理想の演奏とは?

https://youtube.com/watch?v=YsbrRAgv1b4

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフの演奏するシベリウス作曲ヴァイオリンコンチェルト。
 今回のテーマは人それぞれに違う「理想」を考えるものなので、正解を探すものではありません。考え方を変えれば「理想の演奏は存在しない」とも言えます。常に自分にとって「理想」が同じものだとは限りません。それは演奏に限ったことでもありません。生き方だって、時によって理想は変わるものです。
 「理想と現実」と言う言葉も良く使われます。この言葉を使うとき、多くは「できないと感じた時」に使われます。自分の思った通りに事が進まない時、たとえばテストで100点を取りたくて毎日毎日勉強したのに…それが90点だったとしても「理想は100点」で「現実は90点」だったことになります。
 テストの点数のように、目標が客観的で達成できたか?出来なかったかを判断できる場合もありますが、目標=理想がイメージだったり抽象的な場合には、達成できたかどうかを判断することは困難です。基準=ボーダーラインが明確でない目標は、達成できたと言う感動も薄いものです。

 自分にとって理想の演奏と出会えることは、とても幸せな事でもあります。
ヴァイオリンの演奏に絞って考えた時、世界中に多くのヴァイオリニストが過去にも現在にも存在します。これからも新しいヴァイオリニストが誕生し続けます。その中のひとりに自分がいます。アマチュアでもプロでも「ヴァイオリンを演奏する人」であることに何も変わりはありません。
 自分が知る限りのヴァイオリン演奏者の「演奏」を、すべて生で聴くことは現実的に不可能です。昔ならレコードやFMラジオで聴く。現代ならCDや動画、配信で音楽を「見たり聞いたり」できますが、生の演奏を聴くことができない演奏も当然あります。自分の「理想」とする演奏を言語化すると、どうなるのでしょうか?

 一言で「じょうずな演奏」とまとめてしまうのは簡単ですが(笑)、どんなことが「じょうず」なのかが問題ですよね。少なくとも、自分よりじょうずだと思える演奏に限られます。つまり自分のできないことが「できている」演奏がじょうずに思えることになります。
・正確に演奏できる
・速く演奏できる
これ以外は「じょうず」と言うよりも「好き」と言う概念に含まれます。
たとえば…
・綺麗(と感じる)音が出せる
・強弱の変化、テンポの設定が「好き」
・演奏する姿が美しい(と感じる)
などなど。あくまでも主観的な好みの問題です。
 自分に足りない技術が「現実」にあり、出来るようになりたいと思う演奏が「理想」だと言えます。当たり前ですね(笑)だとすれば、練習して「できるようになる」事は、常に理想を現実にしようと努力していることになります。
 つまり、自分の演奏に足りないことを探し続けることが、理想の演奏に近づくために絶対に必要なことだと言えます。

 演奏しない人の「理想」と、同じ楽器を演奏する人が感じる「理想」は根本的に違います。
 演奏しない人にとって、何が難しいのか?さえ知らないのですから、ただ単に「好み」を基準にしているだけの理想です。それはそれで良いのです。
 難しさを知っている分野の「理想」があります。その分野が演奏でもスポーツでも、物造りでも同じことが言えます。知らない人が簡単そうに思うことが、実は難しい…良くありますよね?ヴァイオリンを演奏したことのある人が体感する「難しさ」があります。自分の知らない難しさも当然あります。その難しさを見つけることが上達に直結します。「簡単だ」「できた」と思った時点で成長は止まります。「上には上がある」のです。それが現実なのです。

 自分の演奏に自分で満足できない…いたって当たり前のことです。
だからこそ、自分よりじょうずと思う人の演奏に「理想」を重ねるのです。
自分の演奏と、じょうずな人の演奏の「違い」を具体的に見つけることができなければ、理想に近づくことは出来ません。先述の通り、自分に足りない技術を見つけるのはとても難しいことです。ただ「うまくひけない」と悩むだけでは解決しません。自分が気付かない無意識の癖を探し、思い込みで正しいと思っていることを意図的に変える試みをしながら、意識していなかったことを意識する…
 自分にとって「理想の演奏」は自分にしか実現できません。
常に現実を見つめながら「改善」を繰り返すことが、理想への道なのかな?と思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指揮者って?

 映像は2010年8月のメリーオーケストラ第18回定期演奏会での「モーツァルト ピアノコンチェルト」を浩子さんのソロで演奏したときの「レア」な映像です。

 メリーオーケストラで現在「指揮者」を務めておりますが、わたくし「専門」はヴァイオリンとヴィオラの演奏でございます。そんな私ごときが「指揮」をできるのか?と言う自問自答?根本的な疑問?について考えながら、私の考える「指揮者とは」と言うお話です。

 「指揮者ってなにをする人?」と言うお話から。
様々な見方、考え方があると思います。指揮を専門にお仕事をされているかたにとっての考え方も色々だと思います。
 子供たちが小学校や中学校で、合唱や合奏の「指揮」をする光景は珍しいものではありません。ブログを読まれている方の中にも「指揮経験者」がおられると思います。中学校・高等学校での教員経験も踏まえて「指揮って?」を考えてみます。

 「指揮者体験コーナー」はメリーオーケストラ定期演奏会の定番でした。コロナでここ数年、実施していませんが。オーケストラを指揮することは、音楽の指揮の中で色々な楽器、たくさんの演奏者を「指揮」するという意味で最も難しい一面があります。合唱の指揮が簡単だとは思いません。吹奏楽の指揮や少人数オーケストラの指揮も違った難しさがあります。
 いずれにしても「音楽」の世界で考える指揮と、「指揮官」で連想される軍隊や集団競技で使われる指揮と、共通していることがあります。
 「集団をまとめる役割」「集団でひとつの目的を達成するための司令塔」
戦いで言えば「軍司」「策士」と呼ばれる、作戦や戦術を考える役割でもあります。
 演奏者を「まとめ」音楽を「まとめ」るための計画を立て、実践するのが指揮者だと思います。野球で例えるなら「コーチ」と「監督」を兼任する「プレーヤー」に似ています。
 演奏するひとたちが「プロ」の場合と「アマチュア」の場合で、指揮者の果たす役割が大きく違います。プロの演奏者を指揮する場合、演奏者の「技量」についての指示をすることは、演奏者のプライドを傷つける場合もあり喜ばれませんし、必要もありません。一方で、学生やアマチュア演奏者を指揮する場合には、演奏技術を伸ばしながら音楽を作る「指導」が必要です。
 アマチュア演奏者に足りない技術を具体的に指摘し、解決方法と練習方法を示すことができなければ、指揮者の注文はただの「絵に描いた餅」にすぎません。
 どう演奏すれば、どんな音・音楽になるのかを説明する能力です。
つまり「アマチュア演奏者の指揮をアマチュア指揮者が指導できるか?」ということです。「それこそ!アマチュア精神だ」と考えるのはあまりに浅はかです。
 その昔、高校オーケストラの全国規模イベントに参加した際、当時の文部省の「おえらいさん」がリハーサルを終えた夜のレセプションで挨拶されました。
「演奏が子供たちなら、指揮も子供がしたほうが良い」との仰せでした(笑)
 聴こえるかもしれない声で「だったら授業も生徒がやれば?」と独り言を言ったのは。私です(笑)音楽を知らない、指揮者の役割を知らない人にとって、ただ腕を動かして「踊っている」のが指揮者に思えるのでしょう。さすが!文部省!

 私はヴァイオリン・ヴィオラと言う楽器しか演奏できません。
チェロもコントラバスも、フルートも…数あるオーケストラの楽器の中で、演奏できるのはたった2種類。その他の楽器の中には、音も出せない楽器があります。それでもアマチュアオーケストラの「指揮・指導」ができるのか?
 演奏できなくても「上達のための正しい演奏方法」は学びました。
本で読むのではなく、実際にプロの演奏家の指導する言葉、演奏を観察し覚えました。どうすれば?どうなるのか?と言う「引き出し」をたくさん作ることが指揮者の仕事です。アマチュアの演奏技術は、個人差がプロの比較にならないほど大きいのです。練習できる環境も違います。そのひとりひとりのプレーヤー「できること」を教えなければ、いつまでたっても上達しません。
 20年間、ゼロから始めて150人の大オーケストラを育てた中で、本当に貴重な体験をしました。多くの子供たちと共に学びました。
 指揮法について最後に書きます。
世界中に様々な「指揮法」があります。どれが正しいとは誰も言えません。
演奏者が「わかりやすい指揮」もあれば「引き込まれる指揮」もあり、一方で「どこに点があるのかわからない」指揮や「音楽と無関係な動きで邪魔」な指揮もあります。それでも指揮は指揮です。
 音楽高校、音楽大学時代に数多くの「指揮者」の指揮でオーケストラを学びました。その先生方の多くは「斎藤指揮法」と呼ばれる指揮法で指揮をされていました。中には違う指揮法で振られる指揮者も当時はおられました。
 指揮者は「指揮の技術」で、自分の表現したい音楽を演奏者に伝えるもの?でしょうか。どんなに優れた指揮の技術を持っていたとしても、その「指揮法」を演奏者全員がすぐに理解できるとは思えません。人によって違うのが指揮法です。指揮者によって違う「音を出してほしい点」の出し方が違います。指揮者によって、その点と音がずれたことを許容する人と全く許容しない人がいます。
演奏者が指揮者の「個性」を知り、演奏者に「指揮者の意思を伝える」のが練習であり「信頼関係の構築」です。
 カリスマ性の高い人が指揮者に向言えていると言われます。演奏者に対して「低姿勢」な指揮者は演奏者に「なめられる」とも言います。私も若いころ、そう思っていました。事実、子供たちを指揮する時に「お山の大将」になりきることを第一に優先していました。それは必要なことでもありました。特に大人に対して反抗的な年齢の思春期世代を相手に「指揮」をするという事は、大人相手とは違った「動物的な上下関係」も必要でした。
 もっと小さな子供や、自分より年上のアマチュア、音大生、プロの前で指揮をするようになってから「笑顔で練習できる」指揮者になりました。たまに切れますが(笑)以前のような「威圧」は出来ないし、不要になりました。

 どんなオーケストラであっても、演奏者がひとつの音楽を奏でることに変わりありません。アンサンブルと同じです。ふたりで演奏するのなら「相手」を相互に理解するだけです。それが80人になれば、お互いを完全に理解することは理論的に不可能です。「誰か」の考えにみんなが合わせるしか方法はありません。ある意味では「独裁的」でもありますが、人間関係がなければだれも演奏しませんから「独裁者」は指揮者になれません(笑)オーケストラと指揮者の理想的な関係は「対等」であるべきです。人数比率で言えば「指揮者:オーケストラプレーヤー=1:80~100」です。指揮者はプレーヤーの一人一人を「理解」する努力をし、演奏者は指揮者をより深く理解しようとする努力をするべきです。
 指揮者は演奏者のために指揮をします。演奏者は?聴衆のために指揮者に合わせます。それが「対等」な関係を生み出すための「関係性」だと思っています。
 私は、指揮者の名前をつけたオーケストラが嫌いです。それを提案した人の「思い」があったとしても、受け入れて指揮をする指揮者には寒気がします。そこまで?崇め立てられたいのかな…と思います。断れば済むのに。
 最後にネガティブな内容で申し訳ありませんでした。
お読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家と言う職業

 映像はデュオリサイタル3で演奏した、パデレフスキ作曲の「メロディー」
今回のテーマは演奏家が「職業」つまり演奏することで生計を立てることについて、過去現在と将来について考えるものです。

 まず「演奏家」と言う職種について考えます。
楽器を演奏し、その演奏を聴く人が対価としてお金を支払い、演奏家が演奏料=ギャランティを受け取ります。その際に聴衆が支払ったお金が、丸ごと演奏者のお財布に入ることは、ほとんどの場合ありません。「え?中抜き?」(笑)そんな悪い(黒い)お話ではありません。演奏に係る「経費」があるのです。経費の他に演奏者以外の団体が利益をえることも珍しくありません。音楽事務所と契約した演奏家が、事務所が企画し開催したコンサートで得た「利益」は主催者たる事務所の利益です。その中から演奏者へのギャランティーが「経費」になる場合です。さらに、演奏家自身が主催するコンサートでも会場を借りて、ピアノなどの楽器も借りてコンサートを開く場合には、使用料金をホールに支払わなければなりません。これが経費になります。

 舞台や映画、テレビなどで演技をする「俳優」と言う職業も、演奏家に近い形で生計を立てます。もちろん主役を演ずる人と「脇役」の一人の場合に支払われるギャランティーは、大きく違います。舞台でも映画でも、巨額の経費が掛かります。演奏会よりもはるかに高額です。映画の製作費が「●●億円」なのは珍しくありませんよね。クラシックコンサートの「製作費」は?おそらく高くても「●千万円」、通常は「●百万円」、地方の会場でこじんまりと…なら「●十万円」、すべての企画・宣伝を自分で行い自分で演奏したら「十●万円」かな(笑)それらのお金は、聴衆・観客から総額で、いくら入ってこようが、一円ももらえなくても(涙)支払う義務がとうぜんあります。「終わってから」で済まされるものではありません!←なぜか怒りがこみ上げた(笑)

 プロスポーツ選手の場合には、契約する団体からの給与や契約金、懸賞金、報奨金などで生活する人がほとんどです。自分で試合を企画する「個人」はまずいません。相手が必要ですから(笑)
 サラリーマンと近い形の「給与」で生活する演奏家やスポーツ選手が多い中で、「個人契約」できる一部の演奏家・スポーツ選手もいますがごく一部です。

 演奏家に関して考えると、その昔は「宮廷音楽家」として演奏するか、貴族や富豪の「お抱え楽士」として演奏し生活するしか手段がない時代がありました。
大衆がそれらの演奏を聴くことさえ出来ない時代が長くありました。
大衆は教会で音楽を聴く以外、自ら手近なもので「伴奏」をして歌い、踊るしかなく、それさえ「下劣だ」と制約を受けた時代がありました。
 それでは今後の演奏家は?どうあるべきなのでしょうか?

 音楽を「聴く」文化は、時代・地域によって大きく違います。
現代で考えれば「国民の経済的なゆとり」と「政治の仕組み」がもっとも大きく文化に関わります。国民の平均収入が極端に少ない国や地域で「クラシック音楽」どころではないのは当たり前です。また、頭の弱い政治家が戦争で地位と権力を守ろうとすれば国民が未ミスできるのは「音楽」ではなく「爆発音と悲鳴」だけです。そこには文化は存在できません。
 個人の演奏家がどんなに努力しても「先立つもの」がなければ、コンサートを開くことは出来ません。「事務所に所属すれば?」いいえ。事務所は利益を見込めない演奏家に仕事を与えません。「認めてもらえる実力をつければ?」それも非現実的です。今現在、国内だけで考えても「●●コンクールで優勝」した人が何百人もいます。大げさな数字ではありません。それらの人たちに加え、さらに毎年のように開かれる「●●コンクール」で優勝する人の中に、何人かの日本人が生まれますよね?その人の分、誰かが演奏家をやめるでしょうか?定年はありません。どんどん増える一方です。国内でもっとも有名な「日本音楽コンクール」で毎回!優勝者が誕生しています。開催の「間隔」は楽器によって多少違いますが、ピアノ・ヴァイオリンは毎年開催されています。みんな「優勝経験者」
 事務所にしてみれば、その中でも「お金になる人」と仕事をしたいのは当たり前です。ましてや「●●音楽大学を優秀な成績(笑)で卒業」なんて、なんの肩書にもなりません。言ってしまえば、音楽大学に行って卒業したら「プロの演奏家になれる」ともしも公然と言えば「詐欺」だと言えます。それが現実です。
 これから先、演奏家として生きていきたいのならば…
・お金持ちになる
・コンクールで優勝し続ける
・組織の一員になるために「コネ」を探す
・頭を使う
私なら最後の方法しか(笑)お勧めしません。
 ただ楽器を演奏できるだけで生活できる時代は終わりました。
その人の「能力」が問われる時代です。音楽の知識だけを必要とする「社会」ではないのです。
 聴いた人人が喜んでくれるから、お金を払ってくれる。
配信で音楽を聴くのは「無料」の現代。音楽配信に課金をするメリットはほぼ皆無です。配信では楽しめないことがなければ、演奏会にお金を払ってまで会場に来てくれる人に期待するのは無理です。
 「配信しなければ来てくれる?」それも無理です。配信はいわば「広告塔」です。さらに言えば公平に与えられた「宣伝空間」です。そこに登場することは今後「当たり前」のことでもあります。その中で個性があり、動画で感じられないものを感じたいと思わせる「魅力」が必要です。
 どんな商品でも「魅力」がなければ売れません。演奏家を商品に例えるのは「無礼だ」とお怒りになる方もいますが、俳優であれ演奏家であれ「魅力」がなければ生き残れないのは当然のことです。演奏家が「演奏がうまい」と思ってもらえる「環境」を考える頭が必要です。自分で考えることができない人は、生き残れません。誰かの力で生き残れる時代ではないのです。
 若い演奏家の皆さん。私も含め「老兵」の思いつかないアイデアで音楽の世界を広げてください。それこそが、クラシック音楽の生き残る最後の道です。
パソコンを使えない高齢指導者に習えるのは「音楽」と「人としての生き方」です。生活の仕方、生き残り方は若い人自身が考えてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ターニングポイント

 上の演奏は、私が高校3年生当時に銀座ヤマハホールで行われていた恩師「久保田良作先生」門下生による発表会での録音です。
 卒業試験前の発表会は「試験のリハーサル」でもありました。
演奏している曲は、ハチャトゥリアン作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノを演奏してくれているのは「あの!笑」清水和音君。
 今聞いて思うのは「練習したね~」

 人それぞれに、それまでの自分の生き方や価値観、感じ方が変わる瞬間があります。後から「あの時」と思い返すこともあります。その「ターニングポイント」は一生のうちに何度も訪れるものかもしれません。
 楽器を演奏することが「趣味」だったり「習い事」の時期がありました。きっと今現在がその段階の人がほとんどだと思います。それはそれで、人生のアクセントとして素敵なことです。大切にしてほしいと心から願います。
 本人の「やる気」とは別に親の思いや周囲の人の期待があります。特に子供の場合には本人の意思より、親の気持ちが先行することの方が圧倒的に多いですね。「いやいや練習する」時期を超えた先にあるものは?自発的に練習する「意思・意欲」を持つことです。学ぶ環境によって、大きく変わるのも事実です。
 学校の友達と遊ぶのは、ごく自然なことです。その友達がたとえば「不良」だったら(笑)不良の仲間になることも十分にあり得ます。友達に影響されることも成長過程で必要な体験です。

 私は中学3年生の夏休み頃まで、クラスの友達同様に都立高校を受験するのかな?程度に自分の進路を考えていました。両親は兄への期待と希望に、見事に応えてくれた「兄の進学先」で十分に満足していたのか(笑)私の進学には、ほとんど一言も「期待」を示しませんでしたので、私がそう思っていたのも自然なことだと思います。久保田先生のレッスンで音楽高校の受験を「お試し」程度に勧められたのが、まず大きな「ターニングポイント」でした。それから受験までの期間はひたすら「受験のための」時間でした。
 桐朋女子高等学校音楽科(共学)に入学してからの2年間。私にはただ「場違い」な学校に間違って?来てしまったという思いしかなかった気がします。友達と音楽で「遊ぶ」ことを覚えもしました。年に2回の実技試験もなんとか乗り越えました。自分のヴァイオリンに「自信」のかけらもなく、当然「目標」もありませんでした。一種の「燃え尽き症候群」だったのかもしれません。

 高校2年の終わりに、同門の先輩である小森谷巧(こもりや たくみ)先輩の卒業演奏会で演奏されたハチャトゥリアンに素直に憧れを感じたのを覚えています。ピアノは先輩にとって後輩である(私と同期)清水和音君が演奏していました。自分が高校3年の「卒業試験」を迎えた時期、師匠である久保田先生にハチャトゥリアンに挑戦したいと恐る恐るお伺いを立てました。てっきり「無理だからやめておきなさい」と言われると思いながら。お返事は「やってみなさい。小森谷君に楽譜、写させてもらいなさい」と言う思ってもいなかったお返事を頂きました。
 今現在でも進歩はありませんが(涙)、当時このハチャトゥリアンのような調性が判断しにくく、臨時記号の多い曲は「超」が100個以上つくほど苦手でした。そんな私がこの曲を選んだ理由はただ一つ「先輩の演奏へのあこがれ」だったとしか思えません。自宅で練習しながら、カセットテープに録音しては聞き返し、また練習しては録音し聞き返し。それまで「適当」に練習していた自分とは、まったく違う練習の質と量でした。自分の音に大声でダメ出しをすることに、母親が心配になったのか(笑)私の部屋をのぞき見していたのを覚えています。

 ピアノを和音君に快諾してもらい、卒業試験を終えました。
試験後に和音君が学生ホールで、同期の友人たちに「謙介、うまくなったよ!」と話しているのを聴いて、正直にうれしく感じました。
 試験の結果(成績)には、まったく興味がありませんでした。
それまでの自分の「演奏」と「練習」を考えれば当然のことです。
卒業試験の成績上位者数名が「卒用演奏会」に出演できることは、もちろん前年から知っていましたが自分には無関係の事でした。
 成績が手元に知らされるより先に、久保田先生のレッスン時「よく頑張ったね。卒業演奏会にあと、0.いくつだったんだよ。惜しかったね」と伝えられて驚きました。誰が?と(笑)久保田先生に褒めて頂いたのは、これが最初(で最後?)だったかもしれません。
 自分が出られるとも、出たいとも思っていなかった「卒演=卒業演奏会」当日、当時なんでも話せていた後輩女子君(彼女ではないところがミソ)と都市センターホールに…。途中で引き返したくなった私に、その後輩から「ちゃんと聴いて帰りなよ!」と叱られた記憶があります(笑)
 初めて自分の演奏と他人の演奏を「比較」して、悔しいと思ったのがこの時でした。これが第二の「ターニングポイント」だったような気がします。
 それまで、誰よりもへたな自分を安直に認め、対等どころか上を目指すこともなかった「価値観」が大きく変わりました。俗にいう言葉で言えば「やればできるかも」←かもがつく(笑)

 その後の大学での音楽生活は、自分の演奏に「自信を持つため」の練習だったように思います。そう簡単に感じられるはずもなく、常に挫折感を感じながら。
それでも高校1年生の時のような「無気力」ではなかったように思います。
 成果の出ないような練習ばかり(笑)していたような気もします。
大学4年の卒業試験で、ドボルザーク作曲のヴァイオリンコンチェルトを選びました。誰にあこがれるでもなく(笑)自分の意志で選び挑戦しました。
 卒業試験の結果は、めでたく卒演に選ばれるものでした。
という結果を知ったのが「留年決定!=卒演の出演取り消し!」が決まった卒業認定会議直後、恩師の怒鳴り声で聴いてしまうという「ドラマチック」なオチでした。
 サイテー(笑)
この留年も結果的には私が教員になる布石になりました。もし、あのまま卒業出来て卒演に出られていたら←なにを今更。教員にはならずプロオケにアシスタントコンサートマスターとして入団していたはずです。そのお話も留年と共に立ち消えました←当然(笑)結果、翌年に偶然張り出された「教員公募」に応募し、なんの間違いが?採用される運命になるわけですから、今の生活は留年がなければなかったのです!
 …と、胸を張って言えることでもなく。むしろ恥じるべきことですし、親に迷惑をかけたことを悔やみます。
 そんなわけで、生徒の皆様も「いつか」ターニングポイントがあるかもしれません。その時に「やっておけばよかった」と後悔しないためには、今練習するしかないのです。頑張れ!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜には書かれていないこと

 映像は2014年のデュオリサイタル6、代々木上原ムジカーザで演奏した、ピアソラの「オブリビオン」ヴィオラとピアノによる演奏です。
 今回のテーマは「楽譜に書かれていること・書かれていないこと」につていです。
楽譜を良く見えなくなってから書くのもいかがなものかと(笑)思いましたが、お許しください。

 ヴァイオリンやピアノのレッスンで、楽譜に書かれている記号や指示を見落としたり、その指示通りに演奏していないことを先生に注意される…という経験はきっと誰にでもあることだと思います。それが「間違い」だと判断される場合と、間違いではないが「指示に従わなかった」と言う問題の場合があります。
 楽譜に書かれているのは?「音符・休符」以外にたくさんの情報があります。
・ト音記号・ハ音記号などの「音部記号」
・音部記号の右に書かれている「調性記号」
・その左に書かれている「拍子記号」
・音符の左側に書かれている「臨時記号」
・音符の上か下に書かれている「スタッカート」「テヌート」
・音符の上や下にある「アクセント」
・複数の運否を「弧=曲線」でつないだ「レガート=スラー・タイ」
・弦楽器の場合「ダウン・アップ」の記号
・指番号
・弦楽器の場合「弦」の指定
・音量や速度に関する記号(指示)
・表現方法などの記号
書き出したら終わらない(笑)
これらの「指示」の意味を理解できるための「知識」は必要です。
問題はここからです。
先述の「間違い」と判断されるのは、上記のすべて?なのかという事です。

 楽譜に書かれていることが、すべて作曲家の意図したもの=作曲家が書いた指示なのか?
と言う根本的な問題があります。言うまでもなく、現代使用される楽譜のほとんどは「印刷」されています。さらにその多くは「コンピューター」をワープロのように使って作られた楽譜です。
 大昔、楽譜は作曲家が「ペン」を使って手書きで書きました。スコアを書き上げた後、作曲家自身が「パート譜」を手書きした人もいるでしょうし、弟子や他人にお金を払って「代筆」してもらったものもあるはずです。
 人間が手書きで楽譜の一枚ずつを書いていた時代には「書き間違い」「写し間違い」があっても不思議ではありません。ちょっとしたインクの「にじみ」で音符が大きくなりすぎた…なんてざらにあったはずです。
 その時代に作曲された「楽譜」が現代に至るまでに「コンピューター」に入力されて印刷されるようになりました。一度、データ化された楽譜は写し間違えることなく、書き間違えることもなく複製されます。
 データを打ち込んだ人の楽譜
に生まれ変わります。つまり、私たちの使っている楽譜に書かれている情報は、誰かがコンピューターに打ち込んだ「楽譜」です。それは誰?(笑)
 楽譜に書かれているから「作曲家の指示」だと思い込みます。
手書きの時代でも、コンピューターの現代でも同じことです。
演奏者は「楽譜を信じる」しかないのです。作曲家自身が演奏するなら楽譜より「演奏した音」が正しい事にもなりますが、そうでない限りは楽譜を信じるしかありません。
 楽譜の通りに演奏していて「演奏不可能」な音が掛かれている場合も、極稀にありますが、売られている楽譜には少ないですね。
 ただ、様々な出版社の「同じ曲の楽譜」を見比べると、まったく違う音やリズムが掛かれていることは「ザラ」にあります。弓付け(ダウン・アップ)やスラー、指づかいに至っては「同じものはない」と言えるほどに違うのが当たり前です。ピアノの楽譜でも当たり前にあることです。
 間違いと判断されるのは?「音の高さとリズム」…それさえ、楽譜によって違う事もあるのです。装飾音に至っては「正解はない」のが「正解」です(笑)
 では、楽譜の指示は無視して練習するべきでしょうか?
ダウン・アップを間違って先生に「違う!」と言われたら「逆切れ」しましょうか?(笑)

 演奏者が自分で「もっとも良いと思う」指使い、弓使いを考えられるようになるまでには「書かれている通りに演奏する」練習を積み重ねるしかありません。
むちゃくちゃな指遣い・弓使いで、無理やり練習しても無駄な練習です。
むしろ「有害」な場合があります。レッスンで先生が支持する「音」「リズム」「指」「弓」で演奏できる技術を身に着けることが、先決です。
 そのあとで!楽譜の指示と異なった「弓」「指」で試すことができるようになります。
 音の高さやリズムを、楽譜と違う音・リズムで演奏する場合にはその根拠を説明できるだけの「演奏技術」と「知識」が必要です。そうでなければ、ただ単に「間違った」と言われるだけではなく、作曲家の意図を無視することになりかねません。

 楽譜に書かれていない情報とは?
私は楽譜の「コア」をまず考えます。装飾音やスタッカート、レガートなどをはぎ取り」音の高さと長さ(リズム)=メロディー」だけの状態にしてみます。
 その「骨格=輪郭」を練習するうちに「肉付け=色付け」をしたくなります。
少しずつ…試してはまた削り、違う色を付けてみる。
 具体的な演奏方法で言えば
・弓の場所(弓先・中央・弓元など)
・弓の圧力(アタックなど)
・弓の場所(駒の近くなど)
・弓の速さ
・ビブラートの深さ・速さ・かけ始める時間
・ポジション(使用する弦の選択)
・ひとつの音の中での「音量変化」
などです。楽譜に「フォルテ」が書いてあるから「大きく」とはずいぶん違うことがお分かりいただけるかと思います。
 最初の動画で演奏した「オブリビオン」も今演奏したら、きっと違う弓、指・音色で演奏したくなると確信しています(笑)自分では「よしっ」とその時に思ったはずなのに、あとで聴くと「ちがうなぁ」が正直なお話です。

 以前にも書きましたが、演奏家が演奏する「音楽」は作曲家の意図した音楽と違って当然です。作曲家自身が自分の作った曲=音楽を、自分の解釈だけで演奏したければ楽譜は残さないはずです。事実パガニーニはそうしていました。
 楽譜として世に出た「音楽」は演奏者の手によって「音」になります。
料理で言えば楽譜が「素材」で料理する料理人」が演奏者です。素材をどう?活かすかが演奏家の技量だと思っています。
 その演奏を聴く人が「いいなぁ=おいしいなぁ」と思ってもらえるように、研究し努力するのが演奏者=料理人です。聴く人・食べる人の好みは、全員違います。全員が「おいしい」と思う料理は存在しません。音楽も同じです。誰かが「おいしい」と言ったからおいしいと思い込んで食べるのではなく、自分にとっておいしいかどうかは「自分の感覚」がすべてです。
 楽譜を音にする「楽しさ」を感じられるようになるまで、まず楽譜の通りに演奏する練習をしましょう!「料理学校」で基礎を学ぶことは大切です。
「我流」の前に先人の考えてくれた「ひとつの方法」を出来るようにしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を見ながら演奏できない視力になって変わった暗譜の方法

 映像は前回のデュオリサイタル14で演奏したピアソラ作曲の「グランタンゴ」ヴィオラとピアノによる演奏です。ヴィオラのパート譜10ページを暗譜して演奏しました。実際には前年のリサイタル時に暗譜して演奏したものを練り直して演奏しました。
 ご存知のかたも多いと思いますが、私が生まれつき持っている「網膜色素変性症」と言う目の病気は、治療方法が現在なく進行性のために、中途失明する患者が最も多い「特定疾患=難病」のひとつです。4歳頃に病気に両親が気付いて以来、50数年間と言う驚異的な「遅さ」で進行を続けています。進行の速さや発症の時期は患者それぞれに全く違います。症状のひとつが「夜盲=やもう」と呼ばれる症状で薄暗い場所で物が見えないというものがあります。健常者=多くの人は、映画館に入ってしばらくすると座席が見えたりするんですよね?私たちには「真っ暗なまま」で照明が光っている事しか見えません。
 もう一つの症状は「視野狭窄=視野が欠ける」症状です。見える部分=見えなくなっていく部分は患者によって違います。「中心視野」と呼ばれる部分がかけ始めると、次第に明るさを感じにくくなります。この視野狭窄が進行することで「視力」もなくなります。今現在、私の右目は中心視野の多くが欠けています。それでも、なんとか日常生活を妻の浩子さんの介助を受けながら送れています。

 さて、今回のテーマは「暗譜の方法」です。
視力をメガネやコンタクトレンズで「矯正」して両目で0.7程度あった40歳頃までは、楽譜を見ながら演奏できました。オーケストラで「ふたりで1冊」の譜面を見ながらの演奏もかろうじて出来ていたほどです。つまり、通常のひとと同じように「楽譜を覚える」方法だったと言えます。
 そのころの私を含め、多くのひとは楽譜を「見ながら」演奏できます。
読譜=楽譜をすぐに音にする能力を身に着け「初見」でほとんどの曲を弾ける技術を音楽高校・音楽大学で身に付けます。私もできました。その技術がないと「プロ」とは認められない時代でした。
 ・初見で楽譜を見ながら「譜読み」する。
 ・難しい箇所の指使いや注意すべきことを楽譜に書きこむ。
 ・次第に楽譜を見なくても暗譜で演奏できるようになる。
これが多くの場合「暗譜のプロセス」ですよね。
 今現在、私の練習方法は…
 ・音源があれば、とにかく覚えられるまで聴く。

 ・ヴァイオリンやチェロで演奏している音源であれば、指・弓使いなども覚える。
 ・楽譜を拡大し、パソコンのモニター(27インチ)横いっぱいに表示する。
 ・B4の用紙横向きで幅いっぱいに数小節拡大コピーする。
 ・楽譜を数小節ずつ覚える際に「指・弓・音色」も考え同時に覚える。
 ・覚えたものを楽器で演奏する。
この繰り返しです。生まれつき全盲の演奏家の場合は「点字楽譜」で覚えながら演奏されます。それと大差ありません。ただ、点字楽譜の方が早く読めるような気がします(笑)私はその点字をまだ読めません。

 この暗譜方法を「物造り」に例えると、始めの段階から完成した=出来上がった状態に近いものを造り、少しずつそれを組み合わせていく方法になります。この方法では作れないものもたくさんあります。一つの例で言えば、大型ジェット機を作る方法として「エアバス社」が用いている方法です。翼、胴体、エンジンなどを違う国々で作り、出来上がった部分を集めて「組み立てる」方法です。
家で例えるなら「プレハブ工法」が近いかもしれません。現場で柱を立て、壁を作り窓やドアを付けていく在来工法と違い、短期間に現場で組みあがります。

 さて、この暗譜方法で演奏するようになってから数年経ちますが、なんといっても1曲を通して演奏できるまでに長い時間がかかることは、どうしても避けられません。楽譜を見て演奏できれば「初見」で弾ける曲を、何時間・何日・何週間もかけないと演奏できない「苛立ち」はついて回ります。「みえてりゃすぐひけるのに!」と叫びたくなる(笑)思い出せない音があれば、止まるしかありません。そのストレスは想像以上でした。
 グランタンゴを最後まで通して演奏できるまでに、2週間程度かかった気がします。10ページを数小節ずつ…かなり気が長いですよね(笑)さらに、記憶を「効率化」するために、いわゆる再現部や似たようなパッセージが出てきたときには「前と同じ」で覚えるのですが、微妙に違うことが多く。山手線状態になることも良くあります。「今、なんどきだい?」(笑)です。
 これも、浩子さんの助けと協力があって初めてできることです。
ただ不思議なことに、頭の中にある「音楽」はヴァイオリン、またはヴィオラの「音色」でつながっているらしく、ピアノで音を出してくれてもなぜか?それまでの部分と連結しないのです。おそらく音名で覚えている部分より「音色」で記憶している要素が大きいのだと思います。困ったものです。
 覚えてしまえば、かなり安定して記憶を呼び出せます。それは今までよりも良いことだと思っています。楽譜ではなく「音楽」の演奏を記憶しているのかも知れません。

 できないわけではないはずですが、現在の私に浩子さん以外の人との「アンサンブル」は考えられません。迷惑をかけたくないという気持ちが先に立つからです。学生時代、オーケストラでストラビンスキーの「春の祭典」も暗譜して演奏していました。ただ、大学4年の時に「第九」でヴィオラのトップにしていただいた時、とにかく「弓」が覚えられずに2プルト目以後の方々に、多大なご迷惑をおかけした苦い記憶は消えません(笑)私の隣、トップサイドに山縣さゆりちゃんがいて、困った顔をしていたのも忘れられません。すみませんでした(笑)

 そんなわけで、音楽を覚える=演奏を覚えることが、演奏の手段になってから演奏中に考えることも変わったような気がします。少なくとも「楽譜」は頭にありません。昔なら今、何ページ目のどの辺りを演奏しているかを思い起こせました。それがなくなってから、音楽を「時間軸」で考えるようになったのかも知れません。視覚的な「場所」「楽譜」ではなく、一曲の中の「時間」を考えている気がします。それが良いのか?悪いのか?わかりませんが、それしかできない(笑)ので、自分の暗譜方法をさらに進化させることを考えていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラメンバーのソロ演奏

 動画は、桐朋女子高等学校音楽科(共学)で3年間同級生だった、元男子現おぢさん(笑)チェリストの金木博幸(かなきひろゆき)君の演奏動画です。
 高校入学当時、彼は札幌から単身上京し「男子寮」とは思えない「豪邸」に暮らしていました。4人部屋、古い民家の2階部分。トイレは1階にある一か所のみ。台所健洗面所が2階に一か所。窓の外には、美しいどぶ川。夜中にうるさくしていると、一階の大家さんが電気のブレーカーを落とす。この男子寮に私は入りびたり、3年間を過ごしました。この男子寮からは、多くのソリスト、音楽家が巣立ったことも書き添えておきます。

 高校在学中から学年唯一のチェロ専攻でもあった金木君の演奏は、いやがうえにも注目されていました。当時、桐朋は「チェロの学校」と思えるほど、チェロ専攻のレベルが高く、金木君もご多分に漏れない技術でした。
 高校2年でベーシックオーケストラからレパートリーオーケストラに「昇格」し、3年であっという間にマスターオーケストラに上り詰めました。
 高校時代からカルテット(弦楽四重奏)やピアノトリオを一緒に演奏して遊んでいました。同学年の仲間、後輩ともアンサンブルを楽しみました。高校生ながらお仕事を頂き、八ヶ岳などで演奏もさせてもらいました。
 卒業後、ピアノトリオを札幌で…と言う計画が、諸々あって流れてしまって以来、一時(かなり長い期間)交友が途絶えました。
 その後、彼が留学し帰国した際に現在の東京フィルハーモニーに入団しました。主席チェリストとなってからも、ソリストとしての活動を継続していることも素晴らしいことです。

 さて、多くのプロオーケストラが国内外に存在します。
2015年現在のプロオーケストラ(室内楽団)一覧です。

【日本オーケストラ連盟加盟のプロオーケストラ】
NHK交響楽団
大阪交響楽団
日本センチュリー交響楽団
大阪フィルハーモニー交響楽団
オーケストラ・アンサンブル金沢
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー管弦楽団
九州交響楽団
京都市交響楽団
群馬交響楽団
札幌交響楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
仙台フィルハーモニー管弦楽団
セントラル愛知交響楽団
東京交響楽団
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
東京都交響楽団
東京ニューシティ管弦楽団
東京フィルハーモニー交響楽団
名古屋フィルハーモニー交響楽団
日本フィルハーモニー交響楽団
広島交響楽団
兵庫芸術文化センター管弦楽団
山形交響楽団
読売日本交響楽団

【日本オーケストラ連盟(準会員)のプロオーケストラ】
京都フィルハーモニー室内合奏団
静岡交響楽団
東京ユニバーサルフィルハーモニー管弦楽団
テレマン室内オーケストラ
中部フィルハーモニー交響楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
奈良フィルハーモニー管弦楽団
ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉
藝大フィルハーモニア管弦楽団
岡山フィルハーモニック管弦楽団
瀬戸フィルハーモニー交響楽団

【室内プロオーケストラ】 
いずみシンフォニエッタ大阪
紀尾井シンフォニエッタ東京
神戸市室内合奏団

 2022年現在、統合合併したオーケストラもありますが、ずいぶんたくさんありますよね!ただ…これだけのプロオーケストラがあっても、毎年音楽大学を卒業する弦楽器・管楽器・打楽器専攻の卒業生を受け入れられる「受け皿」にはなりません。演奏家の供給過多の状況が長く続いています。卒業生のほとんど一部、卒業後にさらに何年も「アルバイト」をしながら練習し続けても入団できない人の方が圧倒的に多いのが現実です。その意味では「選び抜かれたひとの集団」であるはずですよね?現実は?

 楽器を演奏して生活する人を「プロ」と定義するならば、クラシック音楽の世界で「オーケストラプレーヤー」と「ソリスト」が代表的なプロです。
それ以外に数人の「アンサンブル=室内楽」で生活できる人も少数います。
ソリストが一番少ないのは言うまでもありません。多くの場合、ソリストは「音楽事務所」に所属しています。事務所がコンサートを企画することもありますし、事務所が演奏の依頼を受ける窓口になりソリストを派遣する場合もあります。いずれにしても、ソリストと呼ばれる演奏家は、明らかに演奏家の「頂点」だと言えます。

 聴く人の好みとは別に、プロの世界では「集客力」が演奏者の実力になります。それはオーケストラでもソリストの場合でも同じです。有料のコンサートに、どれだけの観客を集められ、どれだけの収益をあげられるか?が問われるのがプロの世界です。広告に使う費用も含め、すべての経費よりも「収益」が多くなければ、演奏家への方種は払えません。当たり前です。
 プロオーケストラの場合、正規団員には「給与」が支払われ、エキストラには「日当+交通費」が支払われます。正規団員になれば、定年までの終身雇用をするプロオーケストラがほとんどです。その「給与」だけで生活できない額しか支払われないオーケストラも存在します。さらに正規団員数を減らし、エキストラの人数を増やすことで人件費を抑えることがプロオーケストラでは「日常的」におこなわれます。
 一言で言ってしまえば「オーケストラの多くは赤字経営」です。
演奏会に来てくれる人が年々減っています。定期会員になってくれる観客の平均年齢が上がり続けています。若い人の「クラシック離れ」が止まりません。
 それでも国内に「どんだけ~」な数のプロオーケストラが存在するのはなぜ?
需要があるのならわかりますが…。

 クラシック以外のポピュラー音楽の「ライブ」や「ドームコンサート」に、何千人、1万人規模の観客が集まる現状があります。ライブチケットの料金は安いものではありません。それでも人が集まります。アイドに特別な「個性」があるとは言い切れません。日本のオーケストラにも「個性」は感じられません。単純な話、オーケストラが多すぎることが最大の問題だと思います。
 また音楽大学も多すぎると感じています。音楽大学の質も問題です。卒業後にプロの演奏家として、十分な能力を身に着けていない若者を毎年輩出し続ける音楽大学の責任も問われるべきです。
 クラシック音楽の「プロ」を育てるために、需要=観客数に見合った数のオーケストラと卒業生を考えなければ、「プロになれない卒業生」が増え続け、観客の取り合いを続けることは変わらないと思います。
 

 最後に日本のプロオーケストラメンバーの「演奏技術」について。
正直に書けば「格差が大きすぎる」気がします。金木君のようにソリストとして通用する演奏魏zy通を持っている人が、どれだけいるでしょうか。特に「高齢の団員」に疑問を持っています。終身雇用のデメリットが表れている気がします。
 能力よりも年功序列。前回のブログ「音大教授の世代交代」と同様に、オーケストラ団員の平均年齢を下げ、定年年齢を下げ、給与をあげること。
「非正規雇用」のエキストラを減らしてやっていけるオーケストラが生き残ることが、残酷なようですがこれからのクラシック音楽業界には必要なことだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽の演奏と音楽理論

 ピアノやヴァイオリンを趣味で楽しむ人たちの多くが「音楽理論」と言う言葉に聞きなじみがありません。むしろ「知らない」かたが圧倒的です。
理論と言うと「学問」とか「相対性理論」が連想されるからでしょうね。
 たとえば「ドレミファソラシド」と聴いて、あなたはどれくらいの「説明」が出来るでしょうか?それが「音楽理論」のひとつです。
 ・イタリア語の音名
 ・長音階のひとつ
 ・ハ長調(C dur・C major)の音階
 ・幹音(かんおん)のイタリア音名
他にも関連することはいくらでもあります。
あれ?小学校課中学校で習ったような気がする?
はい正解。義務教育の音楽授業で教えるべき内容は、ごく限られています。
少ない授業時間のなかの多くの時間を「歌唱」と「鑑賞」と「器楽」に費やす内容が指定されています。
音楽理論を「楽典」と言う言葉で表すこともあります。言ってみれば「音楽の知識」です。それらを子供たちに教える「時間」が足りないのが一番の理由ですが、知識より実技!と言う現場教師の意向が反映されています。
 もう一つ、例題です。
 ・四分音符と八分音符を見分けができるか五線に書けるか
 ・長さの違いを説明できるか
「そんなの習ってない」?習ったはずですが(笑)
覚えていなくても小夕学校で「合唱」や「アルトリコーダー」って、やりません弟子か?四分音符の出てこない「楽譜」はなかったはずなんです。
「聴いて覚えたから楽譜は見ていない」人がほとんどですよね?
 つまり「知識」は習っていなくても、歌ったり楽器の演奏はできる!のです。
ん?それでは、音楽理論は「不必要」なのでしょうか?
 

 ユーチューブで「音楽理論」を検索すると、大半はジャズピアノを演奏するひとのための「参考動画」です。クラシック音楽を演奏して楽しむ人を対象にしている動画はなかなか見当たりません。
 ピアノやヴァイオリンを演奏している時、「音」と「運動」だけで演奏しようとする生徒さんがたくさんおられます。気持ちは理解で済ます。
 頭から「理論を覚えなさい」とは言いません。少なくとも私たちのレッスンでは(笑)
 趣味で楽しむ人ならいざ知らず、プロの演奏家を目指す音大生が「音楽理論」を学ばずに卒業している現実があります。すべての音大ではありませんが、実技のレッスン以外は「選択」で卒業単位を修得すれば良い音大が存在します。
 何をかいわんや(涙)
楽器を演奏する人に「音楽への好奇心」がないとしたら?
そのひとの楽器演奏技術が向上することはないと断言します。
好奇心は少しずつ「膨らむ」ものです。自分の好きなことに置き換えれば、すぐに理解できます。
 ゲーム好きな子供は「攻略方法」を探します。これが好奇心です。
お酒が好きなひとは、銘柄の産地、一番合う「あて」にも好奇心を持ちます。
好奇心は言い換えれば「こだわり」です。
音楽理論=知識は、「上達の土台」になるものです。
 ただ、土台だけあっても「うわもの」である演奏技術がなければ、ただの頭でっかちですし、基礎だけで家の立っていない状態です。
 

 楽器に関する知識も好奇心が膨らめば、自然に知りたくなるはずです。
先述の通り、音楽理論は特別に難しいことばかりではありません。
たとえば、物の長さを測る単位があります。重さをはかる単位があります。
それぞれに多くの単位があります。国や職種によって変わるもの「センチ・インチ」「メートル・フィート」「グラム・ポンド」「センチ・尺間」など多くあります。
 音の長さを表す単位は「秒」ではありません。比率で表されます。
四分音符:八分音符=1:2
ご理解いただけましたか?これも音楽理論です。
「♯=シャープが付くと半音高くなる」
小学校で習ったはずです。多くのアマチュア演奏家も答えられます。
では「半音を説明して」と問われたら?
・鍵盤で一番近い「隣同士の鍵盤」との「音の高さの差」
・いオクターブを12等分したうちの、一つ分の「幅」
・全音の半分の幅
などなど。「めんどくせぇ」(笑)と主輪うかもしれませんが、これを理解しないで楽器を演奏している人は、野球のルールを知らずにボールを投げ、バットでボールを打つことを野球と言うのと大差ありません。

 音楽の知識を学ぶことは、楽器の練習とは違います。むしろ言葉や文字で、音楽の「ルール」を理解することです。音楽理論の多くは、数学的な考え方が主になります。先ほどの「比率」もそうですし、「音の高さ」「高さの差」にしても理科で習った知識が大いに役立ちます。音楽を分析する時には「文法」に近い考え方も必要です。音楽の速さを表す言葉の多くはイタリア語です。フェルマータを「程よく伸ばす」と中学で教えますが、本来の意味は「停車場」です。その意味を理解したほうが、フェルマータの「感覚」を掴めますよね。
 知識は覚えただけで使わなければ「机上の空論」です。宝の持ち腐れです。演奏に役立てるか?はその人の考え方一つです。
 ぜひ、冒頭に掲載した「楽典」を一度、読んでみてください。「専門家になるつもりはない!」と言うひとも、きっと演奏しながら「これか!」と思うことになります。「好奇心」こそが上達の秘訣です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

大学教授に世代交代を!

 今回のテーマは、大学教授の高齢化に物申す!という固いお話です。
私は現在61歳です。自分の「高齢化」を感じるか?と聞かれれば身体的な面での「老化」は素直に認めます。一方で気力の衰えは感じませんし「まだまだ現役」と言う気持ちもあります。
 その私が感じる音楽大学教授の高齢化について、大きな危機感を感じています。ここで言う「高齢」は衰えを指すものではなく単純に「年齢が高い」と言う相対的な意味です。

 教師と言う職業に限らず、日本では「年功序列」制度が長く尊重されてきました。
また「老いては子に従え」という言葉もあります。
「職場」と言う閉鎖された社会の中で、組織の中で生き残ることは「目的」ではなく「生活のための必然」です。上司の能力が誰の目から見ても足りない時にでも、部下が声に出せないのが「普通」です。ましてや経営者の能力や、経営者に「近い存在」の上司には逆らえないのが組織です。
 とは言え、度を過ごした「上からの命令・指示」は、こんにち「パワーハラスメント」として扱われ許されない行為となりました。逆の場合でも度を過ぎれば「ハラスメント」として問題になります。
 いずれにしても「序列」がある組織の中で問題なのは「上に立つ人間の数と質」なのです。

 教員と言う職業は「指導」が中心であり、教員の能力は「指導力」を指すものです。指導能力が評価されるのは「指導の結果」です。
人間(学生や生徒)に指導する「領域=分野」があります。
音楽大学で学生を指導する教員にも「専門分野」が様々あります。
「専門」が「演奏」「作曲」「音楽学」の教員に求められる「指導結果」は、卒業後の学生が発揮する「能力」です。
 若い演奏家と高齢の演奏家で、どちらが演奏技術が優れているか?
当然、個人差で決まるもので年齢に関係はありません。
 指導力と言う面で考えると「経験」が重要という、ひとつの考え方もあります。それも「結果」によって評価が分かれます。
 つまり高齢なら良いレッスンをして良い演奏家が育つとは限らないはずです。
逆に言えば若い演奏家のレッスンで良い演奏家が育つことも、十分に考えられることです。
 結論を言えば「高齢の指導者が良い」とは限らないという事です。

 社会全体の高齢化は、医学と科学の進歩による「良い結果」です。
人間の平均寿命は、すでにピークを過ぎていると言う学説があります。
ひとりの人間が「生きられる時間」が、今までのように伸びることはないそうです。問題は「少子化」なのです。
 出生する人口が減り、寿命が今のままでも間違いなく「高齢化が進行することになります。その結果、何が起きているか?
 「働く人間の高齢化=人件費の高騰」と同時に「働かないと暮らせない年金額」と言う相反する問題を抱えてしまいました。
 雇用する側=大学にしてみれば本来、若い人を多く迎える方が人件費を抑えられることは、小学生の知識でも理解できるはずです。
 音楽家に限らず、これからの高齢者は年金だけでは生活できません。
現代80代の高齢者とは、まったく違う老後の人生なのです。
 年金で十分に生活できるなら、若者に働き口を確保するのは「高齢者のマナー」です。それが今、出来ない現実は、私たちの責任ではありません。
 まぁ今回はその「犯罪者」をあげるのはやめておきます(笑)
 音楽大学で「まだ働きたい」と考える高齢教授、さらには高齢者予備軍にとって、若い指導者に自分の椅子を渡したくない!と思うのも理解できますが…
 少なくても」若く能力のある指導者」を教授に迎えることを「邪魔するな!」と言いたいのです。若ければ良いとは一言も書いていません。
年齢に関わらず、能力の高い人を増やすことが音楽大学に求められているはずです。

 習う側の立場を考えれば、高齢教授が椅子を離れるべきか?誰にでもわかるはずです。多くの高齢教授は「ずっと教えている人」ですよね。定年を過ぎても働いているおばあちゃん教授が、おととい雇用されたって話は聞きませんから(笑)その、おばあちゃんに指導を受けたいと思う若者の理由を考えてみてください。その先生に習いたいと思う理由は「自分をうまくしてくれる」と思うから。それ以外にあり得ませんよね?「優しそうだから」「なにを弾いてもおこられなさそうだから」って理由?(笑)ないです。
 一番上の一覧表、グラフを見返して頂くと、定年年齢が高い大学も多い一面と、「教授平均年齢」が63~66歳って、異常だと思いませんか?定年と平均寿命が100歳ならわかりますけど(笑)
 若い教授が増えない理由はただ一つ。高齢教授たちがやめないからです。
能力を評価する「能力」が大学内部に必要なのに、それが出来ない。
もっとも客観的な「能力評価」は卒業生が音楽家として生活できているか?だけで十分把握できるはずです。
 私立大学の教授平均年齢が高いことにも疑問があります。
良い指導を行うために…と言う考えに私立公立の違いはないはずです。
私立音楽大学の経営者が音楽を知らないことにも一因があると思います。
さらに、高齢教授が「幅を利かせる」ことが当たり前になっている気がします。
 せねても教授平均年齢を50台に下げること、定年後は教授職を解くことが必要だと思っています。
 大学教員経験のない私の考えが、間違っていることもあるのは承知しています。自分をしどうしてくださった大学の指導者たちに敬意を持つからこそ、若く能力のある教授をひとりも多く、増やしてほしいと願います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

年齢で変わること変わらないこと

 写真は2022年9月1日に撮影したものです。
右側に座っている男性3名と左奥に座る私たち、
「桐朋女子高等学校音楽科(共学)25期生」つまり高校の同期生です。
浩子さんは、私たちの「後輩」でございます(今更詳細は伏せる(笑))
 当時の高校は1学年3クラス、一クラス30名。学年全体で90名。そのうち男子は11名。さらにその男子の中で、ピアノ専攻5名がA組に固められ、ヴァイオリン専攻2名(内1名が私)とチェロ専攻1名の合計3名がB組、作曲専攻2名とフルート専攻1名合計3名がC組に「ばらまかれ」ました。
 写真の右側に写っている「元男子」は、奥からフルート奏者の一戸敦、ピアニストの清水和音、手前がピアニスト落合敦の3名。61歳もしくは62歳の「おじ(ぃ)さん」たちです。

 この3人がちょくちょく「飲み会」をしていることは最近、知っていました。
一戸君は前回のメリーオーケスト定期演奏会で指導と演奏を快く引き受けてくれて、私が大学を卒業してから約40年ぶりにご縁が出来ました。
 落合君は次回(来年1月15日)の定期演奏会で、チャイコフスキーピアノコンチェルトの独奏をお願いし快諾してくれたり、私と浩子さんのデュオリサイタルにひょっこり!顔を出してくれたり、3年前には心不全で入院していた私の病室に、これまたひょっこりとお見舞いに来てくれたりのお付き合いです。
 和音君との再会は同期チェリスト結婚式で顔尾を合わせて以来、約30年ぶりです。
 3人ともそれぞれに、演奏家として指導者としての日々を送っています。
それぞれに家庭を持つ「お父さん」だったり「お爺さん」だったりもします。
親の年齢も近いわけで、見送ったり介護現在進行中だったりも私と同じです。
さて、この3人。高校時代つまり「15歳頃」と何か変わったでしょうか?(笑)

 1975年の話です(昔話)
私の印象で言えば、和音君は「異常にピアノがうまいが、同じかそれ以上にやんちゃ」な男子。一戸君は「聴音ソルフェージュが私と同じ底辺クラスで(笑)でもフルートはすげぇうまい。やんちゃは和音と同レベルで大食い」な男子。落合君は「妙にイラストがうまく、妙にポピュラーが好きな病弱ぶる(笑)仲良し」な男子。
 ちなみに、高校3年時に私の高校卒業実技試験のピアノ伴奏を和音君がしてくれました。大学2年時と3年時の実技試験で落合君がピアノ伴奏を引き受けてくれた記憶があります。
 高校卒業後、和音君は大学には進学せず、一戸君はディプロマコースに進み、落合君と私は大学に進みました。浩子さんも同じ高校を卒業後、大学に進学しました。

 和音君が20歳の時にロン=ティボー国際コンクールで優勝し、その後国内外で日本を代表するソリストとして演奏活動を行っていることは、ご存知の方が多いと思います。現在、桐朋学園大学で教授をされています。
 一戸君は、東京交響楽団を経て読売日本交響楽団の首席フルート奏者として長年活躍。
 落合君はドイツのビュルツブルグに留学。私が教職に就く直前に彼の留学先を根城にしてヨーロッパに留学していた同期の家々を渡り歩いた思い出の「中核」になってくれました(笑)その後、フェリス女子学院大学音楽学部教授として、またソリストとして活躍。
 みんな「すご~い!」と率直に思います。

 そんな私たちが「おじ(ぃ)さん」になって、屈託なく笑いあい話す内容は?
およそ、文字にすることは不可能としか思えない(笑)ような「やんちゃ」な話が95パーセント。残りの5パーセントには、音楽大学の問題・経済の話・カラヤンの話題・高級車や高級時計の価格高騰・ヴァイオリン価格の高騰など、きわめて一般的と思われる内容がごく一部。ただ、和音君が語った「昔さぁ、東欧の演奏家がね弓を日本に持ってきてさぁ…」のその弓が、今も使っている私の弓ですけどっていう「とんでもない偶然」もあったりしました。
 とにかく「昔のまんま」な彼ら(あれ?)
ですが、年齢相応に体形や姿も変わりました。頭の中身=性格はそのまんまなのです。変わったのは「優しさ」「思いやり」が自然に見え隠れする大人になっていることです。
 三人とも、1ミリも驕る態度がないのです。自分の演奏の話は、4時間の間(長い(笑))一度も出ませんでした。謙虚。なのです。それが何よりもすごいことです。
 いつまで元気でいられるかわからない年齢になりました。それでも昔の「友達」のままで話せて、お互いを気遣う事もできるおとなになれたこと。
 人との絆が人間の「宝物」であることを実感した一日でした。
最後に、和音君の昨年の演奏動画をご紹介しておきます。
お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介