無信仰でも演奏します

 映像はカッチーニ作曲の亜アヴェ・マリア。
私自身、神様や仏様を信仰する人間ではありません。だからと言って、信仰する人を変だとは思いません。何かを信じる気持ちは、人間が想像する力を持っていることの証だと思っています。あ。「想像」なんて言ったら怒られるのかな(笑)
 通っていた幼稚園はキリスト教系の幼稚園でしたが、両親ともに無宗教でしたし、家にはお仏壇もありませんでした。そんな私が演奏する「アヴェ・マリア」がインチキ(笑)だと信者の方に言われるのかもしれませんが(言わない?)楽譜として手に入る音楽や、普通に耳にすることのある音楽は、誰のものでもないと思うのです。所有権の問題ではありませんからね(笑)

 宗教的な音楽に限らず、世界中に多数存在する民族の「伝統的な音楽」があります。時間的に何十年、何百年経過したら「伝統」になるのか定義は知りません。音楽の場合、人から人に「歌い継がれて」現代も演奏される音楽と、「作曲者が楽譜に残した」音楽があります。さらに「録音が現存する」音楽も、歴史としては短いながらも、あります。
 日本でも「雅楽」「民謡」など伝統的な音楽があります。演歌を「日本固有の音楽」と言えるかどうかは意見の分かれるところだと思います。
 地球が一つの大陸だった頃から始まり、恐竜がそこら中にいた時代を経て、巨大な隕石の衝突などで地球上に氷河期があって…とにかく、恐ろしく長い年月をかけて人類が誕生した「歴史」があります。
 音楽がいつ?始まったのかを答えられる人はいません。
そもそも、どんな音を「音楽」に感じるのか?音楽と言える音とは?
なんて考えだすと、良く寝られそうです(笑)

 一人の人間が、生まれてから物心がつくまでの期間に、聴いて育った音楽のほとんどは、覚えていないのが普通です。「胎教」とか「英才教育」をどこまで?科学的に証明できているのか知りませんが、まだ解明されていない「遺伝子」の中には、自分のご先祖様が聴いていた音楽に反応する「能力」が…ないのか、あるのか(笑)
 私たちが演奏する音楽は、いわゆる「西洋音楽」です。西洋って…じぶんんおおざっぱですね。いいんですけど、別に。
 少なくとも、私のように日本で生まれ日本で育った両親の愛第二、同じように日本で生まれ育った「日本製」の人間にとって、日本の音楽もヨーロッパの音楽も「音楽」であって、特別な違いを感じないのですが?
 それは私が生まれた1960年当時にはすでに、西洋で作曲された音楽が、日本中で流れていたはずですから、当たり前だと思います。生まれてからずっと、民謡以外の音楽を聴かずに育った人が大人になって、ある日ベートーヴェンの運命を生で聴いたら?「うるせぇな!」と思うかも。

 ヨーロッパに留学した音楽家の皆さんが「作曲家の暮らしていた土地に行ってみると、何か感じる」とおっしゃるのを度々耳にします。私は、留学経験が一日もない人間ですので、その「感覚」は想像できないのかもしれません。
 ひがみっぽく感じるかもしれませんが、留学した人たちの「感じる」ものは、先述の「想像力」だと言えます。確かに、写真や映像、音を聴いただけでは感じられない「香り」と「肌に触れる空気」は、その場でしか感じられない五感の一つです。それは外国に限らず、海辺、山道、雪道などでも感じられる感覚です。
 信仰する人は、神様や仏様を感じると言います。また、愛を感じると言う言葉もあります。それらは、人間の五感ではなく「想像力」で生まれるものだと私は思っています。現実に存在するものではないのです。ちなみに「空気」は目に見えないし触った感覚がないだけで、現実に存在しています。その証拠に、空気のないところに行けば…苦しくなって気付いた時には、違う世界にいます(笑)
 音楽は「音」です。空気の振動です。確かに存在します。
音を聴いて、何かを感じるのは人間の想像力です。そこに「民族の血」や「作曲家の魂」やら「思い」を感じようとするのは、人間の欲望です。それが悪いとは思いません。人間は欲の塊ですから(笑)
 感じる人が優れているような伝え方には、不快感を感じます。
自分の想像したものを、他人に求めるのは、ただの押し売りです。何も優れてい入ません。ショパンの心に触れた!とか、聴くと「こいつ大丈夫か?」と思うのは失礼でしょうか(笑)とは言え、想像するのは自由です。敢えて言うなら、それを「想像できたから●●が出来た」と他人に言うのも、ご本人の自由ですが、信じない人からすると「変な人」にしか思われないと思います。

 想像したことを、言語化するのが逃げてな人はたくさんいます。
現実には存在しない「もの・こと」を言葉にするためには、言葉のボキャブラリーが必要です。人間の「五感」をすべて使って、イメージを言語化すると、案外簡単に言葉に出来ます。
・触った感覚=やわらかい・冷たい・つるつるなど
・見える感覚=明るい・まぶしい・立ちはだかる・落ちていくようななど
・聴こえる感覚=ささやきのような・遠くの雷鳴・せせらぎなど
・味の感覚=甘い・からい・酸っぱい・舌の上でで溶けるなど
・香りの感覚=自分の好きな花の香り・ご飯前の台所の香りなど
音楽から想像する「もの・こと」は、なんでも良いのです。
正解も間違いもありません。人によって違って当たり前です。
想像「できない」のではなく、「していない」のです。
子供でも大人でも、記憶にある「五感」があれば何かを想像できるはずです。
出来るなら、自分の好きな「五感」を寄せ集めて想像しながら演奏したほうが、演奏していても気持ちいいはずです。わざわざ「苦しい」「悲しい」「辛い」「痛い」「臭い(笑)」五感を想像しながら演奏する必要はありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 
 

出来ない!と出来た!の繰り返し

映像は、メリーオーケストラ第2回定期演奏会の様子です。
2002年の夏。場所は杜のホールはしもと。ちょうど20年前の映像です。
当時10歳だった子供たちが、今30歳になり私は…(笑)
出来ないと思うことにぶつかることは、日々の生活でもありますよね?
出来ないと思う内容も様々です。現実的に「不可能」なことも確かにあります。
ある日突然、病気が治ってそれまで「できない」だったことが急に「できる」ことは、残念ですがほとんど不可能です。生き物の命も、蘇らせることは出来ません。
 一方で、出来ないと思っているだけで「できるかもしれない」こともたくさんあります。さらに「急には=すぐには」できなくても、時間をかければ「できるかもしれない」ことはもっともっと!あると思いませんか?
 できないと決めてしまえば、出来るようになる「努力」もしません。
つまり「時間をかけること」から逃げている場合がほとんどです。
「できないかもしれない」「できる気がしない」これも同じことです。
少なくてもできる可能性があることを「できない」と言うのは、現実逃避とできない自分を見たくないという「保身」の現れです。
 「もう年だから」「才能がないから」「やったけどできなかったから」
言い訳を見つけるのは人間の特技ですね(笑)特に「やっらのに…」という言い訳を使う時、「どれだけやった?」と言う肝心の言葉が抜け落ちています。
出来るまでやる!
子供でも大人でも変わりません。
出来ていないのは、まだ努力が足りないだけです。才能?年齢?全然無関係です。山登りの「途中」で引き返せば登頂できないのは当たり前です。途中で「登れなくなる」ことも実際にあるでしょう。でもそこで「次こそは!」と思う気持ちがあるか?ないか?の問題です。

 できるように…の「できる」を誰が決めるのかと言う根本的な問題もあります。習っている先生が「合格」と言えば「できた」と思う人もいるでしょう。
 自分の基準で「できた」「できていない」と判断するのが日常的な練習です。スポーツでも似たようなプロセスはあると思います。ただ山登りや、勝敗が決まる協議の場合は「できた=勝てた」か「できなかった=負けた」と言う二進法で判断できます。「少し負けた」はありませんよね(笑)
 楽器の練習の場合には、この二進法は無意味です。当てはまりません。
仮に先生が「できた」と言っても自分自身が「できていない」と思うこともあるはずです。逆のケースもあり得ます。自分の「基準」が優先するのは、誰でも同じことです。
 音楽の「できた基準」に客観的な基準は存在しません。すべてが聴く人、弾く人の「主観」でしかありません。だからこそ、自分以外の誰かの「基準=意見」を聴くことが重要だと思います。もちろん、一番大切なのは自分の基準です。
 他人が「じょうず」と言ってくれようが「まだまだへただね」と言われようが、自分の気持ちが一番優先されるのが「アマチュア」なのです。プロの場合は違います。自分の基準だけで「じょうず」は通用しません。当たり前です(笑)
 プロであっても、自分の演奏に対する「できている?できていない?」と言う判断は常に必要です。アマチュアと違うのは、その「線引き」のレベルが決定的に違うことです。アマチュア演奏者の場合には、どんなレベルであっても自分が満足できれば「できた!」なのです。それで良いのです!
 「まだまだ」と向上心を持つことは悪いことではありません。ただ、人によって「基準」をやたらと高くするアマチュア演奏家がおられて、見ていて気の毒でもあります(笑)もっと言えば、プロの演奏を基準にするなら、その時点でアマチュアではなくなります。
 演奏を楽しむことが、本来の音楽です。その意味で考えれば、プロの演奏家の場合、心から自分の演奏を楽しめていない人もいる気がします。
 アマチュアの人が、じょうずに演奏できるようになりたい気持ちを持ち続け、出来なかったこと=つらさやストレスが、「できた!」と自分で思えた瞬間に、それまでの練習が報われる喜びが何よりも大切です。
 できないままで終わらない。少しでもできるようになったら、自分をほめてあげる。自分の基準を大切にする。時には人の基準も参考にする。
 時間をかけて、音楽を楽しみましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートに演奏するには?

 映像は、ジョン・ウィリアムズ作曲の「シンドラーのリスト」を10年ほど前に演奏した動画です。スーパーマンのテーマやスターウォーズ、インディジョーンズ、AI、ジョーズなど多くの映画音楽を手掛けたジョン・ウィリアムズの悲しいメロディー。シンプルなリズムと覚えやすい旋律の素敵な曲ですね。

 ヴァイオリンでレガート=滑らかに演奏する時の「難しさ」について考えてみます。
 一般的に楽譜に書かれている「スラー」と「タイ」の記号が同じであることは、誰でもが知っています。ところがこの記号の本来の「奏法=意味」がレガートであることを知らない生徒さんが多くいます。legato=レガートというイタリア語で、音を切らずになめらかに演奏することを指しています。
 弦楽器の場合には、この記号が付いていると「同じ方向に弓を動かし続ける」と言う運動も意味しています。例えば、下の楽譜をご覧ください。

クライスラー作曲の「美しきロスマリン」の1ページ目です。
スラー=レガートの書かれている間にある音符に、スタカート=音を短く切る記号が書かれています。この「レガート」と「スタカート」は奏法として真逆の意味になります。印刷ミス?(笑)いえいえ。
 ピアノの楽譜などにもこの二つの相反する意味の記号が同じ場所に書かれていることはよくあります。
 レガートの記号を「フレーズ」として考えることもできますが、例外的な書き方ですす。
 弦楽器の場合には、先述の通り「同じ方向に弓を動かし続け」ながら「音を短く切る」事を示しています。アップで演奏擦り場合は「アップスタカート」ダウンでいくつもの短い音を続けて演奏する「ダウンスタカート」とも呼ばれます。
 同じような動きでも違う「奏法」を示す書き方があります。

クライスラー作曲「序奏とアレグロ」の一部。ダウンのマークが重音に連続している部分がご覧いただけます。重音に限らず、スラーとは別に同じ方向に連続して弓を動かす「指示」もあります。

 さて、レガートで音楽を演奏する場合、声楽=歌や管楽器の場合には、息を出し続けながら「切れないように」演奏することになります。管楽器なら「タンギング」は入れないはずです。言い換えれば「息が続く時間」がレガートの限界の長さでもあります。弦楽器の場合は「弓の長さ」と言うことになります。
弦楽器の場合、弓を遅く動かす時と速く動かす時で出せる音量が違います。
遅くなればなるほど、弓の圧力を弱くする必要があります。逆に言えば、遅くして弓の圧力が大きすぎれば、弦が振動できずつぶれた=汚い音になります。
 長いレガートを「フォルテ」で演奏しようとすると、圧力と弓の速度の「ぎりぎりのバランス」で弓を動かす技術が必要になります。レガートよりも音量を優先するなら「弓を頻繁に返す=反対に動かす」しか方法はありません。
 レガート=小さな音とは限りません。ピアノと一緒に演奏する場合には特に、ピアノの聴感的な音量とヴァイオリンの音量のバランスを考慮する必要があります。全弓を使いながら、元・中・先で均一な音量と音色を保つことは、弓を軽く速く動かすこと以上に高い技術を要します。スラーの中のひとつひとつの「音」に効果的なビブラートをかけることも重要なテクニックです。聴いていて不自然に感じない深さと速さのビブラートを考えながら、安定した弓の動きを保つために背中・肩・首・上腕・前腕・手首・指の連動を意識しながら、さらに滑らかな移弦に注意する。本当に難しいことだと思います。
 ゆっくりした音楽は「簡単」だと思い込まず、地道な練習を心掛けいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラで楽しむ趣味

 映像はメリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏した「いのちの歌」
村松崇継さんが作曲された曲を、メリーオーケストラのために田中大地さんにアレンジをお願いしました。リサイタルではヴィオラとピアノで演奏したこの曲、オーケストラで演奏すると違った感動が伝わってきます。

 オーケストラはクラシックを演奏するという「既成概念」があります。
一方で吹奏楽は「ポピュラーを演奏する」イメージが先行しています。
演奏形態=スタイルは、一人の人間だけで演奏するものから、オーケストラと合唱などが加わった「大人数」のものまでたくさんあります。楽器の組み合わせも様々です。吹奏楽…管楽器だけの演奏に読めますが、打楽器やコントラバス=弦楽器も通常含まれます。管弦楽…あれ?打楽器は?(笑)もちろん含まれます。
文字・言葉が思い違いを生んでいることもありますね。

 趣味で弦楽器、管楽器、打楽器を演奏する人にとって「合奏」は究極の楽しみだと私は思っています。もちろん、一人で楽しむことが一番!と言うかたもおられます。他人との人間関係が煩わしい…と思う気持ちも理解できます。
 ブームは去りましたが「カラオケ」は一人で楽しめる趣味でもあります。気持ちよく誰にも聞かれず、大声で歌うことが楽しいのでしょうね(笑)
 ピアノやギター、エレクトーンなどの楽器は、ひとりで演奏を十分に楽しめる楽器です。かたや、ヴァイオリンやチェロ、フルート、トランペットなどの場合hはひとりで演奏できる曲はごくわずかです。多くは「誰か」と一緒に演奏して初めて音楽として完成します。オーケストラは言うまでもなく、合奏の集大成です。
「初心者」だからこそ、誰かと一緒に演奏する楽しさが必要だと思います。

 オーケストラの「楽譜」の多くはクラシックと呼ばれる作曲家の曲です。
ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキーなど「有名」なクラシック作曲家のほとんどが、交響曲を書いています。ただ、これも当然ですが「聴いたことがない」交響曲の方が多く、演奏の難易度も高いのは事実です。
動画にあるような「ポピュラー」をオーケストラで演奏するのは「邪道」なのでしょうか?私はそうは思いません。どんな楽器で演奏したとしても音楽は音楽です。逆にどんな音楽でも、オーケストラで演奏できるはずです。
 ただし、ポピュラーをオーケストラで演奏するための「楽譜」が少ないのです。お金を出して購入できるのも、ほとんど海外のサイトからです。日本では需要が少ないのです。いのちの歌の楽譜は?当然、販売されていません。オーケストラの楽譜を書くためには、ただ音符や休符が書けるだけでは無理です。それぞれの楽器の「音域」と「音色」「音量」を理解していないと、書けません。作曲の技術と変わりません。
木管楽器=ピッコロ・フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット
金管楽器=ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバ
打楽器=ティンパニ・バスドラム・シンバル・グロッケンシュピール他
弦楽器=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス・ハープ
これらの以外にも、色々な種類の管楽器・打楽器がオーケストラには加わります。それぞれの楽器が2~3つのパートに分かれていることが多く、スコアは大変な段数の楽譜になります。下の楽譜はいのちの歌のスコア1ページ目です。

 当然、それぞれの楽器の演奏者は自分のパートの楽譜=パート譜を見ながら演奏します。指揮者はこのスコアを見ながら指揮をし、練習で音の間違いを正すこともします。いかがですか?スコアは演劇の「台本」のようなものです。全員のセリフが書いてあります。演劇と違うとすれば、同時に何十人もの人、25種類以上のパートが一斉に演奏します。演劇では…(笑)ないですね。
 このスコアに書かれているすべてを「編曲者」が考えて書きます。出てくる音を頭の中で想像しながら。素晴らしい技術・能力です。
 紙の上の音符が、数十名の人間、様々な音色の楽器で「音」になるのがオーケストラです。ひとりで演奏を楽しむこととの違いがここにあります。
一人ずつの責任は、ひとりで楽器を演奏するよりもはるかに大きくなります。
「たくさんいるから、一人の責任は軽くなるんじゃないの?」と思われますか?
逆なのです。ひとりが間違った音や、間違った場所で音を出した場合、聴いている人は「誰が間違えた?」かわからないものです。つまりオーケストラ全体としての「失敗」になるのです。100人のオーケストラで99人が正しい音を出していても、一人が「半音」違った音を出したことで、音は明らかに濁ります。プロオーケストラの録音現場であれば「録り直し」です。全員がもう一度初めから演奏しなおします。それがオーケストラの怖さでもあります。
 アマチュアオーケストラメンバーに、それを求めたら?誰も演奏できないばかりか、誰も演奏したくないですよね?プロではないのです。間違っても仕方ありません。それでも!演奏する楽しみを優先するのが「アマチュアオーケストラ」です。

 ぜひ!あなたもアマチュアオーケストラのメンバーになって、楽器の演奏を楽しんでみてください。日本中にたくさんのアマチュアオーケストラがあります。規模もコンセプトも様々です。練習の頻度、内容も違います。何よりも「人」が集まるのですから世界中に、同じオーケストラは二つ存在しません。
 そのオーケストラの一員として演奏する「喜び」を体験してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

集客とラーメン屋の関係

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した「ふるさと」ヴィオラとピアノバージョンです。このアレンジでヴィオラとピアノで演奏しているのは、恐らく私たちだけ。完全に「耳コピ」による演奏です。その意味ではオリジナルの「カバー」でもあり、演奏スタイルで言えば私たちのオリジナルです。

 さて、今回のテーマはちょっと大胆な(笑)考察です。
クラシックコンサートを開いても、お客様が来てくださらなければ、コンサートとして成立しないばかりか、主催者にすれば「大赤字」です。その状態が続けは次回のコンサートを開催する資金も、やがて底をつきます。演奏者へのギャランティも主催者が自腹で支払うことになります。演奏者自身も苦々しい思いをすることになります。仮に、200名収容できるホールに、来場者が数名だとしたら…
考えただけでもむなしい光景です。来場者も同じ気持ちになるでしょう。
 同じホールで満席の来場者があれば、演奏する人も嬉しいでしょうし、お客様にしてもどこかしら「満足感」を得られるものです。
 では、クラシックコンサートの集客は、どうすれば良いのか?どうするとダメなのか?考えてみます。

 前提になるのは以下の項目です。
・有料のコンサートである
・プロの演奏者が演奏する
・広報費・会場費などの経費が必要
・演奏者と主催者が利益を得られること
逆に考えれば、無料で利益を考えなくて開く場合は前提が変わってきます。
 上記の前提で考える場合、来場者が何を求めているのかを探る「マーケティングリサーチ」が不可欠です。入場者数は演奏者によって、恐ろしいほどの差があります。一言で言えば演奏者の「知名度」による差です。その知名度は?話題になっている演奏者かどうか?に尽きます。ただそれだけです。テレビに出ている人。最近のコンクールで入賞したニュースが流れた人。マスコミが取り上げた人…要は「有名人」なら人が集まると言ういたって幼稚な原理です。
 知名度に関係なく集客できるコンサートは開けないのでしょうか?

 さぁ!ここでラーメン屋さんの登場です(笑)
チェーン展開のラーメン屋さんと、そうでない「街のラーメン屋さん」がありますよね?チェーン店の場合、どの店で食べても同じレベルの味が提供されます。店による個性はほとんどありません。一方、街のラーメン屋さんの場合、そのお店でしか食べられない味があります。
 食べる人それぞれの、好みの問題があります。考え方も違います。
今回、チェーン店を「有名人のコンサート」に置き換え、個人経営のお店を「有名ではない人のコンサート」に例えてみます。
 強引と思うかもしれませんが、チェーン店の場合には店舗数と来店者数、さらには企業の規模が個人店とは比較にならない「大きさ」です。言ってみれば「知名度が高い」ラーメン屋なのです。一方、街のラーメン屋さんは、広告宣伝費もなく、来てくれた人の「口コミ」と「リピーター率」が生命線です。
 よほどのラーメンマニアでなければ、初めての街で知らないラーメン屋さんに入るのは、かなり勇気と決断が必要ですよね?「大丈夫か?」って思います。
チェーンラーメン屋さんがあれば「ま、ここでもいいか」って思いますよね?
 つまり、あまり関心のない人にとって「安心感」が優先するのです。リスクを避けたいのです。コンサートで言えば「あ、この人テレビで見たことがある」という人のコンサートの方が安心なのです。
 では、チェーン店のラーメンはすべて美味しいのか?と言われれば、答えは違ってきます。さらに言えば、個人経営のラーメン屋さんの方が、美味しい場合も当然あるのです。ここからが「勝負」です(笑)

 何よりも「個性」が大切です。個性とは「奇抜」と言う意味ではなく「コンセプトの独自性」です。他のラーメン屋さんにない「その店ならでは」がなければ、チェーン店に太刀打ちできるはずがありません。では何が?個性になるでしょうか?
1.はずは、食べて=聴いてもらうための独自性(工夫)
・他のコンサートにない選曲
・親しみのある曲を含んでいる
・演奏者の人柄を感じられる広告
・初めての人でも安心できそうな内容と価格
2.リピーターになってもらうための内容
・聴いていいて「負=マイナス」の要因を感じさせない
・もう少し=もっと聴きたいと思える内容と時間
・演奏者の人柄を感じられる内容
つまり「最初のきっかけ」と「その後の印象」を、一人でも多くの人に感じてもらう事しか方法がないと思うのです。当然、時間=繰り返す回数が必要です。
最初から多くのファンを集めることを望むのは間違いです。知らないのですから。どんな企画(業種)でも「最初は人が集まる」ものです。それは好奇心によるものです。北海道新幹線、然りです。珍しいから乗ってみる。でも飛行機の方が便利だから二度目はない(笑)
 ラーメン屋さんで言えば「メニュー」にあたるのが「演奏者と演奏曲」です。
あるお店の醤油ラーメンが大好きで、行くたびに食べていても、たまには!塩ラーメンも食べてみたいかな?(笑)
 通常、コンサートは、同じ演奏者の場合でも毎回のように曲目が変わりますよね?しかし、コンサートのコンセプトは変えるべきではありません。お店の「個性」を捨てるのと同じです。
 長く愛される街の飲食店には共通点がたくさんあります。
お客様と店主の「信頼関係」です。物=商品ではなく、人同士の絆があってこそ「名店」になれるのだと思います。
コンサートの場合も同じではないでしょうか?演奏そのものが大切なのは、ラーメンの味と同じです。ただ、コンサートに「人」を感じることが非常に少ない気がしませんか?特にクラシックコンサートの場合は顕著です。「ファン」を大切にしないコンサートに、お客様は二度と来ないのは当然です。どんなにラーメンが立派でも、店員の態度が悪ければ、二度と食べたくないですよね?
 「無名のコンサート」で良いと思います。何度も聴きに来てくれる人が増えれば、それで利益は生まれます。その人が友達を誘ってくれればさらにリピーターを増やせます。時間をかけて!無名万歳!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と演奏のクオリティ

 映像は小学4年生と中学1年生の姉妹が独奏をひいた、メリーオーケストラ第41回定期演奏会の映像です。バッハ作曲「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」第1楽章。この曲は多くのアマチュアヴァイオリン奏者が演奏を楽しむ定番曲です。
 独奏を誰にするか?と言う難題を抱えます。じょうずな人が良いと言う安直な答えではありません。「子供の健全な育成・音楽の普及」を目的として活動するメリーオーケストラです。子供たちが精いっぱい練習し、多くのお客様の前・多くの大人演奏者の前で演奏する緊張感に耐え、弾き終えた達成感を感じてもらうことが一つの目的です。さらに、聴いてくださる方が満足できるクオリティも、音楽の普及という目的達成のためには不可欠です。この一見、相反する二つの目的を達成する補法とは?

 一つは演奏する子供たちに「演奏する責任と演奏する楽しさ」を体感させることです。この二つのバランスが取れていないと成長にはつながりません。
責任感だけでは子供が長く演奏を楽しむことになりません。
楽しいだけでは聴いてくださる方々に対して失礼です。
この両面を子供に体感させるためには、年単位の時間が必要です。
一度覚えれば一生忘れることのない感覚になります。
「できない」「ひけない」で諦めさせない練習。
「これでいい」「もうだいじょうぶ」という妥協をさせない。
「本番で失敗しても大丈夫」という具体的な解決策を示す。
「舞台では主役になる」準備と演出を行なう。
これらをすべて考えて子供の成長を見守ります。

 もう一つは演奏の完成度=クオリティの意地です。
聴いてくださる方々に「身内の発表会」と思われたら終わりです。
あくまでも「オーケストラの演奏会」を楽しんで頂くことを忘れません。
アマチュアだから…
「下手でもいい」と言う甘えの上に立って演奏するのは間違いです。
「うまくひきたい」「満足してもらいたい」気持ちが第一に必要です。
無料のコンサートなんだから、下手でも仕方ない…なんて絶対あり得ません。
コンサート会場に足を運ぶことだけでも大変な労力と時間が必要です。そのことを演奏者は忘れてはなりません。
 今回のように子供がソロを演奏する場合、当然ですが本番で失敗するリスクを伴います。たとえ練習よりうまく弾けたとしても、さらに高い満足感を感じてもらう気持ちが必要です。
 昔から私が用いる手法の一つに「独奏の二重化」と言う方法があります。
ヴァイオリンのソロに限らず、打楽器の目立つソロ部分、フルートやオーボエのソロ部分を「主役」となる演奏者と「アシスト」を担当する先輩演奏者のペアで演奏します。「それでは若手が育たない」と思いがちですが、先輩や上級者・指導者の「サポート」を感じることは問題ありません。むしろ、演奏の責任を強く感じさせるためにも有意義です。そのアシストがない場合、「失敗すればお客様が疑問に感じたり不満に感じる」ことを理解させることも必要なのです。
 今回の演奏会では、独奏の二人に加えてプロのヴァイオリニストお二人に、ファースト・セカンドヴァイオリンの2番(トップの隣)で演奏してもらいました。これも練習時に試し、独奏の子供たちにも確かめさせました。映像を見ると、子供ソリストの向こう側で同じ動きをしている演奏者が見えると思います。
 子供が演奏するピッチとプロのピッチが合わないのは仕方ありません。
それでも子供たちにとって「必要」なアシストです。

 「初めてのおつかい」と言う番組があります。幼児が自宅から初めての買い物をする様子をたくさんのカメラスタッフが追いかけながら撮影する番組です。「やらせ」の部分も見えますが、それでも子供にしてみれば不安な気持ち、怖い思いをしていることは本当です。さらに子供の安全を見守るテレビ局の責任もあります。これとメリーオーケストラの「仕掛け」が重なって見えます。
 アマチュアにプロのような演奏技術を求めるのは間違いです。
一方で、アマチュアをプロがアシストすることで演奏のクオリティが高まり、聴く人の満足感が格段に高くなることも事実です。さらに演奏するアマチュアも、プロの演奏者と一緒に演奏する感動を体感できます。

 演奏するアマチュアとプロの演奏を、聴く人も楽しめるなら、こんなに素敵な演奏会はないと思うのです。特にプロの演奏者は「交通費」だけで参加していることも特筆すべきです。利益のための演奏ではなく演奏することは、プロにとって「特別」なことです。いつもいつもこの演奏では生活できません。
しっかり演奏への対価を得る演奏会も絶対に必要なのです。
そのための「土台=地盤」である音楽のすそ野を広げることに従事してくれるプロの仲間に敬意を表したいと思います。。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

表情・動きと音楽表現

 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌詞がなくても歌に聴こえる音楽

 映像はメリーオーケストラが演奏する「いのちの歌」
作曲は村松崇継さん、作詞はMIYABI=竹内まりあさん。
昨年末、今年年明けに実施した私と浩子さんのデュオリサイタルでは、ヴィオラとピアノで演奏しました。
 今回、メリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏しよう!と決めてから、ホルン奏者で編曲のお仕事もされている音楽仲間、田中大地さんにいつものように(笑)アレンジをお願いしました。演奏会当日まで、すべての楽器が揃う事がないので、毎月一度の練習時にその場にいる楽器メンバーで、リズムと音の確認作業をし続けました。原曲=オリジナルの演奏が多数あります。
様々な歌手が歌う動画をたくさん見つけられます。
それぞれの歌手が、それぞれのアレンジで演奏しています。
ピアノをひきながら歌う人、ピアノと弦楽アンサンブルで歌う人など。
ただ、歌のない状態=インストゥルメントで演奏している動画はあまり見受けません。歌詞のすばらしさが先行しているのかな?いやいや!メロディーとハーモニーが素晴らしい!間奏も素敵な転調をしています。
 こうした「歌もの」と呼ばれる楽曲を、歌なしで演奏すると歌詞を知らなくても「美しさ」を感じる音楽があります。このいのちの歌もそのひとつです。

 

 こちらは、昨年末にヴィオラとピアノで演奏した「いのちの歌」に歌詞を入れた動画です。同じ曲、同じキー=フラット5つの調性ですが、オーケストラの演奏と全く違う味わいがあると思います。どちらが良い?のではなく、個性が違ってきます。
 オーケストラの特色は…
・音色が多彩=楽器の種類が多い
・音量の幅=小さい音と大きい音の差が大きい
・パート数が多いため、複雑な副旋律・対旋律を作れる
・アンサンブル=調和を取るために指揮者が必要
 などです。では?ヴィオラとピアノだと?
・旋律楽器=ヴィオラの繊細な音色・音量の変化が浮き立つ
・ピアノとヴィオラ2種類の音色で聴きやすい
・指揮者が不要
どちらが簡単…とも言えません。

 いずれの演奏も歌詞はありませんが、音だけを聴いていて感じる「風景」が、歌詞の内容を見事に表しているように感じます。
 器楽の演奏で「歌う」と言う言葉を使うことが良くあります。「歌うように弾く」は、歌詞を感じてひくこととは違います。もちろん、歌詞のある楽曲を楽器で演奏する際に、歌詞を思いながら演奏することもありますが。
 楽器を使って歌うとは、自分が自分の声=言葉で、相手に自分の意思を伝えようとする「ような」器楽演奏だと思っています。感情のない言葉や、意味のない声でしゃべっても、誰も魅力を感じないと思うのです。それは楽器で演奏する時も同じです。
 語りかけるように歌う
 訴えるように歌う
 喜びを歌う
 悲しみをこらえて歌う
ただ「歌う」と言っても様々なシーンがありますね。
楽器を演奏している時に感じる感情を、表現するのがテクニックです。
間違えずに演奏するのがテクニックだと思い込んでいる人がいますが、それは「メカニカル」です。機械のように正確に演奏できると言うのは、現代で考えれば「いくらでも機械で速く間違えずに何度でも演奏できるよ」と言う結末に落ちます。
 歌がなくても、詩の内容を知らなくても、美しい音楽を演奏することは可能だと思います。難しい「分析」や「歴史」を知らなくても、聴いた瞬間に鳥肌が立つような=弾きこまれるような演奏は出来るはずです。演奏者が自分の「感じたもの」を表現するテクニックさえあれば。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本に唯一のNPO法人オーケストラ

映像は、NPO(特定非営利活動)法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会での「ダッタンの踊り」です。今回、初めて挑戦したボロディンの作品。壮大なスケールと圧倒的なエネルギーに満ちた音楽を、アマチュアの会員と音楽家の仲間たち総勢68名で演奏しています。
 演奏の細かい傷はあります。多くの原因はアマチュア会員の技術の限界と、当日の午前中1回だけのリハーサルで、午後に演奏会と言う条件によります。
もっと何回もリハーサルをすれば、もっと演奏のレベルが高くなるのは当然です。しかし、営利を目的としない「NPO」として、演奏会に係る費用、練習に係る費用のすべてを会員と賛助会員の負担で行っているので、これが限界です。
毎月一度の練習に集まる会員が、約半年間練習して当日を迎えます。
リハーサルで初めて全員が揃うことにも慣れました。当日にすべてのプログラムを2回ずつ演奏するわけで、体力的な負担も大変なものです。
 これまで20年間、積み重ねてきたのは演奏技術だけではありません。
何よりも「人との絆=人の輪」です。このメリーオーケストラにしかない、個性があります。

 ジュニアオーケストラではありません。大人のメンバーもいます。
一般のアマチュアオーケストラと違い、目的と活動内容は定款によって決まっています。オーケストラの収支や活動内容を毎年、役所に提出します。法人ですから法人税の対象となりますが、減免申請することで免除されています。税務署への申告も必要です。それら多くの「事務」をこなしながらの活動になります。

子供も大人も高齢者も、初心者もプロも、クラシック好きもジャズ好きも。
演歌も、ミュージカルも,J-POPも、クラシックも。
演奏する人と聴く人が、誰一人取り残されないコンサートです。
それぞれに特化したオーケストラがあります。
演奏技術の高さで考えるなら、プロオケよりうまく演奏できるはずがありません。
子供だけに限定すれば、大人は参加できません。
継続しないオーケストラなら「寄せ集め」で事は終わります。
営利を目的としたオーケストラではない事を公的に認められたオーケストラです。入場料を頂かないコンサートを継続するために、会員の会費と賛助会員の賛助会費で運営します。会員でない「プロ」たちに、謝礼をお支払いできない事情があります。それでも参加してくれるプロがいるのは、彼らが本当に音楽を愛し、子供たちと市民に音楽の楽しさを伝える「魂」を持っているからに相違ありません。そんな音楽仲間を心から尊敬します。

 日本で唯一無二の「NPO法人オーケストラ」は音楽業界に取り上げられることもありません。非営利という言葉が「偽善」に聞こえるのは無理もありません。
株式会社としてオーケストラを立ち上げたと言うニュースは話題になりますが、
演奏家の営利をいくら前面に押し出しても、日本の音楽文化は変わらないと考えています。

演奏家が演奏して、多くの人が聴きにくれる環境を作ることが何よりも先決です。文化はお金で買えません。人々が欲することが「文化」になるのです。需要のない娯楽、一時的な流行は文化として根付きません。
 オーケストラって面白いねと、子供でもわかるものでなければ、本当の文化だとは思いません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長 野村謙介


アマチュアオーケストラの演奏技術とは?

 映像は、メリーオーケストラの演奏するオペラ座の怪人。
この音楽に限らず、ミュージカルや映画、ドラマなどのために作曲された音楽がたくさんあります。それらの映像を見たり、ストーリーを知っている人もいます。当然、見たことがない、ストーリーも知らないという人もいます。
 その人たちが同じ音楽を聴いて感じるものも違って当たり前です。
「この音楽はこんな場面の音楽」と言う関連を知らなくても音楽だけを聴いて、勝手に想像することができるのが「音楽」の楽しみでもあります。
 逆に言えば、音楽を聴く前にその音楽が使われたり、作られた「背景」を知ることで、新しいイメージが生まれて楽しめることもあります。
 どちらも「音楽の楽しみ方」として正しいと思っています。

 楽器を演奏する楽しさと難しさは、実際に演奏しなければ実感できないのは当たり前です。聴く楽しみとは違う次元の楽しさが体感できます。当然、演奏するための技術を身に着ける練習が必要です。練習して初めて、難しさと楽しさを実感できます。思っていたよりも難しいことを発見することもあります。
 独学で身に着けられる限界も、実際に練習してみなければわかりません。
練習して自分で納得できる演奏ができるまでの時間は、練習の質=内容で大きく変わります。練習方法は無限と言えるほど、たくさんあります。
 ある人が上達できた練習方法が、他の人にも効果的とは限りません。
一人一人の生活環境と目的によって、最適な練習方法を選んでくれる指導者が必要です。

 オーケストラで演奏するメンバーは、一人一人の演奏技術が違います。特に、アマチュアオーケストラの場合には、その差は「初心者」から「専門家レベル」まで様々です。プロオーケストラの場合は、オーディションに合格できる演奏技術を持っている人しか演奏していません。
 メリーオーケストラの場合、演奏会までの約6か月間、月に一度の合奏があるだけです。それ以外は各自が自分のペースで楽器の練習をします。言ってみれば「メンバー任せ」です。演奏技術が人によって違い、練習できる時間も千差万別、それでも一緒に演奏することに全員が「満足」できる充実感と達成感を維持する秘訣とは?

・演奏会での成功経験~達成感
・合奏練習で得られる連帯感~音楽仲間との交流
・必要で正しい演奏技術の指示~プロ演奏家による合奏指導
・お互いの環境を認めあう優しさ~練習意欲の喚起
・持続できる運営~資金面、指導体制の構築
これらは、私自身の経験に基づいています。
公立中学での穏やかで和やかな音楽部活動、師匠の門下生による合宿での合奏、音楽高校・音楽大学で学んだ専門的技術と合奏、プロのオーケストラででエキストラとして演奏した経験、20年間の中学・高校での教諭として勤務した経験、さらにメリーオーケストラを20年間育ててきた経験、自分が今も音楽に関わっていられる現実と過去、それらすべてが「アマチュアオーケストラの指導」につながっています。

 演奏している人が楽しんでいなければ、聴いている人が楽しいはずがありません。音楽は学ぶものではなく、感じるものです。だからこそ、演奏を楽しむための「スキル」が必要だと思っています。オーケストラは家族に例えられます。また、社会にもたとえられます。多くの楽器と、さらに多くの人が同じ音楽を演奏することは、一人で演奏することに比べて膨大な労力と準備が必要です。
家族が助け合うように、社会が支えあうように、オーケストラはお互いの演奏者を必要としています。誰か一人が書けただけでも、元気がなくなります。苦しみを共有できなければ、楽しみを共有することは出来ません。
 メリーオーケストラは、いつも新しい賛同者を待っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介