メリーミュージックブログ

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2022年

練習・本番の「コツ」ってなに?

 発表会を明日に控え、生徒さんたちの「緊張と焦りと不安」が目に浮かびます。私も含め、楽器を演奏するひとにとって「本番」でうまく弾きたい!どんな「練習をすれば本番でうまくいくの?と言う自問自答を繰り返します。
 今回は主に「メンタル=気持ち」を考えます。「うまくひきたいなら、練習だろ!」というごもっともなご意見はありますが、まぁお読みいただければ(笑)

 「人間の潜在能力」「平常心」と言う言葉を耳にします。
人間の「脳」の働きは未だに完全には解明されていません。脳の一部分だけを使って活動している…と言うことも諸説あります。眠っている能力=潜在能力を発揮するには!という解説動画が山ほどあって、ほとんど皆さんが違う方法を説いておられることから、その方法も定かでないことも事実です。
 一方で不安や緊張、安らぎや眠りについての「脳の働き」はかなり立証されています。さらに多くのアスリートからの経験談で「メンタルトレーニング」に関する実証もされています。
 前回のブログで紹介した「仏教」や「禅」の世界で「心」を考えることも、長い歴史に裏付けられている点でとても興味があります。
 それらの「情報」と少ないながら私の経験も併せて考えて、私たちの演奏に役立てられないか?考えてみます。

 「努力=練習は一気にやらないこと」
人間の脳の集中力は90分が限界と言うことが多く言われています。疲労を我慢して続ける練習や勉強は「記憶されない」ことも実証されています。少しずつ…の繰り返しが最も効果的です。
 「運動のイメージを最小限の力で行う」
人間は「考えながら運動する」と運動速度が遅くなります。
だからといって何も考えなければ、運動はおきません(笑)
自分がこれから行う「成功した運動」をイメージし、筋肉を緩めておくことで最速の運動ができます。
 「常に成功する自己暗示をする」
これも脳科学で実証されています。ボクシングで「自分が勝つ」と思っていないひとが買ったことはないそうです。当たり前ですよね?本番だけではなく、練習の時に「自分にはできる」ことを思い続けることです。ただし休みながら!
 「緊張している自分をもう一人の自分が見る」
これは仏教の教えですが、私たちの言う平常心は仏教では「揺れない」「動かない」ことではなく、それを「受け流せる」「柔軟性」のようです。知らない人が緊張している姿を見ても自分は緊張しませんよね?自分の緊張していることを自分で冷静に見ることです。そしてそれを無理やり排除=なくそうとせずに、まず受け入れて力を抜いて穏やかに考えることです。固いコンクリートで壊れないようにするよりも、柔らかく軽いスポンジで力を「受け流す」ことです。
特に本番前や演奏中に「緊張している」ことを意識するのは、いたって当たり前の心理です。それを無くそう!減らそう!とあがけばあがくほど(笑)自分を失います。「あ…緊張してきた…そりゃそうだ…でもできるから大丈夫」という自分との会話と暗示をしてみましょう。

 最後は自分が今できる演奏を、自分自身で認めることです。
出来ていないことを、今すぐに出来るようにすることは誰にもできません。
時間をかけて出来るようにすれば、いつか!できると考えることです。
どんなにたくさんある作業でも、少しずつやればいつか終わります。
どんな分厚い本でも、少しずつ読めば最後の1ページになります。
一度に全部を終わらせる必要もないし、かき氷のように急いで食べる必要もありません。

自分が演奏している音楽を「自分の言葉・動き・感情」にすることです。
「楽譜の通りにひこう」「まちがえないようにひこう」と思うのは、指示されて動いていることと同じです。自分の意志で次にすべきこと・ひく音を感じながら演奏数事です。
本番「だけでも」うまくひこうと思うのはやめて、「できる」イメージをもち続けて最後まで弾くことだけを考えるべきです。音楽はひく人も、聴く人も「その演奏時間」を楽しむためにあります。苦痛や焦りを感じるよりも、今、舞台で演奏できる「うれしさ」と「期待」を感じることが大切です。
 今の自分の演奏は、今の自分にしかできない!
それがすべてだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏家の「欲」を考える

 映像は仏教の「知足=ちそく」を説いた動画です。
カルト宗教ではございませんので(笑)、安心して一度ゆっくり最後までご覧ください。
・「欲」を持つことは悪い事ではなく必要なこと
・他人と比較し、他人から得られる「満足」とは違う「知足」
・自分がすでに持っているもの=自分の「足る」を「知る」ことが知足
聞いていて素直に「あ…」と気づかされるお話です。
私は仏教信仰もなく「物欲の塊」「歩く煩悩」「屁理屈ヴァイオリニスト」ですので、およそ悟りの境地に近づくこともできませんが(笑)それでも、ひとりの人間として「欲」があるのは自然なことだと思います。赤ちゃんが母乳を求めて泣くのも「本能」と言う「生きようとする欲」です。

 演奏家が持つ「べき」欲があると思います。自分の演奏技術・表現力を高めたい、もっと上手になりたいと言う「欲」のない人もレッスンに来られます。その生徒さんにも演奏技術や表現方法を伝えようとします。ただ、ご本人が自分の力を「通う評価」する人ほど、「無理」とか「できません」と言う言葉を口にされます。過大評価が良いわけではなく、まさに「自分の持っているものを知る」気持ちが大切です。自分の持っているものをさらに高めようとする「欲」がなければ「楽」かも知れません。それはそれで正しいので、お金を払ってレッスンを受ける必要はない…と言ってしまうと私は生活できません(笑)
 他人と比較して「隣の芝生」にあこがれている限り、本当の自分の演奏にはたどり着けないことは動画でも話されています。他人と「競争」するのは、単純に「意欲」を高められます。負けたくない!よく思われたい!下手だなぁと思われたくない!と言う欲望は、自分以外の「他人」を意識しているだけで、自分自身を観察していないのです。
 昨日のブログで取り上げた「コンクール」や、音楽学校の「入学試験」は、基本が「相対比較」で序列をつけることです。ある程度の「絶対条件」が含まれている部分もあります。例えば年齢の上限や居住地域などです。自分と「誰か」を「審査員」が比較し序列をつけた結果が「優勝」「入賞」だったり「合格」「不合格」です。優勝したい!合格したい!という「欲望」があることを悪いとは言えません。その過程で「他人と比較する」気持ちをゼロにすることは不可能だし、「自己評価」だけで優勝・合格を得ることは現実的には厳しいことです。それでも「自分の持っている良さを知る努力」「自分を高める努力」を大切にする指導も必要です。
得てして指導者は「そのレベルでは受からないよ」と生徒に言います。悪意はないでしょう。生徒の立場にすれば「他人より下手なんだ」と思い込みます。
生徒個人が持つ「良さ」よりも「他人と比較して足りない技術」を指摘しがちです。

 練習する時、自分の「欲」を意図的に抑えることも必要です。
その欲は「低く=できそうなこと」で「長期間」で実現する気持ちが必要です。
「え?高い欲を速く実現した方がいいでしょ?」と思いがちですが、自分に足りない技術・表現に気付いたのなら、一気にすべてを実現しようとすることを「欲張り」と言います。常に欲を持ち、短期間に出来るようになる「小さな目標=欲」を積み上げるべきです。「ローマは一日にして成らず」です(笑)
出来ない!と熱くなる時(笑)、やろうとしている=練習している内容の「量を減らす」ことと「ハードルを下げる」ことが大切な「コツ」です。熱くなったままで頑張るのは、身体に悪い(笑)

 欲を失う=意欲を無くす原因の多くは「気持ちが折れる」場合です。
折れやすい生徒さんの性格(笑)
・短気である
・好きな事へのこだわり=負けん気が強い
・なぜか?女性が圧倒的に多い
・折れやすいが、立ち直りも速い
・他人(親にも)思っていることを言葉にしない
・自分を責める
はい。上記で二つ以上「はい」と思ったあなたは、かなりの「ポッキー」(笑)です(笑)これら、すべてが「性格」ですので変える必要もなく、変えることは不可能ですから受け入れるべきです。自分を知る…と言う意味でも、それが自分なのですから、さらに足りない「何か」を探すことが大切なのです。
 今回も「屁理屈」だらけのブログを最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

どこで音楽を学ぶべきか?

https://youtube.com/watch?v=n069QuBxpiY

 映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
 審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
 そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。

 私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
 クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。

 さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
 演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。

 音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
 音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
 音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
 ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
 公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?

 音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
 プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
 みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)

 演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
 演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
 演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学ぶためのお金と生きるためのお金

 今回のテーマは「お金」と言う俗っぽい(笑)お話なので、せめて夢を感じられる映像を…と、アザラシヴィリのノクターンを選びました。
 私を含めた「音楽家」と言われる職業で生活している立場から、現代社会で必要になる「お金」について考えてみます。

 音楽家になりたい…と言う希望を持つ人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか?
「頑張ってね!」「応援してるよ!」「素敵な夢だね!」と言う励ましの言葉でしょうか?それとも…
「やめときなよ、生活するの大変だよ」「もっと安定した仕事を選んだら?」と苦言ともとれる言葉をかけますか?
どちらの場合にしても、音楽家と言う職業について自分が知っている範囲でしか考えられないはずです。実際に自分が音楽家として生活している人の場合と音楽家以外の職業で生活している人が、親しい人の中に音楽家がいない場合では、真実味が違いますね。さらに言えば、どんなに統計データを集めてみても、実際に音楽家として生きている人の実感は理解できません。収入の平均金額を見ただけでは、その職業についている人の「充実感」まではわかりません。知らない・わからないのに「やめておいたら」と言う言葉はアドヴァイスになるでしょうか?心配する優しさは大切ですが、思い込みで他人の生き方の「基準」を創っているとしたら?良いことだとは思えません。

 現実的に音楽を学ぶために必要な「お金」の話をします。
当然のことですが、時代や国によって大きな違いがあります。前提となる「音楽家」の定義さえ人によって差があります。今、日本でヴァイオリンを学ぶ人の話として書いていきます。
 学ぶための楽器に係るお金に、下限も上限も平均もありません。
どんな楽器であっても、学ぶことはできます。楽器ごとの個性、ポテンシャルは値段と比例していません。極論すれば、1万円の楽器でも10億円の楽器でも学べることに差はありません。本人の意思が問題です。
 レッスンに通って技術を学ぶためのお金は、教える側の「言い値」です。決して「いいね!」ではありませんが(笑)それが現実です。交渉して決まることはありません。習う側が支払える金額と、教えてもらえる内容で選ぶしかありません。1レッスンが仮に60分だとして単価が5,000円の場合も30,000円の場合もあります。これも金額と内容が比例しているとは限りません。もっとも難しい選択になります。
 最も安いケースで考えて、一回60分のレッスンを月に4回程度受け、20,000円のお金が必要になります。1年間で24万円かかることになります。このっ金額でレッスンを受けられるケースは非常に少ないですが。
 ヴァイオリン以外にピアノや聴音、ソルフェージュ、楽典などの基礎技術を学ぶ方法として「独学」もありますが、現実的にはレッスンを受けるのが一般的です。月に1回だとしても、年間で60,000円はかかります。
 ヴァイオリンの弦を張替えたり、弓の毛を張り替える頻度は人によりますが、仮に毎日2時間程度練習するなら、半年に一度は張替えが必要だと思います。一般的なドミナントの弦をセットで張り替えて2セットで約10,000円ほど。弓の毛替えは一回6,000円ほどなので12,000円。それ以外に問題があれば費用がかさみます。
 何年かけて「音楽家」になれるのでしょうか?これが最大の問題であり、必要なお金が一番大きく変わる部分です。

 音楽高校や音楽大学に通ううことで、音楽家になれるとは限りません。
ただ音楽家になるための「時間」を効率化する意味はあります。
ヴァイオリンの実技レッスン、友人や先輩たちとのアンサンブルやオーケストラ、ピアノ副科、音楽理論や聴音・ソルフェージュなど多くのことを効率的に学べますが、問題は入学金と授業料です。
 国公立音楽大学にめでたく入学できた場合、入学金は30~50万円ほど。
私立音楽大学の場合は、150~250万円ほどの入学金が必要です。
授業料は、国公立で年間約90万円ほど。それ以外にも様々な名目でお金がかかります。
私立音大の授業料年額は、およそ3倍の200~250万円必要になります。
4年間在学したら、単純に4倍の授業料が必要です。
国公立の場合特に問題視されているのが、「個人レッスン」と名を付けて受領料以外にレッスン代金を取る先生が現実にいることです。私立の場合にはあまり耳にしませんが、いない!とは断言できません。その昔は、東京芸大に通う学生が、年間に支払う「レッスン代」が桐朋の授業料より高くなる!という悲鳴をい実際に聴きました。今はどうだか?知りませんが(笑)
 不届きな先生は別にしても、卒業するまでに国公立音大で、最低でも350~400万円はかかります。私立の場合には、入学金も含めれば、ゆうに1千万円を超えるお金が必要になります。「学費免除の特待生」になれるのは、何年かにひとり…と言うのが現実です。多くの学生が「借金」になる奨学金で通います。借金ですから当然、卒業後に全額返済する義務が本人にあります。稼げます?返せると思います?(笑)

 これらのお金を支払っても、音楽家になれないとしたら=実際になんの保証もありません。音楽大学を選びますか?4年間でかかる1千万円以上のお金があれば、プライベートレッスンに毎週通い、短期で留学したり、好きな楽器を購入できる金額です。4年間という「縛り」もありません。言い換えれば、4年制音楽大学の学部で4年間、学んで身に着けられる技術や知識、能力に1千万円の価値があるか?という疑問です。4年間、同じ内容の授業で学んでも、人によって身に着けられる技術が違うのも事実です。一人一人に適した学び方を選択できるほど、大学には自由度はありません。大学で教えてもらっていた実技の先生が、在学中に、定年前でも退職することも珍しい事ではありません。他大学の教員になるケースも当たり前にあります。違う先生に習えば単位は修得でき卒業できますが、学生にしてみれば納得できるものではありません。先述の通り、実技レッスンだけが音大で受けられる教育ではありませんが、主たる目的は「実技」を習うことのはずです。

 ここからは「生きるためのお金」について。
音楽家として生きていくために、収入となる仕事の内容は?
・演奏をして得られる演奏料金
・レッスンをして得られる指導料金
これ以外に音楽・演奏による収入はありません。
 演奏を依頼してもらうことは、簡単なことではありません。
どんな広告を出せばよいのか?いくらかかるのか?費用対効果は?
何よりも「どんな経歴=肩書がるか?」を第一に問われます。
●●音楽大学卒業…で演奏の仕事をもらえる時代は終わりました。
かと言って、音大を卒業していない人の場合には「●●コンクールで▲▲入賞」などの経歴を求められます。いくらプロフィールを書き連ねても、演奏を依頼する側はいろいろな候補者を比較して、より信頼できる人に演奏を依頼します。
 仮に個人的な交友のある知人から依頼される仕事があったとしても、単発の仕事では生活できません。毎週、友人が結婚式を挙げてくれるなら別ですが(笑)
 教える=レッスンをする仕事の場合、以前書いた通り「教室に雇用される」場合と自宅で生徒を集める場合があります。当然、後者の方が歩合・手取りは多くなりますが、生徒を集められなければ一円にもなりません。大手の音楽教室で雇われて、週に二日、5人教えたとしても手取りは月に3~4万円程度です。実家であれば暮らせますが…食費にもなりません。自宅で生徒を集めるための「宣伝」にいくらお金をかけても、簡単に生徒が集まるわけではありません。現実問題として、一人で生活できる金額を、レッスンだけで得られる人は極わずかです。多くの「音楽家」がアルバイトをしながら音楽家をしているのが現状なのです。

 学ぶためにかかったお金と、音楽家として得られるお金の「差」が大きすぎますね。どんな大学の学部で学ぶにしても「お金」はかかります。卒業後、学んだことを活かして生活する人は、大学卒業生の極一部です。大多数の卒業生は、学んだ事と無関係な職業で収入を得て生計を立てています。つまり「大学で学んだ事は生活とは関係ない」人がほとんだという事です。それが日本の社会全体で当たり前なのです。はっきり言ってしまえば、大学がなくても=大学にいかなくても、日本の企業は困らないのです。大学を卒業しなくても就職できます。中学を卒業してすぐに就職することが、実は一番コスパが良いことをマスコミが言わないのは「学歴」を否定されたくないという考えの人がマスコミの上層部に多いからです。中小企業で働く人口が8割の日本で、人手不足が深刻な2022年現在、大学で意味のない時間を過ごした22歳より、やる気のある15歳を雇い、手に職を付けてもらう事の方が、はるかに日本経済を立て直せることは間違いのないことです。「せめて高校」だった時代から「せめて大学」の時代になり、今は?「誰でも大学に行ける」時代です。大学卒業の「価値」はすでに1ミリもありません。
それなのに塾に通い高い授業料を払い「そこそこの高校」に合格し、「誰でも入れる大学」に入学し、「なにも学ばずに卒業」して「それまでと無関係の仕事」をする日本人。私には理解できませんが、それが「標準」なのだとしたら、音楽家は違います。学んで努力したひとだけが「お金」を得られます。それが嫌なら、音楽家を夢見るよりも、就職を考えるべきです。お金をたくさん稼いで、音楽を「趣味」にする方が、ず~っと楽しいのです。
音楽家と言う「肩書」にあこがれるより、音楽を演奏する楽しさを優先したいのなら、音楽大学に1千万円払わず、出来るだけ早く社会位に出て働き、お金を貯めながら好きな楽器を演奏することをお勧めします。
 現実的な話で申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人を魅了する演奏

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフ氏のハンガリー舞曲第5番(ブラームス)
前回のブログで「同じ人間」だからあきらめてはいけないのだ!と書いた翌日の今日、いつもの自己矛盾(笑)「神に近い人には近づけない」と言う意味不明の言い訳が頭を埋めております。

 何回も書いていますが私は「評論家」様を忌み嫌っておりますので、自分自身も誰かの演奏を「批評=あらさがし」をしたり「その人よりこの演奏家、知らないでしょ?」が大好きな知識ひけらかし星人でもありません。単に自分の好きな演奏をする人を尊敬し、憧れるだけの「普通の人」だと自負しておりますが、いかんせんお客様の前で演奏するなどと言う、おこがましい行為をしたりするので自分に対する自己批評だけは、常日頃から行っています。
 好みの問題…であることは事実です。この映像の演奏より「こっちが好き」と言う人がいても当然です。むしろ私の知る、ほんの少しの情報の中でこの演奏が好きというだけの話でもあります。私がなぜ?この演奏に魅力を感じるのか?考えてみます。

 どんな演奏家であっても、その人の性格や考え方をすべて知ることは誰にもできません。メディアに積極的に露出する演奏家であってもそれは同じです。
テレビや動画で話している姿、内容が本当にその本人の「本心」だとは言えません。つまり私たちは人を「外見」で判断するしか方法がないということになります。「ひとを見た目で判断してはいけない」と言うのは、例えば肌の色の違いや、話す言葉の違い、障がいの有無などで優劣をつけるのは、人として間違っていることを示しています。他人を完全に理解することは誰にもできないのですから、見た目=外見に限らず、他人を完全に理解出来たと思うこと自体が「勘違い」だと思っています。その意味で、演奏家はすべて「アイドル=偶像・虚像」だとおも言えます。「AK〇48と一緒にするな!」とお怒りの方には申し訳ないですが(笑)、それならあなたの尊敬する演奏家の「何を?」知っているのでしょうか。私生活を知っていたら、ストーカーです(笑)家族同士でさえ、ひとの考え方や行動を、すべては理解できないのが普通ですよね。
 演奏家の魅力は「演奏」なのです。正確に言えば、演奏している「音楽」と「姿=見た目」と聴く人が自分の中で作り上げた「偶像」なのです。それはどんな音楽のジャンルにも言えます。また俳優や漫画家、すべての職業についてもいえることです。自分以外の人が作る「もの」を使って生活しているのが人間です。誰が作ったのか?さえ知らない物に囲まれ、誰がどこで、いつ作ったのか考えもせずに、食品を買って食べているのが現実です。完全に自給自足できる人は現代社会では、ほぼ皆無だと思います。
 他人の演奏に「魅力」を感じるのは、ひとつに「自分にはできない演奏をしているから」という理由が考えられます。誰にでも、自分でも完全に再現できる演奏に魅力って感じますか?レンジでチンすれば、同じ味が楽しめる食品を創ったメーカーと職人さんは「すごい!」と思いますが、チンしてくれたひとの「魅力」は?ないですよね(笑)
 演奏の魅力、次に考えられるのは「聴く人を引き付ける演奏」です。
何に引き付けられるか?人によって違いはありますが、私の場合は演奏する音へのこだわりが途切れずに、音楽の最後まで続けられる人に引き付けられます。演奏者の「熱意=温度」を感じられる演奏でもあります。部活吹奏楽で「情熱をこめて!」を連呼する顧問を見かけますが、意味が違います(笑)聴く人が感じる演奏家の情熱です。演奏家がどれだけ、その音楽=演奏にこだわりをもって演奏しているかを聴く人が感じられるのは「演奏者の技術」があっての話です。情熱をこめている「演技=振付や表情」を意図的にしたり、生徒にさせるのは「お手!」をさせて喜んでいる飼い主と同じかそれ以下です。お手をして、ご褒美のおやつを食べられるワンコは救われますが、臭い芝居をして笑われる生徒さんに残るのはトラウマだけです。
 演奏家の技術が高く感じる時、当たり前ですが自分より良い練習をたくさんしているからだと思い知るべきです。「この人は天才だから」と片づける私は(笑)ただ現実逃避しているだけです。憧れる演奏に、自分が近づくために、自分に足りない努力を認めることから始めます。
 さぁこれからだ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「A」である前に、ひとりの「B人」として。

 今回のテーマ、どこかの学習塾の問題っぽい(笑)ですが、
Aに当てはまる言葉、Bに何も入れなくても「人」でも意味は通じます。
あなたならどんな言葉を入れますか?
・A=音楽家 B=社会・日本
・A=政治家
・A=大統領
などなど。色々考えられます。
 モラルは時代や国・地域によって違います。
たとえばヨーロッパでは昔、道路の真ん中を下水が流れていました。
日本の歴史の中でも、「仇討ち」が合法だった時代や、召集令状一枚でお国のために(謎)命を捨てることが美しいとされた悲しい時代もありました。
 2022年の日本に生きる私たち日本人が、最低限守るべき「モラル」があります。言い換えれば、許されない一線があります。
 「変わった人」と感じる人と、「変人・変質者」と感じる人の差はどこにあるでしょうか?この差こそがモラルハザードです。例えていうなら、誰にも迷惑をかけないコレクター=収集家は「変わった人」と言われるかもしれませんが、何も問題はありません。誰が考えても「ゴミ」にしか思えないものを拾い集めて自宅の敷地に積み上げる「ゴミや指揮」が他人に迷惑をかければ「変人」と言われても仕方ありません。
 日本の政治家で例えるなら、公務員としての責務を果たしながら自分の主義を持つ人は許されます。納税者=市民を苦しめる行動や言動は許されません。
 音楽の場合…

 「音楽家は変わった人が多い」と思われているようです(笑)
音楽家に限らず「芸術家」と呼ばれる人の中にかなりの割合で一般の人の考え方・生活スタイルと「少し」違う人もいるように感じます(笑)
ひとつの原因として、自分の好きなこと=芸術を優先している人が多いことが考えられます。経済的に貧しくても好きな事をできる「喜び」を感じる人でもあります。
 また別の要因として「●●バカ」と言われる人が多い=一般常識が欠如している人が多いのも事実かも知れません。「音楽家の常識=世間の非常識」とか。
 「音楽バカ」であっても他人に迷惑をかけない・不快な思いをさせないのであれば、何も問題はありません。ただ…残念ながら、他人への思いやりも考えられない「真正のバカ」になってしまう音楽家も中にはいるように感じます。
 自分が打ち込んできた…人生をかけてきた芸術に「誇り」を持つことは素晴らしいことですよね。ただそれは、本人だけの誇りであって他人に理解してもらえることではないことを理解できない人もいます。世間一般では「自惚れ屋・じこまん野郎」と呼ばれる人種です。周囲にいる友人も若いころなら「それ思いあがりだろ?」と釘をさしてあげますが、ある年齢を過ぎれば「放置」しますよね(笑)放置されていることに気付かないのも哀れな「裸の王様」の姿です。

 テーマにある「人として」が何よりも大切です。ひとりひとり、その考え方に差があるのは否めません。「ここまでなら許される」と感じるボーダーラインが違います。「みんなも守っていないから」と速度違反をする場合が、まさにそれです。人として「法を守る」ことについての意識には差があります。
 法には触れなくても「それって、どう?」と思う事があります。
言葉遣いと態度。これ、法律には書かれてません(笑)が、相手に不快な印象を与える「かも知れない」言葉遣いや態度を、平然としている人っていますよね?
元総理大臣にも心当たりが…。ま、それは老いて老いて←楽しい誤変換。

 音楽家の日常「あるある」
・他人との待ち合わせの約束を平気ですっぽかす奴
・他人との練習予定をキャンセルするのに見え見えの嘘をつく奴
・自分の責任にされないように巧妙に他人のせいにする奴
・相手によって言葉遣いと態度を使い分ける最低な奴
・金銭感覚の麻痺した奴
・常に自分が一番偉いと思って行動するイタイ奴
・さらってないのに人前で演奏して「ばれなきゃいい」と心でつぶやく奴
・ギャラの金額でさらう量を変える糞な奴

 え~っと。そんな音楽家にならないように気を付けましょう(笑)
少なくとも、お天道様が見ています!人の道に外れない生き方をしてこそ、「●●家」と呼ばれるに値する「人間」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介