私が桐朋学園大学を卒業したのが1984年です。
「大昔の人」と言われて否定できない年齢になりました(笑)
先日、おそらく何十年ぶり(?)という位久しぶりに、音楽大学のオーケストラ演奏会を聴きに行きました。
大学の敷地の中に、立派なホールを持っている時点で驚きます。
ご存知のように私の母校「桐朋学園大学」にはホールがありません。
世界に名だたる演奏家を輩出した大学なのに、ホールがない!
私の在学していたころ、オーケストラの定期演奏会は「都市センターホール」でした。ごくまれに(数年に1度)国内に演奏旅行に行った記憶があります。
先日の定期演奏会を聴いた第一印象は、「あれ?こんな程度?」というちょっと残念なものでした。
期待過多…と言えばそれまでなんですが、演奏している学生(卒業生も多い)の個々の演奏技術が物足りないのか、それとも演奏会への意思が弱いのか?
9倍まで拡大できるウエラブルを使って見ていて、演奏者一人一人の演奏を見て確認できました。中には明らかに「音楽を理解している動き」の人もいました。一方でただ、弾いているだけの人がたくさん。これは、「見た目」の問題ですが肝心の「音」についても、管楽器・打楽器のソロは正直に言って、一般大学のオーケストラと比較してもお粗末な印象でした。ピアノコンチェルトの独奏者も、大きなミスは感じなかったものの「音大生」という印象は受けませんでした。
辛口!な感想ばかり書いてしまいましたが、ごめんなさい。
「昔はよかった」と言うつもりは毛頭ありません。
逆に「今はこんなもんだよ」と言われれば受け入れるしかありません。
老婆心で言えば、学生の音楽への情熱を感じられなかった原因を考える必要があると思いました。
「学生を一でも多く集める」
「入試のレベルを下げ、学生が入りやすくする」
「集めた学生が楽に卒業できるようにする」
「大学の知名度を上げるために知名度の高い音楽家を招く」
「校舎や施設(構内ホール)を整える」
このルーティンで学校法人は間違いなく運営できるでしょう。
ただ、学生の「質」が置き去りにされている気がします。
入試の敷居を下げることには異論はありません。
問題は、入学後「学ばなければ卒業できない」「学ばないと意味がないと感じられる」内容が伴っていない気がします。
学生それぞれの専攻によって「学ぶべきこと」は大学が決めることです。
学ぶべきことを学生に一任するのは正しいとは思えません。何が必要なのかを知らないのが学生なのですから。
そして、楽器を専攻する学生に対し卒業後「プロとして」通用する技術能力、知識を学ばせることを大学がしなければ、一般大学と何も変わらないと思うのは私だけでしょうか?
「趣味として」楽器を演奏するのであれば音楽大学で学ぶ必要はないと思うのは偏屈でしょうか?私は趣味の演奏を指導して生活しています。だからこそ、音楽大学では「専門的な指導」をしてほしいのですが。
誰でも入れて、誰でも出られる音楽大学
これが現代の音楽大学の「普通の姿」なのだとしたら、とても悲しい気持ちです。
もちろん、学生の中には本気で学び、プロを目指し、卒業後も研鑽を積んでいる人がいます。その人たちとの交流もあります。すべての音大生が「怠けている」とは言いません。「怠けていても指導しない音楽大学」に対しての意見です。
多くの音大指導者がお友達にいらっしゃるので申し訳なく思っています。
「音大は音楽を学ぶ大学」であってほしい!だけです。
メリーミュージック 野村謙介