チェロとヴィオラとヴァイオリン

 映像はデュオリサイタル8で演奏した、サン・サーンスの白鳥。チェロを演奏できない私がヴィオラで、浩子さんのピアノと演奏したものです。
作曲者が「特定の楽器」のために楽譜を書いた作品はたくさんあります。
この白鳥に限らず、私たちが耳にする演奏の多くは、オリジナルの楽器で演奏されたものです。オーケストラで演奏するための楽譜、声楽とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、弦楽四重奏などなど音楽のほとんどには「オリジナル」の楽譜があるものです。
中には作曲者自身が、異なった種類の楽器でも演奏できる楽譜を書き残した作品もあります。エルガーの愛の挨拶も、ヴァイオリン用の楽譜は「Edur」フルート・チェロで演奏するために「Ddur」のが区譜を書いています。そのほかにも、シューマンのアダージョとアレグロは、ヴァイオリン・ヴィオラ・ホルン・チェロの楽譜が掛かれています。サービス精神旺盛(笑)

 オリジナルの作品を、のちに違う楽器で演奏できる楽譜にする=演奏することも、珍しくありません。ポピュラーで言えば「カバー」と呼ばれるのもこの類です。
その場合、オリジナルの「演奏=音」に慣れ親しんでいる人にとって、時に違和感や不快感を感じるケースもあります。自分が好きな曲・演奏ほど、その傾向は強くなります。私の場合、オフコースが歌っていた「眠れない夜」と言う曲を、ある歌手がカバーして歌っているのを聴くのが、とても不快でした。その人がうまいとか下手とか言う問題ではなく、ある意味でその曲が「神聖な」ものに感じていたからです。皆さんも似たような経験はありませんか?私だけ?

 さて、白鳥に話を戻します。
この演奏は、オリジナルのチェロ演奏と、まったく同じ高さの音=同じ音域でヴィオラで演奏しています。ヴァイオリンでこの「実音」を出すことは不可能です。
だからと言って、チェロの音と「そっくりの音」になるかと言うと、残念ながら?当たり前のことながら、そうはなりません。音の高さは同じでも、楽器の構造が違いすぎるからです。4本の弦を「C・G・D・A」に調弦することはチェロとヴィオラは同じです。ただ音の高さが実音で1オクターブ違います。楽器の筐体=ボディの大きさがまるで違います。弦の長さ・太さがまるで違います。
 音域・音量・音色のすべてが違う楽器なのです。似ていることはいくつもありますが、「音」としては、まったく違うものです。
コントラバスやチェロで演奏できる「高音」は、ヴィオラやヴァイオリンと同じ音域を演奏できる上、とても近い音色」が出せます。単純に音域の広さの問題だけではなく、太い弦で弦の長さを短くして出せる「高音」は、ヴィオラとヴァイオリンに近い音色を出すことができるという「強味」があります。
 ヴィオラでチェロの「雰囲気」は醸し出せても、チェロの音色は出せません。
私たちがこの曲を演奏する時も、オリジナルの演奏「チェロの音」が好きな人にはもしかすると「嫌な感じ」に聴こえるかもしれないことを、演奏前に予めお話してから弾き始めます。

 先述の通り、楽器のよって演奏できる音域=最低音から最高音が違います。
特に「低音」の幅が大きい楽器、弦楽器で言えばコントラバスやチェロのために書かれている楽譜を、音域の狭いヴィオラ、ヴァイオリンで演奏すると単純に「高く書き換える=移調する」だけでは演奏できないか、できたとしても「途中で折り返す=低い音に下がって上がり直すしかありません。。
一つの例ですが、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」と言うチェロのために書かれた曲を、ヴィオラで演奏しようと挑戦したことがあります。
様々試してみましたが、どうしてもこの曲の最大の魅力でもある「アルペジオ=分三和音」を原曲の通りには演奏できない=ヴィオラの音域が狭いために、聴いていいて違和感が強すぎて諦めました。実際にヴィオラで演奏している動画もいくつか見かけますが、オリジナルを知っている人間には「無理してひかなきゃいいのに」と言う印象が残ってしまいます。

 前回のリサイタルで演奏した、カール・ボーム作曲の「アダージョ・レリジオーソ」と言う曲は、原曲=オリジナルはヴァイオリンの楽譜です。実際に以前のリサイタルではヴァイオリンで演奏しました。それを、ヴィオラで演奏するために、オリジナルとは違うオクターブにしたり、カデンツァを書き換えたりしました。あまり演奏されることのない(笑)曲なので、お聴きになったお客様方にも違和感がなかったようでした。

 最後になりますが、作曲者が考えた「楽器と音楽」を、違う楽器で演奏する場合に、原曲との違いを演奏者がどのように「処理」するかの問題だと思います。
聴いてくださる人の中には、嫌だと思われる人も少なからずいらっしゃるはずです。それでも、自分が演奏する楽器で、お客様に楽しんでもらえる「自信」と「覚悟」がないのなら、演奏すべきではないと思います。
ピアノ曲をヴァイオリンで演奏し他場合に「なんか変」と多くの人が思う曲もあると思います。「それ、ありかも」と思われるピアノ曲もあるでしょう。単に楽譜があったからという理由や、有名な曲だからと言う理由だけで、「異種楽器演奏」することには、私は賛成できません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノのアレンジで変わる音楽

 映像は、ドボルザークの「ロマンティック・ピース」第1回のデュオリサイタルで演奏したときの録音です。ふたりで開く初めてのリサイタルでした。

 今回のテーマは主にピアニストとの二重奏で感じる「ピアノアレンジ」について。アレンジと言うと、いかにも編曲したと言うイメージになりますが、要するに「ピアノパート」の楽譜について、ヴァイオリン演奏者として考える内容です。ピアノをまともに演奏できない私が「偉そうに!」と思われるのを覚悟で書かせてもらいます。

 今までに浩子さんとふたりで、本当にたくさんの「二重奏」を演奏してきました。
その中には作曲者自身が、「ピアノとヴァイオリン」の楽譜を書いた作品もありますし、原曲はオーケストラの楽譜だったり、ボーカルとバンドの楽譜だったり、ギターとヴァイオリンの楽譜だったりと様々な「楽譜」を、ピアノとヴァイオリン、ピアノとヴィオラで演奏できるように書かれた楽譜を使ったり、自分たちで楽譜を作ったりしたものもたくさんありました。
 その音楽の中で「ピアノパート」は、主旋律を変えずに音楽の印象を根底から変える重要性があると思います。その理由を考えていきます。

 何よりも、ピアノと言う楽器は旋律も和声も演奏できる楽器だと言う当たり前の事を考えないでは話ができません。言い換えれば、ピアニスト一人=ピアノ1台で「音楽を完成できる」楽器なのです。一方で、ヴァイオリン・ヴィオラは「単旋律楽器」の部類に属します。確かに重音=2声の和音を演奏できますが、管楽器と同様に主に旋律を演奏することに特化した楽器です。
 先にヴァイオリン・ヴィオラがピアノに「出来ない」こと=ヴァイオリン・ヴィオラに出来ることを挙げておきます(別に悔し紛れではありません笑)
・発音してから音の大きさを自由に変えられる。
・音の高さを半音より細かく変えられる=ビブラートがかけられる。
以上です(笑)あ。持ち歩ける…(悔し紛れ)
 では、ピアノに出来てヴァイオリン・ヴィオラに出来ないことです。
・3つ以上の音を同時に演奏できる。
・音域がすべての楽器の中でも特に広い(ヴァイオリンの3倍以上)
・ヴァイオリンより大きな音量で演奏できる。
細かいことは除いて考えて、上のような違いがあります。
その違いが二重奏で、どのように活かされているか?について考えます。

 ピアノで演奏する場合に、発音された音は必ず「減衰=だんだん小さくなる」のが打弦楽器の特性です。ゆっくりした音楽の長い音符を、ピアノで演奏した場合は、どんなに頑張っても音は次第に弱くなっていきます。同じ高さの音をヴァイオリンで演奏した場合、音の大きさを次第に大きくすることも、ピアノと同じ速度で弱くしていくこともできます。当然ですが音の高さが同じでも、ピアノとヴァイオリンは音色が決定的に違いますが、音量を二人(ピアノとヴァイオリン)がコントロールすることで、聴いている人に「ピアノとヴァイオリンの音が溶けて聴こえる」現象が起こります。簡単に言えば「新しい音色」が生まれることになります。音量のバランスは以前に書いた通り、演奏者自身が感じるバランスと客席で聴こえるバランスは全く違います。客席で聴いている「耳」にふたつの楽器の音量が同じように聴こえる時にしか生まれない「音色」です。

 ヴァイオリンが主旋律を演奏し、ピアノがその旋律とは違う旋律と和声を演奏する場合を考えます。
ピアノは同時に演奏できる音が多いだけではなく、連続して=短い音で演奏することもできる楽器です。和音の状態で連続して演奏もできる優れた楽器です。
 ヴァイオリンが「長い音」を演奏し、ピアノが「短い和音」を連続して演奏した場合に、ピアノの音量がヴァイオリンよりも大きく聞こえてしまうケースがあります。物理的な音量バランスよりも、感覚的にピアノの動きが耳に付きすぎる場合に、ヴァイオリンがより大きな音を出そうとすれば、前後の音との相対的な音量の変化が少なくなりがちです。簡単に言えば「弱く弾けない」ことになります。さらにピアノとヴァイオリン・ヴィオラの「音域」が、近い場合と開離している場合でも、聴感上のバランスに影響します。
ヴァイオリンの旋律と近い音域でのピアノは、混濁して=溶けて聞こえます。
音域が明らかに違う場合には、それぞれの音が独立して聞き取りやすくなりますが「溶けない」印象が残ります。

 ピアノが旋律を演奏し、ヴァイオリンがオブリガートを演奏する場合もあります。極端なたとえが、ベートーヴェンのスプリングソナタですね。
ピアノが冒頭部分で演奏している分散和音を、ヴァイオリンが演奏しピアノが主旋律を演奏する部分。正直に言えば私は、とても違和感を感じます。
先述の通り、ピアノは旋律と和声を一人で演奏できる楽器です。ピアノが主旋律を演奏している時のヴァイオリンの「立ち位置」の問題です。
私はヴァイオリンパートが、無くても良いと思うときにはピアノだけの演奏で良いと思う人間です。ピアノの「良さ」をあえて下げてまでヴァイオリンの音を上乗せする意味をあまり感じないからです。

 少し前のブログにも書いた通り、ピアノは伴奏楽器ではありません。
二重奏でも三重奏でも、それは変わりません。ピアノトリオ(三重奏)の曲は、どうしてあんなにピアノに頑張らせるのか(笑)、私には理解できません。
ピアノ・ヴァイオリン・チェロが「ソリスト」的に演奏すると言う意図は理解できますが、ピアノになにからなにまで(笑)押し付けているように感じるのは私だけでしょうか?もっと少ない音の数でも、ピアノの良さは感じられると思います。それこそ「オーケストラの代わり」をピアノに担当させているような気がしてなりません

 最後にピアノパート=アレンジに私が求めることを書きます。
ヴァイオリンが主旋律を演奏するのであれば、ピアノが対旋律と和声を組み合わせた音楽で、主旋律の音域、テンポと音の長さ、音量を考えたうえで、両者の音が「溶ける音」と「独立した音」が明確になっている「アレンジ」が好きです。
声楽曲に多く見られる「ピアノも主旋律を演奏する」安直なアレンジは好きではありません。ユニゾンを効果的に使い、主旋律の進行に、不自然さを感じさせない副旋律が好きです。
「それ書いてみろ」と言われてもできません。ごめんなさい。
楽譜が作曲家の「作品」だとしても、演奏者が違和感を感じる場合に、手を加えることが「タブー」だとは思っていません。聴く人が自然に聴こえる「楽譜」こそ、二重奏の楽譜だと感じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

モーツァルトと歌謡曲

上の映像は、モーツァルトのヴァイオリンソナタ 21番 e moll K.304
デュオリサイタルで私と浩子さんが演奏したものです。演奏中の映像は撮影していませんでした(笑)
下の映像は、中島みゆきの「糸」を同じくデュオリサイタルでヴィオラとピアノで演奏したものです。この2曲でなにを比較しようって?そこが音楽の楽しみ方です。

 「旋律と和声をヴァイオリン(ヴィオラ)とピアノで演奏している」
この点は、モーツァルトのソナタも、中島みゆきの糸も同じです。
「曲の中に短調と長調の部分がある」これも同じ。
「ソナタは2つの楽章で構成されているが、糸は同じ旋律で1番・2番がある」
この点で大きな違いがあります。言い方を変えると、モーツァルトのソナタは「2つの曲から出来ている」という事になります。

 モーツァルトの音楽は完成度が高く、糸は低いのでしょうか?
ソナタは高尚で、糸は低俗でしょうか?音楽として台頭に比較してはいけないのでしょうか?
 すべての音楽に共通することを考えます。
・曲を作った人がいる。
・演奏に関わった人がいる。=人が演奏するとは限らない。
それ以外について、たとえば旋律だけの音楽もあります。和声だけで主旋律がない「カラオケ」も音楽です。演奏が声でも楽器でも機械でも、音楽です。
美しい旋律だけが音楽でもありません。リズムが感じられなくても音楽です。
当たり前ですが「嫌い」でも音楽は音楽なのです。

作曲された時代が古ければ「クラシック音楽」の部類に分類されます。
クラシック音楽に用いられる「様式・形式」で、現在生きている人が作曲したら?それは、クラシック音楽ですか?おそらく「ダメ!」ですよね。
以前のブログでも書きましたが、ゲーム音楽や映画音楽を「音楽」としてだけ聴いた時に、その作曲年代や作曲者を正確に言い当てられる人間は、作曲者本人以外に存在しないはずです。それでは、クラシック音楽と現代の音楽に何も差はないのか?と言えば、歴然とあります。それは…

クラシック音楽と言われる音楽を作曲した人たちと、その曲を初めて演奏した演奏者たちの多くは「現代音楽」もしくは「前衛的な音楽」を作曲し演奏していた人たちです。私たちは、バッハやモーツァルトの時代を知りません。文献や絵画で想像するしかありません。その当時の「観客=聴衆」の感覚も知りません。当時の人たちの生活も知りません。音楽をどうやって聴いて楽しんでいたのかさえ、想像でしかありません。
 私たちが生きている間に作曲された音楽を、私たちが演奏する時の様子を、モーツァルトの時代の人がもしも見たら、どう?感じるでしょうね。
「この音、なんの楽器?」
「あれ?俺の作った曲に似てるぞ?」
「え!?人間がいないのに音楽が聴こえる!」
「かっちょえー!この和声と旋律、いただきっ!」(笑)
これ妄想でしょうか?大きなタイムトリップは現代の科学では不可能とされています。もし未来にタイムマシンが出来ていたとしたら、私たちは未来の人に会っているはずなので、それがないという意味では未来にもタイムマシンができていないと言う科学者もいます。「いや!それは!」と言うお話もあるでしょうね(笑)話がそれました。すみません。

 クラシック音楽の作曲者は、試行錯誤しながら当時の聴衆の反発と冷笑に耐えながら音楽を作り続けました。その音楽は楽譜として残され、今も演奏することができます。もしも楽譜と言う「記号」がなければ、当時の音楽を「正確に」再現=演奏することは不可能です。民謡のように「音楽」が伝わることはあったでしょうが、少なくともほとんどの「クラシック音楽」は演奏できなかったはずです 。
 その音楽の「様式・形式」に慣れた、現代の私たちが作る音楽「ポピュラー」を大切にすることも、クラシックの音楽を大切にすることに繋がっていると思います。そうでなければ、クラシックの作曲者が作った音楽は、いずれ歴史の中に埋没します。今も誰かが「似たような音楽」を作り続けることに大きな意味があると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムは「献立」

 映像は、デュオリサイタル13(2021年1月)の後半部分をまとめたものです。長い&多い(笑)こんなプログラムのコンサートって、邪道?かもしれませんね。多くの「ヴァイオリンとピアノによる」クラシックコンサートの場合、
「ヴァイオリンソナタ」が必ずと言っていいほどプログラムに組み込まれています。「それでこそ!」と言われればその通りです。過去14回のデュオリサイタルで、ソナタを全楽章演奏したプログラムは一回しか!(笑)ありません。私たちには、それなりに理由があるのですが、それが「音楽の切り取りだ」とのご意見も甘んじて受け入れます。むしろ、そちらがスタンダードだと思いますが、ソナタの単一楽章を演奏することに、不満を感じる人ばかりではないと言うのも事実です。以前にも書きましたが、多くの人が知っている「クラシック音楽」は1曲の中の一部分であることがほとんどではないでしょうか?それは、単にクラシック音楽を知らないからだという理由だけではないと思います。楽しみ方の違いでもあります。
映画は2時間程度の長さの物が多く、テレビの番組は長くて1時間位ではないでしょうか?演劇や歌舞伎、オペラやミュージカル、落語、ロックやジャズ、ポップスのライブなどで、演目の時間や休憩時間は様々です。ライブの場合、飲み物を飲みながら演奏を楽しむこともあります。クラシック音楽を昔から楽しむ文化のあるヨーロッパでは、子供を寝かせた後に、正装してコンサートに出かける「伝統」がありました。日本では考えられないことです。歌舞伎では「幕」の合間に食事をする「幕の内弁当」が今でも伝統として残っています。
イベントの楽しみ方も時代と共に変化して当たり前だと思います。

 コンサートの内容を紙に書きだした「プログラム」に曲目解説などの「ノート」を書き込めば、お客様に情報は伝えられます。演奏者は演奏だけで終始してもお客様は満足するでしょう。「音楽を聴くだけならの話です。音楽を演奏している「人」や演奏者が曲を選んだ「理由」と「思い」について、お客様に隠す理由もないと思います。私たちのリサイタルでは、曲管にお客様にお話をすることで、私たちがそれぞれの曲に対して思うことや、エピソードを私たちの言葉で語ります。トークの専門家ではないので、うまく話せなくてもお客様に伝わるものがあると思っています。

 演奏会全体のプログラムを組み立てる時に、調性を重視します。そのほかにもテンポ、曲全体の強さと高さも考慮します。聴いている人が飽きずに楽しめる「構成・進行」を考えているつもりです。思った通りに伝わらなくても、私たちの「思い」だけは伝わると思います。ここでまた、ヴァイオリンとピアノによるコンサートで、多く目にする傾向を考えます。
・特にテーマやコンセプトのないコンサート
・作曲家や時代・地域などに「スポット」を当てたコンサート
・知名度の高さ・希少性を意識したコンサート
・難易度の高い曲を選んだコンサート
などが多く見受けられます。他方、私たちのリサイタルのような「お子様ランチ」もしくは「昔ながらの定食屋ランチ」にも似たプログラム構成はあまり見かけません。もしかすると「簡単すぎて集客力がない」と思われているのかもしれません。集客力だけで考えれば、クラシックマニアの喜びそうなプログラムは考えられます。そのコンサートで、普段クラシックを聴かない人が楽しめるかどうかは別の問題です。私はメリーオーケストラのプログラムでも、リサイタルのプログラムでも一貫して、できるだけ多くの人に一曲でも楽しんでもらえるコンサートを目指しています。料理で言えば、プログラムは献立だと思います。一つの料理でおなか一杯になる献立=プログラムもあります。色々な料理が少しずつ出てくる献立もあります。コース料理はまさにそれですよね。

私の考えるプログラムはクラシックファンには物足りないプログラムだと思います。でも私を含め、クラシック音楽が好きな人間が、それ以外の音楽を聴かない理由はありませんし、少なくとも演奏を聴いてから好き嫌いを感じてもらいたいと思っています。「ポピュラーだから」「映画音楽なんて」「歌曲をヴァイオリンでひくなんて」という固定観念を持たずに、演奏を楽しんでもらえるコンサートを開き続けたいと思っています。
 いろいろなコンサートがあって良いと思います。他の人と同じようにしなければいけない理由もありません。自分や自分たちが考える曲構成=プログラムに自信を持ってコンサートを開いてほしいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

眠れる演奏

 映像は横浜にあるイングリッシュガーデンで撮影した写真に、ヴィオラとピアノで演奏した「アニーローリー」「オンブラマイフ」「「ロンドンデリーの歌」「私を泣かせてください」を重ねたものです。
 皆さんはクラシックのコンサートで演奏を聴いていて「気持ちよくなってうとうと」って経験ありませんか?私はその時間が大好きです(笑)
「入場料払ってまで寝るなんて!」「演奏者に失礼だろ!」と言うお考えもごもっともです。私は逆に感じています。自分が安らげる時間の為に、チケットを買って何が悪い?演奏しているときに、静かに寝ていて演奏者が気づくのか?いびきかいていないぞと。

 音楽療法と言う医学療法があります。患者の好きな音楽を聴かせることで、精神を落ち着ける効果が認められています。興奮しているときや、同じことをぐるぐる考えてしまう時に、人間は「β=ベータ波」を脳が出しています。一方で安らいでいるときには「α=アルファ波」が出ています。心が休まると「副交感神経」が刺激され、興奮したりイライラすると「交感神経」が刺激されます。
音楽ならなんでもよいわけではありません。心地よく感じる「音」は人によって違います。音色、音量、音楽の内容、歌詞の有無など、多くの要素の中で、その人が最も心地よい「音楽」を聴きながら身体も心も休ませることが「治療」につながります。ハードロックを聴いているとα波が出る人も事実いるのです。モーツァルトやクラシック音楽だけが「心地よい」のではありません。

 私たちのリサイタルも演奏会までに、多くの時間をかけて準備します。練習もします。それは「お客様に聴いてほしい」と思うからです。だからと言って、自分の演奏を聴いて「つまらない」と思う人がいても不思議ではありません。
また、聴き方にしても人それぞれだと思うのです。目をつむって聴く人もいれば、演奏者を観察している人もいます。他に聴いている人が不快に感じる「聴き方」は誰からも認められません。演奏が気に入らなければ、静かに曲間で退席すればよいのです。元より演奏が気に入るかどうかは、聴いてみなければわからないのですから「つまらないから、お金を返せ」とは言えません。
演奏を聴いていて、どうしても咳を抑えられなくなることも人間なら当たり前です。障がいがあって、うれしくなると声を出してしまう人もいます。それを演奏者が我慢できないなら、無観客で演奏会を行えば良いだけです。観客が咳ばらいをしただけで、演奏を中断し以後、演奏をキャンセルした「有名なピアニスト様」の逸話があります。私はその場にいませんでしたので、どのような状況だったのか知りませんが、仮に咳払いだけで腹を立てたなら、演奏者の「懐が狭すぎる」と思います。映画のセリフではありませんが「殿さまだって、屁もすりゃ糞もする。偉そうなんだよ!」だと思います。生理現象を我慢してまで、命がけで音楽を聴く必要はありませんよね。

 聴いてくれるかたが、心地よいと感じる演奏をしたいと願っています。
会場でじっと座って聴いてくださっているのは、お客様です。「おもてなし」の気持ちと「感謝の気持ち」があって、さらに自分の演奏を聴きながら「寝てもらえる」くらいの心のゆとりが欲しいと思っています。録音された自分の演奏を聴くとイライラするものですが、それでも我慢して何度も聞いていると、やがて自分の演奏を聴きながら寝られるようになります(笑)自分が聴いて不快に感じる演奏を、人さまにお聞かせするのは演奏者の「傲慢」だとも言えます。自分の演奏を自分の「音楽療法」に使えるようになりたい!いや…その前に、もう二度と精神を病みたくないと思うのでした(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切る楽器管理方法

 映像は、2020年に相模原北公園で撮影した紫陽花(アジサイ)の写真にヴィオラとピアノで演奏したビリーブを合わせたものです。

 日本の梅雨は草花にとっては恵みの雨が続くシーズンですが、ほとんどが木で出来ている弦楽器にとっては「地獄のシーズン」です。楽器に使われている木は、水分をほとんど含まない乾燥した木で出来ています。だからこそ、空気中の湿度をまるで除湿機のように吸い寄せてしまいます。
 楽器を組み合わせている「膠=にかわ」は、表板や裏板の木が、水分を含んで膨張したことによって割れてしまうことを防ぐために、意図的に弱い接着力で木材同士を張り合わせています。高温になると膠は柔らかくなります。ますます接着力が弱くなります。治癒時にこの膠で張り合わされた、表板い・横板・裏板の接合部が「剥がれる」場合があります。職人さんに膠を付けてもらい、圧着と感想をする数日間は、楽器を演奏できなくなります。
 剥がれなくても、板が水分を含むことで、楽器本来の響きを失います。湿気た木を叩いても「カンカン」という音ではなく「コツコツ」という鈍い音になります。こもった音色になり、余韻が少なくなるのが梅雨時の弦楽器の「異変」です。

 特に古い楽器ほど、楽器が水分を吸い寄せます。新しい楽器は、楽器表面のニスに水分が残っており、さらにニス自体も厚みがあるので簡単には水分をしみこませません。その点、100年以上たっている楽器は、ニスが乾ききり薄くなっています。そこに湿度が加われば、当然木材が湿気るのは自然現象です。
 この梅雨時を乗り切る方法を私なりに経験からまとめます。

1.自宅で管理する方法
練習していない時間は、ケースにしまわないことです。
出来る限り風通しの良い場所に、「立てた状態」で管理するのが理想です。
エアコンの風が直接当たる場所は避け、エアコンを切っている状態であればできれば弱い風で良いので、扇風機やサーキュレーターで楽器の周囲の空気を動かすことで楽器が結露したり、余分な湿気を含まずに管理できます。
 ケースに入れない理由は簡単です。ケースの中で、ケースの内張や楽器を包んでいる布に、楽器の表面が密着します。楽器表面に湿気が常に当たる状態になります。ましてやケースの内部は、高音になればますます湿度が高くなります。
湿気た布団にくるまって、暑い夜を過ごせますか?その状態がケースに入れられたヴァイオリンです。極力、板に何も接しない状態が理想です。

2.外に持ち歩く場合
当然、ケースに入れるのですがケースの内部を可能な限り「乾燥」させることが大切です。自宅でケースの中に入っているものをすべて出してから、ドライヤーの温風で内張の布を手でさわれる熱さまで加熱します。その熱さならケースを痛めることなく、水分を飛ばすことができます。その後、完全に冷めるまで待ってから楽器をしまいますが、その時に「からからにアイロンをかけたタオル」を一枚、楽器の上に「掛け布団」のようにでかけてあげます。当然ですが、タオルも冷めた状態でないと大変です。このタオルがケース内部で、楽器の表面に一番近い空気の湿度を吸い寄せてくれます。このタオルを頻繁に変えてあげることで、ケースの内部、特に楽器の周辺の湿度が下げられます。
 やってはいけないこと。「水をためる除湿剤を入れる」ことです。万一、この水が楽器ケース内で楽器に係ることがあれば、どんな事態になるか想像してください。押し入れに入れて湿度を「水」に替えるタイプの除湿剤です。水分が実際に「水」になるので効果が実感できますが、ケースの中ではまさに「自爆行為」です。
シリカゲルを使った除湿剤は、周囲の空気から湿度を吸い寄せます。が!
そもそもヴァイオリンケースの「密封度」は大した数値ではありません。雨の水がしみこむ程度の密封度で、シリカゲルを入れてもケースの外の湿度を一生懸命吸ってくれているだけです。ケースの中の湿度はほとんど下がりません。
 ケースに付いている「湿度計」は信じてはいけません。ご存知の方なら、正確な湿度計の仕組みはあの「丸い時計」では作れないことがわかるはずです。あれはあくまでも「飾り」です。嘘だと思うなら、楽器の入っていないケースをお風呂場に持って行ってみてください。針が動かないものがほとんどです。振動で動いていることはありますが(笑)

 楽器にとって、過剰な湿度は良くありませんが、だからと言って乾燥のし過ぎも危険です。「楽器が割れる」まで乾燥することは日本では考えにくいのですが、クラリネットやオーボエなどでは、乾燥しすぎて管体が割れることがあるようです。ヴァイオリン政策の「メッカ」でもあるイタリアのクレモナ地方は、意外なことに湿度の高い気候だそうです。適度な湿度は必要です。
 湿度計に頼るのは賢明ではありません。むしろ、楽器の手入れを擦れば、楽器表面が「重たい」感じなのか「軽く拭ける」のかで湿度がわかるはずです。
温度と湿度の関係も絡みますが、あまり神経質になるよりも、演奏者本人が「不快に感じる」場所は楽器にとっても不快なのです。楽器を自宅に置いて出かける時にこそ、赤ちゃんを部屋に置いて出かけるくらいの「慎重さ」が必要です。
 楽器が鳴らない梅雨の時にこそ、楽器の手入れを丁寧にしましょう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じ音楽を感じながら

 動画はフリッツ・クライスラー作曲「シンコペーション」
ピアニストと二人で演奏することが多いバイオリンやヴィオラの音楽は、どちらかが「主役」で片一方が「脇役」ではありません。以前にも「伴奏」と言う言葉について、疑問を呈しましたが、ピアノが「伴奏する」と言う言葉の裏に、ヴァイオリンが主役と言う意味が隠されているように感じます。
 ヴァイオリンソナタの場合に「ピアノ伴奏」と言う言葉は使われません。
ところが、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分をピアノで演奏するときに「ピアノ伴奏」と言うことが多く、動画のような「小品」を演奏する場合にも時々「伴奏」と言う言葉が使われます。伴奏とは「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。」だそうです。主奏部って要するに「主旋律を演奏する人」だと思われますが、ピアノが主旋律を演奏する部分があっても「伴奏」なんでしょうか?府に堕ちません。

 オーケストラの場合、指揮者が音楽の交通整理をします。具体的には「テンポ」や「音符休符付の長さ」「強弱」「バランス」について、演奏者=オーケストラの演奏者に指示を出し、実際に指揮棒や腕を使って、音楽を表現します。
 二人で演奏する場合、人によって違いますが私たちは、その場その場で「お互いに」合わせる=寄り添うことを目指して演奏しています。練習の最初の段階は、それぞれが自分の演奏するパートを一人で練習します。その後、二人で同じ音楽を演奏するときに、お互いがどう?演奏したいのかをお互いに探り合います。
言葉で確認することもあります。「こうするかも知れないし、しないかもしれない」ということも確認します。打ち合わせをしても、私が間違って演奏した場合に、臨機応変に対応してくれることが「たまに、よく、しょっちゅう」あります。
 どんなに事前に打ち合わせをしたとしても、会場で演奏する「本番」の時には、リハーサルと違う演奏になることもあります。それはお互い様です。
 お互いを意識しなくても、相手の演奏している音楽と自分の音楽が「一致」していることが実感できれば、それが「ひとつの音楽」だと思います。

息が合うと言う言葉は、同じ速度、同じ深さで呼吸することを指していると思います。相撲の立ち合いもそうです。また、逆に相手に自分の動きを「読ませない」ことが重要な武道や、ボクシングの場合は、自分の呼吸を相手と意図的にずらすことも必要です。
呼吸を合わせるとは言っても、二人で演奏する音楽のすべての時間、完全に同期=同じ息で演奏することは、物理的に不可能です。ただ、音楽を二人で同時に演奏している「意識」は常に保っています。
 ピアニストがヴァイオリニストを「視野に入れる」のは必要なことだと思います。なぜなら、ピアニストは両手でいくつもの声部を感じながら演奏し、さらにそこにヴァイオリンの声部が加わるのですから、楽譜と同時にヴァイオリニストの弓の動きが見えることで、安心して演奏できると思うからです。ヴァイオリンは「弓が動いていなければ音は出ていない」のですから。ヴァイオリニストがピアニストの指を見ながら演奏しても、効果は薄いと思います。ましてや、両手の動きが見える位置と向きでヴァイオリニストが立てば、客席にお尻を向けて演奏することになるからです。加えて、ピアニストの出す「音」が聞こえないヴァイオリニストはいないのです。その逆はあり得ます。どんな位置にヴァイオリニストが立って演奏しても、ピアノの音は聞こえますが、ピアニストにはヴァイオリニストの、音も聞こえない、弓も見えない状態で、合わせられるはずがないのです。

 どんなジャンルの音楽でも、演奏する人たちがお互いを認め合い、必要な意見のすり合わせをして、初めて「ひとつの音楽」になると思います。
「二人」という最小単位のアンサンブルは、聴く人にとってオーケストラとは違った面白さがあると思います。もとより、気の合わない二人の演奏は、どんなに演奏技術が高くても、二つの音楽が同時に鳴っているだけの「水と油」です。
時に溶け合い、時にどちらかを浮き立たせながら、音楽が広がることこそがアンサンブルだと思います。
 どうか!伴奏と言う言葉を使わずに、それぞれの演奏者を、対等な呼び方にしてください。簡単です。「ヴァイオリン△△、ピアノ〇〇」で良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

部活外注に物申す

 現在、日本政府は公立小学校・中学校の特別活動である、部活動の指導を「外注」することを検討しているようですが、元中学・高校の教員、音楽部顧問として20年間、部活動を指導した経験をもとに問題点を書かせてもらいます。

 「土曜日・日曜日のスポーツ系部活動を地域のスポーツ少年団などに順次置き換え文科系部活動も学校外に移行する」
というニュースを耳にしました。その理由として「顧問教員の働き方を考えなおす」という、もっともらしい事を政府は言いますが、そもそも間違っています。
 部活動は学校の教育活動です。したがって、その指導責任と安全管理、成績管理は学校にしかありません。単に働く教員の「休日出勤」だけの問題ではありません。学校で行う学習活動を学校外の組織・団体に「丸投げ」する発想です。
もしもそれが本当に正しい事なら、学校の授業は民間の学習塾と予備校に丸投げしても問題がないことになります。
「土曜日曜だから良い」と言う問題ではありません。
当然、生徒が保護者の同意のもとに、学校が休みの時間に、なにを学ぼうが遊ぼうが、それは学校の活動ではありません。まさに問題のすり替えです。
 さらに部活顧問の労働環境が問題なのは、部活動指導に限ったことではありません。多くの人が知らないことですが、教員には「時間外手当」がありません。
長い歴史を経て、教育職員には「教員調整手当」なるものが支給されます。額はまちまちですが、月額数千円です。「教員に時間外手当はそぐわない」という理由です。当たり前のことですが、教員にも「勤務時間」があります。休憩を除き8時間が一日の勤務時間です。その勤務時間を超えて生徒の指導を行うことが、あまりにも常態化してしまったために「一律の手当て」として考えられたのがこの調整手当です。しかも、定時に勤務を終えても、補習講習、教材準備や部活指導で何時間働いても同じ手当です。労働に対する対価が不平等です。部活顧問は業務命令です。教育現場では「校務分掌」と呼ばれます。土曜、日曜に出勤した場合に「休日出勤手当」が出る学校もあります。修学旅行の引率などの場合には別の手当てが出る学校もあります。ただ、宿泊を伴う引率の場合、生徒の安全管理・健康管理は24時間勤務となります。
 私学の場合は管理職や理事が人事権を持っているため、教諭はサラリーマンと何も変わりません。公立学校の場合、教諭の立場は公務員です。校長などの「管理職」は人事権を持っていない上、数年に一度人事異動があるので、それぞれの学校では「お飾り校長」として教諭たちから相手にもされていない場合が多いのも事実です。
「モンスターペアレンツ」は未だに学校の現場を委縮させ続けています。
私学の場合は「理事会」に、公立の場合は「教育委員会」に、児童生徒の保護者たちが直接「上申」することで、学校現場の問題を解決するのであれば良いのですが、「気に入らない」から、ありもしないことをでっちあげて、嘘でも「上申」できるのが現状です。現場の教員にも生活があります。悪いことをしていなくても、児童生徒から保護者にどう伝わるのかが気になりだすと、不安になるのは当然です。
「〇〇先生は、部活顧問なのに土日に部活をさせてくれない」と保護者が文句を言います。学校は託児所ではない!慈善団体でもない!そもそも、日曜日は学校が休みなのが当たり前!だと思うのです。

 生徒が学校で過ごすべき時間は、本来「国」が定めるものです。義務教育ならなおさらのことです。社会=一般の大人が、部活動と民間の活動を区別できていないことが諸悪の根源です。文科省が何を考えているのか?想像でしかありませんが「学校で生徒を預かる」時間を増やせば、親たちから支持されることを期待しているとしか思えません。
 私自身、NPO法人の理事長として「青少年の健全な育成」「音楽の普及」を目的としたオーケストラ活動をしています。例えば、この法人で「部活動の代わりをお願いします」と言われたら?絶対に断ります。部活動は学校の教育活動です。NPOの目的が何であれ、NPOは学校ではないのです。
「施設を使う使用料を補助するから」と言ってくるのが目に見えています。
足元を見て、児童生徒の学校教育を「売り払う」政策です。
被害者は子供です。国が子供を守る気持ちがない上に、「支持者を増やす」目的で考えた「姑息な悪法」です。
子供を家庭に返せ!
親なら子供を自分の手で育てろ!
そう思うのは間違いでしょうか?
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

拍の速さと車窓の風景

 映像は、Youtubeで見つけた新幹線の運転席から見える風景です。
わたくし「ノリテツ」でも「てっちゃん」でもありません。悪しからず。
音楽の「拍」や「リズム」が苦手な生徒さん、さらにテンポの維持や変化に関する苦労は、プロの演奏家にも共通の悩みです。
 そこで今回は「時間と音」を「時間と風景」に置き換えて考えることで、拍やテンポについて考えてみたいと思います。

仮に、電車の車窓から見える「電柱」が一定の間隔て立っているとします。
音楽のテンポを変えずに一定の速さで演奏するとします。
電車の速度が速くなると、電柱を通過する時間がだんだん短くなります。
テンポが変わらなければ、楽譜の中で「1拍」にかかる時間、「1小節」にかかる時間は常に一定になりますが、テンポが速くなればその時間はだんだn短くなります。
つまり、「一定の時間を予測する能力」と「
下の動画はF1(フォーミュラー1)がレースコースを走っている時の映像です。酔う人は見ないほうが(笑)スタート時時速「0」から一気に200キロを超える速度までの風景と、同じような速度で走る他の車がまるで「止まっているように見える」ことにご注目ください。

いかがでしょうか?怖いですね~(笑)
速度が速くなると一定の時間に処理する情報が多くなります。
言い換えると、処理の速度を速くしないと間に合わないことになります。
さらに「常に次にやるげきことが読めている」ことが必要なのです。
F1パイロット(レーサー)は、走るコースのすべてのカーブ、直線の距離、傾斜を「完全に記憶=暗譜」して走っています。コースに出なくても、頭の中でコースを走る「イメージ」があります。そうでなければ、止まることさえできません。速いのは車の性能ですが、止まる・曲がれるのは操縦するレーサー=人間の運動能力なのです。これもすごすぎる!

 楽譜を「追いかける」速度は、どんなに速い音楽でも秒速「数センチです。
仮に秒速5センチなら、分速300センチ=3メートル、時速180メートル。
歩く速度は時速4キロ=4000メートル。楽譜を読む速度はそれほど速くない!
 他方で、1秒間に処理する音符の数で考えると、たとえば四分音符を1分間に120回演奏する速さ「♩=120」の場合、16分音符は1秒間に8つの音を演奏する=処理することになります。結構な処理速度が求められますね。すべての音符が16分音符なら、1分間に8×60=480個の音符を演奏することになります。
 ちなみに早口言葉で「なまむぎ なまごめ なまたまご」をメトロノーム120で鳴らしながら言ってみてください。それが先ほどの16分音符の速さと同じになります。楽譜を読む速さは、この処理速度によって決まります。演奏できるか?は、その処理速度に「運動」を加えることになるので、まずは読めなければ運動は出来ません。

 まとめて考えます。
1.予測する技術 
「次の拍の時間を予測する」ことが「テンポ」です。難しく聴こえますが、正確に「1秒」を感じることを練習することで時間の間隔は身に着けられます。音楽は常に「次の拍を演奏する時間」を予測しながら演奏する技術が必要なのです。
その「1拍」の時間的長さが一定の場合に初めて「リズム」が生まれます。拍の長さが不安定だとリズムは演奏している本人でさえ理解出来ません。
 次に来る=演奏する「拍」を予測する美術は、決して反射神経ではありません。

 長くなりましたが、リズムやテンポが苦手な人は、一定の時間で何かを繰り返したら、「時間を等分する」ことが苦手な人です。
ぜひ!日常生活の中から、リズムや拍を見つけてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介