音楽の「揺らぎ」とは?

 映像は木曽福島でのコンサートで演奏した瑠璃色の地球。ヴィオラとピアノで演奏しました。
 クラシック音楽とポピュラー音楽の「違い」は様々あります。例外も含めて考えれば厳密に「違い」を言葉にすることは不可能かもしれません。
 クラシック音楽を学ぶ時、テンポを「維持する」事と「揺らす=変える」事を多く学びます。一定の速さで音楽を演奏する技術と、その真逆に意図的に速さを変える技術はクラシック音楽のほとんど全てで用いられる技術です。一人だけで演奏している時にも、アンサンブルやオーケストラで誰かと一緒に演奏する場合にも必要不可欠な技術です。トレーニングの仕方も様々あります。メトロノームを使った練習や、時計の秒針を使ってトレーニングすることもできます。
 一方、ポピュラー音楽の場合に「一定の速さ」で演奏することは、多くの曲で「当たり前」の事です。その昔、レコーディングスタジオでヴァイオリンを演奏するお仕事をしていた際に、演奏者がモニター(ヘッドフォン)で聴く音を選べました。「ドンカマ」と呼ばれる電子メトロノーム音を選ぶこともできました。また、ヴァイオリンより先に録音されたドラムの音やベースの音を選択することもできました。要するに「指揮者不要」だったわけです。この方法で色々な楽器を順番に録音していく方法を「重ね録り」「マルチトラック」などと呼びます。一度に「せ~の!」で録音する方法しかなかった時代には、当然考え付かなかった録音方式です。この方法なら、それぞれの楽器を別々に録音するので「録り直し」の回数が格段に減る上に、あとからヴァイオリンパートだけをやり直すことも、音量のバランスを変えることも自由自在になります。すべての楽器の録音が終わって出来上がったもの=メインボーカルが入っていないものが「カラオケ」と呼ばれるものです。現在のカラオケと言う言葉は、この録音方式で生まれた言葉なのです。
 言うまでもなく、この方式で録音サウル場合、途中でテンポが「揺れる」のは編集する人にとっても、演奏する私たちにとっても「煩わしいことでしかありませんでした。現代は録音がすべて「データ」つまり電気信号としてコンピューターに記録される方式です。昔は「テープ」を使って録音するのが当たり前でした。一秒間に38センチの速度で録音ヘッドを通過する「テープ速度」で録音していました。巨大な10インチのリールに巻き付いたテープでも、約45分しか録音出来ません。録音するのも大変は事だったのです。
 その限られた条件での録音を効率化するためにも、テンポの揺れは「御法度」だったのポピュラー音楽です。

 クラシック音楽の場合、テンポの揺らぎ=揺れは演奏家の「こだわり」で生まれます。テンポを変えずに演奏する時にも「意図」があります。
なんとなく、テンポが変わってしまう…駈け出したように速くなったり、いつの間にか遅くなったり…無意識に変化することは「ダメ」とされています。だからと言って、先述のポピュラー音楽のようにテンポをキープさえしていればよいか?と言うと、それも「ダメ」なのです。難しいですね~(笑)
 音楽の揺らぎは、楽譜に書き表される「リタルダンド」や「アッチェレランド」とは根本的に違います。作曲家が指示している速度の変化は、作曲家の感じた「揺らぎ」だと考えています。もちろん、それはとても重要なことですが、どのくらい?「だんだん遅く」「だんだん速く」するのかは、演奏者の「感じ方」で決まります。さらに、楽譜に作曲家が書かなかった「揺らぎ」を演奏者が感じ、表現することは演奏者に許された表現の自由(笑)だと思います。
 指導者によっては「そこで遅くしてはいけない!」とか「もっと速くしなきゃ!」と生徒に自分の感じ方を押し付ける人がいます。正しく伝えるのなら「…私なら」という接頭語を付けるか「例えば」として違う選択肢の速さを生徒に示して、好きなように演奏させるのが正しい指導だと思います。合奏ではそうもいきませんが(笑)みんなが好き勝手なアッチェレランドをしたら、収拾がつかなくなります。二人だけのアンサンブルでも、それぞれに違った「揺らし方」の好みがあります。どちらが正しい…という答えは存在しません。歩み寄るしかありません。
揺らすことが常に心地よい…のではありません。それも大切なことです。
揺れると気持ち悪く感じる場合もあります。逆に、常に同じテンポで揺れずに演奏していると「不自然」に感じることもあります。多くの生徒さんは「揺らす」ことを怖がります。むしろ揺れていることに気付かない場合が多いのですが(笑)意図的に、ある「拍」だけを少しだけ長くすれば、次の拍が始まる時間は後ろにずれる=遅れます。この一拍の「揺らぎ」も立派な揺れなのです。
聴いている人が「自然に感じ」「揺れに気付かない」ことが最も自然は揺らぎだと思います。心地よい揺らぎは、例えれば不規則に吹く「そよ風」の中で感じる感覚です。あるいは、静かな湖面にぷかぷかと浮かんでいる時に感じる「静かなさざ波」にも感じられます。決して「暴風」や「大波」ではないのです(笑)
 怖がらずに実験することです。注意するのは「癖になる」ことです。例えば、小節の1拍目を「いつも遅く入る」癖は無意識にやってしまいます。また、音型に気を取られすぎる場合も「癖」が出ます。上行系クレッシェンドで「いつも遅くなる」のも癖。3連符なのに「1.5:1.5:1」でいつも演奏するのも癖です。
 何度も試してからひとつを選ぶこと。正解はありません。自分の「個性」を違和感なく表現するために、必要な努力だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタル15迫る

 動画はデュオリサイタル15のご案内動画です。
2022年12月18日(日)午後2時開演 相模原市緑区もみじホール
2023年1月7日(土)午後5時開演 代々木上原ムジカーザで
同じプログラムをホールとサロン、ベヒシュタインのピアノとベーゼンドルファーのピアノで聴き比べが出来ます。
予定している演奏曲
・懐かしい土地の思い出より「メロディー」(チャイコフスキー)
・ノクターン(チャイコフスキー)
・ただ憧れを知る者だけが(チャイコフスキー)
・シュピーゲル・イン・シュピーゲル(アルヴォ・ペルト)
・祈り(ラフマニノフ)
・彼方の光(村松崇継)
・ジョスランの子守歌(ゴダール)
・無言歌(メンデルスゾーン/クライスラー)
・明日(アンドレ・ギャニオン)
・Earth(村松崇継) 他
どの曲も私たちにとって、愛すべき曲たちです。
多くの演奏家と比べて、私たちはすぐに音楽に出来るような技術を持ち合わせていないことを自分でも、互いにも認めています。だからこそ、昨年のデュオリサイタルから1年間と言う時間をかけて、これらの曲に取り組んできました。
 それでも自分たちで完全に満足できる演奏にまで、到達できるかどうか自信はありません。出来ることを出来る限りしています。その努力も他のかたから見れば足りないものかも知れません。自分を甘やかす気持ちではなく「受け入れる」ことも大切なことだと思っています。
 生徒さんに「妥協」と言う言葉の意味をレッスンでお伝えしています。悪い意味で考えれば自分を追い詰めてしまいます。諦めることとも違います。今の自分の力を認め、足りないことを知った上で演奏をする以外に、方法はないと思っています。「完全に満足できるようなってから」と言う考え方こそが、諦めであり現実からの逃避だと思います。そもそも完全な演奏は人間にはできないと思っています。不完全で当たり前だと考えています。
 リサイタルで一人でも多くのかたに、自分たちの音楽を楽しんでもらいたいと願いながら、現実に来場されるかたの人数は、著名な演奏家の方々が開くコンサートとは比較になりません。当然だとも思います。広告にかけるお金もなく、知っている方の数も限られています。「お友達」「先輩」「先生」「生徒」以外の一般のお客様は、有名な演奏家のコンサートや、クラシックファンの喜ぶプログラムのコンサートに足を運ばれるのは当然のことです。来ていただいた方たちに「これだけしかお客さん、いないの?」と思われてしまうことが申し訳ない気持ちです。それが現実なのでお許しください。
 こんな私たちですが、ぜひ生の演奏をお聴きいただき、ご感想を頂ければと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
ピアニスト 野村浩子

客席で聴こえるヴィオラとピアノ

 映像は11月23日(祝日・水曜)に木曽町文化交流センターで開催されたコンサートよりヴィオラとピアノで演奏した村松崇継さん作曲の「Earth」
撮影してくださったの福島小学校の教職員。客席の片隅からビデオカメラで圧営してくださったものです。カメラに付いたマイクで録音されているので、客席に聴こえているバランスに近いものです。

 この曲について以前のブログでも書きましたが、村松崇継さんがフルートとピアノのために作曲され、ご自身のライブコンサートでチェリスト宮田大さんと共演されている動画に触発されて(笑)ヴィオラで演奏できるようオリジナルでアレンジして者です。宮田さんはご自身のコンサートツァーで演奏されているようです。ピアノの「楽譜」がとても音符の多い(笑)、かなり派手目な曲なので、弦楽器でメロディーを演奏すると、二つの楽器のバランスが心配でした。
 この動画をご提供いただき、改めて聴いてみると「思ったよりヴィオラが聴こえてる!」ことにやや驚きました。頑張らなくても大丈夫なのかも!って今更思う(笑)リサイタルでも演奏する予定なので、とっても有意義な動画になりました。
 うーん。それいにしても、私だけを撮影すれたのは辛い…。カメラのアングル的にピアニストが映りこまなかったようですが、鑑賞には堪えません。見ないで聴いてください(笑)

 こちらも同じコンサートアンドレ=ギャニオンの「明日」をヴィオラとピアノで演奏したものです。以前、ヴァイオリンで演奏したものですが、ヴィオラの太さ、暖かさ、柔らかさも好きです。間奏で私は何をしたものやら(笑)
 今回、リハーサル時にホールの響きを確認してくれる人がいなかったため、とても不安でした。残響が短い多目的ホールだったこともあり、客席に届く音がどうなのか…録音されたものを聴くことで初めてわかるというのも辛いものです。
 来年は「木曽おもちゃ美術館」の残響豊かなホールで演奏予定で、今から楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

●●記念オーケストラに物申す

 映像は1992年松本のキッセイ文化ホールでの「サイトウキネンオーケストラ」の演奏。このホールが出来たばかりのこの年、私の母校でもある桐朋学園創始者の斎藤 秀雄氏を偲んで開催された演奏会。1974年に逝去された斎藤 秀雄氏を私は直接存じ上げません。指導を受けたこともありません。ちなみに私は桐朋学園の第25期生です。小澤征爾氏が第1期生なので私の25歳「大先輩」でもあります。この演奏会が行われた30年前、私は32歳。小澤征爾氏は57歳。
高校大学生の頃に「小澤先生」として学生オーケストラの指導をされていた当時の事を今でも鮮明に覚えています。高校入学当時15歳の私、小澤先生は39歳。思えばまだ若い先生でした。出来の悪い学生だった私にとって、小澤先生の活躍は憧れでもあり雲の上の存在でもありました。尊敬する気持ちは今も変わりません。
 ただ、今現在もこの「サイトウキネン」が演奏を行っていることに、大きな違和感を持っています。私はサイトウキネンに「呼ばれる」ような技術ではないので「部外者」です。それを「ひがみ」と思われても私は構いません。桐朋学園の一人の卒業生として、また今も多くのアマチュア演奏家と共に音楽を愛好する人間として、私立学校の創始者をオーケストラの冠に付けて、演奏していることが果たして純粋な「恩師への感謝」と言えるのか疑問に感じます。
 桐朋の高校(桐朋女子高等学校音楽科)に入学する以前に、子供のための音楽教室などで斎藤 秀雄氏の指導を受けていた人もいるとは思います。とは言え、その人たちは当時13歳以下の子供だったことになります。つまり、斎藤 秀雄氏に指導を受けた「生徒」たちの最年少が現在(2022年)63歳もしくは64歳のはずです。一期生は現在、86歳もしくは87歳です。この第一回「サイトウキネン」が行われた当時から30年間という年月が経って、諸先輩が演奏されていることは素晴らしいことだと思います。その反面、現在演奏しているメンバーの中には多くの「斎藤 秀雄を知らない人」がいるのも事実です。第一回の演奏会の時から数名はそうした演奏者もいましたが、現在は?そして今後は?
 さらに、誰がこのオーケストラに参加する「お許し」を与えているのかという素朴な疑問です。「上手な人を集めているだけ」と言われればそれまでです。それが何故?「サイトウキネン」なのか意味不明です。一言で言ってしまえば「誰かのお気に入りが集まっているオーケストラ」にしか思えないのです。それでも演奏技術が高ければ良い…それならそれで「サイトウキネン」と言う学校名を連想させる名前を使うのはいかがなものでしょうか?
 桐朋学園同窓会の幹事として、意見を一度だけ発言したことがあります。
「卒業生の中で一部の人だけの活躍を称賛し、応援するのは同窓会として正しいのか?」という意見です。私を含めて、多くの桐朋学園卒業生が「サイトウキネン」や「●●周年記念コンサート」とは無縁の生活をしています。それが「能力が低いから」「努力が足りないから」と同窓会が片づけて良いとは思いません。
 学校は学ぶ生徒・学生と教える教員、支える職員で成り立つ「学びの場」です。そこで学んだ人たち、教えた人たち、働いた人たちすべてが「同じ立場」であるはずです。卒業し有名になった人を「優秀な卒業生」「卒業生の代表」とする発想を斎藤 秀雄氏は望んでいたのでしょうか?少なくとも私の知る斎藤 秀雄先生は「できの良い子は放っておいてもうまくなる。出来の悪い子を上手にすることこそが教育の本質」と考えていた教育者だと思っています。一期生である小澤征爾氏の世界的な活躍を強く望まれた気持ちは理解できます。そして、日本に世界で通用する演奏家を増やしたいと言う熱意も素晴らしいことだと思います。
 私には●●記念オーケストラや●●フェスティバルに「個人」を崇め奉るのは「尊敬」とは意味が違うように感じます。収益事業として利益を、母校の後進の育成に充てるのであれば「桐朋学園卒業生オーケストラ」として学校法人の管理下に置くべきです。メンバーの人選や基準、報酬も明確にすれば個人名を頭に付ける必要もなく、演奏者が入れ替わっても何も問題はないのです。
 まさかこれから先も、同じメンバーで演奏活動を続けるとは思えませんが、いずれ斎藤 秀雄氏に指導を受けた人は誰もいなくなる日が近くやってきます。「サイトウ」が「オザワ」になっても結果は同じです。
 音楽家は生前に、どんなに素晴らしい業績を残したとしても、いずれ世を去るのです。その後に、音楽家の名前を使った「コンクール」が多くあります。特に作曲家の場合には、残された作品を演奏することが大きな意義になります。
他方で演奏家の死後に「●●記念」や「●●管弦楽団」は世界的に考えても、ほとんど受け入れられていません。演奏家の「業績」は生きて演奏している間に評価されるものです。教育者の業績は多くの場合「学校」として継承されるものです。福沢諭吉の慶應義塾もその例です。桐朋学園もその一つです。斎藤 秀雄氏が自分の名前を学校名にしていたのなら、また話は少し違いますが少なくとも「オーケストラ」に個人…それが故人でも、現役の人でも「人を記念する」こと自体が間違っていると私は感じています。
 卒業生の癖に!母校愛がない!とお叱りを受けても、ひがみ根性だ!と言われても私は自分の考えでこれからも生きていきます。そして卒業した母校から、さらに新しい音楽家が生まれることを切に願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介