メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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2026年

音を音楽にするために必要な技術と知識と経験

映像は「レ・ミゼラブル」の中で歌われる「オン・マイ・オウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。音楽を聴いて感情を揺り動かされる経験は演奏をしたことがなくても体験出来ることです。演奏して人の感情をゆり動かすことは簡単でしょうか?
 今回のテーマは「音」を並べる作業ではなく演奏する人の「感情」「思考」を表現する音楽を演奏するために必要な「基礎」を考えるものです。

「演奏技術」を身に付けることのためには時間と労力が必要です。趣味でも専門家でも音を出す技術がなければ楽器の演奏は始まりません。しかし「コンピューター」と言う道具を使うと楽器の演奏技術が皆無でも自分の好きな音をすぐに「演奏」できます。「パソコンで作った音は音楽ではない!」これは間違っています。クラシック音楽をスマホやテレビ、ラジオで聴く場合に「音楽ではない」と考える人はいないはずです。「電気・機械で作られた音はダメだ」これも非常識です。ロックでエレキギターを使ったら?クラシックの野外コンサートでマイクとスピーカーを使ったら?考えれば「電気・機械を使わずに音楽を聴く」事の方が圧倒的に難しく・数が少ないのが現代なのです。昔からある楽器の中でもパイプオルガンは演奏者の「遠隔操作」で音楽を奏でる楽器です。ピアノも1万点以上の部品(多くは金属部品)で出来上がった「機械のような」楽器です。

 楽器の種類によって演奏の技術が全く違います。一見誰でも弾けそうに感じる楽器もあれば見るからに難しそうな楽器、実際に試してみると音さえ出ない楽器もあります。先述のパソコンや電子オルガン、シンセサイザーを操作するための知識、技術がなければ当然「電源さえいれられない」楽器です。
 そのような多彩な楽器がありますが人間が、自分の好きな「音」で好きな「音楽」を演奏しようとする「意欲」は共通するものです。むしろこの気持ちがなければ演奏=音楽は発生しません。機械が自分で考えて音楽を作る時代がきっとやってきます。「AI」と呼ばれる技術を使って実際にBGMを作る技術はすでに実用化されています。バッハやベートーヴェンが作曲した曲の楽譜のデータを入力しなくても、機械に聴かせる=学習させる事を積み重ねると、世界中のどんな演奏家の演奏とも違う「独自」の演奏が可能なはずです。もはや人間の演奏技術はコンピューターにとっては「かんたーん!」な事の一つです。どんな速さでも間違えずに最高の音色で演奏できるのは「当たり前」で、人間のように「ミスをする」ことも可能です。
楽譜が読めなくても、入力しなくても「音」を読み込ませるだけで独奏曲をアンサンブルに編曲することも既に可能になっています。
あれ?人間が苦労して楽器の練習をして演奏する「必要性」って残ってないの?(笑)

 機械の力で人間の生活を楽にする使い方もできます。身の回りに当たり前にある「家電製品」を見れば電子レンジ、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機などがない時代、すべては「知恵と労力」で行っていました。それらは「誰か」が考えて努力して創り出した技術です。
 人間の楽しみは必ずしも「便利」だけを重視していません。スポーツにしても本を読むことにしても、アウトドアでキャンプを楽しむ、車やバイクの運転を楽しむ‥など楽しむために敢えて「不便」を選ぶことにも目を向けるべきです。
 楽器を演奏して音楽を作る「楽しみ」もその一つです。時間と労力をかけて汗を流し「努力」することが楽しみなのです。

 人間は苦しい事やストレスを感じることを嫌がります。人によって差はありますが、なかなか思ったように出来ないことはストレスになります。実際に楽器の演奏を楽しもうと思って楽器を用意しレッスンに通っても「できない」ストレスが原因で「挫折」して演奏を止める人が多い現実があります。少しでも短期間に出来るようになれば「趣味の演奏」をする人も増えると思います。では「どうすれば?」辛い思いをせずに短期間に上達するのでしょうか?
「学ぶこと」です。AIは「学習する=記憶して処理する」技術です。記憶する容量、処理する速度も日々進化していますが原理は「学習」の積み重ねなのです。
私たち人間も音楽を作る楽しみを持ち続けるために「学ぶ」事が何よりも大切なのです。
もっと言えば「学ぶことが楽しい」と考えることです。教えてもらうだけが学びではありません。観察して試して確認して‥と言う事を繰り返すのも学びです。受け身=考えずに言われたことを繰り返すだけでは楽しみは生まれません。習ったことをどうすれば?と考えます。さらに習っていない曲を演奏する時に自分の感覚と技術を頼りにして音楽を創造します。
 レシピの通りに料理する事や素材の鮮度や状態を見極めることは「技術の基本」です。
自己流=自分の好きなやり方を見つけるために失敗は不可欠です。失敗しないと「美味しくない」時を見つけられないからです。練習して失敗する=思ったように演奏できない経験も同じです。なぜ?失敗するのかを観察しなければ上達しません。料理で言えば砂糖と塩を見分け使う量を記憶していなければ、同じ失敗を繰り返すの当たり前ですよね。

 「出来ないことがあるから面白い」この考え方こそが人間の知恵です。
前のブログでも書きましたが短絡的に=安直に自分の意志を他人に押し付ける考え・行動は知恵を使わず野生の本能だけで行動している「野蛮人」です。音楽を創造する人が自分の価値観を他人に押し付けるでしょうか?バッハやモーツァルトの価値観を認めなければ現代の音楽は存在しませんでした。自分の考え・感覚を自分で肯定しながら他人=例えば師匠や他人の評価にも耳を傾ける「受容性」のない人間には音楽を楽しむことは無理です。
 演奏を自己流に仕上げる楽しみが「人間らしい」行為だと思っています。すぐに出来れば良いのではなく、間違えなければ素晴らしいのではないのです。上達のために使える「現代機器」は使うべきです。チューナーでもメトロノームでもICレコーダーでも自分の学びの為に活用するのは良いことです。
 自分の楽しみは自分でしか感じられない。他人の感覚と違う事が宝物です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

50年前の自分に説教ww

 動画(音声だけです)は私が中学2年生の時に銀座ヤマハホールで
行われた師匠久保田良作先生門下生の発表会で演奏した「ハイドン ヴァイオリンコンチェルト 第1楽章」の録音です。元はもちろんカセットテープの音です。ピアノは‥すみません。情報も記憶もがありません😿覚えているのはこの発表会の数カ月前にヴァイオリンを新調して1808年制の楽器に持ち替えたという事。さらに中学1年生になってから久保田先生のレッスンを受けるまでの約2年間、先生の奥様由美子先生のレッスンをご自宅の2階で受けていたこと。
 当時は東京都小金井市に父が建てた自宅に家族4人で暮らしていました。5年生になるまで父の転勤で社宅を転々とし転校ばかりしていました。なんにしてもヴァイオリンに打ち込む子供ではなかった事は事実です。サラリーマン家庭の我が家にとって似つかわしくない高価なヴァイオリンを買ってもらっておきながら!しかも当時から桐朋学園大学の教授を務められ現在の天皇陛下=当時は浩宮殿下にヴァイオリンを指導されていた高名な先生の門下生に加えて頂いていたにも関わらず!なのです。環境にこれほど恵まれていながら当の本人は?熱心に練習するでもなく将来の夢を「ヴァイオリニスト」と考えるでもなく、いたって平凡な中学生として生活していました。

 ここまで読まれた方はきっと「優しくて子供の教育に熱心なご両親だったんだ」と感じられるはずです。事実、私の両親は今思い返しても優しく子煩悩でした。当時の平均的な生活レベルを正確には知りませんが恐らく「中の上」(笑)位の環境だったのでは?と思います。
お金持ちでもなく貧乏でもない。当時はほとんどの家庭がそんな状況だったように思います。今のような格差も少しはあった気がしますが、それはむしろ「戦後のかけら」とも言える部分だった記憶があります。

 ヴァイオリンのレッスンは週に1回。東中野から徒歩5分ほどの久保田先生のご自宅まで母親と一緒に往復していました。恐らく土曜日か日曜日の日中レッスンが殆どだった記憶があります。武蔵小金井から中央線の快速電車「赤い電車」に乗って中野か三鷹で総武線直通の中央線各駅停車「黄色い電車」に乗り換えて通っていました。
 自宅での練習は?まさに「仕方なく」と言う感じでした。親に言われてから練習するのが当たり前。時間は多分30分。内容はレッスンに持っていくカール・フレッシュのスケール(音階)とクロイツェルやフィロリロなどのエチュード、さらに「曲」と呼んでいたコンチェルトの「一部」をチョロチョロっと弾いて「おしまい!」
 これで上達する子がいれば「むしろ天才」ですが平凡な子供の証のようにレッスンは毎回同じような事の指摘が繰り返される。
母も父も事あるごとに「嫌ならやめなさい」と叱るのですがヴァイオリンをやめたからと言って他にやりたいことがあるわけでもなく、5歳年上の兄のように勉強もスポーツも優秀!になれる希望もなく。
叱られると「やめない」だけの日々が続きました。
なんという!天邪鬼?わがまま?おバカな子供でしょう。
その日々が少しだけ?大きく?変わったのでこの発表会に出させて頂く「お許し」を先生から頂き、レッスン時に一度だけピアノ「の先生」←これが誰だったのかさえ思い出せない‥との合わせがあったのを覚えています。当然「初めてのピアノつき演奏」でした。母も私も妙に感動し(笑)珍しく夜になったレッスンの帰り道「なんか嬉しかったね」と会話したのを覚えています。それまでヴァイオリンは「レッスン」のために練習していた子供にとって「音楽」としてのソロヴァイオリンを経験したのがこの日でした。

「合奏」でヴァイオリンを弾くことの面白さは「部活」ですでに感じていました。公立中学にも関わらず音楽教諭でクラブ活動の顧問でもあった室星先生との出会いも私の人生を決定する大きなものでした。
恐らく私費を使って買い集めたと思われるヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット、メロホン=ピストン式のホルン、打楽器、後は「電子キーボード」での合奏。当時ヴァイオリンを学校外で習っている子供は学校で恐らく私だけでした。当然「スター誕生」ww
何よりもそこで出会ったクラスも学年も違う「仲間」との関係が心地よく楽しかった!初恋の相手‥はそのクラブにはいない女の子でしたが(笑)
ヴァイオリンを弾く楽しさを初めて感じながら自宅での「レッスンの為の練習」には必要性も感じていませんでした。こうなると完全に「豚に真珠」「猫に小判」「宝=ヴァイオリンの持ち腐れ」
「反抗期」とは言えども‥もしも自分の子供だったら?もし自分の生徒さんだったら?考えてみます。

子供の成長過程で「自我」「自立」つまり大人の一般的な「モラル」「マナー」特に他人と自分の関係性を考えた発言などが出来る年齢には大きな個人差があります。総じて女の子は早期に自分と他人との関係性を感じ「おとな」に近い言動が出来るようです。
 自分の子供・自分の親や家族「だから許せない」事と「だから許せる」事があります。これは年齢を重ね経験を重ねるほどに感じるものかも知れません。「許せない」ことは家族の性格から派生する言動・行動に多く感じます。親子は互いに特別な関係=他人とは違う関係性を感じながら生活します。「許せる」中に例えば服装‥家庭によって違いますが‥や約束を忘れた時などの「あまい謝罪」などもありますが、他人だとしても許せる範囲が広がるのは「寛容な心」と考えれば悪い事ではないですね。
 私の「不謹慎」なヴァイオリンへの取り組みを少しでも早期に改めさせていたら?仮定の話は無意味ですが、今現在「子供」を育てている人=大人にとって共通の問題でもあります。

「体罰」を肯定し「必要だ」と主張する人間を心の底から軽蔑します。「言っても分からない人間には体罰が必要!」程度の知能しかない人間は通常の生活をしている人の「害悪」でしかありません。相手を恫喝し怯えさせて自分に従わせるのは「馬鹿でもできる」最も簡単な「抑圧厚意」です。要は相手の恐怖心を利用するだけの「野生動物」つまり言語を持たない生物のする行動です。むしろこの言語さえ理解できない人間が他人に害を及ばす前に病院で隔離するべきです。「人権」を考えるためには言語を理解できる頭脳を持っていることが前提です。
 体罰や「脅し」「ちから」で子供を自分=大人の思ったように行動させることで大人は「良かった」と自画自賛しても子供は不幸なだけです。「服従」させられた子供に演奏の技術が身について「神童」「天才」と呼ばれ、育てた大人たちは自分の名誉のように誇らしく思うでしょう。確かに「大人のエゴのなせるわざ」です。
「子供は大人の言う通りにすれば良い子に育つ」
これこそが間違った教育「大日本帝国」時代の間違った「思想教育」です。

ヴァイオリンを練習すること、それは自らの意志で人に何かを習うことの意義を感じることです。練習の成果だけを評価するのは誰でもできることですが問題は演奏した本人が音楽に向き合う気持ちを持ち続けられるか?と言う事に尽きます。評価が低くても自分の中で音楽を大切にしながら生きることは誰かに言われて出来ることではなりません。私自身、門下生の中で自分が最も「出来の悪い弟子」と感じていながら師匠は私への指導で手を抜くこともなく、諦めることもありませんでした。当然「体罰」など必要とせずに。師匠への尊敬の気持ちと感謝の気持ちを感じ続けたことが今現在も音楽に関わって生きている事の証明だと思います。
 確かにこの演奏をしていた当時にもっと上を目指した練習をする「気持ち」があれば今と違った技術を持っていたかも知れません。
これは良く言われることですが「生きてきた中で不必要な体験はない」と言う言葉があります。挫折や不合理な出来事に直面した時には無駄にしか感じない時間があります。私自身も記憶にあります。
しかしそれも今を生きている自分にとっては通るべくして通った道だったように感じます。中2の下手くそな演奏を聴いて今の自分も下手くそ(笑)に感じるのは当然のことです。何も変わっていない部分が人間の「コア」です。音楽にもそれが現れています。歌い方、感じ方の根っこの部分は恐らく一生変わらないものです。技術の変化はあって当然です。若い頃のエネルギーは「若さゆえ」です。年齢と共に持久力や瞬発力は下がります。その意味では技術が低下します。
 自分の50年後の演奏を想像する人はいませんし考えたところで無意味かもしれませんが、その時に出来る演奏を自分で受け入れることが何よりも重要だと思っています。
 13歳の野村謙介の演奏も「その時だから出来た演奏」だと認めてあげたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を記憶して演奏する道順

 映像は学生時代からの友人作曲家「久木山 直」Kukiyama Naoshiさんが作曲し
「こんなの書いたよ。良かったら弾いて~」と楽譜を送って頂き、お言葉に甘えて練習して自宅で録音した演奏に2014年3月末に私の実家があった東京都小金井市の都立小金井公園の桜を撮影した写真をスライドショーにした映像です。
 久木山氏から楽譜を頂いたのが3月29日の夜。一緒にPCを使った「音源」も頂きました。
桜が散るまでに!とまず楽譜を覚える作業からスタート。
 昨日(4月8日)自宅で浩子さんと演奏して録音しました。
初見でも演奏可能!と言うアマチュアもいると思います。
全体にリズムの変化が少なく、音域もG線の「C=ド」からE線の「D=レ」までの音域。
臨時記号も数箇所だけ。テンポはゆったりした曲です。
「すぐに覚えられる気がする」と感じる方もおられると思いますが私には「超難関!」でした。
何より「旋律」の大きな部品=フレーズが覚えにくかったこと。日本語で例えるなら段落・文節の切れ目が合間になっていて、それぞれが少しずつ違うという特色があります。

 以前のブログでも書きましたが「楽譜を覚える」事と「楽譜を見ないで音楽を演奏する」事は全く違います。演奏しない人の場合=音楽を聴いて楽しむ人が楽譜を一度も見なくても好きな演奏を何十回、何百回と聴くうちに小さな雑音や細かい部分まで無意識に覚えることは珍しい事ではありません。楽譜は作曲者と演奏家をつなぐ「指示書・設計図」です。実際に出来上がったものを使う人にとっては設計図を見る必要などありません。

 今回の「SAKURA」をヴァイオリン・ピアノで演奏した音源はどこにもありませんでした。当然ですよね。作曲者が「こんなの書いたよ」と教えてくれた曲ですから。
楽譜を「見ながら」演奏できる視力が私にあればなぁ‥と考えました。正直に書けばストレスですが受け入れるしかありません。覚えれば良いだけです。
 多くの方が覚えた「九九」をどうやって覚えたか?覚えていますか。
同じように学校で習った「歴史の年号」「国名と首都の名前」「地図の記号」「円周率」「元素記号」「三角関数」など覚えたものの、その後の人生で一度も!思い出す場面がなかった記憶も「苦労して覚えたことは覚えている」(笑)ってありませんか?
 忘れてしまいそうで覚えている事もきっとあります。例えば自転車で片手を離して走ったり「立ちこぎ」した人は多くても大人になってほとんど!自転車に乗っていない人は多いはずです。10年以上乗っていなくてもきっとすぐに走れて片手走行も出来るでしょう。
 鉄棒の逆上がり、水泳なども同様です。何故か?身体が覚えている運動です。
楽器の演奏もとても良く似ています。一度でもヴァイオリンを練習した人は楽器と弓の「持ち方・構え方」をずっと覚えています。

 記憶のひとつ「道順・道程」があります。今ならナビゲーションと言う現代文明のツールを使うでしょうが昔は「地図」と「記憶」がすべてでした。
 目的地までの経路を複数覚えている場合もあります。学校の行きかえりの道順や歩きなれた道で「いつもと違う道」を選んで歩いた経験はありませんか?
「ランドマーク」つまり目印になる建物や看板、風景を記憶して歩くこともあります。
人に道順を教えるケースで「八百屋さんの角を右に曲がって‥」などですね。
 初めて通った道を反対方向「帰り道」に同じ道を歩いているはずなのに「あれ?この道で合ってるのかな?」と感じたことはありませんか?風景がまったく違うので当然のことです。
私たちはGPSで自分のいる場所を確認していません。周囲の風景、見たことのある建物など「記憶」を頼りにしています。

 音楽を演奏する時に楽譜を見ながら演奏するのは地図を見ながら目的地=楽譜の終わりまで進んでいるのとよく似ています。楽譜には次に演奏する音や休符、強弱の指示などが書かれています。地図で言うなら信号の名前やコンビニ、道路の曲がり具合です。
 地図を見ながら車を運転した経験をお持ちの方なら、どれほど危なっかしいことか想像が出来ると思います。膝の上に地図を乗せて信号で止まるたびに地図を見てページの切れ目ではさらに大変でした。
 楽譜を見ながら演奏するのはまさにこの状態だと思います。車の運転と違って演奏で間違えても違反になりませし(笑)誰も傷つけませんが危なっかしいことは確かです。
もし楽譜が風でふわ~っと飛んでしまったら?譜めくりに失敗したら?
楽譜の最後までを、どんな指使い、弓使いでも到達出来て途中の風景を楽しみながら進めるか?だと思います。
「SAKURA」は実は覚えにくい曲でした。今、どこを弾いているのか?迷子になりやすい曲なのです。同じような建物が立ち並ぶ団地の中で迷子になった気分です。
 まず音楽のフレーズ=段落で切ることから始めます。段落ごとに「特色」を見つけます。
最初の音や音型=音の上下などを考える作業です。次にその段落がどんな順序で連結されて全体像としてどこに?山があるのかを考えます。さらに「差分」つまり段落ごとの違いを見つけます。似ている段落の場合やまったく違う音型、独特のリズムがある段落の「並び方」を考えます。
 並行して「音色」を考えていきます。音楽のすべての場所=音符休符には違った風景があります。同じ音の高さ・長さでも異なった風景があります。それを考えて記憶していきます。
弦・指と次の音との「つなぎ方」を決めていきます。この作業は先ほどの「車の運転」では感じない・必要のない事かも知れません。敢えて例えるなら道路が混んでいて「抜け道」を考える時の思考に少し似ていますが「楽しむ」事を目的とする演奏とは意味が違います。

 時間がかかる作業です。見ながら演奏し思いついた指、弓を記入すれば次に演奏する時に見てすぐに分かります。楽譜に色々な事を書き込んで練習した記憶が私にもあります。書いたのに無視したり(笑)間違えることも「ざら」でしたが‥。
 時間をかけて「作った音楽」を何も考えずに最初から最後まで自然に通せるようになるには「身体の記憶」が必要です。逆上がりと似ています(笑)私の場合、回数だけを重ねるよりピアノと一緒に演奏して音の全体像を感じたり「録音」と言う緊張感を作って記憶を上書きする事が効率的ですが人によって違うと思います。
 楽器を持たずに「思い出す」事で記憶の薄い部分が浮かび上がります。これも大切なプロセスです。
 実際に人前で演奏する場合に、記憶した事と違う事を意図的に行ったり、無意識に違う指使いで演奏してしまったりします。本来はない方が良いのかもしれませんが人間なので記憶が薄れることも当然あり得ます。そんな時に「身体の記憶」と「脳の記憶」を組み合わせて次の音に進みます。これが「最終形」なのか?私にはわかりません。
いずれにしても楽譜を覚えることと「音楽を覚えて演奏する」ことがまったく違う事を少しでもお伝え出来たらと願っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

演奏会のマナーとルールって?

 映像はバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」を演奏したときのものです。今回のテーマは主にクラシック音楽の演奏会に行きなれていない人にも、よく聞きに行く人にも考えてもらえたら嬉しいな…と言う内容です。もちろん私個人の「私見」ですのでご理解ください。
 結論を先に述べるなら「思いやり」と「感謝・敬意」さえ忘れなければ難しい事ではない!という事です。

 演奏会の聴き方に厳格なルールや罰則は「ほとんど」ありません。一部「肖像権」「演奏著作権」に関する法律が適用される一面があり、これは「守らなければいけない」規則です。
もちろんホール=建物の中であれば管理する組織や団体が決めた「規則」もあります。客席での飲食の禁止や喫煙、危険物の持ち込みなどは条例などにしたがって責任者が来場者に伝えなければ責任者が罰せられることもあるため来場者として守るべき規則です。
 多くのクラシック演奏会で開演前にアナウンスがあります。
アラームや電子音が出ないようにと言うお願いは来場者同士、演奏する人への配慮です。撮影や録音のお断りは主催する人と演奏者の判断で「許可」されるケースも稀にありますが周囲の聴衆への配慮は当然必要です。
 ここからが「暗黙の」部分です(笑)
・演奏中に客席から移動する
・演奏中に客席ドアを開けて出入りする
・くしゃみや咳を遠慮なく=音を抑えずにする
・大きな物音をたてる

・演奏前や演奏後に拍手をする
・演奏者がステージがら袖に出た後もアンコールを求めて拍手する
・演奏中に居眠りをする
・演奏が気に入らなかったので敢えて拍手をしない
・演奏が気に入らなかったので「ブーイング」する
・演奏が素晴らしいと感じたので「ブラボー!」と叫ぶ
・演奏後に立って拍手する

さぁ、皆さんは上の中で「これはあり」「なし!」と言う項目がありますか?程度問題は前提としてありますが。
実際のところ、これらはすべて厳格な決まりはありません。当然、罰則もありません。さらに言えば時代や演奏する国や地域による文化の違いで「当たり前」だったりすることもあります。
 一つの例で言えば生理現象である「咳・くしゃみ」が我慢できない時は誰にでもあり得ます。体調が良くでも我慢できない場合だってあります。一生懸命に我慢して我慢して「無理!」と思ったら?ハンカチか洋服ででも鼻と口を覆って出来るだけ小さな音で咳をしたとします。それを「マナーが悪い!」と片づけるのは簡単ですが…人それぞれ感覚が違います。小さな物音でもうるさいと感じるも演奏者や聴衆もいます。
 現実にあった事ですが演奏中に携帯電話の呼び出し音がなってしまったり、客席で咳をした人がいて演奏を中断したコンサートがあります。人間誰でも失敗することはありますよね?

電源を切った「つもり」だったのに鳴ってしまったり咳がどうしても我慢できなかったり。
 曲が終わった途端の「ブラボー!」も演奏の「余韻」を楽しみたい人、楽しんでもらいたい演奏者にとっては「うるさい!」としか感じられません。「私はこの曲の終わりを知っているんだ。えっへん!」(笑)そんなに自己主張したければ自分で演奏するか自宅のCDで存分にやって欲しいと思うのは私だけでしょうか?
 海外のクラシックコンサートで演奏に不満だった聴衆が演奏後にブーイングし、足を踏み鳴らしたという事が何度もありました。
会場の聴衆「全員」が本当に不満だったのか?疑問です。少なくとも不満の意思表示を他の聴衆に押し付けるような行為は社会人として大人としてどうなの?とも思います。
 演奏後に拍手しないことで不満を表したり、演奏後すぐに席を立ち客席から出ていく行為。微妙ですが拍手は「良かった!」「満足した!」「演奏を聴かせてくれてありがとう!」と言う気持ちの表現だとすれば「拍手しない」ことも表現する自由があると思います。
 演奏する側から考えれば演奏後に拍手が「まばら」な状態で聞こえれば自分の演奏が気に入られなかった…と感じるものです。拍手の仕方にルールはありません。ましてや「拍手の速さ・大きさ」は人によって違って当たり前です。ひとつ言えるのは客席から演奏者への「感謝」を伝える方法は拍手しかないことです。良かったと思えば精一杯の拍手をするのは良いことだと思います。
 アンコール。これも価値観の違いがあります。ポピュラーのライブでもクラシックコンサートでも「慣例」として行われる事が多い=ない場合も当然あります…だけの事です。特に初めてライブやコンサートに行って「プログラムが全部終わった」から拍手して席を立って帰ろう「と」思ったのにみんなずーっと拍手している状態は?むしろ気の毒だと思いませんか?慣例だから…と言えばそうかも知れません。
これも「程度」問題だと思います。私が指揮をしたり演奏するコンサートではプログラム最後の曲を演奏し終わったら、礼のお辞儀ををしてすぐに客席に向かって「もう1曲だけアンコールで演奏してもよろしいですか?」とお声を掛けます。この一言で「帰りたい」方は堂々と退席できますし、聴きたいと感じた方はその場に残ることが出来ます。演奏する側の「思いやりと感謝」だと私は思っています。これが「正しい」と言うつもりはありません。
 主催する側と演奏を聴く側がお互いに共通した「理解」があれば良いことです。どちらかが高圧的だったり「上から目線」になるのは双方にとって不幸な事だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な筋肉の弛緩と運動

映像は去年2025年1月に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」
この曲を暗譜して弾きにくい部分(私にとって)を思ったテンポで弾くためにかなり長い時間が必要でした。
 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの演奏で使う「筋肉」とその結果でもある「運動」について考えるものです。)
 私は子供の頃に父や兄とキャッチボールして遊んでもらいました。
兄は文武両道。中学生の頃からテニスを本気で練習しながら勉強も出来る「スーパー兄ちゃん」でした。5学年離れた年齢だった事もあるのか?兄と私はお互いのテリトリーに決して近づきませんでした(笑)兄は未だに音楽は苦手だと言い、私はスポーツと勉強が「嫌い」と公言しています。あ。私が負けてますね…
 ボールを投げる、グローブでボールを取る。たかがキャッチボールですが楽器の演奏に役立つヒントがたくさんあります。子供でしたから少しでも「速いボールを投げる」ことに夢中になっていました。相手のグローブをめがけてコントロールして投げる。
思ったようには出来ないものでした。

 話をヴァイオリンに戻します。弓を「持つ」「動かす」時の力について整理します。
1.指先から腕の付け根までの「どの筋肉」を使うか?
2.その筋肉に「どの位の強さ」の力を入れるのか?
3.その力を「いつ?」いれて「いつ?」脱力するのか?
特に3.の「力を入れる」「力を抜く」それぞれにかかる時間が問題です。
レッスンをしていると多くの生徒さんが必要以上の力を、常に入れ続けていることに気付きます。まるで右腕を伸ばして10キロのダンベルを持ちながら腕を曲げ伸ばししているように見えます。力を抜くことの難しさです。完全に脱力したら?60グラムの弓でも持てません。重たい右腕を持ち上げることは不可能です。腕の曲げ伸ばしもできません。

必要「最低限」の力を見極める練習が不可欠です。ミニマムを知ることです。
弓の毛を弦に乗せてダウン・アップ出来る位置に右腕を保持して「止まる」ことからスタートです。この段階でも腕を持ち上げる力の「最低限」を探します。首や背中の筋肉に無意識に力が入っているはずです。その無駄な力を「捨てる」ことから始めます。
 その状態から弓を少しだけ=1センチほどで十分です…ダウン・アップのどちらかの方向に動かして、すぐに停止してまた腕を保持します。
 右手の指・手のひら・手首に無駄な力が入っているかも知れません。動かして止まる度に確認します。毎回「リセット」するイメージです。
 出てくる「音」を文字で表すなら「た」や「か」をイメージすることを進めます。
「ほ」とか「さ」は音が出る前に瞬間的な「無声音」が含まれています。また「が」や「だ」は圧力が強すぎる・動き出しの速度が遅すぎる時に発生する「ノイズ」が多すぎるからです。
「た」「か」は適度な「ノイズ」が「一瞬」入って初めて出せる音です。
 発音だけでなく「止まる瞬間」に気を付けることも重要です。「たー」「かー」にならないことです。発音した瞬間の「音量」だけに集中します。「音が出たらすぐに止まる」練習です。

 人間は防衛本能の表れで瞬間的に力を入れて身を守る行動が出来ます。
びっくりした時に体中に力が入った経験がありませんか?熱いやかんやお鍋に無意識に手が触れてしまった瞬間「あちっ!」と言うより速く手を動かしているはずですよね?
ただ逆に瞬間的に脱力する経験は思い浮かばないですよね。電車やバスで座席に座り寝落ちした経験はありますか?頭が後ろや前、横←隣の乗客の頭だったり(笑)に「がくっ」と曲がる瞬間。まさに脱力した瞬間ですが意識がありません。
 弓を「止める」運動には「力」が必要です。もし完全に脱力していたら「慣性の法則」ですぐには弓・腕が止まることはあり得ません。弓の毛と弦の摩擦は弓の動きを止めるほど大きくありません。「なんとなく」腕を止めているケースが殆どです。とても難しいので、弓の動きを1センチにしたのです。これが5センチ10センチになると、弓の持ち方も右腕の伸び方も「動き出し」と変わってしまいます。「動いたらすぐに止まる」ことで動かす力のままで止まるイメージがつかめます。
 止まった「後」動かし始める「前」に動かすための力を「捨てる」練習です。
一音ごとにリセットするのはそのためです。連続して弾きたくなりますが、必ず「リセット=脱力」する練習をすることをお勧めします。

 今回は触れませんが左手も基本的な考え方・練習方法は同じです。
音楽を聴いて感じるエネルギーの増減と演奏する時のエネルギー=物理的な力を意識的に分離する練習が必要だと思います。簡単に言えばフォルティッシモは力を入れると言う考えを捨てることです。ピアニッシモで力を抜いていったら?弦を指で押さえられない・弓がコントロールできない状態になりますよね。音量や印象と「身体の使い方」は別のものです。
 160キロの剛速球を投げる投手の動きは「楽そう」に見えます。むしろ見た目から力が入っている人の投げるボールは実際にはヘロヘロだったりします。
 プロボクシングのボクサーがあれだけ長時間のラウンド動き続け、さらにトレーニングした相手=プロボクサーを一撃で気絶させるようなパンチが出せるのは?多分「力の瞬間的なオン・オフ」が出来るからだと思います。楽器の演奏でヴァイオリンを壊す必要もなく(笑)弓が折れるほどの力で演奏しても無駄です。パフォーマンス=見ている人へのアピールで「エネルギー全開!です!」が必要だと思うならご自由にどうぞ。
 聴く人を「自然体」にするのが音楽です。わび・さびがあります。静・動があります。
演奏には重量挙げのようなパワーは不必要…いや「害悪」だと考えています。
 小さな力の変化を短い時間で行うことで、大きな変化を感じられる音を出す。
難しいですが頑張りましょう!
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

視覚障碍が与えてくれたこと

映像は今年2026年1月のリサイタルで演奏した「グラン・タンゴ」に過去のリサイタルで私たちが演奏した176曲のタイトルと作曲者を入れた動画です。
18年間続けているリサイタルの第1回では楽譜を見ながら演奏することが可能でした。
「網膜色素変性症」と言う進行性の目の病気は生まれつきの病で、現在も治療法が確立されていない難病として認められているもので、国内だけでも5万人以上の患者がいます。
 夜盲症の症状と視野狭窄(視野が欠けていく)症状で進行が進むと失明に至ります。
進行の速度や症状には大きな個人差があります。私の場合、4歳頃に診断を受けて以来50年近くの長い間大きな進行は見られず、楽譜を見ながら演奏することも可能でした。
 50歳を過ぎた頃から進行速度が早まり現在は右目の視力は殆どありません。
それでも左目で大きな楽譜を少しずつなら読み取るだけの視力が残っています。
生まれつき、あるいは幼い頃に失明している演奏者は世界中にたくさんいます。
ポピュラー音楽の世界でもスティビー・ワンダーやレイ・チャールズなども全盲です。
クラシック音楽ではヴァイオリニストやピアニストの日本人演奏家も活躍されています。
 私の現在の状態は「半盲」と呼ばれる状態です。いつまで?この状態が維持できるか誰にもわかりませんし、IPS細胞による治療がいつから認められるのか?も不明です。
不安やストレスがないと言えば嘘になります。今まで出来ていた事が徐々に出来なくなるのは誰でも不安に感じるものでしょう。生まれつきの病気でなくても事故や病気、ケガなどで身体の自由が一部失われることは誰にも起こり得ることです。加齢によって不自由に感じることが増える人も少なくありません。そうした変化をネガティブに考えることは自然な感情ですが、出来ることが少なくなって初めて「出来る」ことに感謝する気持ちが生まれることも事実です。リサイタルはこれからも続けていきます。新しい曲を演奏する場合に楽譜を元にして演奏するクラシック音楽の場合に、通常より時間がかかっても演奏することは出来るはずです。
全盲の演奏者が点字楽譜を用いて楽譜を覚える場合や、音と介助者の力を借りて音楽を覚える場合でも最終的に「演奏できる」能力が残っていれば悲嘆することなく演奏したいと思っています。

 視力と視野が普通の人より低く・狭くなった私が感じる演奏と「視覚」の関係について書いてみます。先述の通り以前は初見で楽譜を見ながら演奏することが出来ましたし、音楽高校・音楽大学で楽譜を音にするスキルも身に付けました。アマチュア演奏家が楽譜を音にすることが難しいと感じるのは、才能ではなくトレーニングの有無が原因です。楽譜に書かれた記号を楽器や声ですぐに音楽にする技術はトレーニングによって身に付けられます。
 しかしそれだけで「音楽」が仕上がることはあり得ません。どんなに初見の技術が高くなっても「音の羅列」を「音楽=意味・感情を感じるもの」に仕上げるための思考=頭脳を使った練習の時間が必要です。思った通りに演奏できるまでの時間が長い人と短い人はいます。それは「演奏技術の高さ」です。難しい=弾きにくいパッセージを短時間の練習、もしくは練習しなくてもすぐに思った通りの正確さと速さで美しく演奏できる技術もトレーニングで上達します。この演奏技術が高ければ「思ったように演奏できるまでの時間」が短くできるのでより多くの曲を演奏することが可能になります。
 思ったように…言葉では短いのですが「思う」ことが変化=深化します。もっと言えば変化してこそ!音楽が深まるものだと確信しています。

 私たちが生活する中で経験・体験を重ねて多くの「記憶」が脳に蓄積されます。
たとえ無意識であっても良い記憶も恐怖や不安の記憶も脳には残るものです。
楽譜が同じでも、感じるもの=想像するものが変化するのが人間です。10歳の子供と60歳の大人が同じ絵を見て想像する量も質も違うのは生きた時間=記憶の量による違いです。
年を取ると覚えることが難しくなる…多くの人が口にしますが私は疑問を感じます。
子供は新しいことに出会う=新しく覚えることが多いから覚える量が多いのです。
60歳になっても「初めて」の体験や感覚を感じることはあります。ただ「初めて」と思っていないだけで実は新しい記憶が脳に残されている意味では子供と同じです。
 さらに子供は道筋通りに何かを覚えようとしません。新しい興味があればそれがパソコンでもスマホでも触って確かめて自分の見たい映像をやゲームを見つけます。ところが大人はまず「壊してはいけない」「間違った操作をしてはいけない」とブレーキをかけながらマニュアルを読んでみたり恐る恐る進みます。当然、たどり着くまでに子供より時間がかかります。
単純に「記憶」することだけを子供と大人で比べれば、恐らく大人の能力の方が勝っている結果になるはずです。ましてや子供にとって興味のないことは覚えようという意思が働きません。

「認知症」が高齢になってから発症することが多いのは事実ですが、若くてもアルツハイマーなどの病気の人は記憶が消えてしまいます。「忘れる」のは人間の防御反応の一つだと言う説もあります。また脳の萎縮や組織の一部が病気や事故で傷ついた場合に「記憶障害」が起こることと通常の記憶力を混同するのは違う気がします。

 私自身の経験ですが視力が低下し視野が狭くなったことで今まで違った演奏が始まった気がしています。簡単に言えば「見ることに頼らない」演奏です。見えないので当たり前ですが(笑)
 見える事が当たり前の人間は当然ですが見た方が簡単なら見ようとします。
楽譜を見ながら弾いた方が暗譜するより楽です。覚える「意義・必要性」を感じないからです。では見ながら演奏することでマイナスになることはないでしょか?
 これを考えるにはまず「見ながら演奏することのメリット=プラス要素」を考えることです。なにかありますか?初見は楽譜が必要です。当然です。その段階から練習する=考える時間があります。考えたことを楽譜に文字や記号で書き込めば後ですぐに思い出せます。
しかし楽譜を見ることが演奏の「プラス」になることはないと考えます。強いて言えば「覚えなくても良いのでたくさん曲を同時に練習できる」ことでしょうか。もう一つは「覚えるまで楽譜を見ることができる」ことです。見えなくなって感じることです。
 昔、試験で弾く曲を暗譜するのが当然でしたから意識せずにある段階から楽譜を見ずに練習して言ことを覚えています。「いつの間にか覚える」という事です。
楽譜を見ずに演奏する時に次の音を思い出せなくなる事や「不安」があると、どうしても楽譜を見ながら弾きたくなります。暗譜で演奏することに不安がなくなる状態にする「練習」で何が変わるでしょうか?これが「プラス」の部分です。
 以前にも書いたことがありますが、舞台や映画・テレビの役者さんが台本を見ずに演技するのは見ている人がいつの間にか演技を「本物」に感じさせるために必要だからだと思います。
役者さんが台本を手にして目を落としながら台詞を言えば見ている人は「読んでいる」事で芝居=嘘の世界だと感じてしまいます。ストーリーに入り込めません。当然、感情移入も難しくなります。しかし「朗読」の場合は読み手の「声」だけで聴く人の想像力を掻き立てるものなので「視覚=見た目」は大きな問題になりません。
 音楽も「音」の世界ですから弾く姿や楽譜の有無で評価が変わる事はありません。
レコート、CD、ラジオで演奏者がどんな服装で楽譜を見ているかも分かりませんよね。
楽譜を見ずに演奏することは演奏者が音楽「だけ」に集中する上で有意義な事だと思います。
演奏しながら次の音を楽譜から読み取る「視覚からの脳の働き」を無くし、次の音に必要な身体の動かし方と音のイメージを作ることに集中することができます。
 人間は何かに集中すれば他の運動や感覚は「無意識」になります。次に出す音をどうやって?どんな音に?と言うことに集中しているとすれば楽譜は無意識に眺めているだけです。
逆に楽譜からの情報を得ることに集中すれば、音のイメージや身体の動かし方は無意識になります。これは「脳の働き」なのでマルチタスクが得意か苦手か?と言う問題ではありません。
 楽譜は作曲者の考え出した音楽の設計図です。それを実際の「音楽」にするのが演奏家です。楽譜に書かれた曲を自分の技術で音楽にする「練習」の段階で楽譜から離れ、自分の身体と「意思」で音楽を演奏する考えで言えば、音楽を覚える事は「自分の言葉で感情を伝える」ことに似ています。他人の書いた言葉=台詞・台本を自分で咀嚼し自分の感情を人に伝える気持ちを持って演奏したいと思います。
 これからも「音の世界」を楽しみたい。出来ることが減っても楽しめると信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

「~ような気がする」落とし穴

 今回のテーマは人間の思い込みと現実に目を向けたものです。
音楽を演奏する時、練習する時にも演奏会で演奏する時でさえ常に自分の演奏に心の底から「満足」出来ることはほとんどありません(私の場合です)
 自分の「実際の顔」を自分の目で見ることは不可能です。鏡やガラスに映った顔は実物ではありませんし、カメラやビデオで撮影した自分の顔も実物ではありません。
 体調の変化を感じる時にも「少し熱があるような気がする」実際に体温計で張ってみると実際に微熱だったり実は平熱だったりと結果は様々です。
 微妙な違いに気が付く感覚も次第に慣れていくと感じなくなることがあります。
「小さなこと」にこだわる性格の人と「たいしたことじゃない」と思える人がいます。
バランス=程度の問題で偏った人の場合「神経質」か「粗雑」と言う分類になります。
 そもそも思い込む=気がすると言う状態は推測あるいは想像している状態で実際に検証した客観的な事実を知らない時、知った後でも納得出来ない時に感じるものです。

 ヴァイオリンの「音」「楽器の価値」について科学的な調査や実験が世界中で行われています。時代と共に調査方法が進化しています。昔は人間の目と耳で感じたり考えたりした事だけでした。どんな経験豊かな専門家や演奏家、楽器製作者でも感覚=主観的な結果でしかありません。現代の科学でヴァイオリン=楽器を調査する方法としてCTスキャンやMRIで楽器の内部=人間の視覚や触覚では感知できないを画像化したり、使用されている木材の組織を分子のレベルまで調べることが可能になりました。近い将来にはさらに細かい事まで分析できるでしょう。「それは科学」と否定する人もいますが私たちの身の回りでも珍しい事ではありません。昔は「血液型」さえ精度が低く曖昧なものでした。事件現場に残された血痕から血液型を調べ、それが犯人逮捕の証拠になっていました。現代はDNA情報で精度が以前の何万、何億倍と言う精度になり誤認逮捕が激減しました。
 楽器の木材としての寿命=楽器としての寿命もコレクターや演奏家の思いとは無関係に
化学分析と統計によって明らかにされています。作られた直後から木材の細胞、組織が常に変化します。表には現れていなくても「分子レベル」で解析すれば劣化は常に進んでいます。どんなに大切に管理しても木材は変化しやがて寿命を迎えます。
 もちろん「用途」によって寿命を過ぎても問題のないケースもあります。
「見た目」を楽しむ美術品であればどんなに劣化した木材でも表面的な大きな変化はありません。ただ「楽器」として木材自体が振動して音を出す場合、組織の劣化は致命的です。「それでも良い楽器だ!」確かに歴史的な価値は上がるものですが現実に出る「音」は木材の変化と共に変わるのです。演奏者が対応すれば?それも可能です。より低いテンション=張力の弦を張り、弱い圧力で弓を乗せれば「独特」の音が出せます。ただそれは「独特」な音でありその楽器の以前の音とは明らかに違う音です。
 古い楽器の良さに固執する人は「新作」の楽器に否定的です。しかしそれは「良いような気がする」と言う思い込みだと言えます。古い楽器も新しい楽器も経年変化します。変化しないヴァイオリンは存在しません。仮に材料である木材を伐採してから「100年後」の楽器だけを集めて演奏した「平均」的な音色と、その楽器をさらに100年経ってから同じ条件で比較した結果を知っている人がいるならば「平均的な楽器の最盛期」が分かるかも知れません。が現在そのような統計データはありません。手を触れずに美術館に飾っておいただけのヴァイオリンでも劣化します。演奏に使用すれば変化は早まります。当然劣化も早くなります。

 楽器の音、自分の演奏を観察して感じる「印象」は一定のものではありません。
どんなに経験のある人でも同じことです。聴覚は日々刻々と変わります。体調によっても変わります。視力検査の結果も同じです。その時々で結果が変わって当たり前です。
 自分の感覚を過信しない・でも何よりも大事にする。
矛盾する事ですがこれも「バランス」の問題です。音色や音量に「感じる」感覚は大切ですが一喜一憂したり偏った「理想」は精神的な健康を害するリスクもあります。
また人間関係を壊すことにもなりかねません。主観で人を批判する場合「表現の自由」と認められるケースと「名誉棄損」に該当したり、相手=批評された人を傷つけることもあります。感じたことをそのまま相手に伝えることを「正直」とは言いません。「無神経」と言うべきです。
 自分の感性・感覚を大切にしながら、自分以外の人の言葉を聴くことは簡単そうでとても難しいことです。すべては「主観=個人の感覚」です。科学的な分析結果ではありません。自分の演奏について少しでも客観的な事を知りたいなら「鏡を見る」よりも「録音を聴く」ことをお勧めします。鏡と同じで「実物」ではありません。マイクの性能、ヘッドホンの特性で音が変わるからです。それでもただ楽器の音をいつものように聞くより冷静に分析できる利点があります。

 理想は理想。現実は別物です。自分の理想は自分だけの感性です。
それを評価するのも自分の感性です。他人の評価は他人の理想に基づくものです。
その意味で音楽はすべて「自己満足」の表れだと言えます。もちろん満足していなくても理想=目標を他人に示す必要などありません。聴く人の感性で「よかった」と思ってもらえればラッキー!なのです。同じ演奏を聞いた人でも「全然よくない」と思う人がいるのも「あたりまえ!」なのです。自分の理想も常に変化して当然です。練習だけに人生の大切な時間を使うのも自由です。私は「生活しながら感じた感覚」を大切にしたいと思っています。練習は理想に近づくための時間ですが、理想を見つけるための時間がなければもったいないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「天才」を破壊する大人のエゴイズム

映像は「渡辺茂夫」と言うヴァイオリニストの特集番組です。
5歳でヴァイオリンを父から習い、毎日8時間の練習を重ね7歳でプロのヴァイオリニストとして演奏活動を開始。国内のオーケストラと共演し来日したハイフェッツに演奏を聴いてもらいアメリカのジュリアード音楽院でガラミアンのレッスンを受けることを勧められ14歳で一人留学。指示したガラミアンから弓の持ち方を変えることを求められ指導に従い…。これらはすべて客観的な事実ですが「彼」の心の中を正しく知る事は誰にもできません。ヴァイオリンから離れ一人暮らしを始め、住んでいたアパートで睡眠薬を大量に服用した事も事実です。
「もし」と言う言葉は本人にとっても、ましてや周囲の人間が後になってから考えても無意味なことです。ただすでに14歳と言う年齢でヴァイオリニストとして必要な技術を身に付けていた「彼」に留学は必要な事だったのか?ハイフェッツに悪意があったわけではなく、恐らく本人も「さらに上達すること」を望んでいたかも知れません。ガラミアンにしても「善かれ」と考えて弓の持ち方を変えることを求めたのだと思います。
 ここからは私の想像です。
音楽に限らず何かを学び高い評価を受けた人はさらに上を目指す気持ちが増幅されるのだと思います。ある意味で人間の限界を超えてしまう次元が「頂点」なのかも知れません。当然ですが人間には超えられない壁が必ずあります。肉体的な限界と精神的な限界です。通常の=平均的な人間の努力や我慢の限界と、それを多少なりとも超える努力と我慢の出来る人の中で「天才」と呼ばれる人が誕生します。多くの人にとって憧れであり「雲の上の人」に感じるその本人にしか感じられないであろう「本当の限界」を超えようとしたときに肉体か精神が破壊されるのではないでしょうか。普通の人間にとって「すごい」ことが普通のように感じるのかも知れません。
 肉体にも精神にも個人差があります。同じ時間同じことをして「辛い」と感じる人もいれば「平気=辛くない」と感じる人がいるのが当たり前です。どちらが正しいとか優れているかの問題ではなく個人差です。一方で一人の人間=例えば自分自身の感覚や肉体が変化することも事実です。練習すること、学ぶこと、経験することで出来ることが増えたり理解できることが増えたりする変化もあれば、加齢が原因で出来なくなる・理解できなくなることが増えることも変化の一つです。

 自分自身を制御することは一番簡単そうで一番難しい事だと思います。だからこそ信頼できる他人からのアドヴァイスと助けが重要だと考えています。
 レッスン=師匠と弟子と言う特殊な人間関係の中では何よりも大切なのは教える側=師匠の「謙虚さ」だと考えています。先述の通り人によって感じ方が違います。同じ言葉、同じ態度でも人によって受け止め方が違います。特に従順=素直な生徒に対して配慮することが出来なければ指導する資格がないと思います。簡単に言えば「教えやすい弟子」へのレッスンが一番危険だと言えます。弟子は師匠に逆らわないことが「善」とされます。
信頼関係と「服従」を混同するのは命に係わる違いです。信頼は双方が相手を認め合い、お互いが謙虚な気持ちの時に初めて成立します。極論すれば「体罰」を容認する人間の勘違い=相手が自分を信頼していると思い込む事で生徒を傷つけても「愛のむち」だとか「言葉で理解でないから仕方ない」と自分を正当化します。これこそが「エゴイズム」です。自分が正しい=生徒が間違っているという考え方は利己主義でしかありません。
 教える側に立つことは色々な場面であることです。それを「上に立つ」と言う表現にすることが危険な一歩です。人を「崇める」のは個人の自由です。しかしそれを他人にも供することは「人を蔑む(さげすむ)」行為になります。価値観や感覚を他人と共有しようとする努力は大切ですが「強要」するのはエゴです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

音楽の楽しみ方あれこれ

映像はCateen=角野隼人さんの演奏動画。一つ目はショパンのピアノコンチェルト、もう一つはギタリストMarcinとのコラボ演奏。まったく違う「楽しみ方」ができます。
今回のテーマは音楽を聴いたり演奏したりする楽しみ方を考えるものです。
 結論から言えば楽しみ方は人それぞれで制約も定義もない!
では何故ブログのテーマにしたの?(笑)
音楽に限らず人の好き嫌いがあって好きなものは「痘痕も靨=あばたもえくぼ」と言う言葉があり、嫌いなものは「食わず嫌い」と言う表現があります。つまり自分が好きではない音楽を敢えて楽しもうとは考えず、否定的・ネガティブなイメージを持ちがちだからです。
クラシック音楽が好きな人の中に「ロックはうるさい」と思い込む人がいます。ロックやポップスの好きな人は「クラシックは難しくてよくわからない」と言う人もいます。確かに間違っていない一面もありますが(笑)
 好きになる・嫌いになるきっかけも人によって違います。食べ物でも同じです。趣味として楽しむすべての事柄にも共通しています。生まれつきスポーツが好きな人はいませんよね?
 音楽をジャンル分けすることに否定的な私ですが整理するために今回は「クラシック」と「ポピュラー」と言う分類で書いていきます。

まず「聴く楽しみ」について。前提として楽器の演奏技術や楽譜を音にする技術がない「一般の人」を対象にして考えます。言ってみれば日本の義務教育で「音楽の授業」を受けたレベルの知識と技術ですね。
 クラシックもポピュラーも作曲者と演奏者がいます。聴いただけではどちらも分からなくて当然です。音楽の一部を聴いただけで作曲者や演奏者を言い当てられるのは、その音楽・演奏が好きな人ですね。あるいは勉強して知識や経験のある「例外的」な人だけです。
 作曲者・演奏者が分からなくても音楽を聴いて楽しめます。当然です。料理の名前や素材、料理方法を知らなくても美味しいと感じる食べ物はいくらでもあるのと同じです。
 この時点で「好き」か「嫌い」かが決まる場合もありますが、多くの場合は「どちらもでない」はずです。コンサートに行ったりCDを買って聴いたりするのは「好きな人」が殆どです。曲名や演奏者がわかってからの事ですから。
 私たち生活の中で無意識に音楽を耳にすることがあります。正確に言えば音楽を聴こうと思っていない時に「聞こえてくる音楽」です。電車の駅構内で聞こえる発車の音楽。ニュース番組のテーマ音楽や「ジングル」と呼ばれる短い音楽。映画やドラマの中で使われる音楽。ここ20年ほどの間にテレビが衰退しCDが激減して「誰でも知っている音楽」がほとんどなくなりました。それでも無意識に聴いている音楽はたくさんあります。その中で好きになる音楽と出会うこともあります。興味がわいて演奏者や曲名を誰かに聞いて「へー!」っと思う事もあるかも知れません。

クラシック音楽を聴いて楽しむ人でも作曲者を知らない場合や演奏者にはこだわらない人もたくさんいます。むしろ「音楽」として「演奏」として聴くことが好きな人の方が多いと思います。例えば「第九」と聞いて「ベートーヴェン」と答えられる人は多くても有名な「歓びの歌=合唱」が始まるのが何楽章か?とか誰の演奏が好き!と言う人は非常に少ないのが事実です。中には演奏者や作曲者・作品までこだわって「好き」な人もいます。ここまでくるとクラシックファンですね。さらに同じ作品=曲の聴き比べをしたり特定の演奏者のCDを集めたりコンサートに「追っかけ」するようになるとクラシックマニア(オタク)と呼べるかも(笑)
 ポピュラーを聴いて楽しむ人でも楽しみ方とこだわりは様々です。
演奏者=アーティストが好きな人が圧倒的に多いのも特徴的な事です。
同じ曲を違う歌手やバンドが演奏している場合に「これが好き」と聴き分けられるのは「声と音」で聴き分けているからです。つまりポピュラー音楽ファンの多くは「特定の演奏者」へのこだわりが強い場合が多く「マニア」になると時代ごとの色々なアーティストや演奏を比較する多楽しみ方をするようになります。

 ここまで恣意的にクラシック・ポピュラーを分けて考えましたが実のところ共通して「想像力」が関わっています。音楽を聴くことと小説を読むこと、絵画を見ること、自然の風景を楽しむことはどれも「想像力」が活発に働いています。映画でも見る人の勝手な想像力が恐怖心や感動を感じるのであって仮に台詞だけを文字で読んだり映画の音声を消して映像だけ見たりすれば恐怖心も感動も激減します。これは想像させる「映像」や「音」がなくなった結果です。
 音楽を聴いて無意識に感じる悲しさや不安感、風景、演奏している人の姿、作曲者の時代などは「想像力」の結果なのです。当然ですが人によって思う事は違います。同じ演奏を聴いて感じるものが違うのも想像するものが違うからです。
アイドル=偶像も人の想像力から生まれます。ある意味でクラシックの演奏者や作曲者を「きっとこんな人」と思うのも「偶像」を思い描いていることに変わりありません。ベートーヴェンはきっと…とか、演奏している人はきっと…興味がわいて想像して浮かんだ偶像です。
 その意味でクラシックもポピュラーも聴く人の自由な想像で音楽を聴いて楽しんでいる共通点があります。好きになった演奏・音楽に関心がわいてくれば、聴き比べたり調べたりしてさらに関心が増えていきます。その「きっかけ」になるのは偶然出会った音楽を聴いて「想像する」ことです。子供の頃に小学校で給食の時間に流れていた音楽を大人になって偶然聴いた人は「給食の音楽だ!」と思わず叫びたくなるでしょう。それが給食のために作られた音楽でないことは間違いありませんが(笑)人間の想像力は記憶によって生まれます。五感のすべてが記憶に繋がります。香り・音・風景・手触り・味。それらが組み合わされて「想像の世界」が出来ています。音楽は想像=イメージの世界にあるものです。楽譜は記号でしかありませんし設計図です。作るのは演奏家ですから楽譜を書いた人とは違い、想像力で演奏します。聴く人もまた違った想像をします。
 ぜひ!音楽を聴いて「何か」を想像してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

小品は軽薄な音楽?

 映像はドボルザーク作曲の歌曲「私をひとりにして」
昨年(2026年)1月に代々木上原ムジカーザで演奏したライブ動画です。
 今回のテーマは私たち二人が演奏を続けているリサイタルの中心「小品」について考えるものです。ちなみにクラシック音楽で「小品」と呼ばれる曲は演奏する編成や人数が少ないなどとは無関係です。厳密な定義はここでは書きませんが「小品ではない曲」の一例を挙げてみると「交響曲」「ピアノソナタ」「ヴァイオリン協奏曲」などがあります。演奏時間が短いから小品かと思われがちですが演奏のテンポ=速さが遅ければ当然それなりに演奏時間は長くなります。簡潔に説明するなら「1曲で完結する音楽」あれ?ベートーヴェン交響曲第5番「運命」も第9番「合唱付き」も1曲と言えば1曲ですね(笑)交響曲や協奏曲、ソナタは通常、複数の楽章で1曲が構成されています。「第九」の合唱が出てくるのは最終楽章だけです。楽章とは言われませんが「組曲」と呼ばれる音楽もあります。それぞれの曲は小品と言っても間違いではないと思いますが作曲家が「組み合わせてひとつの作品」と言えば複数の曲で一つの完成された音楽となります。ただそのような知識を持たずに音楽を聴くのが普通ですよね?
「クラシックコンサートあるある」の一つに拍手をいつ?するのか分からない!いつ終わるのか分からない!だから途中で寝落ちした(笑)という話があります。私は「これが当たり前」だと思っています。その曲を何度も聴いている人なら楽章の切れ目、曲の終わりも知っているのは自然なことです。好きな映画を覚えてしまう程、何度も見た人は次のシーンまで分かっていますし当然映画の「結末」も知っていますよね?もし映画館や家族・友人と一緒にその映画を見ていいて自分以外の人が初めて見るケースで「あ、この人は実は…」って一番嫌われる人間ですね(笑)ところが何故か?クラシック音楽のコンサートでは「知っている人が拍手したら拍手する」って不思議だと思いませんか?

 少しクラシック音楽から離れて考えてみます。
ジャズ、ロック、J-POPなどの音楽に「楽章」と言う言葉は使われません。映画音楽やドラマの音楽の場合にはシーンによって様々な音楽が用いられます。「メインテーマ」と呼ばれる映画を代表する音楽とは別に不安や緊張感を感じる曲、涙を誘う曲が効果的に使用されます。CDに映画で使用された音楽がすべて収録されている物もたくさんあります。映画音楽の場合には音楽の演奏時間は特段の制限がありません。むしろシーンに応じて切り分けたり一部だけを使ったりテンポを遅くしてみたりします。一方で歌謡曲と呼ばれる音楽の場合は1曲の長さに慣例として「制約」があります。昔は厳密に放送局が時間を指定した時代もありました。「あかしろ歌合戦」と言う番組でも1曲の持ち時間が公平に決められ少しでも長い曲は容赦なくカットするかテンポを異常なほど速くして時間に納めていました。そんな影響もあってポピュラー音楽の1曲ごとの演奏時間は比較的短いものが主流です。言ってみれば小品…ですね。

 私たち夫婦が演奏する曲の多くが小品と呼ばれる曲です。クラシック音楽の定義も様々ですので「小品」と言うカテゴリーの演奏会があっても良いと考えています。ピアノとヴァイオリンの為のソナタは通常のコンサートでは全楽章演奏されます。長い曲だと終楽章が終わるまで30分以上演奏が続きます。聴きなれた人ならともかく普段はクラシックを意識して聴かない人が「いつ終わるの?」と感じながら演奏を楽しめるだろうか…と気になってしまいます。
全楽章の演奏を楽しみにしてコンサートに足を運ぶクラシックファンもたくさんいます。
その方にとって私たちのように1楽章だけの演奏は「つまみ食い」に感じると思います。
映画の一部分だけを切り取ったり小説の最後だけを読むことに近いことかも知れません。
作曲家が心血を注ぎ長い時間をかけて推敲して仕上げた全楽章を演奏しないのは「良くない」と言う考え方も否定しません。コンサートで初めてクラシックを聴く人、初めてヴィオラとピアノのデュオを聴く人が「こんな曲もあるのか」と感じて音楽に関心を持って頂くことが私たちの願いです。
 小品が軽薄なものだとは考えていません。音楽高校と音楽大学で多くの先生方に室内楽やオーケストラの演奏を教えて頂き「座学」でも音楽理論、西洋音楽史、管弦楽史を学びました。その傍らで全国各地の小学校や中学校での音楽鑑賞教室「オーケストラ鑑賞」の演奏者として様々な音楽を体育館、音楽室、公会堂、ホールなどで演奏していました。運命の1楽章、くるみ割り人形の中の一曲、アルルの女やカルメンの一部など子供たちが関心を持てそうな音楽を限られた時間で演奏するのが「音教」と呼ばれる演奏会です。恐らく多くの方が幼い頃に体験していると思います。その思い出は長く残ります。その時に「つまらなかった」と感じればオーケストラはつまらない、クラシックは嫌いと思ってしまうかも知れないのです。
音楽を聴くことが好きな人が忘れてしまった「はじめの一歩」を小品の演奏と言うコンサートで実現していきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介