Earthをヴィオラで演奏すると

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山で演奏した、村松崇継氏の作曲された「Earth」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 原曲はフルートとピアノのために書かれているものです。
さらにその曲を作曲者のライブでチェリスト宮田大氏が素敵な演奏をしている動画を見て、どうしても二人で演奏してみたくなり、ヴィオラで演奏できるように、自分たちでアレンジしたものです。
 演奏は未熟ですが、この曲の持つ「守るべき地球」「人間の強さと優しさ」を感じながら演奏しました。村松崇継さんの楽曲は、いのちの歌、彼方の光も演奏させて頂いています。本当に素敵な曲を作られる邦人作曲家だと尊敬しています。
 本来フルートで演奏するために書かれた曲を、ヴィオラやチェロで演奏することを「邪道」と言う人もいます。ただ、演奏する人が「素敵な曲だから弾きたい」と思う気持ちに嘘はないと思います。それを聴く人の感性もまた、楽器にとらわれるものではありません。
 これからもたくさんの曲と出会えるのを楽しみにしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

線対象の音楽

 アルヴォ・ペルトが作曲した「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳せば「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。映像は、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
 この曲は「ラ=A」の音を中心にして「上下対象」に音楽が作られています。
「ソ↑ラ」に続き「シ↓ラ」
「ファ↑ソ↑ラ」「ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↑ラ」「シ↑ド↑レ↓ラ」
と段々にラの音からの「距離」が上下に広がります。
「レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↑ラ」「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↓ラ」
「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ↑ラ」「シ↑ドレ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ↓ラ」
「ソ↑ラ↑シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「シ↓ラ↓ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
ただそれだけ(笑)しかもすべての音符が付点2分音符(3拍伸ばす音)かその2倍の長さの音符。子供でも初心者でも弾けそうな感じですよね。
 実際に演奏する場合、楽譜を見ながらなら恐らく問題なく?演奏できると思います。
 私は視力が悪く楽譜を見ながら演奏できなくなって「暗譜」ですべての曲を演奏しています。当然、この曲も。演奏しながら、自分が今、どこを弾いているのか?迷子になってしまいます。
 色々な「覚え方」を組み合わせて記憶しています。さらに長く伸ばす「ラ」をダウンで演奏したいので、弓順も併せて記憶します。
 こんな面白い音楽を考え付いたアルヴォ・ペルトさんてすごいです!
ちなみに、向かい合わせた二つの鏡に映った鏡の中には、また鏡が映り、その中にさらに鏡が…
そんな光景を想像すると不思議な世界を感じます。永遠に続く「鏡」の画像…
ただし、演奏しながらや、譜めくりしながらそれを考えると、まず間違いなく「おちます」のでご注意を!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の挑戦

 2022年12月18日(日)相模原市緑区のもみじホール城山で、私と妻浩子のデュオリサイタル15を無事に開催することができました。
 ここ数週間、自分が慣れ親しんだ構え方を見直し、大きな(自分としては)改革をしました。結果がどうであれ、自分にとって正しいと思ってきたものに手を入れることには勇気が必要でした。リスクも考えました。「いまさら」と言う気持ちが心を支配しそうになりながら、「いまだから」と言う気持ちで取り組んでみました。
 リサイタル当日までに、自分の筋力の疲れをコントロールしながら、出来るところまで…と言うのが正解ですが、やれることをやった気持ちでいます。
 当然のことですが、楽器の構え方=持ち方=姿勢を変えることは、自分の音の聴こえ方もピアノの聴こえ方も大きく変わります。これが「良い選択」だったのか?は誰にも判断できません。むしろ、自分自身で冷静に観察し続けるしかありません。少なくとも、今まで使って来なかった筋肉がパンパンに(笑)張っていることを考えると、自分の考えていた演奏方法に近かったことは事実です。

 プログラム中の7曲目に演奏したゴダール作曲「ジョスランの子守歌」
ホールの空調(暖房)が弱く、この1曲前が終わったときに、温度を上げてもらうようにお願いした直後の演奏で、まだ左手指が攣りかけています(笑)
 練習で思ったようにはひけていませんが、「目指していたこと」には少し近づいた気がします。特に演奏しながら自分を観察する「引き出し」を増やせたことは、演奏しながら感じていました。おあまりに多すぎて(笑)すべては書けませんが、右手の親指、小指の位置、重心、左手の親指、手首の力、左ひじの位置、楽器と首の接触部、鎖骨下筋と肩当ての接触、背中の筋肉の使い方、膝の関節などなど…。最終的に「音楽」については、自分の記憶にあるボウイング、フィンガリング、テンポ、音色、音量を「その場」で考えながら演奏しました。
 まだ、完全に自分の身体に音楽が入っていない曲でもあり、不安な要素は多々あります。傷もたくさんあります。それでも「やりたかったこと」の一部は達成していました。

 こちらは、ヴィオラで演奏したメンデルスゾーン作曲の無言歌。以前、ヴァイオリンで演奏したことのある曲ですが、ヴィオラで挑戦しました。構え方を変えれば、ヴィオラの音色も以前とは変わります。これも依然と比べ、どちらが良い?とは今の段階で判断できません。陳昌鉉さんの楽器特有の「甘さ・柔らかさ」はそのままに活かしつつ、強さと明るさ、音色のヴァリエーションを増やすことを意識しています。まだまだ練習が足りないのは否めません。

 こちらはアンコールで演奏したシューベルト作曲のセレナーデ。ヴァイオリンで演奏してみました。いつもの私なら迷わず「ヴィオラ!」な曲ですが、今回敢えてヴァイオリンで低音の響きにこだわりました。大好きな曲なのに、実は今回二人が初めて演奏した曲です。歌曲ならではの「フレーズ」を壊さずに演奏することの難しさを感じます。

 来年1月7日(土)代々木上原ムジカーザでのリサイタルでは、同じプログラムをサロンの豊かな響きとベーゼンドルファーの太く柔らかい音色で演奏します。
 それまでに私たちが出来ることを「できる範囲で」やってみます。
お聴きになる方にとって、演奏者の「努力」は関係のないことです。
演奏者のどんな言い訳も通用しません。ただひたすらに「楽しめる演奏」を目指したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタルに思う

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 写真は「昔々あるところに…」(笑)古い写真でごめんなさい。
今回のリサイタルで15年目。その年月の長さを考える時に、自分たちの生きてきた「年月」との比較して約4分の一という「割合」になることに、ちょっとびっくりします。私がヴァイオリンを習い始めてから約55年。浩子さんは…ご想像にお任せします(笑)。とは言え、二人ともそのすべての年月、楽器に向き合えたわけではありません。確かに幼いころから楽器を習っていた…ことは間違いありませんが、だからと言って音楽だけに向き合えたとも言えません。ほとんどすべての「音楽家」がそうだと思います。

 二人でリサイタルを…と思い立ってから今日までも、様々な経験を重ねてきました。もちろん、それ以前の「音楽」への向き合い方もそれぞれに違いました。
 その時が私にとって、何度目かの「スタート」になることを、当時はぼんやりとしか考えていませんでした。ヴァイオリンから否応なく離れていた長い年月から「リサイタル」と言う演奏活動に復帰するまでに、実に28年年の年月が経っていました。20歳の時に初めてのリサイタルを、上野学園エオリアンホールで開かせてもらいました。

  デュオリサイタルをスタートして、二人で新しい人生のスタートも切りました。多くの友人や生徒さん、先輩や家族に支えられて生きることになりました

  演奏活動を続けることは、生徒さんたちに私たちが師匠や友人たちから感じとってきた「音楽」を伝えるためにも、必要不可欠なことになりました。
 演奏活動を生活の中心にされる友人も多い中で、年に1度のデュオリサイタルが「少ない」と思われるかもしれません。ただ、私たちにとって「身の丈」にあった回数で演奏活動を継続することが、永く音楽とかかわる人生を送るためにも大切なことだと思っています。
 来週のリサイタルに向けて、最後の調整です。無理のきかない年齢になりました。自分たちのできる範囲の努力と準備をして、お客様をお迎えしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌を弾く

 映像は友人の作曲家、Ikuya Machida君がアレンジしてくれた「ビリーヴ」を陳昌鉉さんのヴィオラを使って、浩子さんと自宅で撮影したものです。
 ヴァイオリンなど楽器を使って「歌」を演奏する場合、特にクラシック歌曲ではなくポップス系の音楽を演奏すると「安っぽく」聴こえてしまうことがあります。演奏技術の不足と、アレンジの稚拙さが原因の場合がほとんどです。
旋律は美しいのに、ピアノのアレンジが…いま百(笑)と言う楽譜がほとんど。
かと思えば、ヴァイオリンが旋律を演奏していたと思ったら、ピアノが旋律を演奏し始めて、ヴァイオリンは「ひゃらひゃらら~♪ぴろりろり♪」もしかしたら?オブリガードのつもり?なのか意味不明な「別物」をひかされると言う「あるある」なアレンジ。ヴァイオリンにメロディー弾かせてくれ!(笑)
 綺麗に弾けば、綺麗な曲がたくさんあります。
もっと「現代ポップス」に光を当てましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリス 野村謙介

撮影編集技術者兼コメンテーター兼演奏者=私の職業は?

 映像は、陳昌鉉さんのヴィオラで演奏した「イムジン河」
木曽福島の小学校「福島小学校」4年生の社会・人権教育の授業で、陳昌鉉さんのお話を取り上げている事を、小学校の先生から伺い協力できることがあれば!と名乗り出ました。子供dたちから、陳昌鉉さんにまつわる質問を頂き、それにお答えする動画を自宅で撮影しました。おまけ…に、陳昌鉉さんの作られたヴィオラで韓国の歌「イムジン河」を浩子さんのピアノと演奏しておきました。もう一曲「ビリーブ」も衆力。撮影のための2台のカメラ、3本のマイクなどの設営>そして、質問への答えを「アドリブ」でしゃべり、ヴィオラの演奏。その後、データを編集して、データで小学校の先生に送信。
 なにをやってるんでしょう?私(笑)
60過ぎたお爺さんが、しかも視覚障碍のある私っていったい何屋さんなのでしょうか。いや、なんでもいいのです。結局、音楽を楽しんでくれる人のために、出来ることなら何でもやるわけです。ただし。お金にはならない…と言う(笑)
 撮影も編集も業者に出して、お金を払えばやってくれます。日数もかかります。自分でやれば…手間だけで済みます。演奏したその日に、データを送れます。そう思ってもいずれ、見えなくなったらできません。今だからできる。
 それも、私の音楽家としての「与えられた使命」なのかも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

職業不詳 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

肩甲骨の位置と鎖骨下筋

 さて、今回のテーマはヴァイオリン演奏時の肩の位置を考えるお話です。
私は中学生の頃から大学を卒業するまで、演奏中の肩の位置を「前方=胸側・下」にすることを心掛けてきました。もう少しわかりやすく言えば、背中にある「肩甲骨」を開いた状態…まだわかりにくい(笑)。「大きなドラム缶を両手で抱えて持つときのイメージ」です!…だめ?
・背中が「たいら」になるイメージ。
・両肘を出来るだけ前に出した時の肩甲骨と肩の位置
如何でしょうか?少しイメージできました?
この肩の位置で演奏することで、両腕が身体から前方に離れ、自由度が増えることを優先した「背中と肩の使い方」です。
この場合、身体の前方…つまり胸側は「狭く」「窮屈な」状態になります。
鎖骨が両方の肩より「後ろ」にあるイメージです。逆から言えば、両肩が鎖骨より前にある感じです。

 鎖骨の下にある筋肉が「鎖骨下筋」と言われる筋肉で、その下には「大胸筋」があります。
 話を背中側に戻しますが、肩甲骨の位置と肩の位置は連動しています。さらに、肩の位置と身体の前の鎖骨下筋も連動しています。つまり「背中と肩と鎖骨」のつながりなのです。

 私は「肩当て」を使いますが、鎖骨の少し下に肩当てを当てています。左肩=鎖骨の終端が、楽器の裏板に直接当たるような肩当ての「向き」にしています。
 この構え方で先述の「肩甲骨・肩・鎖骨下筋」の関係を思い切って変えてみました。
・肩甲骨の間隔をやや狭める。
・両肩をやや後ろ・下方に下げる。
・鎖骨下筋を上方・前方に持ち上げる。
簡単に言うと「胸を張った立ち方」のイメージです。
子の場合、両腕・両肘は今までよりも体に近づきます。それでも、自由度は大きく損なわれないことに改めて気が付きました。
 さらに、首を後方・上方向に持っていくことで、楽器の安定感が大幅に増します。
 背中から首にかけての筋肉がゆるみ、自然な位置に肩がある感覚です。
さらに背中に「有害な緊張」がある時にすぐに気が付きます。
背中の緊張を緩めることで、肩の周りの筋肉の緊張がゆるみます。
肩の緊張が緩めば、上腕・前腕の緊張も緩められます。

 楽器の構え方、肩の位置などはヴァイオリニストそれぞれに違います。なぜなら、筋肉量も違い、肩関節の柔らかさも人によって大きく違うからです。
首の長さ…と言うよりも、鎖骨の微妙な位置や筋肉の付き方、形状も人によって違います。
それらの「個人差」がある中で、自分の身体に合った構え方や、肩の位置を見つけることの重要性は言うまでもありません。
 師匠から習ったことの「本質」を考える年齢になって、改めて自分の身体を観察できるようになった気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者と聴衆の「距離感」

 映像は8年前に駅前教室で開いたコンサート。アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したものです。完全に「普段着」で演奏している私と、最前列のお客様との距離は1メートル以内(笑)
 今回テーマにした「距離感」は実際の距離とは少し違う「感覚的な距離」についてです。物理的な距離は、演奏者と聴く人の距離=メートルで表せます。近ければ「良く見える」「演奏する楽器の音をダイレクトに聴くことができる」し、離れれば「全体が見える=演奏する人は良く見えない」「会場に響く音の広がりを楽しめる」と言う違いがあります。行きなれたコンサート会場だと、どの場所=どの席で聴くのが一番好きか?までわかっていることもあります。
 演奏者から考えると、お客様との物理的な距離は、真正面で最前列の人を対象に考えるのか?最後列で左右のどちらかによっている人の聴こえ方を優先するのか?あるいは、ホール中央を基準にして考えるのか?演奏差によって考え方は様々です。可能な限り、どの場所で聴いても「心地よく聴こえる」方法で演奏するのが「おもてなし」の心です。真正面で最前列の人が「気になって気が散る」と言う演奏者もいれば、まったく気にしない(私(笑))人もいます。これも人それぞれです。

 本題の「距離感」は、演奏者と聴衆の「親しみ」や「人間同士の関係」で変わってきます。一般的に聴衆が演奏者のことを良く知っている(例えば昔の友人)場合と、まったく知らない場合に大別されます。前者の場合には、聴く側も演奏する側もお互いに親しみを持っています。演奏する人の話し方や、普段の姿を知っている聴衆の「親しみ」は、演奏に「プラス」される部分があります。
一方、まったく知らない演奏者の演奏を聴く場合、特に初めてその演奏者のコンサートを聴く時には「興味」の対象は演奏そのものが最大で、次に演奏する姿や表情、さらには演奏者の「話す声」にも初めて接することになります。
 音楽だけ=演奏だけを純粋に楽しみたい…そのほかの要素は「いらない」と言う人は、演奏者を「人」として感じていないように思います。
少なくとも私は、初めて誰かの演奏を見たり聞いたりするときに、その「人」に興味が行きます。演奏する表情や市政、動き、衣装にも好奇心が動きます。
 さらに、演奏者の「言葉=話す姿」に一番の関心があります。日本語で話してくれる演奏者の場合、その内容と話し方で演奏者の「人としての魅力」を感じる場合と感じない場合があります。私だけなのかも知れませんが、演奏者を「人」として近くに感じる人の演奏に共感します。話す内容が「自慢話」「うちわネタ」「ありきたりのテンプレートご挨拶」の場合、正直「だめだこりゃ」と思います。演奏者が舞台でマイクを持って話をすることに対して「不要だ」「邪道だ」と言うご意見も耳にします。その方の「好み」です。演奏者は演奏だけすればよい。と言う考え方ですが、私は演奏しているのが「人」だから音楽を聴きたいのです。ましてやコンサートでCDと同じ演奏をするだけなら、CDの方が気楽に楽しめます。ポップスのコンサート=ライブに行く「ファン」が期待するのは?CDでは感じられない「生身のアーディスト」を感じることだと思います。
むしろそれが「ライブ」だと思うのです。クラシックは?同じだと思います。
 話下手でも構わないのです。照れ屋でうまく話せないのも、聴く人にとって「なるほど!そういう人なんだ!」と受け入れられるものだと思います。演奏中に下手な役者のような表情を「作る」よりも、1分間でも話をすれば、その演奏者の「素顔」が伝わると思います。
 知らなかった人同士が、コンサートで「知り合い」になれるのです。
演奏者と聴衆が気持ちを交わすことができれば、きっとまた演奏会に行ってみたくなるはずなのです。聴く側も、演奏する側も「人とのふれ合い」をもっと大切にすることが、クラシック音楽の発展につながると考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介