音楽と個性と自由

 今回のテーマは、音楽を演奏する人の「個性」についてです。
上の動画は、2020年に亡くなったイスラエルのヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリスの演奏するバッハのシャコンヌと、手嶌葵の「ただいま」と言う音楽。あまりにも、かけ離れた音楽に思えますが、「個性的」と言う意味で考えると共通している一面を感じます。
 演奏に限らず、個性的であればあるほど、人々の好き嫌いがはっきり分かれます。ファッションや髪型でも同じことが言えます。
 個性的でないことを、ありきたり・平凡・普通・二番煎じなどと表現します。
演奏者に限らず、人間は本来全員が異なった個性を持っているはずです。
社会の中で「ルール」に従って生きることは、個性とは別の問題です。
組織の中でも同じ事は言えます。守るべき「普通」があります。
一方で個人が自由に考え選択できることに、個性が現れます。
音楽で考えると、作曲者が作る音楽の「個性」があります。
他人の作った旋律をそのまま真似して使えば「盗作」であり、本人の個性は1ミリもありません。ただ、和声の進行=コード進行になると、全く同じ進行が数小節続く音楽は、いくらでも存在します。これを「盗作」とは言いません。
 演奏者の個性は、どこにあるのでしょうか?

 楽譜に書かれた記号を、指示に従い音にする。
テンポが厳密に指定されていたとしても「音=音色」までは指定できません。
また、音の大きさを「デシベル」で指定した楽譜はクラシックにはありません。常に「相対的な音量の変化」で演奏しています。
音色と音量は演奏者の自由です。音符の長さ、休符の長さは指定されたテンポの範囲内であれば演奏者の自由です。
 演奏者は「個性的な演奏」と言うと、「突飛な演奏」と勘違いします。
ギトリスの演奏を多くのヴァイオリニストが真似をすれば、いずれその演奏方法が「ありきたり」になります。つまり、現代の演奏方法は、すでに誰かが考えた当時の「個性的な演奏」をみんなが真似をしているだけなのです。
 それを平凡だから駄目だとは言っていません。なぜなら、「音色」を完全に真似ることは不可能だからです。音符の長さ、音量は真似ができます。でも、音色を完全に同じにすることは、絶対に不可能なのです。

 一人一人に違った「声」がありますよね。親子、兄弟姉妹で声がそっくりなのは、声帯や骨格が似ているからです。機械で作られる音は、完全に同じ音を再生することが可能です。木製のスピーカーで再生すると、厳密には1本ずつ違います。「木材」が同じではないからです。
 ヴァイオリンは、すべての楽器が違う音を出します。
以前にも書きましたが、ストラディバリウスの楽器でさえ、すべて音色が違うと言うのは、周知の事実です。地球上に全く同じ音色のヴァイオリンは2本=2丁ありません。その時点で「個性」です。
 演奏方法によって、楽器の個性に演奏者ごとの個性が重なります。
つまりは、すべての演奏者が「似た音色」で演奏できても「同じ音色」で演奏できる確率は、天文学的に低いという事です。
 自分の楽器の音に不満を持つヴァイオリニストがたくさんいます。「隣の芝生は…」で、やれオールドが素晴らしいとか、新作はダメだとか、何の根拠もなく断言するかたがおられます。その方の耳はたぶん、すべての音色を聞き分けられる「超能力」を持った耳なのでしょうが、一般の人類にはその能力はありません。
 新作のヴァイオリンにも、300年前のヴァイオリンにもそれぞれに違う個性があるのです。それを「個体差」と呼ぶのであれば、あって当たり前なのです。
演奏者が手にしたヴァイオリンの音色に不満を持つのは、単純に好みの問題なのです。楽器の良い悪いではありません。
 自分の好みの音色のヴァイオリンを探したとします。
仮に現在演奏できるヴァイオリンが、世界中に1万本、あったとします。
そのすべてが違う音色です。その中で、自分の好きな音色の楽器を「1本」選ぶことが人間に出来るでしょうか?絶対に無理です。自分と巡り合ったヴァイオリンの中で、自分の好みの音色の楽器を選ぶことしか、出来なくて当たり前です。
 人間同士の出会いと同じです。理想の人と出会うまで…。世界中の人とお見合いしますか?(笑)

 個性から少し話がそれましたが、演奏者が演奏する音そのものがすでに「個性的」なのです。奇抜な演奏をするまでもなく、音色そのものが世界でただ一つの音です。その音が好きな人も嫌いな人もいます。演奏方法やテンポの設定、音量の考え方も、人それぞれに好みが許されるのが音楽です。
自分が好きなテンポで好きな音量で、好きな音色で演奏することが個性なのです。他人の演奏の何かを真似したとしても、それは悪い事ではありません。すでに私たちは、師匠から多くの事を盗んでいるのです。それが悪いと言うのであれば、音楽は伝承されないのです。ただ、大切なのは自分で考えることです。
 流行の服が自分に似合うか?考えないで着るように、他人の演奏をただ真似ても、自分の音楽ではありません。
自分に自信を持ちながら、信頼できる人の感想を参考にすること。
自分にしかできない演奏に誇りを持ち、他人の演奏を称えましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

公立中学校にオーケストラを

 映像は、2017年3月に野木エニスホールで収録したものです。
公立中学校の弦楽オーケストラ部との「中国の太鼓」の共演です。
15年以上前にご縁があって毎年夏に、指導に伺っている部活オーケストラの定期演奏会時に、浩子さんとの演奏を依頼され子供たちとの共演のために、友人の作曲家町田育弥君に編曲をお願いしました。
 楽譜が出来て、学校に送付して子供たちは「メトロノーム」を相手に練習。
本番当日、1時間だけの合わせで本番を迎えました。「弾き振り」でゲネプロ本番という暴挙でしたが、浩子さんのピアノにも参加してもらったことで、なんとか乗り切りました。

 公立の中学校に吹奏楽部はあっても、弦楽合奏部やオーケストラの部活はほとんどありません。高校になって、一部の公立高校にちらほら見受けられるのが現状です。地域によるの差も激しく、千葉県、長野県では盛んに弦楽器を部活動に取り入れています。
 「弦楽器は高い」という「まことしやかな嘘」がその原因だと言う人もいます。吹奏楽部で使用する楽器の総額と、入門用の量産弦楽器の総額で考えると、むしろ弦楽器の方が安いのをご存知でしょうか?
 「弦楽器は種類が多い」というでたらめな話。吹奏楽で使用する楽器の方が、酒類多いんですけど(笑)弦楽合奏「ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス」の4種類です。一方で吹奏楽では「フルート、クラリネット、アルトサキソフォン、テナーサキソフォン、トランペット、トロンボーン、ユーフォニューム、チューバ、打楽器数知れず」は最低限必要です。
 「指導が難しい」というすっとぼけた大嘘に腹が立ちます。
吹奏楽の指導なら簡単なんかいっ!(怒)
先述の通り、吹奏楽の楽器の種類が弦楽合奏より多いのに、「素人顧問でも指導できる」ってどんな根拠でしょう?ありえないですよ。
 はっきり言ってしまえば、楽器に触ったこともなく、音楽に関心もない「顧問」が「もっと練習しなさい」と掛け声をかけて、練習を休む生徒をまるで戦争中の「赤狩り」のごとく、生徒同士にスパイをさせてあぶりだす「ブラック吹奏楽」これが指導だと言うのなら、弦楽部は作らないでいただきたいですが。
 音楽を通して、子供たちが絆を感じること、演奏を通して、誰かを笑顔にする体験、音楽系の部活動の素晴らしさです。
 その素晴らしさよりも、生徒を縛り無意味なこと=本人たちは練習だと思っているに子供たちの、貴重な時間を割き拘束する。音楽ではなく「強制労働」です。それを「音楽」と呼ばないで欲しいのです。

 弦楽器の指導に必要な知識を、教員が学ぶ時間がないのなら、学校外から指導者を呼べば良いのです。運動系の部活動でも同じです。素人の「根性論」で顧問がしどうすれば生徒は身体を壊すだけです。音楽で言うなら、音楽大学を卒業したての若い演奏家や学生に顧問が立ち会って生徒の実技指導を出来るはずです。
 顧問がいない状態での部活動は、すでに学校教育活動ではありません。
外部の指導者だけで、部活指導をするのは法律的に間違っています。
弦楽器の合奏が、吹奏楽のそれと比較して何が違うのか?
少ない種類の楽器で、4つから5つのパートで演奏する「弦楽合奏」は、音色の種類がすべて同じです。吹奏楽と比較して「まとまりやすい」音色です。
 特殊な場合を除き、弦楽器は屋外で演奏できません。野球の応援には使えません。だから?吹奏楽ですか?
 弦楽器と管楽器・打楽器で「管弦楽~オーケストラ」ができます。
弦楽合奏と、数種類の管楽器だけでもオーケストラです。
「ウインド・オーケストラ」と言う名前を見るたびに、なんとなく違和感を覚えるのは私だけでしょうか?「ウインド・アンサンブル」は当然存在します。
 学校に弦楽器を導入するか?しないか?と言う話の前に、部活動とは何か?について社会が理解することが先決だと思います。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることで、人にやさしくできる人が増えると思っています。競う事より、助け合う事の大切さを体感できる合奏が、日本中に広まることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

溶けあう音と浮き立つ音

 映像は、クライスラー作曲の浮く奇しきロスマリン。杜のホールで撮影した動画です。相模原市緑区橋本駅前にある客席数525名のホールです。
音楽ホールとして作られ、特に弦楽器や室内楽の演奏に適した残響時間と響きで、近隣にはあまりない私の好きなホールです。吹奏楽の演奏だと残響が長すぎるとかの理由で不評なようですが(笑)メリーオーケストラの演奏会は、このホールの誕生と共に始まり、現在も続いています。

 さて、今回はアンサンブルやコンチェルトでの話です。
1種類の楽器だけが演奏する場合と違い、いくつかの違う音色の楽器が演奏する場合、客席で聴くお客様に届く音はそれぞれの楽器の音が「混ざり合った音」で届きます。当たり前です。言ってみれば「ひとつの音」としてお客様の耳に届きます。
 音楽学校で私たちが学んだ「ハーモニー=和声聴音」という特殊な技術があります。同時に鳴っているピアノの音=和音を、限られた時間=演奏回数で五線紙に書き取ると言う能力を身に着けます。この技術は、ピアノの和音に限らず、ヴァイオリンとピアノが同時に演奏している時にそれぞれの音を「分別して聴く」能力でもあります。さらに言えば、オーケストラの指揮者は、常にこの技術を使って同時に鳴っている、10種類以上の数十人が演奏する音の中から、間違った音を聴き分ける能力が求められます。その昔、聖徳太子の「10人が同時に話す内容を聞き取れた」という話は、聖徳太子が聴音の練習をしていたからだと言う説が。ない?
 とにかく、この技術は訓練すれば誰にでも身に着けられますが、音楽を楽しんで聴くうえでは案外「邪魔」になるだけではなく、演奏する私たち自身が「溶ける音」を意識ぜずに演奏しているかも知れないことに気が付きます。

 コンチェルト=独奏楽器とオーケストラの協演の場合、独奏楽器と同じ楽器がオーケストラでも使われることがあります。
 ピアノコンチェルトは、オーケストラにピアノがないので、ピアノの音が浮き立ちます。
 ヴァイオリンコンチェルトの場合は?オーケストラに何十人ものヴァイオリン奏者がいますよね?その人たちが演奏するヴァイオリンの音と、ソリストの演奏するバイオリンの音が完全に「溶けて」しまったら、お客様にどう聴こえるでしょうか?
 ソリストと言えども、音量=音圧はオーケストラのメンバーが演奏している楽器と同じ「ヴァイオリンの音量」です。アンプで増幅して演奏しない限り(笑)
 はっきり言えば「聴きとれない」か、聴こえたとしても一つのオーケストラパートにしか聞こえないですよね?いくら指揮者の近くで、ひとり立って演奏していても、音だけで言えば「浮き上がらない」可能性が高いのは事実です。

 そこで、ソリストが用いる技法のひとつに「ビブラート」を他のヴァイオリン奏者よりも速く、大きくするという事で「浮き上がる=目立つ」音色にしたのが、現代の速いビブラートを生み出したきっかけだと思っています。
 ソリストのビブラートは確かに「速く・大きな音の変化」が圧倒的に多いのです。ただ、それをオーケストラメンバーが全員でやったら?目立たないどころか、さらに速く・大きなビブラートをソリストがするように「いたちごっこ」が始まると思うのです。その積み重ねで、現在の「高速ビブラート」がもてはやされるようになったと推察します。
 弦楽四重奏で、だれかがこの「高速ビブラート」で演奏したら、他の3人はそれに合わせてやはり「高速」にするか、練習時にだれかが、「それ…必要?」と疑問を呈するはずです。ひとりだけ「浮く」音色で演奏するのは、アンサンブルを壊します。

 ピアノとヴァイオリンが二人で演奏する場合ではどうでしょうか?
もとより、ピアノとヴァイオリンの音色は音の出る構造=原理から違います。
同じものがあるとすれば「ピッチ」と「音楽」です。
その異なった音量と音色の楽器が、まったく違うリズム=音の長さで、違う高さの音を演奏し続けるのが「二重奏」です。その音はひとつに溶け合って、会場のお客様の耳に届きます。これが録音と違うところです。録音は、それぞれの音を「別個」に録音したほうが、あとで処理=加工しやすいのです。バランスを機械的に変えたり、音色を楽器個別に変えることができるからです。
 録音ではなく「ライブ=生演奏」の音が、溶け合った音で伝わるか?水と油のように溶け合わない、耳当たりの悪い音に聴こえるか?これを演奏者が考えなければ、それぞれの演奏者の「独りよがり」になると思うのです。「私の音はこれ!」って音を聴衆は求めていないと思うのです。
 うまく溶け合った音は、料理で言うなら異なった素材の、それぞれの美味しさを溶け合わせて「ひとつの美味しさ」に仕上げるシェフの技です。
 私の好きな「香水」の世界で言えば、様々な香りの中で「甘さ」「からさ」「苦さ」のバランスを試行錯誤しながら造り出す「調香師」の技術と同じです。

 溶ける音を作り出すためには、それぞれの楽器の音量と音色の特性を、お互いが理解し「寄り添う」演奏が必要だと思うのです。ピアノの音は正しく調律されている限り「揺れない音」で、音が出た瞬間から必ず音量が減衰=弱くなる楽器です。
 一方でヴァイオリンやヴィオラは、揺れない音を出すことがまず演奏技術として難しい楽器です。さらに、発音した瞬間から、音の強さを大きくすることも、同じ大きさで保つこともできる点がピアノと大きく違います。
 音量で言えば、ピアノの音圧=デシベルは、ヴァイオリンよりはるかに大きな音が出せます。一方、弱い音の場合、ピアノで出せる一番弱い音を「速く連続して」演奏することは、物理的に不可能です。鍵盤をゆっくり押し下げる「時間」が必要だからです。16分音符のピアニッシモをピアノで演奏した場合の、ホールで聴く音量と、ヴァイオリンが同じ音符をひと弓で演奏したピアニッシモの音量は?当然、ピアノの音が大きく聴こえるはずです。
 ピアニストにヴァイオリニストが「もう少し弱く」と言う注文を出す場合、えてしてピアニストにすれば「これ以上弱くなりません!」と思っているケースが多いと思うのです。逆に、ヴァイオリニストに「もう少し大きくひいて」とピアニストがリクエストする場合に、ヴァイオリニストは「せっかく弱くしたのに!」という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
 解決策は?まず、それぞれの楽器の音が空間に広がって溶けるまでのプロセスを、一緒に考えることだと思います。
 音が出る瞬間の事ばかりを、演奏者は気にしがちです。自分一人で練習している時には、それしか聴く音がないのですから当たり前です。一緒に演奏した場合に、空間に広がる音は「ひとつの音」になるわけで、うまく溶けて聴こえるかどうかが一番の問題なのです。
 もちろん、音楽の種類によって=パッセージによって、どちらかの音を「浮き立たせる」ことも必要ですし、それまでの音色と意図的に違う音色で演奏する「変化」も必要です。

 動画は アンネ=ゾフィー・ムターの演奏するモーツァルトヴァイオリンソナタです。冒頭部分の、ノンビブラートは好みの分かれる部分です。
しかし、ピアノとヴァイオリンの音色が「溶けあう」と言う意味で、これから始まる音楽が「ひとつの音になる」ことを示唆しているように感じるのです。
 音量も、音色もお互いの音がひとつに溶けるためにそれぞれが譲り合い、助け合い、認め合うことが何よりも大切な「心」です。演奏技術以前に一番重要なことです。
 技術は、演奏しようと思う音楽を、聴いてくださる人に届けるためのものです。自分だけがじょうずに聞こえるように演奏することは、技術ではなく「自己満足」です。一緒に演奏することが主になるヴァイオリンや弦楽器を演奏するなら、一緒に演奏する人を思う気持ちがなければ「独裁者」です。そうならないために、人にやさしい生き方をしたいと思うのでした。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

時に委ねる

 演奏はバッハのチェンバロ協奏曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。
音楽は時に人の心を動かします。聴く人が幸福を感じられる時間と空間を作るのが「音楽」です。演奏者自身も音楽の持つ不思議なエネルギーを感じます。
生徒さんに音楽を伝え、演奏技術を通して表現の楽しさを感じてもらう「レッスン」にも音楽の幸福感があります。

 どんな人でも、幸せな時間だけを過ごしてはいないはずです。
私の知る限り、今までそんな人にはお会いしたことがありません。
外見からは想像もできないのが、その人の歴史です。
 音楽がどんなに幸福感を与えても、それ以上の苦悩を感じる時があるのが人間です。生きる限り感じるのが感情です。感情を無くしたとき、喜びも悲しみも感じなくなって「生きている」としたら、それは既に「人」ではなく単なる「生物」だと思います。

 音楽を学ぶのにも、食事をするのにも「時間」がかかります。
秒・分・時・日・週・月・年という時間の単位よりも、私たちが感じる「長さ」の問題です。長く感じる「時間」もあれば、短く感じる「時間」もあります。
 練習してもうまくならない苛立ちのある場合に、時間が長く感じています。
「少しでも早く」何かをしたいと思うから「時間が長い」と感じるのですね。
実際の時間の長さとは関係ありません。焦っても時間は同じ速度でしか進みません。焦っていると「時間を無駄にした」とも感じます。それも勘違いです。無駄にしたのではなく「必要な時間」を「もっと短くしたい」と思っているだけです。
 何かを達成したと感じられるまでの時間は、元々必要な時間なのです。
同じことは「忘れたい」と思う出来事を「昇華=許せる」できるまでの時間にも、必要な時間があります。
 練習しても=がんばっても無理…と考えてしまうことがありますよね。
そんな思いの時には、自分に与えられた「時間」の中で、いつか出来れば満足する気持ちに切り替えたいですね。
 いつまでに?という期限のないことが、「楽しむ=幸福」なことだと思うようになりました。嫌なことは、いつやめる?と決めれば楽しくなりますよね。
楽しい区事は、いつまでもやれる!から楽しいのです。

 音楽は「時」の芸術です。演奏を聴く「時間」でもあり、作品として「時空を超える」ことでもあります。そして、人に音楽を伝えることも、次の時間=次世代に音楽を伝えることになります。誰かが演奏を伝え残さなければ、演奏技術はその人が生きている間だけの技術になります。私たちが師匠から教えて頂いた「技術・音楽」を誰かに伝えることは、責務だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音を創る

 映像は、アザラシヴィリ作曲の「ノクターン」をヴィオラとピアノで演奏したものです。この曲、生徒さんがレッスン時に次の発表会で演奏してみたい曲は?という問いかけに応えてくれて初めて知りました。ヴァイオリンで演奏している動画は数多くありましたが、ヴィオラで演奏してみよう!といつもの(笑)パターン。
 浩子さんとピアノとヴィオラのアレンジを相談しながら仕上げた演奏です。何度か演奏させてもらいましたが、素敵なメロディーと奇をてらわない和声が大好きです。

 さて、今回のテーマ「音を創る」ですが、音楽を創る=作曲とは意味が違います。演奏者が自分で演奏する「音」をどうやって創造するのかと言うテーマです。
 作曲家によってつくられた楽譜を音楽にする時、ひとつひとつの音に演奏者の「想像力=創造力」が問われています。単に書かれた音符を楽器で演奏することではなく、どんな音色でどんな音量で演奏するのかを「考える=感じる」ことが演奏者の楽しみでもあり作曲家への敬意でもあると思います。
 動画は録音された音ですから、作成する過程でまた音作りが必要です。コンサート会場で響く音は、聴いている人の周囲に広がる「空間」から伝わるものです。スピーカーやヘッドフォンから聞こえる音とは根本的に違います。演奏する現場では、何よりもその会場の「空間」を意識します。音が吸収される会場=残響の少ない会場もあります。豊かな残響の会場もあります。それぞれの場所で聴いてくださる人が、心地よく
聴こえる音を創ります。
 演奏者の耳元で鳴っているヴァイオリンやヴィオラの音が、会場の空気に伝わって広がり、客席に届くまでに変化します。
 音量も音色も演奏者の感じている音とは別の「音」として徴収に伝わります。

 音色は、ひとつの音に含まれる「倍音」の量と、音の出る「仕組み」によって決まります。音叉の音は倍音を一切含んでいない「正弦波」です。ヴァイオリン、ヴィオラの音は弦をこすって出る「矩形破」です。ヴァイオリンの音は多くの倍音を含んでいます。その倍音の含まれ方によって「硬い」「柔らかい」「暖かい」など人間の感じ方が変わります。数値の問題より「感じ方」が問題なのです。
 一般に、駒の近くを演奏すると「硬い」音が出ます。原因は低温の成分が減少することで暖かみの少ない音に感じるからです。
 一方で、指板の近くを演奏すると「弱い」印象になります。フランスの音楽を演奏するときなどに、意図的にこの音色を使うことがありますが、高音・低音ともにほとんど倍音が含まれなくなり、か細い印象の音になります。
 倍音の量は音の高さ=ピッチでも変わります。ヴァイオリンの調弦は、無伴奏の時や弦楽器・管楽器のアンサンブルの時には「完全5度」を純正調の響き=振動数が2:3の音程で調弦します。
 ただ、ピアノと演奏する場合には平均律で調律されたピアノと、純正調で調弦したヴァイオリンのG線「解放弦」は、明らかに違う高さの音になってしまいます。どこまで?ピアノの調律に寄り添った調弦をするのかは、演奏する曲によって考えるべきです。
 そのように調弦した解放弦のピッチと、同じ高さで他の弦を演奏した時、当然解放弦が「共振」するのですが、実は他の弦も共振しています。むしろ、演奏した音の振動が、空気と楽器のコマを通して、他の弦を「振動させる=音を出す」ことにもなります。一本の弦を演奏しながら、他の弦を左手で軽く押さえて「ミュート」すると、明らかに音色が変わるのを実感できます。
 他の弦が一番、大きく振動するピッチで演奏したとします。
では、その音に「ビブラート」をすると?共振する→共振しない→共振する→共振しないを、ビブラートの速さで繰り返すことになります。すると新しい「音色」が誕生します。音色と言うよりも「音の高さ」が連続的に変化することで、倍音の多さも連続的に変化するのを、人間がひとつの音と「錯覚」することがこの現象です。
 テレビの映像は、一秒間に30コマの「静止画=写真」が連続して映し出されていることはご存知ですよね?あれは、人間の目の錯覚を利用したものです。一方で、実際に動いている「物」を見ているときには?人間の目と脳の処理速度は、最新のスーパーコンピューターより速いと言われています。つまり一秒間に30枚どころか、数千、数万の画像を処理していることになります。
 ビブラートの速さは、一秒間に数回程度の「波=ピッチの連続的な上下変化」です。聞き取れないはずはないのですが、ヴァイオリンは楽器そのものに「残響=余韻」があります。共振している弦の余韻も含めると、ビブラートをかけて演奏しているときに、複数の音が「和音」の状態になって響いているのは事実です。遅いビブラートでは和音にはなりません。「ビブラートの速さ<ヴァイオリン本体の余韻の長さ」で音は和音になります。

 弓の速度、弓の圧力でも音色、音量は変わります。
一定の速度と圧力で全弓を使って均一な音を出す練習は、ヴァイオリンの基本の「き」ですが、圧力を変えながら同時に速度も変えることで「均一な音」を出す練習は、さらに多くの練習時間を要します。これは、楽譜の「弓付け」に関わります。短い音で多くの弓を使いたい時、大きくしないで演奏する技術です。
 クレッシェンドやディミニュエンドでも同様に、圧力と速度の組み合わせは必要です。
 右手の人差し指と親指と小指が「てこの原理」で働くことで、弓の毛と弦の「摩擦=作用点」の力が変化します。小指を丸くして弓の木に乗せる演奏方法を久保田良作先生は厳しく指導されました。古典的な「持ち方」とも言えますが、理にかなった技術だと思っています。小指を伸ばした状態では、美妙な力のコントロールは困難です。

 長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。弦楽器奏者が音を出すときに、多くの関連する動きや知識を考えることが必要であることは、ご理解いただけたと思います。その上で「音楽」を創るのがヴァイオリニスト・ヴィオリストです。これからも頑張りましょう!

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの練習は足し算

 映像は自宅で撮影した「ぷりん劇場」より、さとうきび畑をヴィオラとピアノで演奏したものです。アレンジが変わると音楽のイメージがこんなに変わるんですね。ピアノのアレンジが変わっても旋律は変わりません。でも、演奏の仕方は変わります。これも音楽の楽しさです。

 さて、今回のテーマは以前にも触れた練習時の「足し算」です。
生徒さんが新しい曲に挑戦する時、陥りやすい落とし穴でもあり、言い換えれば上達の近道でもあります。
 様々な練習方法があると思いますが、多くのヴァイオリン初心者のかたが、新しい楽譜を演奏できるようにしようと練習する時に、初めからヴァイオリンで演奏しようとする人が多いのが現実です。え?どういう意味?
 楽譜を見て、すぐに「音楽」に出来る能力・技術をすでに持っている人も、ごくまれにいらっしゃいます。例えば、ピアノの演奏に慣れている生徒さんの場合です。ピアノがなくても楽譜を頭の中で音楽にする「ソルフェージュ能力=読譜能力」がある人ですが、ほとんどの人はそうではありません。
 ここでは、ピアノをひけない人を前提にして書いていきます。

 まず、楽譜に書いてある音楽がすでに「音源」としてある場合とない場合で違います。プロの演奏をユーチューブで見つけても、速すぎて聞き取れない場合も良くあります。自分が演奏できそうな速さで演奏している動画を見つけても、自分と同じ程度の「アマチュア」で参考に出来ない場合もあります。
 少なくとも、楽譜に書いてある「音の高さ」と「音の長さ=リズム」を正確に演奏している音源なのか?違うのか?がわからないのが当たり前です。ですから、初めは習っている先生に、動画やCDを紹介してもらうのがベストです。
楽譜のタイトルの音楽でも、全く違う楽譜で演奏しているケースの方が圧倒的に多いのです。まずは「音源探し」から足し算の始まりです。

 音源を見つけたら、その演奏を楽譜を追いかけながら「聴く」練習をします。
音楽と楽譜が一致するまで、何度も聴いている間に、音楽を覚えられるはずです。楽譜のある個所が、どんな音楽だったか思い出せるようになるまで音楽を聴くこと。これが演奏できるようになる「第1段階」です。この練習に楽器は必要ありません。むしろ、ヴァイオリンは使わないほうが良いのです。

 次に楽譜を音名「ドレミ」で歌えるようにします。出来ることなら、カタカナで書き込まずに、少しでも速く読めるように自分を追い込みながら、ひたすら音楽と音名を一致させる練習をします。覚えた音楽の「歌詞」のように、ドレミで歌えるようにすることが、ヴァイオリン演奏の「第2段階」です。まだヴァイオリンは、いりません。

 次に、その楽譜の一音ずつの「弦と指=押さえて弾く場所」を考えます。
ヴァイオリンの為の楽譜の場合、ダウン・アップの記号の他に、ところどころに指番号が書いてあるものもあります。多くの場合は、すべての音符には、書いてありません。それが初心者用であれ、演奏会でプロが使用する楽譜であれ同じです。つまり、どの弦のどこを、何の指で押さえるのか?を自分で理解しなければ演奏できません。この段階で、楽譜を演奏するための「知識」が足りなければ、指の番号、弦の種類が自分でわからないことになります。ピアノと違い、ヴァイオリンはどこが「ド」なのか目で見てもわからない楽器だからです。
 この段階で躓いて、ヴァイオリンの演奏に終止符を打ってしまう人が多いのが現実です。せめて、開放弦で出せる音が、楽譜でどこになるのか?を理解し、そこから左手の4本の指で順番に音が「高くなる」ことくらいは、最低限覚えないとヴァイオリンで楽譜を音にすることは不可能です。
 要するに①「音楽を覚える」②「音名を覚える」③「指使いを理解する」足し算が必要なのです。ここでヴァイオリンを使うと、とんでもなく汚い音でヴァイオリンを「音探しの道具」に使ってしまいます。これが危険な落とし穴です。汚い音=右手を意識しないで演奏する悪い習慣をつけてしまいます。まず、頭で理解することが先決です。

 ここまで理解出来たら、弓を使って実際に音を出します。
当然のことですが、左手の「指」と右手の「弓」は、別の運動です。
それを一致させる方法は?
 ピアノの右手・左手と、ヴァイオリンのそれは、根本から意味が違います。
ピアノの場合、両手共に音を出す役割ですが、ヴァイオリンの場合は音を出せるのは右手=弓、左手は音の高さを変えるだけの役割なのです。分離して片手ずつ練習できるのは、ピアノだけです。ヴァイオリンでは、左手で押さえた場所が、本当にあっているのか?ずれているのか?は右手を使わなければ確かめられません。弓を遣わずに「ピチカート」で練習する方法もあります。地味な練習ですが、ダウン・アップがわからない時や、弓がまっすぐ動かせないという場合には、この練習方法が大いに役立ちます。
 いずれにしても、右手と左手の「同期=リンク」のためには、自分が演奏する「音」を頭でイメージできなければ、それぞれ独立した運動になってしまいます。つまり「足し算」ではなく、交互に「左手」「右手」を意識して、いつまでたっても同期しない苦痛が続きます。
 整理すると、①「音楽を覚える」②「音名を覚える」③「指使いを理解する」④「弓を使って音を出す」という足し算です。

 この練習をする間に、いつの間にか「新しい事をしようとすると、前のことができなくなっている」事に気づきます。
 音名を覚えようとしたら、音楽を忘れたり。
 指番号を考えていたら、音名が出てこなかったり。
 弓を使って演奏しようとしたら、音楽も音名も指番号も忘れたり(涙)
それが普通です。それだけ足し算は難しいのです。
もちろん、言うまでもなく一番大切なのは①の音楽です。
音楽を忘れて演奏することは、意味のわからない言葉を話しているのと同じです。常に、①に立ち戻り、音楽を繰り返し聴くことが大切です。
 最終的に、頭の中で音楽・音名・指・弓が「ひとつのイメージ」になるまで、繰り返すのが練習です。ここまで行けば、途中で間違えても、絶対に先に進めます。逆に言えば、どれか一つでも「引き算」をしてしまうと、アクシデントに対応できないだけでなく、それ以上に上達する「足し算」ができなくなります。
音色や音量、ビブラートなどもっともっと、足し算することがあります。
それがヴァイオリンと言う楽器です。
 めげないで!頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

管楽器に学ぶ弦楽器の演奏

 動画は私が中学生のころから大好きで聴いているトランペット奏者「モーリス・アンドレ」の演奏する、アルビノーニのアダージョです。
 管楽器と弦楽器。オーケストラや室内楽で、一緒に演奏することがある楽器たちですが、打楽器も含めそれぞれの楽器から学ぶことがたくさんあります。
 先日、メリーオーケストラの練習に指導で加わってくれたフルーティスト一戸 敦氏が、弦楽器の弓の動きを見て感じることで、長く静かなフルートのフレーズを演奏できる話をされました。弦楽器の弓の動きは、音を出す運動そのもので、眼に見えます。管楽器、声楽の場合はそれが目には見えません。管楽器奏者から見て、弦楽器の「弓の動き」は彼らの「息」なわけです。
 では私たち弦楽器奏者は、管楽器の演奏から何を学べるのでしょうか?

 一番強く感じるのは、私たちが無意識に「返している」弓の動きです。
ダウン・アップの連続で音を出すヴァイオリン演奏者は、未意識に弓を返して音楽を演奏しています。言い換えれば、スラーが書いてあれば「レガート=なめらかに」、弓を返す時には「適当に」笑、になってしまっている気がします。
 弓を返すことと、フレーズを切ることは別のことです。管楽器で言う「タンギング」が弦楽器では「弓の動き出し」に該当します。言葉で言うなら「子音」「母音」に当たります。それを意識することと、フレーズがどこまでなのかを考えることは本来、別の問題なのにただ楽譜のスラーだけに目が行きがちなのが、弦楽器奏者の悪い癖かも知れません。
 タンギングの強さ、柔らかさが弦楽器のアタックです。「噛む」と言う表現を使うこともあります。動物がかみつくときの「音」のイメージがアタックでもあります。弓を返すたびにこの「アタック」をどのくらい、付けるのかによって音のイメージが大きく変わります。
 日本語で例えるなら「海=うみ」「弓=ゆみ」「無味=むみ」「組=くみ」「文=ふみ」「墨=すみ」
など母音が「う」でも子音が変われば意味が変わります。アタックは子音を表しています。ヴァイオリンの楽譜をすべて文字に置き換える必要はありません。ただ、なんとなく返してなんとなくアタックが付いたり、付かなかったりするのは管楽器ではありえないことだと思います。

 次にフレーズを意識する時に、管楽器や声楽の場合と、ヴァイオリンなどの弦楽器の場合、さらにはピアノの場合に演奏者の「感じ方」が違うのかもしれません。おそらく、音楽のフレージングは歌うとき=声楽で考えることが前提になっているように思います。作曲者が意図的に、人間が一息で歌いきれない長さの「フレーズ」を作った場合に、歌う人・管楽器奏者はどこかでブレス=息継ぎをせざるを得ません。弦楽器やピアノの場合は、苦しくないので(笑)息継ぎの場所を考えることもなく、フレーズを意識しないで演奏してしまう傾向があります。また弦楽器の弓が、先になると弱くなり、元に来ると強くなるという「不自然な強弱」が起こりがちです。これも音楽のフレーズとは無関係な「癖」の場合があります。日本語で言うなら、「えーっと、きょうは、れんしゅうを、して、ないです」の切れ目ごとに大きく言えば「こどもっぽく」聞こえ、逆に切れ目ごとに弱く話すと、何を言っているのか聞き取りにくい話し方になることに似ています。センテンスの切れ目を理解して、強く言いたい言葉を目立たせる話し方が、正しい話し方です。

 管楽器が音を保つ=キープする時の話も、一戸氏から聴きました。
ディミニュエンドの難しさも実際に演奏して示してくれました。
弦楽器奏者が、何気なく音を伸ばすのに対して、管楽器の場合に息を「維持する」ことや、音の強さを変化させることの体感的な難しさがあることに改めて気づきました。単にクレッシェンドする、ディミニュエンドするイメージから、「音を維持しながら」ということを加えることが如何に大切なのかを学びました。
 息を吸う、吐くと言う人間が無意識に行っていることを「演奏」に使う事の難しさは、私たちが弓を動かせば音が出るという安直な発想に陥っていることから脱却する必要があります。ダウン、アップ、元、中、先という物理的な「弓の動きと場所」を、音楽の中で生かすも殺すも演奏者次第です。単純に音の出る仕組みと、楽器の構造や素材が違うだけではなく、管楽器や打楽器から学ぶべきことが山ほど(笑)あることを再認識しました。さぁ!これからだ。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

45年前の自分と音楽と

上の1枚目と2枚目の写真は、高校1年生の時、クラスで江の島に「遠足」に行った時の集合写真。3名目の写真は、恐らく高校2年生?で恩師、久保田良作先生門下の発表会時に撮影したもの。寺神戸君や、吉野先輩の顔も。
それぞれの人に、歴史があるわけで長生きすると、歴史も増えます。
記憶のあるなしに関わらず、現実に体験してきたことが歴史です。
音楽高校である「桐朋女子高等学校音楽科(共学)」に間違って合格したのが15歳で今61歳。写真の当時も音楽に関わって生きていて、それ以前にも音楽との関りは「それなり」にありました。中学生当時の音楽部仲間と、今も交友しています。

 音楽の学校で学ぶことで、得られるもの。
演奏の技術、音楽の知識。それだけなら、音楽の学校に行かなくても身に着けられます。それ以外に何が得られるのか?普通科の学校・が医学と何が違うのか?
 学校での友人が「音楽仲間になることです。普通科の高校でも、音楽仲間と巡り合えます。バンド仲間や吹奏楽部仲間など。ただ、音楽科の学校だと、友人がすべて音楽を学ぶ人なので、当然音楽の仲間でもあります。
 そうは言っても当時、すべての級友、同期の生徒と仲が良かったわけでもありませんでした。1学年90人の中で、男子11人。その中でピアノ専攻5名がA組、弦楽器3人がB組、フルート1名作曲2名がC組にまとめられて(笑)いました。

 音楽の学校で知り合った当時、誰がうまい、誰それの技術は…という話も良く出ました。声を掛けられれば、誰とでもいっしょに演奏しました。
 若気の至り。なんとなく無意識のうちに、刺々しい関係にもなりました。
同じ門下生の中でも、学年で誰が一番うまい…と言う序列が常にありました。
その人間関係に耐えられる、メンタルの強さと同時に、音楽から離れた人間関係も築くことが必要でした。中には「一匹狼」で寡黙に過ごしている人もいましたが、それがすべてだったのかどうかは、本人でなければわかりません。
 音楽仲間と思えるようになったのは、実は割合最近の事のように思います。
いわゆる「現役」の世代は、友人との関係よりも仕事である音楽と向き合うことで、ほぼすべての日常が終わります。生き残りゲームの真っただ中にいるのですから当然です。
 年齢を重ねると、体に抱える「病気の歴史」も嫌ですが増えてきます。
身体が今までのようには動かせない、演奏するにしても「力で押し切る」演奏はしたくもないし、出来ません。逃げのように思われますが、他の演奏家との「距離」は昔よりも近くなった気がします。誰がうまいか?より、あいつは元気か?生きているのか?という世代なのかもしれません。
 現実に、高校・大学時代の友人、近い世代の人が何人も世を去られました。
中には、30台になる前に亡くなってしまった友人もいます。年齢が近いということは、親世代の年齢も近いわけで、介護に直面する人がほとんどの世代です。
 そんな共通の歴史観をもつ、音楽仲間が一緒に演奏できる場を作ってみたいと思っています。「○○記念オーケストラ」のような「すげぇだろ!」な存在ではなく、普段着で演奏を楽しめるオーケストラ。次世代の若者、子供たちとも一緒に演奏できる空間が、日本にあるでしょうか?当然、「プロ」とか「元プロ」という肩書=プライドを捨てて集まることが前提です。演奏を心から楽しめるのであれば、演奏技術より大切なものが感じられるはずだと信じています。
 そんなオーケストラに、メリーオーケストラがなってくれたらなぁ…と、のほほんと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野謙介

演奏者が変わるとヴァイオリンの音が変わる謎

 映像は、ピアソラ作曲の「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブです。今回のテーマは、ヴァイオリンを演奏する人にとって大きな謎の一つです。購入したいヴァイオリンを選ぶとき、楽器店に行っていくつものヴァイオリンを演奏して比べますよね?
 一人の人間が違う楽器を演奏した時に感じる「違い」とは別に、ひとつのヴァイオリンを違う人が演奏した時に、楽器の音は変わるのでしょうか?結論から言うと、変わります。

 当然、楽器そのものの構造や材質が変わるわけではありません。演奏者の弾き方によって、楽器のなにが?どう変わるのでしょうか?単にじょうずな人が演奏すると良い音がする…と言うことではありません。楽器固有の「素の音」があります。人間の声で考えるなら人によって、地声が違うのと同じです。
 楽器を演奏するときに、演奏者が望む=好きな音で演奏しようとします。音の大きさ、音色の感じ方は人それぞれに違います。
同じ音を何人かの人が同時に聴いて、同じ印象を持つことはありません。ある人は高音が強いと感じ、ある人は高音が足りないと感じます。数値化しても他の楽器と比較しない限り、固有の楽器の音を表わすことは不可能なのです。
 自分の好みの音量・音色を目指してヴァイオリンを演奏すると、次第にどう演奏すると、どんな音量・音色が出せるのかを演奏者が見つけられます。その弾き方になれると、自分の好みの音で楽器が鳴ります。演奏者は「音が変わった」と感じます。それは自分の演奏の仕方が変わったのです。これが「演奏者の変化」です。

 一方で、楽器自体は何も変わらないでしょうか?短時間=数時間で木材の固さが変化することは物理的にあり得ません。弦は時間と共に変化します。温度・湿度、さらに「芯」に当たる素材の伸び方、弦表面の変化もあります。
 楽器を自分の好きな音量・音色で、長時間=数日~数年演奏し続けると、楽器の中で、特有の部分が常に大きく振動します。大きくと言っても目に見えるほどの大きさではありませんが、音自体が空気の振動ですから、その音の高さと大きさによって、楽器本体の「木」も振動します。そして、演奏の仕方によって、その振動の場所が変わります。解放弦を演奏しながら、左手で裏板をそっと触ってみると、ある部分だけが大きく振動しているのを感じます。違う高さを弾くと、違う部分が振動していることに気づきます。
 金属の場合は、「金属疲労」と言う言葉があるように、常に一定の力が加わるとやがてその部分が破断します。木材の場合は、強い力が加われば「削れる」か「割れる」ことがありますが、金属に比べて木材は柔軟性に富んでいます。固い木が乾燥すると、乾いた音になります。それがヴァイオリンの「体=共鳴箱」です。
 振動し続ける部分が、振動しやすくなるのは当然です。
つまり、演奏者の好みの音量・音色が、ヴァイオリンの「木」を振動しやすく変化させていることになります。これが「楽器の変化」です。

 ヴァイオリンに限らず、演奏方法で楽器の音量も音色も変わるはずです。その変化を起こす技術が演奏者に必要です。
ヴァイオリンで言えば、弓の張り方ひとつで音色が変わります。
弓の毛を当てる弦の場所が、数ミリ変わるだけで音色が変わります。圧力がほんの少し変わっても音色が変わります。弦の押さえ方でも音色が変わります。ピッチがほんの少し変わっただけで、音色が変わります。いつも決まったピッチで、それぞれの音の高さを演奏していると、ヴァイオリンが共振しやすくなります。
 他にも音を変える要素はたくさんありますが、つまりは演奏者の「耳」が基準であるということです。
 残念ながら、人間の耳は体調によって聞こえ方、感じ方が違います。場所が変われば聞こえ方も変わります。その不確定な「耳」に頼るしかありません。だからこそ、「技術」を安定させる必要があります。「視覚」に頼らずに「聴覚」と「触覚」に神経を集中させることで、自分の楽器の音を、自分好みの音に替えることが可能になります。頑張ろう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生きている音楽が生演奏

 動画は、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」の「瞑想曲」です。下手な演奏ですみません。
 私たちが聴くことのできるクラシック音楽は大きく分けて「スタジオやホールで録音した音楽」と「コンサートで聴く音楽」があります。
コンサートの演奏を録音したものも、コンサート演奏の「一部」として考えてみます。。
言うまでもなく、レコーディングを目的とした演奏は、演奏者と録音技術者・プロデューサーの納得がいくまで、何度でもやり直しができます。技術的には、うまく演奏出来た部分を「つなぎ合わせる」ことも可能です。
 一方で演奏者が聴衆の前で演奏する場合は、「一発勝負」でやり直しはできません。
 あなたは、どちらの演奏が好きですか?

 仕事として演奏する立場で考えると、それがレコーディングのための演奏でも、コンサートでの演奏でも、同じお仕事です。
 違うとすれば、レコーディングの場合には、音量、音色より「正確さ」を求められます。簡単に言えば、楽譜に書いてある通りに間違えないで演奏することが必須条件です。コンサートで演奏する場合でも間違えないで演奏することは重要なことですが、音量・音色と聴いてくれている「人」をその場で満足させる「気持ち」が何よりも大切です。会場の響き、他の演奏者とのバランスを事前に確認して本番の演奏に臨むのが「生演奏」です。

 生きている人間が、生きている人の前で音楽を演奏するのが「生演奏」だと思います。機械で再生された音楽は、その意味で言えば生演奏ではありません。
 以前、マドンナのライブを見に(聴きに)当時の後楽園球場にいったことがあります。歌っている姿は、望遠鏡がなければ見えません。スクリーンに映し出されるマドンナの映像と、大音量で球場に響き渡る音楽。椅子にも座らず、立ち上がって「狂乱」するオーディエンス。その場の空気は楽しいものでした。が!
 その後、そのライブをテレビで見たときに、実はマドンナが歌っていないことを知ってしまいました。おそらく、歌以外の音も予め録音されていたものだったのだと思います。すべてのライブがそうだとは思いません。会場=球場で不満はありませんでした。
 もし、クラシックの演奏会でCDの音を再生し、演奏者は「あてぶり」で弾いた振りをしたら、どうなるでしょうか?

 演奏に「傷」が許されないとしたら、人間が演奏する必要はありません。コンピューターで作り上げたヴァイオリンの音を、実際に演奏した音と「ききわけ」できないレベルまで仕上げることは、現在でも可能です。音楽に限らず、映像の世界でも、調理の世界でも、似たようなことは既に現実になっています。
 レトルト食品、冷凍食品のおいしさは、すでにレストランやお店で食べる「以上」の場合が増えています。「人工知能=AI」が進化して、人が運転しなくても目的地まで安全に走る「自動車」がすでに存在します。音楽も、そうなるのでしょうか?

 人間が演奏しない音楽も、確かに音楽です。
それを「便利」だと感じるのも個人の価値観です。
なにも楽器の演奏が出来なくても、パソコンで曲を作ることもできます。データを打ち込んで、演奏し録音することもできます。
音楽の楽しみ方のひとつになったことは事実です。
 人間が感じる、楽器を演奏する楽しさ・難しさ・喜びがあります。
演奏をすべて機械にゆだねてしまえば、それが失われます。
 人間が演奏前に緊張するのは当たり前です。うまく演奏出来たり、出来ないこともあるのが人間です。演奏者に聴衆が、自分の理想やパーフェクトな演奏を求めるのは、どこか間違っていると思います。生きている人間が、自分の目の前で演奏していることが、どれだけ素晴らしい時間なのかを、聴く側も考える時代に入りました。「バーチャル」全盛の今だからこそ、リアルな人間の演奏に魅力を感じる時代なのです。生身の人間が演奏する音楽を、守ることができるのは実は、演奏者側ではなく「聴いて楽しむ側」が担っています。聴く人が求めなければ、演奏者は消滅します。演奏者が消滅すれば、趣味で楽器を演奏することもできなくなります。「楽器」そのものが消えるからです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介