メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

演奏の技術

コンチェルトもソナタも弾き方って同じ?

映像は私の高校3年生当時の演奏。ハチャトゥリアン作曲ヴァイオリンコンチェルト第1楽章。
今回のテーマは演奏する「曲=楽器編成」の違いで演奏方法は違うのか?同じなのか?というお話です。
 ヴァイオリンをレッスンで習う時「音階」「練習曲」「曲」の3種類を師匠に見て頂くことが多いのでは?私は中学・高校・大学と一人の師匠についていましたので他を知らないのですが…。もちろん、指導者によっても生徒のレベルによっても内容は違って当然です。
「教本」と呼ばれるものには少しずつ音階や練習のための短い曲、さらにコンチェルトや小品がばらばらと載せてあります。最初は「1巻」から始めて段々難しい曲が増えてくる。そんな教本が多いように思います。
 そもそも「コンチェルト=協奏曲」の独奏を一体、どれだけのヴァイオリニストが生涯で一度でも演奏するチャンスがあるでしょうか?ちなみに本来コンチェルトは「オーケストラ」と独奏者が一緒に演奏する楽器編成の音楽です。
 ピアノを習っていて小学生や中学生で「コンチェルト」のソロをレッスンで習うことは、ほとんどないと思います。例外的にコンクールで優勝するような子供がプロのオーケストラと共演する話は聴きますが全体の中で「1000人に一人」より少ないケースだと思います。
 音楽高校の入試、学内での実技試験でもピアノ科の課題に「コンチェルト」がないことを昔から「なんで?」と感じていました。逆にヴァイオリンの場合には入試でも学内での試験でも必ず「コンチェルト」の一部が指定され、カデンツァも含まれることが殆どです。
 その違いの最大の原因は?「ピアノには独奏曲がたくさんある」のに対しヴァイオリンは「ほぼすべての曲がピアノかオーケストラ、他の弦楽器などと演奏する」ことだと思います。
ヴァイオリンの無伴奏曲が少ないことは以前にも書きました。
 だから?ヴァイオリンの試験曲はコンチェルトって言うのも「なんだかなぁ」と感じるのは私だけでしょうか?
 コンチェルトの独奏以外にも「小品」と呼ばれるヴァイオリン独奏曲はたくさんあります。有名な作曲家で言えばフリッツ・クライスラーの作品。「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」以外にも多くの小品(演奏時間の長さも様々)がありますが、入試や学内の試験でそれらの曲を演奏することはほとんどありませんでした。「ソナタ」のレッスンは「実技」レッスンとは別に「室内楽レッスン」を受講してレッスンを受けました。
 生徒に何を求めているのか?は学校や指導者によって違う事は当然です。ヴァイオリンコンチェルトのソロが演奏できれば、大体の小品は演奏できますし「ソナタ」にしても技術的な面だけでを考えれば「演奏可能」です。

 本題になります。コンチェルトの独奏を演奏する場合とソナタや小品、室内楽を演奏する時の演奏は「何が?どう?違う」のでしょうか。
 これはピアノでも同じことが言えますが、コンチェルトの場合には「オーケストラ」が一緒に演奏するわけですからたくさんの弦楽器奏者、多くの種類の管楽器と打楽器が独奏者と同時に音を出すことになります。ポピュラー音楽なら歌手はマイクを通してアンプで増幅=大きくした音をスピーカーを通して客席に届けるので「音量のバランス」を歌手もバックバンドや演奏者が気にする必要はありません。どんな小さな声の歌手でもエレキギターやドラムの音、時にはオーケストラの音よりも大きな音で客席に響かせることが出来ます。
 クラシック音楽で「マイク・アンプ・スピーカー」を使うのは特殊な場合に限られます。

 上の映像はベルリンフィルが野外でのコンサートで大観衆に音楽を聴いてもらっている動画です。「生の音」はいかにベルリンフィルでも屋根もない・環境版もない場所で何千人もの人に聞こえる音にはなりません。当然マイクとアンプ・スピーカーが必要になります。

 マイクやスピーカーを使わずにオーケストラを「バック」にして演奏する場合、ピアノコンチェルトなら「フルコンサートグランドピアノ」と呼ばれるピアノを使用するのが一般的です。グランドピアノの中で最も大きく、当然響きも音量も豊かです。オーケストラが全員で演奏しても客席に十分な音量バランスで聞こえる音量があります。
 ヴァイオリンは?いくら「ストラディバリウスは音が大きい」「いやグヮルネリのヴァイオリンの方が…」とは言え(笑)物理的に音圧=デシベル面でも音色の面でもピアノのようには行きません。何故ならオーケストラにはコンチェルトでも20名以上のヴァイオリン奏者が同時に演奏しています。もしかするとその中にストラディバリウスやグヮルネリを使っている人も居て不思議ではありません。しかもオーケストラメンバーも「プロ」です。ソリストが演奏するヴァイオリン独奏を「ちゃらちゃら」っと演奏できるメンバーもたくさんいるはずです。
 そのオーケストラメンバーがいくら「遠慮」して弾いてもヴァイオリンソリストの音の方が「大きい」可能性は極めて低いはずです。放送や録音でソリストの音がオーケストラより大きく聴こえるのは以前にも書いた「電気的な処理」の結果です。
 音量でも音色でもオーケストラの音より「浮き上がって前面に聴こえる」演奏方法・演奏技術が必要になります。一言で言えば「オーケストラより目立つ音」です。

 小学生がレッスンや発表会でモーツァルトやブルッフ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを「バリバリ」弾く姿は今時、珍しくありません。中にはシベリウス、ブラームス、チャイコフスキーのコンチェルトソロを演奏する「子供」もいます。
 では「ピアノとの二重奏」でコンチェルト独奏と同じ弾き方をする必要があるか?必然性があるか?と言うテーマになります。
 ピアノはヴァイオリンよりも大きな音量を出せる楽器です。発音の原理が全く違うので二人での演奏を聴いて「どちらの楽器の音か分からない」という事は心配する必要がありません。明らかに音色が違います。
 ヴァイオリンが「ピアノに負けないぞ!」とコンチェルトソロのように演奏する「意味」があるでしょうか?私はまったくないと考えています。
 もちろんピアニストがヴァイオリンの音に配慮して、音量と音色をコントロールしてくれたら!と言う前提条件があります。さらにヴァイオリニストもピアノの音の多さ、音域を考えた「音量と音色」を考えて演奏する技術が必要です。

 上の映像は今年1月に演奏したラフマニノフ作曲「ここは素晴らしい場所」ヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 私の弾き方も浩子さんのピアノも決して「大きな音量」ではありません。かと言って「物足りない」音量だとも感じません。
 会場で「音」を聴く方にとって「ちょうどいいバランス」を考えた演奏が理想だと思っています。演奏する会場の広さ・残響の長さがすべて違います。聴く場所=座席の場所でも変わります。すべての人が「ちょうどいい」とは思えないのが現実です。好みもあります。
 少なくとも若い頃…音楽高校・音楽大学時代に実技のレッスンで私が師匠に教えて頂いた=レッスンを受けた曲で「小品」は1曲だけでした。大学5年(笑)の最後に「何か弾きなさい」と仰られて「え?え?」戸惑う私に微笑みながら「なんの曲でもいいよ」と優しくおっしゃった師匠に甘え、ヴィタリのシャコンヌを弾かせて頂いた事。
 あ!もう1曲ありました!先生!ごめんなさい!(笑)
大学2年?3年?の時にカルメンファンタジーをレッスンで教えて頂きました。
全然!弾けなかったので記憶から抹消していました。

 最後に。
曲によって演奏の仕方を変える「技術」はあります。ただ自分の理想の音を出す技術は変わりません。「コア」になる音色と・音量があり、そこからのバリエーションを作ることが「技術」です。少なくとも「ヴァイオリンコンチェルト」がヴァイオリン独奏で一番「過酷な条件」になることは事実です。だからと言ってヴァイオリンコンチェルトがヴァイオリンの魅力を最大限に表現できるものとは言えないはずです。無伴奏も、ピアノとのデュオも弦楽四重奏もそれぞれに「弾き方」を考えることがヴァイオリニストに必要な技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

唯一無二の演奏

 映像はカウンターテナーのアンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」私が好きな演奏を「ひとつ」と言われたらこの演奏を選びます。
 演奏は演奏者によってすべて異なるものです。仮に同じ曲を演奏しても完全に同じ演奏をすることは他人はもちろん、本人であっても不可能なことです。演奏者がその瞬間に生きていることの証だとも言えます。録音されたもの=機械で音を鳴らしたものと違い、自然界がそうであるように「ある一瞬」は二度と存在しないのが「摂理」です。
 ショルの歌うこの演奏は私が音楽を聴いてきた中で、他のどの演奏とも違うインパクトがあります。ただ「うまい」とか「すごい」とか技術が…曲が…と言う理屈を抜きにして忘れられない音楽になっています。
 どうしたら?こんな演奏が出来るんだろう?と理屈っぽく(笑)無駄に考えてみます。

 過去のブログで「好み」と言う言葉を使ってそれぞれの演奏者が目指す音楽があり、聴く人にも好みがあることは書いています。
 自分自身がどんな演奏を理想として辿り着けない道を進んでいるのか?考えた時に、自分以外の誰かが演奏する音楽に導かれている事に気付きます。ヴァイオリンでなくてもクラシックでなくても自分の感情を激しく揺さぶる音楽。無意識のうちに自分「も」そんな演奏をしてみたい!と思っているのだと思います。
 自分の好きな演奏との出会いは偶然が重なった結果です。好きな音楽に出会おう!と探して巡り合える可能性もありますが、誰かが演奏した演奏に偶然に出会わなければ「理想」は自然に生まれないことになります。
 人との出逢いにも同じことが言えます。「運命的な出逢い」と呼ばれる出逢いもあれば、本人が気付かないだけで本当は出会っている・出会っていたという事もあり得ます。
 自分の理想を目標にして演奏する。文字にすればそれだけの事ですが実際には自分の演奏は「現実的」に課題や問題ばかりが気になって修正と試行錯誤の繰り返しです。いつの間にか理想…どころか自分が音楽を演奏しているのではなく「音を出す練習をしている」ことに気が付かないのが現実です。
 陶芸作家が自分の作った作品の中で「ダメだ」と感じた作品をその場で地面に叩きつける話はよく耳にします。自分の本意ではない作品が間違って世に出ることを何よりも「恥」と感じるからでしょう。
 音楽の場合、人前で演奏して気に入らないから「今の演奏はなかったことで。忘れてください」って言えません(笑)どんなに演奏者が不満足でも聴いてくださる人の心に残ってしまうのが音楽です。「その場限りの芸術」でもあります。
 自分の理想が聴く人にも理想の演奏だとは限りません。そもそも理想の演奏が出来るようになった!と言う演奏者が存在するのか?と言う疑問があります。私からみてショルの演奏は「神がかった演奏」に感じますが、本人がどう感じているかまったく知りません。
 では演奏は「妥協の産物」なのでしょうか?演奏者の理想には届いていない演奏を、演奏者以外が「理想」と感じる可能性もあることを考えれば「妥協」という言葉は適切ではないと思います。強いて言うなら「演奏者の本質」言い換えれば隠しようのない「人間としての資質」をさらけ出しているような気がします。
 私はアンドレアス・ショルと言う人を「何も知らない」人間です。
生まれ、生い立ち、学歴、経歴、性格などについて一切の「真実」を知りません。それで良いと思っています。評論家はまるで政治家の身体検査(笑)のように演奏家や作曲家の「履歴書」を詳細に知りたがります。演奏する上で役に立つ…と言う考え方も否定はしません。私は「人から聞いた情報」を素直に信じない天邪鬼(笑)です。ベートーヴェンが、ショパンが「どんな人だった」のかを想像するのは個人の自由です。人から聞いたり本人が残した言葉、文章が仮に本物だったとしても心の中まで知ることは不可能です。むしろ本人にとっては「やめて!」と思いたくなることかも知れません。
 例えば私が、あるいは今このブログを読んでくださっている方が誰かに「あの人は〇〇な人らしいよ」「誰かが〇〇な性格だと言っていた」と言う話を聞いて嬉しく感じますか?私は嫌です。中には血を分けた家族にさえ知られたくない「真実」があるかも知れません。
自分の演奏を聴いて「きっと野村謙介は…」と想像して頂くことは光栄なことです。しかしそれは「真実ではない」と言う事を忘れないことです。
 演奏を聴いて感動するのは、もしかしたら?演奏者を知らないからかもしれません。逆のケースもあり得ますが、先述の通りそれは想像でしかありません。つまり演奏を聴く立場の人にとっては「演奏=演奏者」なので、演奏に感動するという事は「理想の演奏者」を偶像として感じていることになります。あくまでも「聴く人にとって」の演奏者の姿です。力強い演奏を聴けば「きっとこの人は」と想像し、優しい印象の演奏をする演奏者は「きっと…」と思うのが人間です。演奏は聴く人に自分を「さらす」ことになるのです。
 演奏者のこだわり・思い・エネルギーは演奏に表れます。聴く人がそれに共感することもあれば「なにか違う」と思われることも「嫌い」と思わえることもあり得ます。それを恐れて隠そうとすれば聴く人には何も伝わらない無機質な「機械的な演奏」になります。
 自分がショルの演奏の真似をしても、誰も感動しないことは分かっています。しかし「分析」することは有意義です。
少しでも理想に近つける演奏を出来るようになりたいと練習しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を替えて変わること・変わらないこと

映像は昨年(2025年1月)に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」このリサイタルで初めてヴァイオリンを新しい楽器に持ち替えました。
 それまで使っていたヴァイオリンは私が中学2年生の時に両親が私に買ってくれた楽器でした。1800年代のはじめにイタリアの職人「サンタ・ジュリアーナ」が製作したヴァイオリンで当時、フィラデルフィアの楽器商「メニック」から輸入されたばかりの楽器でした。
 初めての日本だったらしく購入した翌年の梅雨で表板も裏板も湿度と暑さに耐えられず毎週のように膠が剥がれ、その度に購入した職人さんの工房に通っては直し、また剥がれては直し…泣きたくなる思いでした。
 音楽高校の受験、大学を卒業するまでの間、常に私の「相棒」でもあり「身体の一部」でもありました。そんな楽器との別れは一昨年2024年5月。諸々の事情で弓と共に手放しました。
買い取ってもらった楽器商で手続きを終えた時、次の楽器を手にすることは全く考えていませんでした。『うそ~」と思われるかも知れませんが本当の事です。「他のヴァイオリンは持ってるんですよね?」と楽器商=職人の方に問われて「いえ。弓だけ持ってます」
「ダメです!」と一喝されました(笑)
「なにか特別に気になる楽器はありますか?」と尋ねられたので正直に「新作は難しい=不安だけどオールドはいらない」と言う事と以前に出会ったモダン楽器で印象に残っている製作者の名前を伝えました。「贋作も多くて実際本人も色々な人の名前で楽器を作っていたり危ないことは知っています」と正直にお話ししました。
「そこまでご存知なら」と「実は今、あります」と持ってきてくださったのが映像で演奏しているヴァイオリン=今現在、私が愛用しているヴァイオリンです。製作者や年代については書きません。お許しください。私がそれまで愛用していた楽器の製作年も敢えて書きません。楽器は時代を超え色々な人の手に渡ります。私が使っていたヴァイオリンも誰かの手に渡ります。そして新しく手にしたヴァイオリンも今まで少なくとも一人は誰かが演奏していた楽器です。
使う人の愛着が楽器にあります。手放せば「その先」が気になります。
また以前に使っていた人についても同様に気になるものです。
そのすべてを知ることが演奏者にとって「良い事」ばかりではないことを改めて学びました。前に使っていた人の弾き方や管理が「悪かった」と考えてしまうのは演奏者として恥ずべきことです。どんな楽器でも誰かが最初に使います。そして次の人、さらに次の人に「愛され続け」100年以上の年月、誰かの相棒として活躍するのがヴァイオリンです。楽器の調整は「楽器を壊すこと」と言う言葉もこの楽器を手にするときに職人さんが言われた言葉です。その通りだと思います。
楽器は人間の身体と違って「再生」しません。1ミリでも削れば二度と元には戻りません。作った人の楽器とは別の楽器になります。それが悪いとは言いません。楽器を調整・修理することは大切な事です。人間で言えば「健康診断」に近いものです。検査で病気や骨折が見つかって治療しますが人間には「自然治癒能力」があります。骨折は固定すればある期間で再生し完治します。ではヴァイオリンは?
 以前の楽器のように「膠がはがれる」状態では健康な音は出せません。ヴァイオリンを作る時と同じ手法で表板・裏板と横板を弱い接着力の膠=ニカワで貼り付けて決まった圧力で数日、固定して固着させて元に戻せます。ニカワの接着力が弱いのは「木材が割れるのを防ぐため」なのです。強すぎる接着剤で貼り付けると、湿度で膨張した場合と乾燥で縮んだ時の「差」を逃がす=剥がれることが出来ず、板が割れる結果になります。ここにもヴァイオリンを考えた先人たちの「知恵と技」があります。
 剥がれなら直せますが「割れ」は復元できません。木材の組織が分断してしまったものを、いくら見た目でわからない様に修理しても振動はそれまでと違う伝わり方になります。
 ましてや演奏者の好み、職人のこだわりで楽器を削ることは楽器にとって「二度と元に戻れない」状態にされることです。
「お金を払ったから自分の自由」確かに。「弾きやすいように・良い音が出るようにしただけ」なるほど。
 そのヴァイオリンを自分だけが演奏して終わらせる=燃やす・壊す覚悟があるなら、それでも構わないかも知れません。
 実際にあのストラディバリウスを大量に乾燥室に入れて、すべての楽器の表・裏の板を割ったコレクターが過去に実在しました。本人からすれば「買った自分の自由」です。
 ヴァイオリンを演奏すれば「良い影響」と「劣化」が同時に常に進行します。良い影響は木材が振動しやすくなること。特に正確なピッチで適正な圧力の弦で演奏すればなお一層、楽器はピッチが合った時に大きな振動をするようになります。ストラディバリウスがどれも良い音で演奏できるのは「常に一流の演奏者が演奏しているから」でもあります。
 一方で「劣化」は演奏するために温度と湿度の変化にさらされ、演奏者の汗・呼気で湿度をさらに吸い込み、移動のたびに振動で楽器に負担をかけ続けます。ヴァイオリンは楽器であり「演奏するために作られた」ものです。飾って鑑賞する目的で作られていません。

 ヴァイオリンを持ち替えてもうすぐ2年になります。以前の楽器と50年間お付き合いした事と比べると「序の口」です。
 この間にいくつもの演奏会場で色々な曲を演奏する事ができました。ちなみに一度も調整・修理を必要とするような事はありませんでした。日常の手入れだけで、ニカワの剥がれもなく健康な状態を維持しています。楽器自体が製作されてからまだ100年経っていない「若い楽器」であることも健康な理由の一つです。かと言って新作楽器のような「バラツキ・イレギュラーな変化」もありません。新作楽器の場合にはこれが最も不安な要因です。
 2年間演奏して感じたこと。
・自分の演奏方法を再確認できた
・楽器固有の「聴こえ方の違い」に少しずつ慣れてきた
・楽器の成長=良い影響を感じられる
一方で変わらないのは
・自分の好きな音色
・苦手な奏法(😿)
これは一生かけて試行錯誤することだと覚悟しています。
 楽器を替えれば「音が変わる」のは当たり前です。しかし、自分の求める音・理想の音は変わりません。つまり、しばらく違う楽器を弾けばその楽器で自分の好きな音を出そう!と無意識に演奏方法を変えて行きます。結果、どんな楽器を持っても「自分の好きな音」に向かって変わっていくので楽器の個体差よりも演奏する人の「好み」の音が聴く人に届くことになります。
 私は技術が足りないからか2年経っても、今のヴァイオリンで自分の理想の音を出せません。それは「楽器のせい」ではなく、自分の技術が足りないことが原因です。楽器を変えて「目先の変化」から学ぶこともたくさんあります。今まで生徒さんに本当に多くの「入門用ヴァイオリン」と呼ばれる楽器を選んできました。学校での部活オーケストラに入部して初めてヴァイオリンを購入した数だけ考えても、20年間で200本以上…もっとかな?選定しました。教室を開いてからは、手工品の楽器、新作楽器も含めてやはり200本以上の選定をしました。
 その自分が選んだ楽器は?「ちょうど今ありますよ」と提示された楽器と言う笑い話のような実話です。「本当に?他の楽器は弾かなくても?」という職人さんに「いえ結構です。とても気に入りましたから。と言うより嫌な音ではないし、他の楽器を弾いても迷うだけですから」とお答えしてその日から私の身体の一部になりました。
 楽器は「道具」です。そして必ず「寿命」があります。人間と同じように年を重ねると変化します。使い方、扱い方で楽器の音も寿命の長さも変わります。ヴァイオリンの寿命が人間より長いのは事実です。
ヴァイオリンの「生涯」の中で一時に関わるのが演奏者です。
人間のパートナーとは違います。そのことを考えて、楽器をいたわりながら自分の好きな音を出させてもらおうと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?音楽で感情が揺さぶられるのか?

映像はオルガンの独奏によるモーツァルト作曲の「レクイエム」の一部分です。
私たちはなぜ?音楽を聴いた時に悲しみを感じたり喜びを感じるのでしょうか?
人によっては何も感じない人も居て当然かもしれません。聴いたことのない音楽で歌詞もない音楽なのに…。
音楽理論で「長音階・短音階」「長調・短調」「長三和音・短三和音」と言う言葉を学びます。難しい話をしません(笑)要するに「明るい・暗い」の違いだと言えます。もう少し正確に言うならば「明るく=楽しく感じる」か「暗く=悲しく感じる」かの違いです。
音楽に照度=物理的な光の多さ・ルーメンなどの単位で表される数値が表現できるはずはありません。感情の話です。人間の感じる喜怒哀楽です。
人は生まれた時から自分の意志を伝える能力を持っています。言語=言葉を話せなくても乳児が泣くのは「息をする」と言う本能と共に「感情を伝える」本能です。生きるために母親からの母乳を求めるのも本能です。母乳を飲み込む行為、空腹が満たされて満足して安心して眠るのも生きるための本能です。五感の中でも「聴覚=音に対する感覚」が母親の体内で最初に感じる感覚だとも言われています。だからと言ってすべての人間が音を感じるわけではありません。生まれつき聴力のない人もいますし、後天的に聴力を失う人もいます。
 どんな音楽も「音=空気の振動」を使って演奏されます。楽譜は音ではなく文字と同じ「記号」です。音を聴いてすべてを「音楽」には感じません。詩的な比喩で「風のそよぐ音楽」とか「小鳥の歌」などと言われることも文学の世界ではありますが実際に「音楽」と定義されるものではありません。現代音楽と呼ばれるジャンルの中には例えば掃除機の音や、ガラスを引っ掻く不快な音を使って「音楽」を作った…「と」作曲家が定義する「音」もあります。
 人によって喜怒哀楽を感じる「対象」も「強さ」も違います。感受性の違い・経験の違い・性格の違いなど色々な要因が考えられます。
 音楽を生徒に教えるレッスンで「感情を込めて!」って強く言う指導者を見ると「誰の感情だよ!」っと突っ込みたくなります(笑)指導者=先生が感じているものを生徒も感じるとは限りません。「ほら、この旋律、悲しいでしょ?」とか「ここは楽しく感じるよね?」とか。おいおい…それは感情の押し売りでしょ?(笑)同じラーメンを食べて「ね!おいしいでしょ?」って一緒に居る人に同意を求める人の「センスの悪さ」ですね。

 話を音楽を聴いた時に感じる感情に戻します。
音楽の理論を例えると「文法」に似ています。文法を知らなくても会話することが出来ます。音楽の文法に「形容詞」や「現在進行形」はありません。クラシックだけに理論があるわけではありません。ロックにもジャズにも演歌にも共通の「文法」があります。それが音楽理論です。
 難しい話はここまで(笑)
中学校1年生の音楽授業を20年担当しましたが「普通の子供たち」に音楽を聴いてもらい「明るい・暗い」と言う印象を尋ねることがあります。結論を言うと音楽によって回答が大きく変わるのです。
・静かでゆっくりした曲が暗いと思い込んでいる場合
・フォルテでテンポの速い曲は明るいと思い込んでいる場合
本来「長音階・長調・最初と最後が長三和音」の音楽が明るく、逆に「短音階・短調・最初と最後が短三和音」だと暗く感じる「ことになっている」と言うのが定説です。曲全体の音量やテンポは本来は無関係なのですが、演奏を聴いて長調・短調を判別できるのは「学習の結果」です。もちろん理論を学ばなくてもたくさんの音楽を聴くことも「学習」の一部です。

 音楽を学んだ人でも「謎」に感じるのは…
なぜ短調の音楽が悲しく感じ、長調は明るく感じるのか?と言うことです。分析する技術に感覚は不要です。理論とは違うことです。
 恐らく論文などを調べれば「推論」は見つかりますが普通に考えてみれば「謎」ですね。文章=言葉の場合、読む人の経験や記憶の中にある「悲しい体験」と結びついたり連想させる言葉が多ければ悲しく感じます。一方で歌詞のない音楽で具体的な「物」「動き」「状態」を伝えることは不可能です。
 音楽を聴いて想像・連想する「物」「人」「経験」は人によって違います。一つの「曲」に長調と短調が混在する音楽が殆どです。
同じメロディーを和声を付けて長調にしたり短調にすることも可能です。
 味覚に似ていますね。「辛みの中に酸味がある」「甘味の中に塩未が加わると甘味を強く感じる」など良く耳にします。ちなみに「辛み」は「痛み」の一種で本来は味とは言わないそうですが。
 自分の感覚と「理論」でこの曲・この旋律は明るく感じるから、他人も明るく感じるとは限らないという事です。
 音楽は最終的に「人間の感覚」に頼るものです。作曲、演奏、鑑賞。すべて自由に感じ、自由に想像するものです。どんな理論があってもそれは分析の手段・結果です。文法を間違っている文章でも奥ゆかしさや新鮮さを感じる時もあります。「ゆがみ」「ひずみ」「ゆれ」が心地よく感じる場合もあります。人間の感性自体が常に変動するものです。音楽の解釈を他人に押し付ける「偉い人」にはなりたくないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の努力と聴く人の期待

映像はサン・サーンス作曲「死の舞踏」昨年1月の演奏です。
今回のテーマは演奏者が聴衆の前で演奏するまでに練習と準備に時間と労力、お金も使って、演奏会でその演奏を聴いた人が持っていた期待に応えることの難しさを考えるものです。趣味の演奏とプロの演奏で異なる面もありますが共通する一面もあります。
「演奏する側」「聴く側」の立場で深堀りしてみたいと思います。

演奏する立場で考えるとお客様に演奏を楽しんで頂くために「おもてなし」の心、謙虚な気持ちが第一に必要です。その上で自分(自分たち)も歓びと達成感、満足感を得られます。
準備する側に「完璧」はありません。「これで良い」と言う妥協点を下げてしまうのは簡単なことです。言い訳を並べれば「仕方ない」の一言で自分を納得させられます。
演奏技術を高めたいと言う「欲望」は演奏者が誰でも持つものです。
しかし「どこまで?」と言う線を引くことは不可能です。自分が納得できるまで人前で演奏しない!と心に決めたとすれば、私なら死ぬまで人前で演奏することはないだろうと思います。最終的に到達したレベル・満足度で人前に立ち、演奏することになるのはプロもアマチュアも同じです。だからこそ少しでも努力して「良い演奏」を目指すことになります。

「聴く側の立場」で考えてみます。
演奏会に足を運びコンサートによっては「入場料・チケット代金」を支払って演奏が始まるのを待ちます。
偶然に会場の前を通りかかってコンサートを聴く…そんな確率はゼロに近いものです。多くの人は予めコンサートの日時や場所、演奏者、曲目などを知った上でコンサート会場に行きます。
良く知っている知人・友人が演奏するコンサートもあれば、情報を見て演奏する人の経歴や容姿だけで決める場合もあります。曲目に魅力があって「行こう!」と思う時もあればまったく知らない曲でも聴いてみようかな?という興味と演奏者の魅力が組み合わされてコンサートに行く場合もあります。
 つまり殆どの場合は演奏者か曲目への関心や興味が決め手になり、その先に「演奏への期待」が続くものです。もちろん演奏にまったく期待しないでわざわざ演奏会に行く場合は「お付き合い」の場合で、自分で交通費とチケット代金を払ってまで期待しないコンサートには行かないものです。
 演奏が始まって自分の予想していたよりも演奏が「気に入る」場合と「面白くない・楽しめない」場合があります。期待する内容によりますが例えば自分の好きな演奏に感じたり、初めて聴く曲に感動したり「期待を超える楽しさ・歓び・感動」があれば交通費もチケット代金も無駄になったという気持ちは感じないでしょう。
反対に「期待を下回る・裏切る」内容の演奏や曲=音楽だった場合、後味の悪い時間を終えて帰ることになります。ショックが大きければ「二度と〇〇のコンサートなんかに行くものか!」と言う怒りに似た気持ちさえ持っても不思議ではありません。

 演奏する側は「準備」が必要です。聴く側にはまったく必要のないことです。むしろ聴く人が演奏者を知らなくても、演奏する曲を聴いたことがなくても、聴いて感動したり楽しめれば良いのです。
 演奏会に期待する内容は聴く人によって違います。中には「生の演奏者を見ること」が目的で会場に行く人もいるでしょう。また「好きな曲」だからと期待してコンサートに行く人もいます。漠然と「ヴァイオリンの音が好き」だとか「クラシックが好き」と言う人もいます。
すべての聴衆の期待に完全に応えることは不可能です。「好み」が人によって違うのですから当然です。同じ演奏でも感動する人もいれば途中で寝落ちする人もいます。「早く終わって!」と思う人もいるかも知れません。それが現実です。
 演奏技術のレベルが高いのか?普通なのか?ヘタなのか?分からなくて当然です。「分かった振り」で語るオタク様にとって「分からない人」は恰好の餌食です(笑)御託を聴かされる側には迷惑でしかないことに本人は気付きませんが(笑)
 技術の有無が分からなくても、作曲者の歴史や名前を知らなくても、演奏者を知らなくても「楽しめれば価値がある」ことなのです。
コンサートはコンクールではありません。演奏者のファン・知り合いだけの「内輪のイベント」なら一般の人に公開するべきではありません。同様に演奏する曲を初めて聴く人やクラシック音楽を普段聞かない人が萎縮するコンサート=マニアのためのコンサートなら「マニア向けです。曲を知らない人は入場できません」と告知すべきです。
 誰にも何事もに「初めて」があります。初めてのクラシック音楽のコンサートで「嫌な思い」をした人がまたコンサートに行くと思いますか?「そんな人は放置すればいい」と思いあがる人に言って差し上げたい。「生まれつき音楽が好きな人間なんて地球上には誰もいませんが?」と言う事実を。すべては「偶然」の積み重ねでしかありません。
 演奏する側も、聴く側も「偶然の出逢い」なのです。聴く側の「期待」と演奏する側の「不安」が終演後に全員が「満足」「喜び」に変わるコンサートが理想です。現実にはなかなか(笑)それでも「次に期待」したり「次に向けて努力」する事が続くのは、少なからず期待に応えてくれた満足感と、それを感じられた演奏者の嬉しさがあるからだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分の演奏を分析する

 映像は2009年12月。私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホールはしもと」での演奏です。
浩子さんとの2回目のデュオリサイタルです。若いなぁ(笑)
 さて今回のテーマは演奏する人が「自分の演奏」について感じることやその妥当性について考えるものです。。音楽を聴いて楽しむ場合とはまったく違い、他人の演奏を聴いた時の感覚とも違うものです。当たり前ですが「自分の事」が一番客観性が低いものになります。
・練習しても上達した実感がない。
・上達しないのに練習を続けることに疑問を感じる。
そんな気持ちを持った経験は多くの人にあるのではないでしょうか?
自分よりじょうずな人の演奏を聴いて目標にして頑張るのに、いくら練習しても全然近づかない‥むしろ空回りしている気がする経験も私自身何百回となく体験しました。
すべては「自分の演奏を冷静に観察できていない」事が原因だと感じます。
自分の演奏を「自己評価」することが最も難しいことだと分かりました。
ひとつには自分自身だけが「練習のすべてを知っている」ことです。
練習は人に聴かせる目的のものではありません。自分自身のために行うものです。
他人の練習内容、時間を知ってもその本人にとってどれだけ?大変なものだったかは想像することしか出来ません。
自分の演奏に不満がある場合←私はほぼすべての演奏に不満がありますが‥まず自分の練習が足りなかった?と反省します。次にもっと!練習しよう!と決意して実際に自分の出来る限りの練習をして演奏します。結果「またダメだった=満足できない」です。上達を感じる前に「あんなに練習したのに!」と思う気持ちが大きくなります。
つまり「練習の量と質」について反省し改善する努力に終わりも到達点もないという事です。
 さらに別の要因として自分の演奏は「傷」が大きく感じることです。
演奏しながらミスに気付いても修正すること・演奏しなおすことは基本的にできません。
演奏中にはミスを気にするより「次の音」を演奏することに集中しています。演奏後に録音を聴いてみて打ちひしがれるのは私だけ?ではないようにも聞いています。
 日ごろから生徒さんにもオーケストラのメンバーにも間違えることを恐れて小さな表現になるのは間違っていることだと伝えているのに‥実際に間違っている自分の演奏は許せない!(笑)自己矛盾です。間違えない演奏が最高の演奏ではないこともブログに書いています。人間なのに間違えないのは努力の結果です。それ自体は素晴らしいことです。自分の演奏を誰かと比較しています。それは「間違えない人」との比較です。ミスをしない演奏に憧れているのは紛れもない事実です。
 ミスに感じていないミスもある。つまり今の自分のレベル=耳の精度では「あっている」と感じても、もっと微細な違いをもっと短い時間で「測定」できる耳を持った人には「ミス」として感じるはずです。事実演奏会で私が失敗しても後で「え?全然わかりませんでした」と本気で言ってくれる人がたくさんいます。「優しさ」もありますが本当に気付かなかった人もいるようです。その人の耳の精度が低いと言うより自分が「気にしすぎている」事が多いようです。

「自分の演奏をもう一人の自分が聴いているつもりで観察しなさい」
これは私の師匠が教えてくださった言葉です。門下生の発表会で演奏した後に
「どんなに高揚(興奮)しても頭のどこかに冷静さを残しなさい」と言うメモ書き=天の声を頂いたこともあります。まさに!真実です。
練習は常に「第三者的な観察」を心がけ、本番の演奏中は「真っ白にならない」ことは一番難しいことです。逆になりがちです。練習ではムキになったり観察力が足りなかったりしがちです。本番では熱くなりすぎて本来の自分が出来ることが出来なくなることがあります。
 自分の演奏を聴くことは「鏡に映った自分を見る」ことに似ています。日常生活で「人目を気にしない」人でも常識的な外観・外見は整えるでしょう。パジャマのままでごみを出す人もいれば「ばっちり!」お化粧しないと外に出ない人もいるのでは?ただ大切な人と対面する時に相手に不快感を与えないような準備をするのは「常識」の範囲だと思います。それ以上に人に見られる職業‥例えば映画やテレビのカメラで撮影される俳優さんやアナウンサー、写真のモデルさんなどにとって「鏡」を見るのは一つの仕事かも知れません。
 音楽を演奏する人が自分の演奏を聴いてチェックする・反省する・改善するのも大切な練習です。「嫌だから聴かない」人が圧倒的に多数です。趣味であっても自分が上達しようと思うなら「録音」を聴くことは上達のポイントになると思います。ましてや専門家の場合には「嫌でも聴くべき」だと思っています。自分の演奏がどう?聞こえているのかを知ることは、人にどう見られているのか?鏡で確かめるのと同じだからです。音楽はその場で消える芸術ですから「終わった演奏を聴いても仕方ない」と言うのは詭弁です。一期一会の音楽だからこそ自分の演奏を他人の演奏を聴く耳で聴いて「感じる」事も重要な事だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音を音楽にするために必要な技術と知識と経験

映像は「レ・ミゼラブル」の中で歌われる「オン・マイ・オウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。音楽を聴いて感情を揺り動かされる経験は演奏をしたことがなくても体験出来ることです。演奏して人の感情をゆり動かすことは簡単でしょうか?
 今回のテーマは「音」を並べる作業ではなく演奏する人の「感情」「思考」を表現する音楽を演奏するために必要な「基礎」を考えるものです。

「演奏技術」を身に付けることのためには時間と労力が必要です。趣味でも専門家でも音を出す技術がなければ楽器の演奏は始まりません。しかし「コンピューター」と言う道具を使うと楽器の演奏技術が皆無でも自分の好きな音をすぐに「演奏」できます。「パソコンで作った音は音楽ではない!」これは間違っています。クラシック音楽をスマホやテレビ、ラジオで聴く場合に「音楽ではない」と考える人はいないはずです。「電気・機械で作られた音はダメだ」これも非常識です。ロックでエレキギターを使ったら?クラシックの野外コンサートでマイクとスピーカーを使ったら?考えれば「電気・機械を使わずに音楽を聴く」事の方が圧倒的に難しく・数が少ないのが現代なのです。昔からある楽器の中でもパイプオルガンは演奏者の「遠隔操作」で音楽を奏でる楽器です。ピアノも1万点以上の部品(多くは金属部品)で出来上がった「機械のような」楽器です。

 楽器の種類によって演奏の技術が全く違います。一見誰でも弾けそうに感じる楽器もあれば見るからに難しそうな楽器、実際に試してみると音さえ出ない楽器もあります。先述のパソコンや電子オルガン、シンセサイザーを操作するための知識、技術がなければ当然「電源さえいれられない」楽器です。
 そのような多彩な楽器がありますが人間が、自分の好きな「音」で好きな「音楽」を演奏しようとする「意欲」は共通するものです。むしろこの気持ちがなければ演奏=音楽は発生しません。機械が自分で考えて音楽を作る時代がきっとやってきます。「AI」と呼ばれる技術を使って実際にBGMを作る技術はすでに実用化されています。バッハやベートーヴェンが作曲した曲の楽譜のデータを入力しなくても、機械に聴かせる=学習させる事を積み重ねると、世界中のどんな演奏家の演奏とも違う「独自」の演奏が可能なはずです。もはや人間の演奏技術はコンピューターにとっては「かんたーん!」な事の一つです。どんな速さでも間違えずに最高の音色で演奏できるのは「当たり前」で、人間のように「ミスをする」ことも可能です。
楽譜が読めなくても、入力しなくても「音」を読み込ませるだけで独奏曲をアンサンブルに編曲することも既に可能になっています。
あれ?人間が苦労して楽器の練習をして演奏する「必要性」って残ってないの?(笑)

 機械の力で人間の生活を楽にする使い方もできます。身の回りに当たり前にある「家電製品」を見れば電子レンジ、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機などがない時代、すべては「知恵と労力」で行っていました。それらは「誰か」が考えて努力して創り出した技術です。
 人間の楽しみは必ずしも「便利」だけを重視していません。スポーツにしても本を読むことにしても、アウトドアでキャンプを楽しむ、車やバイクの運転を楽しむ‥など楽しむために敢えて「不便」を選ぶことにも目を向けるべきです。
 楽器を演奏して音楽を作る「楽しみ」もその一つです。時間と労力をかけて汗を流し「努力」することが楽しみなのです。

 人間は苦しい事やストレスを感じることを嫌がります。人によって差はありますが、なかなか思ったように出来ないことはストレスになります。実際に楽器の演奏を楽しもうと思って楽器を用意しレッスンに通っても「できない」ストレスが原因で「挫折」して演奏を止める人が多い現実があります。少しでも短期間に出来るようになれば「趣味の演奏」をする人も増えると思います。では「どうすれば?」辛い思いをせずに短期間に上達するのでしょうか?
「学ぶこと」です。AIは「学習する=記憶して処理する」技術です。記憶する容量、処理する速度も日々進化していますが原理は「学習」の積み重ねなのです。
私たち人間も音楽を作る楽しみを持ち続けるために「学ぶ」事が何よりも大切なのです。
もっと言えば「学ぶことが楽しい」と考えることです。教えてもらうだけが学びではありません。観察して試して確認して‥と言う事を繰り返すのも学びです。受け身=考えずに言われたことを繰り返すだけでは楽しみは生まれません。習ったことをどうすれば?と考えます。さらに習っていない曲を演奏する時に自分の感覚と技術を頼りにして音楽を創造します。
 レシピの通りに料理する事や素材の鮮度や状態を見極めることは「技術の基本」です。
自己流=自分の好きなやり方を見つけるために失敗は不可欠です。失敗しないと「美味しくない」時を見つけられないからです。練習して失敗する=思ったように演奏できない経験も同じです。なぜ?失敗するのかを観察しなければ上達しません。料理で言えば砂糖と塩を見分け使う量を記憶していなければ、同じ失敗を繰り返すの当たり前ですよね。

 「出来ないことがあるから面白い」この考え方こそが人間の知恵です。
前のブログでも書きましたが短絡的に=安直に自分の意志を他人に押し付ける考え・行動は知恵を使わず野生の本能だけで行動している「野蛮人」です。音楽を創造する人が自分の価値観を他人に押し付けるでしょうか?バッハやモーツァルトの価値観を認めなければ現代の音楽は存在しませんでした。自分の考え・感覚を自分で肯定しながら他人=例えば師匠や他人の評価にも耳を傾ける「受容性」のない人間には音楽を楽しむことは無理です。
 演奏を自己流に仕上げる楽しみが「人間らしい」行為だと思っています。すぐに出来れば良いのではなく、間違えなければ素晴らしいのではないのです。上達のために使える「現代機器」は使うべきです。チューナーでもメトロノームでもICレコーダーでも自分の学びの為に活用するのは良いことです。
 自分の楽しみは自分でしか感じられない。他人の感覚と違う事が宝物です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小品は軽薄な音楽?

 映像はドボルザーク作曲の歌曲「私をひとりにして」
昨年(2026年)1月に代々木上原ムジカーザで演奏したライブ動画です。
 今回のテーマは私たち二人が演奏を続けているリサイタルの中心「小品」について考えるものです。ちなみにクラシック音楽で「小品」と呼ばれる曲は演奏する編成や人数が少ないなどとは無関係です。厳密な定義はここでは書きませんが「小品ではない曲」の一例を挙げてみると「交響曲」「ピアノソナタ」「ヴァイオリン協奏曲」などがあります。演奏時間が短いから小品かと思われがちですが演奏のテンポ=速さが遅ければ当然それなりに演奏時間は長くなります。簡潔に説明するなら「1曲で完結する音楽」あれ?ベートーヴェン交響曲第5番「運命」も第9番「合唱付き」も1曲と言えば1曲ですね(笑)交響曲や協奏曲、ソナタは通常、複数の楽章で1曲が構成されています。「第九」の合唱が出てくるのは最終楽章だけです。楽章とは言われませんが「組曲」と呼ばれる音楽もあります。それぞれの曲は小品と言っても間違いではないと思いますが作曲家が「組み合わせてひとつの作品」と言えば複数の曲で一つの完成された音楽となります。ただそのような知識を持たずに音楽を聴くのが普通ですよね?
「クラシックコンサートあるある」の一つに拍手をいつ?するのか分からない!いつ終わるのか分からない!だから途中で寝落ちした(笑)という話があります。私は「これが当たり前」だと思っています。その曲を何度も聴いている人なら楽章の切れ目、曲の終わりも知っているのは自然なことです。好きな映画を覚えてしまう程、何度も見た人は次のシーンまで分かっていますし当然映画の「結末」も知っていますよね?もし映画館や家族・友人と一緒にその映画を見ていいて自分以外の人が初めて見るケースで「あ、この人は実は…」って一番嫌われる人間ですね(笑)ところが何故か?クラシック音楽のコンサートでは「知っている人が拍手したら拍手する」って不思議だと思いませんか?

 少しクラシック音楽から離れて考えてみます。
ジャズ、ロック、J-POPなどの音楽に「楽章」と言う言葉は使われません。映画音楽やドラマの音楽の場合にはシーンによって様々な音楽が用いられます。「メインテーマ」と呼ばれる映画を代表する音楽とは別に不安や緊張感を感じる曲、涙を誘う曲が効果的に使用されます。CDに映画で使用された音楽がすべて収録されている物もたくさんあります。映画音楽の場合には音楽の演奏時間は特段の制限がありません。むしろシーンに応じて切り分けたり一部だけを使ったりテンポを遅くしてみたりします。一方で歌謡曲と呼ばれる音楽の場合は1曲の長さに慣例として「制約」があります。昔は厳密に放送局が時間を指定した時代もありました。「あかしろ歌合戦」と言う番組でも1曲の持ち時間が公平に決められ少しでも長い曲は容赦なくカットするかテンポを異常なほど速くして時間に納めていました。そんな影響もあってポピュラー音楽の1曲ごとの演奏時間は比較的短いものが主流です。言ってみれば小品…ですね。

 私たち夫婦が演奏する曲の多くが小品と呼ばれる曲です。クラシック音楽の定義も様々ですので「小品」と言うカテゴリーの演奏会があっても良いと考えています。ピアノとヴァイオリンの為のソナタは通常のコンサートでは全楽章演奏されます。長い曲だと終楽章が終わるまで30分以上演奏が続きます。聴きなれた人ならともかく普段はクラシックを意識して聴かない人が「いつ終わるの?」と感じながら演奏を楽しめるだろうか…と気になってしまいます。
全楽章の演奏を楽しみにしてコンサートに足を運ぶクラシックファンもたくさんいます。
その方にとって私たちのように1楽章だけの演奏は「つまみ食い」に感じると思います。
映画の一部分だけを切り取ったり小説の最後だけを読むことに近いことかも知れません。
作曲家が心血を注ぎ長い時間をかけて推敲して仕上げた全楽章を演奏しないのは「良くない」と言う考え方も否定しません。コンサートで初めてクラシックを聴く人、初めてヴィオラとピアノのデュオを聴く人が「こんな曲もあるのか」と感じて音楽に関心を持って頂くことが私たちの願いです。
 小品が軽薄なものだとは考えていません。音楽高校と音楽大学で多くの先生方に室内楽やオーケストラの演奏を教えて頂き「座学」でも音楽理論、西洋音楽史、管弦楽史を学びました。その傍らで全国各地の小学校や中学校での音楽鑑賞教室「オーケストラ鑑賞」の演奏者として様々な音楽を体育館、音楽室、公会堂、ホールなどで演奏していました。運命の1楽章、くるみ割り人形の中の一曲、アルルの女やカルメンの一部など子供たちが関心を持てそうな音楽を限られた時間で演奏するのが「音教」と呼ばれる演奏会です。恐らく多くの方が幼い頃に体験していると思います。その思い出は長く残ります。その時に「つまらなかった」と感じればオーケストラはつまらない、クラシックは嫌いと思ってしまうかも知れないのです。
音楽を聴くことが好きな人が忘れてしまった「はじめの一歩」を小品の演奏と言うコンサートで実現していきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器で歌う

映像は韓国の作曲家チョン・ファンホ作曲「開花日~花の咲く日」
今回のテーマは以前にも触れたことのある「歌う」ことの意味を考えるものです。
 歌を歌うことが好きな人と苦手な人がいます。子供の場合は小学校や中学校の音楽授業や行事の「合唱」が苦手と言う子供を多く見受けます。大人の場合はカラオケで歌うことが苦手と言う人(実は私もその一人)も多い一方で、カラオケ教室に通う人も相当数いるのが不思議です。声を出すこと=しゃべることと「歌」を歌う事の違いは?音楽を自分の身体で表現する最も手軽な方法が歌ですが、誰かに聴かれることに抵抗があったり自分の声をスピーカーから聴くことが嫌いな人も(これも私です)います。
 私自身は合唱で歌う事は好きでした。中学時代の音楽授業を担当されていた恩師が発声法にとらわれない自由に歌う歌い方で指導して頂いたおかげかも知れません。不自然な大人の真似をしたような発声法で歌っていたら合唱が嫌いになっていたと思います。
 自分の声を聴くのが嫌いな理由は自分でも良くわかりませんが、未だにビデオで自分の声を聴くのも耐え難い苦痛です。本番では恥ずかしさを隠すために必要以上にベラベラしゃべりますが(汗)演奏会のビデオ編集で自分の声を「カット」するのが当然だと思っています。

 自分が歌うことが苦手な人の中にも「歌を聴くのは好き!」という方もいます。
ジャンルに関わらず「歌詞」と「歌声」が魅力だと思っています。
同じ歌詞の歌でも歌手が違うと違う音楽に感じます。また一人の歌手の場合でも歌う曲によってまた聴きたいと思う曲がある場合もあります。歌詞の意味が分からない言語の歌の場合、歌声に惹かれているのだと思います。
 楽器を演奏する時に歌詞はありません。楽器のよって音域が決まっています。歌は歌う人の「声域」がそれぞれにあります。同じテノール歌手でも微妙に声域は異なります。
楽器演奏を指導する際に指導者が言う「歌う」のは実際に声を出して歌ってと言う意味ではありません。では何を?求める言い方なのでしょうか?
歌声はすべての歌手で違う魅力があります。

 弦楽器や打楽器、ピアノなどの鍵盤楽器の場合に呼吸は直接、音との関りがありません。
息を止めていても音は出ます。一方で声楽や管楽器の演奏でも音楽的な抑揚がなかったり音量と音色の変化が乏しい場合に歌っているように聴こえないケースもあります。
 つまり「歌って・歌うように演奏して」と言う指示は単に声を出して歌うことを指していないという事です。言い換えればここで言う「歌う」とは人間が言葉で意志を伝えたり感情を表現するような「演奏者の意図・感情を音量と音色の変化で表す」ことを意味するものだと考えられます。音楽によっては極力「平坦に・起伏や変化をさせない」表現方法を用いる場合もあります。これは他の部分で抑揚があって初めて効果のある方法です。

 歌い方に規則や基準はありません。人と会話する時に大げさに抑揚を付ける場合や意図的に一定の大きさ・話し方で話す場合があるように相手に対して「何を感じてもらいたいか?」を考えれば良いのだと思います。例えば「今日は寒いですね」と相手に話す時「今日は」をゆっくり大げさに強調すると「昨日まで暖かったけれど…」など「今日」が相手に強く伝わります。一方「寒いでね」を強調すると「寒い」と言う感覚を強調することになり「今日は」がなくても同じ意味になります。
 音楽は言葉のように具体的な状態=形容詞・動詞や物の名前=名詞は表現できません。
「悲しい」「楽しい」「不安」「安堵感」「驚き」などの心理状態を直接表す規則もありません。

ただピアニッシモで演奏し続けていて突然フォルティッシモで演奏すれば聴いている人がびっくり!するのは自然な事で音量の変化、音域の変化は多くの作曲家が作品の中で使用しています。しかしこれは「歌う」事とは別物でただ「驚かす」「緊張感を高める」などの効果があるだけです。
 音楽を歌うことは演奏する人の「優しさ」の表れだと考えています。意志を伝える人=相手・聴衆に丁寧に・穏やかに・ある時は大胆に自分の意思・感情を伝えるのが「歌う」ことだと思います。怒鳴りつけたり決めつけたり、言い捨てる話し方は「乱暴な人間」の話し方です。これが「歌っていない」音楽だと思います。
 優しさ=Tenderbessこそが音楽を歌う心のキーワードだと考えています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ライブ演奏ととCDの違い

映像はハリウッド映画「インテルメッツォ」で使用されていたプロボスト作曲「インテルメッツォ」
代々木上原ムジカーザでのライブ映像です。今回のテーマはライブ=お客様の前で「生演奏」した演奏とCDなどの録音での演奏について違いを考えるものです。
 私たちも過去に3枚のCDを録音・作成・販売しています。3枚とも自宅で自分たちで機材のセッティングから編集を行いCDジャケットの作成も「手作り」のCDです。
同じ曲でも録音する場合と生演奏では全く違った演奏になります。

録音の場合には自分たちが納得できる演奏が出来るまで何回でも録音し直すことができます。
1曲録音して聞き返して不満があれば休憩してから録り直す作業を繰り返せます。自宅で録音したので何日にも分けて録音することも可能です。
録音方法の「進化」で多くのレコーディング現場では「部分録音」をつなぎ合わせたりピアノとヴァイオリンを別々に録音する方法が主流になりつつあります。この方法だと納得いかなかった部分だけを録音し直すことで時間の短縮が可能な上、別々に録音することで二人のどちらかがミスをした場合、そちらだけを部分的に録音すれば良いので効率がさらにアップします。
「そんななのずるい!」(笑)と思う方も多いと思いますが、昔から行われていた録音方法です。
二人の音量のバランスも別々に録音すれば後から電気的な処理でいくらでも変更が可能になります。
オーケストラの演奏を録音する場合でも10~20本のマイクをソロのある楽器や音の小さな楽器のすぐ近くに立ててそれぞれを違うチャンネルに録音する「マルチトラック録音」が当たり前になっています。
昔のテープ録音と違い雑音のない音で何度編集してもピッチが変わらず音質も劣化しません。
こうして出来上がるのがCDでありプロオーケストラの演奏動画です。

生演奏の場合、特に拡声装置を使用しないアコースティックでの演奏は演奏のミスもやり直しが出来ませんが音量のバランスも後から変更することは不可能です。
さらに演奏会で1曲だけを演奏して終わる…ことはほぼあり得ませんから、多くの曲を限られた時間内で演奏する集中力と体力が求められます。録音とは全く違う緊張感があり準備の時間も比較にならないほど必要になります。聴く側にしてみればCDを自宅で聴くのも会場で生演奏を聴くのも同じ曲・同じ演奏者かも知れません。CDと同じ演奏をライブに期待する人もいますが正直に言えば意味のない期待です。
CDの演奏が聴きたければCDを聴けば何回でも同じ演奏を聴けます。先述の通り録音され加工された演奏は生演奏とは「別物」です。極論すれば巨大なライブ会場=ドームなどで何百人・何千人の聴衆と一緒に「CDの音」を聴いているケースもあります。CDではなくても予め録音された音を一部使いながらライブを行うバンドも珍しくありません。「一体感」を感じたいのであれば満足なのかも知れません。

生演奏が好きか?CDの演奏が好きか?これは好みの問題=価値観の違いですのでどちらが正しいと言うものではありません。それぞれに良さがあるのも事実です。どちらにも一長一短があります。
 私たち夫婦がコンサートで演奏する場合もっとも重要に考えているのは聴いてくださるお客様への配慮=おもてなしの心です。演奏する本人が練習にどれだけ時間をかけたからと言って聴く人にとって演奏会を楽しめなければ意味のない事だと思っています。時間と体力と交通費をかけてまで会場に音楽を聴きに来られた方に対する感謝と敬意を忘れた演奏は自己満足でしかありません。もちろんすべての来場者が満足できるコンサートは現実にはあり得ないのかも知れません。演奏者のファンだけが集まるコンサートであっても選曲によって不満を感じる人もいます。予め演奏曲が告知されていてもCDと同じ演奏を期待する人には不満があるはずです。
 結論として生演奏でのライブやコンサートは「その時だけの演奏と感動」があることを演奏する側も聴く側も共通理解しておくことが一番大切だという事です。ライブ演奏を録画・録音した映像や音源が世界中に無数にあります。私たちの演奏動画もその中の一つです。コンサートで実際に聴いてくださった方が録画された音を聴いて「なにか?生演奏と違う」と感じて当然です。会場で感じた演奏者の立ち振る舞いや息遣い、会場での音などは「記憶」にしか残りません。聴いてくださった方の良い記憶になるコンサートを続けていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介