クラシック音楽(器楽演奏)の個性

 映像は私と浩子さんが初めてのデュオリサイタル(2008年)に演奏した、ドボルザーク作曲「ロマンティックピース」からの2曲です。
 この曲に限らず「クラシック音楽」と呼ばれるジャンルの音楽は、基本的に作曲家が書き残した「楽譜」の通りに演奏することが原則です。言い換えれば、演奏者は楽譜に書かれた「記号」を音から、さらに「音楽」として演奏することが求められます。
 ポピュラー音楽の世界でも「楽譜」が用いられることは珍しくありません。逆に楽譜を一切使用しない演奏者もいます。
 楽譜は「台本」に似ています。演者が文字を「演劇」や「朗読」で表現することと、ほぼ同じことです。「アドリブ」が許される範囲は様々です。クラシック音楽も同じです。ただ「許されないアドリブ」があるか?と言われれば、本来はどんな演奏であっても「演奏者の自由」であることは否めません。聴く人の好みにもよります。
 楽器で音楽を演奏する「器楽」の場合、歌と違い「音色=声の違い」はありません。楽器によって音色は違いますが、人間の声ほどの違いはありません。
 演奏する人の「個性」はどこに表れるのでしょうか?

「解釈の違い」と言う言葉は楽譜や文章に書かれた、事・現象を読み手・弾き手がどう?感じ取るかの違いです。
同じ文章を読んでも、人によって違う意味に取れる文章もあります。楽譜の場合も同じです。

「演奏するテンポの速さ」「音量」「音色」「フレーズの切れ目」「揺らし方」など、演奏の個性を左右することはいくつもあります。「表情」や「姿勢」「動きの大小」は視覚的なものであって、音とは別のものです。
当然、音楽に影響する動きもあり,逆に音により感情が表情に出てしまう場合もありますが「音楽があって」の話です。

 個性に優劣=序列をつけることは不可能です。「〇△さんの個性は世界一だ」って言いませんよね?むしろ、個性を引き出すことが技術だと言えます。

 そもそも、楽譜には「音の高さ」「リズム」が主に記されています。「音の大きさ」も書かれていますが数値的な絶対値ではありません。
曲のテンポを数値で指定されている曲もありますが、多くの場合には演奏者の自由が許される範囲があります。

 「曲全体のテンポの違い」と「音量差」だけが個性による違いでしょうか?
 一音ごとの「音量」「長さ」「音色」にこだわり、曲全体を仕上げること。その演奏は「一度だけ」で評価されるものです。録音物での評価は、人間の演奏を「記録した」ものであり、演奏する場で創られる「音の芸術」とは次元が違います。聴く人間が感じることも、時により変わります。
 録音物を初めて聴いた時の印象が変わっていくこともあります。

 最後に「個性的な演奏」について。個性の感じられない演奏を考えればわかることです。「楽譜に書かれたとおりに演奏する」ことを「正確な演奏」と言います。間違えないことに「個性」はありません。速いテンポで正確に演奏できる「だけ」でも個性は現れません。
「人と違う演奏」だから個性が強いとも言えません。単に奇抜な演奏と評価されても仕方ありません。
「個性」は演奏する人の「性格・好み」が現れることもあります。例えば、せっかちな人の演奏・勝気な人の演奏など。逆に普段の行動や表情からは想像できないような演奏をする人もいます。

 演奏の個性は、演奏者のこだわりの結果です。音楽は「曲」によってすべて感じるものが違います。一緒に演奏する人の「個性」も含め自分が納得できる演奏に個性が生まれます。当然のことですが、一曲の「個性」が出るまでに必要な時間があります。間違えない演奏のために努力する時間も必要です。
楽譜が同じだからこそ!個性を感じる演奏を心掛けるのがクラシック演奏だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を奏でて生きること

 映像は、ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
今回のテーマは、趣味であっても職業としてであっても「演奏」することを続けていく人の「幸福感」について。もちろん、好きな音楽を聴くことも人によってかけがえのない楽しみです。音楽を奏でるために…自分が楽しめる演奏をするために、練習することも音楽を奏でている事に変わりありません。人の前で演奏するのも、一人で練習するのも「音楽を奏でる」ことなのです。

 奏でる音楽がロックでもクラシックでも、人間が演奏するなら同じ「音楽」です。とは言っても現代の私たちが「聴く」音楽は生演奏よりも、はるかに「機械からでる作られた音楽」が圧倒的な数です。それでも、人間が作った音楽を、人間が演奏しているという前提で言えばかろうじて「人間の音楽」と言えるのかもしれません。要するに、聴く側の立場で言えば「生演奏」でない限り、人間が演奏していても機械の音でも「音楽」であることに変わりないことになります。

 一方で「演奏する」立場になると、楽器の種類にもよりますが自分の演奏技術=演奏技術・音楽のクオリティーになります。私の知る「電子オルガン」ヤ〇ハ製なら「エレ〇トーン」は、内蔵されたコンピューターにデータを入力し、再生時にそのデータと「一緒に」演奏するイメージがあります。極論すれば、演奏者がいなくても音楽は再生されるはずです。否定しているのではなく「楽器の種類が違う」のです。
 エレキギターであっても、クラシックギターであっても演奏する喜びは変わりません。ロックバンドでもクラシックのアンサンブルでも、お互いを思いや気持ちが第一であある事は変わらないことです。
 音楽を演奏することは、ある意味で「生きるために必須」なことではありません。なくても人は生きられます。光や空気、水がなければ生命は途絶えますが音楽がなくても生活できます。その「なくても死なない」演奏に楽しみを感じるのは、「知性があるから」です。言ってみれば「遊び心」です。演奏は遊び心が必要だと思います。「命がけの演奏」なんて聞きたくないと思いませんか?悲壮感の漂うコンクールの演奏風景を見ていると、音楽を楽しむ気持ちにはなれません。

 練習を楽しめるのか?と言う素朴な質問を良く耳にします。
私は「楽しくない」と正直に答えます。ならば「人前で演奏するのが楽しいのか?」と聴かれて率直に「はい」と答えるほどの自信もありません(笑)「ならば!なぜ?人前で演奏するのか?」きっと、練習も演奏会も含めて音楽を演奏するのが好きだからなのだとしか答えられません。
 音楽の学校に入学するために練習した時期もありました。音楽の高校・大学で試験のために練習した頃に「練習が楽しい」と感じたことはありませんでした。「合格するため」「良い成績を残すため」に練習していた…のだと思います。
 今、演奏が好きだから練習し人前で演奏する自分は、そんな「若い頃」があったからこそ存在しています。コンプレックスに苛まれ、挫折感を日々感じ、練習しても成績の上がらない年月を過ごしました。
多くの学友がいます。今も第一線で演奏活動を続けている仲間もいます。音楽大学で教鞭をとっている人もいます。クラシックではないジャンルの音楽演奏を続けている仲間もいます。それぞれに「音楽」と未だに関わって生きている人たちです。家庭で家事・子育てや、音楽以外の仕事をしながら「時々」音楽を演奏する人もいます。みんな「音楽仲間」です。
 若いときに味わった「苦さ」こそが年齢を重ねて「味わい」になる気がします。若い頃の「甘さ」は逆にほろ苦くさえ感じます。還暦を過ぎ、後半の人災を「音楽と共に遊ぶ」ことができれば、悔いのない人生のように思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「その道」に求められるもの

映像はボーム作曲「アダージョ・レリジオーソ」をヴィオラで演奏したものです。
 さて、今回のテーマは「その道」言ってみれば「専門家」や「プロフェッショナルッショナル」「達人」などを表す表現ですが、それぞれの「道」で必要な知識や技術・経験が違います。当然のことですが、「道」を知らない人人にとっては、その道の険しさや極めるまでのプロセスにつちえ、知る由もないことです。それなのに「あの人の技術は」なんちゃらかんちゃら(笑)と自分がその道を究めたかのような発言をする人がいます。私はその手の「えら増人間」が大嫌いです。はい。言わずもがな…ある道を究めようとした人にとって、その険しさを知れば、同じ道を究めようとする人が、道半ばであれば応援する気持ちこそあれ、蔑む言葉は口に出来ないのです。

 自動車の運転を「極める」道を考えても様々な道があります。
F1パイロットになるための道もあれば、タクシーの運転手、バスの運転手、大型トラックの運転手などすべての「道」が違います。必要な技術・知識も違います。
 料理を作って提供する「道」でも、中華・イタリアン・フレンチ・懐石料理・寿司など、すべての「道」が異なります。
 一見、誰にでも真似のでき増な「専門職」であっても、極めようとした人だけが知る「険しさ」があるはずです。家事全般を考えても言えることです。誰にでもできる?いやいや!毎日、家族のご飯を作り洗濯をしたり、掃除をしたり買い物をする「家事」は誰にでもできることではないのです。
「サラリーマン」であろうが「OL」であろうがそれぞれの「道」があります。

 音楽…ヴァイオリンとヴィオラしか(とも言えず笑)演奏できない私が感じる「自分の進む道に必要な技術と知識と経験」があります。
 聴いてくださる方にとって「求める演奏・音楽」があります。
 私が演奏し、表現しようとする音楽に「共感」してくださる人がいれば、本当に幸せなことです。私自身が自分に足りないと思う技術があるように、聴く人にとって別の「不足」があるのは「当たり前」のことです。聴く人が二人いれば、二通りの「求める演奏」があります。演奏者も入れれば3通りです(笑)

 技術の序列や勝敗が、客観的に判断できる「道」もあります。戦術のF1の場合「結果」は順位やタイムです。もちろん、パイロット=ドライバーだけでは勝てません。メカニックとスポンサーが不可欠です。
 ボクシングも勝敗で序列が付きます。勝てば多額のファイトマネーが手に入りますが「死」とも向き合う覚悟が必要です。

 芸術や医学、研究などの場合「序列」がどの程度?明確でしょうか?
 評価は「音楽を聴いた人」「治療を受けた人」が下すものです。選ぶ権利と責任は「聴く人」「患者」にも多分にあります。
音楽なら「聴いてみなければ」判断できません。医療なら「治療を受けてみなければ」判断できません。結果として満足するか?しないか?は、個人によって違うはずです。病気を「完全に」治せたとしても、完治するまでの時間と患者の「苦悩」は一概に比較できません。

「道」は無数にあります。人の数に、無数の「道」があるのです。同じ道はありません。自分の進む道を自分で作るのが人間です。他人の作った道は歩めません。他人の道を「遠回り」とか「無駄」と言う資格も権利もありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校教育でオーケストラを指揮・指導する

中・高校部活オーケストラ

 映像は20年以上前のものですが、横浜みなとみらいでの中学生・高校生が演奏するカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲。
 ハープの演奏者だけは「外注」(笑)パイプオルガンの演奏も高校生です。
 今回のテーマは、学校教育にある「特別活動」いわゆる部活動でのオーケストラを指導する際の「コツ」と「留意点」です。

 公立・私立を問わず「特別活動」の目的や主旨は国と地方自治体によって規定されています。好き勝手にできるものではありませんし、ましてや顧問や校長の意向で活動に制限を加えたり、逆に「無法地帯化」することも許されません。さらに、家庭=保護者の理解と同意も必要不可欠です。
 当然のことですが主役は「生徒」です。子供たちの健全な育成が目的です。中学は義務教育であり、高校は違います。さらに、思春期の子供たちです。その多感な時期の生徒に「オーケストラ」という特殊な環境を作るのは「大人」の仕事です。自然に生まれるものではないのです。

「オーケストラの指導は難しくてできません」と言う教員が殆どでした。そういいながら、吹奏楽の指導や合唱の指導は気軽に引き受ける教員が数限りなく(笑)いました。
 音楽への関心もなく、楽器演奏の経験が「ゼロ」でも顧問を引き受けなければいけない立場なのが「教諭」という職業です。「校務分掌」つまりは「業務」として顧問をすることも教諭の仕事なのです。

 オーケストラに限らず合唱や器楽演奏の部活動を指導・指揮するのであれば、最低限の知識と技術は身に着けるべきです。それが校務分掌であるなら、給与に含まれる業務なのですから。

 前提として、もし指導者自身が義務教育レベルの音楽知識・楽器演奏技術しかない=楽譜が読めない・リコーダーしか演奏できないのであれば、まずは生徒の安全管理だけしかできないと思ってください。「知った振り」で生徒に間違った指導をするのは「百害あって一利なし」です。練習内容・時間・運営・指揮。これらは「音楽」の基本です。「命にかかわらないから」という安直な考えで、音楽系の部活動指導は絶対にすべきではないのです。ラグビー部の顧問を命じられて、ルールも知らずに生徒に指導しますか?ワンダーフォーゲル部の顧問が、山の怖さを知らずに生徒を引率しますか?それと同じことです。

 本題です。
1.楽器の構造と扱いを学ぶ
2.楽器ごとの練習方法を学ぶ
3.合奏に必要な技術を学ぶ
4.指揮法の基本を学ぶ
5.楽譜の基礎知識を学ぶ
6.生徒のモチベーションを維持する方法を学ぶ
ざっと挙げれば上記のような「学習」「研究」が必要です。
 オーケストラには数多くの種類の楽器が含まれます。それらすべての楽器を「完璧に」演奏できる人間は恐らく地球上に一人もいません(笑)さらに言えば、指導者自身が「何の楽器も演奏できない」人であっても、知識を身に着け経験を積めば、オーケストラの指導は十分に出きるのです。「楽器ができない」からと言って、なにも学ばなければ指導は不可能です。

 上記の1~6の項目を同時進行で行います。
もちろん、段階があります。短時間に身につくものではありませんし、オーケストラ自体も「1」から大きくなっていくのです。
 私の経験を簡単に書いてみます。


1.私立新設校で男子校にただ一人の音楽教諭として採用されました。
2.開校準備の段階で「音楽部顧問」を任命され活動内容は一任されたので「オーケストラをつくる」ことにしました。
3.初年度購入備品を事務局に提出する段階で、通常授業以外の楽器=オーケストラの楽器購入について、3年計画で計上することになりました。(あまりに高額だったので)
4.初年度はコントラバス1・ティンパニ2・チューバ1・ヴィオラ1・チェロ1.ファゴット1・ピッコロ1・ドラムセットを購入しました。これらの楽器をまず優先して購入することで2年目に「吹奏楽にしろ」と言われることを回避できることと、生徒が購入しにくい楽器から揃えることが目的です。
5.開校時、部員は中学生5名高校生6名、合計11名でした。中にヴァイオリンを習ったことのある中学生1名、中学時代に吹奏楽部でフルート・サックス経験者が各1名。それ以外は「楽器初めて」の男子でした。
6.それぞれの生徒の希望を優先し楽器を貸し与えました。楽器が余る状態でしたが次年度も楽器の購入を計上しました。
7.開校から3年目に全学年(中1~高3)男子生徒が揃った時、オーケストラには60名ほどの男子部員がいました。3管編成オーケストラに必要な楽器はほぼ、買い揃えていました。
8.案の定、法人の理事長から呼び出しを受けました。横浜の高級料亭で「吹奏楽部に何故しないのか?」と迫られましたが、私には吹奏楽指導は出来ませんと伝え(クビか?と思いました)認めてもらいました。
9.学校の管理職と取り巻き教員からの嫌がらせ=音楽部排除計画に真っ向から戦う日々となります。外部からの指導者=コーチの採用は認められず、中学生の合宿も認められず、入学式・卒業式での演奏も認められないという不合理な方針と闘いました。
10.生徒の「やる気」を引き出すための工夫と、部員を確保するための「新入部員勧誘」、さらに定期演奏会の入場者数増加が毎年の頭痛の種となります。
11.全校生徒数、1200名の学校で、150名の部員を束ねながら、中・高授業と校務分掌を同時に行いながら常に「オーケストラ」を中心にした勤務でした。
12.学校から部活動への予算は「生徒会費」からの毎年1~2万円。楽器のメンテナンス費用のために「部費」を月に500円集めることにも学校はなかなか認めませんでした。
13.生徒の楽器は生徒に購入してもらうことを保護者会で理解を求めました。難しい生徒には学校の楽器を貸与しました。
14.全部員が揃う「合奏」は週に1日だけ。その他の日は「自由に練習」できる体制を続けました。
15.「対外的な結果を出せ」と言う嫌がらせ要求に応えるため、テープ審査のコンクールに参加し文句を言わせない結果を残しました。
16.高等学校文化連盟などに加盟することで対外的な活動を学校に認めさせました。
17.部員には「年功序列」を体感させるため、1学年下の部員を「先輩」が指導する体制を作りました。
18.一方で「やる気」があれば「下剋上」ができるよう「トップ」を希望する部員には、全員の前で指定された部分を演奏する「勝負」で席順を決めさせました。
19.選曲や当初の席順はすべて、指揮者が独断で行いました。
20.生徒が生徒を指揮する曲は演奏会の「1曲」だけで、開校5年目から毎年演奏し続けた「コーラスラインメドレー」だけに限定しました。生徒がオーケストラを指導することは不可能です。「指揮」は出来ても「指導」はできません。それを勘違いしないことが重要です。

 長々と「実話」を書きましたが(笑)、すべての学校で環境が違います。当然、生徒の個性もあり「地域の文化」も違います。
 そんな中でもオーケストラの活動は出来るはずです。大編成でなくても、10人いれば立派なアンサンブルです。その10人が卒業するまでに15人になり、やがて50人になるのです。それが顧問の仕事です。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンはどこまで進化するべきなのか

上野3枚の写真はすべて私が愛用しているヴァイオリンです。
1808 GIASINTOS SANTA GIULIANA
私が13歳の頃、50年前に父親が刈ってくれた楽器。ヴァイオリン職人として高名だった田中豁さんかが、メニック(フィラデルフィア)から取り寄せたものでした。
 さて、今回のテーマはヴァイオリンと言う楽器の「進化」について考えるものです。

 ピアノや多くの管楽器は、楽器が使用されるようになってから、長い時間をかけて「進化」してきました。素材や機構、作成譜お方も含めて「より演奏しやすく大きな音が出るように」変化してきました。
 演奏会場が大きくなり、一緒に演奏する楽器の音量が上がれば当然の変化かも知れません。
 ヴァイオリンは?どうでしょうか。

 この写真は1677年にニコロ・アマティが作成したというヴァイオリンだそうです。(笑)アマティはストラディヴァリの師匠にあたる製作者です。これ以前のヴァイオリンは様々な大きさ・形状だったようです。
 1680年と言えば?日本では江戸時代。五代将軍徳川綱吉が政治を行っていた時代です。
いくら「西洋」とは言えば現代との違いは想像しきれないほどです。
 演奏をする場面を想像しても「ホール」ではなく、宮廷や教会での演奏が主だった時代。金属の加工技術も低く、楽器に張る弦もガットをそのまま使っていた時代です。
当時に生まれ、活動していた作曲家は
パッヘルベ
コレッリ
パーセル
アルビノーニ
アルビノーニ
ヴィヴァルディ
テレマン
ラモー
J.S.バッハ
D.スカルラッティ
ヘンデルなどなど。

 さて、2024年の今を考えます。
「Ai」私世代なrあ「愛」と読みますが(笑)人工知能やら「量子コンピューター」やらが使われ始めている時代です。音楽で考えると何か大きな変革があったでしょうか?
 コロナ感染症で「音楽配信」が増えましたが、それ自体は新しい技術でもありません。
生で演奏を楽しむ機会が減ったことは事実です。それでも、クラシック・ポピュラー共に音楽の生演奏を聴いて楽しむ文化は10年前50年前と比較しても、あまり変わっていません。

 録音技術がデジタル化されて、すでに数十年経っています。逆に「アナログ」が見直される時代になりました。自宅や外出先で音楽を聴くことも「ウォークマン」が発売された40数年前前から続いていることです。
 電子楽器が「パソコン」にとってかわられたのはここ10年ほどのことかもしれませんが、それも「テクノ」が流行った昭和の時代に存在していた音楽です。シンセサイザーと呼ばれる電子楽器は40年以上前からありましたし、電子オルガンも50年以上前から普及していました。

 ヴァイオリンに求められる「進化」って何でしょうか?少なくとも演奏方法や演奏する楽曲が変わっていないことは事実です。
「より大きな音が出せる」ことでしょうか?「より演奏しやすく変える」事でしょうか?
「初心者でも演奏を楽しめる」ことでしょうか?例えば調弦=チューニングしやすくするtらめの「アジャスター」は既に60年以上前からありました。ペグ=糸巻そのものを「ギヤ」で力を入れなくてもペグを好きな位置で止められる機構「ファインチューン」というものも既に当たり前に使われています。
 一番「ちょこちょこ」変わるのは弦ですが、1700年当時の「生ガット弦」から「スチール弦」「金属巻きガット弦」が生まれ「ナイロン弦」が生まれてからあとは「これは!」という進化はありません。むしろパッケージを変えただけで「新製品」が発売されている状態です。

 演奏に求められうるのが「正確さ」「速さ」に偏っている現代、演奏者の音楽性や音色の美しさを求める人が段々減っている気がします。
 ヴァイオリンは300年前に「進化を止めた」楽器です。それを望んだのは演奏家であり聴衆です。70年以上前の録音されたレコードの演奏に、改めて感動するのは私だけではないと思います。個性を前面に出し、一つの楽曲に時間をかけて取り組んだ時代に「クラシック」の音楽の原点があるように思います。
 現代音がKとは次元の違う話です。進化より「深化」が必要だと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術になぜ?個人差があるのか?_

映像は国際コンクールで優勝し誰からもその技術の高さを認められている日本人ヴァイオリニスト三浦文彰氏の映像です。今回のテーマは「技術の差はどうして生まれるのか」という素朴な疑問について考えるものです。
 結論から言ってしまえば「努力の内容と量の違い」という当たり前のことになりますが(笑)、うまくなりたいという気持ちがある人にとって「超えられない山」なのかもしれません。

 演奏の好き嫌いとは別に「技術力」は様々な方法で科学的に比較できます。人間の聴覚は極めて曖昧なものです。
同じ人間が同じ大きさ、同じ高さの音を聴いても聞こえたり聴こえなかったりするのが普通です。パニック状態になれば、どんなに大きな音も「音」として認識できなくなるのが人間です。ですから、人間がいくら頑張っても「科学的な比較」としては演奏技術を比較することは出来ません。

 ヴァイオリンの演奏技術を「分析」する賭したら、どんな項目があるでしょうか?
・楽譜に係れている音の「高さ」
・楽譜に係れいる音・休符の「長さ」
・音量の幅=ダイナミクスの大きさ
・練尾の安定性とバリエーションの豊富さ
・正確に演奏できるテンポの速さ
上記の中で「音色」に関するものが最も分析の難しい項目になります。音色の分析には「含まれる音の周波数と波形」を分析することになります。何度も言いますが「好み」の問題ではありません。あくまでも「数値化できる項目と内容」の話です。

 大雑把に言ってしまえば
「速い曲を間違えずに演奏できる」
「汚い音=演奏者が意図しない音をださない」
「静かな曲もどんな曲も美しく(笑)演奏できる」
美しいという言葉が科学で証明できないのですが、違う言い方をすれば「誰からもケチの付けられない=減点されない演奏」だということです。

 さて本題です。どうして?これらの技術に差が生まれるのでしょうか?
「才能だ!」と切り捨てるのは簡単ですが「才能って何?」が結局のところ、今回のテーマになるわけです(笑)
「じゃ、環境だ!」はい。それは確かに大きな要因になります。両親が演奏家だったり、いくらでも練習できる環境だったりと「うらやましい」と思われる環境の人もいます。楽器の練習ができない環境で技術を身に着けることは不可能です。一方で音楽の学校に進学できた人の中で、練習できる環境が同じでも技術の習得に差が表れるのも事実です。「それまでの環境」人によって育つ環境が違うのは当然です。ただ音楽の学校に入学できる一定のレベルがある人たちが、その後に修得する技術が違うこととは直接関係ありません。

 趣味の楽器演奏でも、国際コンクールに出場する人でも「技術さ」が生まれる原因は「練習の質と量」以外の要因は獄わずかだと思います。
「練習の質=内容」と「練習量=毎日の連中時間・トータルの練習期間」を合わせたのが「練習」であり、sの結果が技術の主六の違いになるものだと考えます。
 先述の通り、練習時間が仮に「ゼロ」であれば、技術の習得も「ゼロ」ですが、内容が「ゼロ」であっても結果は「ゼロ」だと言えます。
 むしろ「練習量=時間」は時計があれば図れますが、内容を測ったり比較することは困難です。

 練習の質=内容は、先述の「技術」の項目で書いたようなことを「できるようにするための内容」です。
「速く正確に美しく演奏する」ために「聴く能力」と「体をコントロールする能力」の両方を高めることが必須になります。どちらも「正確な演奏」には不可欠です。いくら耳が良く反応が速くでも、運動能力が低ければ再現性は望めません。元より音を聞き分ける「耳」がなければ、正しいか?間違っているか?を判断できません。


音に対する反ぬお速度と制度・筋肉や関節を正確に動かす運動能力。どちらも「あるレベルまで」は多くの人が到達します。さらに厳密な「制度」と「再現性」を身に付いtた人たちと、何が違うのでしょうか?
 これはスポーツの記録でも言えることですが「小さな違いの積み重ねの違い」なのだと思います。
 同じ練習メニューで、一人一人の筋力に合わせた加賀的なトレーニングをした場合「結果・効果」を数値化することは出来ても、その人の「感覚」は数値化できません。
脳波を取ることで「苦痛」「痛み」などは検知できます。
瞬間的に「何を考え・どうしようとした」ことまではデータに現れまS年。「思考」つまり脳の働きは最も分析が難しいジャンルです。
 おそらく練習中の「思考」が技術の習得を左右していると推察できます。「何も考えない」で練習しても上達は望めないということです。
 練習中に考えていること=注意していることを、すべて言語化することは不可能です。むしろ「無意識に考えている」からです。その思考を集中できる時間の長さが長ければ、より高い技術に到達すると思われます。
 同じこと(例えばピッチ)に集中して練習したとしても、同時に注意する内容(音色や音量など)をどの割合で、どの位集中しているか?は人によって違います。
結果として「同時に集中できる項目」の制度を高め、集中を持続させることも「能力」の一つです。
 結局「脳の働き」に左右されていることになります。
持って生まれた身体的な特徴や、脳の働きもありますが「訓練・練習」によって伸ばされる能力の「差」こそが、技術の違いです。
 と、思っていてもうまくなれないのが現実ですね(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と音楽の関り

今回のテーマは私自身の経験をベースに考えるものなので「正論」とは言えないものです。その点を踏まえてお読みください。

 一言で「こども」と言っても幼児期もあれば思春期も「こども」です。一人一人、環境も違い体力、能力、個性も違います。
他人と比較してしまうのが、人間の「つまらない知恵」です。「他人と協調する」こととと混同する人が多いのも事実です。

幼児期は特に「成長速度の違い」が大きく表れます。また、同じ家族でも兄弟姉妹がそれぞれに異なった能力、性格を持っています。
ましてや、違う環境で育った幼児が同じような能力を持つことはあり得ないことです。
「できる・できない」や「はやい・おそい」で子供の成長を比較するのはあまりにも安直で、なんの意味もありません。
歩くこと、走ること、読み書き、計算など幼児期に「出来るようになる」事は誰にとtっても「通り道」かも知れません。ただ、それが遅いとか、どれかが出来ないという事で「劣っている」と考えることが間違いなのです。人間の「乳児」は誰かの手を借りなければ成長できない弱い生き物です。ハ虫類の生き物や昆虫のような生きものよりも「生存力が弱い」とも言えます。
 幼児期に大切なことは大人が「保護すること」と「知的な刺激を与えること」です。
その中に「音楽」と言うひとつの「刺激」もあります。音を感じることのできる子供であれば「人の声」を他の「音」と聞きわける本能を持っています。そして「音」と「音楽」の違いを感じるのも「知性」を持つ人間の子供ならではです。
 音楽を「演奏する」ことの面白さを意識できるようになるのは、言葉を発することで自分の意思を誰かに伝えることの「面白さ」を実感できる時期です。それより前の乳児では、痛みや空腹、不快感を感じて「泣く」ことと、快感を感じて「笑う」ことしかできません。音が連続して聴こえる「音楽」も恐らく感情を査収することはないようです。

 歌を歌う。音楽にあわせて動く(踊る)。この行為にも個人差があります。環境でも変わります。歌を歌う「環境」が多ければ歌うことが好きになる可能性も増えます。音楽に合わせて動いたり踊ったりすることも同じです。その環境を作れるのは、子供の周りにいる大人です。
 楽器で音を出し、音楽を演奏する「能力」は、幼児が言葉を理解し記憶する時期に最も効果的に「学習」できます。当然のこととして「個人差」があります。言葉を理解することも、文字を読んだり書いたりすること個人差がるように、音楽の学習能力にも個人差があります。

 この幼児期の「学習経験」はその後の段階「思春期」にも関わります。自我に目覚め、他人と自分を比較することを覚えます。「どうすれば他人に勝てるか」を考えるようになります。そのための「努力」が必要なことも理解するようになります。自分を高めること=自分の弱さを認めることができるようになるころに、やっと思春期が終わり「成人期」に入ります。
 中学生・高校生の頃を「思春期」だけだと思っている人もいますが、人によってはすでに「大人」の意識を持てる子供もいます。
言うまでもなく、自分を観察することが一番難しいことです。
「勉強ができない=成績が悪いから、塾に通う」子供を見ると、その向こうに親の考えが透けて見えます。塾に通えば学校の成績が良くなるでしょうか?そもそも、学校の成績が悪い原因を考えればわかることです。
学校に行くことが「嫌」な子供もたくさんいます。理由も様々あります。友達が嫌いだったり、先生が嫌いだったりと「嫌な場所」であれば、行きたくないのは自然なことです。理由も確かめず「とにかく学校へ」と言うのは子供の生命にさえ危険を及ぼします。
 学校で勉強しなくても勉強はできます。むしろ、学校以外で勉強したほうが「学習」できる子供もたくさんいます。塾に行けば成績があがると思うのは「迷信」です(笑)
 楽器の演奏技術を「楽しみながら高める」体験をした子供は、どうすれば勉学の成績を上げられるかを「無意識に」学びます。
 ただ楽器で音を出すだけでは曲を演奏できないことを「体験」します。さらに、考えて練習すれば上達することを「体験」します。まさに勉強法と同じです。

 演奏能力を高めたいと言う「意欲」を、他に転用することは簡単です。意欲がなければ上達や向上することは不可能です。
 意欲があっても「成功体験」がなければ、欲を実現=具現化することは不可能です。
 曲を間違えずに演奏できるようになる「練習」を積み重ねた経験が「成功体験」なのです。しかも音楽には「100点」はなく「終点」もありません。だから常に上を目指せるのです。テストで100点を取れば、どんな子供でも喜びます。ただ、その後も100点を取り続けることは「重荷・ストレス」になります。

 大人は自分の経験で子供を育てたがります。自らの成功体験と失敗体験を、子供にも当てはめたがります。そういう私自身もその一人です。だからこそ「子どもの個人差」をまず第一に優先することが重要です。たとえ自分の子供であっても、自分とは違うのです。一人の子供に当てはまったから、違う子供にも当てはまるとは限らないのです。自分の子供を育てるのは、すべての親にとって「初めての体験」なのです。だからこそ、自分の子供にだけは、他の子供とは違った「欲」を持つのです。

 子供の能力を信じることだけが、親の務めだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリン選定

 写真は私が現在も愛用しているヴァイオリンと、2011年に陳昌鉉氏から直接譲り受けたヴィオラの写真です。
 今回のテーマは「楽器」を選ぶことの難しさなどについて。過去にも何度か取り上げたテーマですが、ヴァイオリン愛好者の数だけ「楽器」としてヴァイオリンが存在します。そしてその楽器を選ぶまでの物語も、楽器の数だけ生まれます。

 現在、私が営むメリーミュージックは「楽器店」であり「音楽教室」でもあり「音楽事務所」でもあります。有限会社メリーミュージックが正式な名称です。
 この会社を始める以前は、学校の教員として部活でオーケストラを楽しむ生徒たちが使用するヴァイオリンを本数にして約200丁以上、選定してきました。当然のことですが教員時代は、学校取引業者である楽器店が生徒の家庭へ販売するだけで、私は選定するだけで「一線も」金銭を受け取っていません。受け取ればそれは「裏金」ですから。

 さて話を現在に戻します。ヴァイオリンを購入する人のほとんどは、楽器店で楽器を色々と見たり演奏してみたりして「購入できる金額」で「一番気に入った楽器」を選びます。例外的に知り合いなどからもらったり、買い取ったりすることもあります。
 「金額」については、人それぞれです。
ヴァイオリンをこれから始めようとする人でも「最初のヴァイオリン」にいくら?支払えるかは千差万別です。
 ヴァイオリンの価格には定価がないのが普通です。ピアノや管楽器と大きく違う点です。なぜ?定価がないのかと言えば、二つの理由があります。
1.製作者が生きている場合には、製作者との「最初の取引価格」が交渉で決まります。当然、変動します。決まった金額はありません。
2.製作者がなくなっている場合(古い楽器)の場合には「市場価格」つまり実際に販売された金額が相場になり、常に変動します。
 大量生産ができるヴァイオリンのヴぁ愛には定価がある場合もあります。大きな工房や工場などで、分業制・機械化などで量産するヴァイオリンの場合には「メーカー希望価格」があります。とは言え、それらの楽器でも個性が大きく違い、同じ楽器は2本存在しません。「同じ型番・同じ金額」でも個体差が非常に大きいのが実状です。

「自分の好み」で楽器を選ぶのですが「見た目」も大事な要素です。それ以上に「楽器の音色・音量・重さ・大きさ」の好みが優先します。その違いを購入する本人が実際に手に持って、音を出して選ぶことがまず何よりも大切です。その意味で「通販」で購入することは絶対にありえないことです。実際に見て、触って、弾いてから決めなければ後で後悔することになります。
 自分で演奏する「技術」の中でしか楽器は弾けません。違う人…自分より技術の高い人が演奏したときにどんな?音が出るのかを知ってから決めるべきです。

「価格」「楽器の音」を考えた時、複雑な問題があります。
ヴァイオリンの指導者が生徒さんに楽器を「斡旋」する場合を考えます。指導者が通常のモラルを持った人間であれば、生徒さんが楽器を購入することと、レッスンをすることを分離して考えます。生徒さんが「御礼」をすることは悪い事だとも思いませんが、それも常識の範囲でのことです。
情けないことですが、楽器店かrあの「斡旋料=リベート」を求める指導者も存在するようです。楽器店にすれば当然、その金額を楽器の代金に「上乗せ」しなければ利益が減ってしまいます。購入する生徒さんはそのことを知らされていない場合がほとんどです。
考え方を変えれば「製作者」と「中間業者」と「販売業者」がそれぞれに利益を出すのは、資本主義の世界では当たり前のことです。指導者が「販売者=小売業者」なら、その原理は当てはまります。しかし指導者が「指導の対価」以外に利益を得る場合、それがどんな性格の収入になるのか?が大きな問題です。音楽の学校で教えている立場の指導者が「リベート」を受け取るのは、多くの場合に学校との契約や、社会的な問題となります。個人のヴァイオリン指導者の場合には、収入の科目を明確にして税務署に申告する義務があります。だからと言って、正との立場で先生の税務申告まで調べる人はいませんよね(笑)

 楽器を「販売」することを楽器店として行い、選定をヴァイオリニスト、指導者、楽器店の人間として行う事で「ガラス張り」にしたのが私のメリーミュージックです。
 小さな楽器店で在庫を持つことはしません。生徒さんの要望があってから、初めて選定対象の楽器を色々な業者から「借りて」選定します。生徒さんにも演奏してもらい、私もピアノと一緒に演奏して生徒さんに聞いてもらいます。その上で「妥当な金額」「支払いできる金額」の楽器なら購入してもらのです。
 購入する人が納得できる「選定」と「購入」を考えるのも自分が素晴らしい楽器に巡り合えたからです。
 楽器との出会いは、人との出会いとよく似ています。ただ、楽器は自分を自分で紹介できないのです。だからこそ、紹介してくれる「仲人」が必要になるのです。私はそんな仲人になりたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・楽器店経営者 野村謙介

ヴァイオリンのススメ

 動画はメリーミュージックに幼稚園の頃から通い続ける生徒さんへのインタビュー動画です。以前にも紹介しましたが、今年の3月からは東京大学大学院に進み、研究を続けるとのこと。素晴らしいですね。
 この生徒さんが初めて教室でレッスンを受けたころ、まさか!将来がこんな状況になるとは想像もしませんでした。
 インタビューの中でも彼が話していますが「ヴァイオリンを習い始めたことが」が今の状態につながっていることがわかります。
 ヴァイオリンを練習することと、学業(いわゆる勉強)とのか関連について、多くの人が文章や動画にしていますが、実際に「ヴァイオリンと勉強の両立」をする生徒さんの実話は、説得力が利害ます。

「勉強ができるような子供だから楽器も上手に弾ける」という話は、半分当たって半分は間違っています。勉強が出来ても音楽に興味のない子供もたくさんいます。楽器の演奏技術はずば抜けていても、学校の勉強はきらい!という人もも当然たくさんいます。
 中学・高校で音楽の教員をしていた時代にも、楽器の演奏と拓行を両立していた生徒をたくさん受け持ちました。学年の成績上位者のほぼ全員が、部活動でオーケストラ演奏していたことも事実です。もちろん、オーケストラに打ち込む生徒の中には「勉強嫌い」という生徒も多くいました。

 3才4歳の幼児期から「ヴァイオリンを毎日練習する」という習慣を身に着けることは、意外かもしれませんが「誰にでもできる」ことなのです。
 子供の才能?違います。「親子との共同作業」なのです。家庭環境の寄っては、子供が自宅でヴァイオリンの練習をする時間を、家で一緒に過ごせない場合も珍しくありません。幼児の毎日の練習は「短時間」で良いのです。
それが15分でも20分でも「毎日欠かさず練習する」だけです。
親が子供の「成績」を気にしだすのは、いつごろでしょうか?
恐らく小学校高学年、もしくは中学校になってからではないでしょうか?
 学校の授業は「学校にいる時間に学べる範囲」であることが原則です。ヴァイオリンは?自宅で練習することが上達の前提であり、レッスンだけで上達することはありません。つまり「自学」する習慣を幼いときから身についけるためにも、ヴァイオリンの練習は大いに役立ちます。
難関校を受験する子どもたちは、学校で習う内容以上のことを塾で学びますが、むしろ「自学の仕方」と「必要性」を体感することが塾の目的です。学習する「方法」と「意義」を子ども自身が理解すれば、意欲も向上します。

 私は高校から音楽学校に通った人間です。普通高校に通う人と違い、楽器の練習をする時間に一日、1年の殆どの時間を使います。数学や物理、英語などのの授業もありましたが「単位が取れればOK」でしたので、自宅で教科書を開いた記憶は一日もありません(笑)が、楽譜を見なかった日は一日もありませんでした。
 勉強もヴァイオリンも「自分の意志で学ぶ」ことしか向上しません。幼いときからその経験を積んだ人にとて「覚える」「考える」「再現する」ことは日常のことになります。それらが学業や仕事にも大きく関わります。
「趣味だから上達しなくていい」と言う考え方は、初めから上達することを目指していないことになります。
 楽器演奏の上達には「頭と身体」そして「内容と時間」が絶対に必要です。勉強も仕事も同じことが言えます。「東大を目指す!」と言いながら一日中ゲームをしていて叶うはずがありません。ただ机に向かっていても中身がなければ無駄な時間です。
ヴァイオリンを習う事で、学習の補法を体で覚えることができます。大人も子供も「学ぶこと」が生きる上で一番大切なはずです。
 ヴァイオリンを習ってみませんか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

40年経って変わること・変わらないこと

 ヴィタリ作曲「シャコンヌ」です。上の動画は今年1月に演奏したもの。下の動画は40年前の演奏。

 使っているがヴァイオリンは同じです。ヴァイオリンを弾いている人間も同じです。
 ピアニストと解錠は違います。
共通して「不安定」です(涙)
音楽から感じているものは変わっていないようです。テンポや音量、歌い方は微妙に違いますが「やろうとしていること」は変わっていません。
 40年経っても「好み」は同じだという事かも知れません。もっと技術的に成長していてほしかった(笑)
 音楽を「感じる」感覚は人によって違いますが、時が経っても変化しないことを実感しました。
 ただ演奏を聴いてくれる人にとって、この二つの演奏の「違い」は明らかにあるはずです。より「好き」な演奏もあると思います。
 自分の技術が足りないと感じることがあっても「感じること」だけには誇りを持つべきですね。
 あなたはどちらの演奏がお好きですか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介