暗譜に苦悩する曲

 映像はJ.Sバッハのオルガン曲「パストラーレ」3番をチェロとピアノで演奏したものです。これをヴィオラとピアノで演奏する予定です。
 楽譜を見ながら演奏できれば、さほど難しい楽譜ではありません。
おそらく初見でも演奏できると思います。ただ楽譜を見ながら演奏できない私にとって「暗譜」しない限り演奏できません。
 全盲の方の場合も暗譜して演奏することは同じです。音楽を記憶する…子供でもできることですが、覚えにくい曲があるとすれば、私の場合「この曲」になります。時間をかけるしかない…とも言えますが、音楽全体の構造が覚えにくい!(笑)楽譜をパソコンモニターに大きくして表示し、少しずつ覚えるのですがこのパストラーレは、リズムも音域も特別なものではないのに覚えられない。
 子供の頃、九九を覚えたり「いいくに作ろう鎌倉幕府」を覚えたり、「かろかつくいいけれ」と呪文のように覚えたり。
 英語の単語をカードに書いて覚えたり、数学の公式を覚えたり。元素記号を覚えたり。皆さんも経験があると思います。
 一方で外国語が苦手な人でも、海外に暮らせばいつのまにか「日常生活ができる」ようになりますよね。必要に迫られる上に、毎日繰り返す間に「自然に記憶する」のが言語です。
 このパストラーレを覚えるにあたり、音楽をからだの動きと共に覚える方法をとりました。音楽を「指揮する」運動から始まり、右腕の動き=ボウイングを覚える方法です。「振付」にも似ていますが、これも一つの記憶手段です。
 人それぞれに覚え方が違います。無理に覚えなくても自然に覚えられのが理想ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

幻のヴァイオリンケース

 動画は「縦型ヴァイオリンケース」の使い方と特徴を紹介した動画です。
持ち歩ける楽器を演奏する人Tにとって「ケース」は必需品です。
私が子供の頃、ヴァイオリンケースは木製の「箱」を布で覆ったものでした。
大きく分けて「ヴァイオリン型=ひょうたん型」と「四角いケース=オブロング」の二種類。表面の布地の色は茶色がほとんどでした。ヴァイオリニストの中でも「ソリスト」と呼ばれるような方々が使うケースは「ヒル」と言うメーカーのケースで薄い青緑の布で覆われ、一目で「あ。ヒルだ」と気づくものでした。
このケースを持つことは「ステイタス」でしたので、学生の分際で(笑)持つのはおこがましく、むしろ恥ずかしくて持てませんでした。
 その後、木製のケースから「ウレタン=発泡スチロール」に船を張り付けた軽量のケースが出回るようになりました。軽いことは良いのですが、強度が不足し満員電車に乗るのは楽器の事を考えると恐ろしいものでした。
 やがてプラスチック樹脂=HRP製のケースが出回るようになり、表面が「テカテカ」で色も多種多様になり、形も個性的なものが出回りました。
 このケースは「重い」と言うデメリットと「楽譜が外ポケットに入らない」と言う難点がありました。
 やがて「炭素繊維=カーボン」を使ったケースが作られました。
カーボンはスペースシャトルやF1、ヨットに主に使われ、未だに軍事利用ができるために製法などは国によって厳しく管理されています。
 それでも最近は、ゴルフのシャフト、釣り竿、スポーツカーの屋根やドアにも使われるようになりました。
 一般医「カーボンは軽い」と思われていますが、実は同じ厚さで比較するとFRPよりはるかに面たちのがカーボンです。ただ、薄くても固い=強いと言う特徴があり、実際に下敷き程度の厚みのカーボン板は、手で曲げられないほど硬いものです。つまり「薄くできる」ことで、複雑な形にしても強度のあるものが作れると言うものです。
 カーボンは炭素繊維を編み合わせ、高温で焼いたものです。金型も特殊です。そのためにカーボン製のものは、通常の樹脂製品より高額になります。
 一口にカーボンと言ってもピンからキリまであります。強度も様々です。
A社のカーボンケースは一時期、ソリストの間で「ヒルのケース」にとって代わるものとして珍重されました。確かに軽く見た目も鮮やかな色でした。が、肝心のカーボンがお粗末すぎて(笑)、すぐに割れると言う致命的なものでした。特に、尖ったものや金属の角にぶつけると、簡単に穴が開いてしまい中に数千万円、数億円のヴァイオリンを入れて運んでいたことを考えると…ぞっとします。
 そんなヴァイオリンケースたちですが、昔からケースに限らず「新しもの好き」だった私が、偶然に「縦型ヴァイオリンケース」を思いついたのが10数年前。「楽器のケースを作ってみる」と言う、とある会社の方から相談をうけて、「たばこのボックスケース」を持て居てひらめいたのが運命でした。
 それからメーカーの技術者と毎週のように打ち合わせ、試行錯誤と試作を繰り返し、3年以上の年月をかけて完成したのが「縦型ヴァイオリンケース」でした。
 普通、ヴァイオリンをケースから出して演奏するためには、机の上か床など「平らな場所」にケースを置いて、蓋を開けて楽器と弓を出して、ケースを移動し…要するに「ケースを置く場所が必要」です。
 オーケストラなどの練習時、楽器ケースをみんなが置くためのスペースがないため、客席や舞台の床にケースを置いて…それが、このケースの場合には椅子に座ったままで楽器を取り出せる「省スペース」設計です。
 さらに、楽器の裏板とケースの内装=内張の布が、どうしても接触するのが普通のケースで🅂。湿度の高い日本で、特に新作の楽器をケースに入れるとニスがケースの内張に吸い取られ、見るも無残な「曇り」が出来てしまいます。
 この縦型ケースは、ヴァイオリンの顎当て部分=エンドピンの近くおnごく一部がケース内の底部に接するだけで、表板側の「4本の弦」とケース内部のクッションが触れる程度で、あとは軽くネック部分を革ひもで止め、蓋を閉めるとネックの「ボタン部分」を上から抑えて固定する構造です。
 弓も立てて収納し、毛箱の丸い部分に柔らかいピンでひっかける仕組みです。
ケースの底部では、弓先が「浮いている状態」ですが、弓先部分を囲む柔らかい素材で楽器にもケースにもぶつからない構造です。
 肩当や楽譜もケース内に収めることができるのは、ケースの蓋の「半分」を手間に90度開くことで、ハンドルのついている「ケース上部」が逆に「床部分につく底部」になる構造なので多くのものGあ収納できるのです。
 ケースを立てた状態で、床に接する面積が2倍になることで、安定が感があります。ハンドル部分が床に触らないよう、上部の「ふち=外周部」が数ミリ、ハンドル面より高くなっています。
 ケースを得占める「留め具=ロック」が、移動中にあいてしまう事故にあったことがあります。フランスのB社のケースです。とてもよくできたケースでしたが、現在はヴィオラケース以外は留め具が変更されています。
 この縦型ケースには「回転式留め具」を使いました。このロックは、それぞれの「蓋・本体」を互いに強く弾きあう構造になっており、密閉度が格段に高くなります。フライトケースなどに多く使われている頑丈なものです。


 恵右の動画は私のヴィオラケースに回転ロックに取り換え改造した動画です。
これで移動中にケースが「ぱかっ!」と開く心配から解放されました。
このロックを縦型ヴァイオリンケースにも採用しています。
 ケースを作るということは、膨大な費用がかかることです;
当然リスクがあります。ただ、間違いなく「唯一無二のケース」がこの縦がヴァイオリンケースです。なんとか!このケースをもう一度、世に送り出したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と家族

 写真は母と兄と私です(笑)父が撮影しました。
おそらく北海道札幌に暮らしていたころです。
 銀行員で転勤ばかりだった父と専業主婦の母。
勉強とスポーツを父からスパルタでたたきこまれた兄。
0才の時に心室中隔欠損が見つかり「この後生きられる可能性はよくて5割」と言われていた私。この写真当時は心臓の穴は自然にふさがったものの、病弱なこどもでした。この数年後、4歳ごろに社宅の玄関で自分の靴を手探りしている私をみて「何をしているの?」「くつさがしているの」と言うことで、網膜色素変性症が発覚しました。薄暗い場所で見えない「夜盲」がこの頃からあったのです。
 小学校1年生の時に、扁桃腺を切除する手術をしてから、すっかり熱も出さなくなりました。おそらく大きく体質が変わったのだと思います。

 小学校1年生で岡山の倉敷に移り、そこで始めたヴァイオリン。
両親ともに音楽を聴くことは好きだったようですが「楽器が弾ける」人たちではありませんでした。小学校2年生の終わりごろに、東京都杉並区荻窪の社宅に引っ越し。その後小学校5年生、10歳の時に東京都小金井市に父が念願だったマイホームを建てました。その時期、恩師久保田良作先生のお宅を訪ね、弟子入りをお願い。当時奥様でヴァイオリニストだった由美子先生に指示することになりました。
…こうして考えると?そうです。杉並区の荻窪時代の数年間、ヴァイオリンを習っていなかったようです(笑)あれれ???
 どうして両親が「また」ヴァイオリンを私に習わせたのか、今となっては永遠の謎ですが、少なくとも私が「習いたい」と言ったことはあり得ないので(笑)暇そうだったから…だと推察します。
 その後も、ヴァイオリンは好きでもなく、レッスンで言われたことをちょろっと練習するだけで次のレッスン。やる気なんてなかったはずです。
「やめさせなかった」両親の思いは不明ですが、おそらく自分から「やめたい」とも言わなかったのだろうと思います。兄は勉強もできてスポーツも万能でした。「兄への対抗心」だったのかも知れません。
 中学生になって、由美子先生から良作先生にレッスンが変わりました。
まさに「1からやり直し」のレッスン。途端にやる気が!
出るはずもなく。相変わらずです。ただ、中学校で出会った「合奏」つまり「クラブ活動」で「すごーい!」「ヴァイオリン習ってるの?」「楽譜読めるの?」
先輩からもチヤホヤしていただき(笑)、音楽の友人もできてヴァイオリンは「楽しみのための道具」になりました。
 中3で音楽高校受験体制になるまで、ゆるーい部活動とチンタラ練習をして過ごしました。その時も両親は「やめろ」と言ったことはありませんでした。

 自分がヴァイオリンを教える仕事に就くことは、子供の頃考えたこともありませんでした。暗い場所で見えない自分が、普通の大人になれるのか?生きていけるのか?無理なのか?そんな不安が付きまとっていました。
 両親は私が大学を卒業するまで毎年「目の検査」の為に半ば強制的に私を病院に連れて行きました。はじめは渋谷にあった「国立小児病院」その担当医だった植村先生が慶應義塾大学病院に移られたことをきっかけにそちらに。岡山の頃は紹介で岡山大学病院。とにかくつらい思いでしかありませんでした。
 毎回、瞳孔を開く目薬で半日かかって帰る時にも、視界は白い靄の中。
何度も「なぜ?治らないのに病院に行かすんだ!」と喧嘩もしました。
親の心、子知らず。とはこのことですね。

 たくさんの小さな生徒さんたちと、そのお母さんやお父さんと出会ってきた中で「親の役割」を強く感じます。親は子供の「成長を見守る」だけでは足りない気がします。「支える」「押し出す」「引っ張る」「励ます」要するに積極的に子供に関わることが時代と共に減ってきている気がします。
 確かに「子供の人生は子供のもの」です。子供が大人になった時、初めて両親に感謝するものです。どんな親も元は子供です。だから今「親」でいられるのです。自分の子供を「ただ見ている」だけなら、親でなくてもできることです。
 子供を引っ張ること、背中を押すことは責任を伴います。それを恐れる親が口にする言葉「子供が嫌がっているので」いかにも子供が音楽を嫌いだからやめさせてあげる…と聞こえますが、実は自分が自信を無くしているのだと思います。
 辞めさせる方が楽です。子供もその時は「遊べる!」から喜びます。
それを繰り返したら、子供には何が残るのでしょうか?親として、何を子供に残せたのでしょうか?
 子供が大人になって、音楽から離れたとしても、それこそが「子供の人生は子どもが決める」ことです。子供の間は、親の「意思」がなければ子供に伝わりません。音楽は持って生まれた才能で変わるものではありません。
「親の熱意」がまず、何よりも大切だと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

聴衆と一体化する演奏

 映像は2004年夏、徳島県で行われた全国高等学校文化連盟総合文化祭徳島大会器楽・管弦楽部門の様子←長すぎる!(笑)
 演奏しているのは当時、神奈川県内の高校生で弦楽器を演奏する生徒たちを集めた「合同弦楽オーケストラ」です。チャイコフスキーの弦楽セレナーデ終楽章に続き、間髪入れずにミュージカル「ヘアースプレー」の2曲を演奏。
 全国から集まった「器楽・管弦楽」を愛好する生徒たちの発表の場ですが、多くの団体はクラシックを演奏していました。そんな中で「ミュージカル」を演奏することに、当の神奈川県の生徒たちは演奏前、若干不安そうな表情でした。
「思い聞いて弾こうぜ!責任は俺がとる!」と本番直前、調弦で誘導された部屋で生徒たちに大見得を切りました(笑)
 チャイコフスキーの演奏は会場の高校生たちにとって「普通」だったかも知れません。ただ演奏する弦楽器の後ろに「ドラムセット」「ティンパニ」が…
演奏する生徒もチャイコフスキーの時から座っています。
 弦セレが終わって、会場に向き直り拍手を頂き「振り返りざま」タクトをあげる「打ち合わせ」通りの進行でした。
 クラシック音楽の余韻が覚めない間に「ドラムセット」の音とティンパニさらにピアノも加わった「異次元の世界」に突入しました。
 ヘアースプレーのメドレーには、ゆったりした部分もあり弦楽器ならではの美しい音色も聴けます。短いながらヴァイオリンのソロもあります。カメラがぎりぎり追い付いています(笑)ドラムのソロはカメラが追いきれなかったようですが。
 最後は会場の高校生の手拍子を「あおりました」と言うのが正解(笑)
引率していた神奈川県教員も「多分、あれはやると思いました」と。
さらに、終盤ですべての拍に手拍子を求める指揮者。「まさかあそこまでやるとは思わなかった」と先述の教員から言われました。
 演奏直後、会場のどよめきを感じました。それは「へー!」「これもアリなんだ!」「すっげー!」に聴こえた気がします。音楽…弦楽アンサンブルは「クラシック」と言う先入観が子供たちにも多くあったように思います。
 どんな音楽でも、本気で演奏すれば難しい。聴いて楽しい。弾いていてうれしい。それを実際に伝えられた気がしました。
 この時の12月に20年間の教員生活に終止符を打ちました。この徳島大会は教員として最後の「大舞台」でした。実はこの年の夏に、メリーミュージックを地元の駅前に立ち上げていました。自分にとって第二の人生の「場所」を作ったのがこの頃です。もちろん、その事は誰にも言っていませんでした。生徒たちにも。
この大会に、勤務していた学校のオーケストラ単独で演奏していたら、もしかすると学校をやめていなかったかもしれません。それは誰にも分かりません。
 ただ、この時までに自分が教員として出来ることは、出し切っていたように感じていました。これ以上の「行先」を感じられなくなっていたのかも知れません。頭の中にあったのは「自分がやめるとオーケストラの部員たちにどうやってつたえるのか」そして「その後はどうなるのか」という事でした。
 生徒たちを見捨てることになるのは分かっていました。
ただ私でなくても、この先はオーケストラの運営は出来るとも思っていました。
生徒たちが混乱することも。そんなことを考えていましたが、学校の管理職をはじめとする教員たちには想像もできないこと。「すぐにあなたの代わりは見つかりますから」と言い切った学校長。無理だって(笑)案の定、誰も引き受け手がおらず「退職を待って」と頭を下げられました。意味不明な管理職様。
 演奏は演奏者と聴衆が一体になることが理想です。
同じ空間で、同じ時間を共有する人たちが「音楽」でつながる一体感。
これこそがライブの醍醐味です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ホームコンサートご依頼ください

 映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。
 コロナの制約も解除され、コンサートも昔のように(とはいきませんが)再開されています。
 私たち二人の演奏活動も一時期は影響を受け「延期に次ぐ延期」がありましたが、ようやく通常の開催に戻すことができました。
「ホームコンサート」と言うと大げさに感じますが、皆様の御自宅や公共のスペース、あるいは演奏のできる飲食店などで「オーダーメイドのコンサート」が開けます。演奏は私たち夫婦二人。ヴァイオリンとヴィオラを持ち替えながら、ピアノと一緒にリクエストにお応えしながら好きな曲だけ演奏いたします。
 会場にピアノや電子ピアノがあればもっとも理想的です。アップライトのピアノでも問題ありません。電子ピアノは鍵盤が「88個」あるものなら大丈夫です。
 どうしてもピアノや電子ピアノがない場合にでも、私たちの電子ピアノとアンプを持ち込んで演奏することもできます。数人程度を対象にした演奏から、100人以上のお客様に聴いていただくための音響装置も持参できます。
 福祉施設や病院のロビー、保育園、幼稚園などでも演奏しています。
大手の音楽事務所と違い私たちが経営する音楽事務所ですので、圧倒的に安価なコンサートが可能です。
 お父様やお母様への感謝を込めてご自宅で「好きな曲だけコンサート」も可能です。実際に以前お伺いしたお宅では、ご自宅で療養中のご家族の前で、ご本人の好きな曲だけを目の前で演奏させていただき、大変喜んで頂くことができました。
 私たちの住む相模原市緑区を中心に演奏を行っていますが、毎年長野県木曽町でのコンサートも実施しています。
 実際に必要になる費用については直接お問い合わせください。
042-771-5649 メリーミュージック。もしくは私の携帯
090-3595-1736 までお問い合わせください。メールでも構いません。
office@merry649.com
皆様の笑顔のために心を込めて演奏します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音の「連結部」に注目する

 動画はシャミナーデのスペイン風セレナーデの楽譜動画です。
視覚障碍でも少し見える自分が今、出来る暗譜方法は画面の楽譜を覚えていくことです。
 さて、今回のテーマは音楽を演奏する時に「音の連結部」を意識するお話です。当たり前ですが、たくさんの音が連続して演奏されるのが音楽です。その一つ一つの音と音の「つなぎめ」を考えるものです。
 音と音の間に「休符」や「間」がある場合もあります。その場合には、最後の音の「終わり」と次の音の「出だし」、さらに音のない「時間」をどうつなぐのか?も連結部です。音がないからと言って音楽が「止まっている」とは限りません。
 当然、次の音との間に「間=ま」がない=連続している場合がほとんどです。
「レガート=スラー」で二つの音の間を切れ目なく演奏する場合でも「変わり目」があるはずです。はっきり変わる場合もあれば、意識的に「ぼやかす=ディゾルブ」して変わる場合もあります。ヴァイオリンの場合ポルタメントやグリッサンドも「つなぎ方」の一つです。一つ目の音の終わり方も様々。弱くしていく場合もあれば、弦楽器や声楽・管楽器ならば「同じ音量のまま」や「だんだん大きくなって」次の音につなぐこともできます。前の音の終わりより小さく、次の音を弾き始めることもできますし、アタックをつけたり、大きくして始めることもできます。
 音量だけではなく「音色」のつなぎ方も注意深く観察するようにします。
ほんの少しの音色の変化…例えば弦が変わることもあるし、ポジションが大きく変われば音色も変わります。
 弦楽器の場合「弓を返す」場合には、原則的に同じ場所で「動く方向が変わる」わけですから、弓の圧力と速度を変えなければ同じ音色で次の音が出せます。
 一方でスラーで演奏した場合でも、次第に弓の場所が変わっていきますが「変わり目」は一点になるはずです。移弦した場合、数ミリですが弦と弓の毛の接点が変わります。弓が動いている限り、弓の毛の「どこか」が現に触れて発音していることに注目すべきです。2本の弦を同時に演奏する「重音」の場合でも、一つ一つの弦を擦っている弓の毛は「ふたつの点」であり「面」ではないのです。2本分の弦の「隙間」が仮に8ミリだとしても、音を出しているのはふたつの「点」なのです。
 話がそれましたが、音の変わり目=連結部を大切に練習することで、音楽が変わっていきます。
 ぜひ「連結部」に注目して練習してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

誰もが「天才」誰もが「地球に一人」

 映像は私が初めてヴァイオリンの発表会に出させていただいた時の演奏。中学2年生の冬。銀座ヤマハホール。ハイドン作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。以前にも書きましたが「突っ込みどころ満載」のあぶなかっしい演奏です。
演奏しているバイオリンは今も使っている楽器です。と言うより、62歳の今までヴァイオリンはこの楽器しか「パートナー」ではありません。
 さて、今回のテーマはすべての人が、他の誰とも違う人間であることを考えるお話です。
 仮に将来、クローン人間が誕生したとしても、感情は別のものになる「はず」ですから、同じ生命体は二つ存在しえないことに変わりありません。
 「五体満足」と言う言葉がありますが、五体満足でなくても立派な「人」です。当たり前です。病気や事故で身体が不自由になったとしても、その人が違う人になったわけではありません。
 「健康体」「健常者」と言う言い方もありますが、本当に?と思う事があります。現代の医学・科学では判断できない病気もあるはずです。現実に100年前には「病気」と思われていなかった「病気」も数知れずあります。治療法がない病気が未だにある事も「医学が完全打はない」ことの照明です。人間の身体は2023年の今でも「未知の物体」ともいえるのです。
 音楽を演奏する「楽しみ」を感じられるのは、特別な人だけでしょうか?
「ヴァイオリンは難しい」「打楽器は叩くだけだから簡単」「歌はだれでも歌える」よ~く考えるとぜんぶ「うそ」ですよね。「誰にでもできる」事なんて、実は何もないのです。事実、呼吸をする事が難しい人もたくさんいます。心臓を動かし続けることが難しい人も世界中にいます。「簡単」「当たり前」と思う事は人によって違うのです。逆に言えば、難しいと感じることもみんな違います。
 「天才」「神童」は特別に優れた人を指し示す時に使われますが、文字通りに考えるなら人間すべてが「天才=天賦の才」を持っていますし「神(仏でも)選ばれた童(わらべ)」もすべての人間に言えることです。
 誰かより優れているとか、特別なことができるとか「優位性」があることを人間は「うらやましい」「ねたましい」と思うのですね。だから「あの人は天才だからできる」とか「あの子は神童だから特別」と、無意識に自分や自分の子供を「普通の人・普通の子供」と思おうとしています。そんな必要なないのに。
 楽器の演奏が「うまい」か「うまくない」かは誰にも決められないことです。
さらに言えば「誰が一番」を競う事も音楽の世界では無意味です。強いて言うなら「全員が唯一無二の演奏家」なのです。
 他人と違う事を「嫌がる」人種でもある日本人(笑)
・みんな(本当は嘘)がやっているから自分もやる。
・みんな(本当は嘘)がやることはやるのが正しい。
・みんな(本当は嘘)より劣っていると思われたくない・思いたくない。
自分の存在を考え直すことで、演奏を楽しめるなら…と思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 映像は私が初めてヴァイオリンの発表会に出させていただいた時の演奏。中学2年生の冬。銀座ヤマハホール。ハイドン作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。以前にも書きましたが「突っ込みどころ満載」のあぶなかっしい演奏です。
演奏しているバイオリンは今も使っている楽器です。と言うより、62歳の今までヴァイオリンはこの楽器しか「パートナー」ではありません。
 さて、今回のテーマはすべての人が、他の誰とも違う人間であることを考えるお話です。
 仮に将来、クローン人間が誕生したとしても、感情は別のものになる「はず」ですから、同じ生命体は二つ存在しえないことに変わりありません。
 「五体満足」と言う言葉がありますが、五体満足でなくても立派な「人」です。当たり前です。病気や事故で身体が不自由になったとしても、その人が違う人になったわけではありません。
 「健康体」「健常者」と言う言い方もありますが、本当に?と思う事があります。現代の医学・科学では判断できない病気もあるはずです。現実に100年前には「病気」と思われていなかった「病気」も数知れずあります。治療法がない病気が未だにある事も「医学が完全打はない」ことの照明です。人間の身体は2023年の今でも「未知の物体」ともいえるのです。
 音楽を演奏する「楽しみ」を感じられるのは、特別な人だけでしょうか?
「ヴァイオリンは難しい」「打楽器は叩くだけだから簡単」「歌はだれでも歌える」よ~く考えるとぜんぶ「うそ」ですよね。「誰にでもできる」事なんて、実は何もないのです。事実、呼吸をする事が難しい人もたくさんいます。心臓を動かし続けることが難しい人も世界中にいます。「簡単」「当たり前」と思う事は人によって違うのです。逆に言えば、難しいと感じることもみんな違います。
 「天才」「神童」は特別に優れた人を指し示す時に使われますが、文字通りに考えるなら人間すべてが「天才=天賦の才」を持っていますし「神(仏でも)選ばれた童(わらべ)」もすべての人間に言えることです。
 誰かより優れているとか、特別なことができるとか「優位性」があることを人間は「うらやましい」「ねたましい」と思うのですね。だから「あの人は天才だからできる」とか「あの子は神童だから特別」と、無意識に自分や自分の子供を「普通の人・普通の子供」と思おうとしています。そんな必要なないのに。
 楽器の演奏が「うまい」か「うまくない」かは誰にも決められないことです。
さらに言えば「誰が一番」を競う事も音楽の世界では無意味です。強いて言うなら「全員が唯一無二の演奏家」なのです。
 他人と違う事を「嫌がる」人種でもある日本人(笑)
・みんな(本当は嘘)がやっているから自分もやる。
・みんな(本当は嘘)がやることはやるのが正しい。
・みんな(本当は嘘)より劣っていると思われたくない・思いたくない。
自分の存在を考え直すことで、演奏を楽しめるなら…と思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

短い音・長い音

 映像はポルディーニ作曲「踊る人形」
軽く、動きのある音楽という印象です。「短い音」「長い音」の定義ってあるでしょうか?
 楽譜で表される「音符・休符」は全音符と全休を「1」として、2分の1が「2分」さらに2分の1が「四分」さらに「八分」「16分」「32分」と「短く」なっていきます。同じテンポで演奏していれば、四分音符は16分音符の「4倍の長さ」です。
 一方で「秒」と言う長さの単位で考えた時、四分音符は「〇〇秒」と決まっていません。仮に四分音符を「1秒」とすれば、二分音符は2秒、16分音符は「4分の1秒=025秒」になります。四分音符を3等分にした「三連符」の長さは?
3分の1秒が三つ。0.3333333…秒(笑)割り切れません。
 さて、音楽の「速い」「遅い」と感じる私たちは、なにを基準に速度を感じているのでしょうか?冒頭の動画は「短い音符」が連続していますので「速い曲」と感じる人もいますし、子供なら「ふつう」(笑)と答えそうです。

 映像はサン・サーンス作曲の白鳥。オリジナルはハープとチェロの独奏で演奏されますが、ここではヴィオラとピアノで演奏しています。
 ピアノは16分音符で動き続けます。主旋律は4分音符2分音符が多く、細かくても8分音符です。この曲、ゆっくり=遅く感じますよね。
 人間の感じる「ゆっくり」は一般的に脈拍より遅い場合に「遅い」と感じることが多いようです。静かに横になっている時の脈拍は一分間に60~80程度です。つまり1秒に一回程度の「音」だとゆっくり感じます。
 歩く時の速さは、通常ゆったり歩く感じだと一分間に90歩程度。
後進をするときには一分間に約120歩。つなり1秒間に2歩歩く速さだと「元気な感じ」に思えるわけです。
 先述の通り音符の種類は、楽譜を見てみなければ判断できません。
ゆっくりした曲でも全部が16分音符で書かれている場合もあります。
逆に2分音符と4分音符だけの楽譜でも「速く」演奏すれば速い音楽に聴こえます。
 演奏する時に指定されている速度に縛られる人がいますが、あまり賢明な方法だとは思いません。むしろ、作曲者が感じる速さを「参考」にする程度に考えるべきだと思っています。
 音楽の速さと音符の長さ。感じる速さと楽譜の関係など、私たちは「時間の流れ」を無意識に感じています。待たされている時には1分が長く感じます。それが人間です。演奏は「時間と共に流れる音の芸術」です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分のスタイルを貫くこと

 映像は長野県木曽町のコンサートでアンコールに演奏した「ふるさと」です。
会場のお客様の歌声もうっすら聴こえる素敵な映像になりました。
今回のテーマである「自分のスタイル」とは、見た目の問題ではありません(笑)人間、年を重ねれば用紙が変わるのは当たり前です。着るものの好みも変わります。「スタイル」というより「ポリシー」と言うべきかもしれません。
 どんな音楽を、どんな風に演奏したいのか?と言う演奏者の趣向でもあります。クラシック音楽を演奏する人にとって「楽譜の通りに演奏する」ことは基本の一つです。楽譜の通りに演奏しても、演奏者によって、また演奏する時によって「同じ演奏はない」のです。たとえ、誰かの演奏を完璧に近く真似して演奏できたとしても「同じ」にはなり得ません。その意味で「誰かのスタイルを真似する」演奏もあって良いのだと思います。
 事実、次回のリサイタルで新しくひとつの楽曲を演奏しようとしている私の場合、Youtubeでありとあらゆる演奏を見て、聴いて参考にします。それらの中に素直に「好きだなぁ」と感じる演奏もあります。どうやって?演奏したらこうなるのかな?と考えて試してみたりもします。ただ、ほとんどの場合「自分らしくない」ことに行き当たります。いいなぁと思った他人の演奏を、自分が演奏しようとすると「全然良くない」のです。はてさて困った(笑)
 自分の演奏スタイル…好きな音楽・好きな演奏って文字にするとどんなもの?
1.多くの人が演奏していない曲
2.初めて聴いても懐かしさを感じる曲
その音楽を
1.自分の好きなように演奏する
2.聞いてい頂く方が喜んでくれる演奏を目指す
ことです。それだけです(笑)
もちろん、多くの人が演奏している「有名な曲」も演奏します。人が演奏しない曲を選んでいるわけではありません。ただ「比較される」ことが嫌なのだと思います。もちろん自分自身がそうであうように、誰にも「好み」があります。好みがあるという事は「好みでないものがある」事を意味します。一種類しかない=選択の余地のない」場合には、比較の使用がありませんから好みか?好みでない亜k?判断できません。同じ曲でも自分が「個性的な演奏」をすれば良いのですが、個性を出そうと意識すれば不自然な音楽になりがちです。他人と違う表現をしようと無理をしても、誰かの真似をしても結局は「自分の好きなように」演奏していない自分に気が付きます。
 上の動画のふるさとは、おそらく誰もヴァイオリンやヴィオラとピアノで演奏していない「アレンジ」です。それが私の「好きな曲」の要素でもあります。
下の映像も同じくヴィオラで演奏しているのは多分(笑)世界中で私だけかな。

 どちらも村松崇継さんの作曲された曲です。EARTHはフルートとピアノのための楽譜、いのちの歌は弾き語りの楽譜を元に浩子さんと二人で考えてアレンジしたものです。私たちは作曲家でもなく、その勉強もしていない素人です。ただ、二人で15年以上…学生時代も入れればもっと(笑)一緒に音楽を演奏してきた時間の中で、お互いの「好きな音」「好きな演奏」が似通ってきているように感じています。

 こちらは昨年秋の演奏。美しきロスマリン。言わずと知れたフリッツ・クライスラーの代表作の一つです。多くのお客様が「聴いたことがある」と言う曲をプログラムに組み込むことも私たちの「スタイル」の一つです。
 自分(たち)の好きな演奏…これが一番難しいことですね。
私が最近の演奏の中で「ふたりとも好きな演奏が出来ている」と感じた演奏の一つが下の映像です。

デュオリサイタル14で演奏したピアソラの「アヴェ・マリア」です。
どこが?どう好き?と書こうとしても…(笑)なんとなく好きなんです。
自然にこうなった演奏。本番の前日までふたりで「あ~でもない。こ~してみようか」と考えて当日演奏したのは「打ち合わせにない」自然な演奏だったような気がします。聴いてくださる方にとって「初めて聴く曲」を、演奏する側が「マンネリ」で演奏するより、演奏する側も「初めて出会う曲」と感じながら演奏できたのかもしれません。
 長々書きましたが、結局「自分のスタイル」はいたってシンプルだと気付くようになりました。自分らしい演奏ができれば良いのです。
好きこそものの上手(じょうず)なれ
楽しんでやることによってうまくなるものであるということ、又は、あることに熟達するには、それを楽しめるようになることが肝要であるということ。

 好きな音楽を好きなように演奏する「だけ」を心が得て演奏します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「リスクとリターン」

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会で演奏したラヴェル作曲「ボレロ」アマチュアもプロも、子供も高齢者も一緒に演奏し、障碍のある人も小さな子供連れでも一緒に音楽を聴くことのできるこの演奏活動を20年以上続けながら、いつも考える「リスクとリターン」
 一般的に「ハイリスク・ハイリターン」「ノーリスク・ノーリターン」と言われます。だからとって、リスクの有無だけがリターンを決めるわけではありません。さらにどんなに小さなリスクであっても「危険」と思われるなら実行すべきではありません。
 音楽を演奏する人にとって、ノーリスクという場面はあり得ません。
人前で演奏することにどんなになれている人であっても「失敗するリスク」をゼロにすることは不可能です。演奏に失敗することを避けるなら、演奏しなければ良いことです。では人前で演奏することで、なにが得られる(リターン)のでしょう?
★演奏を聴く人の喜び・感動・癒し
★演奏する人の満足感・達成感
当然「お金」のことも考える必要があります。
★入場料・チケットの金額に対する納得感=聴く側
★演奏会開催に係る経費と収入=収支=開催する側
 聴く側も演奏する=開催する側も、それぞれに「期待」と「結果」があります。期待は「演奏の前」結果は「演奏のあと」ですから、リスクがあるとすれば演奏前に感じるもので、リターンはその結果で得られるものです。
 その意味で考えると「練習」の量と質も一種のリスクを伴っています。
練習が足りなければ、失敗するリスクが高くなります。当然得られるものも少なくなります。
練習に「満足」や「絶対値」はありません。どんなに練習したとしても不安や不満は残ります。不安と不満が「ゼロ」になるまで練習する…そうなるまで人前で演奏しないことは、「人前で演奏しない」事と同じです。
 完璧な準備はどんな場面でも不可能です。普通に生活していても「リスク」をゼロにすることはできません。そのリスクを最小限にする「最大限の準備」をするしかありません。
 音楽を演奏することは、本来楽しいことです。聴くことも楽しいことです。
その楽しみを「さらに大きな楽しみ」にするために、演奏する人は最大限の準備をします。聴く側はその準備に関わらず期待します。これが現実です。どんなに練習していようと、期待されていない演奏もあります。
逆に準備の足りない演奏会であっても、聴く側の期待は変わりません。
同じ演奏を聞いても、聴く人によって「満足感=リターン」が違います。
 一人でも多くの聴衆が楽しめるように準備するのが、演奏する側の「おもてなし」です。
 演奏する側は、聞いてくださる方の「良い結果=満足感」を第一に考えて演奏するべきです。自分の「満足感」も大切ですが、あくまでも会場で聴いてくださる人の立場を考えて演奏するべきだと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介