映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。
私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。
さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。
音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?
音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない「技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)
演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介