もしもピアノが弾けたなら♪

 映像は、ゲーテの詩にチャイコフスキーが曲を作った「ただ、憧れを知る者だけが」を、「ソ連」を代表する歌手「ヴィシネフスカヤ」が歌い、夫であるチェリスト「ロストロポーヴィチ」がピアノを演奏しているものです。
 次回のリサイタルで演奏するための「予習」で色々な演奏者の演奏を聴いています。そんな中でロストロポーヴィチのピアノが「うますぎる!」(笑)
 私自身、ピアニストの演奏技術については無知なので、この演奏が本当に「うまい」のか?ピアニストの方から見たものとは違うと思います。
 学生時代、ロストロポーヴィチが桐朋学園に来られた際、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮し、ハイドンのチェロコンチェルト第1番を演奏して「実地訓練」(笑)をしてくださったことを懐かしく思い出します。
 指揮にしてもソロにしても「音楽の静と動」特に「前に進む音楽」を強く指示されていました。かと思えば弦セレの1楽章中にある「リタルダンド」部分で「アイシテル!アイシテル!ア・イ・・シ・・テ・・・ル~♪」と日本語で歌いながら「流れを止める」技術(笑)も見せてくれました。
 そんな偉大なチェリストが演奏する「声楽の伴奏ピアノ」を聴いて思い起こすのは、世界的なヴァイオリニスト「ヤッシャ=ハイフェッツ」のピアノ演奏です。実際に演奏している動画がこちらです。

 うますぎる(笑)「天は二物を与えず」って嘘だべ。
ここまで来たらこの人のピアノも(笑)フリッツ=クライスラーの演奏するドボルザークのユーモレスク。

 なんだなんだ!みんなピアノうますぎるぞ。
音楽高校入学試験に「ピアノ副科」があります。私も受けました。
高校・大学で副科のピアノは必修で試験も受けました。高校3年のピアノ副科試験でベートヴェンの「悲愴」1楽章を弾きました。スケール全調…その場で試験官の先生から指定される音階を私も弾きました。
 さらにさらに!20年間、中学校・高校の音楽教諭として合唱の指導で「音取り」のピアノも「伴奏ピアノ」も弾いていました。校歌も20年間、事あるごとに弾いてました。なのに。あーそれなのに(笑)どーして、私にはピアノがうまく弾けないのでしょうか。
 答えは簡単「うまくなる気がない」それだけです(笑)練習しないのに、うまく弾けるはずがありません。当然です。
 …ん?そうすると,ロストロポーヴィチもハイフェッツもクライスラーも「ピアノを練習した」のです。それ以外ありえません。あんなにチェロやヴァイオリンがうまい方たちが「ピアノもうまい」わけです。
仮説(笑)
「ピアノが楽器演奏の基本だからピアノもうまくなった」
「彼らはピアノを演奏するのが好きだった」
「チェロもヴァイオリンもうまい人はピアノもうまい」
「野村謙介は特にピアノがへたである」
恐らくすべて正解です。
ピアノを上手に弾ける方々を、心から尊敬しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ジャンルを超えた「感性」

 八神純子さんの「パープルタウン」です。
ウィキペディアによれば…
[1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。
3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。
一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。
愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。」
だそうです(笑)

 私と同世代の八神純子さんの歌う声に、学生時代から不思議な魅力を感じ、レコードを買い「オーディオチェック」にも使わせてもらっていました。ちなみに、当時オーディオチェックには「岩崎宏美」さんのレコードも良く使われていました。人間の「声」を美しく再生できることが良いオーディオの基準でしたので、この二人の声はジャンルに関係なく、多くのオーディオファンが聴いていました。

 ただ「高い声を出せる」とか「声域が広い」と言う歌手は他にもたくさんいます。また、その事を売りにしている歌手もいます。それはそれですごいと思います。私が「感性」と書いたのは、音の高さ…では表せない「歌い方」の個性を強く感じているからです。
 ヴァイオリンに置き換えるなら「音程の正確さ」「音量」よりも「演奏の仕方」です。
 歌は人間の声を使って音楽を演奏します。当然、一人一人の「声」は違います。楽器の個体差よりも、はるかに大きな個人差があります。聴く人の好みが大きく分かれるのも「声=歌」です。八神純子さんの「声」が好きなだけ?と問われれば…否定は出来ません(笑)
 八神さんの「歌い方の個性=技術」を考えてみます。

「ヴィブラートの使い方」
「長い母音の歌い分け」
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」
「音域ごとの声質の使い分け」
どれも「プロの歌手ならやってる」のでしょうね(笑)
もう一度、このポイントを覚えてから、映像の歌声を聞いてみてください。
「普通じゃない」ことに気付いてもらえると思います。
これらのポイントはすべて「ヴァイオリンの演奏」に置き換えられます。
「ヴィブラートの使い方」←そのまんま(笑)ヴァイオリンに言えます。
「長い母音の歌い分け」←長いボウイングでの音色・音量のコントロールです。
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」←弓を返してもフレーズを切らない。
「音域ごとの声質の使い分け」←弦ごとの音色の使い分けです。
ヴァイオリンでこれらのすべてが「個性」につながることは、以前のブログでも紹介しました。
 しかも八神純子さんの「正確さ」についても、述べておきます。
ピッチの正確さは、どの歌手にも劣りません。しかもピアノを弾きながら歌うことがほとんどの彼女が、バックバンドのドラムやペースのライブ音量=大音量の中でも正確に歌っている姿を見ると、ピアノの「音」を聴きながら同時に自分の声を聞き取ろうとしている…と推測できます。

 歌手の「うまさ」をどんな基準で測るのか?と言う問題には様々な意見があります。それはヴァイオリンやピアノの演奏技術、フィギアスケートの評価などにも言えることです。
「間違えないこと」が「うまい」ことは確かです。
では「間違えないだけ」がうまいことの「基準」かと言えば違います。
「他の人が出来ないことをする」のも、うまいの一つです。
言い換えれば、「まちがえない人」が、できないこと…これは「相対比較」なので無限にあります…をできるのも「うまい」ことの基準だと思います。
 たとえば「高い音にヴィブラートをかける」ことや「短い音にヴィブラートをかける」こと、ヴァイオリンなら「重音にヴィブラートをかける」←ヴィブラートの話ばっかり(笑)その他にも「音色の豊富さ」「音量の変化量」など、「正確」以外の要素も聴く人に感動を与える要素だと考えています。
 世界中に「歌のうまい歌手」はたくさんおられます。
それぞれの歌手が「個性的」で、聴く人の心に訴えかける「なにか」を持っています。その「なにか」を「人間性」と言う人もいますが、私はそれこそが「技術」だと思っています。
 自分の演奏を聴いて「いい演奏だ」と思える日が来るまで、人の演奏を聴いて感動することも大切な「貯金」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介