メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

2026年

演奏家の「肩書き」は何のため?

 今回のテーマは「肩書き」についてのお話です。
様々な職種で担当や役職などの「肩書き」と呼ばれるものがあります。
「〇〇部△△課 課長」だとか部長だとかの肩書きもあれば、政治の世界なら「〇〇知事」や「△△大臣」やらも肩書きです。
 その他に「経歴」の中に過去に得た資格や授与された「名誉」を書くことも一つの肩書きと言えます。「〇〇コンクールで入賞」とか「△△音楽大学を優秀な成績で卒業」などの曖昧な物も肩書きに見られる場合もあります。
 演奏家にとってそれらの肩書きは一体どんな意味を持つのでしょうか?
プロの演奏家として「演奏の仕事」を得るため、多くのお客様を集めるために肩書きが使われる場合が殆どです。例えばコンクールでも歴史や権威によって肩書きとしての「レベル」が変わります。ピアノで言えばショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールでの「入賞」は他のコンクールとは別格の「権威」があります。ヴァイオリンでも似たような違いがあります。コンサートを企画する音楽事務所や企画会社にとって演奏者の肩書きは第一に優先される基準になります。マスコミの取り上げるニュースとして扱われるコンクールで「優勝」「入賞」すれば事務所同士の取り合いがあるほどです。コンサートのチケットも1年先まで売り切れ!と言う人も肩書きがあってのことです。

 一昔前…今から50年前なら「ヨーロッパに留学」だけでも立派な肩書きになりました。
また国際コンクールで日本人が優勝したり入賞することも、以前は大きな話題になりましたが、今や「それで?」程度に扱われることも珍しくありません。どれも「マスコミ」が取り上げる話題としての違いであって、演奏者の力量や音楽的な個性とは別の話です。
音楽に限らず「学歴社会」と言う言葉があります。昔なら「東京大学卒業」と言えば「天才」か「神童」と呼ばれていた時代もありました。イメージとして「すごく頭のいい人」と誰もが疑わなかった時代がありました。今は?(笑)昔なら「大蔵官僚」にキャリアとして入省できるのは「まず東大卒」次に「旧帝大」でした。その官僚が本当に賢い人なのか?に疑問がで始め
世界的な「学力基準」で日本の東大のレベルが異常に低い事も今や常識になっています。
 演奏家の「技術と音楽性・個性」をコンクールの肩書きで測れるか?と言う疑問があります。以前にも書きましたがコンクールの序列結果は「審査員の好み」で決まります。世界中のどんなコンクールも基本的には審査員「次第」で順位が決まります。
 審査委員はコンクール参加者より優れた技術を持った人…のはずです(笑)から、1位に鳴った人は2位の人より「優秀」な演奏家のはずです。しかし聴く人によって評価が分かれるのも事実です。同じ演奏でも審査員が変われば順位が変わって当然です。だからと言って審査員を100人、500人並べたから正しい序列が出ると言うものでもありません。実際には非現実的なことです。

 演奏する人間にとって自分の演奏を聴いてもらう「機会」がなければ誰にも聴いてもらえません。評価さえ受けられません。それは一番つらく、悲しいことです。
 演奏家を夢見て毎日休まず何時間も練習し、高い楽器を親に買ってもらい、レッスン代を払ってもらい、高い授業料の音楽高校、音楽大学に通う学費も親に頼ったり「借金」である奨学金を受けたり…ある意味では人生の一番楽しい時期を「音楽」にすべてつぎ込んだ結果が
「誰にも聴いてもらえない」これが殆どの「音大卒業生」の実態です。こんな事を書くと「夢を壊すな」と叱られそうですが事実なので仕方ありません。
 音楽学校に入学して精一杯努力して身につけた知識、演奏技術、経験は本人にとって「かけがえのない宝物」です。それが例え肩書きにならなくても問題にはなりません。
同じようにコンクールでの結果=肩書きは本人の技術とは無関係です。何故なら「コンクールを受けた人の中での序列」なのです。コンクールを受けない演奏者の方が圧倒的に多いのです。「うまい人だけがコンクールにチャレンジする」とは限りません。現実に世界中のソリストと呼ばれる「一流演奏家」の中でコンクールの肩書きのない人はいくらでもいます。音楽大学を卒業していない人も数えきれないほど存在します。
 肩書があれば演奏家になれる…とも限りませんし、逆に肩書きが何もなくても素晴らしい演奏者として多くの人を感動させることも当たり前にあります。
 肩書きは「評価」ではなく演奏の仕事を「もらいやすくする」「とりあえず聴いてもらえる人を集められる」ための道具だと言えます。肩書き「だけ」で演奏を評価するのは根本的に間違っています。自分の耳で聴き、素直に評価するのが正しい姿です。
 演奏者の「努力の結果」として肩書きを得ることも事実です。肩書きの為に努力するのも「手段」として否定はしません。ただ、肩書きがないことにコンプレックスを持つ必要な全然ないのです。自分の演奏を聴いてもらう場を自分で作ることも、かけがえのない経験になります。大手の音楽事務所のように集客できなくても決して悲観しないことです。
「下積み経験」のない役者、芸人はすぐに飽きられることは芸能の世界では常識です。
世襲制度のある伝統芸能でも「皇族・王族」の社会でも「人として」学びのない人は、人間の「底の浅さ」がすぐに見破られます。
 肩書より大切な事が絶対にあります。誇りと謙虚な気持ちを忘れなければ努力の結果を評価してくれる人が必ず増えることを確信して頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンチェルトもソナタも弾き方って同じ?

映像は私の高校3年生当時の演奏。ハチャトゥリアン作曲ヴァイオリンコンチェルト第1楽章。
今回のテーマは演奏する「曲=楽器編成」の違いで演奏方法は違うのか?同じなのか?というお話です。
 ヴァイオリンをレッスンで習う時「音階」「練習曲」「曲」の3種類を師匠に見て頂くことが多いのでは?私は中学・高校・大学と一人の師匠についていましたので他を知らないのですが…。もちろん、指導者によっても生徒のレベルによっても内容は違って当然です。
「教本」と呼ばれるものには少しずつ音階や練習のための短い曲、さらにコンチェルトや小品がばらばらと載せてあります。最初は「1巻」から始めて段々難しい曲が増えてくる。そんな教本が多いように思います。
 そもそも「コンチェルト=協奏曲」の独奏を一体、どれだけのヴァイオリニストが生涯で一度でも演奏するチャンスがあるでしょうか?ちなみに本来コンチェルトは「オーケストラ」と独奏者が一緒に演奏する楽器編成の音楽です。
 ピアノを習っていて小学生や中学生で「コンチェルト」のソロをレッスンで習うことは、ほとんどないと思います。例外的にコンクールで優勝するような子供がプロのオーケストラと共演する話は聴きますが全体の中で「1000人に一人」より少ないケースだと思います。
 音楽高校の入試、学内での実技試験でもピアノ科の課題に「コンチェルト」がないことを昔から「なんで?」と感じていました。逆にヴァイオリンの場合には入試でも学内での試験でも必ず「コンチェルト」の一部が指定され、カデンツァも含まれることが殆どです。
 その違いの最大の原因は?「ピアノには独奏曲がたくさんある」のに対しヴァイオリンは「ほぼすべての曲がピアノかオーケストラ、他の弦楽器などと演奏する」ことだと思います。
ヴァイオリンの無伴奏曲が少ないことは以前にも書きました。
 だから?ヴァイオリンの試験曲はコンチェルトって言うのも「なんだかなぁ」と感じるのは私だけでしょうか?
 コンチェルトの独奏以外にも「小品」と呼ばれるヴァイオリン独奏曲はたくさんあります。有名な作曲家で言えばフリッツ・クライスラーの作品。「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」以外にも多くの小品(演奏時間の長さも様々)がありますが、入試や学内の試験でそれらの曲を演奏することはほとんどありませんでした。「ソナタ」のレッスンは「実技」レッスンとは別に「室内楽レッスン」を受講してレッスンを受けました。
 生徒に何を求めているのか?は学校や指導者によって違う事は当然です。ヴァイオリンコンチェルトのソロが演奏できれば、大体の小品は演奏できますし「ソナタ」にしても技術的な面だけでを考えれば「演奏可能」です。

 本題になります。コンチェルトの独奏を演奏する場合とソナタや小品、室内楽を演奏する時の演奏は「何が?どう?違う」のでしょうか。
 これはピアノでも同じことが言えますが、コンチェルトの場合には「オーケストラ」が一緒に演奏するわけですからたくさんの弦楽器奏者、多くの種類の管楽器と打楽器が独奏者と同時に音を出すことになります。ポピュラー音楽なら歌手はマイクを通してアンプで増幅=大きくした音をスピーカーを通して客席に届けるので「音量のバランス」を歌手もバックバンドや演奏者が気にする必要はありません。どんな小さな声の歌手でもエレキギターやドラムの音、時にはオーケストラの音よりも大きな音で客席に響かせることが出来ます。
 クラシック音楽で「マイク・アンプ・スピーカー」を使うのは特殊な場合に限られます。

 上の映像はベルリンフィルが野外でのコンサートで大観衆に音楽を聴いてもらっている動画です。「生の音」はいかにベルリンフィルでも屋根もない・環境版もない場所で何千人もの人に聞こえる音にはなりません。当然マイクとアンプ・スピーカーが必要になります。

 マイクやスピーカーを使わずにオーケストラを「バック」にして演奏する場合、ピアノコンチェルトなら「フルコンサートグランドピアノ」と呼ばれるピアノを使用するのが一般的です。グランドピアノの中で最も大きく、当然響きも音量も豊かです。オーケストラが全員で演奏しても客席に十分な音量バランスで聞こえる音量があります。
 ヴァイオリンは?いくら「ストラディバリウスは音が大きい」「いやグヮルネリのヴァイオリンの方が…」とは言え(笑)物理的に音圧=デシベル面でも音色の面でもピアノのようには行きません。何故ならオーケストラにはコンチェルトでも20名以上のヴァイオリン奏者が同時に演奏しています。もしかするとその中にストラディバリウスやグヮルネリを使っている人も居て不思議ではありません。しかもオーケストラメンバーも「プロ」です。ソリストが演奏するヴァイオリン独奏を「ちゃらちゃら」っと演奏できるメンバーもたくさんいるはずです。
 そのオーケストラメンバーがいくら「遠慮」して弾いてもヴァイオリンソリストの音の方が「大きい」可能性は極めて低いはずです。放送や録音でソリストの音がオーケストラより大きく聴こえるのは以前にも書いた「電気的な処理」の結果です。
 音量でも音色でもオーケストラの音より「浮き上がって前面に聴こえる」演奏方法・演奏技術が必要になります。一言で言えば「オーケストラより目立つ音」です。

 小学生がレッスンや発表会でモーツァルトやブルッフ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを「バリバリ」弾く姿は今時、珍しくありません。中にはシベリウス、ブラームス、チャイコフスキーのコンチェルトソロを演奏する「子供」もいます。
 では「ピアノとの二重奏」でコンチェルト独奏と同じ弾き方をする必要があるか?必然性があるか?と言うテーマになります。
 ピアノはヴァイオリンよりも大きな音量を出せる楽器です。発音の原理が全く違うので二人での演奏を聴いて「どちらの楽器の音か分からない」という事は心配する必要がありません。明らかに音色が違います。
 ヴァイオリンが「ピアノに負けないぞ!」とコンチェルトソロのように演奏する「意味」があるでしょうか?私はまったくないと考えています。
 もちろんピアニストがヴァイオリンの音に配慮して、音量と音色をコントロールしてくれたら!と言う前提条件があります。さらにヴァイオリニストもピアノの音の多さ、音域を考えた「音量と音色」を考えて演奏する技術が必要です。

 上の映像は今年1月に演奏したラフマニノフ作曲「ここは素晴らしい場所」ヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 私の弾き方も浩子さんのピアノも決して「大きな音量」ではありません。かと言って「物足りない」音量だとも感じません。
 会場で「音」を聴く方にとって「ちょうどいいバランス」を考えた演奏が理想だと思っています。演奏する会場の広さ・残響の長さがすべて違います。聴く場所=座席の場所でも変わります。すべての人が「ちょうどいい」とは思えないのが現実です。好みもあります。
 少なくとも若い頃…音楽高校・音楽大学時代に実技のレッスンで私が師匠に教えて頂いた=レッスンを受けた曲で「小品」は1曲だけでした。大学5年(笑)の最後に「何か弾きなさい」と仰られて「え?え?」戸惑う私に微笑みながら「なんの曲でもいいよ」と優しくおっしゃった師匠に甘え、ヴィタリのシャコンヌを弾かせて頂いた事。
 あ!もう1曲ありました!先生!ごめんなさい!(笑)
大学2年?3年?の時にカルメンファンタジーをレッスンで教えて頂きました。
全然!弾けなかったので記憶から抹消していました。

 最後に。
曲によって演奏の仕方を変える「技術」はあります。ただ自分の理想の音を出す技術は変わりません。「コア」になる音色と・音量があり、そこからのバリエーションを作ることが「技術」です。少なくとも「ヴァイオリンコンチェルト」がヴァイオリン独奏で一番「過酷な条件」になることは事実です。だからと言ってヴァイオリンコンチェルトがヴァイオリンの魅力を最大限に表現できるものとは言えないはずです。無伴奏も、ピアノとのデュオも弦楽四重奏もそれぞれに「弾き方」を考えることがヴァイオリニストに必要な技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

唯一無二の演奏

 映像はカウンターテナーのアンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」私が好きな演奏を「ひとつ」と言われたらこの演奏を選びます。
 演奏は演奏者によってすべて異なるものです。仮に同じ曲を演奏しても完全に同じ演奏をすることは他人はもちろん、本人であっても不可能なことです。演奏者がその瞬間に生きていることの証だとも言えます。録音されたもの=機械で音を鳴らしたものと違い、自然界がそうであるように「ある一瞬」は二度と存在しないのが「摂理」です。
 ショルの歌うこの演奏は私が音楽を聴いてきた中で、他のどの演奏とも違うインパクトがあります。ただ「うまい」とか「すごい」とか技術が…曲が…と言う理屈を抜きにして忘れられない音楽になっています。
 どうしたら?こんな演奏が出来るんだろう?と理屈っぽく(笑)無駄に考えてみます。

 過去のブログで「好み」と言う言葉を使ってそれぞれの演奏者が目指す音楽があり、聴く人にも好みがあることは書いています。
 自分自身がどんな演奏を理想として辿り着けない道を進んでいるのか?考えた時に、自分以外の誰かが演奏する音楽に導かれている事に気付きます。ヴァイオリンでなくてもクラシックでなくても自分の感情を激しく揺さぶる音楽。無意識のうちに自分「も」そんな演奏をしてみたい!と思っているのだと思います。
 自分の好きな演奏との出会いは偶然が重なった結果です。好きな音楽に出会おう!と探して巡り合える可能性もありますが、誰かが演奏した演奏に偶然に出会わなければ「理想」は自然に生まれないことになります。
 人との出逢いにも同じことが言えます。「運命的な出逢い」と呼ばれる出逢いもあれば、本人が気付かないだけで本当は出会っている・出会っていたという事もあり得ます。
 自分の理想を目標にして演奏する。文字にすればそれだけの事ですが実際には自分の演奏は「現実的」に課題や問題ばかりが気になって修正と試行錯誤の繰り返しです。いつの間にか理想…どころか自分が音楽を演奏しているのではなく「音を出す練習をしている」ことに気が付かないのが現実です。
 陶芸作家が自分の作った作品の中で「ダメだ」と感じた作品をその場で地面に叩きつける話はよく耳にします。自分の本意ではない作品が間違って世に出ることを何よりも「恥」と感じるからでしょう。
 音楽の場合、人前で演奏して気に入らないから「今の演奏はなかったことで。忘れてください」って言えません(笑)どんなに演奏者が不満足でも聴いてくださる人の心に残ってしまうのが音楽です。「その場限りの芸術」でもあります。
 自分の理想が聴く人にも理想の演奏だとは限りません。そもそも理想の演奏が出来るようになった!と言う演奏者が存在するのか?と言う疑問があります。私からみてショルの演奏は「神がかった演奏」に感じますが、本人がどう感じているかまったく知りません。
 では演奏は「妥協の産物」なのでしょうか?演奏者の理想には届いていない演奏を、演奏者以外が「理想」と感じる可能性もあることを考えれば「妥協」という言葉は適切ではないと思います。強いて言うなら「演奏者の本質」言い換えれば隠しようのない「人間としての資質」をさらけ出しているような気がします。
 私はアンドレアス・ショルと言う人を「何も知らない」人間です。
生まれ、生い立ち、学歴、経歴、性格などについて一切の「真実」を知りません。それで良いと思っています。評論家はまるで政治家の身体検査(笑)のように演奏家や作曲家の「履歴書」を詳細に知りたがります。演奏する上で役に立つ…と言う考え方も否定はしません。私は「人から聞いた情報」を素直に信じない天邪鬼(笑)です。ベートーヴェンが、ショパンが「どんな人だった」のかを想像するのは個人の自由です。人から聞いたり本人が残した言葉、文章が仮に本物だったとしても心の中まで知ることは不可能です。むしろ本人にとっては「やめて!」と思いたくなることかも知れません。
 例えば私が、あるいは今このブログを読んでくださっている方が誰かに「あの人は〇〇な人らしいよ」「誰かが〇〇な性格だと言っていた」と言う話を聞いて嬉しく感じますか?私は嫌です。中には血を分けた家族にさえ知られたくない「真実」があるかも知れません。
自分の演奏を聴いて「きっと野村謙介は…」と想像して頂くことは光栄なことです。しかしそれは「真実ではない」と言う事を忘れないことです。
 演奏を聴いて感動するのは、もしかしたら?演奏者を知らないからかもしれません。逆のケースもあり得ますが、先述の通りそれは想像でしかありません。つまり演奏を聴く立場の人にとっては「演奏=演奏者」なので、演奏に感動するという事は「理想の演奏者」を偶像として感じていることになります。あくまでも「聴く人にとって」の演奏者の姿です。力強い演奏を聴けば「きっとこの人は」と想像し、優しい印象の演奏をする演奏者は「きっと…」と思うのが人間です。演奏は聴く人に自分を「さらす」ことになるのです。
 演奏者のこだわり・思い・エネルギーは演奏に表れます。聴く人がそれに共感することもあれば「なにか違う」と思われることも「嫌い」と思わえることもあり得ます。それを恐れて隠そうとすれば聴く人には何も伝わらない無機質な「機械的な演奏」になります。
 自分がショルの演奏の真似をしても、誰も感動しないことは分かっています。しかし「分析」することは有意義です。
少しでも理想に近つける演奏を出来るようになりたいと練習しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を替えて変わること・変わらないこと

映像は昨年(2025年1月)に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」このリサイタルで初めてヴァイオリンを新しい楽器に持ち替えました。
 それまで使っていたヴァイオリンは私が中学2年生の時に両親が私に買ってくれた楽器でした。1800年代のはじめにイタリアの職人「サンタ・ジュリアーナ」が製作したヴァイオリンで当時、フィラデルフィアの楽器商「メニック」から輸入されたばかりの楽器でした。
 初めての日本だったらしく購入した翌年の梅雨で表板も裏板も湿度と暑さに耐えられず毎週のように膠が剥がれ、その度に購入した職人さんの工房に通っては直し、また剥がれては直し…泣きたくなる思いでした。
 音楽高校の受験、大学を卒業するまでの間、常に私の「相棒」でもあり「身体の一部」でもありました。そんな楽器との別れは一昨年2024年5月。諸々の事情で弓と共に手放しました。
買い取ってもらった楽器商で手続きを終えた時、次の楽器を手にすることは全く考えていませんでした。『うそ~」と思われるかも知れませんが本当の事です。「他のヴァイオリンは持ってるんですよね?」と楽器商=職人の方に問われて「いえ。弓だけ持ってます」
「ダメです!」と一喝されました(笑)
「なにか特別に気になる楽器はありますか?」と尋ねられたので正直に「新作は難しい=不安だけどオールドはいらない」と言う事と以前に出会ったモダン楽器で印象に残っている製作者の名前を伝えました。「贋作も多くて実際本人も色々な人の名前で楽器を作っていたり危ないことは知っています」と正直にお話ししました。
「そこまでご存知なら」と「実は今、あります」と持ってきてくださったのが映像で演奏しているヴァイオリン=今現在、私が愛用しているヴァイオリンです。製作者や年代については書きません。お許しください。私がそれまで愛用していた楽器の製作年も敢えて書きません。楽器は時代を超え色々な人の手に渡ります。私が使っていたヴァイオリンも誰かの手に渡ります。そして新しく手にしたヴァイオリンも今まで少なくとも一人は誰かが演奏していた楽器です。
使う人の愛着が楽器にあります。手放せば「その先」が気になります。
また以前に使っていた人についても同様に気になるものです。
そのすべてを知ることが演奏者にとって「良い事」ばかりではないことを改めて学びました。前に使っていた人の弾き方や管理が「悪かった」と考えてしまうのは演奏者として恥ずべきことです。どんな楽器でも誰かが最初に使います。そして次の人、さらに次の人に「愛され続け」100年以上の年月、誰かの相棒として活躍するのがヴァイオリンです。楽器の調整は「楽器を壊すこと」と言う言葉もこの楽器を手にするときに職人さんが言われた言葉です。その通りだと思います。
楽器は人間の身体と違って「再生」しません。1ミリでも削れば二度と元には戻りません。作った人の楽器とは別の楽器になります。それが悪いとは言いません。楽器を調整・修理することは大切な事です。人間で言えば「健康診断」に近いものです。検査で病気や骨折が見つかって治療しますが人間には「自然治癒能力」があります。骨折は固定すればある期間で再生し完治します。ではヴァイオリンは?
 以前の楽器のように「膠がはがれる」状態では健康な音は出せません。ヴァイオリンを作る時と同じ手法で表板・裏板と横板を弱い接着力の膠=ニカワで貼り付けて決まった圧力で数日、固定して固着させて元に戻せます。ニカワの接着力が弱いのは「木材が割れるのを防ぐため」なのです。強すぎる接着剤で貼り付けると、湿度で膨張した場合と乾燥で縮んだ時の「差」を逃がす=剥がれることが出来ず、板が割れる結果になります。ここにもヴァイオリンを考えた先人たちの「知恵と技」があります。
 剥がれなら直せますが「割れ」は復元できません。木材の組織が分断してしまったものを、いくら見た目でわからない様に修理しても振動はそれまでと違う伝わり方になります。
 ましてや演奏者の好み、職人のこだわりで楽器を削ることは楽器にとって「二度と元に戻れない」状態にされることです。
「お金を払ったから自分の自由」確かに。「弾きやすいように・良い音が出るようにしただけ」なるほど。
 そのヴァイオリンを自分だけが演奏して終わらせる=燃やす・壊す覚悟があるなら、それでも構わないかも知れません。
 実際にあのストラディバリウスを大量に乾燥室に入れて、すべての楽器の表・裏の板を割ったコレクターが過去に実在しました。本人からすれば「買った自分の自由」です。
 ヴァイオリンを演奏すれば「良い影響」と「劣化」が同時に常に進行します。良い影響は木材が振動しやすくなること。特に正確なピッチで適正な圧力の弦で演奏すればなお一層、楽器はピッチが合った時に大きな振動をするようになります。ストラディバリウスがどれも良い音で演奏できるのは「常に一流の演奏者が演奏しているから」でもあります。
 一方で「劣化」は演奏するために温度と湿度の変化にさらされ、演奏者の汗・呼気で湿度をさらに吸い込み、移動のたびに振動で楽器に負担をかけ続けます。ヴァイオリンは楽器であり「演奏するために作られた」ものです。飾って鑑賞する目的で作られていません。

 ヴァイオリンを持ち替えてもうすぐ2年になります。以前の楽器と50年間お付き合いした事と比べると「序の口」です。
 この間にいくつもの演奏会場で色々な曲を演奏する事ができました。ちなみに一度も調整・修理を必要とするような事はありませんでした。日常の手入れだけで、ニカワの剥がれもなく健康な状態を維持しています。楽器自体が製作されてからまだ100年経っていない「若い楽器」であることも健康な理由の一つです。かと言って新作楽器のような「バラツキ・イレギュラーな変化」もありません。新作楽器の場合にはこれが最も不安な要因です。
 2年間演奏して感じたこと。
・自分の演奏方法を再確認できた
・楽器固有の「聴こえ方の違い」に少しずつ慣れてきた
・楽器の成長=良い影響を感じられる
一方で変わらないのは
・自分の好きな音色
・苦手な奏法(😿)
これは一生かけて試行錯誤することだと覚悟しています。
 楽器を替えれば「音が変わる」のは当たり前です。しかし、自分の求める音・理想の音は変わりません。つまり、しばらく違う楽器を弾けばその楽器で自分の好きな音を出そう!と無意識に演奏方法を変えて行きます。結果、どんな楽器を持っても「自分の好きな音」に向かって変わっていくので楽器の個体差よりも演奏する人の「好み」の音が聴く人に届くことになります。
 私は技術が足りないからか2年経っても、今のヴァイオリンで自分の理想の音を出せません。それは「楽器のせい」ではなく、自分の技術が足りないことが原因です。楽器を変えて「目先の変化」から学ぶこともたくさんあります。今まで生徒さんに本当に多くの「入門用ヴァイオリン」と呼ばれる楽器を選んできました。学校での部活オーケストラに入部して初めてヴァイオリンを購入した数だけ考えても、20年間で200本以上…もっとかな?選定しました。教室を開いてからは、手工品の楽器、新作楽器も含めてやはり200本以上の選定をしました。
 その自分が選んだ楽器は?「ちょうど今ありますよ」と提示された楽器と言う笑い話のような実話です。「本当に?他の楽器は弾かなくても?」という職人さんに「いえ結構です。とても気に入りましたから。と言うより嫌な音ではないし、他の楽器を弾いても迷うだけですから」とお答えしてその日から私の身体の一部になりました。
 楽器は「道具」です。そして必ず「寿命」があります。人間と同じように年を重ねると変化します。使い方、扱い方で楽器の音も寿命の長さも変わります。ヴァイオリンの寿命が人間より長いのは事実です。
ヴァイオリンの「生涯」の中で一時に関わるのが演奏者です。
人間のパートナーとは違います。そのことを考えて、楽器をいたわりながら自分の好きな音を出させてもらおうと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?音楽で感情が揺さぶられるのか?

映像はオルガンの独奏によるモーツァルト作曲の「レクイエム」の一部分です。
私たちはなぜ?音楽を聴いた時に悲しみを感じたり喜びを感じるのでしょうか?
人によっては何も感じない人も居て当然かもしれません。聴いたことのない音楽で歌詞もない音楽なのに…。
音楽理論で「長音階・短音階」「長調・短調」「長三和音・短三和音」と言う言葉を学びます。難しい話をしません(笑)要するに「明るい・暗い」の違いだと言えます。もう少し正確に言うならば「明るく=楽しく感じる」か「暗く=悲しく感じる」かの違いです。
音楽に照度=物理的な光の多さ・ルーメンなどの単位で表される数値が表現できるはずはありません。感情の話です。人間の感じる喜怒哀楽です。
人は生まれた時から自分の意志を伝える能力を持っています。言語=言葉を話せなくても乳児が泣くのは「息をする」と言う本能と共に「感情を伝える」本能です。生きるために母親からの母乳を求めるのも本能です。母乳を飲み込む行為、空腹が満たされて満足して安心して眠るのも生きるための本能です。五感の中でも「聴覚=音に対する感覚」が母親の体内で最初に感じる感覚だとも言われています。だからと言ってすべての人間が音を感じるわけではありません。生まれつき聴力のない人もいますし、後天的に聴力を失う人もいます。
 どんな音楽も「音=空気の振動」を使って演奏されます。楽譜は音ではなく文字と同じ「記号」です。音を聴いてすべてを「音楽」には感じません。詩的な比喩で「風のそよぐ音楽」とか「小鳥の歌」などと言われることも文学の世界ではありますが実際に「音楽」と定義されるものではありません。現代音楽と呼ばれるジャンルの中には例えば掃除機の音や、ガラスを引っ掻く不快な音を使って「音楽」を作った…「と」作曲家が定義する「音」もあります。
 人によって喜怒哀楽を感じる「対象」も「強さ」も違います。感受性の違い・経験の違い・性格の違いなど色々な要因が考えられます。
 音楽を生徒に教えるレッスンで「感情を込めて!」って強く言う指導者を見ると「誰の感情だよ!」っと突っ込みたくなります(笑)指導者=先生が感じているものを生徒も感じるとは限りません。「ほら、この旋律、悲しいでしょ?」とか「ここは楽しく感じるよね?」とか。おいおい…それは感情の押し売りでしょ?(笑)同じラーメンを食べて「ね!おいしいでしょ?」って一緒に居る人に同意を求める人の「センスの悪さ」ですね。

 話を音楽を聴いた時に感じる感情に戻します。
音楽の理論を例えると「文法」に似ています。文法を知らなくても会話することが出来ます。音楽の文法に「形容詞」や「現在進行形」はありません。クラシックだけに理論があるわけではありません。ロックにもジャズにも演歌にも共通の「文法」があります。それが音楽理論です。
 難しい話はここまで(笑)
中学校1年生の音楽授業を20年担当しましたが「普通の子供たち」に音楽を聴いてもらい「明るい・暗い」と言う印象を尋ねることがあります。結論を言うと音楽によって回答が大きく変わるのです。
・静かでゆっくりした曲が暗いと思い込んでいる場合
・フォルテでテンポの速い曲は明るいと思い込んでいる場合
本来「長音階・長調・最初と最後が長三和音」の音楽が明るく、逆に「短音階・短調・最初と最後が短三和音」だと暗く感じる「ことになっている」と言うのが定説です。曲全体の音量やテンポは本来は無関係なのですが、演奏を聴いて長調・短調を判別できるのは「学習の結果」です。もちろん理論を学ばなくてもたくさんの音楽を聴くことも「学習」の一部です。

 音楽を学んだ人でも「謎」に感じるのは…
なぜ短調の音楽が悲しく感じ、長調は明るく感じるのか?と言うことです。分析する技術に感覚は不要です。理論とは違うことです。
 恐らく論文などを調べれば「推論」は見つかりますが普通に考えてみれば「謎」ですね。文章=言葉の場合、読む人の経験や記憶の中にある「悲しい体験」と結びついたり連想させる言葉が多ければ悲しく感じます。一方で歌詞のない音楽で具体的な「物」「動き」「状態」を伝えることは不可能です。
 音楽を聴いて想像・連想する「物」「人」「経験」は人によって違います。一つの「曲」に長調と短調が混在する音楽が殆どです。
同じメロディーを和声を付けて長調にしたり短調にすることも可能です。
 味覚に似ていますね。「辛みの中に酸味がある」「甘味の中に塩未が加わると甘味を強く感じる」など良く耳にします。ちなみに「辛み」は「痛み」の一種で本来は味とは言わないそうですが。
 自分の感覚と「理論」でこの曲・この旋律は明るく感じるから、他人も明るく感じるとは限らないという事です。
 音楽は最終的に「人間の感覚」に頼るものです。作曲、演奏、鑑賞。すべて自由に感じ、自由に想像するものです。どんな理論があってもそれは分析の手段・結果です。文法を間違っている文章でも奥ゆかしさや新鮮さを感じる時もあります。「ゆがみ」「ひずみ」「ゆれ」が心地よく感じる場合もあります。人間の感性自体が常に変動するものです。音楽の解釈を他人に押し付ける「偉い人」にはなりたくないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の努力と聴く人の期待

映像はサン・サーンス作曲「死の舞踏」昨年1月の演奏です。
今回のテーマは演奏者が聴衆の前で演奏するまでに練習と準備に時間と労力、お金も使って、演奏会でその演奏を聴いた人が持っていた期待に応えることの難しさを考えるものです。趣味の演奏とプロの演奏で異なる面もありますが共通する一面もあります。
「演奏する側」「聴く側」の立場で深堀りしてみたいと思います。

演奏する立場で考えるとお客様に演奏を楽しんで頂くために「おもてなし」の心、謙虚な気持ちが第一に必要です。その上で自分(自分たち)も歓びと達成感、満足感を得られます。
準備する側に「完璧」はありません。「これで良い」と言う妥協点を下げてしまうのは簡単なことです。言い訳を並べれば「仕方ない」の一言で自分を納得させられます。
演奏技術を高めたいと言う「欲望」は演奏者が誰でも持つものです。
しかし「どこまで?」と言う線を引くことは不可能です。自分が納得できるまで人前で演奏しない!と心に決めたとすれば、私なら死ぬまで人前で演奏することはないだろうと思います。最終的に到達したレベル・満足度で人前に立ち、演奏することになるのはプロもアマチュアも同じです。だからこそ少しでも努力して「良い演奏」を目指すことになります。

「聴く側の立場」で考えてみます。
演奏会に足を運びコンサートによっては「入場料・チケット代金」を支払って演奏が始まるのを待ちます。
偶然に会場の前を通りかかってコンサートを聴く…そんな確率はゼロに近いものです。多くの人は予めコンサートの日時や場所、演奏者、曲目などを知った上でコンサート会場に行きます。
良く知っている知人・友人が演奏するコンサートもあれば、情報を見て演奏する人の経歴や容姿だけで決める場合もあります。曲目に魅力があって「行こう!」と思う時もあればまったく知らない曲でも聴いてみようかな?という興味と演奏者の魅力が組み合わされてコンサートに行く場合もあります。
 つまり殆どの場合は演奏者か曲目への関心や興味が決め手になり、その先に「演奏への期待」が続くものです。もちろん演奏にまったく期待しないでわざわざ演奏会に行く場合は「お付き合い」の場合で、自分で交通費とチケット代金を払ってまで期待しないコンサートには行かないものです。
 演奏が始まって自分の予想していたよりも演奏が「気に入る」場合と「面白くない・楽しめない」場合があります。期待する内容によりますが例えば自分の好きな演奏に感じたり、初めて聴く曲に感動したり「期待を超える楽しさ・歓び・感動」があれば交通費もチケット代金も無駄になったという気持ちは感じないでしょう。
反対に「期待を下回る・裏切る」内容の演奏や曲=音楽だった場合、後味の悪い時間を終えて帰ることになります。ショックが大きければ「二度と〇〇のコンサートなんかに行くものか!」と言う怒りに似た気持ちさえ持っても不思議ではありません。

 演奏する側は「準備」が必要です。聴く側にはまったく必要のないことです。むしろ聴く人が演奏者を知らなくても、演奏する曲を聴いたことがなくても、聴いて感動したり楽しめれば良いのです。
 演奏会に期待する内容は聴く人によって違います。中には「生の演奏者を見ること」が目的で会場に行く人もいるでしょう。また「好きな曲」だからと期待してコンサートに行く人もいます。漠然と「ヴァイオリンの音が好き」だとか「クラシックが好き」と言う人もいます。
すべての聴衆の期待に完全に応えることは不可能です。「好み」が人によって違うのですから当然です。同じ演奏でも感動する人もいれば途中で寝落ちする人もいます。「早く終わって!」と思う人もいるかも知れません。それが現実です。
 演奏技術のレベルが高いのか?普通なのか?ヘタなのか?分からなくて当然です。「分かった振り」で語るオタク様にとって「分からない人」は恰好の餌食です(笑)御託を聴かされる側には迷惑でしかないことに本人は気付きませんが(笑)
 技術の有無が分からなくても、作曲者の歴史や名前を知らなくても、演奏者を知らなくても「楽しめれば価値がある」ことなのです。
コンサートはコンクールではありません。演奏者のファン・知り合いだけの「内輪のイベント」なら一般の人に公開するべきではありません。同様に演奏する曲を初めて聴く人やクラシック音楽を普段聞かない人が萎縮するコンサート=マニアのためのコンサートなら「マニア向けです。曲を知らない人は入場できません」と告知すべきです。
 誰にも何事もに「初めて」があります。初めてのクラシック音楽のコンサートで「嫌な思い」をした人がまたコンサートに行くと思いますか?「そんな人は放置すればいい」と思いあがる人に言って差し上げたい。「生まれつき音楽が好きな人間なんて地球上には誰もいませんが?」と言う事実を。すべては「偶然」の積み重ねでしかありません。
 演奏する側も、聴く側も「偶然の出逢い」なのです。聴く側の「期待」と演奏する側の「不安」が終演後に全員が「満足」「喜び」に変わるコンサートが理想です。現実にはなかなか(笑)それでも「次に期待」したり「次に向けて努力」する事が続くのは、少なからず期待に応えてくれた満足感と、それを感じられた演奏者の嬉しさがあるからだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アンサンブル=合わせる技術と練習

映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。今年の1月の演奏です。
今回のテーマは誰かと一緒に演奏する=アンサンブルで必要になる技術とその練習方法・時間についての内容です。
 ピアノは1台の楽器を一人で演奏しても音楽を完成させられる「楽譜」が多く、他の人と一緒に演奏しなくても成立する楽器とも言えます。
 一方ヴァイオリンの場合にはほとんどの楽譜=作曲された曲が誰かと一緒に演奏して音楽が完成します。例外的に特殊な曲として「無伴奏ヴァイオリンソナタ」「無伴奏ヴァイオリンパルティータ」をJ.S.バッハが作曲し、他にも数名の作曲家が作品を書き残しています。
 ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスは4本(コントラバスは一部5本)の弦で単音または二つの音を同時に演奏できます。瞬間的なら3本の弦を鳴らすことも可能ではありますがあまり美しいとは言えない音です。
 フルートやトランペットなどの管楽器の殆どは単音で演奏することが基本で特殊な演奏技法で重音を演奏できますがこれも「特殊な音」になります。
 打楽器の場合、音の高さを設定できる楽器=ドレミを設定できる楽器とシンバルや大太鼓のように「ピッチ」の変更に時間がかかる・あるいは楽器を持ち替える必要がある楽器に分類できます。
 声楽は管楽器と同じで「単音」で歌う事が原則です。
上記のような楽器の特性を踏まえて「アンサンブル」を考えます。

 アンサンブルで重要な四つの要素「音の高さ」「音の長さとタイミング」「音の大きさ」「音色」もちろん一人で演奏する場合でも同じように重要ですが一人の場合には他人とのピッチの「ずれ」を気にする必要はありません。また一人なら好きなように音を長くしたり=遅くしたり、短くしたり=速くしたりしても誰も困りません。音の大きさのバランスも考える必要はなく、音色も自分の音だけを考えれば良いことになります。
 1.音の高さ=ピッチを自由に変えられない楽器の代表として「ピアノ」があります。調律師の方が合わせたピッチに他の演奏者が「合わせる」必要があります。
弦楽器や管楽器だけでアンサンブルを行う場合にはお互いのピッチにお互いが合わせる技術を「全員が持っている」ことが必要になります。誰か一人でも技術が足りなければ全員のピッチが揃う事はあり得ません。50人のオーケストラで一人だけが「微妙にピッチが悪い」状態の演奏は聴いていて「何か?おかしい」と感じますが誰が?と言う特定は非常に困難です。
 2.音の長さとタイミング。これはリズムだけではなく「音を同時に出す・止める」事は一緒に演奏するすべての人に必要な技術です。人数が増えるほど困難になるため「指揮者」が重要な役割を果たします。演奏者全員が指揮者に合わせる技術を持っていなければ無意味ですが。
 音を同時に出す・止める=切るために必要な技術「も」あります。身体の動きや楽器の動きを使う場合もあります。「息」を吸う音を使う場合もあります。「も」と書いたのは技術とも言えない「気配」をお互いに感じる場合です。正確に言えば「相手=一緒に演奏する人が音を出す・止めるタイミングをその前に予想=想像する」ことです。
「第六感」と言えるかも知れません。相手が次に「いつ」音を出すか?止めるか?を予測できるのは「相手を信頼している」ことと「相手の音楽の特徴(時には癖と言われるものも)を知っている」事が前提になります。家族や友人の中で本当に親しい関係の人同士は、言葉にしなくても相手の気持ちを察することが出来る場合があります。他の人と違う「相手への思い」がある関係です。恋愛感情とは限りません。友情や師弟関係の中でもあり得ます。

「慣れの問題=練習時間・回数の問題」も無関係ではありません。
プロの場合には演奏する音楽のジャンルや曲の長さや難易度によっても異なりますが「数回の合わせ」で仕上げることが殆どです。一つには「コスト」の問題です。人数が多くなれば日程を合わせるための困難さだけでなく、それぞれの「時給」が発生することになります。
少ない回数・時間で音楽を仕上げるための「個人技術のレベル」によって仕上がりが変わります。演奏者全員が「同じレベルの技術」を持っている事も前提条件だと思います。
アマチュアの場合には何よりも「コスト」は度外視できます。もちろんプロの演奏者や指揮者を呼び「謝金=ギャランティ」を支払う場合には限度があります。アマチュア同士の練習にかかるコストはお互いに公平に負担するのが通常です。会場費なども「割り勘」です。アマチュアの演奏者が納得‥あるいは「妥協」(笑)出来るレベルで合わせる練習は終了します。これがプロとアマチュアの一番の違いです。

 私と浩子さんの場合もアンサンブル演奏をしていると言う意味では他の演奏家の方々と変わりません。二人とも音楽高校と音楽大学で共に学び卒業後に「職業音楽家」としてそれぞれが活動していました。
偶然の巡り合わせで数十年ぶりに再会。学生時代にアンサンブル(ピアノトリオ)でレッスンを受けていましたがそれ以来のアンサンブルでした。二人でデュオリサイタルを初めて開催したのが2008年でした。2026年の今年、18回目(18年目)のコンサートを開きましたが、たくさんの曲を色々な場所・環境で演奏して来ました。
「夫婦」と言う間柄でもお互いが演奏をする夫婦は多くはありませんが、私たちの仲間にも何組かの「演奏家・音楽家夫妻」がおられます。素敵な演奏を聴かせて頂いたこともあります。
 同じ屋根の下で二人と「ぷりん=女の子にゃんこ」と暮らし、好きな時に好きなだけ練習する事が出来る恵まれた環境です。
「プロだから・アマチュアだから」と言う固定観念は持っていません。自分たちの演奏を自分たちが楽しみ、それを聴いてくださる方にも楽しんで頂ける音楽活動。それが私たちの日常です。
 これからも「アンサンブル」の楽しさを一人でも多くの方にお伝えできればと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生き方は弾き方

 映像はケーブルテレビ局「武蔵野三鷹テレビ」の取材を受けた際(2020年)の映像です。
1960年=昭和35年9月生まれの私が60歳(当時)でした。高齢者施設で演奏したときに利用者の素敵なおばあちゃまに「お二人はご夫婦ですって?まぁ!年の差婚ね!」にこやかに言われましたが(笑)敢えて突っ込みません。
 今回のテーマは音楽を「創る・演奏する」事と人間が日々「生きる・体験する・感じる」事の関りを考える内容です。お付き合いください。

作曲家が亡くなった後には「楽譜」が残されます。その作品は作曲家が残した音楽です。
一方で演奏家が没後に残せるものは「録音物」です。実際に人前で演奏する行為だけが演奏だとは言い切れません。演奏する「姿」が映像として残せる時代になってから多くの先人演奏家の演奏する映像を見られるのは科学・文明の進歩のおかげです。
指導者・教育者が後の世に残すのは「人材」です。どんなに優れた楽譜が残されていても、演奏する人を育てる人がいなければ「独学」ですべての知識や技術を身に付けるしかありません。現代ならインターネトや録音・録画の記録、書籍などから知識や情報を得られますが「人間から学ぶ」事とは次元が違うものです。
 すべての音楽家にとって「生きた証」がその人の音楽だと言えます。

 人間は全員が「人と違う生き方」をします。似たような生き方をする人がいたとしても必ずどこかが違います。自然なことです。
 生まれた環境が同じ場合=例えば双子など‥でも、育つ間に異なった環境に出会います。
音楽に出逢い、関りを持ち始める「きっかけ」も人によって全く違います。冒頭の動画の中でもその話題から始まっています。
 きっかけがはっきりしなくても、生きているどこかの時期からそれまでと違う「音楽との関り」が始まっています。
「音楽を生活の糧にする」つまり職業として音楽と関わりを持つ年齢も様々です。一般的には社会に出て独立した生計を立てる年齢で「職業音楽家」になりますが、子供の頃からプロとして活動する人も世界的に見ても珍しい事ではありません。例えば7歳でプロオーケストラと共演したり有名なホールでコンサートを開催する「子供」もいます。当然そこには大人が絡んでいますし「お金」も大人が管理することになります。
 音楽を専門的に学ぶ学校を卒業してプロの音楽を目指す人もいれば一般の4年制大学で音楽以外の学問を学んでからプロになる人も意外なほど多いのが現実です。
 音楽を学ぶだけの生活‥毎日8時間練習する人の場合、起きてから寝るまでの時間で3回の食事以外の殆どの時間を練習に使っていることになります。友達と遊んだり本を読んだり、テレビを見たり時には家族で旅行したり‥そんなごく普通の生活をしながら子供は多くの事を体験し学びます。「勉強」だけではない学びです。他人とのコミュニケーションを学び社会のルールを学び「常識」と言われる事も身に付けていく生活の中で人は成長します。
 子供の頃、特に多感な時期に経験し学んだことは年齢を重ねてから表に現れることが多く感じます。学校であっても会社や企業などの組織でも徐々に自分より若い人と共同で作業することが増えます。
そんな時に無意識に「人との接し方・言葉遣いの違い」が出てきます。他人への配慮が欠けていたり年下の人や「部下」と言われる立場の人に対して高圧的な態度を取る人は、幼い頃からどこか?間違った価値観を植え付けられた人だと思います。
「年功序列」「能力主義」色々な場面で他人とかかわりを持ちます。
音楽を他人と演奏する時に相手をパートナーとして考えられるのはお互いにとって素晴らしいことです。相手を知らず、お互いに他人行儀な関係や「無意味な上下関係」で演奏する場合も多いのが現実です。
動画内で話している通り、私自身はどんな人と演奏する時も「相手を敬う気持ち」を持つことが何よりも大切だと思っています。もちろん「教える側と習う側」の関係性の場合には少し違う意識を持ちます。
しかしアンサンブル‥オーケストラであっても二重奏であっても「対等な関係」の中でこそお互いの音楽に同期し同じ音楽を創ることが出来ると信じています。高圧的な人「カリスマ」と呼ばれる人を中心にした演奏を聴くと「支配する人される人」に感じます。
 どんなに優れた技術を持っている演奏者・音楽家でも同じ人間です。癖もあれば短所もあります。完全無欠な人間は地球上に一人もいません。お互いに欠点を持ち、個性を持っています。認め合って初めて「共感」出来るはずです。

音楽は創造的な活動です。たとえ趣味でも変わりません。
人間の想像力があって初めて成立するのが音楽だと思います。
聴く人が楽しめる音楽を創造し提供することは決して特別な事ではありません。コンビニに並ぶ商品を作る人・運ぶ人・並べる人・売る人すべてが他人の歓びのために生きています。身の回りにあるすべての物や「事」は自分以外の誰かが作ってくれたものです。誰がどこでどうやって作ったものか?誰が運んでくれたものか?それを想像する力があれば「差別的思想」「排他主義」「愛国主義」がいかに愚かな事か理解できるはずです。自分・自分たちだけで生きていくとこは不可能な現代に音楽も同様に「他人があっての音楽」なのです。
 生きること、そのものが音楽なのかもしれません。どんな音楽にも人間が関わっています。演奏者、作曲者が生きていたから生まれた音楽です。聴いてくれる人が喜んでくれるから演奏して嬉しいのです。
 これからも「命」を大切にしながら音楽と共に生きていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分の演奏を分析する

 映像は2009年12月。私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホールはしもと」での演奏です。
浩子さんとの2回目のデュオリサイタルです。若いなぁ(笑)
 さて今回のテーマは演奏する人が「自分の演奏」について感じることやその妥当性について考えるものです。。音楽を聴いて楽しむ場合とはまったく違い、他人の演奏を聴いた時の感覚とも違うものです。当たり前ですが「自分の事」が一番客観性が低いものになります。
・練習しても上達した実感がない。
・上達しないのに練習を続けることに疑問を感じる。
そんな気持ちを持った経験は多くの人にあるのではないでしょうか?
自分よりじょうずな人の演奏を聴いて目標にして頑張るのに、いくら練習しても全然近づかない‥むしろ空回りしている気がする経験も私自身何百回となく体験しました。
すべては「自分の演奏を冷静に観察できていない」事が原因だと感じます。
自分の演奏を「自己評価」することが最も難しいことだと分かりました。
ひとつには自分自身だけが「練習のすべてを知っている」ことです。
練習は人に聴かせる目的のものではありません。自分自身のために行うものです。
他人の練習内容、時間を知ってもその本人にとってどれだけ?大変なものだったかは想像することしか出来ません。
自分の演奏に不満がある場合←私はほぼすべての演奏に不満がありますが‥まず自分の練習が足りなかった?と反省します。次にもっと!練習しよう!と決意して実際に自分の出来る限りの練習をして演奏します。結果「またダメだった=満足できない」です。上達を感じる前に「あんなに練習したのに!」と思う気持ちが大きくなります。
つまり「練習の量と質」について反省し改善する努力に終わりも到達点もないという事です。
 さらに別の要因として自分の演奏は「傷」が大きく感じることです。
演奏しながらミスに気付いても修正すること・演奏しなおすことは基本的にできません。
演奏中にはミスを気にするより「次の音」を演奏することに集中しています。演奏後に録音を聴いてみて打ちひしがれるのは私だけ?ではないようにも聞いています。
 日ごろから生徒さんにもオーケストラのメンバーにも間違えることを恐れて小さな表現になるのは間違っていることだと伝えているのに‥実際に間違っている自分の演奏は許せない!(笑)自己矛盾です。間違えない演奏が最高の演奏ではないこともブログに書いています。人間なのに間違えないのは努力の結果です。それ自体は素晴らしいことです。自分の演奏を誰かと比較しています。それは「間違えない人」との比較です。ミスをしない演奏に憧れているのは紛れもない事実です。
 ミスに感じていないミスもある。つまり今の自分のレベル=耳の精度では「あっている」と感じても、もっと微細な違いをもっと短い時間で「測定」できる耳を持った人には「ミス」として感じるはずです。事実演奏会で私が失敗しても後で「え?全然わかりませんでした」と本気で言ってくれる人がたくさんいます。「優しさ」もありますが本当に気付かなかった人もいるようです。その人の耳の精度が低いと言うより自分が「気にしすぎている」事が多いようです。

「自分の演奏をもう一人の自分が聴いているつもりで観察しなさい」
これは私の師匠が教えてくださった言葉です。門下生の発表会で演奏した後に
「どんなに高揚(興奮)しても頭のどこかに冷静さを残しなさい」と言うメモ書き=天の声を頂いたこともあります。まさに!真実です。
練習は常に「第三者的な観察」を心がけ、本番の演奏中は「真っ白にならない」ことは一番難しいことです。逆になりがちです。練習ではムキになったり観察力が足りなかったりしがちです。本番では熱くなりすぎて本来の自分が出来ることが出来なくなることがあります。
 自分の演奏を聴くことは「鏡に映った自分を見る」ことに似ています。日常生活で「人目を気にしない」人でも常識的な外観・外見は整えるでしょう。パジャマのままでごみを出す人もいれば「ばっちり!」お化粧しないと外に出ない人もいるのでは?ただ大切な人と対面する時に相手に不快感を与えないような準備をするのは「常識」の範囲だと思います。それ以上に人に見られる職業‥例えば映画やテレビのカメラで撮影される俳優さんやアナウンサー、写真のモデルさんなどにとって「鏡」を見るのは一つの仕事かも知れません。
 音楽を演奏する人が自分の演奏を聴いてチェックする・反省する・改善するのも大切な練習です。「嫌だから聴かない」人が圧倒的に多数です。趣味であっても自分が上達しようと思うなら「録音」を聴くことは上達のポイントになると思います。ましてや専門家の場合には「嫌でも聴くべき」だと思っています。自分の演奏がどう?聞こえているのかを知ることは、人にどう見られているのか?鏡で確かめるのと同じだからです。音楽はその場で消える芸術ですから「終わった演奏を聴いても仕方ない」と言うのは詭弁です。一期一会の音楽だからこそ自分の演奏を他人の演奏を聴く耳で聴いて「感じる」事も重要な事だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術のレベルを考える

今回のテーマは演奏技術について考えるものです。
映像は昨年のハイフェッツ国際コンクールで第1位になったヴァイオリニストの演奏です。
あくまても「好き嫌い」を極力排除して可能な限り「演奏技術」に絞って考えてみたいと思います。
 ヴァイオリンを初めて練習し始めたばかりの「初心者」にも演奏技術は間違いなく存在します。ヴァイオリン・弓などの「楽器の個体差=価格の違い」も問題ではありません。
ヴァイオリンで音を出す技術だとも言えます。どんな音をどんな音色でという視点になると主観的な要素が中心になります。良い音、音量が豊かなどの評価も聴く人の主観です。
1.「正しい音の高さ(ピッチ)」で演奏する精度
2.「雑音を出さない演奏」の確率
3.「楽譜に書かれた強弱・テンポなどの指示通りの演奏」のレベル
この3項目以外に「技術」と呼べるものがあるでしょうか?
音楽を聴く人の「能力・技術の違い」によってはレベルの差=違いが判断できなくて当たり前です。例えば上記「1」のピッチの正確さを聴き分ける耳の精度=感覚は人によって違います。
音の高さを厳密に計測するには本来「周波数」を計測する機械が必要です。
チューナーと呼ばれるものにも様々な物があります。スマホなどのアプリでも周波数を表示できるものがあります。ただ「反応速度」つまり細かい=短い音やピアノの音とヴァイオリンの音が同時に鳴っている時の「ヴァイオリンの音だけ」を計測できるチューナーとなると、一般に使われているものでは計測不可能です。人間の耳は「ヴァイオリン音だけ」を音色の違いから聴き分けることが出来ます。その音の「瞬間的なピッチ」を判断できる耳は演奏者にとって必要な感覚です。正確なピッチで演奏できる人であれば他人の演奏のピッチに対しても精度の高い「評価」が出来ることになります。この精度を高めることもヴァイオリン演奏に不可欠なトレーニングです。
上記「2」の雑音の有無については「どこまでを雑音と言うか?」の基準がありません。
弓の毛で弦を擦った「摩擦」で音を出している通常の演奏方法でも雑音を「ゼロ」にすることは物理的に不可能です。何故なら「摩擦の連続」で発音する以上、常に弦の振動「以外の音」が含まれているからです。ピチカートの場合は指ではじいた直後から「余韻」として音が消えるまでの時間が「音」になりますから摩擦音=雑音はありません。この摩擦音=雑音の量が多ければ「ザラザラ」した印象の音に聴こえ、「ゼロ」にはなりません。当然音量を大きくするために「強い圧力」で弦を擦る必要が生まれるため雑音も比例して大きくなります。
「左手の指が弦を押さえる音」は通常の生演奏では客席に聞こえるほど大きくありません。昔の録音方法では記録されない音量ですが、現在の録音は演奏者に近い位置に小さな音も収録出来る感度の良いマイクを立て、テープレコーダー特有の「サー」っという雑音を一切含まないデジタル録音で記録されますので「弦を押さえる音・離す音」まで記録されます。これを「雑音」と言うか?は個人の見解によって違います。
「3」について、楽譜の出版社によって指示が異なっているの場合が殆どです。特に時代が古くなるほどその「違い」は大きくなります。ある楽譜には「フォルテ」で、違う楽譜には「指示なし」と言う場合です。演奏者が使っている楽譜を確認しながら「あ。ピアノにしては大きいような」と言う主観が入ってしましますが「指示に従った変化ができるかできないか?」と言う意味のレベルです。 

ここまでお読みいただければお気づきのようにいわゆる「じょうずな演奏」の定義が聴く人の能力によって変わってくるという事です。技術の違いがすべて判断できる人は、演奏している人と同等かそれ以上の技術を持った人でなければつじつまが合わない!と言う事になります。
「楽器が弾けなくてもピッチやミスは判断できる!」と言い切る方もいますが実際に自分が出来ないこと=到達していな技術レベルの違いを本当に判断できるのか?と聴かれれば「できない」としか答えられないはずです。違う楽器、例えば私がトランペットの技術のレベルについて何か言えるか?口が裂けても「技術」についてコメントは出来ません。「ピッチ」や「雑音に聴こえた音」「印象」は表現できますが何が難しいのか?知らない人間が技術についてものをいう事は「無礼者!」(笑)だと思っています。その意味では指揮者って最悪の無礼者だと思います。すみません。

 前回のブログで書きましたが「AI」の進化・コンピューターの処理能力の高速化で人間と同じように間違える演奏も機械が考えて「演奏」できる時代です。人間の出したヴァイオリンの音を記録=録音しパソコンに波形データとして取り込みそれを鍵盤に振り分ける「サンプリングキーボード」は20年以上前から実用化されています。ヴァイオリンの音を「生で聴く」時と同じ音色・音量で再現する再生装置も技術的には既に可能です。つまりヴァイオリニストの代わりにその人が出す音とまったく同じに聞こえる音を鳴らすスピーカーです。大した技術ではありません。楽器と演奏者が演奏しながら微妙に動くことで起こる微妙な変化も、スピーカーを同じように動かすことで再現できます。
ましてや「録音物」であれば、もはや人間の演奏と見分けのつかない音を再現することは問題なく出来る時代です。「ビブラートは?」それも再現できます。音色は「好み次第」でどんな音にも作り変えられます。サラサーテだろうがウィニアウフスキーだろうが(笑)どんなテンポでも演奏にミスはありません。
 人間の演奏技術が「ミスのない演奏」こそが高い!とするならそれを聴く人が判断できることが前提になります。一部の人の中で「すごい」だけの話です。
F1やスポーツのように誰が見ても納得できる「技術レベル=数値の序列」を演奏に求めるのは大した意味を持たないと思います。好みが優先して当然だと思います。一部の「レベルの高いヴァイオリニスト」の評価で「きっとこのヴァイオリニストはじょうずなんだ」と思い込み、拝みながら聴くよりも身近な人の演奏に「じょうず!」と拍手する方が人間らしい音楽の楽しみ方だと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介