メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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楽器・弓

上達に必要な基本の「知識」「技術」「練習方法」

映像は2004年みなとみらい大ホールで演奏する中・高校生の部活動オーケストラ定期演奏会。
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の一部です。私の作った部活オケを指揮した最後の定期演奏会でした。中学校に入学しオーケストラに入部して初めて楽器を手にした子供がほとんどです。中高一貫の私立学校で当時、オーケストラは中1~高2までの5学年の生徒が一緒に演奏していました。総勢150名にもなる大所帯。全校生徒1200名の内の150名が参加する部活オーケストラ。
 今回のテーマは部活も含めた「趣味の音楽」を楽しむ上で上達するための「知識」「技術」と「練習方法」を経験を元に考えるものです。

 まず前提として趣味で楽しむ楽器の演奏と演奏の専門家=プロを目指す人の目的は全く違う事を忘れないことです。目指す技術のレベルではなく「目的」の違いです。趣味で音楽を楽しむ人の集まりが部活オーケストラや部活吹奏楽、さらに市民オーケストラもその一つです。プロを目指す人の場合にはまず個人の演奏技術・知識を身に付けることが必須条件になります。多くの仲間と共に演奏を楽しむ「プロ」になるためにはまず個人のスキルが高くなければなりません。
 趣味だから下手でもいいか?結論は「はい」です。演奏する本人・本人たちが楽しめることが最優先であるべきです。その演奏を聴いてくれた人が「ヘタだねー」と言ったとしても気にする必要もないし、趣味の演奏をヘタだじょうずだと言う人が間違っています。演奏する本人・本人たちが「もっとうまく演奏したい」と言う希望・欲を持つ場合に初めて必要になる基本の知識・技術・練習が生まれます。指導者=部活の場合顧問がいくらレベルアップを望んだとしても、演奏する本人たちが望まないのであれば無駄な労力と時間を浪費するだけです。指導者が演奏をレベルアップしたいと考えるなら、まず本人たちが「純粋に」レベルアップを望むように誘導するべきですが「コンクールで上位を目指そう」と言う安直な餌で生徒を釣ることは絶対にやめて頂きたいと教員時代から願っています。趣味の音楽に序列を付けるのは「無意味」でしかありません。コンクールと言う餌がなければ生徒を惹きつけられないのは指導者の「指導能力」「指導経験」が足りないことを証明するだけです。「純粋に」と強調したのはその意味です。演奏する本人が何故?何を?上達させたいと思っているのかという根本的な問題をクリアする必要があります。自分の目指す演奏レベルと自分の演奏の「どこが・どう違うのか?」を知らないのが当たり前です。なんとなく…自分よりうまく聴こえる演奏に漠然と憧れている人に「がんばれ!」って言いますか?スポーツで考えればプロ野球の選手が出来ることを中学生・高校生に真似させて「強く」なれるはずがありません。そもそも指導者が「上達する道を通った経験」がないとしたら?YouTubeや本から得た情報だけで指導ができると思い込むのは「百害あって一利なし」です。間違った指導は成長の未来のある生徒の夢を破壊します。宝石の原石を叩き割るのが無知な指導者です。

生徒が自発的に上達したいと考えているなら…あるいは自分自身がそう思う演奏者なら「足りない技術・知識」を誰かに教えてもらう事です。少なくとも自分よりうまいと感じる人、できれば専門家を目指す人に必要な技術・知識を学んで身につけた人に教えてもらべきです。
 動画で演奏している中高生に音楽の授業を通して「楽典」を教えました。当然ですが部活に所属していない生徒たちにも同様に楽典の授業を中学1年から教えました。特に「音名」「音程」について覚えていて損はしません。当然変化記号=シャープ・フラット・ダブルシャープ・ダブルフラット・ナチュラルや調号の仕組みや名前についても教えました。子供たちにとって覚えることは他教科でも慣れています。覚えさえすれば定期考査で100点を取れます。事実、多くの中学生が楽典のテストで100点満点を取りました。覚える気のない生徒の点数はは一桁でしたが(笑)
 さらに指揮法の図形も授業で教えました。校内の行事で合唱コンクールがあり学級ごとに生徒指揮者、ピアノ演奏者を決め音楽の授業時以外にも担任が立ち会って練習していましたので「指揮法」は生徒たちが求めた技術でもありました。もちろん部活オーケストラで演奏している生徒たちも図形や「点」「叩き」「平均運動」などの意味を覚えました。これも合奏では大いに役に立つ知識です。

最後に趣味の演奏で有効な練習方法について。
一言で言えば「課題を見つけるための練習」をすることです。
一般には出来るようになるまで繰り返すことを練習だと思いがちですが出来ないこと=気付いていない症状を発見する事が優先です。治療は症状と原因を見つけてからするものです。病気と違って楽器の演奏に「予防」はありません。常に自分の演奏の状況を観察し、必要なら録音や録画をして自分の演奏の問題点を見つけ原因を探ることです。この場合も指導者のアドヴァイスは有効です。症状も原因も複数のことが絡み合っている場合が殆どですので「症状を分析する=もつれをほどく」作業が第一です。

例えばボウイングだけを意識して開放弦を練習すると出来ることがスケール=音階になるとできなくなる場合や曲の中で苦手な部分になると何故か?音が小さくなったり汚くなる症状です。気付くためには「観察する=聴くこと」以外に方法がありません。人に指摘されて修正するなら自分の音を聴いていなくても出来ることです。自分で自分の音を聴くのは一番疲れることです。演奏しながら聴くのですから指や腕を動かすことに意識が集中すれば「聴く=聴覚」への集中は落ちてしまします。運動する部分を「ひとつ」からスタートし「足し算」つまり運動する部位を一つずつ増やしながら聴く練習をすることが有効です。一気にすべての運動=右手・左手を動かして曲を弾けばどの運動が原因で雑音が出ているのかは判断できません。引き算しながら練習する方法もありますが、最初はひとつずつ=最初は右手だけ→左手だけでピチカート→両手で演奏のように症状が出始める原因を探すことです。
 練習できる時間は人によって異なります。楽器を使って音を出さなくても上達する練習があります。

ひとつは「頭の中で演奏する=イメージトレーニング」これは電車の中でもできます。もう一つは「楽譜と音楽を一致させる」練習です。楽譜を読む技術向上にもつながります。また色々な人の演奏を聴き比べながら楽譜を見ることで発見もあります。お茶を飲みながらできる練習です。
 技術・知識・練習は「意欲」によって内容も結果も変わります。
モチベーションを維持するのは大変に難しいことです。最大のポイントは「継続は力なり」という言葉だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音量

映像はアンドレ・ギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマはヴァイオリン、ヴィオラの演奏で「音量」を考えるものです。
 前提としてヴァイオリンは管楽器や打楽器、弦楽器の中で音量が大きい楽器ではないことを考えます。確かにギターやマンドリン、リコーダーと比べれば音量=音圧はヴァイオリンの方が大きいと言えます。しかしチェロ、コントラバスと比較すればヴァイオリンは音域が高いとは言え音量で考えれば比較して小さな楽器です。筐体=ボディーの大きさ、弦の長さと太さを考えれば当然のことです。事実オーケストラにおいてヴァイオリンの人数がヴィオラ、チェロ、コントラバスより多いのは音量の問題があるからです。当然フルートやピッコロなどの木管楽器、トランペットなどの金管楽器とは比べようもなく音の小さな楽器です。
 ヴァイオリン協奏曲を考えると明らかにオーケストラとのバランスが悪い楽器とも言えます。多くのレコードやCDで独奏ヴァイオリンの音がオーケストラと対等、あるいはオーケストラ以上に大きく録音されているのは単純にマイクの位置によるものです。会場で聴いた場合のバランスとは全く違います。これはピアノとヴァイオリンの二重奏でも同じことが言えます。
ピアノの音圧はヴァイオリンより遥かに大きく、小さな音の比較ではヴァイオリンと同程度まで小さな音を演奏できる楽器です。だからこそ「ピアノフォルテ」と言う正式な名前がついたわけです。ピアノとヴァイオリンが同時に演奏し、双方が目いっぱいのフォルティッシモで演奏したとしたら、ヴァイオリンの音は完全にマスクされ会場ではピアノの音ばかりが響きます。これはヴァイオリンの楽器がストラディバリウスだろうが新作のヴァイオリンだろうが変わりありません。演奏技術の問題でもありません。構造上の違いだからです。

ヴァイオリンを練習している時にフォルテやピアノ、クレッシェンドなど音量の変化に「基準」があるでしょうか?
どんな楽器の演奏でも最小・最大の音量があります。
音が出ていない状態でも音楽の一部です。休符や音楽の始まる直前、弾き終わった直後も音楽です。実際に楽器で音を出している時の音量は常に相対的な音量の差です。人間の耳は静かな場所では敏感になります。逆に地下鉄の車内や飛行機の中、大音量のロックライブ会場では隣の人の話し声さえ聞き取れなくなります。聴く人と演奏している人で感じられる音量の差=変化が違います。感覚の違いより楽器との距離の問題が一つ。距離が離れるほど微妙な音量の違いは感じられなくなります。特に小さな音の場合には離れた場所では聴こえなくなります。
もう一つ大事なのは演奏者が「大きく(小さく)したつもり」で実際には変化がほとんどない場合です。クレッシェンドしているつもりでも聴いている人には同じ音量に感じるケースです。ヴァイオリンのように最大音量が小さい楽器は音量の変化を「感じてもらう」ことが困難です。もっと大きく!と頑張ると得てして汚い音になりがちです。
音量の変化量=聴いている人が感じる音量の変化量を大きくしたければ「小さい音」を有効に使うべきだと思います。楽器の音量を物理的に大きくする技術や弦を考えることも大切ですが「相対」を大事にすべきだと考えています。
コンサートで物理的な最大音量をさらに大きくしたいのであれば最終的に「電気の力」を借りれば良いのです。野外でのクラシックコンサートでは当然の事ですがマイクとアンプ=電気的な増幅と巨大なスピーカーを多数設置して何千人・何万人の聴衆に音を届けます。
「大音量」で演奏できることが良い演奏だと思い違いをしないことが重要だと思います。そもそも録音するなら大音量はまったく必要ありません。レコーディングの現場は音量の変化は電気的に行うのが常識です。大ホールで演奏する場合に客席の最後列でピアニッシモが聴こえないとしたら?コンサートとして成り立っていません。だからと言って曲全部をフォルテで演奏したら?ダメですよね。
 小編成のアコースティック=電気を使わない楽器の演奏・歌を大ホールで開催することに違和感を持っています。どんなに音響の良い大ホールでも音の届く限界距離があります。無理に大きな音を出そうとするよりも聴衆にピアニッシモが心地よく聴こえる環境で演奏することを考えるべきではないかと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏会場を選ぶポイント

映像は代々木上原ムジカーザで2010年から2026年まで毎年デュオリサイタルを開いてきた私たちの「最初と最後」の演奏をまとめたものです。17年間にたくさんの曲を演奏し本当にたくさんのお客様と出会いました。同じホールで同じピアノを同じ調律師(名取さん)にお願いして、ほぼ同じ時期(1月初旬の土曜日)に開催し続けました。
今回のテーマは「演奏する場所」について考察するものです。

演奏には「聴衆の前で演奏する」場合と「録音や撮影のために聴衆のいない状態」の場合
があります。聴衆がいるコンサートを録画・録音した「ライブ」もありますが聴衆の有無は大きな違いになります。
スタジオで演奏し録音する場合は響きのない室内での演奏になります。
ピアノとヴァイオリンの録音を別々の時間・場所で録音する場合もあります。昔の言い方をすれば「「重ね録り」と呼ばれるものですが、多くはポピュラー音楽の録音に使われてた録音方法です。録音のための演奏なのでノイズ=周囲の雑音を極力減らし、後の編集作業のために残響時間も少ない事が求められます。演奏する人はヘッドホンを装着しメトロノームの音や先に演奏を録音した音を聴きながら演奏=録音します。慣れないと非常に演奏が難しいものです。
 聴衆を前に演奏する「コンサート」の場所は広さ=客席数、音響(残響時間など)が最も大きな違いになります。ホールや演奏場所の立地環境=交通アクセスも聴衆にとっては大きな問題になります。
 あまり大きく取り上げられませんがホールのスタッフと設備・備品は演奏者にも聴衆にも影響します。スタッフが演奏者の立場と聴衆の立場で最善の環境を作る技術と感覚を有していないと演奏が素晴らしくても良いコンサートにはならないものです。また施設や設備が演奏に不向きな場合もあります。エアコンの動作音が大きく演奏の小さい音にノイズが混在するホールもあります。客席の椅子が折り畳みのパイプ椅子で聴衆が長時間座るのが苦痛になる場合もあります。椅子のきしみ音も演奏の妨げになります。

演奏者がホールを選べる場合と、演奏を依頼され場所も予め指定されている場合があります。
後者の場合どんな会場でもその場にあった演奏を限られたリハーサル時間の中で探す技術・経験が求められます。
自分で会場を決める時に最終的に資金的な問題を優先することになります。もちろんこの費用を気にしなくても開催できる演奏者もいます。うらやましい限りですが多くの場合は会場使用料やピアノなどの使用料金、スタッフの費用などを含めたトータル費用とチケット収入の予想をシミュレーションして会場を決めることになります。
 演奏者の好みも分かれます。残響時間、客席の場所による聴こえ方の違い、演奏している音の演奏者自身の聴こえ方などです。資金的な条件の中で自分が最も演奏しやすく聴衆にも自分の理想に近い音で聴いて頂けるホールを選びます。

私たちが二人で演奏させて頂いた色々な会場の中で印象に強く残った会場「杜のホールはしもと」と「代々木上原ムジカーザ」は演奏した回数の多さもありますが残響時間、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランス、演奏者に戻ってくる音など大好きな会場です。杜のホールは525席のホールですがどこで聴いても気持ち良く楽しめる音響です。私たちの最初のリサイタルは長野県松本にある「音文」と呼ばれているホールの小ホールでした。初めて二人で演奏した緊張感もあって音響の事までは記憶に残っていませんが、その年に杜のホールで同じプログラムで演奏した時の感動は鮮明に残っています。
 野木にあるエニスホールも適度な残響とぬくもりのある響きの素敵なホールです。コンサート会場ではないのですが長野県木曽町にある「おもちゃ美術館」に併設されている体育館(実際に昔小学校の体育館だった建物を減築・改築した会場)の響きが忘れられません。

最後になりますが、演奏者にとって演奏会場は自分の演奏を聴衆に届けるための空間であることを書いておきます。自分が演奏者としての立場だけではなく、聴衆としての立場にたってホールを選ぶことです。主催者が自分でない場合、言いにくい一面はありますが演奏する以上「聴いてくださる方」への思いを第一に考えるべきです。
 演奏会場は公共の場です。多くの人が違う価値観を持って集まり共に音楽を楽しむ場です。主役は演奏者だけではありません。聴衆もスタッフも同じ目的=音楽を楽しむ時間と空間を共有する目的を達成するために必要な人です。誰が欠けても目的は達成できません。演奏者・スタッフ・聴衆が等しい関係性でなければ良い結果は得られないことを、まず演奏者自身が理解することが大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏の個性ってなんだろう?

映像は昨年1月に演奏したサン・サーンス「死の舞踏」
原曲は管弦楽で演奏する曲ですがピアノとヴァイオリンで演奏するためにアレンジされたものです。

さて、今回のテーマ「クラシック演奏の個性」ですが、個性的と言う言葉には一般的ではないというイメージがあります。個性が感じられないと言えば、逆に多くの人が認めている事や珍しくないと言う意味を含んでいます。
本来すべての人はそれぞれ違った個性を持って生まれます。どんな演奏であってもすべてに個性があります。歌であれば声・歌い方に個性があります。楽器の演奏でも音色やテンポ、部分的な音量などに個性があるものです。クラシック音楽の場合「楽譜通りに演奏する」と言う特色があり、ジャズやロックのように「楽譜も違う」音楽との違いがあります。
 落語に古典と創作があるように、料理にも創作料理があります。古典落語であっても「ラーメン」でも演じる人・作る人が変われば「個性」があります。この微妙な違いこそ演奏の個性に繋がるものです。
 楽譜に書かれている音符やテンポの指示、強弱の指示に従って演奏しても他人と同じ演奏にはなりません。微妙な違いを聴き分けられる人と気付かない人がいます。単に聴いた演奏の数と時間だけの問題だと思います。違いに気付かないから鈍いとかクラシック音楽を理解していないと考えるのは間違っています。ラーメンを一度だけ=1種類だけを食べた人と、多くの店を食べ歩き様々なラーメンを食べ比べた人の違いと変わりません。
 個性が強すぎると「癖がある」「一線を越えている」と酷評されがちですが「強い個性」の基準もないはずです。元より「初演」される音楽の演奏は比較される演奏がないのですから、次に誰かが演奏するまでは「唯一無二の演奏」になります。

 楽譜を初見で演奏したものと、時間をかけて考え試行錯誤を繰り返し練習した演奏があったとします。初見の技術・能力が高い人の演奏なら多くの人は「違い」を感じないかも知れません。むしろ「え?初めて楽譜を見ただけなのに?すごい!」と初見の演奏に喝采を送るかも知れません。
「間違えないために練習する」必要のない人も現実にいます。ではその人の個性は?
初見能力は演奏の個性とは別のものです。
 演奏する人の「音楽への思い」が個性になります。思いのない演奏がどんなに正確でも聴く人には感情が伝わらないものです。音楽を聴いて感動するのは「音」「音楽」にではなく、演奏する人への共感だと思います。私は演奏する人に「座学」を進めます。楽譜を記号として音にするための読譜ではなく音楽を「感じる」ための時間を取ることです。考えることで初めて自分だけの音楽=個性が生まれると考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者のメンタルとバイタル

映像は2012年12月に開催した妻、浩子さんとの4回目のデュオリサイタルの本番(演奏会)直前のステージリハーサル風景です。会場は私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホール はしもと」です。
客席数525名で残響時間の長い弦楽器の演奏に適した音楽専用ホールです。
今回のテーマはメンタル=精神や心とバイタル=身体の状態(心拍や血圧など)が演奏者に与える影響について考察するものです。私は心理学や脳科学、医学の専門知識はありませんが演奏者として指導者としてどちらにも深い関心があります。読んで頂く方にも共感して頂ける内容だと良いのですが。

演奏する人の健康状態は演奏に大きな影響を与えます。
精神的な健康は身体的な健康と比例して変化することがほとんどです。
何故か?心=精神の健康について多くの人がネガティブな印象を持っています。

精神を病む…と聞くとまるで不治の病にかかり「ダメ人間になった」と考える人もいます。実際には脳の働きに問題が起こった時の「思考」と「身体」が普段と違う状態になることを指しているので「盲腸になった」「中耳炎になった」のと基本的には同じ「病気の一種」なのです。
また人によって自分や家族のバイタルに神経質になり過ぎている気がすることがあります。

例えば血圧が高い…医師や論文によって危険とされる「高血圧」の数値が全く違います。どれが正しい?という判断は自分自身で行うしかありません。セカンドオピニオン=複数の医師の診断を受けることの重要性はここにもあります。
バイタルに神経質な人はメンタルに関して関心が低い人が多い気がします。むしろメンタルは「どうにもならない性格・気のせい」だと思っている人も見受けられます。ちょっとした身体の変化に気が付く観察力は大切ですが、気になって日常生活や演奏に影響が出てしまうとしたら?もったいない気がします。

人間の体調はどんなに気を付けていても崩れることがあります。ケガも含めて色々は症状で時には医師の診断や治療が必要になったり、処方される薬の効果が出ない場合も良くあります。そんな時にメンタルまで崩してしまうと過剰なストレスが原因になって違うバイタルの悪化が出ることもあり、悪循環に陥ることもあります。演奏会やレッスンに向けて準備したのに思ったように練習出来なくなったり、本番で痛みや違和感を持ったままで演奏することも経験します。そんな時に精神的な強さ・柔軟性が救いになります。
人間は脳の働きでストレスを感じると交感神経が過剰に反応し免疫力も低下します。興奮状態になるとドーパミンが分泌され痛みや疲労に鈍くなります。穏やかな精神状態の時には副交感神経が強く反応し眠気を感じます。
そうした「脳の働き」と共に人間には一定の周期で体内の細胞が代謝=入れ替わりしていますから同じメンタルとバイタルをいつも維持できるとは限りません。いわゆる「波」が誰にもあるものです。経験を重ねる間に自分の波をある程度予測して、意図的に休んで身体を休めながらピークを演奏会に持っていけるような事も可能になります。もちろん予期しないアクシデントはあるものです。弦が切れたり、楽器の剥がれが見つかったり弓に不具合が見つかったりハード面の問題でもメンタルが弱いと対応出来ません。
アスリートの中でも平常から「明るい性格」「人にやさしい人柄」「おおらかな気持ち」の人は順位や結果よりも大切な「目的」と「目標」を持っている気がします。勝つことが目的ではなく、あくまでも「一つの目標」だったり、演技や演奏を自分自身が楽しむことを何よりも大切にしている人のメンタルの強さを見習ってポジティブな考え方で暮らす習慣を持ちたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

指使い(フィンガリング)と弓付け(ボウイング)を考える

映像は14年前のデュオリサイタル4(代々木上原ムジカーザ)での演奏。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」を陳昌鉉さんの作られたヴィオラとベーゼンドルファーのピアノで演奏しています。陳昌鉉さんが客席で聴いてくださった最後のリサイタルとなってしまいました。
 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの演奏で左手の指使いと右手の弓使いについて私見をまとめたものです。

教本の多くは印刷された=指定された指使い・弦・弓使いを厳守して練習=演奏することが求められます。一方で多くの「演奏会用曲=一般の曲」では楽譜に書かれた指示(指・弦・ダウンアップ)が少なくなり出版社や編集者によっては全く違う指示が書かれている事がほとんどです。教本の指定を守って練習することで「セオリー」を覚えます。レッスンで指使いや弓使いが教本と違うと先生に注意される事も当たり前の事のようです。一つは楽譜の指示通りに演奏する技術の修得です。アンサンブルやオーケストラで演奏する場合、特に弓付けの指定は指揮者の要求やトップの指示で変更されることが多く、一人だけ弓が逆になれば見た目でもアウト!です。演奏する弦の指定がある場合も同様です。
もう一つの目的は自分で指使い・弦・弓使いを考えられるようになるためのセオリー=原則を覚える目的です。実際には曲=音楽によってセオリーが変わります。テンポ、音域、音量、リズム、作曲された時代によっても原則は違います。練習する過程で様々な指使いを練習することで「技術のボキャブラリー=引き出し」を増やす事が大切です。単に演奏しやすいだけの指使い・弓使いではなく、意図を持って決めることが出来なければ演奏できる音楽の幅も極端に狭くなります。音階教本のバイブルでもある「カールフレッシュ」の教本を練習し、分厚い教本のすべてをスラスラ演奏できる技術があれば恐らくどんな曲でも演奏可能になると言っても過言ではないと思います。昔イツァーク・パールマンが「どんな練習をすれば?」と言う質問に「私はカールフレッシュの音階だけで十分!」と答えていたのを思い出します。

少しだけ自分で考える指使いと弦、弓使いについて私のこだわりを書いておきます。
前提として演奏者の解釈=好みによって異なる事で正解はないという事を述べておきます。その上で自分の好きな指・弦・弓使いを考えて決めます。当然ですが演奏するすべての音は「1種類」の組み合わせでしか演奏できません。
左手の指=指使いで言えば
1.開放弦
2.1~4のいずれかの指で押さえる
3.自然ハーモニクスか技巧フラジオレット
の中で一つしか使えません。
弦で言えば4本の弦のどれか1本です
重音=和音の場合には上記の1から3の指使いと隣り合った2本の弦を同時に演奏しますが使用する2本弦は
1.EとA
2.AとD
3.DとG
のどれかを選びます。低い音域の場合には限定される場合もあります。
理想的には人差し指=1から小指=4までの4本の指を同じように使えることが理想ですが、人によって掌の大きさ、指の長さ、指の太さが違います。パッセージによってはポジションを移動しないと届かないケースも人によっては考えられます。トレーニングによって改善される指の動きの速さと強さ、開く距離、関節の柔らかさがあります。
演奏する弦の選択は多くの場合に自分の好みの音色と前後の音との関係で決まります。弦を変えても音色を変えない技術も練習で身に着ける必要があります。1本の弦で音域の広いパッセージを演奏する場合にはポジションのスムーズな移動と指の選択が必要になります。
グリッサンドやポルタメントを入れたいのか?入れたくないのか?も選択肢の一つで指使いも変わってきます。

次に弓使いについて。

一般にダウン(下げ弓)アップ(上げ弓)ばかりが注目されがちですが、むしろ一音ごとの発音=立ち上がり→弓の動き→音の終わりの処理が重要です。連続して音を演奏する場合「レガート=滑らかに」演奏したい場合の発音と最後の処理が重要になります。スラー記号があっても音符の上下にテヌートやスタッカート、アクセントの記号が書かれていればレガートではなく「弓の動く方向」を指定=同じ方向に動かすことを指示しています。
スラーがついていなくてもレガートで演奏する技術も必要です。一音ごとのアタックを付けずに弓を「返す」技術とアタックの強さをコントロールして演奏する技術を身に着けることが重要です。

さらにすべての音は弾き始める弓の場所と弾き終わる場所があることを常に考えることです。ダウンを弓のどこから?どこまで使って演奏するのか?が重要だという事です。ピチカート以外のすべての音は、弓の運動で音が出ます。短い音の連続=速いパッセージでも長い音の連続=ゆっくりしたパッセージでも弓の場所と速度が最も大切です。

映像にあるヴォカリーズのように原曲が歌曲の場合には、特に音の強弱と弓の物理的な長さを考えた「弓の速度と場所」が重要になります。長い音の連続する曲やレガートで演奏したい時に「音の長さ」と「弓の長さ」を考えた弓付けが必須になります。弓の運動は通常「往復運動」ですから「つじつま合わせ」が必要になります。楽譜にスラーやダウン・アップの指示がある場合、指示通りに演奏すれば「つじつまが合う」はずですが楽譜によっては頭をひねる事も多々あります。弓付けは音量と音色を決定づけるものですから、指使いと同じ重要性があることを忘れないことが重要です。

指使いや弓付けを考えるために技術の修得と共に経験を積むことが何よりも大切になります。演奏する会場の広さと残響・響きによって変更するケースもあります。大きな音量を必要とする会場の場合と、サロンのように演奏者と客席が近い場合のボウイングや共演するピアニストとのバランスでも弓付けを変えられる柔軟性と適応力は一朝一夕に体得できるものではありません。練習と違う環境で演奏することを前提に色々な組み合わせの指使い・弓使いを考える事も必要になっていきます。
冒頭に述べた通り正解のない自分だけの音楽を創ることに楽しさを感じられるように常に多様性を持った演奏を心掛けたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を作る技術あれこれ

映像はヴィオラとピアノで演奏したアザラシヴィリ作曲のノクターン。4年前の代々木上原ムジカーザでの演奏動画です。
これまでにも演奏の音色について色々な考察をしてきました。
ヴァイオリン、ヴィオラで演奏される「音色」は演奏者によっても楽器個体によっても異なります。演奏者の技術によって音色が決まると言っても過言ではありません。同じ個体の楽器を違う演奏者が演奏すれば違う音色になります。一方で演奏者が違う個体のヴァイオリン、ヴィオラを演奏したときの「違い」は演奏者の違い程に大きなものではないと思います。ストラディバリウスを新作のヴァイオリンに持ち替えて演奏しても聴いている人が気付かなかったという実話を知っています。思い込みで新作のヴァイオリンの音がストラディバリウスだと信じ込み「やっぱりストラディバリウスはいいですねぇ!」と感動しながら話しかけてきた人に思わず笑ったと言うお話です。
楽器を操るのが演奏者です。演奏技術が高いほど「自分の好きな音色」を出せます。初心者の場合、楽器をコントロールする技術が足りないために「楽器固有の音」を自分好みの音に変えることができません。その意味で初心者ほど楽器に依存する面が大きくなります。

音色を「作る」技術には何が必要でしょうか?
まず「微妙な違いを感じる耳」です。
音の高さ・強さと比べて音色の違いは数値化出来ない話は以前にもブログで書きました。誰かの演奏を聴いて同じ音色を再現することは極めて難しいことです。一つの原因は「楽器の場所」が全く違うからです。演奏している時の耳元で鳴っている音と、何メートルも離れ空間に広がり反響音も聴くのとでは「同じ音」でもまったく違って聴こえます。もう一つの理由は「力=身体の使い方」は他人が感じられないからです。自分自身の身体でさえ今、身体のどこに?どの向きで?どのくらいの時間?どのくらいの力をかけているか?を瞬間的に判断できません。同じ音色が出るまで繰り返す間に、指・関節・筋肉をどう?使っているのか観察し続けて初めて同じ音色を再現できるようになります。
似たように聴こえる音色でも集中して聴くと倍音の含まれ方が違うことに気付き、身体の使い方を変えることで修正が可能です。
自分の音色が他人にどう?聴こえているのかをリアルタイムに自分自身の耳で確かめることは不可能です。出来れば何人かの人の「印象=感想」を参考にするのが一番現実的です。聴く人によって聴こえ方が違い、表す言葉も違います。同時に何人かの印象を聴くことでお客様が感じる印象に近いものが得られます。リハーサルがそのチャンスです。自宅で練習する時であれば同じ種類のマイクとヘッドホンで録音したものを聴き比べるのも音色を確認するのには良い方法だと思います。思っているほど=演奏しながら自分の耳で聴いている時ほど、高音が少なくこもった印象に聴こえたり逆だったり。

音色を作る弓の使い方と弦の押さえ方・ビブラートの技術。
・弓への圧力と時間
弦に弓の毛をどの方向でどの位の力で押さえるか?その力=圧力をどれだけ保持するか?
・弓を置く弦の場所
駒からの距離が短いほど高音が多い音色になります。
・弓の毛の量
弦に当たる毛の量は傾きと圧力で変えられます。毛の面と弦が平行になる傾きの時、最も強い圧力がかけられます。少ない毛の量で圧力を弱くすれば弦だけが振動し楽器本体の木を振動させない「細い音」が出せます。
・弓の速度
弦との摩擦=圧力と違い「運動の速さ」を速くすれば弦の振動を妨げず、遅くすれば弦の振動を押さえる働きがあります。音の高さによって弦の振動する速さが変わります。1本の弦で高い音=ハイポジションの場合、弦は速く振動します。弓の速度は毛の表面の凸凹と弦を「引っかく速さ」です。毛の凸凹が小さく・少なくなってしまった毛の場合、松脂で出来た凸凹だけが音を出すことになります。
・弦を押さえる指の場所
指の腹=肉球部分で押さえれば弦の振動を止め切らないので高音が少なく、こもった柔らかい音色になります。余韻はほとんどなくなります。指先の固い部分で弦を押さえれば逆に高音の多い明るい音になり余韻が長くなります。
・押さえる力の強さ
意図的に弱く押さえることで余韻を押さえた音色を作れます
・弦と指の角度=爪の向き
後述するビブラートとの関係で、真上から見た状態で弦に対して45度の角度で押さえるのが原則ですが、ビブラートの深さや速度によっては弦と平行に近い角度で指を置くと音色の変化量を増やせます。
・ビブラートの深さ
音の高さの変化量で大きく動かせば多くの種類の倍音を得られます。
浅くすれば=幅を狭くすれば一定の音色を保つことが出来ます。
・ビブラートの速さ
好みによりますが速すぎると異なった高さの倍音を消してしまい響きが窮屈な音色になります。遅すぎると倍音の余韻が消えてしま詩「波」にしか聴こえなくなります。
・ビブラートをかけ始めるタイミング
音の最初から深さ・速さを変えずにビブラートすれば短い音でもビブラートの効果が得られますが、一方で聴く人の耳に音の高さの印象が残りにくくなります。ノンビブラートの音を意図的に混在させることで音色の変化がフレーズの中に生まれます。

最後に「聴き方=楽器と耳の位置・首の力」の違いについて考えます。
音色の変化は聴き方によって感じやすくも逆に感じにくくもなります。まず楽器と耳の位置と距離が変われば音量も音色も変わって聴こえることです。表板に耳を近付ければ大きく聴こえます。耳を遠ざければ小さく聴こえます。実際に出ている音と関係なく「聴こえる」だけであり会場に聴こえる音の変化ではありません。常に一定の位置関係と距離で演奏すること=姿勢を保持することも音色の決定に不可欠な事だと思います。
また、構え方によって楽器の微妙な音色の変化に気付きにくい構え方もあると思います。首に無意識に強い力がかかっていると、高い音の聴力が下がります。突然大きな音がした時に反射的に肩が上がり、首をすくめる姿勢になるのは人間の防御反応です。首に力を入れ続けた姿勢は音色を聴き分けにくい姿勢だと言えます。
同様に息を止めた状態を続けると、徐々に筋肉が硬直し音への反応が鈍くなります。
大きい音のパッセージを連続して練習した直後には、一時的な難聴状態になっています。特に高音を強く弾き続けた後に高い音が鳴っているように感じるのは、やはり耳が防御反応している証です。
できればしばらく耳を休めてから集中して音が聴こえる状態になってから練習することをお勧めします。

音色に正解はありません。人の声が皆違うように演奏者によって好みの音色が違います。聴く人にも同じことが言えます。好きな歌手の声は理屈抜きに心地よいものです。
音楽によって、旋律や和声によって音色をコントロールするのは、会話や演劇の「台詞」に抑揚や声色を変えて読むことに似ています。
棒読みすれば、どんな素敵な文章や詩も感情のない「声」になります。音楽も同じです。楽譜には書かれていない「音にした時に感じる感情」を演奏者の考える音色で演奏することが、演奏者の個性につながると信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の弾きこなす意味

 映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏したものです。陳昌鉉さんのヴィオラ、私にはとても魅力的に感じています。
 今回のテーマは前回のブログに引き続くものです。
演奏者が楽器の個性を引き出すこと。違う言い方をすれば、楽器の弾きこなすことでもあります。先日、会社で税理士さんと「なぜ?ヴァイオリンだけ特別に高いのか」と言う話題になりました。皆さんはどう?考えますか?
 ピアノの「最高峰」と言われるフルコンサートグランドピアノで約2500万円。
パイプオルガンは建物と一体化していることが多く、単純に楽器だけの金額を評価することは不可能です。
 フルート、トランペット、ティンパニなどなど多くの楽器がある中で、ヴァイオリンだけが「10億円以上」のがっきがあります。はてな?素朴な疑問ですよね。結論は「楽器の性能・ポテンシャルとは無関係に資産取引の対象」なのです。ゴッホやピカの絵画、人間国宝の作った焼き物などが本人の意思や、「物としての価値」ではなく「金儲け=ビジネス」の道具になっています。
 ヴァイオリンは300年以上前に「完成された楽器」とされています。その頃から現在まで、壊れずに=修理を続けながら演奏し続けてきた楽器に「プレミア的な価値」があるのは自然なことです。ただそれは、楽器の音色とは無関係です。

 さて、楽器を弾きこなす技術とは、いったいどんな技術でしょうか。
一般に「うまい」とされる演奏は「正確性」「再現性」が判断の基準です。
 この二つの技術は、楽器がどんなヴァイオリンであっても不変です。
ストラディヴァリならうまく弾ける?魔法か!(笑)初心者にとって「正確に何度でも演奏できる」事は大きな課題になります。どんなに上達したとしても、それはゴールのないものです。単純に「ミスの数」だけで点数化することもできます。フィギアスケートの審査と似ていますね。
 ではうまければ楽器を弾きこなしていると言えるでしょうか?
楽器はすべて、音色も音量も違います。「木材」を主材料にする以上、当たり前の事であり、それはストラディヴァリの楽器であろうと、大量生産のヴァイオリンだろうと「差」があることには変わりありません。
★楽器による個性を知るこための技術
1.演奏方法のバリエーションを持つこと
2.弾き方による音色や音量の小さな違いを聞き取る耳
3他人の意見を聞き入れる心の広さ
★個性を引き出すための技術
1.楽器との対話=自分の技術と楽器の個性を常に客観視する気持ち
2.楽器の変化と自分の聴こえ方の変化を並行的に観察する力
3.自分の好きな音色・音量を維持する根気
4.時間をかけて楽器と対話する「一途な気持ち」
 多くのヴァイオリニストが自分の楽器に不満を持つようです。それは初心者、アマチュアよりも「プロのヴァイオリニスト」に強く表れるようです。
 アマチュアから考えれば「それだけの技術があるからきっとわかるんだろう」と推測します。楽器の違いが判り、自分には物足りないと「買い替える」事がヴァイオリニストのステイタスなのでしょうか?そうしなと満足できるヴァイオリンに巡り合えないのでしょうか?
 楽器を「人間」として考えてみると答えはすぐに分かります。
完璧な人間はいません。自分が「パートナー」として選んだ相手に完璧を求めるでしょうか?パートナーのために自分を完璧にできるでしょうか?
 欠点があり長所があり、変化するのが人間です。長く付き合えばさらにその変化は大きくなります。相手の変化、自分の短所をお互いに「受け入れながら」いるのが人間同士のパートナーですよね?どちらかが、我慢できなくなれば「コンビ解消」(笑)になるのは仕方ないと思います。一方だけが我慢することはお互いのためになりません。
 楽器は自分で変わることは出来ません。演奏する人が「変える」事はできます。人間に例えるなら「言葉を話せない乳児(あかちゃん)」にも似ています。
親の思う通りにならないのがあかちゃんです。それでも「愛情」があるから受け入れられる。
ヴァイオリンを「買い替える」ことは「道具なんだから」と思えばできることです。それを「自分の子供」だと考えたら「気に入らないから買い替える」って…出来ないと思います。自分が育てる。自分も成長する。それが楽器を育て、自分を成長させることだと思います。
 赤ちゃんが、言葉にならない意思表示をするとき、親は子供のすべてを観察して「もしかして?」と子供の意思を探りますよね。ヴァイオリンにそれをしているでしょうか?
 楽器の個性は人間の個性と同じだと思います。相手によって変わるものです。
人間はヴァイオリンを選べます。ヴァイオリンは演奏者を選べません。
 どんな楽器だろうと、その個性を最大限に引き出すために何年かかろうと、一生かかろうと私は厭いません。私にとって今のヴァイオリンとヴィオラは「大切な家族」なのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦楽器の価値は楽器で決まるのか?演奏者で決まるのか?

 映像は陳昌鉉さんが2010年に作られたヴィオラで演奏した赤とんぼです。

 上の画像はそのヴィオラの写真とラベルです。一般に新作の楽器はオールド(製作から100年以上経過した楽器)より「価値が低い」とされているのが弦楽器の不思議な「定説」ですが、私はこの固定観念は間違っていると確信しています。
 誤解のないように言葉を足せば「古い楽器が新しい楽器より価値があるとは限らない」と言うことです。
「ストラディヴァリはどうだ!」「グヮルネリは?」「アマティはどうだ」
必ず食いつく人がいますが(笑)「名作」と言われている楽器を、初心者が演奏して良い音が出ると思いますか?「プロが弾かなければ価値がわからないんだ!」と仰る方が、プロの演奏するストラディヴァリの作った楽器と新作のヴァイオリンを聴き比べて「当たる確率」は50パーセントと言う世界的なデータを否定できるでしょうか?「聴く人の耳が悪いだけだ!」いいえ。それも違います。
プロのヴァイオリニスト、ヴァイオリンの製作者が聴いても結果は同じです。50パーセントの確率です。つまり?
 演奏する人の技術の差の方が、楽器の違いよりも大きい
事は紛れまない事実です。演奏する技術が足りなければ、どんな楽器を演奏しても「それなり」の音しか出せません。言い換えれば、その人が安い楽器を演奏しようが高い楽器を演奏しようが「大差はない」のです。
 楽器を買えれば音色も音量も変わります。それは事実です。
演奏技術が高いほど、楽器の個性を見つけられ、固有の音色を引き出せます。
楽器固有の音と演奏者の「相性」がすべてです。要するに好みの音を持っている楽器に根巡り合うことが、演奏者の喜びであり「運命」なのです。
 高い楽器を手に出来ないから、演奏技術が低い。
論理的に間違っていますよね。
 高い技術があれば、どんな楽器でも良い音が出せる。
これ、間違っていませんよね?
つまり、演奏技術を高めることが楽器の価値をあげることになるのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器を「オールドには劣る」と決めつける人を見かけます。自分の好みではない音…だと言われれば否定は出来ませんが、それは「好み」の問題であり客観的な基準・事実ではありません。
「日本で一番おいしいラーメン屋さん」
ありえないですよね(笑)それと同じことです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。