でも「憧れ」を感じたひとの「真似」をしてみたい気持ちは、純粋な憧れの表れです。子供が忍者になり切ったりしますが、大人の場合は?
 「コスプレ」特に日本のアニメに登場する人物にあこがれる、外国人がセーラームーンのコスプレをしている映像、見たことありませんか?
 ロックバンド全盛だった頃に、女の子バンドにあこがれた「昔女子高生、今△△△△」もいれば、未だに「布袋モデル」のギターが押し入れにある男性諸氏もいたりします。多くは「形から入る!」のが鉄則でした(笑)

 クラシック演奏の特徴を考えた場合「カラオケ」のように歌い方を「真似る」ように、演奏の仕方を真似る事が難しいですよね?
原因を考えます。
・一曲が長いので真似しきれない=覚えきれない。
・楽譜の通りに演奏すること「さえ」難しくそれ以上なにもできない。
・ただ「うまい」「すごい」と感じるだけで「なにが?」を言語化できない。
・自分にはできないと思い込んでいる。
今更のそもそも論ですが(笑)たとえば「もっと速いテンポで演奏したいのにできない」という気持ちも自分の好きなようにひけない!のひとつです。
曲の中である音を「少しだけ長く大きく」演奏したり、「少しだけ短く弱く」演奏したりすること、つまり「楽譜には書かれていないこと」があります。
「そんな経験をしたことがない!」と思い込むのがアマチュア演奏家です。
いやいや!(笑)実は毎日、誰でもやっています。

 誰かと会話することは珍しい事ではありません。
多くの日常会話は、その場で原稿を読まずに思いついたままに話しますよね?
相手によって、またはその場のシチュエーションによって、話し方も使う言葉も変わってきませんか?
 初めて会う人に、道を尋ねる時に「あのさ~、●●ってどこ?」って聞きます?小学1年生までなら許せます(笑)
 毎日、顔を合わせる家族同士や友人との会話もあれば、仕事で相手に不快な思いをさせないように配慮する時の話し方もあります。これが「話し方のTPO」です。他方で、同じ文章でも「言い方」が変われば印象が変わることも、みなさんご存知のはずです。
「ありがとう」あるいは「ありがとうございます」
これを誰かに話す時を例にとってみればすぐに分かります。
文字にすれば「ありがとう」でも、本当に相手に対して感謝があふれるような場合の「ありがとう」と、本当は嬉しくないけれど「社交辞令」で相手に言う「ありがとう」は、芝居をしない限り全然違う「ありがとう」の言い方になるはずです。
 楽譜は言語に例えれば「文字」です。文字を並べて意味のある「言葉」にしてさらに助詞などを使って「文」ができます。その文を連ねて「文章」ができます。会話をそのまま文字にすることもできますし、「詩」のように読む人がそれぞれに違ったイメージを持つ文章もあります。それらを読む能力が「楽譜を音にする能力」です。楽器がなにも演奏出来なくても「声」で歌うことができる楽譜もあります。要するに文字も楽譜も「音にできる記号」なのです。
 その楽譜を音にして演奏すると音楽になります。一言で音楽と言っても、一度聞いて耳になじむ=覚えられる音楽もあれば、メロディーを記憶さえてきないような音楽もあります。そのことを文字に置き換えると「意味を知らない単語」や「読めない漢字」が該当します。仮にカタカナで書いてある言葉でも意味が分からない場合は多くあります。
 「これはファクトです」とか「インバウンドが」などニュースでさえ聴いていて意味が分からない「横文字」?」を耳にする事、ありますよね?
楽譜を音にして「なんだ?これであってるのか?」と思う場合がそれです。

 正しく楽譜を音にできたとします。その音楽を聴いて感じる「感情」が部分的、あるいはもっと全体的に、きっとあります。何も気にせずに音楽を聴く場合にそれぞれの音は「聞こえている」だけで終わります。
並みの音を聴いて、海岸や浜辺の風景を想像する…という聴き方と、ただ「音」として聴く場合があります。後者の場合、頭の中で想像するものはなにもありません。同じ音でも感情が絡めば「連想」が出来ます。音楽を演奏しようとする時、ある1小節を演奏して悲しい感情を感じる場合もあります。楽しく感じる音楽もあります。音の高低、リズム、和音を聴いて感じる感情です。

 自分の好きな演奏を見つけるために、必要なのは?
・観察力
・音の長さ・強さ・音色を大胆に変えて実験すること
・他人の演奏に縛られない自由さ
・〇〇しなければいけないという発想から離れる勇気
・ミクロとマクロ←以前のブログ参照を考えながら試す
・音は常に時間経過と共に変化し続けることを忘れない
平坦な音楽は、一昔前のコンピューター「読み上げ音声」のようなものです。
言葉を語り掛けるように演奏することが「歌う事」です。
思った表現を可能な限り大げさに試すことが大切です。
自分に感じられる程度の変化は、他人には伝わりません。
絵画に例えるなら、少しずつ色を足す技法より、まず原色ではっきりしたコントラストを確認してから色を薄めていく方法です。
味つけは少しずつ、足していくのが原則ですが音楽は逆に、まずはっきりした味を付けてから薄めていくことが「好きな演奏」に近付けます。
 個性的な演奏を目指して、実験をする気持ちで音楽を描きましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

やわらかいもの な~に?

 今回のテーマ、なぞなぞか!(笑)
あなたは「やわらかいもの」と言われてどんなものを連想しますか?
羽毛布団?わたがし?マシュマロ?お豆腐?
では、やわらかくて、おおきいものは?
空に浮かぶ雲?ふかふかのベッド?エアーマット?そよ風?
現実の「硬さ」を数値で表す方法が何種類もあります。
1.「ショア硬さ」はダイヤモンドのついた小さなハンマーを測定物に落として、そのはね上がり高さで硬さを測定します。はね上がりの高いものほど硬いことになります。
2.「ロックウェル硬さ」
ロックウェルC硬さは、頂角120°のダイヤモンド円錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、その押し込み深さで硬さを測定します。深さの浅いものほど硬いことになります。
3.「ブリネル硬さ」
ブリネル硬さは鋼球を測定物に一定加重で押し込み、その時に出来るくぼみの大きさで硬さを測定します。くぼみが小さいほど硬いことになります。
4.「ビッカース硬さ」
ビッカース硬さは対面角136°のダイヤモンド四角錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、ブリネルと同様に出来たくぼみの大きさで硬さを測定します。これもくぼみが小さいほど硬いことになります。
う~ん。物理の授業だわ(笑)
 楽器を演奏するひとにとって、実際に「硬い・柔らかい」ものがあります。
・指の表面=皮膚の柔らかさ
・皮膚の下の「脂肪・筋肉」の柔らかさ
・さらに奥にある「骨」の硬さ
・弓のスティックの硬さ
・弓の毛の柔らかさ
・弦の表面の硬さ
・弦全体の張力の柔らかさ
・指板の硬さ
など多くの「もの」にそれぞれに硬さ・柔らかさがあります。
・柔らかいもの同士が「触れ合う」場合には?お互いが、へこみますね。
・柔らかいものが硬いものに押しあてられると?柔らかいものが、へこみます。
・硬いもの同士が押し合わされると?少しでも柔らかい方が、へこみます。
これをヴァイオリン演奏に当てはめると…
1.右手側
指(柔):弓のスティック(硬)
弓の毛(柔):弦(硬)
弦(柔):駒(硬)
2.左手側
指(柔):弦(硬)
首・顎(柔):顎当て(硬)
鎖骨(硬):楽器・肩当て(硬)
さて、問題は人間の「触覚」です。
右手指も左手指・首・肩などに触れる部分で感じる「強さ」です。
強い力で振れていても、鳴れてしまうと感覚が麻痺します。
弱い力で「触れた」触覚と、強い力で「押し付けられた」触覚の違いです。
無意識に強く握ったり、強く挟み込んでしまうことに注意が必要です。

 「硬い」「柔らかい」と言う表現は必ずしも「現実に触れるもの」以外にも使われています。映像はオイストラフの演奏するサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソです。音色の柔らかさを感じる演奏だと思います。

 音色や演奏の硬さは計測できません。単位も基準もありません。主観的なものです。それなのに何故か?この表現は頻繁に使われます。では、「音楽」の硬さと柔らかさについて考察します。
1.硬く感じる演奏
・音の立ち上がり=発音に、強いアタックが続く演奏
・高音が強く響き低音の少ない音色が続く
・ビブラートが常に速く深い
2.柔らかく感じる演奏
・アタックのコントロール=強弱がある
・低音の響きが強く、高音の倍音が適度に含まれた音
・音楽に溶けあうビブラートの速さと深さ
これらの違いをコントロールする技術は、何よりも「聴覚」と「触覚」がすべてです。もちろん、弦の種類、楽器と弓の特性によって音色は大きく変わります。
それらを「ハードウエア」と考え、技術・感覚を「ソフトウエア」と考えることもできます。言うまでもなく、使いこなすのは人間です。ハードウエアの個性を判断し理解するのも演奏する人間です。数値・種類で表すことができるのは「材質」や「弦の太さ・硬さ」など数点だけです。演奏する楽器と弓の「特色」の好みがなければ、どんな楽器で演奏しても良いことになります。「イタリアの楽器は良い」とか「古い楽器は良い」とか「鑑定書のある楽器は良い」、さらには「値段の高い楽器は良い」すべてに言えることは…
「そうとは限らない」つまり自分の好きな音が出る楽器か?を判断できないひとにとって「良い楽器」は存在しえないのです。その「耳」を鍛えることが軽んじられている気がしてなりません。とても悲しく、恐ろしい気がしています。

 最後に関節や筋肉の「柔軟性」と、音の柔らかさについて。
他人の身体の「硬さ・柔らかさ」は演奏を見ているだけでは判断できない部分がほとんどです。体操選手やフィギアスケート選手のように「身体の柔らかさ」をアピールする競技もあります。ヴァイオリン演奏で、見るからに「ぐにゃぐにゃ動く」演奏者を見かけますが、それは「柔らかい」とは違います。むしろ体幹が支えられていないから「ぐにゃぐにゃ」なケースが多く、必要な柔軟性とは異質のものです。身体には「硬い骨」もあり「強く太い筋肉」も必要なのです。その硬さを軸にして周囲に「柔らかい筋肉・関節」があるのです。
 右手指には「握らずに=ぐー!せずに」「しっかりやさしく包み込む」力が必要です。左手指にも同じ同じことが言えます。
 脱力したときの強さ…矛盾しているように聞こえますが、力を抜いた時の適度な「硬さ=弾力性」の事です。赤ちゃんの指は、触るとふにゃふにゃ(笑)です。その赤ちゃんは本能的に「つかまって自分の体重を支えられる指」を持っています。つまり「強い」のに「柔らかい」のです。理想の力でもあります。
 必要な力を「見切る」ための練習が必要なのです。
弱すぎれば安定しません。だからと言って強すぎれば硬直します。
「ちょうどよい力加減=硬さ」がそれぞれの部位にあります。
それを見つけることと、常に観察することが練習の要=かなめになります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピチカート修行(笑)

 映像は「ピチカートポルカ」をヴァイオリンひとつで演奏する離れ業。
メリーオーケストラ第42回定期演奏会でラヴェル作曲「ボレロ」を演奏することになっています。先日、オーケストラで初練習を行った際に「ピチカートの和音が連続してる~涙」と言う弦楽器メンバーからの悲鳴に似た(笑)助けてコール。
 ご存知のように、ボレロの冒頭部分ではヴァイオリン・ヴィオラが楽器をギターのように構えて「ピチカート」で演奏します。途中からは通常の「アルコ=弓を使った演奏」になることもあり、通常の構え方でピチカートを演奏する部分があります。そんな中で「ピチカートで和音の6連符」と言う「おいおい、ラヴェルさん」と言いたくなる部分があります。上の映像の最後の方で行われている「ピチカートの往復連打」しか方法がありません。それが何回も続く…

うえの

上の映像はNHK交響楽団の演奏するボレロの一部。ヴィオラが和音ピチカートを「往復運動」しながら演奏している部分をデジタルズーム(ボケます)してみました。忙しそうで痛そう!(笑) 
そもそも、この双方でどの程度オーケストラの「響き」として効果があるのか?と言う素朴な疑問もありますが(笑)少なくとも音は出ます。
ラヴェルのオーケストレーションが大好きな私にとって、きっとこのピチカートの効果も大きい…と思いたいのです。
 弦を指ではじく奏法「ピチカート」をある種の「効果音」として考えれば、多くの作曲家がこの演奏補法を使うように楽譜を書いたことも納得できます。
 バルトークは弦を指板の「上方向」に右手指で引っ張り上げて、弦を指板にぶつける「バルトークピチカート」を考えつきました。まさしく効果音です。
 ピチカート以外にも、弓のスティック=木を弦にぶつける奏法や、わざと駒の上を弓でこすって裏返った音をだす奏法など、特殊な演奏補法があります。
 ヴァイオリン双方の「可能性」かもしれませんが、これ以上新しい奏法は出てきてほしくない!笑と思っています。
 クラシックギターも様々な演奏方法があり、それらを組み合わせた演奏もあります。

 ギターでここまで!できるのもすごいことです。
演奏しているマーシン氏は元々クラシックギターを子供の頃から学んでいました。有名なオーディション番組でデビューし脚光を浴びました。
 いわゆる「エレキギター」とも違うテクニックとサウンドで、ギター音楽の可能性を広げています。
 ヴァイオリンにも「エレキヴァイオリン」がありますが、電気的に音色を変えることが主な目的で、演奏方法としては目新しいものではありません。
 ラヴェルの創作意欲、好奇心に敬意を払いながらピチカートの「修行」で右手の指が「ズルむけ」にならないように、合奏練習の配分を考えたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

理想の演奏とは?

https://youtube.com/watch?v=YsbrRAgv1b4

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフの演奏するシベリウス作曲ヴァイオリンコンチェルト。
 今回のテーマは人それぞれに違う「理想」を考えるものなので、正解を探すものではありません。考え方を変えれば「理想の演奏は存在しない」とも言えます。常に自分にとって「理想」が同じものだとは限りません。それは演奏に限ったことでもありません。生き方だって、時によって理想は変わるものです。
 「理想と現実」と言う言葉も良く使われます。この言葉を使うとき、多くは「できないと感じた時」に使われます。自分の思った通りに事が進まない時、たとえばテストで100点を取りたくて毎日毎日勉強したのに…それが90点だったとしても「理想は100点」で「現実は90点」だったことになります。
 テストの点数のように、目標が客観的で達成できたか?出来なかったかを判断できる場合もありますが、目標=理想がイメージだったり抽象的な場合には、達成できたかどうかを判断することは困難です。基準=ボーダーラインが明確でない目標は、達成できたと言う感動も薄いものです。

 自分にとって理想の演奏と出会えることは、とても幸せな事でもあります。
ヴァイオリンの演奏に絞って考えた時、世界中に多くのヴァイオリニストが過去にも現在にも存在します。これからも新しいヴァイオリニストが誕生し続けます。その中のひとりに自分がいます。アマチュアでもプロでも「ヴァイオリンを演奏する人」であることに何も変わりはありません。
 自分が知る限りのヴァイオリン演奏者の「演奏」を、すべて生で聴くことは現実的に不可能です。昔ならレコードやFMラジオで聴く。現代ならCDや動画、配信で音楽を「見たり聞いたり」できますが、生の演奏を聴くことができない演奏も当然あります。自分の「理想」とする演奏を言語化すると、どうなるのでしょうか?

 一言で「じょうずな演奏」とまとめてしまうのは簡単ですが(笑)、どんなことが「じょうず」なのかが問題ですよね。少なくとも、自分よりじょうずだと思える演奏に限られます。つまり自分のできないことが「できている」演奏がじょうずに思えることになります。
・正確に演奏できる
・速く演奏できる
これ以外は「じょうず」と言うよりも「好き」と言う概念に含まれます。
たとえば…
・綺麗(と感じる)音が出せる
・強弱の変化、テンポの設定が「好き」
・演奏する姿が美しい(と感じる)
などなど。あくまでも主観的な好みの問題です。
 自分に足りない技術が「現実」にあり、出来るようになりたいと思う演奏が「理想」だと言えます。当たり前ですね(笑)だとすれば、練習して「できるようになる」事は、常に理想を現実にしようと努力していることになります。
 つまり、自分の演奏に足りないことを探し続けることが、理想の演奏に近づくために絶対に必要なことだと言えます。

 演奏しない人の「理想」と、同じ楽器を演奏する人が感じる「理想」は根本的に違います。
 演奏しない人にとって、何が難しいのか?さえ知らないのですから、ただ単に「好み」を基準にしているだけの理想です。それはそれで良いのです。
 難しさを知っている分野の「理想」があります。その分野が演奏でもスポーツでも、物造りでも同じことが言えます。知らない人が簡単そうに思うことが、実は難しい…良くありますよね?ヴァイオリンを演奏したことのある人が体感する「難しさ」があります。自分の知らない難しさも当然あります。その難しさを見つけることが上達に直結します。「簡単だ」「できた」と思った時点で成長は止まります。「上には上がある」のです。それが現実なのです。

 自分の演奏に自分で満足できない…いたって当たり前のことです。
だからこそ、自分よりじょうずと思う人の演奏に「理想」を重ねるのです。
自分の演奏と、じょうずな人の演奏の「違い」を具体的に見つけることができなければ、理想に近づくことは出来ません。先述の通り、自分に足りない技術を見つけるのはとても難しいことです。ただ「うまくひけない」と悩むだけでは解決しません。自分が気付かない無意識の癖を探し、思い込みで正しいと思っていることを意図的に変える試みをしながら、意識していなかったことを意識する…
 自分にとって「理想の演奏」は自分にしか実現できません。
常に現実を見つめながら「改善」を繰り返すことが、理想への道なのかな?と思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜には書かれていないこと

 映像は2014年のデュオリサイタル6、代々木上原ムジカーザで演奏した、ピアソラの「オブリビオン」ヴィオラとピアノによる演奏です。
 今回のテーマは「楽譜に書かれていること・書かれていないこと」につていです。
楽譜を良く見えなくなってから書くのもいかがなものかと(笑)思いましたが、お許しください。

 ヴァイオリンやピアノのレッスンで、楽譜に書かれている記号や指示を見落としたり、その指示通りに演奏していないことを先生に注意される…という経験はきっと誰にでもあることだと思います。それが「間違い」だと判断される場合と、間違いではないが「指示に従わなかった」と言う問題の場合があります。
 楽譜に書かれているのは?「音符・休符」以外にたくさんの情報があります。
・ト音記号・ハ音記号などの「音部記号」
・音部記号の右に書かれている「調性記号」
・その左に書かれている「拍子記号」
・音符の左側に書かれている「臨時記号」
・音符の上か下に書かれている「スタッカート」「テヌート」
・音符の上や下にある「アクセント」
・複数の運否を「弧=曲線」でつないだ「レガート=スラー・タイ」
・弦楽器の場合「ダウン・アップ」の記号
・指番号
・弦楽器の場合「弦」の指定
・音量や速度に関する記号(指示)
・表現方法などの記号
書き出したら終わらない(笑)
これらの「指示」の意味を理解できるための「知識」は必要です。
問題はここからです。
先述の「間違い」と判断されるのは、上記のすべて?なのかという事です。

 楽譜に書かれていることが、すべて作曲家の意図したもの=作曲家が書いた指示なのか?
と言う根本的な問題があります。言うまでもなく、現代使用される楽譜のほとんどは「印刷」されています。さらにその多くは「コンピューター」をワープロのように使って作られた楽譜です。
 大昔、楽譜は作曲家が「ペン」を使って手書きで書きました。スコアを書き上げた後、作曲家自身が「パート譜」を手書きした人もいるでしょうし、弟子や他人にお金を払って「代筆」してもらったものもあるはずです。
 人間が手書きで楽譜の一枚ずつを書いていた時代には「書き間違い」「写し間違い」があっても不思議ではありません。ちょっとしたインクの「にじみ」で音符が大きくなりすぎた…なんてざらにあったはずです。
 その時代に作曲された「楽譜」が現代に至るまでに「コンピューター」に入力されて印刷されるようになりました。一度、データ化された楽譜は写し間違えることなく、書き間違えることもなく複製されます。
 データを打ち込んだ人の楽譜
に生まれ変わります。つまり、私たちの使っている楽譜に書かれている情報は、誰かがコンピューターに打ち込んだ「楽譜」です。それは誰?(笑)
 楽譜に書かれているから「作曲家の指示」だと思い込みます。
手書きの時代でも、コンピューターの現代でも同じことです。
演奏者は「楽譜を信じる」しかないのです。作曲家自身が演奏するなら楽譜より「演奏した音」が正しい事にもなりますが、そうでない限りは楽譜を信じるしかありません。
 楽譜の通りに演奏していて「演奏不可能」な音が掛かれている場合も、極稀にありますが、売られている楽譜には少ないですね。
 ただ、様々な出版社の「同じ曲の楽譜」を見比べると、まったく違う音やリズムが掛かれていることは「ザラ」にあります。弓付け(ダウン・アップ)やスラー、指づかいに至っては「同じものはない」と言えるほどに違うのが当たり前です。ピアノの楽譜でも当たり前にあることです。
 間違いと判断されるのは?「音の高さとリズム」…それさえ、楽譜によって違う事もあるのです。装飾音に至っては「正解はない」のが「正解」です(笑)
 では、楽譜の指示は無視して練習するべきでしょうか?
ダウン・アップを間違って先生に「違う!」と言われたら「逆切れ」しましょうか?(笑)

 演奏者が自分で「もっとも良いと思う」指使い、弓使いを考えられるようになるまでには「書かれている通りに演奏する」練習を積み重ねるしかありません。
むちゃくちゃな指遣い・弓使いで、無理やり練習しても無駄な練習です。
むしろ「有害」な場合があります。レッスンで先生が支持する「音」「リズム」「指」「弓」で演奏できる技術を身に着けることが、先決です。
 そのあとで!楽譜の指示と異なった「弓」「指」で試すことができるようになります。
 音の高さやリズムを、楽譜と違う音・リズムで演奏する場合にはその根拠を説明できるだけの「演奏技術」と「知識」が必要です。そうでなければ、ただ単に「間違った」と言われるだけではなく、作曲家の意図を無視することになりかねません。

 楽譜に書かれていない情報とは?
私は楽譜の「コア」をまず考えます。装飾音やスタッカート、レガートなどをはぎ取り」音の高さと長さ(リズム)=メロディー」だけの状態にしてみます。
 その「骨格=輪郭」を練習するうちに「肉付け=色付け」をしたくなります。
少しずつ…試してはまた削り、違う色を付けてみる。
 具体的な演奏方法で言えば
・弓の場所(弓先・中央・弓元など)
・弓の圧力(アタックなど)
・弓の場所(駒の近くなど)
・弓の速さ
・ビブラートの深さ・速さ・かけ始める時間
・ポジション(使用する弦の選択)
・ひとつの音の中での「音量変化」
などです。楽譜に「フォルテ」が書いてあるから「大きく」とはずいぶん違うことがお分かりいただけるかと思います。
 最初の動画で演奏した「オブリビオン」も今演奏したら、きっと違う弓、指・音色で演奏したくなると確信しています(笑)自分では「よしっ」とその時に思ったはずなのに、あとで聴くと「ちがうなぁ」が正直なお話です。

 以前にも書きましたが、演奏家が演奏する「音楽」は作曲家の意図した音楽と違って当然です。作曲家自身が自分の作った曲=音楽を、自分の解釈だけで演奏したければ楽譜は残さないはずです。事実パガニーニはそうしていました。
 楽譜として世に出た「音楽」は演奏者の手によって「音」になります。
料理で言えば楽譜が「素材」で料理する料理人」が演奏者です。素材をどう?活かすかが演奏家の技量だと思っています。
 その演奏を聴く人が「いいなぁ=おいしいなぁ」と思ってもらえるように、研究し努力するのが演奏者=料理人です。聴く人・食べる人の好みは、全員違います。全員が「おいしい」と思う料理は存在しません。音楽も同じです。誰かが「おいしい」と言ったからおいしいと思い込んで食べるのではなく、自分にとっておいしいかどうかは「自分の感覚」がすべてです。
 楽譜を音にする「楽しさ」を感じられるようになるまで、まず楽譜の通りに演奏する練習をしましょう!「料理学校」で基礎を学ぶことは大切です。
「我流」の前に先人の考えてくれた「ひとつの方法」を出来るようにしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を見ながら演奏できない視力になって変わった暗譜の方法

 映像は前回のデュオリサイタル14で演奏したピアソラ作曲の「グランタンゴ」ヴィオラとピアノによる演奏です。ヴィオラのパート譜10ページを暗譜して演奏しました。実際には前年のリサイタル時に暗譜して演奏したものを練り直して演奏しました。
 ご存知のかたも多いと思いますが、私が生まれつき持っている「網膜色素変性症」と言う目の病気は、治療方法が現在なく進行性のために、中途失明する患者が最も多い「特定疾患=難病」のひとつです。4歳頃に病気に両親が気付いて以来、50数年間と言う驚異的な「遅さ」で進行を続けています。進行の速さや発症の時期は患者それぞれに全く違います。症状のひとつが「夜盲=やもう」と呼ばれる症状で薄暗い場所で物が見えないというものがあります。健常者=多くの人は、映画館に入ってしばらくすると座席が見えたりするんですよね?私たちには「真っ暗なまま」で照明が光っている事しか見えません。
 もう一つの症状は「視野狭窄=視野が欠ける」症状です。見える部分=見えなくなっていく部分は患者によって違います。「中心視野」と呼ばれる部分がかけ始めると、次第に明るさを感じにくくなります。この視野狭窄が進行することで「視力」もなくなります。今現在、私の右目は中心視野の多くが欠けています。それでも、なんとか日常生活を妻の浩子さんの介助を受けながら送れています。

 さて、今回のテーマは「暗譜の方法」です。
視力をメガネやコンタクトレンズで「矯正」して両目で0.7程度あった40歳頃までは、楽譜を見ながら演奏できました。オーケストラで「ふたりで1冊」の譜面を見ながらの演奏もかろうじて出来ていたほどです。つまり、通常のひとと同じように「楽譜を覚える」方法だったと言えます。
 そのころの私を含め、多くのひとは楽譜を「見ながら」演奏できます。
読譜=楽譜をすぐに音にする能力を身に着け「初見」でほとんどの曲を弾ける技術を音楽高校・音楽大学で身に付けます。私もできました。その技術がないと「プロ」とは認められない時代でした。
 ・初見で楽譜を見ながら「譜読み」する。
 ・難しい箇所の指使いや注意すべきことを楽譜に書きこむ。
 ・次第に楽譜を見なくても暗譜で演奏できるようになる。
これが多くの場合「暗譜のプロセス」ですよね。
 今現在、私の練習方法は…
 ・音源があれば、とにかく覚えられるまで聴く。

 ・ヴァイオリンやチェロで演奏している音源であれば、指・弓使いなども覚える。
 ・楽譜を拡大し、パソコンのモニター(27インチ)横いっぱいに表示する。
 ・B4の用紙横向きで幅いっぱいに数小節拡大コピーする。
 ・楽譜を数小節ずつ覚える際に「指・弓・音色」も考え同時に覚える。
 ・覚えたものを楽器で演奏する。
この繰り返しです。生まれつき全盲の演奏家の場合は「点字楽譜」で覚えながら演奏されます。それと大差ありません。ただ、点字楽譜の方が早く読めるような気がします(笑)私はその点字をまだ読めません。

 この暗譜方法を「物造り」に例えると、始めの段階から完成した=出来上がった状態に近いものを造り、少しずつそれを組み合わせていく方法になります。この方法では作れないものもたくさんあります。一つの例で言えば、大型ジェット機を作る方法として「エアバス社」が用いている方法です。翼、胴体、エンジンなどを違う国々で作り、出来上がった部分を集めて「組み立てる」方法です。
家で例えるなら「プレハブ工法」が近いかもしれません。現場で柱を立て、壁を作り窓やドアを付けていく在来工法と違い、短期間に現場で組みあがります。

 さて、この暗譜方法で演奏するようになってから数年経ちますが、なんといっても1曲を通して演奏できるまでに長い時間がかかることは、どうしても避けられません。楽譜を見て演奏できれば「初見」で弾ける曲を、何時間・何日・何週間もかけないと演奏できない「苛立ち」はついて回ります。「みえてりゃすぐひけるのに!」と叫びたくなる(笑)思い出せない音があれば、止まるしかありません。そのストレスは想像以上でした。
 グランタンゴを最後まで通して演奏できるまでに、2週間程度かかった気がします。10ページを数小節ずつ…かなり気が長いですよね(笑)さらに、記憶を「効率化」するために、いわゆる再現部や似たようなパッセージが出てきたときには「前と同じ」で覚えるのですが、微妙に違うことが多く。山手線状態になることも良くあります。「今、なんどきだい?」(笑)です。
 これも、浩子さんの助けと協力があって初めてできることです。
ただ不思議なことに、頭の中にある「音楽」はヴァイオリン、またはヴィオラの「音色」でつながっているらしく、ピアノで音を出してくれてもなぜか?それまでの部分と連結しないのです。おそらく音名で覚えている部分より「音色」で記憶している要素が大きいのだと思います。困ったものです。
 覚えてしまえば、かなり安定して記憶を呼び出せます。それは今までよりも良いことだと思っています。楽譜ではなく「音楽」の演奏を記憶しているのかも知れません。

 できないわけではないはずですが、現在の私に浩子さん以外の人との「アンサンブル」は考えられません。迷惑をかけたくないという気持ちが先に立つからです。学生時代、オーケストラでストラビンスキーの「春の祭典」も暗譜して演奏していました。ただ、大学4年の時に「第九」でヴィオラのトップにしていただいた時、とにかく「弓」が覚えられずに2プルト目以後の方々に、多大なご迷惑をおかけした苦い記憶は消えません(笑)私の隣、トップサイドに山縣さゆりちゃんがいて、困った顔をしていたのも忘れられません。すみませんでした(笑)

 そんなわけで、音楽を覚える=演奏を覚えることが、演奏の手段になってから演奏中に考えることも変わったような気がします。少なくとも「楽譜」は頭にありません。昔なら今、何ページ目のどの辺りを演奏しているかを思い起こせました。それがなくなってから、音楽を「時間軸」で考えるようになったのかも知れません。視覚的な「場所」「楽譜」ではなく、一曲の中の「時間」を考えている気がします。それが良いのか?悪いのか?わかりませんが、それしかできない(笑)ので、自分の暗譜方法をさらに進化させることを考えていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリン演奏に必要な「能力」

 映像は、斎藤秀雄氏が桐朋学園を立ち上げた頃の話を紹介している番組です。
私は斎藤秀雄氏が亡くなった翌年に桐朋に入学し、直接お会いしたことはありません。情熱を持って指導をされた音楽家だったことは感じていました。

 さて、今回はヴァイオリンを演奏しようとする人、あるいは実際に演奏している人にとって「必要な能力」について考えてみます。
 楽器の演奏に限らず、スポーツでも学問でも日常生活でも「身につける」ために必要な個別の能力があります。
 たとえばサッカーであれば、「走る」「ボールを扱う」「ルールを覚える」能力が必要ですよね。
車の運転なら「運転技術」「交通ルールを覚える」能力。
料理をするなら「調理の技術」「素材を選ぶ」「味を判断する」能力。
お医者さんなら「症状から原因を見つける」「治療する」能力が求められます。
 ヴァイオリンを演奏する時に「必要」な能力とは?

優先順位の高い順に考えます。
1.音を聴いて高さ・音色・音量を判断する能力
2.弓を使って音を出す能力(右手)
3.弦を押さえて音の高さを変える能力(左手)
4.楽譜を音にする能力
たったこれだけ!(笑)です。。どれが苦手ですか?

上記の1.の能力はヴァイオリン演奏で最も重要な「基礎」になります。
単に楽器を演奏する技術だけを身に着けようとする人がいますが、自分の音を聴いて判断する能力を「鍛える」練習が必要です。
ソルフェージュ・聴音で「耳を鍛える」ことが可能です。
生の演奏をたくさん聴くことも大切な練習の一つです。

2.と3.の能力は、弦楽器(ヴァイオリン族)特有のものです。
特に2.の弓を使う技術は「音を出す」と言う技術、そのものです。
いくら3.の左手を練習したくても「音」が出せなければ練習にもなりません。
弓を動かす運動の「大きさ」と「動かす部位」は左手に比べてはるかに大きく、複雑です。右上半身のほとんどすべての筋肉に影響されます。「右手一生」と言う人も多くいるほどです。観察する部位も多く、演奏中にまず優先的に考えるべき能力です。言うまでもなく、1.の能力「聴く」技術が不可欠です。
3.の左手をコントロールする能力は、上記の1.と2.の能力に「掛け算」されるものです。足し算ではない?音を聴く力、安定した音をだす右手の能力が少なければ、左手「だけ」の能力はありえないのです。上記の1.2.のどちらかが「0」なら左手の能力も「0」なのです。ビブラートも左手の技術ですが、これも1.2.の能力があって初めて身につく能力です。

4.の楽譜を音にする能力は、極論すればなくても上記の1.2.3.の能力があれば、ヴァイオリンをじょうずに演奏できます。事実、フィドラーと呼ばれるヴァイオリン奏者の中には楽譜を読めない人もたくさんいると聞きます。誰かと演奏するときでも、言葉と楽器で打ち合わせをすれば合奏できる「特殊な能力」です。
 楽譜を音にする能力は、ヴァイオリンを使うよりもピアノやソルフェージュで身に着ける方が短期間で効率的に練習できます。
 楽譜を音にする能力があれば、短時間で効率的に音楽を練習できます。「耳コピ」で音楽を覚えることができるのは、ある「長さ=小節数」までです。もし上記の1.の技術の中に「絶対音感」があるのであれば、この4.の能力よりも効率的です。それでも楽譜が読めた方が能率的に上達できることは事実です。

 ざっと(笑)書きましたが、これらの能力の中で、自分に足りない能力を考えることがヴァイオリン演奏技術を上達させることにつながります。
 実際、プロのヴァイオリニストであっても上記の中の「どれか」を練習していることに変わりありません。
 ヴァイオリンン以外の楽器を演奏する場合には、それぞれに違った「能力」が必要になりますが、上記の1.の能力はどんな楽器においても「不可欠」です。
すぐには身につかない能力ですが、今現在楽器を演奏している人ならだれにでも平等に身につけられる能力でもあります。あきらめずに!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習中と本番中の「頭の中」

 映像は、アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したときのものです。なぜか…再生回数が多くて驚いています。

 今回のテーマは「頭の中」つまり、演奏者が「考えていること」について。
人によって違うのは当然ですが、多くのアマチュアヴァイオリニストの人たちとレッスンを通して、演奏しながら考えていることを確かめてきた経験と、自分の練習中と本番中に考えていることの「違い」を基に書いていきます。

 練習をしている時に考えていることは?
・リズムや音程(ピッチ)が正しいか?
・音色と音量が思った通りに弾けているか?
・間違ったり納得できない箇所の原因は何か?
・無意識のうちに姿勢や構え方が崩れていないか?
色々と考えていますが、自分を「観察」することがメインです。
いかに自分の音、音楽、演奏姿勢を「他人の耳と目」になって観察できるか?がポイントです。現実にはできないことですが、自分の音と姿を離れた場所から冷静に観察する「もう一人の自分」を作ることです。
 練習は「できるまで」続けることですが、何を?どのように?出来るようにしたいのかを、手探りしながら繰り返す「根気」が不可欠です。もう一人の自分=練習中の先生は、興奮せず・妥協せず・結果を焦らない先生が理想ですよね。
「ダメ!」「ダメ!」だけで熱くなっても効率は下がるだけ(笑)
「もうその辺でいいんじゃない?」と言うアマアマな先生も困りもの。
「できないならやめたら?」と言う短気な先生には習いたくないでしょ?
練習中に考える時には、冷静さと根気が必要です。

 では、演奏会やレッスンの時に考えることは?
多くの生徒さんが「家で練習していると、時々すごくうまくひける」とおっしゃいます。また、発表会などでは「全然、普段通りにひけなかった!」ともいわれます。どちらも「ごもtっとも!」だと感じます。むしろ、それが当たり前です。
 練習している時には、観察し修正することを繰り返しています。
レッスンや演奏会では、修正も繰り返すこともできないのです。観察だけは「出来てしまう」のですから、ストレスになるのは仕方ありません。
 緊張するなと言っても無理です。良い緊張は必要です。演奏中に「おなかがすいた…」と思った瞬間に暗譜が消えた経験のある私が言うので、たぶん緊張は必要です(涙)
 普段練習している時と、環境が違う場所で「一度でうまく弾こう」と思うのですから、冷静さがなくなるのは自然なことです。それをいかに?コントロールするかが一番重要です。

 何も考えずに演奏することは不可能です。普段、考えてもいない「作曲家の魂」をいくら思い浮かべようとしても無意味です(笑)では、なにを?頭で考えるべきなのでしょうか?
 私の経験で言えるのは「いつもより優しい先生がアドヴァイスをくれている」イメージを持つことです。演奏し始める時も演奏中も、いつもと同じ「もう一人の自分」が自分を助けてくれる・演奏をほめてくれる・失敗をしても優しく励ましてくれる「イメージ」です。
 自分の意識の「中と外」の両方が存在します。考えている「つもり」の事が意識の中です。考えなくても身体が動くのが意識の「外」です。
 私たちは日々の生活の中で、この中と外を実に頻繁に使い分けています。
 ついさっき、外したメガネを「どこに置いたっけ?」と探す私は、意識の外でメガネをどこかで外して置いています。
 意識の中で行動することを繰り返して初めて「意識の外」つまり無意識に動けるのが人間です。
 練習中にはできる限り、運動を意識の中に入れて繰り返すことです。考えながら演奏することです。
 本番やレッスンの時に、無意識でも指や手が動く「時間」もあります。日常生活ならば仮に思っていない運動があったとしても困らないでしょう。でも、車を運転している時、完全に無意識になれば事故の確率は間違いなく高くなりますよね。
 演奏は楽しむものです。本番で間違えないことだけを意識するよりも、もう一人の自分が、自分の演奏を楽しむ姿を想像する方が音楽に集中できるように私は思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介