メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

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時に委ねる

 演奏はバッハのチェンバロ協奏曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。
音楽は時に人の心を動かします。聴く人が幸福を感じられる時間と空間を作るのが「音楽」です。演奏者自身も音楽の持つ不思議なエネルギーを感じます。
生徒さんに音楽を伝え、演奏技術を通して表現の楽しさを感じてもらう「レッスン」にも音楽の幸福感があります。

 どんな人でも、幸せな時間だけを過ごしてはいないはずです。
私の知る限り、今までそんな人にはお会いしたことがありません。
外見からは想像もできないのが、その人の歴史です。
 音楽がどんなに幸福感を与えても、それ以上の苦悩を感じる時があるのが人間です。生きる限り感じるのが感情です。感情を無くしたとき、喜びも悲しみも感じなくなって「生きている」としたら、それは既に「人」ではなく単なる「生物」だと思います。

 音楽を学ぶのにも、食事をするのにも「時間」がかかります。
秒・分・時・日・週・月・年という時間の単位よりも、私たちが感じる「長さ」の問題です。長く感じる「時間」もあれば、短く感じる「時間」もあります。
 練習してもうまくならない苛立ちのある場合に、時間が長く感じています。
「少しでも早く」何かをしたいと思うから「時間が長い」と感じるのですね。
実際の時間の長さとは関係ありません。焦っても時間は同じ速度でしか進みません。焦っていると「時間を無駄にした」とも感じます。それも勘違いです。無駄にしたのではなく「必要な時間」を「もっと短くしたい」と思っているだけです。
 何かを達成したと感じられるまでの時間は、元々必要な時間なのです。
同じことは「忘れたい」と思う出来事を「昇華=許せる」できるまでの時間にも、必要な時間があります。
 練習しても=がんばっても無理…と考えてしまうことがありますよね。
そんな思いの時には、自分に与えられた「時間」の中で、いつか出来れば満足する気持ちに切り替えたいですね。
 いつまでに?という期限のないことが、「楽しむ=幸福」なことだと思うようになりました。嫌なことは、いつやめる?と決めれば楽しくなりますよね。
楽しい区事は、いつまでもやれる!から楽しいのです。

 音楽は「時」の芸術です。演奏を聴く「時間」でもあり、作品として「時空を超える」ことでもあります。そして、人に音楽を伝えることも、次の時間=次世代に音楽を伝えることになります。誰かが演奏を伝え残さなければ、演奏技術はその人が生きている間だけの技術になります。私たちが師匠から教えて頂いた「技術・音楽」を誰かに伝えることは、責務だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生きている音楽が生演奏

 動画は、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」の「瞑想曲」です。下手な演奏ですみません。
 私たちが聴くことのできるクラシック音楽は大きく分けて「スタジオやホールで録音した音楽」と「コンサートで聴く音楽」があります。
コンサートの演奏を録音したものも、コンサート演奏の「一部」として考えてみます。。
言うまでもなく、レコーディングを目的とした演奏は、演奏者と録音技術者・プロデューサーの納得がいくまで、何度でもやり直しができます。技術的には、うまく演奏出来た部分を「つなぎ合わせる」ことも可能です。
 一方で演奏者が聴衆の前で演奏する場合は、「一発勝負」でやり直しはできません。
 あなたは、どちらの演奏が好きですか?

 仕事として演奏する立場で考えると、それがレコーディングのための演奏でも、コンサートでの演奏でも、同じお仕事です。
 違うとすれば、レコーディングの場合には、音量、音色より「正確さ」を求められます。簡単に言えば、楽譜に書いてある通りに間違えないで演奏することが必須条件です。コンサートで演奏する場合でも間違えないで演奏することは重要なことですが、音量・音色と聴いてくれている「人」をその場で満足させる「気持ち」が何よりも大切です。会場の響き、他の演奏者とのバランスを事前に確認して本番の演奏に臨むのが「生演奏」です。

 生きている人間が、生きている人の前で音楽を演奏するのが「生演奏」だと思います。機械で再生された音楽は、その意味で言えば生演奏ではありません。
 以前、マドンナのライブを見に(聴きに)当時の後楽園球場にいったことがあります。歌っている姿は、望遠鏡がなければ見えません。スクリーンに映し出されるマドンナの映像と、大音量で球場に響き渡る音楽。椅子にも座らず、立ち上がって「狂乱」するオーディエンス。その場の空気は楽しいものでした。が!
 その後、そのライブをテレビで見たときに、実はマドンナが歌っていないことを知ってしまいました。おそらく、歌以外の音も予め録音されていたものだったのだと思います。すべてのライブがそうだとは思いません。会場=球場で不満はありませんでした。
 もし、クラシックの演奏会でCDの音を再生し、演奏者は「あてぶり」で弾いた振りをしたら、どうなるでしょうか?

 演奏に「傷」が許されないとしたら、人間が演奏する必要はありません。コンピューターで作り上げたヴァイオリンの音を、実際に演奏した音と「ききわけ」できないレベルまで仕上げることは、現在でも可能です。音楽に限らず、映像の世界でも、調理の世界でも、似たようなことは既に現実になっています。
 レトルト食品、冷凍食品のおいしさは、すでにレストランやお店で食べる「以上」の場合が増えています。「人工知能=AI」が進化して、人が運転しなくても目的地まで安全に走る「自動車」がすでに存在します。音楽も、そうなるのでしょうか?

 人間が演奏しない音楽も、確かに音楽です。
それを「便利」だと感じるのも個人の価値観です。
なにも楽器の演奏が出来なくても、パソコンで曲を作ることもできます。データを打ち込んで、演奏し録音することもできます。
音楽の楽しみ方のひとつになったことは事実です。
 人間が感じる、楽器を演奏する楽しさ・難しさ・喜びがあります。
演奏をすべて機械にゆだねてしまえば、それが失われます。
 人間が演奏前に緊張するのは当たり前です。うまく演奏出来たり、出来ないこともあるのが人間です。演奏者に聴衆が、自分の理想やパーフェクトな演奏を求めるのは、どこか間違っていると思います。生きている人間が、自分の目の前で演奏していることが、どれだけ素晴らしい時間なのかを、聴く側も考える時代に入りました。「バーチャル」全盛の今だからこそ、リアルな人間の演奏に魅力を感じる時代なのです。生身の人間が演奏する音楽を、守ることができるのは実は、演奏者側ではなく「聴いて楽しむ側」が担っています。聴く人が求めなければ、演奏者は消滅します。演奏者が消滅すれば、趣味で楽器を演奏することもできなくなります。「楽器」そのものが消えるからです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

500本目の動画

 Youtubeに自分の演奏、自分が指揮をした演奏、編集した映像を、自分の半生用と生徒さんの参考にと思いアップしてきて、その数がこの動画で500本目です。
・チャンネル開設当初の「MrKabajiru」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCli07laNGU99USxnDO9CTyA
・その後、動画数が増えたので作った「野村謙介」

URLは 
https://www.youtube.com/channel/UCK0zl04-SCFOlKBlyv_9tdg
・それでもパンクしそうだったので作ったのが「野村謙介チャンネル3」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCMAZycdSb68eZ3DzN5GwmTg
と、いつの間にか増えた動画たちです。

 動画の中には「限定公開」と「公開」の2種類があります。人様にお聞かせできないと思った映像は「限定公開」でアップしていますが、それ以外の動画がお見せできる動画だとも思っていないわけで(汗)「じゃ、なんでアップしてるの?」と素朴な疑問。
 この考え方には賛否両論あるのですが、インターネットという誰でもが見ることのできる空間に、見られることを前提に動画をアップするのは目的があるからです。
 プロの演奏家が自分の演奏をアップする場合「広報=宣伝」が主な目的だと思います。入場料金を頂くコンサートの演奏風景を、Youtubeで「ただで見られる」と言うことに不公平感を感じるお客様もいるかも知れません。さらに言えば、その映像だけで十分満足できるかたなら、チケットを買わずに配信されるのを待っている方法もあります。 宣伝のつもりが、逆効果になるとも考えられます。
 現実に、配信に課金する=お金を払うと動画を見られる方法で、コンサートを開いているプロの演奏家も多くなりました。時代の変化です。
 ネット配信にお金を払う人にとって、無料で同じ動画が配信されたら、きっと怒りますよね?
 「投げ銭方式」で払いたい、払ってもいいという人が自由に支払うという方法もあります。そのほかに、クラウドファンディング方式でネット配信するプロも見られます。
 どんな方法であれ「お金をもらう配信」には私は踏み切れませんし、自分の演奏動画にお金を払いたいとも思わないのが現実です(笑)
 コンサートを開き、お客様と会話し、演奏を聴いていただくことが好きなのです。広告にお金をかけられません。スタッフも必要最小限です。撮影も同じです。編集作業は自分で行います。その映像を無料で公開して、演奏会に足を運んでくれる人が「増えるのか?」と言われれば、答えは残念ながら「いいえ」です。宣伝としての効果が見込める演奏家もいると思いますが。

 生の演奏とパソコンやスマホで聴くことのできる「機械音」が、どう違うのかを並べ立てても、パソコンで十分と言う人には「だからなに?」という話です。
コンサート会場に、行きたくても行けない人もたくさんいます。私も一人でコンサートに行くことは視覚障害のために出来なくなりました。高齢のかたに、招待状を送るのも不安になることがあります。その方たちが、CDやDVD、インターネットを使うことができれば「疑似コンサート」を楽しんでもらうことができます。
 コンサートならではの「良さ」を演奏する演奏家、主催する人間が本当に理解しているでしょうか?単に「音質」の問題だと片づけられることではありません。「演奏家を見られる」と言うのも今や、会場でないほうが良く見える時代ですよね。逆に自宅や、電車の中で好きな時間に、一人で音楽を楽しめるという意味では、コンサートに勝ち目はありません。
 私は先述の通り、会場でお客様の反応を見ながら、話したり演奏したりすることが好きなのです。お客様が演奏者と「相手の顔を見ながら会話する」ことは、ネット配信の場合とは明らかに違います。「ライブチャットがあるよ」と思われるかもしれませんが、演奏中にモニターを見ながら演奏しますか?演奏後に、チャットで一人ずつと「やりとり」できても握手はできません。
 人と人の「ふれあい」がコンサートでしか感じられないことではないでしょうか?お客様同士の「仲間意識や連帯感」もその一つです。休憩時間に、お客様同士が楽しそうに会話している姿を、楽屋のモニターで見ていると、とても嬉しく感じます。

 自分の演奏を公開することが、正しい行為かどうかは、人によって答えが違います。少なくとも現在は、Youtubeで誰の作曲した音楽を演奏しても著作権料を支払わなくてもアップできます。ユーチューバーとしてスポンサーからお金をもらうようになると話は別ですが。
 自分の演奏を誰かが見てくれることが「嫌だ」と思うなら、利用しなければ良いだけです。誰かが見てくれて、楽しんでくれたり、参考にしてくれることを「良し」とするなら、アップするのも楽しいと思います。
 これから、どんな演奏を記録できるのかわかりません。
自分のモチベーションを維持するためにも、コンサートを開き続け、演奏を公開できる内容になるように、頑張るのです!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

東京大学に進学した生徒くんと対談

 2022年5月8日(日)午後、橋本駅前のメリーミュージック駅前教室での生徒さんとの対談です。
 現在20歳になる男子。4歳からヴァイオリンを始め、毎週母親に連れられてレッスンに通い続けた少年が、立派な青年になり今もなお、レッスンに通ってきてくれます。今回が「459回目」のレッスンでした。

 小学校4年生から塾に通いながら、並行してヴァイオリンのレッスンに通い続け、中学校は国立の「筑波大学付属駒場中学校」に進学。中学に入学後もレッスンにはお母様と通い続け、同高校に進学しても時々、指揮のレッスンを交えながらのレッスンが続きました。
 大学は東京大学に現役で合格。それからも時折レッスンを受けてくれています。彼が幼稚園の時から、成人し私より背が高い「見下ろされる」存在になったことが不思議なほどに嬉しいのです。

 教員時代、東京大学に進学した音楽部員もいました。京都大学に進学した男子部員もいました。一橋大学にAランクで絶対に合格できると言う成績の女子部員が、音楽大学の打楽器専攻に進学したこともありました。
 ただ、一人の生徒にかれこれ16年関わって来られたことは、自分が教員を辞め自分の教室を立ち上げ、地道に続けてきた「勲章」でもあります。
 すべての生徒さんが、それぞれの個性と環境の中で生きておられます。
音楽を趣味とする生徒さんに音楽の楽しさを伝える教室「メリーミュージック」に通う生徒さんの一人一人に、私の思いがあります。
 体験レッスンだけで終わってしまった方もおられます。
数カ月、数年でレッスンに来られなくなる生徒さんの中には、何も言わずに突然来られなくなった生徒さんもいらっしゃいます。私の力量不足です。
 継続は力なり
始めるのは簡単、やめるのも簡単。続けることが何よりも難しいのは、ヴァイオリンや音楽に限ったことではありません。一つのことを、やり続ける気力、根気、強さがその「ひとつ」の事以外の事にも、大きな影響を与えていることを彼と話しながら感じていました。

 成長する生徒とは、彼のように子供から大人になったという成長だけではありません。大人でも高齢者でも成長していることを私たちは実感しています。
 演奏家を目指す生徒に、レッスンをする先生たちと違い、私の教室は生徒の成長をサポートするのが仕事です。
 彼が受験勉強で練習する時間と体力を維持できない時に、彼の家族と同じように応援する気持ちを持ち続けることは、教室の経営としてマイナスなのかも知れません。その時々で壁があり、乗り越えるために誰かの協力が必要になることは、音楽でも多くの場面で起こることです。それが家族だったり、ヴァイオリンの先生だったり、塾の先生や友達だったりすると思うのです。
 成長した彼が、家族に感謝していることを自分の言葉で私に伝えられる「おとな」になったことが、ヴァイオリンの技術が上達したことよりもずっとずっと、嬉しいのです。
 これからは彼らの時代です。私たちは彼らに支えられる世代になります。それが自然の摂理です。今、彼にしてあげてきたことを振り返り、反省もありますが「ヴァイオリンを続けられた理由」に私の教室だったからと言ってくれる言葉に感謝しています。
 多くの生徒さんたち、保護者の皆様。
彼は決して特別な才能や素質を持った天才ではありません。
私が見ていたヴァイオリンで言えば、特殊な技術を持っていたわけでもありません。他の生徒さんと同じレッスンをしてきました。そのレッスンで与えられた課題を家で家族と一緒に練習し、家族が支えてきただけなのです。
 きっと勉強もそうだったのだと思います。
なにが「普通」とは言えません。でも彼は、どこにでもいる「男の子」なのです。これからの彼の成長が楽しみです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者はなにを演じるの?

 映像は映画「シンドラのリスト」のテーマ音楽です。
映画の音楽が必ずしも映画の内容と一致していなくても不思議ではありませんが、この曲も含めてテーマ音楽が映画の内容、ラストシーンと重なる印象になるケースが多いですね。

 さて、今回のテーマは音楽を「演奏」すると書きますが、この「演」という文字は実地に何かを行うときに使う文字です。演技、演算、演奏など。
演技と演奏の共通点を考えます。演技を演じる人を今、役者とします。
演劇、映画、テレビドラマなどで「役を演じる」人たちは、台本に書かれている「人」になりきって、見ている人をある時は笑わせ、ある時は苛立たせ、またある時は泣かせます。役者さん本来の人柄やその時の心理とは無関係に、見ている人をある意味で「騙し」ます。騙すと言うと印象が悪いのですが、「嘘の世界」をまるで「真実」に見せるのが演技です。

 一方、音楽を演奏する私たちはいったい何を?演じているのでしょうか。
言うまでもなく、作曲家の作った音楽を実地に奏でるのが「演奏」です。
では作られた音楽=楽譜と、役者さんの使う台本は違うのでしょうか?
台本の多くは「せりふ」です。そこに脚本家や演出家が動きや、感情を指示します。音だけの劇である「朗読」の場合は、動きはありません。言葉だけで台本の内容を演じることになります。
 ひとつの話の中に登場する人物が感じているであろう感情を役者が演じます。
話の展開、結末は台本を書いた原作者や脚本家によってきめられます。
役者が感じたままに演じる場合もあります。優れた役者さんに、監督が何も指示をださず役者とカメラマンに任せるという方法を黒澤明監督が使ったのは有名な話です。朗読の場合にも同じように、一人ですべての登場実物を演じきり、聴く人を魅了します。
楽器の演奏では言葉を使わずに、聴く人に音楽を伝えます。
音楽のタイトルがあったとしても、作曲者が特別な思いをもって作った音楽であっても、演奏する人と聴く人にとっては「音楽」です。
よく耳にする「音楽の解釈」と言う言葉があります。
作曲者の意図や当時の心情、作曲された時代を深く調べることで、演奏の「あるべき姿」を模索することだと思います。
 ただ、極論すれば作曲者自身が演奏しない限り、楽譜を作曲者の思った通りに演奏することは不可能です。そこには演奏者の「推察」が入るのです。
作曲された音楽のテーマや一部分だけを使って演奏する音楽を「邪道」と言う人がいます。

dougaha

動画は大好きなギタリスト「Marcin 」のパガニーニカプリース。
これを聴いて原曲と違うと言ってしまうこともできますが、もしパガニーニ本人が聴いたら「すげぇ!こっちのほうがかっけー!」と叫ぶかも知れない気がします。パガニーニ自身、ギターの演奏にも深い関心を持ち自身もギターを弾きました。ギターの奏法をヴァイオリンに持ち込んだのも、パガニーニなのですから。
 話がそれましたが、原曲の楽譜をどう?演奏するのかという演奏者の問題です。楽譜は記号です。文字も同じです。文字が「文」になり「文章」になり「作品」になるように、音符と休符が「モチーフ・テーマ」や同時に鳴ることで「和音」になり「フレーズ」になり「曲」になります。
 単語は意味を持ちます。ですが、文章になった時には違う感情を読む人、聴く人に与える場合があります。「空」と言う単語が、ストーリー=文章の中で、特別な意味を持ち、聴く人の涙を誘う事もあります。
 音楽の「ドシラ」という3つの音だけで感動する人はいないかもしれません。
それが…

 チャイコフスキーの弦楽セレナーデの冒頭部分です。
ファーストヴァイオリンの「ドシラ」がこの曲のテーマになります。
たかが「ドシラ」されど「ドシラ」です。
音楽が意味を持たない音の集まりだとしても、聴く人がなぜか?感情を揺さぶられることにこそ、演奏家は常に疑問を感じながら、試行錯誤を繰り返すべきです。「こう、書いてあるから」ではなく「こう弾くと、なにを感じる?」ことにこそこだわるべきだと思います。作曲者の意図より、自分の演奏を初めて聴く「普通の人」が何を感じてくれるのか?のほうが、ずっと大切だと思うのです。
演奏が単なる「楽器で音を出す」ことではないとするならば、私たちはその「音」で聴く人を感動させる技を磨くことが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

惹きつける音楽の謎

 動画は二つとも私の大好きな演奏家「中森明菜」と「ロストロポーヴィチ」の映像です。あまりに違いすぎますか?
 好きな音楽は人によって違って当たり前です。さらに私のように、好きな音楽に大きな違いがあるのも普通の事だと思います。人が「惹きつけられる音楽」って、その人にとって何が他の音楽と違うのでしょうか?

 音楽を演奏する人と、演奏した音楽は別のものです。
音楽を聴くだけ=音楽だけを聴く時に、演奏する人間を知らなくても音楽は音楽です。
一方で、音楽ではなく「演奏する人」が好きな場合、嫌いな場合があります。
その両方が必ずしも一致しているとは限りません。
演奏者のわからない演奏でも、聴いていて惹きつけられる音楽もあります。
演奏に興味を持つと、演奏している人に興味を持つ場合があります。
生徒さんの中でも、聴いているCDの演奏者を知らないという人もたくさんいます。それはそれで間違ってはいません。
 美味しい食べ物であれば、誰がどうやって作っていても美味しいのと同じです。

 自分が演奏する音楽で、どんな音楽・演奏が、どんな人に喜んでもらえるだろう?と考えることは、演奏者として必要なことだと思います。
 たとえアマチュアの演奏会であっても、自分だけが楽しむ演奏より、聴いてくれる人「も」喜んでくれる音楽の方が、より楽しいはずです。

 人を惹きつける「魅力的な音楽」には不思議な共通点があります。
私の場合「演奏者のこだわりを感じる演奏」が好きです。単にうまい!だけの演奏より、初めて聴いた時にでも感じる「熱さ」が好きです。演奏している姿を見なくても感じます。自分が演奏できない楽器の演奏や歌でも感じます。
 ヴァイオリンの場合には、どうしても技術的な「こだわり」に耳が行ってしまいます。音へのこだわりがあるヴァイオリニストの演奏に魅力を感じます。

 もうひとつの共通点は「演奏の幅の広さ」です。
中森明菜さんの場合、音楽によって歌い方が大きく変わります。
ロストロポーヴィチの場合、音色のバリエーションに感動します。
1曲演奏する中で、音色が変わらないのはロボット音声を聴いているのと同じ「不自然さ」を感じます。コンピュータで作られた音楽「ボカロ」が生理的に受け入れられないのは、きっとこれが原因です。

 音楽を演奏するうえでボキャブラリー=引き出しを増やすことが、魅力的な演奏につながると考えています。
音量・音色・動きを変化させる「技術」と「感性」が必要です。
技術と感性は、人間の「行動・言動」と「思考」の関係と同じだと思っています。どちらか一方だけを重要視するのは間違っています。
泥棒をする人は、泥棒を否定する考えの人ではないはずです。
行動と思考は、その人の中で一致しているはずです。
演奏技術と感性は、演奏者の思考がなければただの「運動」でしかありません。
考えたものを具現化する技術がなければ、単なる理想論で終わります。

 技術を身に着けるためには、自分の理想と現実を考える感性が必要です。
考えた理想の音楽を演奏のために、技術を身に着ける練習が必要です。
その両面が揃っている「演奏家と演奏」に私は「こだわり」を感じています。
言い換えれば、考えないで演奏しているように感じる演奏が好きではありません。考えるだけの評論家が嫌いです。
 自分の演奏が一体どれだけの人を惹きつけられるのか?
演奏会の来場者数?拍手の大きさ?お褒めのお言葉?Youtubeの再生数?
どれも違う気がします。鏡に映した自分の姿しか見えないのと似ています。
自分の演奏は客席で自分が聴けないのです。
 少なくとも、自分の演奏に対して「謙虚さ」と「誇り」を持ちながら、常に自分が好きになれる演奏を目指すことだけは必要だと思います。
「みんなが好きな音楽も演奏もない」のです。まずは自分が自分を好きになれるように、努力することですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



クラシック音楽で生活できる人とは?

 映像は街の中で突然、プロのオーケストラメンバーが第九を演奏したら?と言う楽しい映像です。「プロ音楽家」と言う言葉を「職業音楽家」と言う概念に置き換えて書いていきます。
 様々職業がある日本で、音楽を演奏して=職業として、生活している人も数多くいます。ただ、その数を正確に把握している統計がありません。なぜなら、クラシック音楽という定義があいまいであり、どんな業種までを音楽家として考えるかによって統計が変わるからです。日本○○協会所属の人数だけではないことも事実です。演奏のほかにレッスンで収入を得て生活している人も多くいます。クラシック音楽以外の音楽「も」演奏する演奏家もいます。自宅でひっそりとレッスンをしてお小遣いを稼いでいる人もいます。
 生徒さんにクラシック音楽を教える中で「音楽家を目指す」人に出会った時に、戸惑うのは私だけでしょうか?音楽大学で教鞭をとる先生の中にも、似たような気持ちになる人もいるのではないでしょうか?
 現代の日本で、クラシック音楽を学び「プロ」になって生活していくことを夢見る人たちに、指導する私たちはどのように?対応するべきなのでしょうか。
あるいは、どうしていくことが必要なのでしょうか。

 時代と共 に、クラシック音楽の需要は変わります。演奏を楽しむ方法も変わります。これからも変わるでしょう。私たち60代の人間が学んだ期間の中で、どんな変化があって今は、どうでしょうか。これからを予測できるでしょうか?
 音楽大学を卒業すれば、プロの演奏家になれる時代もあったかもしれません。
音楽大学を卒業していなくても、プロになれるのは今も昔も変わらないかも知れません。プロのクラシック演奏家として、生活できる「音大卒業生」の割合は、年々下がっているように感じます。これからも下がるとしか思えません。
それでも日本中に「音楽大学」や「音楽高校」「音楽専門学校」があふれています。こんなに必要なんだろうか?と思う数です。むしろ、どうやって学校経営を維持しているのか?不思議に感じます。少子化の中、追い打ちをかけるような長い不況とコロナ。高い学費を払えない家庭環境も増えているはずです。

私亜h クラシック以外の音楽に少しだけ目を向けてみます。
いわゆる「大衆音楽」と言われる世界も、常に変化しています。
アイドル全盛だった時代の「歌謡曲」と、現代の「J-POP」を考えると、「売り方」が大きく変わりました。テレビに出演することで知名度を上げていた時代から、ネット配信で知名度を上げる時代になりました。そんな変化の中でも、プロダクションは今もあります。路上ライブはコロナの影響をまともに受けた業界です。そんな変化がありますが、クラシック音楽を学ぼうとする人との違いは、今も昔も変わらないように思います。
 ポピュラー音楽を愛好する人数と、クラシック音楽を愛好する人数の「比較」を考えても、私たちが若かった時代と今と、大きな違いはないように感じます。ピアノを習う人口が激減し、音楽教室が次々に閉鎖されている現代でも、趣味でクラシック演奏を楽しむ人は少なからずいます。
一時的な「バンドブーム」は終わりましたが、アコースティックギターを楽しむ人、ストリートピアノでポップスを演奏する人も多くいます。
 一般にポピュラー音楽を「学ぶ」人は少ないのが実状です。
一方クラシック音楽は?なぜか「学ぶ」イメージが付きまといますよね。
特にプロの場合に顕著に違いがあります。つまり、世間的な感覚で言えば、
「クラシック音楽は習ってプロになれる」で「ポピュラー音楽は独学でもプロになれる」なのかも知れません。本当にそうでしょうか?私は違うように思います。

 ショパンコンクールで入賞した反田恭平さんが「株式会社」としてプロのオーケストラを立ち上げました。2030年を目標に新たな「学び舎」も計画しているようです。エネルギッシュな活動に敬意を表します。プロの演奏家が「働く」環境として、演奏者を「社員」とする発想はとても斬新なものです。が…
クラシック音楽を「学んできた」若者に、企業の一員として労働する「社員」という感覚が持てるのか?という疑問があります。要するに「演奏するだけ」で「給料」がもらえると言う意味で言えば、プロのオーケストラと何ら変わらないことになります。本来、企業なり学校なりの「組織」で働く場合には、勤務の内容と能力、年齢によって「俸給」が変わります。それをオーケストラに当てはめると、演奏以外の業務と演奏の「対価」に差をつけるのか?つかないのかという技術的な問題があります。また、演奏技術によって俸給を変えるのか?年齢せいなのか?という問題もあります。株式会社の場合、株価によって企業の業績が変わります。オーケストラのメンバーが「株価」の対象になることにあります。それってどう思われるのでしょうか?演奏会の収入と広告収入だけで運営する財団と違う点を音楽家が理解できるとも思えません。

 いずれにしても、ひとつのプロオーケストラで雇用できる人数は、たかだか数十人です。はじめは良くても、毎年雇用される人数は数人になります。いくらプロのオーケストラを作っても、供給が多すぎるのです。音大卒業生が多すぎるのです。それをわかっていて「音大を目指せ」って指導する側で考えれば、本人に責任をすべて負わせて「あとは知らん」ですよね。もちろん、本人の意思が第一です。ただ、現実問題として「需要=雇用」を増やす方策を考えることが、まず必要だと思います。オーケストラを作るのではなく、プロの演奏家と指導者を「求められる」社会を作る努力をすることを、いったい誰がするのでしょうか?
音大同士がお互いを「潰しあう」のではなく、一緒に社会を変えていく「知恵を出し合う」関係にならなければ、クラシック音楽を教育する環境は、ますます狭くなると危惧しています。 
 偉そうに書いてすみません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

年齢と演奏

 映像は五嶋みどりさんのデビュー当時と今から数年前のものです。
「天才少女」は現在、なんと?評すれば良いのでしょうね。
今も幼いころも素晴らしいい演奏課であることは変わりません。

こちらは、イツァーク・パールマン。現在御年76歳の世界的ヴァイオリニストです。私が中学生の頃に、東京上の文化会館で初めて演奏を聴き、出待ちをしてサインと握手をしていただいた「憧れ」の演奏家。今、思えば当時まだ20代だったことになります。

 人間の理性=考える力は、13~14歳で成人と同じ能力を持つそうです。
一方肉体は、20~22歳頃がピークだと言われています。人間の細胞が再生できる限界があって、120歳までが生存できる限界だと言われています。日本人の平均寿命は年々長くなり、2019年現在84.36歳!アメリカが78.79歳だそうです。
そんな人類ですが、もちろん人によって一生の時間は違います。健康に活動できる年数も違います。一概に平均だけでは、人の一生を語れないのは当たり前です。

 演奏家として活動できる期間は、人によって大きな差があります。
たとえば2歳から楽器を演奏し始めた人と、20歳から始めた人を比較すれば、それぞれが21歳の時点で考えた時、方や19年間、方や1年間。その演奏技術に違いがあって当たり前です。しかし、その二人が40歳になった時点で考えるとどうでしょうか?もちろん2倍近い期間の違いがあります。ただ、当初は19倍だった差が2倍にに減ったことになります。それだけではありません。良く「小さい頃から楽始めないと上手になれない」という間違った説を唱える人がいます。絶対音感を身に着けるための年齢は、確かに言葉を覚える時期から始めることが絶対に有利だとは思います。しかしそれ以外の「能力」については、始める年齢の問題は大きな差ではないと思います。

 10歳に満たない子供が、大人と同じような演奏をするのを見かけます。
とても不自然に感じます。まず、考える力が成人と比較して、まだ未成熟な年齢です。楽譜を読む能力、分析する能力に差があるのが当たり前です。
記憶する力は成人と変わらないかも知れません。モーツァルトの「伝説」のように音楽を聴いて覚える力はこどもにもあります。音楽を聴いて感じる感情を、具現化する能力が大人と同じであるはずがないと思うのです。景色を見て感想文を書いたとしたら、7歳の子供が大人と同じような文章を書くでしょうか?
 運動能力はどうでしょうか?
筋力は20歳頃がピークになりますが、楽器の演奏に必要な筋力は恐らく10歳に満たない子供でも「演奏可能」だと思います。特にピアノを演奏する幼児を見ると、大人と同じ大きさ、重さの鍵盤を演奏する力に「近い」力に驚きます。
身体の大きさに合わせた「分数楽器」があるのは、ヴァイオリンとチェロです。それ以外の楽器は子供用の楽器は普通、使用されません。分数楽器の音量はフルサイズの楽器より小さい音になります。だから、コンクールなどで半ば無理やり、1サイズ大きい楽器を演奏する子供を見かけます。それって、必要なことでしょうか?間違った指導だと私は思います。
 幼児が大人のような演奏する「裏」には、大人の指導者が大人の「真似」をさせている姿が透けて見えます。子供が自分で考えた音楽ではなく、指導者が考えた音楽を「そのまま」演奏させているとしか思えません。
子供ならではの感受性があります。大人とは違います。当たり前です。子供が感想文で、音難が書いたような言葉遣い、表現をしたらすぐに「親が書いたな」とばれますよね?それを平然と音楽で子供にやらせる世界に、違和感を感じます。

 20歳を過ぎた私たち(過ぎたと言えるのか?w)は、どうでしょうか?
細胞は生まれ変わります。現実に80代になっても世界の山を登る登山家や、筋骨隆々な高齢者ボディビルダーもおられます。何よりも、演奏に必要な筋力は、10歳に満たない子供の筋力でも足りることを考えれば、60代の人間が「もうだめだ」と言うのは、まさに自虐です。パールマンしかり、ロストロポーヴィチしかり。演奏に必要な技術も、考える力もまだまだ現役だと思います。
さらに言えば「経験」は年齢を重ねた分だけ大きくなります。
演奏を聴く人の年齢に制限はありません。その人たちが感じることは、その人の経験から得た「記憶」に基づいています。20代より40代、60代、70代の方が人生の経験は豊かなのです。自分が毎日経験する小さな出来事が、すべて音楽に活かされているはずなのです。経験は人に伝えても「言葉」にしかなりません。ただ、音楽を演奏する時に感じる「イメージ」は一つでも多い方が良いはずです。
聴く人に伝わる演奏者の「人間性」があります。子供の演奏に人間性を感じるとしたら「かわいい」「がんばって練習したんだな」しかないはずです。子供の演奏が大人の感情を揺さぶったら、恐ろしいですよね?

 最後に、楽器の演奏に「もうだめだ」と言う考えは捨てるべきだと思うのです。聴力の低下で自分の音が正確なのか?判断が鈍ったとしても、演奏は出来るはずです。眼が見えなくなっても演奏は出来ます。私はそう信じています。
大人から楽器を演奏し始めたから「上手になれない」と決めつけるのは間違いです。たとえ、余命を宣告されたとしても本当に楽器を演奏することが好きなら、最後まで楽器を演奏することが楽しいはずなのです。
 子供に大人の真似をした演奏はさせて欲しくありません。曲がどんなものであっても、子供が演奏したいようにひかせてあげれば良いと思うのです。「そんな演奏では○○音楽学校に入学できませんよ!」とか「△△コンクールで上位に入りたいなら!」という「えさ」と「脅し」で子供を釣るのはやめて欲しいのです。親が最初に釣られます。そして子供をけしかけます。「子供の将来のために」と言うのは、子供の人権を侵害している事だと気づくべきです。子供にこそ、子供の時にしかできない経験をさせてあげることの方が、演奏家として活動する年齢になったとき、そして60代になって師匠も親もいなくなった時に感謝される大切な宝物だと思います。「ビジュアル系ヴァイオリニスト」なら演奏能力には関係ありません。顔とスタイルが良ければ「一時的」にファンが増えます。もっと若くてかわいい・かっこいい人が現れたら「さようなら」ですが。それを「演奏家」と呼ぶのは彼らに失礼です。「芸能人」と呼んであげるべきです。それを望んで仕事をしておられるのですから。彼ら・彼女らの演奏技術がどうのこうの、言う方が無粋だとも思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の幅と演奏能力

 上の動画は「ステファン・グラッペリ」さんの素敵なJAZZヴァイオリン演奏です。聴いていて、体に降り注ぐようなヴァイオリンの軽やかで、甘い音色が大好きです。
 今回のテーマである「音楽の幅」は、音楽のジャンルだけではなく、演奏する楽器の編成、演奏方法などの「種類」でもあります。
 ヴァイオリンを使って演奏する音楽にも、様々な音楽があります。
クラシック音楽と呼ばれる音楽でも「オーケストラ」「弦楽アンサンブル」「ピアノとの二重奏」「無伴奏」他にも色々な演奏形態があります。
音楽の種類にしても、バロック時代の音楽でのヴァイオリン、ベートーヴェンやブラームスの時代の音楽、現代作曲家の作品でもヴァイオリンは使用されます。
 オリジナル作品がオーケストラのための音楽でも、ピアノとヴァイオリンで演奏できるように「アレンジ」された音楽もあります。
動画のようなヴァイオリン演奏も、その一つです。
私は音楽の学校で「クラシック音楽のヴァイオリン演奏」を学びました。
だからと言って、クラシックと呼ばれる音楽の「すべて」を学んだわけでも演奏できるわけでもありません。学校で学べるのはほんの数年間。その間に学べる音楽の幅は、ごく限られた範囲の音楽です。

 時代と共に音楽の幅は広がります。音楽の「基礎」にあたる和声や形式は変わっていない面もあります。一番大きく変化しているのが、人間の手によらない「機会による音楽演奏」です。もはや「楽器」と「電子機器」の差が混然としてしまいました。コンピューターにデータを入力すれば、どんな音色の音も、どんな高さの音も、どんんなに短い音でも、間違えずに何度でも演奏するのが「電子楽器」です。それを「楽器ではない」と言い切るのであれば、ピアノと言う楽器でさえ、ピアノが出来る以前の人たちからすれば「それは楽器ではない」と言われるのと同じことです。エレクトーンという楽器はヤマハの作る「電子楽器」です。突き詰めればコンピューターも楽器なのです。

 ヴァイオリンを人間が演奏する楽器と限定してみます。
ヴァイオリンの音は人間が演奏する音だと定義してみます。
ヴァイオリンで演奏できる音楽に、向き・不向きがあると思います。
音楽の要素の中で「旋律」だけを演奏する場合、ほとんどの曲はヴァイオリンで演奏できます。演奏できても、ヴァイオリンの持つ特性を活かせない曲。

https://youtube.com/watch?v=OWITxKjwPjQ

動画での演奏内容について、コメントするつもりはありません。
生徒さんが「次にやってみたい曲」として教えてくれた動画です。
その生徒さんが小学校の運動会で踊った曲らしく、「知っている曲をヴァイオリンで弾いている動画を見つけたから」という理由です。
 もし、クラシック音楽だけを教える先生であれば当然「却下」するケースです。「もっと他の曲を練習しなさい」と言うのでしょうね。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人にとって、あるいはクラシック音楽になじみのない人にとって、この曲がヴァイオリンの為に作曲された音楽ではないと、気付くでしょうか?最初の動画、グラッペリの演奏はクラシック音楽ではありませんが、演奏技術も内容も素敵だと私は思います。
 実際問題、この「群青」なる曲をヴァイオリンで演奏して本人が楽しいと感じるのであれば、、思うように演奏できるようにレッスンしてあげるのが私の仕事です。クラシックではないから、ヴァイオリンのための曲ではないからという理由で「ダメ」というのは理由としてあまりに説得力に欠けると思います。

この動画は、メリーオーケストラ定期演奏会に、教員時代に顧問をしていた軽音楽同好会のメンバー「JIRO」くんがギターでゲスト出演しくれた時の演奏です。
ドラムセットとエレキギターの「サウンド」と弦楽器の音色。会場で聴くと感動モノでした。

https://youtube.com/watch?v=-Fj58b59xy8

こちらは「ガブリエルのオーボエ」という映画のテーマ曲です。
当然、オーボエで演奏するために作曲された音楽です。
それをヴィオラで演奏したのが上の動画です。下の動画はメリーオーケストラ定期演奏会にオーボエ奏者「沖響子」さんをお招きしての演奏。
メリーオーケストラの演奏技術には目をつぶってください(笑)
作曲科の「意図」した音楽とは違うかもしれませんが、初めて聴いた人にとって違和感のない演奏なのか、なんとなく変な感じがする演奏なのか?演奏技術もさることながら、旋律の「向き・不向き」はあるのかも知れません。

 最後に、演奏者がコンサートで、自分の好きな音楽「だけ」演奏する場合、お客様がそのコンサートで満足できるのか?ということも考慮するべきです。
予め当日の演奏曲をすべて、あるいは大部分公開して開催するのであれば、そのコンサートに来る人は「その曲」を楽しみに来る人でしょう。それが出来るのは「すでに誰かが演奏した音楽」だからです。もし、新作の音楽で初演だとしたら?プログラムを公開しても誰も知らない音楽ですよね?
 プログラムを公開していなくても、お客様が「どんな曲を聴けるのかな?」と期待しながら会場に向かうのも楽しいと思うのです。期待を裏切られることもあるかも知れません。でも、初めて見る映画のストーリーを知っていたら、面白さは半減しますよね(笑)
 一人でも多くのお客様が、一曲でも楽しんでもらえるプログラム=音楽の幅で、私はコンサートを企画しています。クラシック音楽が好きな人もいれば、ジャズが好きな人もいます。映画音楽が好きな人もいます。それらを、リサイタルならヴァイオリンとピアノ、もしくはヴィオラとピアノで演奏します。オーケストラでも同じです。
 「お子様ランチ」のようなプログラムかもしれません。ただ、美味しいお子様ランチは、懐石料理と同じだと思います。少しずつ、好きなものを聴ける=食べられるのも楽しいと思えるからです。
音楽に幅がある以上、演奏する私たちもその幅を知ることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導者と演奏家

 動画はファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした曲です。
今回のテーマは、一般の人から見える指導者とプロの演奏家との共通点・相違点と、実際に両者を経験した立場での両面から考えてみたいと思います。

 楽器の演奏技術を教えて対価を受け取る人を指導者とします。
楽器を人前で演奏し対価を受け取る人を「演奏家」としてみます。
もっと広い定義も可能ですが、音楽の専門家でない人の目線で今回の定義を決めています。
 ・指導者がいなければ演奏家は生まれないのか?
多くの場合は指導者によって演奏家が育てられますが、必ずしも誰かから指導を受けなくても演奏家になることは可能です。
 ・指導者はプロの演奏家を育てることが使命なのか?
これも結論から言えば「そうとは限らない」と思います。
音楽大学に通う学生でさえ、プロの演奏家を目指していない人がいるのは事実です。ましてや、専門家を目出していないアマチュア演奏家にこそ、指導者が必要に思っています。
 ・優れた演奏家は優れた指導者か?
応えは「いいえ」だと思います。もちろん、優れた演奏家であり優れた指導者もたくさんいます。ですがこれも、イコールの関係ではありません。そもそも、人に教えることが好きではない演奏家も多くいます。実際、教える時間がない演奏家もいます。
 ・指導者は演奏家でなくても良いのか?
演奏のできない人が演奏を指導するのは「無理」です。
今回は、演奏家の定義を「対価をもらって演奏する演奏家」としていますので、演奏家としての演奏技術があれば、指導することは可能です。
演奏技術の低い指導者もいます。自戒を込めて書きますが、指導者自身が自らの演奏技術を高める意欲、努力をしていない人であったり、「○○音大卒業」とか「△△音楽祭に参加」などの肩書にうぬぼれる指導者が、生徒を教えられるとは思いません。
 ・指導者は演奏家より「下」なのか?
おおざっぱな言い方をしましたが、様々な意味があります。
たとえば「年収」「社会的信頼」だけで比較することもできます。
また音楽家としての「プライド」は本人が考えるもので違ってきます。
 日本において、演奏家として生計を立てられる人数は、極わずかです。
毎年多くの「演奏家の卵」が音楽大学や専門の学校から誕生しています。その数を分母として考えると、演奏することで生活できる人は、数パーセントにも満たない数です。それほどに、需要と供給のバランスが悪く供給過多なのです。
プロの演奏家の一つとして「プロオーケストラ」の「正団員=社員」がいます。
プロのオーケストラで演奏している人の中で、正団員ではない「短期アルバイト=エキストラ」がたくさんいます。その人たちもプロの演奏家ですが「雇用」の形態が違います。
正団員としての「給与」だけで生活できる人は、日本ではごく一部です。
指導者にも色々なケースがあります。自宅で教えている人、音楽教室に雇われて教える人、音楽高校や音楽大学で演奏を教えている人などです。
 こちらの場合も比較される内容は様々です。ちなみに、楽器演奏を指導するための公的な資格はありません。学校で教師として働く場合でも、場合によっては教員免許がなくても、演奏技術を教えて対価を得ている人もいます。ましてや、音楽教室や自宅で指導する場合には、なんの資格がなくても指導できるのが事実です。その意味では、演奏家の場合も「公的な資格」がない点では同じです。

演奏家になれない人が指導者なのか?
答えは「違います」私は確信しています。
先述の通り、指導者には演奏家としての技術が必要不可欠だと思います。
だからと言って、指導者の演奏技術が演奏家の技術より低いとは思いませんし、そうあってはいけないと思っています。
 では、指導者を目指す人はどうすれば良いのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

 演奏家としての技術を身に着ける練習と勉強は、演奏家を目指す人と全く変わらないはずです。それを含めて必要なものは、以下の3点だと考えています。
1.演奏家として評価される演奏技術
2.演奏技術を言語化する能力
3.人に対する適応力
演奏家でも共通の「努力」や「経験」は言うまでもありませんが、何より指導は「対面」であり限られた時間内で、自分の教えたいことを伝える能力が求められます。適応する力は、迎合することではありません。常に自分と相手との考え方や生き方、価値観の違いを擦り合わせる能力です。

 最後に現在、演奏課や指導者を目指している人と、その指導者に伝えたいことです。
師弟関係は、両思いであることが何よりも大切です。双方が互いを認め合え、信頼できる関係がなければ伝えられるものは限られています。
習う側からすれば、師匠を尊敬できること。師匠は尊敬できる存在であること。
そして、常に次の世代に伝承することを考えることです。伝承は技術だけではありません。人の生き方、考え方こそが後世に伝えられるべきです。
優れた演奏技術があっても、人として魅力のない人や、他人を受け入れないわがままな性格の人は音楽家としての素養に足りません。演奏の評価だけを評価してくれるのは、容姿だけを評価されるのと同じです。音楽は自分で作った芸術ではありません。ラーメン屋の「秘伝のスープ」とは違うのです。先人が今に伝えた音楽があるからこそ、私たちが音楽を演奏できるのです。思い上がりは捨てるべきです。一流と言われて悪い気持ちになる人はいません。ただ、本当にその人の音楽が評価されるのは、次世代、さらにその次世代に「レジェンド」として評価される人かどうか?だと思うのです。
 これからも優れた指導者を育てたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介