メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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演奏の技術

暗譜?楽譜見えなくても?

皆様、いかがお過ごしですか?
今年も冬の恒例行事「デュオリサイタル」のシーズンが到来しました。
今回で13回目になります。何が変わって、何が変わらないのかな?

楽譜を見ながら演奏できなくなった事が一番変わったことの一つ。
そこで、今日は私自身の「音楽の覚え方」について。

タイトルに書いたように楽譜を見ずに演奏することを一般的に「暗譜」とし言いますね。私は40歳ごろまで、視力が矯正すれば片目で0.4か0.5ありました。自動車の運転免許も辛うじて更新できていました。
楽譜を見て演奏することも出来てました。学生時代、オーケストラで初見演奏することも出来たので、プロオーケストラでエキストラのお仕事もさせてもらっていました。言い換えれば、その位の視力がありました。

13年前の第一回リサイタル当時、楽譜を見ながら演奏しました。
暗譜もしていましたが「保険」として譜面台を立てていました。
その後、次第に網膜色素変性症が進行し、視力も下がりました。運転免許の更新も諦めました。その頃から楽譜を覚えて演奏する「暗譜」で演奏する事になりました。楽譜を読みながらヴァイオリンを弾いて、楽譜を覚えて演奏することが「暗譜」です。

生まれつき全盲の演奏家がたくさんおられます。私にとって、その方たちの「音楽の覚え方」は想像でしかありません。ある方は点字楽譜という「楽譜」を覚えて演奏されているのだと思います。指で点字楽譜を読み取っては楽器を弾いて覚え、また指で…の繰り返しなんでしょうね。すごいことだと思います。演奏だけ聞けば、その方が全盲であることなど微塵も感じさせない演奏をされていることも驚愕の一言に尽きます。

今、私が演奏会に向けて練習する時の「音楽の覚え方」ですが、
音楽を聴いて覚えきれないような複雑な曲の場合には、楽譜の数小節を拡大し、その部分だけを覚えていく方法で「暗譜」します。コピーの拡大機能を使う場合には、1曲の楽譜がA3用紙で20枚とかになることもあります。
自分が演奏している音が楽譜のどのあたりにある音なのか、覚えることはありません。昔はそれも記憶の中にありました。

この頃は、演奏したい曲の「音のられつ」を記憶しているようです。
一音ずつ、音に係わる情報を覚えていきます。
・音の高さと音名・音色と強弱・弦の種類やポジション・弓の場所など。
その情報を覚えながら無意識でもそれが連続するまで繰り返します。ある意味「無理やり覚える」方法でもあります。厳密にいえば「暗譜」ではないですね。

先ほど書いた全盲の方の音楽の覚え方とも違うのかもしれません。点字も知らないので。一番、効率の悪い覚え方かもしれません。
何よりこの病気は、人によって病気の進行速度も程度も違います。
そのことが私たちは不安を与えます。見えなくなる日が来る不安。生活できなくなる不安。今できていることが、だんだんできなくなる不安は、以前出来ていたことが出来なくなった「絶望感」にもつながります。
全盲の方に比べても何の意味もないのですが、次第に見えなくなる不安は、それなりに大きなものです。

音楽を強引に覚える作業をするのは、自分の不安との戦いでもあります。
イラついたことも正直にあります。たかが!たかがこんな短い旋律が覚えられない。間違える。楽譜が見えれば、こんな曲なんでもないのに!
そのストレスを超えなければ新しい曲は弾けません。いつか、楽譜をまったく読めなくなる日が来たら?点字楽譜を習って覚えるのかな?それもありですよね。

私は、「覚えられる範囲の曲だけ弾こう!」とわがままに思っています。点字を読めなくても、聴音と暗譜の技術を使えば頭の中に楽譜を思い描けます。学生時代、大嫌いだった聴音です(笑)が、やっていて本当に良かったと本心で思います。耳コピが楽譜を頭に作れれば、演奏できるはずです。


楽譜を覚えるのが暗譜ですから、音の情報を丸暗記するのは?
あんおん?
アンマンみたいでダメか。
今回のリサイタルで、演奏する曲たちもこうやって覚えた音楽たちです。
もし、ご興味があって「しょうがないから行ってやろう」という、心優しい方(笑)がおられましたが、ぜひ!12/20(日)相模原のもみじホール(城山文化センター)か来年1/9(土)代々木上原ムジカーザに足を運んでいただけたら本当にうれしいです!
心優しい方へのご案内ページはこちら
http://www.merry649.com/duo/
をご覧ください。皆様のご来場を心からお待ちしております。
ヴァイオリニスト 野村謙介


音楽教室ってなに?

以前も書いたことがありますが、このテーマは時代とともに変化する答えを持っています。
メリーミュージックも小さいながら音楽教室の一つです。
そこに通ってくる生徒さんの一人一人が、違った目的を持っています。
私たち「教える側」はその生徒さんの目的を達成することをお手伝いして、代金を頂いています。生徒さんは「お客様」であると言えます。

そのお客様と私たちの間にある「契約」はなんでしょうか?

音楽を楽しむために通ってくる生徒さんにとって、「楽しくないレッスン」「楽しくない練習」が必要だと私たちが考えることがあります。
一見矛盾したことのようですが、楽しむ内容によるのです。
音楽を「演奏して楽しむ」ために通われているのですから、演奏できるようにレッスンをするのですが、生徒さんが今までやったことのない練習をしてもらい、知らなかった技術と知識を学んでもらうことが、必要不可欠なのです。
その必要不可欠なことを私たちが教えていくとき、生徒さんが納得してくれないとレッスンは成り立ちません。
ほとんどの生徒さん、そしてそのご家族は、その必要性を理解してくれます。しかし…
中には「楽しいだけで十分」「難しいことはやりたくない」「そのために、お金を払っている」という気持ちを感じてしまう生徒さん、ご家族もいらっしゃるのが現実です。
「そんな生徒なんているの?」と思われるかもしれませんが。
これは、私たち教える側にはどうすることもできない「生徒さんのリクエスト」なのです。先ほど書いた通り「契約」があってレッスンをしています。
その中身はレッスン代金やレッスン時間に関することがほとんどです。
音楽教室を「私立の高校」に例えて考えてみます。
生徒自らの意思で受験し、授業内容、規則に納得して入学します。
その学校で規則に反することをしたり、授業内容についていけなければ、生徒が辞めさせられても納得しなければならない「契約」があります。
音楽教室に置き換えると、生徒さんは「弾けるようになりたくてレッスンを受ける」場合と「ただ楽器に触って音を出したいだけ」という生徒さんがいる、あるいは「それでも構わない」教室と、「弾けるようになる努力をする人だけを受け入れる」教室があると思います。
この違いはものすごく大きな差です。
つまり、私たちが何を生徒さんにレッスンをするのかという根本に関わることなのです。
「上手に弾けなくても」というのはあくまで上達のプロセスであり、生徒さんの主観と私たち教える側の評価は違います。そのギャップを埋めながら時間をかけて生徒さんの技術を向上させるのが私たちの仕事です。
一方で「楽しければいい」という生徒さんを拒まない、または「拒めない」教室の場合、私たちはなにを教えれば良いのでしょうか?極論すれば「何も教えなくても音は出せる」とすれば、生徒さんが楽器を使って音を出しているのを「聴いているだけ」でレッスン代金を受け取ることになります。

多くの音楽教室が生徒さんを募集することに躍起になります。それは経営上、当たり前のことです。私立の高校でもそうであるように。
生徒さんのどんなリクエストにも応えるのが良いのでしょうか?
契約の段階、つまり教室の方針として「上達する意思のある生徒さんだけを募集」するのが良いのでしょうか?
人、それぞれに音楽の楽しみ方は違います。聞くだけでも楽しめます。
楽器を上手に弾けなくても、音が出せるだけでも楽しめます。
「グレード」「クラス」などで、内容を区分けする教室もあります。
それでもクラスやグレードとは関係なく、上記のような「生徒さんが求めるもの」が変わることもあり得るのが事実です。レッスン当初は「音を出すだけで十分」で始めたものの、面白くなって上達を目指す方もいます。その逆に、はじめは高い目標を持っていても、途中で挫折してしまい「もう十分」と辞めてしまう生徒さんもいます。そのひとりひとりの生徒さんに、日々レッスンをするのが私たち音楽教室で教える教師です。

誰が正しいのでもなく、どれが素晴らしいとは誰にも言えません。
だからこそ、私たちは「一人でも多くの方に演奏技術を高めることで、さらに多くの楽しみを体感してもらいたい」と願うしかないのです。
時代が変わって、「お金を払ったから好きにやらせろ」という人も増えるでしょう。そうなれば、音楽教室で教える先生はいなくなってしまいます。
私たちと生徒さんの「師弟関係」があってこそ!のレッスンだと思っています。

メリーミュージック 野村謙介

音楽大学オーケストラ演奏会で

私が桐朋学園大学を卒業したのが1984年です。
「大昔の人」と言われて否定できない年齢になりました(笑)
先日、おそらく何十年ぶり(?)という位久しぶりに、音楽大学のオーケストラ演奏会を聴きに行きました。
大学の敷地の中に、立派なホールを持っている時点で驚きます。
ご存知のように私の母校「桐朋学園大学」にはホールがありません。
世界に名だたる演奏家を輩出した大学なのに、ホールがない!
私の在学していたころ、オーケストラの定期演奏会は「都市センターホール」でした。ごくまれに(数年に1度)国内に演奏旅行に行った記憶があります。
先日の定期演奏会を聴いた第一印象は、「あれ?こんな程度?」というちょっと残念なものでした。
期待過多…と言えばそれまでなんですが、演奏している学生(卒業生も多い)の個々の演奏技術が物足りないのか、それとも演奏会への意思が弱いのか?
9倍まで拡大できるウエラブルを使って見ていて、演奏者一人一人の演奏を見て確認できました。中には明らかに「音楽を理解している動き」の人もいました。一方でただ、弾いているだけの人がたくさん。これは、「見た目」の問題ですが肝心の「音」についても、管楽器・打楽器のソロは正直に言って、一般大学のオーケストラと比較してもお粗末な印象でした。ピアノコンチェルトの独奏者も、大きなミスは感じなかったものの「音大生」という印象は受けませんでした。
辛口!な感想ばかり書いてしまいましたが、ごめんなさい。
「昔はよかった」と言うつもりは毛頭ありません。
逆に「今はこんなもんだよ」と言われれば受け入れるしかありません。
老婆心で言えば、学生の音楽への情熱を感じられなかった原因を考える必要があると思いました。
「学生を一でも多く集める」
「入試のレベルを下げ、学生が入りやすくする」
「集めた学生が楽に卒業できるようにする」
「大学の知名度を上げるために知名度の高い音楽家を招く」
「校舎や施設(構内ホール)を整える」

このルーティンで学校法人は間違いなく運営できるでしょう。
ただ、学生の「質」が置き去りにされている気がします。
入試の敷居を下げることには異論はありません。
問題は、入学後「学ばなければ卒業できない」「学ばないと意味がないと感じられる」内容が伴っていない気がします。
学生それぞれの専攻によって「学ぶべきこと」は大学が決めることです。
学ぶべきことを学生に一任するのは正しいとは思えません。何が必要なのかを知らないのが学生なのですから。
そして、楽器を専攻する学生に対し卒業後「プロとして」通用する技術能力、知識を学ばせることを大学がしなければ、一般大学と何も変わらないと思うのは私だけでしょうか?
「趣味として」楽器を演奏するのであれば音楽大学で学ぶ必要はないと思うのは偏屈でしょうか?私は趣味の演奏を指導して生活しています。だからこそ、音楽大学では「専門的な指導」をしてほしいのですが。

誰でも入れて、誰でも出られる音楽大学

これが現代の音楽大学の「普通の姿」なのだとしたら、とても悲しい気持ちです。
もちろん、学生の中には本気で学び、プロを目指し、卒業後も研鑽を積んでいる人がいます。その人たちとの交流もあります。すべての音大生が「怠けている」とは言いません。「怠けていても指導しない音楽大学」に対しての意見です。
多くの音大指導者がお友達にいらっしゃるので申し訳なく思っています。
「音大は音楽を学ぶ大学」であってほしい!だけです。
メリーミュージック 野村謙介

ブラック部活に物申す

以前にも書きましたが、教室の生徒さんたちの中にも部活動に生活の大半を「拘束されている」中学生・高校生がいます。
部活動が楽しいものであることは大変喜ばしいことです。
多くの人が中学、高校時代に部活動で思い出を作り今も当時の友人と交友があります。人生の「財産」でもあります。
ただ!その部活動が「生徒の生活にまで影響する」ことには私自身、違和感があります。学校の教育活動の一部であるからということもありますが、子供の健全な成長の妨げにさえなっている場合があります。はっきり言えば「有害な活動」だと思います。程度問題です。だからこそ「どこまで」という線引きが重要なのです。そして、内容が最も大切です。
音楽家の立場から見て、多くの「音楽系部活動」の内容が「非音楽」だと感じています。私の友人、知人が専門知識と技術を持ったうえで、部活動の指導に当たっています。彼らの指導は「プロを育てる指導との違い」を知っているから、アマチュアに求めるものしか生徒に求めていないはずです。練習方法の中にはプロになるための練習と共通する一面もあります。
「どんな練習に、どのくらいの時間をかけると、どのくらいの効果があるか」を経験で知っている音楽家。そして肝心の「効果」を判断できるのが音楽家です。
「何が上手で何が下手なのか」さえわからずに、やみくもに時間をかけるだけの指導は、音楽を作れないだけではなく、生徒が間違った練習で間違った成果を体感し「これが音楽だ」と勘違いしてしまう結果を招きます。
「気持ち悪い動き」「意味のない動き」「音楽と関係のない動き」
さらには「演奏に必要のない筋肉トレーニング」「間違った演奏方法で繰り返す間違った練習」すべては、生徒の音楽的な可能性を壊します。
正しい練習方法、正しい評価があって、初めて「練習の意味」が生まれます。
ただ音を出し、悪質な練習を繰り返し、休む時間さえ奪い取る。
生徒個人の生活を無視し、生徒同士が「拘束しあう」ことさえ知らない顧問もいます。
顧問自身が「休むなら演奏会に出さない」と脅迫するどんでもない人間もいます。
保護者の皆さん、そして教員の方々。
部活の音楽はアマチュアの音楽です。
だかたと言って音楽を知らない人間が指導しても音楽は生まれません。
演奏に必要な技術を知らない人間が指導しても演奏はうまくなりません。
「部活でうまくなる」のは「うまくできる専門の指導者がいる場合」だけです。
音を出し続けることが練習ではありません。
休まずに練習してうまくなることは、絶対にありえません。
本当に楽器を上手に演奏したければ「専門の先生に習う」以外に方法はありません。
楽しいのは良いことです。しかし「休めない」部活は間違いです。
子供の時期こそ、家庭で過ごす時間、学校外で過ごす時間が大切なのです。
部活だけで学校生活を終わらせるのは、顧問の傲慢です。
その子供たちを黙ってみている大人は「無責任」です。
楽しそうだから。休むと演奏会に出られずかわいそうだから。
本当に楽しい部活は生活に支障をきたしません。
ぜひ、子供たちの部活に大人として、毅然とした態度で伝えてほしい。
「あなたの学校の部活は、本当に学校の授業のひとつなの?」
「なぜ学校が休みの日に部活があるの?」
「部活だけで学校生活を終えてもなにも後には残らないんだよ」
ぜひ、子供の為に「ブラック部活」から子供を守ってください。
一人の音楽家として心からお願いします。

発表会を終えて

第22回の小さな音楽会が終わりました。
毎回のことながら、生徒さんの成長に驚かされました。
練習すればするほど、自分の演奏の「小さなミス」に気が付きます。
本番ともなれば、いつもよりも、たくさん失敗するのが当たり前です。
でも、そのミスが聞いている人に分かるようなミスなのかどうかは、別の問題です。誰が聞いても「あれ?」と思うことがあるとすれば、例えば舞台で違う方向を向いて弾いちゃった!とか、お辞儀するのを忘れちゃった!その程度です。
音を外した!とか弓を間違えた!ビブラートかけそこなった!
これ、本人と先生にしか気づかないことです。
「小さなミスに気づけたことが進歩した証」なのです。
失敗しなければ成長しないことは、いろいろな職業の方がおっしゃることです。私もそう思います。
どうすれば、自分の失敗を克服できるかを考え続けることが「練習」です。
もちろん、人の演奏を聴いて学ぶことも大切です。冷静に自分との違いを探すこと、そして真似してみることも練習方法の一つです。
なにはともあれ、演奏したみなさま、お疲れさまでした。

メリーミュージック 野村謙介

新年度スタート

桜の花びらが舞い散る4月です。
メリーミュージックの生徒さんたちにも「新学期」らしい出来事が。
幼稚園から高校生まで、多くの生徒さんが新しい年度に入りました。
中学校に入学する生徒さんが今年はとても多く、それぞれの思いを胸に新しい学校に通い始める準備を楽しんでいます。
小学生もちょっと前まで「いかにも!」だったおこちゃま(笑)が、すっかりお姉さん、お兄ちゃんになっていきます。
大人の生徒さんにとっても、新年度は何かと忙しい時期。加えて「花粉症」
お気の毒です。

子供の成長は楽器を弾いている姿からも感じられます。
本人が気づくわけでもないのですが、こんなことが。
・集中力を持続できる時間が伸びる。
・私たち「先生」の話を聴く気持ちと態度がそなわる。
・表現したいことが増えてくる。
そのほかにもたくさん!あるのですが、時にヴァイオリンの場合、「先生の真似をしたい」気持ちが芽生えます。これ、教える側にはうれしいと同時に、どきっとします(笑)
私はレッスンでできるだけ、生徒さんの横で一緒にヴァイオリンを弾くようにしています。そんなレッスン中に「じーーーーーー」っと私の左手を瞬きもせずに子供が見ていたら「びぶらーとってどうやるのかなぁ…」なのです。
その目の先で「わかりやすく」ヴィブラートをかけて子供の弾いている曲を弾きます。こどもの好奇心と観察力、集中力が一気に高くなる瞬間です。
理屈や言葉ではなく「感覚」として真似をしてみたくなるのが、一番大切です。

少し大きくなった生徒さんたちの成長は「音楽を演奏する」感情が起きてくることです。
ただ音を出す。楽譜を弾く。間違えずに弾く。ことから、「何かを感じる」音楽への変化も言葉で教えられません。
音楽を演奏することで、本当にたくさんの感覚が研ぎ澄まされ、我慢すること、達成すること、もっとうまくなることを繰り返す中で、音楽以外の能力も高められます。
「楽器を習えば勉強ができるようになる」ことはあっても
「勉強ができるから楽器が弾ける」わけではないのです。
勉強に限らず、日常生活でもメリハリのある生活が生まれます。
新しい生活に音楽を!

メリーミュージック
野村謙介

音楽大学に通う人に

音楽大学に通う若い人たちに思うことを書きます。
時代が変わっても、音楽を学ぶ気持ちに変わりはないはずです。
「プロ(職業音楽家)」を目指すのか、純粋に「音楽を学びたい」のか。
私たちの学生時代(30年以上前)にも、卒業後の進路としてプロを目指していない人も中にはいた「かも」知れません。それはそれで間違ってはいません。
音楽を学ぶことは、今も昔も音楽大学に通わなくてもできることです。
また、通いたくても経済的な理由で進学できなかった人も多いことも変わりません。
音楽大学に入学するための事前の努力は、入学後に学ぶための「土台」となります。
その土台をスタート地点とすれば、入学後の一日一日が延々と続く「学ぶ」時間です。学ぶことは「練習と授業」だけではありません。日々の生活そのものから、自分に必要な何かを学び取れる人は、人間として、音楽家として成長し続けます。

「自分はどこを目指すのか?」
せっかく努力して音楽大学に入っても、自分の目標を見つけられなければ、時間は無情なほどに早く過ぎていきます。
私自身は演奏が専門ですので「演奏家」について書きますが、おそらく作曲や音楽学でも同様のことが言えると思っています。

目指す演奏が自分の師匠にあるはずです。
レッスンで自分に演奏を教えてくださる先生(師匠)の演奏を目標にするのは当たり前のことだと私は思ってます。むしろ、そうでないなら習う意味はないと考えます。
その師匠が仮にいわゆる「演奏家」ではない場合も考えられますが、優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないことは言うまでもありません。
一方で優れた指導者が優れた演奏家であるとも限らないと思います。
ただ後者の場合、指導者が弟子を上手にすることが「うまい」のであって、弟子の立場から見れば、師匠の求める演奏、指導の内容を忠実に練習し、師匠の要求に応えていくことが「目標」であるわけです。
いずれの場合も、弟子が師匠から学び取ることは容易なこと、安直なものではありません。教える側からすれば「もっと!」「まだまだ!」と思ってもそれが弟子に伝わらず、歯がゆい思いをしていることも多いのです。
音楽大学で学ぶ人にとって、自分の演奏技術を認識するのは、師匠からの言葉以外には、他の学生との比較になります。もう一つ、重要なのは自分で自分の技術を評価することです。その3つのバランスが一番大切です。
師匠の言葉、他の学生との比較、自己評価。
偏りがちなのは、2番目の他の学生との比較です。成績や順位。これはとても大切な評価ポイントですが、あくまでも「その時いる人との比較」ですから、むしろ流動的な評価です。学校の中、学年の中での評価です。一喜一憂する必要はないのです。
自己評価を客観的にできるようになるための学生生活です。
自分に足りない技術と知識を常に発見しようとする姿勢は、ともすると「後ろ向き」と思いがちですが、上達したいのなら自分の欠点を長所に変える覚悟がなければ無理でしょう。
自分の長所を見つけるのは自分ではなく、師匠です。
自分の欠点は師匠からの指摘と、もう一人の自分からの指摘です。
もう一人の自分を常に持つことこそが「客観的な練習」です。
友人との競争より、もう一人の自分からの指摘に負けないことが重要です。
若いからできることをしてほしいと思います。
そしてやがて、自分が経験と年齢を重ねたときに、若い時の記憶がどれほど重要だったのかを知ることになります。後悔してもどうにもならないのが、若い時に苦労することを避けた「甘え」なのです。

若い音楽家のみなさん。
どうか夢を諦めないで大きな目標を見据えてください。
これからの音楽世界を作るのは、若い人たちなのですから。

野村謙介

弓の毛を張り替えること

弦楽器奏者にとって「弓の毛の張替え」は弦の借り換えと同様、いつ変えようかな¨と迷うことの一つです。
馬のしっぽの毛ですから、弾かずにいたとしても時間とともに劣化します。
人間の髪の毛を考えればよくわかりますが、カットしたり、抜け落ちた髪の毛は弾力がなくなり、細くなっていきます。馬のしっぽの毛も同じです。
古くなると、弾力がなくなり、細くなります。表面の凸凹は残っていたとしても、新しい毛の柔らかさは失われます。
使わなくても、せても1年に1度は張り替えてもらいたいと思っています。
その張り替える職人さんの「技術」は演奏家にわかりにくいものですが、
技術と経験が足りない職人さんが張り替えた場合との違いは、明らかにあります。
弓の木の弾力を見極め、すべての毛を均等な間隔(幅)で揃え、その時の乾燥や湿度と、弓の長さを考えて、緩めたときに、毛だけでなく弓の木(スティック)も完全に休める状態に長さを決める¨。
さらに、くさびを正確に削り、抜けない。でも次に張り替える時に外せる大きさにする。
なさに「職人芸」だと思います。

毛の良しあしも大切ですが、私の経験で言えば「職人の技術」の方が重要です。

私は中学生の時から「毛替えは目の前で職人さんがしてくれるもの」だと思ってきました。自分の大切な弓を目の前で触ってくれるので、なにも心配がありません。その意味で、主治医「櫻井樹一氏」は私が楽器、弓のすべてを任せられる唯一の職人さんです。

張り方の好みや、楽器調整の好み、職人さんとの相性は大切ですが、ヴァイオリンンの主治医を見つけることがなによりも大切なことです。

みなさんも、信頼できる職人さんを探しましょう。
難しければ「信頼できる師匠」に紹介してもらいましょう。

野村謙介

師匠と弟子の関係

だいぶ前にも書いた記憶がありますが、今回は時代とともに変わる師弟関係について考えます。
先生と呼ばれる職業には、幼稚園や学校の教師、お医者さんがあります。
議員を「先生」と呼ぶ人もいますが私には違和感があります。

師匠と呼ばれる人の「職業」は様々です。落語家、舞踏家、いわゆる芸人なども思いつきます。
相撲部屋の「親方」は師匠なのかな?と迷ったりします。「親代わり」という意味合いでの親方という呼称なのでしょうね。大工さんにも親方っていますね。

さて、音楽の世界で「師匠」と呼ばれる人と、その「弟子」に当たる人の関係を考えます。
本来、師匠は弟子に「頼まれて」芸や技を教え、伝えるものだと思います。
師匠が「私の弟子になってください」と頼む光景は想像しにくいですよね。
自分がヴァイオリンを学ぼうと思い、技術を向上させたいと思ったとき、
あなたなら「誰に」技術を教えてもらいたいですか?
「誰でもよい」とは思わないのではありませんか?
「あのヴァイオリニストに習いたい」と思うのが「芸の世界」だと私は思っています。もちろん、例外もあります。私もその一人です。

両親がなんの予備知識もなく「有名だから」という理由だけで、私の師匠のお宅の門をたたきました。私はその先生(師匠)のお名前も存じ上げませんでした。それが私と久保田良作先生(師匠)との出会いです。
こんなことってあるんですね。案外多いのかもしれませんが。

話を戻して、自分の意志で師匠を選べる年齢であれば、自分で師匠に弟子入りをするのが礼儀だと思います。それが「芸事の常識」だと思います。

落語の世界で弟子入りし、「内弟子」として家の用事を手伝いながら住み込みで師匠の芸を「いつか教えてもらえる日」を待つ世界があります。
とても分かりやすい「師弟関係」です。
その師弟関係にも言葉にしない「契約」があると思います。
つまり、どんな師弟関係にも、「信頼」という契約がなければ、お互いに不幸な結果につながるのです。

音楽大学で学生にレッスンをする「教員」は、大学という組織の一員です。
その大学と先生の「契約」がまず、存在します。内容は様々ですよね。
その先生が教える学生は、先生と「師弟関係」と言えるのでしょうか?
これはすべての学生と先生に言えることですが、「大学の一員」という契約と、先生と生徒という関係が「師匠と弟子」という関係か否かという問題があると私は思います。

「権利と責任」は学生にも教員にもあります。その意味では「公平」な関係です。
一方で「師弟関係」は明らかに師匠が「上の立場」なのです。そういう契約なのです。弟子は師匠に逆らえません。どうしても我慢や納得が出来なければ、「破門」されるしか方法はありません。もちろん、師匠が常識的に考えて、許されないことを弟子にしたのならそれは別の問題ですが、多くの場合は、弟子が「耐える」のが芸事の世界だと思います。

大学生に話を戻すと、学生も先生も「お互いを選ぶ」権利を持っています。多少の制約はありますが、師弟関係の場合とは違います。大学という組織が決めたルールでお互いが巡り合います。

自分の望まない先生・自分の望まない生徒に巡り合ってしまった場合を考えます。
どちらも「不幸」です。ですが、それは大学が決めたルールの中で巡り合ったことなのでどちらも諦めるしかありません。
つまり、大学の場合は「師弟関係」としてお互いの信頼関係が成り立つか否かは、後になってからしかわからないということなのです。

学校を離れ、私的な立場で師匠を探し、門下として弟子入りするならば、師匠が「もう教えることはない」というまでは、弟子であるべきだと私は信じています。
弟子の立場で「もう習うことはない」と師匠の門下を離れ、違う師匠のもとに弟子入りするのは、個人的に嫌いなのです。はっきり書いてしまいましたが、自分自身が久保田良作先生という師匠に弟子入りして以来、他の先生に習いたいと思ったことがないので、正直に書きました。気分を害されたらすみません。

現代は信頼よりも契約が優先する時代です。要するに「気持ち」よりも「紙切れ」が大切だということなのです。
心のない演奏は音楽ではありません。
音楽を習うということは技術を習うのではなく、師匠の心を覗き見る努力をすることだと私は思っています。

野村謙介

左手と右手の分離

多くの生徒さんに見受けられる現象ですが、
片方の手の力を抜くと、もう一方の手の力も抜ける。
同じことは、力を入れる時にも起こります。
例えば、弦を指板まできちんと押し付ける左手の力を入れようとすると、弓を持つ右手にも無意識に力が入ってしまい、コントロールできなくなる。
また、違う例では、左手の指の形を崩すないように意識をすると、右手の指も無意識に硬直する。
右手の力を抜くと、左指の押さえ方が弱くなる。
初めてビブラートをかけようとすると、右手が勝手にダウンアップで動いてしまう。
そんな「無意識な連動」は人間にとって、ある意味では自然な運動です。
ただ、意識しなくてもできるようになると、それぞれの運動は独立します。
お箸を右手で持ち、左手が同じように動くことはないでしょう。
車の運転をしていても、両手が同時に動くことはないはずです。

なれない運動をすると連動する。

初めてドラムセットを両手両足を使って、それぞれの手足が「違うリズム」を演奏しようとすると、すべての手足が同じ動きをしてしまうものです。
私たちの脳から出る「命令」がそれぞれの筋肉を動かします。
「動かそう」と思えば思うほど、強い命令が他の手足にも出てしまいます。
慣れてくると、強く思わなくても、片手だけ、片足だけを動かしたり、走ったり、飛び跳ねたりできるようになります。

ヴァイオリンを演奏するときに、それぞれの手、指、腕、肩、背中を意識しながら「一つの運動」をすることから始めます。

例えば、左手の形、押さえ方だけを意識して修正したければ、右手に弓を持たず、ピチカートで弦をはじく練習も有効です。
右手の動きだけを確認したければ、左手は使わず解放弦で練習することがおすすめです。

二つの運動(右手と左手)を同時に練習するとき、同時に二つのことに集中することは、

不可能です。

ただ、注意することを「短い言葉」にして次々に違うことを注意することはできます。
コンピューターの「演算速度」に近いものです。同時に二つのことを考えるのではなく、短い周期でいくつかの「注意」を繰り返す方法です。

例えば「右手」「左手」「肩」「頭」「腰」「場所」「角度」「音程」「圧力」などの単語と、集中するべき運動を関連付けます。
一つの運動に長い時間、注意が行ってしまうと、他の運動がどんどん崩れます。そうならないように、短い言葉で注意を繰り返します。
「指」という単語で左手の指の押さえ方を直そうとし、
「小指」という単語で右手の小指を丸くしているかに集中する。
この二つの単語を交互に思いながら(必要なら声に出してみるとよいでしょう)曲を弾きます。
「頭」という言葉で頭の位置、重心を修正し、
「角度」で弓の直角を確認する。この二つを繰り返すのもひとつの方法。

要するに、何も考えないでも二つ以上のことがコントロールできるようになるまで、「口うるさく注意を繰り返す」ことです。

ひとつのことだけでもできません。

必ず生徒さんは答えます。
そうです。その一つひとつの難しさを知ったうえで、同時にいくつものことを無意識に、ある時は連動させ、あるときは独立させ、動かすのが「楽器の演奏」です。だからこそ、慣れが必要です。なれるまで、何日でも、何か月でも、何年でも時間をかけて繰り返しましょう。

「右手と左手はね。男と女と一緒なんだよ。わかる?」

大学生の時、久保田良作先生にレッスン中に言われた言葉です。
「????」当時、なんのことなのか、どんなジョークなのかさえわかりませんでした。
このネタは、子供には使えず、大人の生徒さんに使えば「セクハラ」になりますので、「格言」として私の中にしまっておきます。

というわけで今回はここまで。

野村謙介