メリーミュージックブログ

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2022年

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「なんとなく…」の少ない演奏や演技が大好き!

 映像は、私たち夫婦が大好きな「パトリック・チャン」のスケートによる「演技」です。フィギアスケートが「競技スポーツ」である場合、やれ「何回転ジャンプ」が成功しただの、着氷がどうしただので「減点」されて順位が決まるのは、音楽のコンクールでの「順位付け」と似ています。。ただ、私たちは同じ競技スケートでも、彼の「技術の高さ」が他の選手たちと根本的に違って感じます。それが何故?なのかを考えていきます。

「なんとなく滑っているだけ・動いているだけに見える時間が少ない」のが彼のスケートの魅力です。通常の「振付」だと、なんとなく音楽に合わせた「ようにに見える」動きなのに対し、彼は「動きに合わせた音楽」を選び、時にはつなぎ合わせて作り、さらにその音楽を動きで表現しているように見えます。この違いです。手をあげる…運動一つでも、なんとなく挙げているようには見えません。
 以前、スケート選手だった織田さんが「彼のコンパルソリー技術(昔の規定演技)はものすごいんです。一蹴りで恐ろしい速度で恐ろしい距離を滑るんです。スケーティングの時、エッジで氷を掴む音がものすごく大きい!」という話をされていました。何が違うのか?素人にはわかりませんが、オリンピック選手でさえ驚く「特定の技術」があることは確かです。

 「なんとなく音を出しているだけ・弾いているだけに聴こえる音が少ない」
これが私たちの好きな演奏・目指す演奏の一つの「理想」です。
何も考えずに・何も感じないで演奏している「演奏家」はいないと思います。
ただ聴いていて、なにも感じない「音=時間」が多い演奏と少ない演奏があるように感じます。聴く側の感性…好みの問題もあります。演奏者の表現が「内に秘めた表現」なのかも知れません。大げさなら良いとは思いません。
分かりやすい別の例えをしてみます。
以下の動画はある韓国ドラマの「日本語字幕版」と同じ場面を「日本語吹き替え版」で比較したものです。韓国語がわからなくても、「役者さんの話し方=演技」と日本人声優さんの「声の演技」の違いです。みなさんにはどちらが「自然」に感じるでしょうか?

 日本語に吹き替えてあることで、字幕を見なくても「話している内容」が理解できますが、実際に演じている韓国人の役者さんが話す「台詞(セリフ)」を声優さんが聴いて「それらしく」声で演技をしています。
 吹き替えは、実際のセリフを訳した台本を、元の音声の「タイミング」に合わせて声優さんが話して「合成」したものです。見ていて「不自然」に感じることは仕方ありませんが、楽譜を音にする私たち演奏家は、聴く人が「自然に聴こえる」演奏技術が必要だと思います。「棒読み」と言う表現は、
・文章の内容を理解していない
・「強弱」「緩急」「抑揚」がない
・「平坦で無表情な音読」
を言います。演奏を聴く人が「棒読み=棒弾き」に聴こえないように「こだわる」演奏が好きです。
 得点を競う「競技」と違い「芸術性」は点数化できません。
何かを感じる演奏…聴く人が専門家でなくても、クラシック音楽を普段聞かない人でも「なにか感じる」演奏を意識して表現したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達の個人差はなぜ?生まれるのか。

 今回のテーマは「個人差」について考えるものです。
人はそれぞれに違う「個体」です。育つ環境も違います。当然、性格も容姿も違います。それらの「人」が他の人と同じようなことができることと、出来ない(と感じる)ことがあります。
 二本の足で歩くことが難しい人も、たくさんいます。多くの歩ける人たちの中で、走れる人がいます。これも多くの人間が出来ることです。その走る行為の「速さ」を比較したとき「個人差」が現れます。100メートルを何秒で走ることができるか?たった数十年の間に「10秒以下」で走る人が次々に現れました。これは人間が進化したのでしょうか?それとも科学の進歩で、人間の筋力を増強する「技術」の成果なのでしょうか?
 同じ時代を生きる人たちの中で「能力差」があります。演奏にも「個人差」があります。「感性の違い」「解釈の違い」もあれば、「演奏技術の違い」もあります。たとえば、同じ年齢の何人かの子供たちに対して、意図的に同じようなレッスンをしたとしても、演奏技術の上達速度には必ず「個人差」が生まれます。
当然、評価も「同じ基準」で行う必要があります。例えば、リズムを正確に演奏する能力・ピッチを正確に演奏する能力・音名や用語を覚える能力などの違いです。練習環境・練習時間の違いが最大の要因であることは間違いありませんが、それ以外にどんな「違い」があるのでしょうか?

 「知識」「聴覚」「運動」の三つの観点から考えます。
 まず、知識を覚える「能力」と「好奇心」の個人差です。単純に楽器で音を出すというレベルでも、弦の名前やダウン・アップの違い、指番号など「覚える」ことがいくつもあります。それらを覚えることは「学習能力」とも呼ばれます。
同じ月例・年齢の子供でも、大人でもその能力や好奇心に大きな差があります。
教え方による違いもありますが、習う側の「個人差」が顕著に現れます。

 次に音を聴き、音の高さを聞きわける「聴覚」の個人差です。
いわゆる「聴力」とは違います。二つの違う高さの音を「どっちが高い?」と答える感覚の問題です。幼児の場合、言語化する能力の違いはありますが、大人の場合は「聴覚の違い」が明らかにあります。この感覚はトレーニングによって精度が上がります。幼児の時期から「音の高低」を聞きわける習慣のある・なしで、大人になってからスタートする楽器演奏技術に影響します。
音の高さを判別する力を判断する実験方法があります。試してみてください!
日本語…できれば標準語で(笑)以下の言葉で「音の高低」を答えられますか?
「かっぱ、ラッパ、かっぱらった。」
まず、「かっぱ」の「か」が高いか?「ぱ」の方が高いか考えてください。
両方を同じ高さで発音すること「も」できますが、あえて大げさに発音する時、どちらかが高くなり、もう一方が低くなります。さぁ!どちらでしょうか?
高い王の音をドレミファソの「ソ」で、低いと思う方の音を「ド」で弾いてみるとわかりますか?
「ド・ソ」か「ソ・ド」のどちらが「かっぱ」に聴こえますか?
童謡に「ラッパ」も「ド」と「ソ」の組み合わせで「ラッパ=トランペット」に聴こえるのは?
最後の「かっぱらった」の「か」「ぱ」「ら」「た」に「ド」を二つ、「ソ」を二つ当てはめて答えてください。正解は次回ののブログに(笑)うそです。

正解
かっぱ=ド・ソ
ラッパ=ド・ソ
かっばらった=ド・ソ・ソ・ド
です。当たってました?
方言によって違っていたらごめんなさい。
例えば「顎=あご」を岡山弁では「あご=ソド」あを高く言います。標準語では「あご=ドソ」ごを高く発音します。子供の頃、両親の岡山弁を聴いて育った私は、東京の小学校で「ソド」であごの事を普通に言っているつもりで、笑われた記憶があります。これらが「音の高低」を判断する聴覚です。皆様はいかがでしたか?
 ヴァイオリンで、ほんの少しだけ高すぎたり、低すぎたりして、先生から「音程!」と言われ続けたのは私です(笑)いわゆる「ピッチ」に対するセンサーの制度を高めるトレーニングが大切です。チューナーを有効に正しく活用することを強くお勧めします。
 ピッチだけではなく、音色を聞きわけるのも聴覚です。
高音の成分が多い音と少ない音の「音色の違い」を聞きわける技術。
たとえば、駒の近くを演奏したときの音色と、指板の近くを演奏したときの音色の違いです。駒の近くの音は「硬く」感じます。高音の成分が多いのが原因です。弓が少しだけ「跳ねている音」だったり、隣の弦に弓の毛が振れている「雑音」だったり、弓を返す瞬間の「アタック」だったり。聴かなければわからないこと=聴いて判別することがたくさんありますね。

 最後の個人差が「運動能力」です。足が遅いとか、球技が苦手…というお話ではありません(笑)楽器を演奏するために、指や腕を動かします。それが「運動」です。ヴァイオリンを演奏する大人の生徒さんが、弓やネックを「ちからいっぱい」握りしめている…一番多く見られる問題の一つです。
そもそも、4歳の子供でもヴァイオリンを演奏できるのに「大の大人」の握力・筋力が必要だと思いますか?(笑)4歳児と手をつないだ時の「弱さ=柔らかさ」で十分なのです。大人は身体がかたい・子供は柔らかい…とは限りませんよね。子供でも屈伸が出来ない子供もたくさんいます。大人でも180度開脚できる人はたくさんいます。思い込み=大人の言い訳を捨てましょう(笑)
 子供の筋力が大人より弱いのに、子供がヴァイオリンコンチェルトをバリバリ演奏できるのは?
「あれは子供用のヴァイオリンだから」いいえ(笑)普通のグランドピアノでショパンやリストを演奏する子供の場合、オクターブ届かないのにちゃんと弾いている動画を見かけます。ヴァイオリンだけは、子供の身体の大きさに合わせた楽器がありますが、大人用のヴァイオリンと構造も材質も全く同じです。つまり、子供の運動能力でヴァイオリンは演奏できる!ということです。
「私は運動神経ガ鈍いから」「体育の成績が悪かったから」大人の言い訳ですね(笑)これも無関係です。楽器の演奏に必要な「運動能力」は特殊なものです。
「瞬間的な運動」と「持続する運動」を使い分けることです。
さらに「脱力」も瞬間的な脱力と、徐々に脱力する運動があります。
難しいのは前者「瞬間的な力」を入れたり、抜いたりする運動を体得することです。以前のブログで、何度か書いていますので参考になさってください。
 力の「量」は少なくて良いのです。4歳児の「筋力」で良いのです。
プロの演奏を見ていると、物凄く筋力を使っているように見えるのは「外見的」なものです。ちなみにオーケストラの演奏中に一番、筋力を使う人は?
たぶん指揮者だと思います。え?まさか?と思う方、ぜひオーケストラの演奏動画で「引き画面=全体が映っている映像」をしばらく見てください。一番運動しているのは、指揮者だと思います(笑)

 最後に上記の「個人差」で演奏家の優劣が決まるか?というお話です。
結論から言えば「優劣ではなく個性になる」ということです。
大人になってから楽器を始めて、プロになる人は珍しくありませんし、むしろそれが自然だと思います。子供が大人のような演奏をすることの方が「異常=普通ではない」なのです。子供のころから習っていないからうまくならない…それも大人の言い訳です。むしろ、楽器の演奏以外の職業のほとんどは、大人になってから技術を学ぶものですよね?
 楽器の演奏練習で、子供と大人の違いは?
「自由に使える時間の量」だけです。
厳密に言えば「言葉の読解能力」や「集中力の長さ」「筋力」で言えば、大人の方が優れています。国や地域、家庭環境によっては、子供の頃から働かなくてはいけない=自由な時間がない子供もいます。多くの大人は自分で生活する「お金」を稼ぐために仕事をしなければなりません。自由な時間が少ないのは事実です。それぞれに「練習できる時間」に差があります。ただ、それだけ=時間の多さが「演奏家になる=上手に演奏めの条件」ではありません。
 プロの演奏家に求められる「技術」を趣味で演奏を楽しむ人が求めたい気持ちは理解できますし、憧れの演奏を真似することも楽しいものです。趣味の演奏と「プロ=職業演奏家」の演奏に、明確な違いや基準はありません。プロになれる練習方法や最低限の練習時間も、明確なものはありません。
どんな人でもじょうずになれます。到達レベル、目標レベルは人によって違います。上達速度に個人差があるように、あるレベルに到達するための「期間」も個人差がります。年齢に制限はありません。大人だからできない…と思い込むのは大人だけです(笑)逆に言えば、小さいときから練習すれば必ずじょうずになるとも言い切れません。「継続は力なり」です。やめないこと、あきらめないことで得られる「上達」を自分個人のものとして受け入れ、楽しむことが最も大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

19歳の自分を観察する62歳のおじさん

 映像は、1980年の窪田良作先生門下生発表会で演奏した、シベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノは大先輩の高橋せいたさん。
まぁヴァイオリンの演奏、傷だらけだこと(笑)きっとこの後の「点の声」メモは「音程!肘!」とか先生の怒りが込められていたと思われます。
 当時19歳。大学1年生の年度末実技試験の直前だったはず。
前年にハチャトリアンのコンチェルトを高校卒業試験で弾いて、何か成長しているのか?と思い返しながら聴いてみました。

 久保田先生のレッスンで、新しい曲を始める時には、直前に演奏した門下生から弓と指を写させてもらうのが慣例でした。レッスンではスケール、エチュード、曲を見て頂きます。曲の歌い方や解釈について、生徒の感性を優先してくださり、細かいニュアンスを「こうしなさい」と言うお話をされた記憶はありません。もしかすると諦められていた私だけ?(笑)でも、時折素晴らしい声で歌ってくださることが、何よりも記憶に残っています。
 それにしても…このシベリウスは…(笑)
さらっていない?わけではなさそうですが、「練習が足りない」の一言に尽きます。当時も卒業時も久保田先生に「他の先生方からも言われるんだよ。野村くん、もっと練習すればもっとひけるのにねぇって。」
私「心を入れ替えます」
先生「その言葉、毎回聴いてるよ」
撃沈…
実際、なんでもっと練習しなかったのかな~と今更思って見ます。
一言で言えば「欲が足りない」のだと思います。それは現在の私の生徒さんたちに「しっかりちゃっかり」引き継がれています。まずいぞ…
 さらに言えば、高校大学時代の友人が「うますぎた」という「他人のせい」にしてみます。←さいてー。高校時代の同級生、金木(チェロ現在棟フィル首席)と木全(ヴァイオリン現在N響)は、そりゃまぁうまかったわけで。
大学に進んで。木全はN響に入団が決まり入学後すぐに退学。大学から同期になったヴァイオリン専攻の人とは交流がない。なんとなく?過ごしていた気もします。ダメだろ(笑)
 今聴いてみると、シベリウスの音楽に「何か」を感じているらしい…のですが、技術が追い付いていないわけで、今私がこの学生に言うなら「このままだと、ただの石ころで終わるよ」かな?言えるかな(笑)

 音楽高校音楽大学で、たくさんの人たち色々なアンサンブルをさせてもらいました。高校時代は、弦楽カルテットを同期の友人と。大学に入って、先輩に声をかけてもらって、ピアノカルテットのヴァイオリンやヴィオラ。ピアノトリオ。ピアノとと二重奏。ホルンカルテットとフルートカルテットでBヴィオラ。なんやかんやと毎日のように夜9時まで、なにかの「合わせ」をしていたような記憶。自宅に帰るのが億劫になり始め、両角寮=男子寮に転がり込んで寝たこともしばしば。
 大学1年でなぜか?学生会の役員に「やって」と先輩に言われて(笑)、とうほ際の前後夜祭担当のお仕事をもらい、プレハブの学生会室に入り浸り、「小澤まめ兄」と出会いました。レパートリーオーケストラに昇進(笑)させてもらって、初めてのオケ合宿で北軽井沢。定期演奏会デビューのはずの「ハイドンバリエーション」で張り切っていたのに、直前に「盲腸=虫垂炎」で手術入院。忘れもしない9月4日。パンダのランランかカンカンが死亡したというニュース速報を、手術待ちの病院テレビで聴いていました。どーでもいいことを覚えている…
 大学1年からは「桐朋祭の鬼」と化し(笑)、毎日学生会室で過ごす日々。
さらっていた記憶が…ほぼない。


 

 

なんか…青春しているなぁ(笑)大学時代、一番長くいた場所がもしかすると学生会室、次が学生ホール、その次が事務実(笑)、さらっていたんだろうか…。
でも室内楽のレッスンは色々受けてました。浩子さんと当時「彼氏」だったチェリストとピアノトリオで、原田幸一郎先生と田崎悦子先生が帰国されたばかりで、まだ桐朋の先生ではなかったのに希望を出したらレッスンをしてくれた思い出。大学2年でマスターオーケストラに昇進させてもらって、演奏旅行にも連れて行ってもらいました。春の祭典、第九は印象深いです。でも…さらってなかった(笑)なんででしょうねぇ。プロオケの「トラ」にも行かせてもらうようになって、勉強になりました。アマチュアオケのトラもたくさん行かせてもらって、当時一番ギャラの良かった「スタジオ」もたくさんやりました。夜の9時から深夜までレコーディングスタジオで、演歌やら童謡やら歌謡曲の録音。キティスタジオで熱海?に泊りがけのお仕事があったり。横浜の「ホテル ザ・横浜=通称ザヨコ」で毎週披露宴でヴァイオリンを演奏するお仕事もしてました。栗原小巻さん主演「桜の園」のお芝居を下北沢の劇団「東演」が上演したときには、東京公演一か月と地方公演一か月、ずーっと「ユダヤ人の楽士」役で衣装を着て参加してました。練習するより楽しい」ことがたくさんあったような気もしますが、練習から逃げていたことも事実です。

 練習嫌いだった私が言うので説得力はありませんが(笑)、音楽を演奏するために必要な「技術=テクニック」は練習で身に着ける以外、方法はありません。
ただ…音楽を感じる「センサー」や「アンテナ」は練習では得られません。
さらに、友人の練習や演奏を観察することで得られる「情報」もひとりで練習していても得られません。レッスンで師匠から学べること「以外」に、学ぶべきこと、磨くべきものはたくさんあると思います。友人との会話や音楽以外の生活からも、「人として」学ぶべき時期に学ぶものがあります。
 技術と共に「人としての魅力」を若い時に学べるか?年をとっても「人間らしい音楽家」でありたいと思っています。そして、もし!40年前の自分に会えるなら「さらいなさい!」…言っても聞かないだろうけど(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

音楽の印象を変える演奏方法

 映像はデュオリサイタル10で演奏したピアソラのリベルタンゴです。
すべての音楽は演奏者によって異なります。仮にまったく同じ楽譜を演奏したとしても演奏者が違えば、テンポも音色も音量も違って当たり前です。
 同じメンバーで同じ楽譜を演奏しても、弾き方を変えれば印象は変わります。
リベルタンゴは過去に何度も演奏してきました。また11月の木曽町でも演奏しようかな?と思って過去の自分の演奏を見直しています。

 こちらのリベルタンゴはデュオリサイタル4で演奏したときのものです。
冒頭の演奏と聴き比べて頂くと、違いを感じて頂けるかと思います。
楽譜はデュオリサイタル4で演奏したときのものがベースです。このアレンジに手を加えたのがデュオリサイタル10の演奏です。楽譜が違うだけ?ではありません。アクセントの強さ、音色も変えた「つもり」ですが(笑)
 好みが分かれることはどんな音楽を演奏しても、聴いてもあって当然です。
演奏者が演奏の「スタイル」を変えることは、リスクを伴うものです。YOUTUBEでもCDでも、同じ演奏が気に入れば何度も繰り返して聴いたり見たりするものです。演奏の細かい部分までが聴こえるようになることも珍しくありません。その演奏の「個性」として感じるようになります。言い換えれば「特定の演奏が好き」になることです。そのお気に入りの演奏に期待して、ライブ=コンサートでの生演奏を聴きに行ったひとが「違和感」を感じることもあります。「ライブあるある」なのですが、ポピュラー音楽でもこの話題は耳にします。歌手、演奏者によっては「ライブだからこそCDと違う演奏を聴いてほしい」と考える人と、逆に「CD=以前の演奏とと同じ演奏を心掛ける」人に大別されます。演奏者の「考え方」の違いです。クラシック音楽でも珍しい話ではありません。演奏するたびに「変化」するのが自然だと思っています。それが仮に「一か月」という短い時間経過であっても、演奏は変わるものだと思います。
ましてや何年も経てば、演奏者自身の成長と変化があります。成長は年齢とは無関係ですが、肉体的な衰えがあるのも極めて当たり前のことです。衰えた筋力や運動能力を「経験」で補い成長することもあります。

 弾き方を変える「理由」にはどんなことがあるでしょう。
ただ思い付きで「行き当たりばったり」に代わるのはむしろ練習不足だと言えます。練習の段階で、今までのひき方に疑問を感じる場合もあります。さらに年齢を重ねて「感じ方」が変わる場合もあります。若いころには魅力を感じていなかった曲の「良さ」を感じたりします。逆の場合もあります。単に「飽きた」という事ではなく、魅力が薄れて感じられる場合も珍しくありません。
 演奏方法がいつも変わらない人を「悟りを開いた」(笑)ある領域に到達した人だと見ることもできます。聴く側にすればそれでも問題ありません。好きな演奏をいつでもしてくれるのですから(笑)つまり「特定の演奏」が好きになるのは「録音された音楽」でしかありえないのです。それを演奏者が生演奏で再現する必要があるでしょうか?録音と同じ「音」を生の演奏会場で完全に再現することは、物理的に不可能です。CDとまったく同じ「音」の演奏をライブ=生演奏に期待すること自体が間違っています。ライブの「良さ」は、その瞬間の良さです。再現は出来ないのがライブです。私自身が、自分たちのライブ映像をたくさんアップしている理由の一つはそこにあります。
 クラシック音楽は「生演奏」こそが楽しめるものだと思うようになりました。
その自分が演奏会で、どんな演奏をするのか?を自問自答しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

演奏家の「in put=入力」と「out put=出力」

 映像はヴィヴァルディの二つのヴァイオリンのための協奏曲 第2楽章。
久しぶりに生徒さんのレッスンに採用(笑)です。
 今回のテーマは、音楽を「読み込み」「解釈・練習」「演奏」までの流れを考えるものです。オーディオ好きの人なら「in put・out put」が何を意味するか想像できますね。一昔前の「レコード針とカートリッジ」がオーディオの「入口」でした。そこから「神経」でもあるケーブル=コードを通って、「プリアンプ」に到達。そこで音作りが「処理」されます。さらにケーブルで「メイン暗譜=パワーアンプ」に到達し電気信号が「増幅=大きく」されます。さらにスピーカーケーブルを通った信号は出口である「スピーカー」に到達し、コーン紙を振動させ筐体=箱の中でさらに響いて、最終的に「音」として私たちの耳に伝わります。長い道のりです(笑)

 今でも行われる「録音」でも、入口と出口があります。
演奏される「音」は空気の振動です。それを「マイクロフォン」が電気信号に変えます。これが「入口」。そこからケーブルを通って「ミキサー」…料理用ではない…に到達し「増幅」されます。そこで処理され、昔なら「オープンリールテープデッキ」今ならPCMレコーダーに到達し電気信号として「出力」され記録されます。宇宙語が並びましたが、ここから演奏の話です(笑)

 生徒さんの中で「出力方法がわからない」タイプの人が多く見られます。
 演奏の場合「入力」は「楽譜を読む」「音源を聴く」ことです。それらを自分の感性と身体を使って練習して「出力=演奏」するプロセスがあります。
 もちろん、楽譜を読むことが苦手な生徒さんもいます。時間をかけて自分の脳に「入力」します。その時点では、まだ自分がどんな風に?演奏したいのかという「目標」が見えないことがほとんどです。練習を「処理」と例えると味気ない気がしますが(笑)事実、入力した情報を自分なりに解釈したり、考えたりすることは「処理=演算や計算に近い作業」です。
 考えた結果、目指す演奏が少しずつ見えてきます。それを実際に音にするのが「出力=演奏」です。どうすれば?自分の出したい「音色」や「テンポ」で演奏できるのか?その方法がわからない生徒さんが、たくさんいます。

 原因の一つが「伝達の不具合」がある場合です。
先述のオーディオに例えれば、雑音が入っていたり音が出ない原因が「ケーブル」の不具合である場合です。
 人間の運動は「脳」から、からだの各部位に「信号」が伝達されます。この信号がうまく制御=コントロール出来ていない場合、思ったように演奏できません。さらに「処理=CPU」がパンクすれば信号は伝達できないのです。
同時にいくつもの筋肉、両手に違う「命令」を出し続ける楽器の演奏は、脳にとってかなりの重労働です(笑)右手は左脳、左手は右脳からの信号で動いています。同時に両手を使えば、脳は「パニック」を避けるために「無意識」になります。つまりどちらか片手の運動だけを「意識」しようとするのです。
 どうすれば?両手を同時に制御できるのでしょうか?パソコンのように「マルチコア」で複数の作業を同時にこなす方法はないのでしょうか?
 実際に実験しますので、以下の通りに両手を動かしてみてください。
1.両手を軽く「ぐー」にします。
2.右手の「人差し指・中指・薬指」の3本を「伸ばすイメージ」を持ちます。まだ動かさないで下さい(笑)
3.左手の「親指・小指」を「伸ばすイメージ」を頭に思い浮かべます。まだですよ(笑)
4.まだ両手は「ぐー」です。そのまま、両手のそれぞれの指が「伸びている」イメージを頭に一生懸命、描いてください。まだ動かさないで(笑)
5.ぐーになっている両手を見ながら「一気に」イメージ通りに「パッ」と力を入れずに動かします!パッ!(笑)
 できましたか?どれか違う指が動いたとしても、結構近くありません?
一度に両手に違う動きを「命令」しようとするなら、一つのイメージにして脱力することが最大のコツです。右手の3本の指だけを意識しながら、左手の親指と小指を無意識に一度に動かすことはできないのです。それが私たちの「脳」です。

 思ったように出力=演奏できるように、自分に足りない「知識」と「技術」を新しく追加で「入力」する必要がある場合について。
 切れない包丁でいくら頑張っても、綺麗にトマトやお魚は切れませんよね?
包丁を「研ぐ」知識と技術を入力する必要があります。
 オートマ限定免許の人が、マニュアル車を突然、運転しなければならなくなったら?「クラッチペダル」の存在と使い方を入力しないと始まりません。
 演奏家が今現在、持っている技術・知識だけでは、思ったように演奏できない場合、困ったことに「なにが足りないのかわからない」ことが多いのです。できない原因がわからないと、対処のしようがありません。
 私たちの「病気」に例えるなら、頭が痛い症状がある時、原因を見つけることが大切です。やみくもに痛み止めを飲むことが逆効果の場合もあります。病院で検査をして「原因」を見つけて、治療が始まります。それと同じです。
 うまく演奏できない原因を、自分だけで見つけようとするよりも、誰かの意見を聞くことが最も効率的な対策です。新しい知識や技術を「入力」し、自分のものにできるまで「処理」と「出力」を確認することです。

 私たちは日常生活でも、知らないことや初めてのことに出会って、その都度対処しています。その積み重ねこそが「生きる術=すべ」です。演奏家が自分のできないことを見つけ、出来るようにするプロセスを「入力→処理→出力」という3段階で考えて、冷静に観察することが上達への「ガイド」になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「予習と復習」

 映像はアンドレギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。次回リサイタルではヴィオラで演奏する予定ですが、今回敢えてヴァイオリンで演奏してみました。
 さて今回のテーマは、予習と復習。「学校か!」と突っ込まれそう(笑)
プロでもアマチュアでも「練習」する時に、自分がなにを?練習しているのかをあまり考えずに「ただ練習している」ことがあります。練習の中身をカテゴライズ=分類することも、効率的に練習することに役立つかも…とテーマにしました。

 初めて演奏する曲を練習する時、あなたは何から始めますか?
その人の楽譜を音にする技術「読譜力」によって大きな違いがあります。
すぐに楽譜を音に出来る人なら、手元に楽器がなくても、楽譜を見て「曲」が頭に浮かびます。
それが出来ない多くの生徒さんの場合、まず「音源」を聴くことからスタートするのではないでしょうか?私は、初めからヴァイオリンを使って「音」にすることはお勧めしません。ヴァイオリンで音の高さを探しながら、リズムを考え、指使いを考えながら演奏すれば、音が汚くなったり姿勢が崩れるのは当たり前です。さらに演奏に気を取られ、間違った高さやリズムで覚えこんでしまう危険性も高くなります。ぜひ、初めは音源を聴きながら楽譜とにらめっこ!してください。これらの練習が「予習」にあたります。
 さらに、作曲家について、作品について「ググる」事も予習です。他にどんな曲があるのか?この楽譜を他の楽器で演奏している
動画や音源はないか?などなど情報を集めることも立派な練習=予習です。

 予習はそのまま「復習」につながります。え?すぐに復習?(笑)
自分の演奏技術を再確認しながら練習することは「復習」ですよね?前に演奏した音楽を練習すること「だけ」が復習ではありません。譜読みや音源を聴く「予習」が終わったら、実際に楽器を使って音を「創る」作業に入ります。演奏の癖の確認、修正したい持ち方や弦の押さえ方の確認、なによりも「音」を出すことへの復讐が必要です。
 今までに知らない演奏方法がある場合には「予習」が必要です。自分の知っている演奏方法を確認しながらの作業です。例えば「重音の連続」だったり「フラジオレットの連続」だったり「左手のピチカート」だったり…。どうやるのかな?を学びます。
 常に予習と復習が「入り混じった練習」になりますが、曲を完全に「飲み込む=消化する」までの期間は、どうしても技術の復讐よりも予習が優先します。
 自分の身体に曲が「しみ込んで」身体が「自然に反応する」まで繰り返すうちに、次第に「復習」の要素が強くなります。つまり「思い出す」ことが増えてくるのです。

 生徒さんの多くは「自分の演奏動画・録音を聴くのが一番イヤ!無理!」と仰います(笑)気持ちはよく理解です。ただ自分の演奏を「何度も聴く・見る」つまり「復習」をしなければ、上達は望めません。何が出来ていなくて、何ができているのか。。「思っていた=できると思っていた」演奏と現実の具体的な違いはなにか?出来なかった「原因」はどこにありそうか?などの推察など、演奏からでしか得られない「復習課題」を失敗を見るのが嫌だから見ない・聴かないのでは、子供が点数の悪いテスト解答用紙を、破り捨てるのと同じことです。反省こそが最大の復習です。
 さらに自分の演奏を他人に聞いてもらう・見てもらう事も重要です。その感想が良くても悪くても、自分の「感想」と違うはずなのです。自分で気づかない「良さ」や「課題」を見つけられる貴重な機会です。
 練習がただの「運動の反復」にならないように、子供の頃の「予習と復習」を思い出して、自分の演奏技術を高めましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介