人類の愚かさの象徴「戦争」がまた、起こってしまいました。
野生の動物たちが自分より弱い生き物を捕食するのは、生きるためです。
戦争は野生のそれとは全く違う「利益」を目的としたただの殺し合いです。
日本の中にも、「ちからにはちからで」ともっともらしいことを叫ぶ人がいますが、力を使う前に「あたま」を使うのが人類なのです。力比べをする「必然」がないところに一方的に暴力をふるってくる人間が、世界中にいます。それは街のチンピラと言われる人も同じことです。チンピラから身を守るために、いつもナイフやピストルを持ち歩かなくて済むのが、日本の「治安」です。治安とは「ルール」でありそれを守ることを前提にしているから成り立ち、守らない人を「罰する」ルールが浸透しているから保たれています。
チンピラにしても、プーチンのような権力者にしても、ルールを守れない人間が現れた時に、力で対抗しなればわが身を守れないことがあります。
日本は税金の多くを「自国を防衛するための予算」として使っています。
その金額は世界的に見てもとても高い金額です。私たち日本人は、過去に他国を侵略し戦争で負けました。その結果、二度と他国に攻め入らないことを世界に向けて誓いました。その歴史認識を忘れることは、反省をしないヤクザと同じレベルです。
平和は力でつくるものではありません。すべての人間が、生きるために必要なルールの中で生きることしか方法はありません。色々なルールを組み合わせて世界は平和を維持できます。話し合いのできない人は、ルールを守れない人間と同じです。
今、ロシアの作曲家の作った音楽を演奏しないという妙なことが起こっています。チャイコフスキーの作曲した「1812年」は、大昔の出来事を題材にして作られた音楽です。チャイコフスキー自身はとっくに亡くなった人です。プーチンと友達でもなければ、戦争支持者でもありません。
音楽の中には、特別な意味を持って作られた音楽もあります。
「国王賛歌」などの音楽は、目的をもって演奏されます。
日本が戦争時に「軍歌」を歌っていました。これも特殊な音楽の一つです。
そうではない音楽までを、色付きの眼鏡で見るような行為は、正しいとは思えません。聴く人に誤解を与えたくない気持ちは理解できます。演奏者、主催者がお客様に対して、反戦の意思とウラジミール・プーチンへの抗議を表明すればそれで良いのではないでしょうか?
むしろ、演奏者の中にプーチンの行為を擁護するメンバーのいるオーケストラの演奏こそ、糾弾されるべきではないでしょうか?
音楽、芸術、スポーツと政治は直接の関りはありません。ただ、無関係でもありません。政治が腐敗すると音楽やスポーツが制約を受けることは、歴史を学べば誰にでも理解できます。
私たちは、二度と戦争を起こしてはいけないのです。
世界中にそれを伝える責任を持たされています。
それを忘れて「議論だ」と言うのは、殺人の良し悪しについて議論するのと同じです。議論する必要のないこともあるのです。
固い話ですみませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介