楽器の練習で得られるもの・失うも

ヴィオラとピアノで演奏する「糸」

久しぶりのブログです。映像は自宅で演奏した「糸」です。中島みゆきさんが作詞作曲され、歌われていた「歌」です。
 私たちがヴァイオリンとピノアのために作曲された曲の他に、いわゆる「歌もの」を多く演奏するのは、第一に旋律が人間の歌える音域で(当たり前ですが(笑))、聴く人が覚えやすいこと。言い換えれば作曲する人にとっては「音域の制約とモチーフの設定」が器楽曲より多く求められることになります。
「大衆音楽」を卑下する人がいますが、元よりクラシック音楽の多くが「大衆音楽」だったことを忘れてはいけませんよね。
 それらの「歌」と今回のテーマである「練習」にどんな関係性があるでしょうか?

 指導者の端くれでもある私が「練習で失うもの」を書くってどんなもの?と思いますが、私が経験し感じてきた自分と、自分以外の演奏家、さらには生徒さんたちを指導してきて思う事は「練習でうしなうものがある」ことtです。
当然ですが「得られるもの」があるから練習するのです。練習しなければ、得られるものはありません。誤解のないように(笑)
 得られるものは?「演奏技術」と「音楽的知識・演奏経験」です。これは、練習の時間にある程度比例して得られるものです。
 同じ人が、毎日1時間練習した場合と毎日4時間し続けた場合、得られる技術・知識・経験は恐らく4倍近い差があるでしょう。
 違う人と比較した場合は?おそらく時間には比例しません。内容と練習の仕方が根本的に違うのですが、結果が違って当たり前です。誰かが毎日4時間練習しているかrあ、自分も同じ時間連取すれば、同じように演奏できるように…「なりません」(笑)
 練習には当然、体力と時間が必要です。前提として「環境」がなければ練習は出来ません。連取する「場所」と「時間」と「体力」、一番大きな要素は「練習する時間、それ以外の事ができない」ということです。
 言ってしまえば、練習するために生活の中の「何か・どこか」を削ることになるのは当然です。子供であれば、遊ぶ時間や勉強する時間を削って練習することになります。
大人であれば、働く時何か休息する時間を練習に充てることになります。だから練習が「悪い」とは言っていませんので悪しからず(笑)

 練習に使う時間が多いほど、その他の時間を多く削ることになります。一日が24時間であること、人間は睡眠したり食事をしなければ生きられないことを考えれば、ある意味で誰もが公平に「時間」を持っています。
 練習することで、充実感を感じたり、技術を得られることが嬉しいのは喜ばしいことです。その人の「幸せ」な時間でもあります。
 よく考えると「もしも練習している時間を違う事に使っていたら?」どんな幸せがあるか?どんな人生になるか?比べることは不可能だという事です。
 病気になった時、薬をの飲んだ場合と飲まなかった場合の「結果」を、同じ人がお暗示時に比較できないのと同じです。「もしもあの時…」で後悔することも、逆に安堵することも可能性としてあり得ます。練習に毎日4時間使ったから、全員が後悔しないとは限らないのです。毎日4時間を例にすれば、一週間で28時間です。丸一日の時間より長くなります。活動する時間が仮に「16時間」だとすれば?約二日分の活動時間を一週間で「消費」したことになります。これを1っカ月、1年続けたら?さらに幼い頃に年々も続けていたとしたら?練習した時間は、取り戻すことはできません。何度も書きますが「得られる結果は全員違う」のですから、良かったと思う人も言えれば、大きな後悔を感じる人もいるはずです。

 音楽の世界で「一流のプロ」と呼ばれる方の多くが、毎日何時間も連取し続けたと語られています。中には練習が嫌いだったと言う人もかなりの割合で存在します。嫌いな練習を続けてきた「結果・成果」として、一流の演奏家の地位・称号を得たのであれば、満足でしょう。それを「素晴らしい」と思うのも当然です。一方で、一流の演奏家の中に、40代の若さで引退宣言し、これから先は好きなことをして暮らしますと笑顔で話す方もおられます。周囲からは「もったいない」という事もあっても、本人の価値観です。
「神童」「天才」と呼ばれた演奏家の中で、絶頂期であるはずの20代で、精神を病む人がたくさんいました。共通しているのは「これ以上うまく弾けない」と言う気持ちと、周囲からのプレッシャーです。幼い頃から「良い子」で「素直」で「真面目」な子ほど上達します。そして、大人になって精神のバランスを崩す結果とになります。

 我が子が毎日、ゲーム三昧で勉強も練習もしないと「ぼやく」のも親です。心配だからですよね。当間の事です。冷静に考えれば、子供が好きなことをして「育つ」のは今も昔も同じです。練習が好きな子供が「仮に」いたとすれば、勝手に練習するはずですが、およそ今まで聴いたことはありません。親の「期待」に応えよるとする、良い子が好きではなくても練習するのを見て「素晴らしい」と思うのは、どこか間違っている気がします。本当に練習好きなのでしょうか?

 練習はしなければ上達しません。練習すれば誰でも上達する可能性があります。
「何歳で・何年度」「どのレベルまで」上達すれば「一流の演奏家なれる」かも、実は決まっていません。統計はありません。もっと言えば、楽器によって違います。声楽を子供の頃から必死になって練習しても無意味なので🅂う。金管楽器を幼稚園児は吹けません。
幼い頃から演奏できる楽器は「鍵盤楽器」とヴァイオリン・チェロ」「ギター」に限定されます。厳密に言えば、ピアノを幼い子供が演奏しても、大人の音は出せません。体格Tと筋肉量が違いすぎるからです。子供用の分数ヴァイオリンで、大人のヴァイオリンの音も出ません。ただ「技術」だけは身につきます。それ、必要不可欠ですか?(笑)
 子供が好きなことをしながら、伸び伸び育つこと。大人が生活のバランスを維持しながら、人生を楽しむこと。それが原点でだと思います。
 何かを魏勢にして得られたものにも、価値はありません。その価値が本当にその人にとって、かけがえのない物かどうか?を思うのは、人生の執着に近いときだと思います。
無理をしてまで練習することの「危険性」を考えるべきです。
 音楽は命を懸けて演奏するものではありません。本人が命を懸けて「楽しみたい」と思える年齢になっても楽しみたいと言うのなら、だれも止められません。ボクシングで、まさに命がけで戦う人たちの心理は、ボクシングを見るだけの私たちには到底、理解不能です。ただ音楽で誰かを傷つけたり、不幸にすることはなく、誰かに勝った!負けた!という事もないのです。あくまで自分の「満足感」だけが欲しいのです。そんなことに、命を懸けさせる親に、私は言いたいです。
「子どもの人生を決める権利は親にはない」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自己主張と協調性

瑠璃色の地球 ヴィオラ・ピアノ

 今回のテーマは、音楽を通して「人との調和」を考えるものです。
戦争という人類が行う「最も愚かな行為」も元をただせば、特定の人間の協調性の欠如と自己主張を止められなくなった暴走による行為です。
 自分の考えを持つことは素晴らしいことです。食べ物の趣向も一つの「考え方」です。問題はその考え方を行動にうつつぃた時、他人を災いや不幸に巻き込むことは、どんな権力がる人であっても許されないことです。
「自分の考え方は正しいのだから、誰も不幸にならない」と思うのは大いなる勘違いです。エゴイズムでしかありません。人それぞれに違った「考え方」を持っています。他人に押し付ける権利はありません。
 音楽を何人かで演奏する時、必ず起こることですが「感じ方の違い」を擦り合わせる作業」が必要になります。テンポや歌い方、揺らし方の好みは違って当たり前です。そのまま同時に演奏すれば、出始めから最後までバラバラで、恐らく最後までたどり着くことさえ不可能です。
 オーケストラで指揮者がいる理由も、ここにあります。単に音ので始めmpきっかけや、テンポを決めるだけではなく「まとめる」ことがその役割です。
指揮者の考え方や指示の仕方に、オーケストラのメンバーが「従う」のは、指揮者を認め信頼しているからです。中には指揮者の感じ方や指示に「違和感」や「反感」を持つ人もいます。
 最終的には、
①その演奏者が我慢して演奏を続けるか?
②指揮者に考え方や指示の仕方を変えてもらうか?②
③演奏者が辞めるか?
④指揮者を辞めさせるか?
のどれかを選ぶことになります。
多くの場合は①、次に③でしょうね。
これは二人で演奏する場合でも同じです。
私たち夫婦の演奏も、常に「擦り合わせ」た結果なのです。

 音楽で意見が合わないからと言って、戦争が始まることはありませんが(笑)
楽器が「武器」に変われば、お互いの命を奪い合う戦争が始まってしまうのでしょうか?武器そのものが悪いとか、不要だとかという議論より「何のために使うのか?が大切な音です。楽器と同じです。ヴァイオリンを燃やして燃料にしようと思う人はいなくても、もし無人島でヴァイオリンしか燃やせるものがなかったら?生きるために燃やすでしょう。自分の生命が本当に危険だと思った時、身を守る「武器」が手にあれば使って生き残るのが本能です。相手がクマであっても、人間であっても同じかも知れません。クマ相手に素手で戦っても人間は勝てません。
 野生の動物たちが、食物連鎖と呼ばれる「弱肉強食」で生き残るための「殺生せっしょう」を行う事を、私たち人類は「可哀そう」と思う反面で「仕方のない事だ」と理解できます。それは「知性と理性」があるから思えるのです。
 必要のない争いをするのが「人間」です。極論すれば、音楽で争いが起きるなら、音楽を捨てても人類は滅びません。だからと言って「音楽はいらない」と言うのは如何でしょうか?
 まだリスクを少しでも減らしたい…気持ちは誰にでもあります。安全な家から出て、外を歩けば「いつ?」車に跳ねられるか?と考えたら外には出られません。
外に出ていて、大地震にあったら?と思ったら出られません。でも、私たちはリスクを忘れて?承知のうえで?外出します。それが「知性」であり「理性」です。

 現代の社会で生活する私たちが「生き残る」ためにすべきことがあります。
最低限の生活を、差別なくすべての人間が営める社会を作ることです。
「最低限」と言うと嫌悪感を持つ人がいます。確かに線引きは誰にもできませんが、少なくとも「生きていけるお金と環境」が最低限だという事には異論はないはずです。「働かない奴が悪い」「外国人が悪い」「病気になるやつが不運なだけ」「自己責任」そうでしょうか?全部、どこか間違っています。
 音楽「ごとき」でさえ、頭を使って楽しむ行為です。
ましてや「最低限の生活をすべての人に」位、誰にでも答えの導ける話です。
「共産主義者か!」「社会位主義者だな!」とか「左翼だ~!」って、言う人。
知能を少しは使ってみましょうよ(笑)
 人間だから!音楽を楽しんだり、文字を読み書きしたりできます。
その人間がお互いをけなしあい、他人を認めず、自己主張だけを繰り返すのって
「ばか」「あほ」だと私は思います。これも「他人を認めていない」と言われるかもしれませんが、他人を認めない人を「認めない」のは自然の摂理だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度、圧力、場所

映像はシューベルト作曲「セレナーデ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは「弓」の使いかtあ。言い換えれば「音の出し方」「音の創り方」でもあります。
 声楽家にとって「発声」が基本であり同時にもっとも難しいことだと感じています。
 ヴァイオリンの「ボウイング」については、本当に多くの演奏家や指導者が書籍、動画にして自分の「流儀」を開設しています。動画の中には実際に音を出しながら解説しているものも多く見受けられます。
 ただ、学ぶ人にとっていくら説明されても、自分が演奏する「圧力」「速度」を客観的に分析することは非常に難しいことになります。逆に言えば、指導者からいくら「違う!」と指摘され「こう!」と目の前で示されても理解することは困難です。
 そこで「圧力」「速度」「場所」という三つの観点で自分の「音」を観察する手法を書いてみます。

 「圧力」とはまさに弓の毛を弦に「押し付ける力」です。この力は、右手の親指と人差し指によって生まれる「下向きの力」ですが、厳密には「魂柱に向かって×力」だとイメージすると分かりやすくなります。
天井から床に向かってかかる「垂直方向の力」に加えて、E線(ヴィオラならA線)の下に建っている「魂柱」に向かう方向の力を「圧力」と考えるべきです。
 圧力を一定に保つことと、瞬間的に変化させること、徐々に増やしたり減少させたりすることのすべてが「圧力」です。弓の毛の張り方=強さと、弓の木(スティック)の固さ=弾力性を理解しなければ、圧力のコントロールは無意味です。当然、弦の梁の強さ=テンションも関係します。弦の種類にも影響されます。後で述べる「弾く位置=駒からの距離」でもテンションは大きく変わります。
圧力の変化は「音量の変化」に最も大きく関わります。
弦を強く横に引っ張って、一気に話せば大きな「ピチカート」の音が出ます。弓の毛で摩擦を作ることで、この「横方向への力」を作っています。もちろん、松脂の粘り、弓の毛の凹凸があっての摩擦ですが、圧力を弱くすれば、横に引っ張る力が減るため、音が弱くなるわけです。

「速度」はまさに弓Gあ動くスピードのことです。
ダウン・アップの運動は「指」「手首」「肘」「肩」「右上半身」で行うものです。特に「右上半身」を使うイメージは、最も大きな筋肉の運動になるので必要不可欠です。
指によるダウン・アップは瞬間的な速さの増加と減衰に多く用いまSう。手首によるダウンアップは本来、弓と掌の「角度」によって運動の大きさ=可動範囲が変わります。
弓の毛と手の甲・掌が「平行」に近い持ち方の場合、手首による「左右=ダウンアップ」の運動は僕わずかになります。一方、弓の毛と手の甲・低野平が「45度」に近い持ち方の場合、手首の上下方向の運動を「横方向=ダウンアップ」の運動として使うことができます。ただし、弓の毛と「平行」に動かすことは手首の運動だけでは物理的に不可能です。弓の傾斜が変化するt事になります。
 肘の関節の曲げ伸ばしが、もっとも一般的に使われるダウンアップ=横方向の運動になります。ただ、弓の元部分では、肘が「鋭角=90度以下の角度」になるため、自由度が制限されます。また人によって上の長さは違いますから、単に全弓を使うことだけを意識するのは無理があります。
 右肩の運動は主に「鎖骨からの運動」です。
単純に言えば、上腕=肩から肘までのの部分の上下運動を「横方向」に使うことです。この運動は「移弦」でも当然使いますが、弓の元部分で使うことによって、肘が鋭角になることを回避できます。
 右上半身の運動。これは「背中の筋肉」を意識することで生まれる運動です。背中の筋肉を使うために、姿勢が重要になります。いわゆる「猫背」で演奏すれば、僧帽筋=肩甲骨の周りの筋肉」は伸びきった状態になり、縮めることができません。

 これらの運動を組み合わせて「速度」をコントロールしますが、圧力と速度には深い関りがあります。
・強い圧力でゆっくり動かすと、弦が振動できずに閉塞した音やがりがりした音が出ます。
・強い圧力である程度速く動かせば、大きな音が出せます。さらに速くすれば最大んの音量が出せます。
・弱い圧力なら、遅ければより弱い音、早ければ「軽く薄い音」が出せます。さらに一弓のダウン・アップで長い時間の演奏ができます。

 最後に弓の位置です。
弓の中央部分は最も針が弱く、先・元は毛の梁が強くなるように「張り方」を調整します。
その上で、駒の近くを弾けばより、強い圧力をかけることができ、高音の成分が多い「明るい音」が出せます。
駒から離れた部分になると、テンションが下がり、柔らかい音・くすんだ音を出すことができます。当然ですが、弓と弦の当たる位置は弓を動かせば変わります。その時々で弓の「強さ」が連続的に変化することになります。
弓の「弾力」を感じながら演奏することを忘れないことが大切です。

 どんな曲であっても、すべての音に「発音」と「途中」と「終わり」があります。そのすべてに意識を持てるようになれば、自分の好きなような歌い方に近付けると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「脳」

 映像はシューベルト作曲「セレナーデ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。歌曲を「言葉抜き」で演奏するわけですが、原曲の歌詞の内容を知ってから演奏することも大切な準備です。

 今回のテーマは、演奏者に必要な「考える力」についてです。
学校のテストの成績や学歴が高いと「頭かが良い」という事がありますが、多くの場合「記憶する能力が高い」ことを指しているように感じます。何かを覚えることは、脳の働きによる結果です。逆になにかを忘れることも同じく、脳の働きです。
「記録力」以外に、推理したり想像したりする脳の働きがあります。
計算とは違い、正解のない「問い」に対して、より良い「答え」を導き出す能力でもあります。

 演奏する音楽を覚える方法も様々です。「聴いて覚える」「楽譜を見て覚える」その両方を組み合わせる方法など、人によっても違います。自然に覚えてしまうこともあります。無理やりに覚えようと努力することもあります。結果として「思い出せる」ことが目標になります。覚えるという事は「思い出せる」ことです。

 推理したり想像する場合、ある時突然にひらめくこともあるかも知れません。が、多くは「頭をひねる」つまり「考える時間」が必要になります。これは、音楽に限らず「物を創る・造る」場合に必要不可欠なことです。人間は自らの経験をもとにして、なにか新しい「物」「事」「方法」を探します。つまり「記憶」に頼る部分が大きいことにもなります。
子供と比べて大人の記憶力が劣ったり、物忘れが多くなる原因の一つが「新しいことを覚える機会の減少」があります。生きるために必要なことを一通り覚えてしまたら、意図して何かを覚えようとしない限り、ほとんど「慣れ」だけで行動します。

 演奏したこのある音楽でも、毎回「新しい想像」をする人と、しない人がいるように思います。漫然と「音を出す」だけの技術を使い演奏する場合には「脳」は使わなくても演奏できます(笑)逆上がりができたり、自転車に補助輪なしで乗れるようになれば、何十年経ってからでもできることがその証です。無意識に記憶している演奏技術を使えば、何も考えなくても「音H出させる」のです。

 演奏中の「一瞬」に何を考えているでしょう?
次に演奏する音の「音名」「高さ」「長さ=音符や休符の種類」「音の大きさ」「ポジション」「弦」「指使い」「弾き始める弓の場所」「弓のダウンアップ」と、弦楽器の場合を書きましたが、それぞれの楽器で考える「準備」があります。
 次の音だけで演奏が滞りなくス数課と言えば?例えば短い音符が連続するパッセージでは、1拍分や1小節分を読み取り考えます。
ゆっくり歩くなら足元を見ながら勧めますが、車で高速道路を走る時には、相当前方にも目をやっているはずです。
 演奏しながら聴く自分と他の人の「音」に反応することも、脳の働きです。
耳鼻科などで行い検査「聴力検査」とは違います。音に反応して、ごく短時間で反応する「速さ」と「正確さ」と「同時に反応する能力」が求められます。
「考えなくても反応できる」ようになるまでにかかる期間・時間は人によって違います。同じ年齢の子供でも、その個人差は非常に大きなものです。
反応が速く、修正する方法があっていると「耳が良い」と言われます。
特に自分の出している音への反応は先述の「次の音」を考える作業と同時に行われます。つまり「次の音」と「今、出ている音」を常に考える脳の働きです。

 私自身、視力Gあ低下し楽譜を見ながら演奏することが出来なくなってから、多くの事に気が付きました。
以前は「初見で演奏する」ことが出来ました。初めて演奏する曲の楽譜を「見ながら」演奏し、考えたことを楽譜に書き込みながら練習しました。その延長として「楽譜を見なくても演奏できる」つまり暗譜の状態になります。
 楽譜を見ながら演奏することが当たり前だったわけですが、それが出来なくなってみると、生徒さんが「視覚に頼りすぎている」気がします。
「楽譜」「左手の指」「弓と弦の接点=駒の上」などを、見ながら演奏している生徒さんが、ある一瞬「なにに集中していたか?」聴いてみると、
「なんとなく楽譜を見ていた」「なんとなく左手を見ていた」という答えがもっとも多いのが実態です。むしろ「何も考えていない」状態に近いのです。

「感じること」と「考えること」は別のものです。五感で感じるものは「外的刺激」によるものです。一方で、考えることは外的な刺激がなくても想像できる「イメージ」です。言うまでもなく、イメージは実態がないものです。見えない・触れないものですが、明らかに存在するものです。楽譜と言う2次元的なものから何かを感じるためには、記号を「音」にする技術が必要です。想像力と集中力、さらに同時に考える能力を見tにつけるために、演奏者は「運動」以前に「思考」をすることが絶対に必要です。
中学校の「教科」で言えば、「国語・数学・理科・社会」にまたがる「理解力」が必要だと思っています。
・文章を作る技術
・速度や長さ、時間を珪砂する能力
・音が出る仕組みや音の他kさに関する知識
・歴史や地域を考える力
もちろん、美術や体育、語学の能力・知識も仏ようになることもあります。
いずれにしても「思考」することが音楽を作る上で、最も大切であることを忘れてはいけないと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽(器楽演奏)の個性

 映像は私と浩子さんが初めてのデュオリサイタル(2008年)に演奏した、ドボルザーク作曲「ロマンティックピース」からの2曲です。
 この曲に限らず「クラシック音楽」と呼ばれるジャンルの音楽は、基本的に作曲家が書き残した「楽譜」の通りに演奏することが原則です。言い換えれば、演奏者は楽譜に書かれた「記号」を音から、さらに「音楽」として演奏することが求められます。
 ポピュラー音楽の世界でも「楽譜」が用いられることは珍しくありません。逆に楽譜を一切使用しない演奏者もいます。
 楽譜は「台本」に似ています。演者が文字を「演劇」や「朗読」で表現することと、ほぼ同じことです。「アドリブ」が許される範囲は様々です。クラシック音楽も同じです。ただ「許されないアドリブ」があるか?と言われれば、本来はどんな演奏であっても「演奏者の自由」であることは否めません。聴く人の好みにもよります。
 楽器で音楽を演奏する「器楽」の場合、歌と違い「音色=声の違い」はありません。楽器によって音色は違いますが、人間の声ほどの違いはありません。
 演奏する人の「個性」はどこに表れるのでしょうか?

「解釈の違い」と言う言葉は楽譜や文章に書かれた、事・現象を読み手・弾き手がどう?感じ取るかの違いです。
同じ文章を読んでも、人によって違う意味に取れる文章もあります。楽譜の場合も同じです。

「演奏するテンポの速さ」「音量」「音色」「フレーズの切れ目」「揺らし方」など、演奏の個性を左右することはいくつもあります。「表情」や「姿勢」「動きの大小」は視覚的なものであって、音とは別のものです。
当然、音楽に影響する動きもあり,逆に音により感情が表情に出てしまう場合もありますが「音楽があって」の話です。

 個性に優劣=序列をつけることは不可能です。「〇△さんの個性は世界一だ」って言いませんよね?むしろ、個性を引き出すことが技術だと言えます。

 そもそも、楽譜には「音の高さ」「リズム」が主に記されています。「音の大きさ」も書かれていますが数値的な絶対値ではありません。
曲のテンポを数値で指定されている曲もありますが、多くの場合には演奏者の自由が許される範囲があります。

 「曲全体のテンポの違い」と「音量差」だけが個性による違いでしょうか?
 一音ごとの「音量」「長さ」「音色」にこだわり、曲全体を仕上げること。その演奏は「一度だけ」で評価されるものです。録音物での評価は、人間の演奏を「記録した」ものであり、演奏する場で創られる「音の芸術」とは次元が違います。聴く人間が感じることも、時により変わります。
 録音物を初めて聴いた時の印象が変わっていくこともあります。

 最後に「個性的な演奏」について。個性の感じられない演奏を考えればわかることです。「楽譜に書かれたとおりに演奏する」ことを「正確な演奏」と言います。間違えないことに「個性」はありません。速いテンポで正確に演奏できる「だけ」でも個性は現れません。
「人と違う演奏」だから個性が強いとも言えません。単に奇抜な演奏と評価されても仕方ありません。
「個性」は演奏する人の「性格・好み」が現れることもあります。例えば、せっかちな人の演奏・勝気な人の演奏など。逆に普段の行動や表情からは想像できないような演奏をする人もいます。

 演奏の個性は、演奏者のこだわりの結果です。音楽は「曲」によってすべて感じるものが違います。一緒に演奏する人の「個性」も含め自分が納得できる演奏に個性が生まれます。当然のことですが、一曲の「個性」が出るまでに必要な時間があります。間違えない演奏のために努力する時間も必要です。
楽譜が同じだからこそ!個性を感じる演奏を心掛けるのがクラシック演奏だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を奏でて生きること

 映像は、ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
今回のテーマは、趣味であっても職業としてであっても「演奏」することを続けていく人の「幸福感」について。もちろん、好きな音楽を聴くことも人によってかけがえのない楽しみです。音楽を奏でるために…自分が楽しめる演奏をするために、練習することも音楽を奏でている事に変わりありません。人の前で演奏するのも、一人で練習するのも「音楽を奏でる」ことなのです。

 奏でる音楽がロックでもクラシックでも、人間が演奏するなら同じ「音楽」です。とは言っても現代の私たちが「聴く」音楽は生演奏よりも、はるかに「機械からでる作られた音楽」が圧倒的な数です。それでも、人間が作った音楽を、人間が演奏しているという前提で言えばかろうじて「人間の音楽」と言えるのかもしれません。要するに、聴く側の立場で言えば「生演奏」でない限り、人間が演奏していても機械の音でも「音楽」であることに変わりないことになります。

 一方で「演奏する」立場になると、楽器の種類にもよりますが自分の演奏技術=演奏技術・音楽のクオリティーになります。私の知る「電子オルガン」ヤ〇ハ製なら「エレ〇トーン」は、内蔵されたコンピューターにデータを入力し、再生時にそのデータと「一緒に」演奏するイメージがあります。極論すれば、演奏者がいなくても音楽は再生されるはずです。否定しているのではなく「楽器の種類が違う」のです。
 エレキギターであっても、クラシックギターであっても演奏する喜びは変わりません。ロックバンドでもクラシックのアンサンブルでも、お互いを思いや気持ちが第一であある事は変わらないことです。
 音楽を演奏することは、ある意味で「生きるために必須」なことではありません。なくても人は生きられます。光や空気、水がなければ生命は途絶えますが音楽がなくても生活できます。その「なくても死なない」演奏に楽しみを感じるのは、「知性があるから」です。言ってみれば「遊び心」です。演奏は遊び心が必要だと思います。「命がけの演奏」なんて聞きたくないと思いませんか?悲壮感の漂うコンクールの演奏風景を見ていると、音楽を楽しむ気持ちにはなれません。

 練習を楽しめるのか?と言う素朴な質問を良く耳にします。
私は「楽しくない」と正直に答えます。ならば「人前で演奏するのが楽しいのか?」と聴かれて率直に「はい」と答えるほどの自信もありません(笑)「ならば!なぜ?人前で演奏するのか?」きっと、練習も演奏会も含めて音楽を演奏するのが好きだからなのだとしか答えられません。
 音楽の学校に入学するために練習した時期もありました。音楽の高校・大学で試験のために練習した頃に「練習が楽しい」と感じたことはありませんでした。「合格するため」「良い成績を残すため」に練習していた…のだと思います。
 今、演奏が好きだから練習し人前で演奏する自分は、そんな「若い頃」があったからこそ存在しています。コンプレックスに苛まれ、挫折感を日々感じ、練習しても成績の上がらない年月を過ごしました。
多くの学友がいます。今も第一線で演奏活動を続けている仲間もいます。音楽大学で教鞭をとっている人もいます。クラシックではないジャンルの音楽演奏を続けている仲間もいます。それぞれに「音楽」と未だに関わって生きている人たちです。家庭で家事・子育てや、音楽以外の仕事をしながら「時々」音楽を演奏する人もいます。みんな「音楽仲間」です。
 若いときに味わった「苦さ」こそが年齢を重ねて「味わい」になる気がします。若い頃の「甘さ」は逆にほろ苦くさえ感じます。還暦を過ぎ、後半の人災を「音楽と共に遊ぶ」ことができれば、悔いのない人生のように思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「その道」に求められるもの

映像はボーム作曲「アダージョ・レリジオーソ」をヴィオラで演奏したものです。
 さて、今回のテーマは「その道」言ってみれば「専門家」や「プロフェッショナルッショナル」「達人」などを表す表現ですが、それぞれの「道」で必要な知識や技術・経験が違います。当然のことですが、「道」を知らない人人にとっては、その道の険しさや極めるまでのプロセスにつちえ、知る由もないことです。それなのに「あの人の技術は」なんちゃらかんちゃら(笑)と自分がその道を究めたかのような発言をする人がいます。私はその手の「えら増人間」が大嫌いです。はい。言わずもがな…ある道を究めようとした人にとって、その険しさを知れば、同じ道を究めようとする人が、道半ばであれば応援する気持ちこそあれ、蔑む言葉は口に出来ないのです。

 自動車の運転を「極める」道を考えても様々な道があります。
F1パイロットになるための道もあれば、タクシーの運転手、バスの運転手、大型トラックの運転手などすべての「道」が違います。必要な技術・知識も違います。
 料理を作って提供する「道」でも、中華・イタリアン・フレンチ・懐石料理・寿司など、すべての「道」が異なります。
 一見、誰にでも真似のでき増な「専門職」であっても、極めようとした人だけが知る「険しさ」があるはずです。家事全般を考えても言えることです。誰にでもできる?いやいや!毎日、家族のご飯を作り洗濯をしたり、掃除をしたり買い物をする「家事」は誰にでもできることではないのです。
「サラリーマン」であろうが「OL」であろうがそれぞれの「道」があります。

 音楽…ヴァイオリンとヴィオラしか(とも言えず笑)演奏できない私が感じる「自分の進む道に必要な技術と知識と経験」があります。
 聴いてくださる方にとって「求める演奏・音楽」があります。
 私が演奏し、表現しようとする音楽に「共感」してくださる人がいれば、本当に幸せなことです。私自身が自分に足りないと思う技術があるように、聴く人にとって別の「不足」があるのは「当たり前」のことです。聴く人が二人いれば、二通りの「求める演奏」があります。演奏者も入れれば3通りです(笑)

 技術の序列や勝敗が、客観的に判断できる「道」もあります。戦術のF1の場合「結果」は順位やタイムです。もちろん、パイロット=ドライバーだけでは勝てません。メカニックとスポンサーが不可欠です。
 ボクシングも勝敗で序列が付きます。勝てば多額のファイトマネーが手に入りますが「死」とも向き合う覚悟が必要です。

 芸術や医学、研究などの場合「序列」がどの程度?明確でしょうか?
 評価は「音楽を聴いた人」「治療を受けた人」が下すものです。選ぶ権利と責任は「聴く人」「患者」にも多分にあります。
音楽なら「聴いてみなければ」判断できません。医療なら「治療を受けてみなければ」判断できません。結果として満足するか?しないか?は、個人によって違うはずです。病気を「完全に」治せたとしても、完治するまでの時間と患者の「苦悩」は一概に比較できません。

「道」は無数にあります。人の数に、無数の「道」があるのです。同じ道はありません。自分の進む道を自分で作るのが人間です。他人の作った道は歩めません。他人の道を「遠回り」とか「無駄」と言う資格も権利もありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校教育でオーケストラを指揮・指導する

中・高校部活オーケストラ

 映像は20年以上前のものですが、横浜みなとみらいでの中学生・高校生が演奏するカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲。
 ハープの演奏者だけは「外注」(笑)パイプオルガンの演奏も高校生です。
 今回のテーマは、学校教育にある「特別活動」いわゆる部活動でのオーケストラを指導する際の「コツ」と「留意点」です。

 公立・私立を問わず「特別活動」の目的や主旨は国と地方自治体によって規定されています。好き勝手にできるものではありませんし、ましてや顧問や校長の意向で活動に制限を加えたり、逆に「無法地帯化」することも許されません。さらに、家庭=保護者の理解と同意も必要不可欠です。
 当然のことですが主役は「生徒」です。子供たちの健全な育成が目的です。中学は義務教育であり、高校は違います。さらに、思春期の子供たちです。その多感な時期の生徒に「オーケストラ」という特殊な環境を作るのは「大人」の仕事です。自然に生まれるものではないのです。

「オーケストラの指導は難しくてできません」と言う教員が殆どでした。そういいながら、吹奏楽の指導や合唱の指導は気軽に引き受ける教員が数限りなく(笑)いました。
 音楽への関心もなく、楽器演奏の経験が「ゼロ」でも顧問を引き受けなければいけない立場なのが「教諭」という職業です。「校務分掌」つまりは「業務」として顧問をすることも教諭の仕事なのです。

 オーケストラに限らず合唱や器楽演奏の部活動を指導・指揮するのであれば、最低限の知識と技術は身に着けるべきです。それが校務分掌であるなら、給与に含まれる業務なのですから。

 前提として、もし指導者自身が義務教育レベルの音楽知識・楽器演奏技術しかない=楽譜が読めない・リコーダーしか演奏できないのであれば、まずは生徒の安全管理だけしかできないと思ってください。「知った振り」で生徒に間違った指導をするのは「百害あって一利なし」です。練習内容・時間・運営・指揮。これらは「音楽」の基本です。「命にかかわらないから」という安直な考えで、音楽系の部活動指導は絶対にすべきではないのです。ラグビー部の顧問を命じられて、ルールも知らずに生徒に指導しますか?ワンダーフォーゲル部の顧問が、山の怖さを知らずに生徒を引率しますか?それと同じことです。

 本題です。
1.楽器の構造と扱いを学ぶ
2.楽器ごとの練習方法を学ぶ
3.合奏に必要な技術を学ぶ
4.指揮法の基本を学ぶ
5.楽譜の基礎知識を学ぶ
6.生徒のモチベーションを維持する方法を学ぶ
ざっと挙げれば上記のような「学習」「研究」が必要です。
 オーケストラには数多くの種類の楽器が含まれます。それらすべての楽器を「完璧に」演奏できる人間は恐らく地球上に一人もいません(笑)さらに言えば、指導者自身が「何の楽器も演奏できない」人であっても、知識を身に着け経験を積めば、オーケストラの指導は十分に出きるのです。「楽器ができない」からと言って、なにも学ばなければ指導は不可能です。

 上記の1~6の項目を同時進行で行います。
もちろん、段階があります。短時間に身につくものではありませんし、オーケストラ自体も「1」から大きくなっていくのです。
 私の経験を簡単に書いてみます。


1.私立新設校で男子校にただ一人の音楽教諭として採用されました。
2.開校準備の段階で「音楽部顧問」を任命され活動内容は一任されたので「オーケストラをつくる」ことにしました。
3.初年度購入備品を事務局に提出する段階で、通常授業以外の楽器=オーケストラの楽器購入について、3年計画で計上することになりました。(あまりに高額だったので)
4.初年度はコントラバス1・ティンパニ2・チューバ1・ヴィオラ1・チェロ1.ファゴット1・ピッコロ1・ドラムセットを購入しました。これらの楽器をまず優先して購入することで2年目に「吹奏楽にしろ」と言われることを回避できることと、生徒が購入しにくい楽器から揃えることが目的です。
5.開校時、部員は中学生5名高校生6名、合計11名でした。中にヴァイオリンを習ったことのある中学生1名、中学時代に吹奏楽部でフルート・サックス経験者が各1名。それ以外は「楽器初めて」の男子でした。
6.それぞれの生徒の希望を優先し楽器を貸し与えました。楽器が余る状態でしたが次年度も楽器の購入を計上しました。
7.開校から3年目に全学年(中1~高3)男子生徒が揃った時、オーケストラには60名ほどの男子部員がいました。3管編成オーケストラに必要な楽器はほぼ、買い揃えていました。
8.案の定、法人の理事長から呼び出しを受けました。横浜の高級料亭で「吹奏楽部に何故しないのか?」と迫られましたが、私には吹奏楽指導は出来ませんと伝え(クビか?と思いました)認めてもらいました。
9.学校の管理職と取り巻き教員からの嫌がらせ=音楽部排除計画に真っ向から戦う日々となります。外部からの指導者=コーチの採用は認められず、中学生の合宿も認められず、入学式・卒業式での演奏も認められないという不合理な方針と闘いました。
10.生徒の「やる気」を引き出すための工夫と、部員を確保するための「新入部員勧誘」、さらに定期演奏会の入場者数増加が毎年の頭痛の種となります。
11.全校生徒数、1200名の学校で、150名の部員を束ねながら、中・高授業と校務分掌を同時に行いながら常に「オーケストラ」を中心にした勤務でした。
12.学校から部活動への予算は「生徒会費」からの毎年1~2万円。楽器のメンテナンス費用のために「部費」を月に500円集めることにも学校はなかなか認めませんでした。
13.生徒の楽器は生徒に購入してもらうことを保護者会で理解を求めました。難しい生徒には学校の楽器を貸与しました。
14.全部員が揃う「合奏」は週に1日だけ。その他の日は「自由に練習」できる体制を続けました。
15.「対外的な結果を出せ」と言う嫌がらせ要求に応えるため、テープ審査のコンクールに参加し文句を言わせない結果を残しました。
16.高等学校文化連盟などに加盟することで対外的な活動を学校に認めさせました。
17.部員には「年功序列」を体感させるため、1学年下の部員を「先輩」が指導する体制を作りました。
18.一方で「やる気」があれば「下剋上」ができるよう「トップ」を希望する部員には、全員の前で指定された部分を演奏する「勝負」で席順を決めさせました。
19.選曲や当初の席順はすべて、指揮者が独断で行いました。
20.生徒が生徒を指揮する曲は演奏会の「1曲」だけで、開校5年目から毎年演奏し続けた「コーラスラインメドレー」だけに限定しました。生徒がオーケストラを指導することは不可能です。「指揮」は出来ても「指導」はできません。それを勘違いしないことが重要です。

 長々と「実話」を書きましたが(笑)、すべての学校で環境が違います。当然、生徒の個性もあり「地域の文化」も違います。
 そんな中でもオーケストラの活動は出来るはずです。大編成でなくても、10人いれば立派なアンサンブルです。その10人が卒業するまでに15人になり、やがて50人になるのです。それが顧問の仕事です。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術になぜ?個人差があるのか?_

映像は国際コンクールで優勝し誰からもその技術の高さを認められている日本人ヴァイオリニスト三浦文彰氏の映像です。今回のテーマは「技術の差はどうして生まれるのか」という素朴な疑問について考えるものです。
 結論から言ってしまえば「努力の内容と量の違い」という当たり前のことになりますが(笑)、うまくなりたいという気持ちがある人にとって「超えられない山」なのかもしれません。

 演奏の好き嫌いとは別に「技術力」は様々な方法で科学的に比較できます。人間の聴覚は極めて曖昧なものです。
同じ人間が同じ大きさ、同じ高さの音を聴いても聞こえたり聴こえなかったりするのが普通です。パニック状態になれば、どんなに大きな音も「音」として認識できなくなるのが人間です。ですから、人間がいくら頑張っても「科学的な比較」としては演奏技術を比較することは出来ません。

 ヴァイオリンの演奏技術を「分析」する賭したら、どんな項目があるでしょうか?
・楽譜に係れている音の「高さ」
・楽譜に係れいる音・休符の「長さ」
・音量の幅=ダイナミクスの大きさ
・練尾の安定性とバリエーションの豊富さ
・正確に演奏できるテンポの速さ
上記の中で「音色」に関するものが最も分析の難しい項目になります。音色の分析には「含まれる音の周波数と波形」を分析することになります。何度も言いますが「好み」の問題ではありません。あくまでも「数値化できる項目と内容」の話です。

 大雑把に言ってしまえば
「速い曲を間違えずに演奏できる」
「汚い音=演奏者が意図しない音をださない」
「静かな曲もどんな曲も美しく(笑)演奏できる」
美しいという言葉が科学で証明できないのですが、違う言い方をすれば「誰からもケチの付けられない=減点されない演奏」だということです。

 さて本題です。どうして?これらの技術に差が生まれるのでしょうか?
「才能だ!」と切り捨てるのは簡単ですが「才能って何?」が結局のところ、今回のテーマになるわけです(笑)
「じゃ、環境だ!」はい。それは確かに大きな要因になります。両親が演奏家だったり、いくらでも練習できる環境だったりと「うらやましい」と思われる環境の人もいます。楽器の練習ができない環境で技術を身に着けることは不可能です。一方で音楽の学校に進学できた人の中で、練習できる環境が同じでも技術の習得に差が表れるのも事実です。「それまでの環境」人によって育つ環境が違うのは当然です。ただ音楽の学校に入学できる一定のレベルがある人たちが、その後に修得する技術が違うこととは直接関係ありません。

 趣味の楽器演奏でも、国際コンクールに出場する人でも「技術さ」が生まれる原因は「練習の質と量」以外の要因は獄わずかだと思います。
「練習の質=内容」と「練習量=毎日の連中時間・トータルの練習期間」を合わせたのが「練習」であり、sの結果が技術の主六の違いになるものだと考えます。
 先述の通り、練習時間が仮に「ゼロ」であれば、技術の習得も「ゼロ」ですが、内容が「ゼロ」であっても結果は「ゼロ」だと言えます。
 むしろ「練習量=時間」は時計があれば図れますが、内容を測ったり比較することは困難です。

 練習の質=内容は、先述の「技術」の項目で書いたようなことを「できるようにするための内容」です。
「速く正確に美しく演奏する」ために「聴く能力」と「体をコントロールする能力」の両方を高めることが必須になります。どちらも「正確な演奏」には不可欠です。いくら耳が良く反応が速くでも、運動能力が低ければ再現性は望めません。元より音を聞き分ける「耳」がなければ、正しいか?間違っているか?を判断できません。


音に対する反ぬお速度と制度・筋肉や関節を正確に動かす運動能力。どちらも「あるレベルまで」は多くの人が到達します。さらに厳密な「制度」と「再現性」を身に付いtた人たちと、何が違うのでしょうか?
 これはスポーツの記録でも言えることですが「小さな違いの積み重ねの違い」なのだと思います。
 同じ練習メニューで、一人一人の筋力に合わせた加賀的なトレーニングをした場合「結果・効果」を数値化することは出来ても、その人の「感覚」は数値化できません。
脳波を取ることで「苦痛」「痛み」などは検知できます。
瞬間的に「何を考え・どうしようとした」ことまではデータに現れまS年。「思考」つまり脳の働きは最も分析が難しいジャンルです。
 おそらく練習中の「思考」が技術の習得を左右していると推察できます。「何も考えない」で練習しても上達は望めないということです。
 練習中に考えていること=注意していることを、すべて言語化することは不可能です。むしろ「無意識に考えている」からです。その思考を集中できる時間の長さが長ければ、より高い技術に到達すると思われます。
 同じこと(例えばピッチ)に集中して練習したとしても、同時に注意する内容(音色や音量など)をどの割合で、どの位集中しているか?は人によって違います。
結果として「同時に集中できる項目」の制度を高め、集中を持続させることも「能力」の一つです。
 結局「脳の働き」に左右されていることになります。
持って生まれた身体的な特徴や、脳の働きもありますが「訓練・練習」によって伸ばされる能力の「差」こそが、技術の違いです。
 と、思っていてもうまくなれないのが現実ですね(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

政治・経済と音楽

 私達のように音楽に関わって生活する人たちの多くが「政治に関心がない」ことを痛感します。まして「経済」に関しては「学問」だと思い込んでいる音楽家がいます。
 どんな職業であれ「sy会」という集団組織の中で生きていく以上、その組織…例えば国の政治と経済活動の中で生きていることに違いはありません。
 分かりやすい例えで言うなら、国全体が「戦争」状態にある時には「生き残ること」が最も難しいことになります。政治家は国民一人一人の命を守ってくれる「スーパーマン」ではないわけで、むしろ国民の命より国としてのメンツや政治家個人の地位・権力を優先居ます。
そんな中で優雅にコンサートを開けるはずもありません。
 経済活動が息詰まれば、戦争中と同じように自分と自分の家族が「生き残る」ことを第一に考えるのは当たり前のことです。この位の事なら音画家でも理解できるはずです。

 音楽家は「自分の考え」を大切する職種です。他人の考えに口を挟まないことも「素敵な音楽」として評価されます。だからなのか?音楽家の多くは政治に対して声を挙げたがりません。もちろん、声を出すと生活できなくなる人も音楽家の中には多くいます。「サラリーマン」あるいは「仕事を受ける立場」で、雇い主やクライアントに「たてつく」声を挙げられないのが現実です。

 音楽を演奏することは「自由」を象徴する行為だと思っています。これも極端な例ですが、戦争になり強制的に軍隊に徴兵され「軍歌」を演奏しなければ銃殺される状たちなら心を無にして演奏して生き延びることも必要です。
その軍歌演奏に「自由」はありません。
 戦争でなくても、生活することがやっと…という社会の中で、音楽家が演奏して生き残れると思う人がいるでしょうか?すでに日本はその状態になりつつあります。
ほんの一部の富裕層だけが贅沢な暮らしをし、ほとんどの国民は5円でも安い食パンを買うために遠くまで買いに行く生活をするのが「今の日本」です。見栄を張って「私は普通に生活している」と思いたがるのも日本人の国民性です。私たちが幼い頃「ウサギ小屋」と海外から笑われる小さな団地でも、幸せに暮らしていたのも「国民性」の現れです。そこから成長し続けていた日本で私たちの世代は育ちました。ところが、30才を超えた頃から一気に日本は衰退し始めました。それが30年間、今も続いています。
「いつかよくなる」「誰のせいでもない」「我慢できる」
そんなお人よしばかりの日本人。
 音楽家が生きていける日本は、何も声を挙げなければぜったに戻ってきません。
 私たちは知っているはずです。一人dd出来ないことがオーケストラならできることを。アンサンブルは誰かと一緒に行動することだということを。他人に任せて自分の音楽が良くならないことも知っているはずです。

 政治が腐敗する原因はただ一つです。
国民が政治に無関心になった時です。まさに今の日本がそれです。「野党がだめだ」「投票しても無駄だ」「どうせ変わらない」それこそが自滅行為だということを知るべきです。世界で今、一番「沈んでいる国」が日本だと知っていますか?
 自分の自由を守るために、自由を奪う政治家を「選挙で落選させる」ことができるのは、私達だけです。
社会主義?共産主義?違います!
音楽を演奏できる主義です

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介