メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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演奏の技術

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達の個人差はなぜ?生まれるのか。

 今回のテーマは「個人差」について考えるものです。
人はそれぞれに違う「個体」です。育つ環境も違います。当然、性格も容姿も違います。それらの「人」が他の人と同じようなことができることと、出来ない(と感じる)ことがあります。
 二本の足で歩くことが難しい人も、たくさんいます。多くの歩ける人たちの中で、走れる人がいます。これも多くの人間が出来ることです。その走る行為の「速さ」を比較したとき「個人差」が現れます。100メートルを何秒で走ることができるか?たった数十年の間に「10秒以下」で走る人が次々に現れました。これは人間が進化したのでしょうか?それとも科学の進歩で、人間の筋力を増強する「技術」の成果なのでしょうか?
 同じ時代を生きる人たちの中で「能力差」があります。演奏にも「個人差」があります。「感性の違い」「解釈の違い」もあれば、「演奏技術の違い」もあります。たとえば、同じ年齢の何人かの子供たちに対して、意図的に同じようなレッスンをしたとしても、演奏技術の上達速度には必ず「個人差」が生まれます。
当然、評価も「同じ基準」で行う必要があります。例えば、リズムを正確に演奏する能力・ピッチを正確に演奏する能力・音名や用語を覚える能力などの違いです。練習環境・練習時間の違いが最大の要因であることは間違いありませんが、それ以外にどんな「違い」があるのでしょうか?

 「知識」「聴覚」「運動」の三つの観点から考えます。
 まず、知識を覚える「能力」と「好奇心」の個人差です。単純に楽器で音を出すというレベルでも、弦の名前やダウン・アップの違い、指番号など「覚える」ことがいくつもあります。それらを覚えることは「学習能力」とも呼ばれます。
同じ月例・年齢の子供でも、大人でもその能力や好奇心に大きな差があります。
教え方による違いもありますが、習う側の「個人差」が顕著に現れます。

 次に音を聴き、音の高さを聞きわける「聴覚」の個人差です。
いわゆる「聴力」とは違います。二つの違う高さの音を「どっちが高い?」と答える感覚の問題です。幼児の場合、言語化する能力の違いはありますが、大人の場合は「聴覚の違い」が明らかにあります。この感覚はトレーニングによって精度が上がります。幼児の時期から「音の高低」を聞きわける習慣のある・なしで、大人になってからスタートする楽器演奏技術に影響します。
音の高さを判別する力を判断する実験方法があります。試してみてください!
日本語…できれば標準語で(笑)以下の言葉で「音の高低」を答えられますか?
「かっぱ、ラッパ、かっぱらった。」
まず、「かっぱ」の「か」が高いか?「ぱ」の方が高いか考えてください。
両方を同じ高さで発音すること「も」できますが、あえて大げさに発音する時、どちらかが高くなり、もう一方が低くなります。さぁ!どちらでしょうか?
高い王の音をドレミファソの「ソ」で、低いと思う方の音を「ド」で弾いてみるとわかりますか?
「ド・ソ」か「ソ・ド」のどちらが「かっぱ」に聴こえますか?
童謡に「ラッパ」も「ド」と「ソ」の組み合わせで「ラッパ=トランペット」に聴こえるのは?
最後の「かっぱらった」の「か」「ぱ」「ら」「た」に「ド」を二つ、「ソ」を二つ当てはめて答えてください。正解は次回ののブログに(笑)うそです。

正解
かっぱ=ド・ソ
ラッパ=ド・ソ
かっばらった=ド・ソ・ソ・ド
です。当たってました?
方言によって違っていたらごめんなさい。
例えば「顎=あご」を岡山弁では「あご=ソド」あを高く言います。標準語では「あご=ドソ」ごを高く発音します。子供の頃、両親の岡山弁を聴いて育った私は、東京の小学校で「ソド」であごの事を普通に言っているつもりで、笑われた記憶があります。これらが「音の高低」を判断する聴覚です。皆様はいかがでしたか?
 ヴァイオリンで、ほんの少しだけ高すぎたり、低すぎたりして、先生から「音程!」と言われ続けたのは私です(笑)いわゆる「ピッチ」に対するセンサーの制度を高めるトレーニングが大切です。チューナーを有効に正しく活用することを強くお勧めします。
 ピッチだけではなく、音色を聞きわけるのも聴覚です。
高音の成分が多い音と少ない音の「音色の違い」を聞きわける技術。
たとえば、駒の近くを演奏したときの音色と、指板の近くを演奏したときの音色の違いです。駒の近くの音は「硬く」感じます。高音の成分が多いのが原因です。弓が少しだけ「跳ねている音」だったり、隣の弦に弓の毛が振れている「雑音」だったり、弓を返す瞬間の「アタック」だったり。聴かなければわからないこと=聴いて判別することがたくさんありますね。

 最後の個人差が「運動能力」です。足が遅いとか、球技が苦手…というお話ではありません(笑)楽器を演奏するために、指や腕を動かします。それが「運動」です。ヴァイオリンを演奏する大人の生徒さんが、弓やネックを「ちからいっぱい」握りしめている…一番多く見られる問題の一つです。
そもそも、4歳の子供でもヴァイオリンを演奏できるのに「大の大人」の握力・筋力が必要だと思いますか?(笑)4歳児と手をつないだ時の「弱さ=柔らかさ」で十分なのです。大人は身体がかたい・子供は柔らかい…とは限りませんよね。子供でも屈伸が出来ない子供もたくさんいます。大人でも180度開脚できる人はたくさんいます。思い込み=大人の言い訳を捨てましょう(笑)
 子供の筋力が大人より弱いのに、子供がヴァイオリンコンチェルトをバリバリ演奏できるのは?
「あれは子供用のヴァイオリンだから」いいえ(笑)普通のグランドピアノでショパンやリストを演奏する子供の場合、オクターブ届かないのにちゃんと弾いている動画を見かけます。ヴァイオリンだけは、子供の身体の大きさに合わせた楽器がありますが、大人用のヴァイオリンと構造も材質も全く同じです。つまり、子供の運動能力でヴァイオリンは演奏できる!ということです。
「私は運動神経ガ鈍いから」「体育の成績が悪かったから」大人の言い訳ですね(笑)これも無関係です。楽器の演奏に必要な「運動能力」は特殊なものです。
「瞬間的な運動」と「持続する運動」を使い分けることです。
さらに「脱力」も瞬間的な脱力と、徐々に脱力する運動があります。
難しいのは前者「瞬間的な力」を入れたり、抜いたりする運動を体得することです。以前のブログで、何度か書いていますので参考になさってください。
 力の「量」は少なくて良いのです。4歳児の「筋力」で良いのです。
プロの演奏を見ていると、物凄く筋力を使っているように見えるのは「外見的」なものです。ちなみにオーケストラの演奏中に一番、筋力を使う人は?
たぶん指揮者だと思います。え?まさか?と思う方、ぜひオーケストラの演奏動画で「引き画面=全体が映っている映像」をしばらく見てください。一番運動しているのは、指揮者だと思います(笑)

 最後に上記の「個人差」で演奏家の優劣が決まるか?というお話です。
結論から言えば「優劣ではなく個性になる」ということです。
大人になってから楽器を始めて、プロになる人は珍しくありませんし、むしろそれが自然だと思います。子供が大人のような演奏をすることの方が「異常=普通ではない」なのです。子供のころから習っていないからうまくならない…それも大人の言い訳です。むしろ、楽器の演奏以外の職業のほとんどは、大人になってから技術を学ぶものですよね?
 楽器の演奏練習で、子供と大人の違いは?
「自由に使える時間の量」だけです。
厳密に言えば「言葉の読解能力」や「集中力の長さ」「筋力」で言えば、大人の方が優れています。国や地域、家庭環境によっては、子供の頃から働かなくてはいけない=自由な時間がない子供もいます。多くの大人は自分で生活する「お金」を稼ぐために仕事をしなければなりません。自由な時間が少ないのは事実です。それぞれに「練習できる時間」に差があります。ただ、それだけ=時間の多さが「演奏家になる=上手に演奏めの条件」ではありません。
 プロの演奏家に求められる「技術」を趣味で演奏を楽しむ人が求めたい気持ちは理解できますし、憧れの演奏を真似することも楽しいものです。趣味の演奏と「プロ=職業演奏家」の演奏に、明確な違いや基準はありません。プロになれる練習方法や最低限の練習時間も、明確なものはありません。
どんな人でもじょうずになれます。到達レベル、目標レベルは人によって違います。上達速度に個人差があるように、あるレベルに到達するための「期間」も個人差がります。年齢に制限はありません。大人だからできない…と思い込むのは大人だけです(笑)逆に言えば、小さいときから練習すれば必ずじょうずになるとも言い切れません。「継続は力なり」です。やめないこと、あきらめないことで得られる「上達」を自分個人のものとして受け入れ、楽しむことが最も大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

19歳の自分を観察する62歳のおじさん

 映像は、1980年の窪田良作先生門下生発表会で演奏した、シベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノは大先輩の高橋せいたさん。
まぁヴァイオリンの演奏、傷だらけだこと(笑)きっとこの後の「点の声」メモは「音程!肘!」とか先生の怒りが込められていたと思われます。
 当時19歳。大学1年生の年度末実技試験の直前だったはず。
前年にハチャトリアンのコンチェルトを高校卒業試験で弾いて、何か成長しているのか?と思い返しながら聴いてみました。

 久保田先生のレッスンで、新しい曲を始める時には、直前に演奏した門下生から弓と指を写させてもらうのが慣例でした。レッスンではスケール、エチュード、曲を見て頂きます。曲の歌い方や解釈について、生徒の感性を優先してくださり、細かいニュアンスを「こうしなさい」と言うお話をされた記憶はありません。もしかすると諦められていた私だけ?(笑)でも、時折素晴らしい声で歌ってくださることが、何よりも記憶に残っています。
 それにしても…このシベリウスは…(笑)
さらっていない?わけではなさそうですが、「練習が足りない」の一言に尽きます。当時も卒業時も久保田先生に「他の先生方からも言われるんだよ。野村くん、もっと練習すればもっとひけるのにねぇって。」
私「心を入れ替えます」
先生「その言葉、毎回聴いてるよ」
撃沈…
実際、なんでもっと練習しなかったのかな~と今更思って見ます。
一言で言えば「欲が足りない」のだと思います。それは現在の私の生徒さんたちに「しっかりちゃっかり」引き継がれています。まずいぞ…
 さらに言えば、高校大学時代の友人が「うますぎた」という「他人のせい」にしてみます。←さいてー。高校時代の同級生、金木(チェロ現在棟フィル首席)と木全(ヴァイオリン現在N響)は、そりゃまぁうまかったわけで。
大学に進んで。木全はN響に入団が決まり入学後すぐに退学。大学から同期になったヴァイオリン専攻の人とは交流がない。なんとなく?過ごしていた気もします。ダメだろ(笑)
 今聴いてみると、シベリウスの音楽に「何か」を感じているらしい…のですが、技術が追い付いていないわけで、今私がこの学生に言うなら「このままだと、ただの石ころで終わるよ」かな?言えるかな(笑)

 音楽高校音楽大学で、たくさんの人たち色々なアンサンブルをさせてもらいました。高校時代は、弦楽カルテットを同期の友人と。大学に入って、先輩に声をかけてもらって、ピアノカルテットのヴァイオリンやヴィオラ。ピアノトリオ。ピアノとと二重奏。ホルンカルテットとフルートカルテットでBヴィオラ。なんやかんやと毎日のように夜9時まで、なにかの「合わせ」をしていたような記憶。自宅に帰るのが億劫になり始め、両角寮=男子寮に転がり込んで寝たこともしばしば。
 大学1年でなぜか?学生会の役員に「やって」と先輩に言われて(笑)、とうほ際の前後夜祭担当のお仕事をもらい、プレハブの学生会室に入り浸り、「小澤まめ兄」と出会いました。レパートリーオーケストラに昇進(笑)させてもらって、初めてのオケ合宿で北軽井沢。定期演奏会デビューのはずの「ハイドンバリエーション」で張り切っていたのに、直前に「盲腸=虫垂炎」で手術入院。忘れもしない9月4日。パンダのランランかカンカンが死亡したというニュース速報を、手術待ちの病院テレビで聴いていました。どーでもいいことを覚えている…
 大学1年からは「桐朋祭の鬼」と化し(笑)、毎日学生会室で過ごす日々。
さらっていた記憶が…ほぼない。


 

 

なんか…青春しているなぁ(笑)大学時代、一番長くいた場所がもしかすると学生会室、次が学生ホール、その次が事務実(笑)、さらっていたんだろうか…。
でも室内楽のレッスンは色々受けてました。浩子さんと当時「彼氏」だったチェリストとピアノトリオで、原田幸一郎先生と田崎悦子先生が帰国されたばかりで、まだ桐朋の先生ではなかったのに希望を出したらレッスンをしてくれた思い出。大学2年でマスターオーケストラに昇進させてもらって、演奏旅行にも連れて行ってもらいました。春の祭典、第九は印象深いです。でも…さらってなかった(笑)なんででしょうねぇ。プロオケの「トラ」にも行かせてもらうようになって、勉強になりました。アマチュアオケのトラもたくさん行かせてもらって、当時一番ギャラの良かった「スタジオ」もたくさんやりました。夜の9時から深夜までレコーディングスタジオで、演歌やら童謡やら歌謡曲の録音。キティスタジオで熱海?に泊りがけのお仕事があったり。横浜の「ホテル ザ・横浜=通称ザヨコ」で毎週披露宴でヴァイオリンを演奏するお仕事もしてました。栗原小巻さん主演「桜の園」のお芝居を下北沢の劇団「東演」が上演したときには、東京公演一か月と地方公演一か月、ずーっと「ユダヤ人の楽士」役で衣装を着て参加してました。練習するより楽しい」ことがたくさんあったような気もしますが、練習から逃げていたことも事実です。

 練習嫌いだった私が言うので説得力はありませんが(笑)、音楽を演奏するために必要な「技術=テクニック」は練習で身に着ける以外、方法はありません。
ただ…音楽を感じる「センサー」や「アンテナ」は練習では得られません。
さらに、友人の練習や演奏を観察することで得られる「情報」もひとりで練習していても得られません。レッスンで師匠から学べること「以外」に、学ぶべきこと、磨くべきものはたくさんあると思います。友人との会話や音楽以外の生活からも、「人として」学ぶべき時期に学ぶものがあります。
 技術と共に「人としての魅力」を若い時に学べるか?年をとっても「人間らしい音楽家」でありたいと思っています。そして、もし!40年前の自分に会えるなら「さらいなさい!」…言っても聞かないだろうけど(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

どこで音楽を学ぶべきか?

https://youtube.com/watch?v=n069QuBxpiY

 映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
 審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
 そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。

 私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
 クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。

 さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
 演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。

 音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
 音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
 音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
 ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
 公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?

 音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
 プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
 みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)

 演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
 演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
 演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

学ぶためのお金と生きるためのお金

 今回のテーマは「お金」と言う俗っぽい(笑)お話なので、せめて夢を感じられる映像を…と、アザラシヴィリのノクターンを選びました。
 私を含めた「音楽家」と言われる職業で生活している立場から、現代社会で必要になる「お金」について考えてみます。

 音楽家になりたい…と言う希望を持つ人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか?
「頑張ってね!」「応援してるよ!」「素敵な夢だね!」と言う励ましの言葉でしょうか?それとも…
「やめときなよ、生活するの大変だよ」「もっと安定した仕事を選んだら?」と苦言ともとれる言葉をかけますか?
どちらの場合にしても、音楽家と言う職業について自分が知っている範囲でしか考えられないはずです。実際に自分が音楽家として生活している人の場合と音楽家以外の職業で生活している人が、親しい人の中に音楽家がいない場合では、真実味が違いますね。さらに言えば、どんなに統計データを集めてみても、実際に音楽家として生きている人の実感は理解できません。収入の平均金額を見ただけでは、その職業についている人の「充実感」まではわかりません。知らない・わからないのに「やめておいたら」と言う言葉はアドヴァイスになるでしょうか?心配する優しさは大切ですが、思い込みで他人の生き方の「基準」を創っているとしたら?良いことだとは思えません。

 現実的に音楽を学ぶために必要な「お金」の話をします。
当然のことですが、時代や国によって大きな違いがあります。前提となる「音楽家」の定義さえ人によって差があります。今、日本でヴァイオリンを学ぶ人の話として書いていきます。
 学ぶための楽器に係るお金に、下限も上限も平均もありません。
どんな楽器であっても、学ぶことはできます。楽器ごとの個性、ポテンシャルは値段と比例していません。極論すれば、1万円の楽器でも10億円の楽器でも学べることに差はありません。本人の意思が問題です。
 レッスンに通って技術を学ぶためのお金は、教える側の「言い値」です。決して「いいね!」ではありませんが(笑)それが現実です。交渉して決まることはありません。習う側が支払える金額と、教えてもらえる内容で選ぶしかありません。1レッスンが仮に60分だとして単価が5,000円の場合も30,000円の場合もあります。これも金額と内容が比例しているとは限りません。もっとも難しい選択になります。
 最も安いケースで考えて、一回60分のレッスンを月に4回程度受け、20,000円のお金が必要になります。1年間で24万円かかることになります。このっ金額でレッスンを受けられるケースは非常に少ないですが。
 ヴァイオリン以外にピアノや聴音、ソルフェージュ、楽典などの基礎技術を学ぶ方法として「独学」もありますが、現実的にはレッスンを受けるのが一般的です。月に1回だとしても、年間で60,000円はかかります。
 ヴァイオリンの弦を張替えたり、弓の毛を張り替える頻度は人によりますが、仮に毎日2時間程度練習するなら、半年に一度は張替えが必要だと思います。一般的なドミナントの弦をセットで張り替えて2セットで約10,000円ほど。弓の毛替えは一回6,000円ほどなので12,000円。それ以外に問題があれば費用がかさみます。
 何年かけて「音楽家」になれるのでしょうか?これが最大の問題であり、必要なお金が一番大きく変わる部分です。

 音楽高校や音楽大学に通ううことで、音楽家になれるとは限りません。
ただ音楽家になるための「時間」を効率化する意味はあります。
ヴァイオリンの実技レッスン、友人や先輩たちとのアンサンブルやオーケストラ、ピアノ副科、音楽理論や聴音・ソルフェージュなど多くのことを効率的に学べますが、問題は入学金と授業料です。
 国公立音楽大学にめでたく入学できた場合、入学金は30~50万円ほど。
私立音楽大学の場合は、150~250万円ほどの入学金が必要です。
授業料は、国公立で年間約90万円ほど。それ以外にも様々な名目でお金がかかります。
私立音大の授業料年額は、およそ3倍の200~250万円必要になります。
4年間在学したら、単純に4倍の授業料が必要です。
国公立の場合特に問題視されているのが、「個人レッスン」と名を付けて受領料以外にレッスン代金を取る先生が現実にいることです。私立の場合にはあまり耳にしませんが、いない!とは断言できません。その昔は、東京芸大に通う学生が、年間に支払う「レッスン代」が桐朋の授業料より高くなる!という悲鳴をい実際に聴きました。今はどうだか?知りませんが(笑)
 不届きな先生は別にしても、卒業するまでに国公立音大で、最低でも350~400万円はかかります。私立の場合には、入学金も含めれば、ゆうに1千万円を超えるお金が必要になります。「学費免除の特待生」になれるのは、何年かにひとり…と言うのが現実です。多くの学生が「借金」になる奨学金で通います。借金ですから当然、卒業後に全額返済する義務が本人にあります。稼げます?返せると思います?(笑)

 これらのお金を支払っても、音楽家になれないとしたら=実際になんの保証もありません。音楽大学を選びますか?4年間でかかる1千万円以上のお金があれば、プライベートレッスンに毎週通い、短期で留学したり、好きな楽器を購入できる金額です。4年間という「縛り」もありません。言い換えれば、4年制音楽大学の学部で4年間、学んで身に着けられる技術や知識、能力に1千万円の価値があるか?という疑問です。4年間、同じ内容の授業で学んでも、人によって身に着けられる技術が違うのも事実です。一人一人に適した学び方を選択できるほど、大学には自由度はありません。大学で教えてもらっていた実技の先生が、在学中に、定年前でも退職することも珍しい事ではありません。他大学の教員になるケースも当たり前にあります。違う先生に習えば単位は修得でき卒業できますが、学生にしてみれば納得できるものではありません。先述の通り、実技レッスンだけが音大で受けられる教育ではありませんが、主たる目的は「実技」を習うことのはずです。

 ここからは「生きるためのお金」について。
音楽家として生きていくために、収入となる仕事の内容は?
・演奏をして得られる演奏料金
・レッスンをして得られる指導料金
これ以外に音楽・演奏による収入はありません。
 演奏を依頼してもらうことは、簡単なことではありません。
どんな広告を出せばよいのか?いくらかかるのか?費用対効果は?
何よりも「どんな経歴=肩書がるか?」を第一に問われます。
●●音楽大学卒業…で演奏の仕事をもらえる時代は終わりました。
かと言って、音大を卒業していない人の場合には「●●コンクールで▲▲入賞」などの経歴を求められます。いくらプロフィールを書き連ねても、演奏を依頼する側はいろいろな候補者を比較して、より信頼できる人に演奏を依頼します。
 仮に個人的な交友のある知人から依頼される仕事があったとしても、単発の仕事では生活できません。毎週、友人が結婚式を挙げてくれるなら別ですが(笑)
 教える=レッスンをする仕事の場合、以前書いた通り「教室に雇用される」場合と自宅で生徒を集める場合があります。当然、後者の方が歩合・手取りは多くなりますが、生徒を集められなければ一円にもなりません。大手の音楽教室で雇われて、週に二日、5人教えたとしても手取りは月に3~4万円程度です。実家であれば暮らせますが…食費にもなりません。自宅で生徒を集めるための「宣伝」にいくらお金をかけても、簡単に生徒が集まるわけではありません。現実問題として、一人で生活できる金額を、レッスンだけで得られる人は極わずかです。多くの「音楽家」がアルバイトをしながら音楽家をしているのが現状なのです。

 学ぶためにかかったお金と、音楽家として得られるお金の「差」が大きすぎますね。どんな大学の学部で学ぶにしても「お金」はかかります。卒業後、学んだことを活かして生活する人は、大学卒業生の極一部です。大多数の卒業生は、学んだ事と無関係な職業で収入を得て生計を立てています。つまり「大学で学んだ事は生活とは関係ない」人がほとんだという事です。それが日本の社会全体で当たり前なのです。はっきり言ってしまえば、大学がなくても=大学にいかなくても、日本の企業は困らないのです。大学を卒業しなくても就職できます。中学を卒業してすぐに就職することが、実は一番コスパが良いことをマスコミが言わないのは「学歴」を否定されたくないという考えの人がマスコミの上層部に多いからです。中小企業で働く人口が8割の日本で、人手不足が深刻な2022年現在、大学で意味のない時間を過ごした22歳より、やる気のある15歳を雇い、手に職を付けてもらう事の方が、はるかに日本経済を立て直せることは間違いのないことです。「せめて高校」だった時代から「せめて大学」の時代になり、今は?「誰でも大学に行ける」時代です。大学卒業の「価値」はすでに1ミリもありません。
それなのに塾に通い高い授業料を払い「そこそこの高校」に合格し、「誰でも入れる大学」に入学し、「なにも学ばずに卒業」して「それまでと無関係の仕事」をする日本人。私には理解できませんが、それが「標準」なのだとしたら、音楽家は違います。学んで努力したひとだけが「お金」を得られます。それが嫌なら、音楽家を夢見るよりも、就職を考えるべきです。お金をたくさん稼いで、音楽を「趣味」にする方が、ず~っと楽しいのです。
音楽家と言う「肩書」にあこがれるより、音楽を演奏する楽しさを優先したいのなら、音楽大学に1千万円払わず、出来るだけ早く社会位に出て働き、お金を貯めながら好きな楽器を演奏することをお勧めします。
 現実的な話で申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人を魅了する演奏

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフ氏のハンガリー舞曲第5番(ブラームス)
前回のブログで「同じ人間」だからあきらめてはいけないのだ!と書いた翌日の今日、いつもの自己矛盾(笑)「神に近い人には近づけない」と言う意味不明の言い訳が頭を埋めております。

 何回も書いていますが私は「評論家」様を忌み嫌っておりますので、自分自身も誰かの演奏を「批評=あらさがし」をしたり「その人よりこの演奏家、知らないでしょ?」が大好きな知識ひけらかし星人でもありません。単に自分の好きな演奏をする人を尊敬し、憧れるだけの「普通の人」だと自負しておりますが、いかんせんお客様の前で演奏するなどと言う、おこがましい行為をしたりするので自分に対する自己批評だけは、常日頃から行っています。
 好みの問題…であることは事実です。この映像の演奏より「こっちが好き」と言う人がいても当然です。むしろ私の知る、ほんの少しの情報の中でこの演奏が好きというだけの話でもあります。私がなぜ?この演奏に魅力を感じるのか?考えてみます。

 どんな演奏家であっても、その人の性格や考え方をすべて知ることは誰にもできません。メディアに積極的に露出する演奏家であってもそれは同じです。
テレビや動画で話している姿、内容が本当にその本人の「本心」だとは言えません。つまり私たちは人を「外見」で判断するしか方法がないということになります。「ひとを見た目で判断してはいけない」と言うのは、例えば肌の色の違いや、話す言葉の違い、障がいの有無などで優劣をつけるのは、人として間違っていることを示しています。他人を完全に理解することは誰にもできないのですから、見た目=外見に限らず、他人を完全に理解出来たと思うこと自体が「勘違い」だと思っています。その意味で、演奏家はすべて「アイドル=偶像・虚像」だとおも言えます。「AK〇48と一緒にするな!」とお怒りの方には申し訳ないですが(笑)、それならあなたの尊敬する演奏家の「何を?」知っているのでしょうか。私生活を知っていたら、ストーカーです(笑)家族同士でさえ、ひとの考え方や行動を、すべては理解できないのが普通ですよね。
 演奏家の魅力は「演奏」なのです。正確に言えば、演奏している「音楽」と「姿=見た目」と聴く人が自分の中で作り上げた「偶像」なのです。それはどんな音楽のジャンルにも言えます。また俳優や漫画家、すべての職業についてもいえることです。自分以外の人が作る「もの」を使って生活しているのが人間です。誰が作ったのか?さえ知らない物に囲まれ、誰がどこで、いつ作ったのか考えもせずに、食品を買って食べているのが現実です。完全に自給自足できる人は現代社会では、ほぼ皆無だと思います。
 他人の演奏に「魅力」を感じるのは、ひとつに「自分にはできない演奏をしているから」という理由が考えられます。誰にでも、自分でも完全に再現できる演奏に魅力って感じますか?レンジでチンすれば、同じ味が楽しめる食品を創ったメーカーと職人さんは「すごい!」と思いますが、チンしてくれたひとの「魅力」は?ないですよね(笑)
 演奏の魅力、次に考えられるのは「聴く人を引き付ける演奏」です。
何に引き付けられるか?人によって違いはありますが、私の場合は演奏する音へのこだわりが途切れずに、音楽の最後まで続けられる人に引き付けられます。演奏者の「熱意=温度」を感じられる演奏でもあります。部活吹奏楽で「情熱をこめて!」を連呼する顧問を見かけますが、意味が違います(笑)聴く人が感じる演奏家の情熱です。演奏家がどれだけ、その音楽=演奏にこだわりをもって演奏しているかを聴く人が感じられるのは「演奏者の技術」があっての話です。情熱をこめている「演技=振付や表情」を意図的にしたり、生徒にさせるのは「お手!」をさせて喜んでいる飼い主と同じかそれ以下です。お手をして、ご褒美のおやつを食べられるワンコは救われますが、臭い芝居をして笑われる生徒さんに残るのはトラウマだけです。
 演奏家の技術が高く感じる時、当たり前ですが自分より良い練習をたくさんしているからだと思い知るべきです。「この人は天才だから」と片づける私は(笑)ただ現実逃避しているだけです。憧れる演奏に、自分が近づくために、自分に足りない努力を認めることから始めます。
 さぁこれからだ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声の個性と楽器の個性

 

映像は、ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」をカウンターテノールでアンドレアス・ショルが歌っているものと、私がヴィオラで浩子さんのピアノとデュオリサイタル5(代々木上原ムジカーザ)で演奏した動画です。比べちゃダメ(笑)って憧れのショルさんの歌声ですからね。

 さて、今回のテーマですが人間の身体を楽器として演奏する「声楽=歌声」と、楽器を使って演奏する…たとえばヴィオラやヴァイオリンとを「個性」の面で考えてみるものです。
 当然ですが、まったく同じ身体の人間は「クローン」を使用しない限り「一卵性双生児」ですら存在しないはずです。見た目にまったく同じ「双子」でも発達によってその身体には違いがあります。
 それでも「声」に関して言えば、親子で声が良く似ていることは珍しくありません。私も父親・兄と声が似ているそうで、母に電話をすると「だれ?」(笑)
当時「おれおれ詐欺」がなくて良かったと痛感するほどです。母でさえ、親子兄弟3人の電話口の声を聞きわけられなかったのです。もちろんお互いに聴いている自分の声は、他人が聴く「私の声」と違うので、お互いに「私の声はふたり(私から見れば父と兄)とは全然違う!」と主張します。兄も父も(笑)同じ主張をしますが、母だけは「その言いあっている声が同じなの!」

 昔「ザ・ピーナッツ」と言う双子姉妹の歌手が歌っているのを聴いたことのある人なら、あの「そっくり!」の歌い方を思い出せると思います。考えてみると、自分に聴こえる自分と相手の声が違うはずですから、第三者が聴いてどちらの声がどう?もう一人と違うのかを指摘していたはずです。すごいことだったんだなぁと今更に思います。

 声楽家の話し声と歌う声は、まったく同じではありません。特にクラシック音楽を歌う「声楽家」の場合には、身体が出来てから自分の歌う「声」を育て作っていきます。それは「技術」と「練習」で作られる声=音です。
同じ「声域=音の高さの範囲」の歌手でも、それぞれに声に個性があります。
声楽家ではない私が感じる「個性的な声楽家」は、単にうまい!と言うだけではい「独特の個性」を感じるのです。一言で言ってしまえば、生理的な好みなのかもしれません。「それを言ったらおしまいだろ!」と怒られそうですが(笑)、誰にでも「好きな声」と「嫌いな声」ってありませんか?その好みが他人と一致しないことも感じたことがあると思います。おそらく理由はないのです。自分の好きな「声」はもしかすると両親の声に近いもの?だとしたら、私は自分の声を録音して聴くのが「なによりも嫌い!」なので、考えると混乱しますね(笑)

 パヴァロッティの歌声はどんな曲を歌っていても「あ!」とわかるのは、私だけではないはずです。では、音だけを聴いて「ハイフェッツ」と「オイストラフ」と「アイザック=スターン」の誰の演奏か?すぐに当てられる人は、かなりのマニアでは?録音の個性…ノイズ=雑音で聞き分けるのは「反則」です(笑)とは言え、まったく同じ録音状況は存在しませんから、私たちが今聴くことのできる「偉人」たちの演奏は録音状態によって変わってしまいます。
 それでも!ハイフェッツの演奏する「個性」とオイストラフの「個性」は間違いなくあるのです。どうして?それを言い切れるのか。

 ヴァイオリンと弓と弦、細かく言うなら使う松脂の種類も「すべて同じ」状態で、違う二人の演奏家が弾いた時、なにが起こるでしょうか?
「格付け」番組で高い楽器と安い楽器を当てる遊びは目にしますが、同じ楽器を二人の人が弾いて「どちらがプロでどちらがアマチュアか?」って絶対にないですよね?何故だと思います?(笑)ダンスや吹奏楽で「プロ・アマ」を当てるコーナーはあるのに、なぜか?ストラディヴァリとペカットの組み合わせで、プロ・アマを当てるコーナーがありません。演奏するプロのプライドか?(爆笑)
 テレビはともかく、間違いなく演奏者が変われば音は変わるのです。
「楽器と弓が同じなのに?」と思うのは、人間には、同じ身体の人が二人いないので、比較の方法がありませんが、もし!まったく同じ身体の人間が二人いたとして、それぞれが違った環境で育てば、好きな歌い方が違ってくるはずです。自分の好きな「歌い方=声」を出そうとするはずです。仮に話し声が同じでも、歌う声は違っても不思議ではありません。
 楽器・弓・弦を使って、演奏者が自分の好きな音を出そうとします。
その好きな音が全員違うのです。まったく同じ「好み」の人間がふたり揃う確率は天文学的(笑)に低いと思っています。
 実際、私の楽器と弓を私の自宅で、ある尊敬する先輩に、少しだけひいてもらったことがあります。「自分で聴く自分の楽器の音」は自分の声と同じです。離れた場所で聴く「私の演奏する音」は違って聞こえます。なので、先輩が演奏される「私の楽器」の音を聴くことはとても新鮮でした。
 その時、先輩が演奏し始めた時から、次第に音が変わっていくことを感じました。その原因は?
 演奏者の「出したい音」を楽器と弓を使って「探す」からです。
この探すと言う作業が演奏技術「そのもの」です。楽器と弓の「個性」を自分の演奏技術をフルに使って「探る」ことで、楽器の音が変わっていくのです。
 要するに演奏者が変われば、同じ楽器・弓でも、出てくる「音量」「音色」が違うのです。それが「演奏者と楽器の個性」なのです。

 生徒さんが楽器を選ぶとき、どんな楽器を演奏しても同じように感じるとおっしゃることがよくあります。正確に言えば「何がどう違うのか言語化できないから、好きとか嫌いと言えない」のです。その楽器を「ひきこなす」ことは、その楽器の「個性」を引き出す技術を持つ子です。
 個性のない楽器はありません。しかし、大量生産された楽器の「個性」は製作者の「こだわり」がいっさいありません。おそらく完成した大量生産のヴァイオリンを「試し演奏」することもせずに売られているものが多いと思います。
製作者のこだわりがない楽器にも個性はあります。しかしそれは「癖」と呼ばれるものに近く、良いものではない場合がほとんどです。
 一方で、製作者の魂を感じる楽器には、弾き方によって「そうじゃない!」「それ!」と言う声を感じます。楽器に問いかける「技術」に対して「違う」とか「あったりー!」というレスポンスがある楽器こそが、本物の楽器だと信じています。
 長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介