メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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演奏の技術

音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

耳に優しい音色と音楽

 映像は、フォーレのベルシューズ「子守歌」です。
ヴァイオリンの音色が「こもった」感じの音なのは、演奏用のミュート=弱音器を駒の上に付けて演奏しているせいです。練習用に使う「消音器=サイレンサー」とは意味合い・目的が違います。ちなみに金属製の消音器を付けると、音圧=音の大きさがテレビの音量程度まで小さくなります。一方で演奏用のミュートは、「音色を変える」ための道具です。

 さて、同じ音楽=楽譜でも、演奏の仕方で聴く人の印象が変わることは言うまでもありませんね。同じ材料と調味料を使って、違う人が同じ料理を作っても、同じ味にならないことと良く似ています。料理で言えば、材料の切り方、火加減、手順、味付けが違います。ヴァイオリンの演奏で言えば、何がどう?違うのでしょうか?

 もちろん、楽器と弓で音色が大きく変わるのは当然です。
ヴァイオリニストは自分の好きな音色の楽器を使って演奏できます。
ピアニストはそうはいきませんね。会場のピアノで演奏することがほとんどです。また、高額なヴァイオリンの場合、演奏者が借りて演奏する場合が良くあります。自分の好きな楽器かどうかの選択ではありません。
 自分の好きな音色を出すためのテクニックとは?

 前回のブログで書いた「弓の毛の張り具合」もその一つです。そのほかに
・弓の速度

・弓の角度
・弓の圧力
・弓を乗せる位置=駒からの距離
・ビブラートの深さ
・ビブラートの速さ
・ビブラートをかけ始める時間
・弦を押さえる力と指の場所
・ピッチ=楽器の倍音
・グリッサンドやポルタメント
・余韻の残し方=音の終わりの弓の処理
他にも考えられますが、これらを複数組み合わせることで、音色が大きく変えられます。
聴いている人が「優しい音(音楽)」と感じる場合と、「激しい音・強い音」と感じる場合があります。言葉で表すのはとても難しいことですが、少し「対比」を書いてみます。
・太い音⇔細い音
・固い音⇔柔らかい音
・明るい音⇔暗い音
・鋭い音⇔丸い音
・つるつるした光沢のある音⇔ざらざらした音
・力強い音⇔繊細な音
・重たい音⇔軽い音
・輪郭のはっきりした音⇔ベールのかかったような音
いくらでも思いつきますが、上記の左右は「どちらもアリ!」だと思います。
綺麗⇔汚いと言うような比較ではありません。
敢えて書かなかったのが「音の大きさ」に関するものです。
だんだん強くなるとか、だんだん消えていくなどの表現は「音の大きさ」で「音色」とは違います。
 また同様に音の長さについても書きませんでしたが、実は音の長さは「音の強さ」の概念に含まれます。「音の三要素」は「音の強さ」「音の高さ」「音色」です。いまは「音色」の話です。

 演奏者の好みで曲の解釈が変わります。
同じ楽譜でも、違って聞こえるのが当たり前です。「良い・悪い」「正しい・間違っている」の問題ではありません。フォーレの子守歌ひとつでも、人によってまったく違うのが当然です。大好きなヴァイオリニスト、五嶋みどりさんのえんそうです。

https://youtube.com/watch?v=nguAm1-qZvE


 世界的なヴァイオリニストの演奏と比較する「図々しさ」は私にはありません。
ただ、人によって音楽の解釈が違うと言う話です。お許しください。
 ヴァイオリニストの音色へのこだわりは、楽器選び、弓選び、弦選び、松脂選びなどの「ハード」と演奏方法「ソフト」の両面があります。
聴く人には「一度だけの演奏」です。演奏者が、自分の好きな音色に迷いがあったり、最悪「こだわりがない」場合、演奏のうまい・へた以前に「無責任な演奏」を人に聞かせていることになると思います。
 自分の好きな音を探し求めて、試行錯誤を繰り返すのが弦楽器奏者です。
一生かけて、楽しんでいきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

間違いだらけ「弓の毛の張り具合」

 映像は、ファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした作品です。だいぶ前の演奏で…若い(笑)
 今回の話題は「弓の毛」をどのくらい?張って演奏するのが良いのか?です。
多くの動画がYoutubeに上がっていますが、なにか間違っている気がしましたので、長年「弓」について考えながら演奏してきた演奏者として、考えをまとめてみます。

 高校時代まで使っていた弓は、フィンケル氏の作成した弓1本だけでした。
次第に「弓を変えたら音が変わるって本当かな?」と思うようになり、ヴァイオリン職人で私の楽器を斡旋紹介してくれた名工「田中ひろし」さんに相談しました。「自分で勉強してこい。」と一言。東京中のヴァイオリン専門店を回って、「これだ!」と感じた弓を数日間だけ貸してもらっては、表参道?南青山?の田中氏の工房に持っていきました。「おまえ、この弓のどこがいいんだ?返してこい!」の繰り返しを約1年間続けた頃、田中氏から「この弓でひいてみろ」と言われて渡された弓。それが今も私が使っている「ペカット」でした。その弓を師匠である久保田良作先生にお見せしました。「すごいね!今度の演奏会で使わせてもらっていいかな?」と実際に東京文化会館小ホールでの先生の演奏会で使用されました。その後返して頂いた際に「この弓、売ってもらえないかな?」さすがにそればかりは!とお許しいただいたのを忘れられません。
 そんな弓を使って演奏している私の「弓の毛」の張り方です。

 「弓の毛を強く張れば張るほどいい音が出る」と間違っている人がたくさんいます。また同じように「張れば張るほど、大きい音=フォルテが出せる」と間違っている人も多いのが現実です。なぜそれが間違いなのか?説明します。

 そもそも、弓の木は元来「まっすぐ」に削られたフェルナンブッコの木を、職人が熱を加えながら反りを付けて作ったものです。弓の木には弾力=しなりがあります。弓の元から先までの「しなり=強さのバランス」と「重さのバランス」が弓の命です。さらにしなりは「縦方向と横方向」のしなりがあります。
弓の毛に対して直角方向が「縦」で、弓の毛と平行方向が「横」のしなりです。
弓の一番先を左手で持って、右手でこの「縦と横」の弾力を感じる=調べることができなければ、弓の良し悪しは判断できません。しなりが弱い弓を「腰が抜けた弓」と表現します。一方で固すぎる弓は、柔らかい音色を演奏できません。
 弓の毛を張ったままで何日も放置すると、弓の腰が抜けて「ぐにゃぐにゃ」になります。この状態は先述の「左手で弓先を持って調べる」とすぐにわかります。縦にも横にも、ほんの少しの力でふらふらと曲がります。反りもほとんどなくなって、まっすぐの「棒」になってしまいます。
この状態で演奏しようとすると?当たり前ですが、弓の毛とスティック=弓の棒の部分がすぐに当たってしまいます。弓の毛を張れば張るほど、スティックは安定感を無くして、フォルテもピアノも演奏できなくなります。
 言い換えれば、張らなければ弾きにくい弓は、腰が抜けている弓です。
弓の弾力は、すべての弓で違います。弓の毛の本数が同じでも、弓の毛もやはり弾力が違います。演奏する前にその弓の「ベスト」な張り具合を見極める技術が絶対不可欠です。弓の弾力が最も大きく使えるのは「弓の毛を緩めた時=毛を張っていない時」です。弓の毛を「少しずつ張っていく」と、スティックの両端を弓の毛が、弓の元=毛箱に向かって引っ張る力が生まれ、少しずつ弓の反りが「逆方向=まっすぐにさせられる」ことになります。つまり、本来「弓の反りが少しだけ変わる」程度の張りの強さで、弓の毛はまっすぐにピンと張れているはずなのです。
 腰の抜けた弓だと、弓の毛がピンとなる前に、スティックがまっすぐになってしまいます。これでフォルテが弾けるはずもありません。
 この「ぎりぎりの弱さ」で、まず弓の中央部分と、先、元で演奏してみます。
弓のスティックを、演奏者から見て向こう側に倒しすぎれば、弓の毛が半分くらいしか弦に当たらず、当然毛のテンション=張力が半分になるので、すぐにスティックが弦に当たります。当たり前です。だからと言って弓の毛を張るのは間違いです。
 そもそも論ですが、弓の真ん中は弓の毛のテンションが弱くて当たり前です。むしろ弱いからこそ、元・先のテンションが強い部分との「違い」が出せるのです。
 弓の毛を「弦」に置き換えればすぐに理解できます。
弦の「端っこ」に当たる「上駒=ナット」近くと「駒」近くは、弦のテンション=張力が、強く=弦が固く感じますよね?つり橋の真ん中が揺れるのと同じ原理です。弦の固さ=橋の強さは本来端っこも真ん中も同じでも、駒=橋脚近くは固い=揺れないのに対して、真ん中は柔らかい=揺れることになります。弓の毛でもまったく同じです。

ちなみに「カーボン弓」は「曲がらない」と勘違いしている人もいますが、それも間違いです。曲がるように=フェルナンブッコ弓と同じように作る技術があるのです。ケースに使われるカーボンと「製造工程」が全く違うのです。
 弓の毛を張らないで、フォルテで演奏すると、初心者の場合は弓の毛とスティックと弦がすぐに「接触」してしまいます。その接触をぎりぎりで避ける「圧力」をコントロールできるのが上級者やプロの演奏技術です。

 弓の毛の張り具合は、演奏者によって好みが分かれます。
弓の中央部分でも、とにかく圧力をかけて演奏したいというヴァイオリニストはやたらと毛を強く張ります。一方で、弓の中央部分の柔らかさを使いたいヴァイオリニストは、ぎりぎりの弱さで張ります。
 少なくとも、弓へのダメージを考えるなら、私は張りすぎは避けるべきだと思います。私はペカットを使うのは、本番前の数日間と本番当日だけにしています。それまでは、違う元気な弓(私の場合フィンケル)で練習します。
 弓のスティックは、演奏していると次第に柔らかくなっていくのを感じるはずです。言い換えれば、木が疲れてきているのです。毛を強く張って長時間練習すれば、それだけスティックは疲労します。
 「弓は消耗品」という、とんでもない嘘を言う人が、たまにいます。
確かに疲労しやすい・壊れやすい「楽器」です。だからこそ労わって、大切に使わなければ、名弓と呼ばれる弓は世界からなくなってしまいます。すでに多くのペカット、トルテの弓が、折られたり、使い物にならなくされたりしています。
 弓はヴァイオリンの付属品でもありません。楽器です。
弓の扱いを知らないアマチュアが多すぎます。先日も、ある学校の部活オーケストラに入った私の生徒が、先輩に「弓の毛はいっぱいまではらないとダメなんだよ」と言われ、困って「私の先生に弓の毛は張らないほうがいいってならいました」と正直に答えたそうです。あろうことか、そう上級生は「そう?じゃ、貸して」と生徒の弓の毛を目いっぱいに張って「はい。これで大丈夫」と返されました。
実話です。これが現実なのです。恐ろしいと思います。
 私の生徒には、絶対に人に楽器も弓も触らせたり弾かせたりしないこと!
なぜなら、楽器を落としたり、ぶつけて壊しても「貸した人=持ち主の責任」なんだよと、教えました。どうしても先輩に言われたら「このヴァイオリンは私の先生に借りているものなので、貸せません」と嘘で良いから断るんだよと教えました。嘘をつかせたくはありませんが、そうするしか方法がありません。

 弓の毛の張り具合を決めるのも、演奏技術の一つです。ただ単に「適当に張りましょう」と本気で思っている人には、ぜひ弓のスクリューを90度緩めて演奏して見て欲しいと思っています。それでもまだ強すぎれば、さらに90度。
きっと音色の違いに気付けるはずです。そして、弓の反りをいつまでも保つことは、ヴァイオリン演奏者の「責任」だという事を忘れないで欲しいのです。
弓は買い替えればよい…という人は、ぜひピチカートだけで演奏してください。
弓は演奏者の「声」を出すものです。声楽家がのどを大切にするように、ヴァイオリニストは弓をもっと大切にするべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学んだ知識を身に着ける努力

 映像はヴィオラとピアノで演奏したドボルザークの「我が母の教え給いし歌」です。私の幼いころの写真やら、両親の若いころの写真など(笑)お許しください。「母が教えてくれた歌」を実際に覚えているかどうかは人それぞれですが、私の場合は…すみません、「記憶にございません」
 子供の頃から、音楽を教えてくれたのは「先生たち」でした。
両親から直接、音楽を教えてもらった記憶はないのですが、よくよく考えてみれば先生に出会えたのは「両親のおかげ」です。やる気のない少年「K」をある時は叱り、有る時は飴で釣りながらヴァイオリンを「やめさせなかった」両親から結果的に音楽を学んでいたわけです。
 反抗期、大人に対する理由もない嫌悪感と対抗心を感じる時期です。
特に「親・兄弟」への反抗は人によって違いますが、時には「人として」間違った言葉や行為に至ります。私自身、中学生のころから高校を卒業する頃まで、父にも母にも「抗って」いました。反抗する子供を見ると「いつか大人になって目覚める」と信じていますが、自分の子供を「放任」したことは今反省していますが、時すでに遅しです。

 さて、音楽をひとに習うことができるのは、どんな人でしょうか?
「お金を払えば教えてもらえる」と言う意味ではありません。
人から何かを学び取ろうと言う「気持ち」の話です。
教えてもらう、教えて頂くと言う「謙虚な気持ち」がなければ、なにも学べません。形だけ「習う」ことを学んだとは言いません。音楽に限ったことではありませんが、他人の言葉に耳を貸そうとしない人は「自分が正しい」と思いこんでいる人です。少なくとも自分の考えと違う考えに対して「誹謗」する人や、自分と違う考えの人を「排除」する人が、誰かから謙虚に「学ぶ」ことは不可能です。
 人間は年を重ねると次第に、人を見下す傾向があります。
特に回りの人が「ちやほやしてくれる」環境にいると、その「上から目線」は限りなく高い場所からの目線になります。「神」になった気持ちなのかもしれません。
 その「神のつもり」の人から、何かを学べるでしょうか?と言うより、その人に、他人になにかを「教える資格」があるとは思えません。
 本人は「教えてやる」と、いい気分でしょうけれど、すでにその人は「学ぶ心」を失っているのですから、退化し続ける哀れな人でしかありません。

 音楽を学ぶと言うことは、技術や知識を学ぶだけではありません。
練習の仕方?楽器の扱い方?それもありますが、もっと大切なことがあります。
音楽を学ぶ。それは、自分に足りない「なにか」を見つけることです。
レッスンならば先生からの言葉や、先生の演奏から自分に足りないものを考えます。
 他人の演奏を聴く時も、自分に足りないことを見つけることが大切です。
逆説すれば、自分を観察できなければ、なにも学べないという事です。
その上で「向上」しようとすることが「学ぶこと」です。
自分が出来ないことに気付けたのなら、そこから先にやることはただひとつ。
「身に着けるまで努力=練習する」ことです。
当たり前のようですが、得てして学んだ「だけ」で終わってしまうことが多いのです。出来るまで努力することから逃げてしまうのが人間の弱さです。

 学ぶことは、自分の出来ないことを見つけること=知ることです。
そして、それを出来るようになるまで練習し続けることです。
「頭=考えること」と「身体=行動すること」で生き物は成長します。
どちらが欠けても成長はしません。
学び続けて行動し続けている人から、また違う人が学ぶ連鎖が「伝承」です。
趣味であっても専門家であっても、まったく同じです。
気持ちはいつも「初心者」であり続けたいと思っています。
さぁ!今日も頑張ろう!
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

調性感と和声進行

 映像は、ショパンのノクターン第20番をヴァイオリンとピアノで演奏するようにアレンジされたものです。オリジナルであるピアノによる演奏との「好き嫌い」は当然ありますね。この曲に限らず、ピアノ曲を弦楽器や管楽器・声楽が旋律を演奏し、ピアノと演奏する場合に、「ピアニストにとってストレスだろうなぁ…「と思うことが良くあります。まぁ、それはさておいて(笑)今回のテーマは、音楽を聴いて感じる「調性=長調・短調」と「和声進行=コード進行」についてです。

 音楽理論と呼ばれる「音楽の分析方法」があります。
言葉は固いですが、私たちが日常聴いている音楽は「いつか・誰かが・どこかで」作曲した曲を演奏した音楽です。当たり前ですよね?道路に音楽が落ちているわけではありません。空から降ってくるものでもありません。その「誰か」がどうやって音楽を作ったのかな?と考えることから「音楽理論」を考えてみます。

 私たちが音楽を「作曲」しようとしたら、どんな技術や能力が必要でしょうか?
前提として、日本の義務教育で学んだ「音楽知識」のレベルで考えてみます。
まず、楽譜を書く能力・技術は必須でしょうか?答えは「いいえ」です。
現に楽譜を書くことのできない作曲家もいます。まさか!と思われるかもしれませんが、歌が歌える・何か楽器を演奏することができれば、音楽は作れませう。その「音」を楽譜に出来る人が楽譜にすることもできますが、楽譜を書くことは作曲ではありません。曲=音楽を作るのが作曲家です。ですから、五線紙におたまじゃくしを書けなくても、ドレミを知らなくても作曲はできます。これで、私もあなたも「作曲家!」

 そうは言っても、ただ適当に=無茶苦茶に鼻歌で作曲した音楽が「感動する」音楽になるかと言えば、これまた答えは「いいえ」です。なぜでしょうか?
ここからが「理論」の出番です。
不思議なことに、私たちは一つの和音や短い旋律を聴いただけで、明るく感じたり悲しく感じたりします。この原因については、いつか別の機会に考えたいと思います。原因は不明でも、実験するとほとんどの人が小名以上に「明るい」「悲しい」と言う共通した感想を持つのが、和音であれば「長三和音・短三和音」で、調整で言えば「長音階=長調・短音階=短調」という違いです。
 長三和音と短三和音の「差」は和音で鳴っている3つの音の中の「1つ」だけが「半音」違うだけなのです。たった半音ひとつ分違うだけで、なぜか?聴いている人が明るく感じたり、悲しく感じたりするのが「和音の不思議」です。
 調性で言えば、長音階を使って音楽を作れば「長調、短音階なら「短調」になるのですが、この違いも「音階の第3音=音階の主音(基準になる音)から3番目の音」が「半音」違うだけなのです。厳密に言えば、音階の第6音も「半音」違う場合が多いのですが、どちらもたった半音の差です。
 ちなみに半音は、ピアノで言えば「一番小さな音の違い=一番近い鍵盤との高さの差」のことです。ヴァイオリンや歌の場合、それより細かい「差」で、音を出すことが出来る=出てしまうのですが、ピアノやオルガンの場合は、鍵盤にないお音の高さを演奏することは不可能です。
 その高さの違いを聞きわけられなくても、「明るい」「悲しい」を感じているように思いますが、実はその違いを感じている人は、半音の違いを「聞き分けている」事に間違いないのです。でなければ、音楽の調性も和音の種類も意味をなさなくなります。聴音の技術がなくても、理論を知らなくても「聞き分ける能力」を、ほとんどの人が持っているのです。

 曲を演奏する時に、調性や和声の事を考えずに演奏することもできます。
楽譜を「音」にするだけなら、なんの感情も必要ありません。パソコンでも楽譜を音にすることができるのです。その「音=音楽」を聴いて、明るく感じたり悲しく感じたりするのが「人間」です。機械には「音」としてしか認識されていません。
 聴く人が感じる「感覚」は音楽を作る人の「意図的な感情操作=理論に基づいた作曲」によるものです。むしろそれが出来るのが「作曲家」たる所以です。
短三和音だけをずっと演奏していても、短調には聞こえますが不自然です。
また、長音階で作られた曲の中にもところどころに「短三和音」で伴奏することが普通にあります。
 演奏している人が、今演奏している部分を「長調なのか短調なのか」「なに三和音なのか」という事を考えることで、演奏の仕方が変わります。
変わって当然です。むしろ「考えないで=感じないで演奏する」のであれば、機械に演奏させた方がよほど!じょうずに演奏してくれるのです。
 ショパンの動画を聴いて、曲の最後が「長三和音」で終わっていることに気付かなければ、それまでと同じ「演奏の仕方」でひいていしまうことになります。
理論を学ぶことで、実際に演奏しなくても音楽を「分析」することができます。
音を聴かなくても、和音の種類を判別できます。その理論と感覚=感情を組み合わせて、演奏技術を考えることが「人間の演奏する音楽」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いとヴァイオリンの音色

 動画は長野県木曽町で開かれた演奏会より「ラベンダーの咲く庭で」を、長野県木曽町が所有する「木曽号」というヴァイオリンを使って演奏したものです。
ちなみにピアノは、恐らく戦前に作られたスタインウェイのレアなグランドピアノです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する時に、どんな指使いで演奏するか?どのくらい考えますか?楽譜に印刷されている「指番号・弦の指定」にはとりあえず従いますか?楽譜に書かれていない場合は、「適当」でしょうか?
 多くの生徒さんが、指使いを自分で決められません。それが普通です。
プロのヴァイオリニストの場合、自分で考えて決めますが、人それぞれに好みが違います。では、指使いを変えると何がどう?変わるのでしょうか。

 指使いを考えるのが学生時代から好きでした。挙句の果て、当時「最先端」だった授業「コンピューター音楽」を履修し、年度末に提出する自作プログラムのテーマを「初心者のためのヴァイオリン指使いプログラム」にしました。
 初心者が指使いを決められない理由は、いくつかあります。
大きな理由の一つは、ファーストポジション以外の「どのポジションで演奏すればいいのかわからない」ことです。ヴァイオリンを演奏しない方に簡単に説明すると、ピアノと違ってひとつの音の高さを「違う弦で演奏できる場合」があるのです。具体的に言えば、ヴァイオリンのG線開放「G=ソ」から「Cis=ドの♯」までは、どう頑張っても(笑)G線でしか演奏できません。音が高くなればなるほど、「低い音の弦」でも演奏できるよういなります。E線で演奏できる音は、隣のA線でもさらに低いD線でも、一番低いG戦でも演奏できます。…説明がへたくそですみません。要するに「弦の選択肢がある」ということです。さらに、開放弦「0」と4本の指の中で、どの指づかいで演奏するのか?という事に、規則はありません。その点はピアノと同じです。ただピアノもそうであるように、「前後関係」と「演奏に適した指」があります。それを選ぶのがまた楽しい(笑)

 弦による音色の違いがあります。もちろん、音色の近い弦を揃えて張ることも、弦楽器奏者のこだわりです。さらに演奏技術で、音色を変えて弦ごとの音色を意図的に変えたり、似通わせたりできます。
 曲の中で演奏する「音」によって、どんな音色で演奏したいのか?を考える場合があります。もう一つは、どの指使いで演奏するのが「演奏しやすいか」を基準に考えることもあります。そのどちらを優先するか?もさらに頭を悩ませる問題です。
 たとえば、ファーストポジションだけで演奏できる部分があった場合、意図的にポジションを変えることがあります。
1.同じ弦で演奏することで、音色を変えたくない場合。
2.ポルタメントやグリッサンドを音の間に入れたい場合。
3.速いパッセージをスムーズに演奏したい場合。
他にも考えられますが多くの場合この三つで考えます。
さらに、大きな音色の違いがあります。
弦の長さを短くする=ハイポジションで演奏すると、同じ高さの音を長い弦=引くポジションで演奏した場合よりも、緊張感のある独特の音色を出すことができます。弦長が長ければ、響きはゆったりしたものになります。短ければ、鋭い音色になります。
 また、指によってビブラートの「幅と速さ」をコントロールしやすい指と、難しい指もあります。練習でその差をなくす努力はしても、わざわざ小指で長い音のビブラートをかけたいとは思いません。
 当然のことですが、すべては音楽の前後関係を中心に決めるべきです。
ひとつの音だけを演奏する音楽はありません。相対的に考える必要があります。
さらに、ホールの大きさや楽器と体のコンディションでも指使いは変えて当然だと思っています。

 演奏する曲の印象を変えるのが指使いです。極論すれば、楽器や弓を変えるよりも大きな音色の変化をもたらします。こだわりの指使いを、ぜひ!ご賞味ください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。.


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

合唱とオーケストラ

 動画は、メリーオーケストラ第12回定期演奏会です。
地元相模原市内のアマチュア合唱団
数団体をお招きしての「合唱付き」第9じゃないけど(笑)
 私が今も音楽に関わった生活をしている「原点」が3つあります。一つ目は小学校1年生の頃に、近所の先生でヴァイオリンを習い始めた事。二つ目は、小学校5年生の時に恩師久保田良作先生のお宅の門をたたいたこと。三つめは、公立中学校で出会った、ゆるーいクラブ活動のオーケストラと、校内合唱コンクールと卒業式での合唱。もし、この中でどれかひとつが抜け落ちていたら、その先は音楽と無縁な生活になっていたはずです。

 中学校で出会った音楽の先生であり、部活動の顧問・指揮をされていた「室星先生」からの影響が今も私の活動に関わっています。
 当時新設校で、真新しい校舎でした。絨毯の敷かれた音楽室。
オーディオ大好きだった室星先生がこだわった「音響設備」どれもが驚きでした。当時、合唱部はなくオーボエやファゴット、ヴィオラ、ホルンなどの楽器の代わりに「キーボード」や「メロホン」が使われていた音楽部。その中で出会った友人、先輩、後輩と未だに交流があります。一緒に練習することも、演奏会に出ることも、卒業式で演奏することも、何もかもが「おもしろかった」3年間でした。
 そう書くと「理想的な中学校生活」に思われそうですが、顧問以外のいわゆる「担任団教員」は、人間のクズが揃っていました。
 教師たちが生徒である私を「泥棒」あつかいし、それがまったくの「濡れ衣」だと判明した後も、廊下ですれ違いざまに「おまえ、本当は盗んだんだろ」と声をかけてくる教師も
ました。
 中学3年で朝レッスンを受けるため、親が届を出して「遅刻」していたことを根に持った学年主任の体育教師は、体育祭の予行練習時、全校生徒が公邸で準備体操をしている最中、号令台の上からマイクで「こら野村!バイオリンのおけいこやって
じゃねぇぞ!」
さすがに周囲の友達がブチ切れていましたが、私は心の中で「さっさと〇ねよ」と笑っていました。卒業後数年した時、本当にその学年主任が死亡した話を聞いた時、本気で笑いました。そのくらい、傷つけられていました。「絶対に、あんな教師にならない」と思って、いつの間にか本当に教師になっていました(笑)
 合唱が「面白い」と思えたのも、室星先生の指導方法がその理由だったことを後で知りました。ビブラートをかけて歌うことより、大声で全員が歌うこと。じょうずに歌うことより、「必死に」歌うことがどれだけ歌っている本人にも、聴いている人にも感動を与えるのかを知りました。
 卒業式は、まるで音楽会のように、在校生、全校生徒、そして卒業生が式典の中で何度も歌います。「巣立ちの歌」「仰げば尊し」「大地讃頌」「蛍の光」「校歌」
 大地讃頌は卒業生が全員、号泣しながら体育館中を震わせるほどの声で歌います。在校生音楽部員のオーケストラが、どんなに大きな音で演奏してもかき消される、圧倒的なエネルギーでした。
 一緒に必死で歌うことで、それまでの3年間をすべて、美しい思い出にしてくれました。うまい・へたなんて、どーーーーでもよかったのです。

 音楽高校にありそうでない部活「音楽部」「合唱部」
桐朋にはありませんでした。同級生のチェロ専攻男子が偶然、合唱好きで話が盛り上がり、「合唱サークル」を立ち上げました。ただの「おあそび」にしかなりませんでした。
 桐朋祭最終日に行われた「クラス対抗合唱コンクール」がありましたが、盛り上がっていたのは、私だけ?(笑)
 音大を卒業し、教員になってから、オーケストラを最初に作ったのは、間違いなく室星先生の影響です。オーディオにこだわりまくったのもそうです。音楽室には、BOSEのスピーカーが4つ壁にかかり、2台のアンプで当時最先端のCDを鑑賞に使っていました。
 でも合唱部は作りませんでした。これも多分師匠の影響です。

 退職後、メリーオーケストラで、合唱団と一緒の演奏を指揮した時に、「あれ?どこかで似たようなことをやっていたような?」と思いました。自分の中学卒業式の記憶だったんですね。いつまでたっても中学生のまんま(笑)
 自分の出会った「師匠」に育てられ、今どれだけ?恩返しができているのだろうと感じます。人との出会いがなければ、今も音楽を楽しんでいなかったと思います。理屈ではなく、予測もできない「出会い」を大切にしてこれからも、音楽を楽しもうと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Henryk Szeryngが演奏するFritz Kreisle

 学生時代、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタやパルティータの「お手本」としてレコードが擦り切れそうになるまで聴いていたヴァイオリニスト「ヘンリック・シェリング」大先生(笑)
 今朝、ラジオを何気なく聞いていて、フリッツ・クライスラーのヴァイオリン小品を、シェリングが演奏しているのを恥ずかしながら生まれて初めて聴きました。
 バッハとクライスラー。ヴァイオリン奏者にとって「両極」とも言える作曲家です。言うまでもなく、音楽の父と称される「ヨハン・セバスティアン・バッハ」様の残された音楽と、ウィーン生まれのヴァイオリニスト「フリッツ・クライスラー」を一緒にするな!というお考えもごもっともです。
 私の愛するクライスラー様(笑)は、自分の演奏会で演奏する「自分が作曲した曲」をわざわざ!大昔の音楽家の名前を調べて本当は自分が作ったのに「〇△◇作曲」と大昔の音楽家の作品と「虚偽」のプログラムで演奏していたという「いわくつき」作曲家・ヴァイオリニストです。
 「自分が作った曲ばかりを演奏すると思われたくなかった」と言うのが「言い訳」のようですが、まぁ嘘をついたって言う意味では「アウト」です。が、他人が作った曲を「私が作った」と言う嘘に比べたら、どんなもんでしょうか(笑)
 今でこそ「ヴァイオリンの名手」と紹介されているクライスラーですが、当時クライスラーは、憧れだった「ウイーン・フィルハーモニー」のオーディションを受けて「不合格」だったというエピソードがあります。きっとクライスラー自身には、ショッキングな出来事だったはずです。
 今朝のラジオでも紹介されていた、もう一つのエピソード。
ある演奏会で、評論家が「クライスラー作曲」と書かれた曲を、ケチョンケチョンにこき下ろし、クライスラーが作曲した「けど」大昔の作曲家が書いたという「うそ」の作品を「素晴らしい!」とほめたたえた事に怒りまくったクライスラーが「それも、俺が書いたんだよ!ばーか!←と言ったかどうかは知らない」で、自分が作曲していたことを「暴露」したというお話があります。
 評論家が「実は知っていてクライスラーを挑発し言わせた」と、名探偵コンナンとして推理するのも楽しいですが、正直「けっ。さすが評論家さまだね。ざまぁ」とも思うのです。

 さて、シェリングの演奏するクライスラー作曲(…本当だろうか…)の序奏とアレグロですが、先入観もあってバッハ作曲(笑)に聴こえました。それは冗談ですが、シェリングの音楽への向き合い方かな?と思う几帳面で、羽目を外さない、良心的で節度のある演奏だと思う一方で、シェリングの「遊び心」も感じるのです。考え抜いたビブラートと指使いとボウイングでありながら、聴いていて笑顔になれる「楽しさ」があります。
 多くのヴァイオリニストが、クライスラーの作品を「アンコール作品」として演奏します。最後のデザートに最高と言う意味ではうなずけますが、「さらわなくても=練習しなくても、ひける軽い曲」と思って演奏しているように感じることが多くあります。「超絶技巧大好き」な人にとって、クライスラーの作品は「違う」はずです。ヴィニアウスキー、サラサーテ、イザイ、その他近現代作曲家の「難曲」はいくらでもあります。クライスラーの楽譜は、決して超絶技巧と呼ばれる難易度の曲ではありません。だから?アンコールに選ぶのだとしたら、クライスラーファン(完全に自称)の一人としては、腹立たしい気持ちです。
 そんなヴァイオリニストに、このシェリング大先生の演奏を聴いてほしい!決して派手な演奏ではないのに、心惹かれる「何か」を感じるはずです。力任せでもなく、ちゃらびきでもなく、深刻でもない演奏で、クライスラーの作品が輝きます。
 クライスラーがこの演奏を聴いて、どう思うかを推理するのも面白いですが、お二人とも天国で楽しく遊んでおられるでしょうから、お話は聞けません。
 これからも、クライスラーの作品を大切に演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

理想の楽器ケースと保管

 動画は「あるヴァイオリンケース」をモニターのヴァイオリニストに使用してもらった写真(モザイク入り)と、そのケースの特徴を説明したものです。
 様々ないきさつがあって、詳細は書けませんが今から十数年前にヴァイオリンケースの開発に関わりました。今回は、楽器のケースについてです。

 本来、ヴァイオリンは温度や湿度の安定した場所で演奏され、保管されるべきものです。あくまでも理想の話で、現実には高温多湿の会場で演奏することも良くあります。保管する場所にしても、常に保管庫にしまっておくわけにはいかないのが現実です。自宅で演奏しない時間に、ヴァイオリンを休ませる場所として「楽器ケース」を第一に考えるかもしれませんが、実はヴァイオリンにとってケースの中は「最悪の条件に置かれる」ことにもなります。
 ヴァイオリンに保険を掛けることができますが、多くの保険の場合、保険金が支払われるのは「金庫に鍵をかけてしまってあって盗まれた場合」に支払われます。それ以外の状態、移動中であったり室内に置いてある状態の場合には保険金の一部だけが支払われるだけではなく「全損=使えない状態」にならないと保険がきかないことがほとんどです。つまり、少し傷がついたから「修理して演奏する」ことは出来ません。保険会社に楽器ごと回収されます。ちなみに私自身、以前は楽器と弓に保険をかけていましたが、このような「免責事項」を知ってからは保険をかけていません。

 さて、楽器をなぜ?ケースで保管することが、ヴァイオリンにとって良くないのか?と言う話です。実はこれがヴァイオリンケース開発のスタートでもありました。
 多くの(おそらく99パーセント以上)ヴァイオリンケースは、楽器の裏板とケースの内張の布が接触しています。いわゆる「内装材」ですが、いくら高級なケースであっても、何かしらの素材が裏板に触れることに変わりありません。
ビロードだったりポリエステルだったりと、素材は色々ですが楽器の裏板には「ニス」が塗られています。ニスが完全に乾くまでに、通常なら1~2年はかかります。それまでの期間は「半乾き」の状態です。新作のヴァイオリンはほぼまちがいなく、この状態で演奏者の手に渡ります。そのニスに布が触れるとどうなるでしょうか?当然、ニスは布に付着して、光沢を失う悲惨な結果になります。
 古いヴァイオリンならニスは乾いています。とは言っても、ニスは高温多湿になると柔らかくなる性質があります。つまり、日本の梅雨時にヴァイオリンのニスは布に付着してしまうことになります。
 では、どうやって保管するべきでしょうか?金庫にしまうのでなければ、ヴァイオリンを「スタンド」に立てた状態で、出来るだけ多くの部分に室内の空気が触れる状態で置くべきです。「ぶら下げる」方法もありますが、地震の多い日本ではお勧めできません。東日本大地震の際、震度5でビルの5階にある教室にいましたが、スタンドに立てたヴァイオリンは一つも倒れませんでした。
 私がお勧めしているのは、キクタニ ウクレレ・バイオリン兼用スタンド VS-100。アマゾンで1700円ほどで替えて、持ち運びも簡単です。

 さて、楽器を持って外出する時の話です。まさか、このスタンドに立てて持ち運ぶわけにはいきません(笑)
 私が学生の頃、ソリストクラスのヴァイオリニストの方々は「ヒルのヴァイオリンケース」を持つのが「ステイタス」でした。そのケースを持っている人は「すごいヴァイオリニスト」と周囲から見られていましたので、誰でも手に出来る代物ではありませんでした。ヒルのケースも含め、昔のヴァイオリンケースは「木枠」に布を張ったものでした。ヒルのケースは当時「フライトケース」でもあったようで、世界をツアーで移動する際に、「足を乗せても大丈夫!」(決して像ではありませんし、100人は乗れません)が伝説でした。
 つまり「移動中に楽器を守る」ことがケースの役割です。
移動中、雨に濡れることもあり得ます。満員電車で押されることもあり得ます。
避けられること=やってはいけないことですが、夏の車内に放置すれば、どんな楽器ケースでもヴァイオリンは、壊滅的なダメージを受けると考えてください。
 そのように「避けられない危険」から大切なヴァイオリンを守るケースです。
「堅牢=頑丈」であること。大きな外圧に耐えられる構造が理想です。
木枠で作るより、カーボン=炭素繊維素材で作る方が、より頑丈になります。
カーボンは薄い状態でも、非常に「曲がりにくい」性質を持った素材です。
いっぽうで、FRPなどの石油製品=プラスチックの仲間と比べると、同じ厚さの場合、カーボンは圧倒的に「重たい」素材です。つまり「薄くても強い」のがカーボンですが、製造に手間がかかり価格が高くなります。加えて現在、カーボンの製造過程には守秘味義務が課せられているため、安直に作ることができません。
 多くの廉価ヴァイオリンケースは、必要最小限の木材とウレタン、発泡スチロールで出来ています。木材は持ちてを取り付ける部分だけです。
当然、ヴァイオリンを守る「強度」はまったくありません。人間が両手で押しただけで、ケースをつぶせます。中の楽器・弓もろとも、原形をとどめなくなります。
 どんなケースなら大丈夫なの?完全なケースはありません。雨の侵入を完全に防ぐ「防水」ケースはありません。強度で言えば、カーボンがベストですが、一番高いケース「○コード」のカーボンは、カーボンメーカーの技術者に言わせると「最低の粗悪カーボン」だそうです。現に角をぶつけただけで「穴が開く=割れる」のが事実です。ボールペンを突き立てれば、すんなり穴が開くことも、実験したと聞いています。

 理想のヴァイオリンケースを作りましたが、様々な理由で製造数は、100台ほどで生産も販売も終わってしまい「幻のケース」になってしまいました。
様々な…の中に、国内外での特許の問題もあります。私自身が取得しなかったことは今にして思えば、残念至極な事でした。申請と取得に莫大な費用が掛かるので無理でしたが。
 いつか、このケースが復刻されることを願っていますが、可能性はほぼありません。どこかの資産家が手を挙げてくれれば、喜んで協力したいと思っています。そんな日が来るのかな?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽・文学・絵画

 演奏は村松崇継さんの「Earth」原曲はフルートとピアノで演奏する楽譜です。ヴィオラとピアノで演奏できるように、ふたりで手を加えました。
 楽譜を書く=作曲をする人がいて、演奏する人がいます。
それが同じ人の場合もあります。「自作自演」の場合です。
多くのクラシックは、残された楽譜を演奏家が「音」にします。

 先日、友人の作曲家と雑談している時、「演奏のほうが練習することがあっていいよぉ。作曲って思い浮かばないと、な~んにもできないんだもん」
そりゃそうだ!思わず笑いました。演奏家ってなにかしら、練習することがあります。演奏すべき楽譜がすでにあるのですから。一方で作曲家の友人曰く「音が降りてこない」時には、あがいても何もできないそうです。
 この会話は、モーツァルトのように多くの曲を作曲した人と、ブラームスのように時間を費やして曲を書いた人って、なにが違うのかな~という雑談から始まりました。それぞれの作曲家が、楽譜を書く時の環境や考え方が違って当たり前です。どちらが良いと言う問題ではありません。
 今回はそのことではなく、芸術のひとつである「音楽」を解剖するものです。

 音楽で使う楽譜と、文学で使う言葉(文字)を比較します。
どちらも記号の羅列です。記号事態にルールがあるから、他の人が記号を音にしたり声にしたりできるという、共通点があります。
 楽譜に使われる記号を音にしても、特定の意味は持ちません。
いっぽうで文字は、言葉として特定の物の名前や、動きを表現することができます。知らない言語の場合、言葉を聴いても、意味のない「声」にしかありません。
 楽譜に書かれた「音楽」は作者が何かを考えて書いたものです。
文学でもそれは同じです。
 楽譜=音楽からは、作者の考えていることを直接(明確)に読み取ることはできません。
 文学=言葉は、作家の考えていることを直接、読み手に伝えられます。

 文学を絵画に置き換えて考えてみます。
絵画にも色々あります。風景を描いた作品、人物を描いた作品の他にも、抽象的に「なにか」を表現した絵画もあります。
 絵画の場合、作品を「直接」見ることができます。作者の描こうとしたものを、見る人が直接感じることができます。
 楽譜の場合、楽譜=記号そのものは「音」ではないのですから、演奏(者)と言う媒介=人間が必要です。演奏者自身が感じる音楽→その演奏を聴いて感じる人の音楽が存在します。作曲家の「意図」は、演奏者の「意図」を介して、聴衆に伝わります。
文学=読む人が作者の意図を直接、感じやすい。
絵画=見る人が作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
音楽=演奏する人と聴く人、それぞれに作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
という大まかな整理をしてみました。もちろん違う考え方もできます。

楽譜と言う記号が、表現できる=伝えられる作曲家の意図は、演奏者と聴衆の「感じ方」に委ねられていると思うのです。演奏者にせよ聴衆にせよ、作曲者の「意図」を決めつける=断定することに私は違和感を感じます。作曲者自身が何を伝えたかったのか?を、他の人が推察する自由があって当たり前だと思うのです。推察するために、作曲者のことを知ることも、演奏者と聴衆の「感じ方」の参考でしかありません。
 作曲家が「降りてきた」音を楽譜に書き残し、それを演奏者が自分の解釈で「自己表現」し、聴衆がその演奏を自分の好きなように「感じる」
 それが音楽と言う芸術だと思います。絵画とも文学とも異なった「作曲家」と「演奏者」という人間を通して表現される「ふたつの芸術」がひとつになる芸術だとも言えます。自作自演の場合には、「曲と演奏」と言うふたつの芸術です。
 聴く人にすれば、作曲者と演奏者の「思い」を感じられる芸術です。
演奏することを楽しむ人にとっては、「楽譜」と言う世界共通の記号を音にすることで、自分の感情が揺り動かされることが、なによりも楽しいことではないでしょうか?自由に感じ、自由に表現することが音楽だと思います。
 自分の感性を知識や「固定概念」よりも大切にしたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介