「仕事」を音楽的に考える 

 映像は「悲しみのクラウン」2台のカメラで撮影した映像を動画編集ソフトを使って編集したものです。音声も音声加工ソフトで音色や残響を編集しています。
 さて今回のテーマは社会人として生活する人の「仕事」を音楽を演奏する作業・日常に置き換えて考えるものです。
 どんな業種であれ「仕事」は誰かのために働くことです。
対価をお金でもらう場合も、そうでない場合…例えば家事全般を日常的にこなす人にとって、家事は立派な仕事です。
 それらの仕事を行う私たちは、その仕事が好きな場合・理想に近い場合もあれば「苦手な内容」だったり「我慢して」仕事をする場合もあります。
人によって価値観も違います。体力も能力も違います。その人にあった仕事が出来ない場合も珍しくないのが現実なのです。
 私自身の場合、音楽大学で教員免許を取得し卒業後に20年、私立中学校・高等学校で「音楽の先生」として働きました。当初2~3年で辞めて演奏活動を始めるつもりでしたが「生活のため」にやめるにやめられなくなっていました。
 そんな20年間で多くの事を学べました。特に「組織の中で働く」意味を知り、さらに「仕事のスキル」がどれほど重要なものかを学びました。
 組織で働く…これは「家族」という単位であっても大企業であっても基本は同じです。自分一人だけで仕事をする場合との違いです。一緒に働いたり生活した生活宇する「他人」との共同作業が不可欠です。自分だけの価値観や好みより「集団」で求められる価値観と目的を優先させなければ社会人として生活できません。自分の得意なことであれ苦手なことであれ、組織が求める仕事をするのが組織人としての最低限の仕事です。
 スキルの重要性。これは組織であれ個人であれ、仕事をする人にとって欠かすことのできないことです。如何に仕事を正確に、円滑に、能率的に行うか?それがスキルです。この「正確性」「適応性」「能率性」のどれかが下がれば結果としてスキルは下がります。自己評価だけが許されるのは「趣味の世界」です。仕事として何かをする場合、自己評価だけで「仕事をした」とは言えないのが社会のルールです。一緒に仕事をする人に対しても、あるいは取引先・納品先・対面するお客様が納得できるスキルがなければ「仕事をした」とは言えません。

 これらの「仕事」を音楽を演奏するための「練習・本番」に置き換えてみます。演奏は「趣味」であっても「プロ」であっても同じです。
 上記の「組織」「スキル」という点で考えた場合、組織は「アンサンブル」に当てはまります。「スキル」は個人の演奏技術・能力です。
誰かと一緒に音楽を演奏することは、ピアノ以外の楽器を演奏する場合には「当たり前」の事です。ピアノと一緒に演奏する。何人かで演奏する。一人で音楽が完成するピアノが特殊な楽器だと言えます。相手に「会わせる」事は単に演奏技術だけでは事足りません。思いやりや優しさ、寛容性。言ってみれば「人間性」が重要になります。
 ピアノ一台で演奏したとしても、演奏会でスタッフやお客様への「配慮」がない人は、演奏する資格を問われます。
 演奏のスキルアップ。これは「練習」に尽きます。仕事で考えればひとつの業務が「完了」するまでのすべての作業が練習に当てはまります。
 演奏の練習は楽譜を読むことから始まり、少しずつ・一歩ずつ、自分の目指す音楽を演奏できるように時間をかけて作り上げることです。
 妥協すれば、どこまでもスキルは下がります。逆に求める気持ちがあれば、スキルは無限に上がるものです。自己評価と「聴いてくれる人の評価」が近づくことを目標にすることが練習の「成果」を確かめる方法です。
 自分で「うまくいった」「失敗した」と評価する面と、聴いてくれた人が感じた内容を並べて「考える」ことが次のスキルアップにつながります。
 仕事でのスキルアップも同じです。仕事の相手が満足してくれているか?自分の仕事に問題はないか?を両立できなければ、スキルアップは望めません。

 音楽大学で真剣に音楽を学んだ学生を、一般企業がこぞって採用するようになってからずいぶん年月が流れました。昔は「音大卒はつぶしがきかない」と言われました。むしろ音大を出て一般企業で働くことが「恥ずかしい」と感じていた時代でもありました。そのプライドが災いし、企業側は「つかえない人材」と決めつけていたのだと思います。
 現実に音大で楽器の練習スキルを身に着けた学生は、一般企業で新しい仕事、業務内容に対しても短期間でスキルアップできる「テクニック」を持っています。それは一般の大学卒業生に比べて、はるかに高いスキルです。
 仕事をしながら楽器を演奏して楽しむ「趣味の演奏家」にとって、仕事は辛いもの・演奏は楽しいもの(笑)になりがちですが、両立させることで「いいとこどり」できるはずです。仕事のスキルと楽器の練習内容は、多くの人の場合「比例」するように思います。練習のうまい人は、どんな仕事でもスキルアップが早い。当然、個人差があります。その人なりの「生き方」があるように、許されるボーダーラインの中であれば、仕事は成立します。音楽も仕事も「楽しみながらこなせる」ことが何よりも重要だと思っています。
 命を懸けて…仕事をするのは間違っています(笑)命あっての仕事ですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

気持ち=意思と身体=運動

 映像は「私を泣かせてください」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは演奏する時に「考えること」と「身体を動かすこと」の両立について考えるものです。
 結論から言えば、意識と無意識を「融合」させることだと考えています。
具体的に言えば、考えて何かをしようとする時、同時に考えなくても何かを出来るようにすることです。
 例えば、車を運転する時に、目で前方やサイドミラー、バックにらー、スピードメーターを見ながら、無意識にハンドルやウインカーを動かし、足てアクセルやブレーキを操作しています。考えているのは「見ているもの」についての情報処理…前方の信号や前の車の動き、歩行者などを見ながら次の行動を「無意識」におこなっています。これが「意識と無意識の融合」です。
 楽器を演奏する場合はどうでしょうか?
楽譜を見て演奏している場合、書かれている情報…音符や休符、弓や指、記号などを「読み取って」無意識に右手や左手を動かしているはずです。
さらに細かく言えば、左手の指番号を考えている時にでも右手の弓を動かす運動は「同時に」行われています。この場合の右手は無意識に動いています。
 人間は同時に二つの事に「集中」することは出来ません。
聖徳太子のように何人もの話を一度に理解する場合、実は頭の中では一人ずつの「声と言葉」を分離して、個別に記憶しています。そんなバカな!と思われますが、音楽の専門技術の中に「和声聴音」があります。同時にいくつも演奏される「音=和音」を楽譜に書きとるものです。これがまさに「聖徳太子」なのです。同時になっていても「いくつ鳴ったか」「なんの音だったか」「何分音符だったか」を聴きながら頭の中で処理=記憶していきます。訓練すれば誰にでも身に着けられる技術です。
 この場合は音に「意識」を集中させています。楽譜を書くと言う行動は無意識に近いものです。
 もっと身近なことで言えば「音読」がまさにそうです。
目では文字を読みながら、声では「読んで記憶したものを思い出しながら」さらに「目では先を読んでいる」ことの繰り返しが音読です。この場合、声に出していることが「主目的」なのですが、実際の脳は「読む」事に使われています。
 演奏しながら「何かを考える」のは当たり前のことです。
その時、考えていないことも「同時に無意識に」運動していることを忘れてはいけません。一つの事を考えている「だけ」のつもりでも、無意識にほかの事をしているのです。それができるのは「慣れ」以外にないのです。
 歩く時に両手・両足を動かすのも「慣れ=学習」の成果です。息をする・心臓を動かす・食べたものを消化する…これらは「本能」です。
 何も考えずに演奏することができたとしても、音楽を「創る」ためには考える力が絶対に必要です。自分の意志で音楽を創造することが、もっとも大切な「技術」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を変える技術

 映像はサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」10年前の演奏です。
ヴァイオリンを演奏する…一言で演奏と言っても、楽譜に書いてある音符を音にするという意味もあれば、演奏者が楽器を使って「イメージを表現する」ことでもあります。
 ヴァイオリンは弓の毛で弦を擦って音を出すことが通常の演奏です。
音の高さは弦の太さ・張りの強さ・弦の長さで変わります。
音のと良さは、弦の振動の幅と筐体=ボディーの反響と残響で決まります。
音色は?どうやって変えるのでしょうか?
前提として「現状の楽器」で音色を変えることにします。
弦を張り替えたり、弓の毛や松脂を変えたり、楽器の調整をすれば音色は近Pんから変わります。それらに手を加えず「技術」だけで音色を変えることが、ヴァイオリン演奏の楽しみだと思っています。

 簡単に言ってしまえば「右手と左手」の技術の組み合わせです。
★右手…弓を扱う右手の使い方。弓を弦に押し付ける力のコントロール・弓の傾け方=弦にあたる弓の毛の量・弦に弓を当てる駒からの距離と力の方向・弓の場所による毛の張りの強弱の活用・前述の技術の組み合わせ
★左手…弦を押さえる指の場所・抑える力の強さ・ヴィブラートを始めるタイミング・ヴィブラートの深さ・ヴィブラートの深さ・これらの組み合わせ
★右手と左手の組み合わせ…上記の技術を組み合わせて音色の変化を作る

 厳密にはもっと細かい「技術」がありますが、おおざっぱに言っても上記のような「音色を変える技術」があるわけです。
 楽譜で支持されている弦の指定、音量の指示はあくまでも「指示を書き込んだ人の意図」であり必ずしも作曲家の意図=指定とは限りません。出版社によって指示が違うのは日常茶飯事です。
 自分で音色を変える楽しさを「発見」することがヴァイオリンの演奏の醍醐味だと思っています。
 ぜひ!楽譜に書かれていない音色の世界を楽しんでみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の弾きこなす意味

 映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏したものです。陳昌鉉さんのヴィオラ、私にはとても魅力的に感じています。
 今回のテーマは前回のブログに引き続くものです。
演奏者が楽器の個性を引き出すこと。違う言い方をすれば、楽器の弾きこなすことでもあります。先日、会社で税理士さんと「なぜ?ヴァイオリンだけ特別に高いのか」と言う話題になりました。皆さんはどう?考えますか?
 ピアノの「最高峰」と言われるフルコンサートグランドピアノで約2500万円。
パイプオルガンは建物と一体化していることが多く、単純に楽器だけの金額を評価することは不可能です。
 フルート、トランペット、ティンパニなどなど多くの楽器がある中で、ヴァイオリンだけが「10億円以上」のがっきがあります。はてな?素朴な疑問ですよね。結論は「楽器の性能・ポテンシャルとは無関係に資産取引の対象」なのです。ゴッホやピカの絵画、人間国宝の作った焼き物などが本人の意思や、「物としての価値」ではなく「金儲け=ビジネス」の道具になっています。
 ヴァイオリンは300年以上前に「完成された楽器」とされています。その頃から現在まで、壊れずに=修理を続けながら演奏し続けてきた楽器に「プレミア的な価値」があるのは自然なことです。ただそれは、楽器の音色とは無関係です。

 さて、楽器を弾きこなす技術とは、いったいどんな技術でしょうか。
一般に「うまい」とされる演奏は「正確性」「再現性」が判断の基準です。
 この二つの技術は、楽器がどんなヴァイオリンであっても不変です。
ストラディヴァリならうまく弾ける?魔法か!(笑)初心者にとって「正確に何度でも演奏できる」事は大きな課題になります。どんなに上達したとしても、それはゴールのないものです。単純に「ミスの数」だけで点数化することもできます。フィギアスケートの審査と似ていますね。
 ではうまければ楽器を弾きこなしていると言えるでしょうか?
楽器はすべて、音色も音量も違います。「木材」を主材料にする以上、当たり前の事であり、それはストラディヴァリの楽器であろうと、大量生産のヴァイオリンだろうと「差」があることには変わりありません。
★楽器による個性を知るこための技術
1.演奏方法のバリエーションを持つこと
2.弾き方による音色や音量の小さな違いを聞き取る耳
3他人の意見を聞き入れる心の広さ
★個性を引き出すための技術
1.楽器との対話=自分の技術と楽器の個性を常に客観視する気持ち
2.楽器の変化と自分の聴こえ方の変化を並行的に観察する力
3.自分の好きな音色・音量を維持する根気
4.時間をかけて楽器と対話する「一途な気持ち」
 多くのヴァイオリニストが自分の楽器に不満を持つようです。それは初心者、アマチュアよりも「プロのヴァイオリニスト」に強く表れるようです。
 アマチュアから考えれば「それだけの技術があるからきっとわかるんだろう」と推測します。楽器の違いが判り、自分には物足りないと「買い替える」事がヴァイオリニストのステイタスなのでしょうか?そうしなと満足できるヴァイオリンに巡り合えないのでしょうか?
 楽器を「人間」として考えてみると答えはすぐに分かります。
完璧な人間はいません。自分が「パートナー」として選んだ相手に完璧を求めるでしょうか?パートナーのために自分を完璧にできるでしょうか?
 欠点があり長所があり、変化するのが人間です。長く付き合えばさらにその変化は大きくなります。相手の変化、自分の短所をお互いに「受け入れながら」いるのが人間同士のパートナーですよね?どちらかが、我慢できなくなれば「コンビ解消」(笑)になるのは仕方ないと思います。一方だけが我慢することはお互いのためになりません。
 楽器は自分で変わることは出来ません。演奏する人が「変える」事はできます。人間に例えるなら「言葉を話せない乳児(あかちゃん)」にも似ています。
親の思う通りにならないのがあかちゃんです。それでも「愛情」があるから受け入れられる。
ヴァイオリンを「買い替える」ことは「道具なんだから」と思えばできることです。それを「自分の子供」だと考えたら「気に入らないから買い替える」って…出来ないと思います。自分が育てる。自分も成長する。それが楽器を育て、自分を成長させることだと思います。
 赤ちゃんが、言葉にならない意思表示をするとき、親は子供のすべてを観察して「もしかして?」と子供の意思を探りますよね。ヴァイオリンにそれをしているでしょうか?
 楽器の個性は人間の個性と同じだと思います。相手によって変わるものです。
人間はヴァイオリンを選べます。ヴァイオリンは演奏者を選べません。
 どんな楽器だろうと、その個性を最大限に引き出すために何年かかろうと、一生かかろうと私は厭いません。私にとって今のヴァイオリンとヴィオラは「大切な家族」なのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦楽器の価値は楽器で決まるのか?演奏者で決まるのか?

 映像は陳昌鉉さんが2010年に作られたヴィオラで演奏した赤とんぼです。

 上の画像はそのヴィオラの写真とラベルです。一般に新作の楽器はオールド(製作から100年以上経過した楽器)より「価値が低い」とされているのが弦楽器の不思議な「定説」ですが、私はこの固定観念は間違っていると確信しています。
 誤解のないように言葉を足せば「古い楽器が新しい楽器より価値があるとは限らない」と言うことです。
「ストラディヴァリはどうだ!」「グヮルネリは?」「アマティはどうだ」
必ず食いつく人がいますが(笑)「名作」と言われている楽器を、初心者が演奏して良い音が出ると思いますか?「プロが弾かなければ価値がわからないんだ!」と仰る方が、プロの演奏するストラディヴァリの作った楽器と新作のヴァイオリンを聴き比べて「当たる確率」は50パーセントと言う世界的なデータを否定できるでしょうか?「聴く人の耳が悪いだけだ!」いいえ。それも違います。
プロのヴァイオリニスト、ヴァイオリンの製作者が聴いても結果は同じです。50パーセントの確率です。つまり?
 演奏する人の技術の差の方が、楽器の違いよりも大きい
事は紛れまない事実です。演奏する技術が足りなければ、どんな楽器を演奏しても「それなり」の音しか出せません。言い換えれば、その人が安い楽器を演奏しようが高い楽器を演奏しようが「大差はない」のです。
 楽器を買えれば音色も音量も変わります。それは事実です。
演奏技術が高いほど、楽器の個性を見つけられ、固有の音色を引き出せます。
楽器固有の音と演奏者の「相性」がすべてです。要するに好みの音を持っている楽器に根巡り合うことが、演奏者の喜びであり「運命」なのです。
 高い楽器を手に出来ないから、演奏技術が低い。
論理的に間違っていますよね。
 高い技術があれば、どんな楽器でも良い音が出せる。
これ、間違っていませんよね?
つまり、演奏技術を高めることが楽器の価値をあげることになるのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器を「オールドには劣る」と決めつける人を見かけます。自分の好みではない音…だと言われれば否定は出来ませんが、それは「好み」の問題であり客観的な基準・事実ではありません。
「日本で一番おいしいラーメン屋さん」
ありえないですよね(笑)それと同じことです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「音楽を演奏する」という目的を見失わない!

 映像はチャイコフスキー作曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 さて今回のテーマは楽器の練習をする人…楽器に限りませんが(笑)、自分が何を目的に?楽器を練習しているのかと言う「目的」を再確認するテーマです。
「楽器を弾くのが好きだから」だけで十分!と言われればそれまで(笑)
多くの演奏家が様々な「壁」にぶつかります。自分の技術や知識の少なさに心が折れることもあります。もうやめよう…無理だ…向いていない…才能がない…
私だけではないようで、生徒さんたちも同じように「挫折」するのが当たり前のようです。
 多くの人は先述のように「楽器を弾くのが面白い・面白そう」と思っていた時期があるはずです。ところがいつの間にか「うまく弾けないからつまらない」と言う気持ちが自分のやる気を焼失させます。それでも楽器を弾くことが好き!と言う人は少数のようです。
 楽器を「上手に弾こう!・弾きたい!」と思う気持ちは大切です。間違えずに、正確に何度でも思ったように演奏で着たら「さぞかし!」気持ちいでしょうね(笑)それが「目的」になってしまうと「出来ないからつまらない」になるのでは?つまり「音楽を演奏したい」と言う目的意識を忘れないことが何よりも大切だと考えるのです。
楽器を演奏することと音楽を演奏することは、明確に違います。
音楽を「上手に」演奏することは不可能ですし、日本語としても不可解です。
楽器を「上手に」演奏できるか「へたくそ」かの「違い」は確かにあります。
速く・正確に・何度でも演奏できれば「上手」で、それが出来ないと「へたくそ」に近づきます。
 へたくそでも音楽は演奏できますし、楽しむこともできます。
「それじゃ自己満足じゃん!」他人の技術について「偉そうに」語る人に限って、自分の演奏にケチを付けられると火が付いたように怒り狂います(笑)それこそが「自己満足」だと本人が気付いていないだけです。
 他人の技術についてどう思おうと、それは人の自由ですが、自分の中だけに収める問題です。他人に公言することではないはずです。
 技術を点数化することが大好きな人もいます。優劣を競うことが好きな人もいます。それも自分の中だけで楽しむべきです。他人の技術に序列をつけられるほどの技術があるなら、自分がその中で一番にならなければ無意味ですよね?(笑)できもしないことに「あの人は下手だ」と言える自信は、いったいどこから生まれるのやら理解ができません(笑)
 自分の音楽に誇りを持ちましょう。誰からも批判されるものではありません。
自分だけの音楽を演奏することが、楽器を演奏する楽しさのはずです。
じょうずに演奏するより、自分だけの音楽を楽しんでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロだとかアマチュアだとか、どうでもいいでしょ(笑)

 映像はポーランドの初代大統領でもあったピアニスト・作曲家の「パデレフスキー」作曲のメロディー。オリジナルはピアノ曲ですがヴァイオリンとピアノで演奏できる楽譜があります。
 さて、今回のテーマは「プロ」「アマチュア」という「区別」について。
以前にも書いたことですが、この千匹にいったいどれほどの?意味があるのでしょうか。
 「プロなら●●」「プロなのに××」「アマチュアだから★★」「アマチュアの割に△△」という枕詞。単なる先入観と固定観念で話しているとしか感じません。そもそも誰が?どんな基準でプロとアマの「基準」を作れるのでしょうか?
「職業音楽家」がプロだと言う定義を使う場合でも、演奏だけで生活できない・生活していない演奏家は「プロ」ですか?「アマチュア」ですか?
「趣味で演奏する人がアマチュア」だと言う定義の場合にも疑問があります。先述の通り「金銭目当てではなく趣味で」演奏する人はすべてアマチュア?あれれ?
最悪な線引きは「うまければプロ」「うまくなければアマチュア」これ小学生でも間違っていることがわかるレベルですよね。技術の違いだけで区別されるものでもありません。
 結論を言えば、日本語で言われる「プロ・アマチュア」の違いに明確な定義がないと言うことです。職業として「音楽家」でも決まった組織(法人)で給与を受け取れば「会社員」ですから明確な「音楽家」と言う職業さえ存在しないことにもなります。「音楽家」「演奏家」が「プロ」でも「アマチュア」でも
呼び方はど~でも良いと思うのです。
 誰がなんと言おうが、自分が音楽を演奏することが好きなら加賀滝や呼称にこだわる必要はありません。プライドのために「プロ」と言いたい人はそれで良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト…なのか?(笑) 野村謙介

高級レストランやレトルトもいいけど家庭の味が好き

 映像はアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したもの。撮影と録音「コンデジ」(笑)場所駅前教室
 さて、今回のテーマも音楽を「食事」に例えたお話。
家庭の味…おふくろの味とも呼ばれます。それぞれの人に「懐かしい味」があります。家庭でなくても昔の記憶が蘇る「味」「香り」「料理」があるものです。
 私の場合…母の作ってくれた料理が「家庭の味」でした。
・作る時によって違う色のコロッケ(笑)
・最後に焼かずに食卓に出るマカロニグラタン(笑)
・水炊きと言う名の鍋
・まったく辛くないカレー
・バナナケーキ(これはいつも美味しかった!)
・お腹を壊すと食べさせられた南瓜(かぼちゃ)←明らかに逆効果
・鶏肉ご飯と言う名の炊き込みごはん
・コロッケに小麦粉・卵を付ける「前」の具を玉子でくるんだ謎のコロッケ
・あまったマカロニグラタンをケチャップで炒めた「あれ」
思い出してもきりがないほど(笑)
 高級フランス料理店や高級すし店、高級←やたらこだわる(笑)中華料理店には縁のない生活で育ち今でも(笑)
 音楽にも「コース料理」に似たものもあれば「家庭料理」に似たものもあります。ジャンルとは無関係に「音楽を聴く楽しみ方」の問題です。
 形式を重んじるコンサートもあります。ポピュラーのライブでも初めて行くと周りに圧倒される「決まり事」があったりして(笑)
 いつ、だれが聴いても「懐かしい」と感じたり「癒される」と感じるコンサートが私の理想です。聴いたことのない音楽を知らない人が演奏していても「おいしい」と感じる演奏。
 おいしいチャーハンを作りたい!のです。
一見「ただのチャーハン」でも食べ終わって「また食べたい」と感じる「あれ」です。もちろん「非日常」を求めてコンサートに行く方もおられます。
「格式を楽しみたい」方もおられます。それを演奏する人も。
 私は「見栄えより雰囲気」を楽しんでもらいたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介