写真は母と兄と私です(笑)父が撮影しました。
おそらく北海道札幌に暮らしていたころです。
銀行員で転勤ばかりだった父と専業主婦の母。
勉強とスポーツを父からスパルタでたたきこまれた兄。
0才の時に心室中隔欠損が見つかり「この後生きられる可能性はよくて5割」と言われていた私。この写真当時は心臓の穴は自然にふさがったものの、病弱なこどもでした。この数年後、4歳ごろに社宅の玄関で自分の靴を手探りしている私をみて「何をしているの?」「くつさがしているの」と言うことで、網膜色素変性症が発覚しました。薄暗い場所で見えない「夜盲」がこの頃からあったのです。
小学校1年生の時に、扁桃腺を切除する手術をしてから、すっかり熱も出さなくなりました。おそらく大きく体質が変わったのだと思います。
小学校1年生で岡山の倉敷に移り、そこで始めたヴァイオリン。
両親ともに音楽を聴くことは好きだったようですが「楽器が弾ける」人たちではありませんでした。小学校2年生の終わりごろに、東京都杉並区荻窪の社宅に引っ越し。その後小学校5年生、10歳の時に東京都小金井市に父が念願だったマイホームを建てました。その時期、恩師久保田良作先生のお宅を訪ね、弟子入りをお願い。当時奥様でヴァイオリニストだった由美子先生に指示することになりました。
…こうして考えると?そうです。杉並区の荻窪時代の数年間、ヴァイオリンを習っていなかったようです(笑)あれれ???
どうして両親が「また」ヴァイオリンを私に習わせたのか、今となっては永遠の謎ですが、少なくとも私が「習いたい」と言ったことはあり得ないので(笑)暇そうだったから…だと推察します。
その後も、ヴァイオリンは好きでもなく、レッスンで言われたことをちょろっと練習するだけで次のレッスン。やる気なんてなかったはずです。
「やめさせなかった」両親の思いは不明ですが、おそらく自分から「やめたい」とも言わなかったのだろうと思います。兄は勉強もできてスポーツも万能でした。「兄への対抗心」だったのかも知れません。
中学生になって、由美子先生から良作先生にレッスンが変わりました。
まさに「1からやり直し」のレッスン。途端にやる気が!
出るはずもなく。相変わらずです。ただ、中学校で出会った「合奏」つまり「クラブ活動」で「すごーい!」「ヴァイオリン習ってるの?」「楽譜読めるの?」
先輩からもチヤホヤしていただき(笑)、音楽の友人もできてヴァイオリンは「楽しみのための道具」になりました。
中3で音楽高校受験体制になるまで、ゆるーい部活動とチンタラ練習をして過ごしました。その時も両親は「やめろ」と言ったことはありませんでした。
自分がヴァイオリンを教える仕事に就くことは、子供の頃考えたこともありませんでした。暗い場所で見えない自分が、普通の大人になれるのか?生きていけるのか?無理なのか?そんな不安が付きまとっていました。
両親は私が大学を卒業するまで毎年「目の検査」の為に半ば強制的に私を病院に連れて行きました。はじめは渋谷にあった「国立小児病院」その担当医だった植村先生が慶應義塾大学病院に移られたことをきっかけにそちらに。岡山の頃は紹介で岡山大学病院。とにかくつらい思いでしかありませんでした。
毎回、瞳孔を開く目薬で半日かかって帰る時にも、視界は白い靄の中。
何度も「なぜ?治らないのに病院に行かすんだ!」と喧嘩もしました。
親の心、子知らず。とはこのことですね。
たくさんの小さな生徒さんたちと、そのお母さんやお父さんと出会ってきた中で「親の役割」を強く感じます。親は子供の「成長を見守る」だけでは足りない気がします。「支える」「押し出す」「引っ張る」「励ます」要するに積極的に子供に関わることが時代と共に減ってきている気がします。
確かに「子供の人生は子供のもの」です。子供が大人になった時、初めて両親に感謝するものです。どんな親も元は子供です。だから今「親」でいられるのです。自分の子供を「ただ見ている」だけなら、親でなくてもできることです。
子供を引っ張ること、背中を押すことは責任を伴います。それを恐れる親が口にする言葉「子供が嫌がっているので」いかにも子供が音楽を嫌いだからやめさせてあげる…と聞こえますが、実は自分が自信を無くしているのだと思います。
辞めさせる方が楽です。子供もその時は「遊べる!」から喜びます。
それを繰り返したら、子供には何が残るのでしょうか?親として、何を子供に残せたのでしょうか?
子供が大人になって、音楽から離れたとしても、それこそが「子供の人生は子どもが決める」ことです。子供の間は、親の「意思」がなければ子供に伝わりません。音楽は持って生まれた才能で変わるものではありません。
「親の熱意」がまず、何よりも大切だと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介