慣性の法則とヴァイオリンの演奏技術

 音楽高校、音楽大学「しか」出ていない私(笑)、物理とは無縁の人生だと思っていましたが!
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏をしながら、自分と生徒さんの「運動」を観察し、考えることが増えました。
「考えてないで練習しなさい」はい。ごめんなさい(笑)

「慣性の法則」とは「止まっている物体は止まり続けようとし、動いている物体は動き続けようとする」状態の事を言います。止まっている電車が動き出す時に、進行方向と逆に体が「倒れそうになる」のがこの法則を体感できるものです。ある速度で走っていた車がブレーキをかけると身体が前に倒れたり、止まっている車に後ろから衝突されると、身体が「後ろ」に押し付けられて首をねんざするのも「慣性の法則」が原因です。

 ヴァイオリンの演奏で右腕と左腕に、それぞれに違った「慣性の法則」が観察できます。
1.右腕
①動き始める時・ダウン・アップをする運動
②移弦をするときの運動
2.左腕
①ポジション移動の運動
②ヴィブラートの運動
③弦を「叩く」指の運動

言うまでもなく、すべて「筋肉」を使って意図的に動かすことで生まれる「慣性」です。
上下方向=天井と床方向の運動には「重力」も関わります。楽器と弓の「質量=重さ」や右腕、左腕が下に下がろうとするのも重力です。

 演奏していて「じゃま!」に感じる慣性があります。
1.ダウン・アップ・ダウンと弓を「返す」時の慣性
2.E→A→E→Aのような「移弦を繰り返す」時の慣性
 逆に慣性を利用することが望ましいのが
手首のヴィブラート これは「腕の動き」と逆方向に動く「手首から先の動生き」を活用するものです。
 どの運動にしても先述の通り「筋肉」を使った運動です。弓を「返す」運動にしても「移弦する」運動も「時間差をつけた逆方向の運動」で慣性力を「弱める」ことが可能です。
つまり、ダウンからアップになる「前」に、弓から遠い身体の部位…例えば上腕=二の腕を「先にアップ方向に動かす」ことで、腕全体を使って逆方向に動きだす「衝撃」を緩和することが可能です。
当然、アップからダウンの場合にも「直前にダウンの運動を始める」ことで、慣性を緩やかに打ち消すことが可能になります。
 移弦の場合にも、「弓を持つ手先→手首→前腕→上腕」の動きを「ずらす」ことで、慣性を利用して移弦することが可能になります。
 文字にすると複雑になりますが(笑)、一言で言えば「慣性を利用する」運動を考えることです。
もっと言えば「力学を考える」ことです。難しい数式は覚えなくても良いと思います。
力だけで無理やりに弓や腕を動かすのは、間違っています。どんな運動にも「補足」があるのです。
それを観察し考えることで、自分の思った運動=演奏をすることに近付けると思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

「妥協・諦め」と「許容・発想の転換」の大きな違い

 映像は「アヴェ・マリア」をヴァイオリン・ヴィオラとピアノで演奏したものをつなぎ合わせてみた動画です。
 同じ音楽でもヴァイオリンで演奏した「印象」とヴィオラのそれは、大きく違うように感じますが、皆様いかがですか?

 さて今回のテーマは、音楽に限った話ではありませんが、「妥協・諦め」の行きつく先にある結果と、一見似て非なること「許容する・発想や視点を変える」ことで到達する結果の違いを考えるものです。

 私たちは出来そうにない事や困難なことに直面した時に「逃げる」という選択肢と「乗り越えようとする」選択肢のどちらかを選んでいます。自分の経験や先入観で「無理!」と思えば逃げたくなります。挑戦したことのない「壁」の場合、好奇心や達成感を優先すれば「やってみようかな?」と思います。挫折することを恐れたり、失敗して労力と時間を無駄にしたくないと思えば「やめておこう」と思います。まだ「挑戦していない」のに(笑)結論を予想しているだけですよね。 

 挑戦する前に「逃げる」ことが悪いとは限りません。色々な「結果」を考えたうえで「挑戦しないこと・諦めることを受け入れる」勇気も必要です。そのためには「視点を変えて考える」事が何よりも大切です。
 例えばオリンピックの競技種目「高飛び込み」は水面から10メートルの高さから、重力に逆らわずに(笑)水面に飛び込みます。時速60キロに近いそうです。訓練した選手でも手首の骨折や、肩の脱臼、鼓膜の破裂は日常茶飯事だそうです。そんな「高飛び込み」を素人の私たちがやったら?どうなるでしょう?「やってみないと!」って飛び込む人は?勇気があると言うより「おばかちゃん」ですよね。一つ間違えば、首の骨を折って即死です。
「どうしても!やってみたい」と思う人は技術と知識を身に着ける訓練をしてから挑戦すれば、きっとできます。
「できない」と諦めず「方法を考える」ことになります。

 練習してもできなかったり、結果が思ったように出なかったりした時「挫折感を味わいます。楽器の練習をすればこの挫折感を常に味わうことは避けられないと思います。私はそうです(笑)
 その挫折感は受け入れるしかありません。問題は「その先」です。出来ない・結果が出ない「原因」を探すことこそ「発想の転換」です。「失敗」というネガティブ=負のイメージを「出来るようにするには?」というポジティブ=前向きな発想に替えることです。

「やっても無駄」とか「どうせ変わらない」という言葉を安直に口にする人を「物分かりがいい・さばさばしている」と評価する人は「同類」です(笑)
出来る方法を考えない・考えて実行する人を見降ろして楽しむという「軽薄な人間」だと思います。
出来るかも知れない・実現する方法を考えて試す人は「思慮深い人」「賢明な人」だと私は思います。
 避けられない現実は必ずあります。
生物が「死」を迎えることもその一つです。どんなに科学が進歩した現代でも、この現実は避けられず受け入れるしかありません。辛くても苦しくても。
 避けられる「未来」もあります。それを実行するのが「知恵」です。どんな未来にするのか?したいのか?を考える「知恵」と、どうすれば?理想に近い未来に迎えるのかを考えて実行するのも「知恵」です。

 音楽を楽しむための努力は、楽しみをより「深く」「強く」「多彩に」味わうための努力です。結果を出すための努力ではなく、あくまでも「楽しむ」ために努力すべきです。努力=練習は楽しくないことがほとんどです(笑)
その先にある「楽しみ」のための労力と時間を「無駄」と考えるのは価値観の違いです。楽しみを求めないなら確かに無駄なことです。何のために?練習するのかを考えて、出来ない時には「発想を変える」ことをお勧めします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の「時間=量」と「内容=質」で到達するレベル

 今回のテーマは楽器の演奏を楽しみながら、少しでも多くの技術を身に着けたいと思う、すべての人にとって共通の問題を考えるものです。
 上の動画は、恥ずかしながら私(野村謙介)が中学2年当時の演奏から始まり、音楽高校1年・2年・3年・音楽大学1年・2年(たぶん笑)・4年・5年(突っ込み禁止笑)の演奏を抜粋してつなげた動画です。年月にして14歳から23歳までの9年間。一人の師匠に習いながらの「記録」です。

 さて、どんな年齢から始めても「時間」には変わりありません。4才からの1年間も40才からの1年間も長さは同じです。練習する時間やレッスンで習う時間も、年齢や経験には関係なく等しい「時間」です。
 毎日の事であれば「何分」「何時間」という練習時間の量があり、それを「毎日・365日」続けた場合の「時間=量」と、一日おきや一主幹に数回程度で練習を続けた場合の「時間=量」はどうでしょうか?
「年月」と言う単位で考えれば、上記のどちらも「1年練習した」「5年練習した」と言えますが、実際に楽器を練習した「総時間数」は?全く違いますよね?
「練習の頻度」つまり練習と練習の「間隔」も多筋違いがあります。毎日練習する人と、3日おきに練習する人では、総練習時間が同じでも結果は大きく違います。
「幼稚園の時から中学卒業まで」楽器を練習していた人でも、到達するレベルは大きく違う一つの原因がこの「時間」です。

 次に練習の「内容=質」の違いによる到達レベルの違いを考えます。どんな練習をするのか?と言う内容と、練習ごとに自分を「観察する力」が大きな差を生みます。
 同じ時間でも「なんとなく」練習するのと「目的と結果を確認する」練習では、全く違う到達レベルになります。
独学なのか?レッスンで習っているのか?でも大きな違いが生まれます。一見、同じように感じますが独学の場合、自分の「課題」を見つけることが非常に難しくなります。
動画や書物で「知識・情報」を得たとしても、自分が演奏して「出来ている・間違っている」ことを確認してくれる人がいる「レッスン」の効果は習ってみないと理解できません。
さらに「教えてくれる人の技術」によっても、到達レベルが変わります。演奏のレベルだけではなく「指導技術」のレベルです。優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないのが現実です。学校や塾で「勉強を教える」人を例えにすればよくわかります。指導技術の優れた人に教えてもらえば、効率よく学習で木「希望通りの進学先」に行ける子供が多くなります。
指導する人のいない「部活」の場合にも、ある程度の演奏技術が習得できるのは、上記「時間」の問題です。毎日、学校で好きなだけ練習できる部活の場合、レッスンで楽器を習う人よりも明らかに長時間、しかも毎日欠かさず楽器を練習できるから「ある程度」上達します。

 どんな人でも到達できるレベルがあります。
「時間」+「内容」に比例して、到達できる演奏技術レベルがあります。個人差があるのは事実ですが、それを「才能」と言うのは間違っています。多くの子供が、受験や楽器以外の興味が原因で、練習することをやめてしまいます。練習を「やめた」時のレベルが、その子供の「能力」だと思い込むのが「親」なのかも知れません。
やmないで続けていれば、到達レベルは無限に高くなります。「100点満点」「ゴール」「頂上」はありませんから、続けている限り上達する地言っても過言ではありません。
歯きり言えるのは「練習をやめれば、その先の楽しみは体感できない」と言うことです。
 ぜひ、楽器を演奏する「楽しみ」を持ち続けて欲しいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽が好きな日本人なら

 このブログを読んでくださっている方にお願いです。
インボイス制度で日本から「演奏」と「指導者」が消えようとしています。どうか、消費税の仕組みを少しでも理解して、インボイスの「でたらめと嘘」を知ってください

 小学生でもわかる言葉で説明します。
・税金は「市町村」や「都道府県」や「国」に「誰かが」納めます。それは日本人の「義務」です。
・お金持ちの人は税金を払っても生活できますが、貧しい人は税金を払うと食べ物が買えません。そこで「払える範囲で税金を納める」仕組みが「税の応能負担の原則」です。
・消費税は、物を買ったりサービスを受けた人が納める税金ではありません。納めるのは「お金をもらった人やお店・会社」です。買い物をした時には「消費税」を含めた金額を支払います。ただその代金の「消費税を除いた金額」はお店が自由に決められます。当たり前ですよね?同じ商品を100円で売る店と110円で売る店があるのは当たり前のことです。
・買い物をしたり、音楽会でチケットを買ったり、レッスンを受けたりして支払った「代金」には、お金をもらった人が納める「消費税」も含まれています。
・消費税を含めて受け取った代金の10%を「消費税」と言いますが、消費税を納められない貧しい人やお店がたくさんいます。その人や商店、会社の事を「免税事業者」と言います。
・日本の音楽家、楽器指導者のほとんどは「免税事業者」です。インボイス制度はそれらの人にも消費税を納めさせようとする「悪だくみ」です。ただ「応能負担の原則」があるので「免税事業者の制度を廃止する」とは言わないのが「増税メガネ岸田」です。
・消費税を「納められない」から「免税」されているのです。その人たちに「消費税を納めろ」って「弱い者いじめ」ですよね?お金持ちの人の納める税金を安くするために、貧乏な人からもっと!税金を取り上げる人が「増税メガネ岸田」という総理大臣です。
・お金持ちに優しくするのは?「ずるをしたいから」です。お金持ちにもっとお金もうけをさせてあげると「政治家がお金をもらえて、選挙に勝てる」という「いかさま」をするための税金が「消費税」です。

「音楽家なんていらない」とか「レッスンなんて受けない」という人にとって、音楽が日本からいなくなっても困りませんよね?インボイスに賛成してる「自民党「公明党」「維新」「国民民主党」がこの代表選手です。彼らには「知性」がなく、「文化」「芸術」という言葉も理解できません。次の選挙で、この「自・公・維・国」以外の政党の政治家に投票してください。私たちの音楽を愛好する日本人の「敵」です。日本から音楽や文化を消滅させないでください。
 皆様の御理解を心からお願いします。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの価値を考える

 今回の テーマは以前にも取り上げたことのあるヴァイオリンの価値」について。
動画はストラディヴァリの作った楽器をテーマにした番組。面白いです。
さて、人それぞれに「価値観」が違うのが当たり前です。ヴァイオリンの良し悪し、あるいは「妥当な金額」についても、みんな違った考えを持っています。
 一方で時代によって決まる「物価」があります。例えば、ヴァイオリンを作るための材料を「物価」として考えた場合、木材・ニスなどを購入するための「材料費」があります。そこに製作者の技術と労力が対価として加わって、最終的に「販売価格」を買い手との交渉で決めます。これは、どんな者…食品であっても車であっても同じ原理です。当然、今現在もヴァイオリンを製作する人・企業があります。その楽器一つ一つに「最初の取引価格」があり、最終的に、いわゆる「エンドユーザー」が支払う金額が交渉によって決まります。
 これはストラディヴァリのヴァイオリンでも、大量生産のヴァイオリンでも理屈は同じです。ストラディヴァリウスの一番大きな特徴は「原価が不明」であり「当初の価格が不明」であり、製作されてからすでに300年以上の年月が経っても「現役」であることです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する人にとって「欲しい楽器」と「自分で買える楽器」が違う事は、ごく当たり前にあります。アマチュアであってもプロであっても同じです。「自分が欲しい」と思う楽器が自分にとって最高の楽器なのか?と聞かれたら、答えは「最高の楽器ってなに?」と言う根本的な疑問にぶつかります。
 少なくとも、自分が手にして演奏し、それまで演奏したどの楽器よりも「自分が好き」と感じた楽器でしかありません。世界中のすべてのヴァイオリンを演奏して選ぶことは、誰にも不可能なことです(笑)「私にとって最高の楽器!」と言っても、実はまだ自分が演奏したことのない楽器の方が何百倍、何千倍も多いのです。
 ヴァイオリンの「性能」ってなんでしょう?
車なら「馬力」「加速性能」「運動性」「空力抵抗」などで性能比較ができます。
美術品と違いヴァイオリンを「楽器=音を出す道具」として純粋に考えた場合に、この「性能差」がどんなものか?考える必要があります。
 現在の科学で結論を導けば「性能に大きな違いがない」結論になります。多くの実験が世界中でおこなれた「結果」ですから、いくら「私はストラディヴァリが一番だ!」と豪語しても「科学的なデータ」は変えられません。つまり、ストラディヴァリのヴァイオリンが「特別な性能・特別な音を出せる」楽器ではないことは、事実なのです。
 「新作のヴァイオリンはダメだ!」と言うのも科学的には「嘘」になります。現実に実験で証明されています。「私はストラディヴァリのヴァイオリンを聞きわけられる」と言う人がいますが、自分が演奏した、複数の楽器を「言い当てられる」のはアマチュアでもできることですが、他人が演奏したヴァイオリンの音の中でストラディヴァリのヴァイオリンだけを判別できる人は、恐らく誰もいません。それが「科学」です。

 自分の好きな楽器に出会うことは、パートナーと出会う「運命」に近いものがあります。先述の通り、すべてのヴァイオリンを演奏して比べられないように、世界中の人と「お見合い」することは?無理ですから(笑)偶然に出会った「楽器」を自分のパートナーのように大切に思い、扱える人ならどんなヴァイオリンでも「愛せる」はずです。ヴァイオリンの価格に「絶対」はありません。材料の原価に金額の差があることは事実です。ただ、ひとりの職人が作ったから「高い」と決めるのも、間違っていると思います。多くの人間が手をかけた方が高いものって世の中にたくさんありますよね?
 自分の好みを大切にすることです。それしかありません!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「習う」「教える」ことの意味

 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出と紐づく音楽

 映像は今から20年ほど前、みなとみらいホールでの演奏です。当時勤務していた中学・高校部活オケの定期演奏会風景。ハープは桐朋時代の先輩にお願いしましたが、パイプオルガン演奏者も高校生。
週に1回の合奏以外「自主練習」の部活オケ。ここまで弾ければ十分かと(笑)
 さて、この音楽はエドワード・エルガー作曲「威風堂々第1行進曲」です。
イギリスの第2国歌とも呼ばれ、戴冠式で演奏される曲でもあります。イギリスの「プロムス」で聴衆が全員でこの演奏に合わせて歌う姿は、見ているだけで感動します。
 日本でも様々な「儀式」でこの曲が使われます。入学式、卒業式など学校での儀式で生徒が演奏したりすることも多い音楽です。儀式で演奏した人でなくても、儀式に「参加」した人の思い出に、この音楽が結び付いている人も多いようですね。音楽の曲名を知らなくても、この曲を聴くと思い出がよみがえる…そんな経験はありませんか?

 演奏を聴いた人の「記憶に残る」演奏に共通点があるでしょうか?
テレビCMで使われる音楽や、番組中の「ジングル」店舗で流れる「テーマ音楽」はまさに「記憶に残すための音楽」です。
また映画やドラマで使用される音楽は、見ている人の心情・感情に大きく関わります。
不安や恐怖心を「あおる」音楽もあれば、感動的な「涙を誘う」音楽もあります。
 音楽が人間の「感情の記憶」に紐づき、さらに共感する人が多ければ多いほど音楽が人々に広まり「定着」するのかも知れません。クラシック音楽は「大衆音楽」の対極にあるように思われがちですが、実際にはクラシック音楽も大衆の中に溶け込める音楽であることは事実です。むしろ、日常の生活にクラシックの音楽が広まれば演奏会に足を運ぶ人も増えるはずですよね。
 演奏会で「良い記憶」に残ってもらえる演奏をすること。これも演奏家にとって大切なことだと考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の個性を考える

村松崇継作曲

 私たちが演奏する音楽を「作曲」した人がいます。歌であれば「作詞」した人も。その人が作った作品を音楽にするのが演奏者であり、その作品と演奏を楽しむのが聴衆=聴く人です。演奏する時、作曲家の思い・心情を創造することは出来ますが、あくまで演奏者の勝手な解釈や思い込みでしかありません。作曲家であれ演奏家であれ「真実の心情」を他人が理解することは不可能です。「作曲家の精神に触れた」と言う演奏家の言葉に違和感を感じています。演奏家の思いを聴衆が完全に理解してもらうことを望んで演奏しても、すべての人に理解してもらうのは無理なのと同じことです。作曲者自身が演奏しても、聴衆が自由に感じることが音楽の良さだと思っています。

 さて、そう思いながら「作曲家の個性」を考えるのは何か矛盾してい様に感じるかも知れませんが、演奏者として作品ごとに感じること・浮かぶ情景があるのは当たり前です。理論的な分析=和声の進行や旋律の特徴などを感じることもあります。言い換えれば、理論を無視して音楽を「作曲」したとすれば、それは音の「羅列」でしかなく、聴く人の感情を揺さぶる音楽にはなり得ないはずです。現代音楽の領域で、掃除機の音や「雑音」と呼ばれる音を並べる「現代音楽」があります。私には音楽として感じることは出来ないのが正直な気持ちです。
 ただ、音楽の歴史の中で「聴きなれない」という理由で評価されなかった音楽が、その後「良い作品」と言われた例は数限りなくあります。「前衛的」なのか「無作為な音の羅列」なのか?一般の人に理解不能なのは当然のことです。
 ラベルやドビュッシーの音楽を聴いて「不快」と感じる人がいても当然のことです。「良さを理解できないのは感性が足りない」とマニアぶる人こそ滑稽だと思います。絵画の世界でも同じです。ピカソの絵を見て「素晴らしい」と思う人がどれだけいるのでしょうか?料理でも伝統を重んじる料理もあれば、創作料理もあります。つまり、私たちが「なじんだ=知っている」ものは許容しやすく「初めて=知らない」ものへの拒絶や不安があるのは、生物の本能ではないでしょうか?
 猫や犬でも「初めて」のものには警戒しますよね?人間も同じです。

 村松崇継さんの作品に出合ったのは、ごく数年前の事です。いのちの歌を歌う玉置浩二さんと小野リサさん、ピアノを演奏している作曲者自身の映像を見て素直に魅了されました。それからと言うもの、村松氏の作品に出合うたびに「これ、弾いたらどうなるかな?」という好奇心が先に立ちます(笑)
 作曲の素人が偉そうに書いてはいけないのですが、村松氏の作品に共感するのは「奇をてらわないが特徴的な和声進行」と「記憶に残る旋律で跳躍が個性的」なことです。作曲者ごとの「特徴」を感じることは珍しくありません。例えば「ジョン・ウイリアムス」の映画音楽の中で、スーパーマンとスターウォーズの似ていること(笑)は有名です。でもシンドラーのリストが彼の作品と言われて「へー」と思うのも事実です。
 作品の好き・嫌いは誰にでもあります。演奏する人にも聴く人にも。演奏者が自分の好きな作品を選んでコンサートで演奏する時、聴衆が好きになってくれる…とは限りません。演奏者の作品への「愛情・思い入れ」と聴衆の「好感度」は必ずしも比例しないのが現実です。それでも!演奏したいという気持ちが演奏者にあってこそ、コンサートは成り立つものだと思います。自分が聴く側になったときのことを考えることも、演奏者の「優しさ」だと思います。曲間のMCやプログラムノートに、演奏者の「暑苦しいほどの思い入れ」があると…(笑)私は正直に「引いて」しまう人間です。と言いながら自分のコンサートはどうよ?!(涙)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介