メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

「好みの違い」はどこから生まれる?

今回のテーマは「好み」が人によって違うことを掘り下げるものです。
音楽でも食事でも人それぞれに好き嫌いがあるのは当たり前のことであり、それは自分以外の人に対しても言えることです。
「私は嫌いな人は一人もいない」って人を見たら正直「ホント?」って思ってしまいます。
理想的には嫌いなものがひとつもない人間…かも知れませんが不自然な気がします。嫌いではなくても好きではないとか、こちらの方が好きと言う感覚はあって当然だと思います。
同じような環境で育った兄弟でも好き嫌いは違うもので、双子の姉妹でもそうだと聞きます。

何から何まで好みが同じ人は恐らく存在しないと思います。
では何故?いつの間に?人の好みは決まるのでしょうか?
離乳食を食べ始めた頃の乳幼児でも味の好き嫌いがあり、人の好き嫌いがあります。本能的に母親の声や匂いが一番安心できる事は誰でも想像できます。ただ今まで味わったことのなかったはずの離乳食の中で好きな味・舌触り・匂いはどうしてあるのでしょうか?

以前「臭いと感じる匂いはその人にとって有害な匂い」と言う話を聞いたことがあります。
ただ必ずしも害があるとは思えない気もします。例えば納豆の匂いが嫌いな人にとって発酵食品や大豆が有害だとは思えません。納豆が好きでもブルーチーズの匂いは我慢できないと言う人も珍しくありません。
生理的に嫌い!と言う言葉も耳にしますが根拠となる事実はなさそうな気がします。ただなんとなく嫌い…言葉に出来ないけれど嫌いという事はいくらでもあります。逆に何故か大好きと言うものもたくさんあります。
好きだった物が嫌いになったり、逆のケースも良くあります。好みが変わるのも生きていれば経験することです。この「変化」がどうして起きるのかを考えると何故好きになったのか?嫌いなのか?の謎を紐とける気がします。

好みが変わるきっかけがある場合もあります。
「食わず嫌い」もその一つです。先入観があって嫌いと思い込んでいた食べ物や音楽は子供の頃にはたくさんありました。初めて食べた時に「まずい」「嫌い」と感じた食べ物や音楽は次に同じものを食べたい・聴きたいとは思いません。二度目に我慢して食べたり聴いたりして判断が変わる場合もあれば「やっぱり嫌い・無理」と思うケースもあります。嫌いだった食べ物や音楽を好きになる共通項は「経験」することです。何回も嫌な経験をすることもありますが、「嫌いな食べ物や音楽」が「実は美味しい!好き!」と変わる経験ですね。
人間の五感「視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚」は成長と共に変化します。多くの場合は徐々に鈍くなると言われています。ただ人間の視覚は乳幼児の頃には非常に鈍い=視力が悪いのが普通だと言われています。加齢と共に聴覚、視覚が衰えるのは一般的に知られています。
嗅覚を使って香水の調合をしたりワインの香りを嗅ぎ分ける職業の人もいます。もちろん犬や猫の嗅覚には及びませんが。視覚も空を飛ぶ「鷹」などは数キロ先の小動物を見分ける視力があると言われています。聴覚も人間が感じられる範囲より遥かに高い音を聴くことが出来る生物はたくさんいます。

そんな人間の五感と脳の記憶が繋がって「好み」が生まれます。

察するところ人間の好き嫌いに明確な違いは見つけられないと思います。記憶した物の名前と経験が「これは好き」「これは嫌い」と分類している事の方が多いと思います。
先入観を持たずに名前さえ知らない料理を初めて味わった時「何かに似ている」物を探そうとします。味覚の種類=塩味・甘味・苦味・うま味(これも入るようです)の組み合わせと匂い、食感=舌触り・噛み応えなどを感じて「好きな食べ物」かどうかを無理やり決めようとします。分析しているわけではないのでその料理の名前と「好き・嫌い」を記憶しています。
音楽もよく似ています。「これはクラシック音楽です」と先に伝えられて聴いた音楽がつまらない・面白くない・楽しくないと感じれば記憶として「クラシックは嫌い」と残ります。

クラシックって何?(笑)
戻ってしまいますが中華料理が苦手と言う人に中華料理ってどの食べ物の事?と尋ねて答えが正しく言える人はいません。そもそも分類自体が曖昧であり中華料理の定義さえ人によって違うのですから。
クラシック音楽にも厳密な定義はありません。さらに言えばベートーヴェンが作曲していた当時のベートーヴェンの作品は「クラシック」ではなく「現代曲」だったはずです。バッハでもストラビンスキーでも同じです。多くの人は演奏のスタイルでクラシック音楽が決まっていると勘違いしています。オーケストラでゲーム音楽を演奏した場合、クラシック音楽ではありません!が子供がその音楽を聴いていると親は「我が子もやっとクラシック音楽に目覚めたか!」とぬか喜びしていた話は有名です。

最後に今現在嫌いな音楽や食べ物がある人の場合を考えます。
もちろん何歳になっても好き嫌いがあって当然です。
死ぬまで一度も口にしないと決めた料理があっても誰も咎められませんし不幸だとは思いません。音楽も同じです。一生演歌は聴かない!ヴァイオリンでポピュラーは弾かない!と決めて誰かが困る?(笑)
一方で演歌が大好きな人からすれば「なんで?演歌の何が嫌いなの?」と考えるものです。

先ほどの中華料理の話ですね。
好きな食べ物・音楽に巡り合えた人は楽しみ・幸せを一つ多く見つけたことになります。好きな食べ物だけを食べ続けても絶対に!飽きない人は恐らくいません。音楽は食べ物と違って聴かなくても死にません(笑)から、一生1曲の演奏だけを聴き続けても健康には問題ありません。他の人から見れば「可哀そうな人」と思われるだけです。
どんな音楽、どんな演奏も嫌いになる客観的な理由はない事。自分が嫌いな音楽と好きな音楽に共通点が必ずあること。
演奏する楽器に不向きな音楽もあると思います。。それさえ人によって判断が異なることです。
他人の価値観を否定せず、自分の好きなものを増やすこと。
そんな生き方をしたいと願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者との距離と楽しみ方

映像はかなり前の演奏動画ですが普段レッスンで使っていた教室のスペースで開いたミニライブ(コンサート)での演奏動画です。
映っているように私と最前列で聴いてくだっさているお客様との距離は1メートルあるか?ないか?の至近距離です。
今回のテーマは演奏を聴く時の「距離」で何が違うのかを考えるものです。

演奏する会場が「〇△ホール」と書かれている場合、一般的には客席数が100から数百席の「小ホール」と1,000席以上の客席を持つ「大ホール」に分かれます。
名称だけでは判断できませんが設計段階での「目的」があります。多目的に使うためのホールは残響時間を短くし講演や演劇の声を聞き取りやすくした音響を考えています。客席から舞台上が見えることも大切な要素になります。
音楽の演奏を主眼とする音楽ホールでも大音量のコンサートを開催するためのホールと室内楽やソロ、アコースティック楽器によるジャズライブなどに適したホールに分かれます。前者の場合にはステージの広さも求められます。残響と反射音は設計で変わります。金管楽器や打楽器の演奏では残響や遅延=ディレイは嫌われる傾向があります。一方で弦楽器のアンサンブルや独奏の場合には音域のバランスが取れた残響があった方が心地よく演奏を楽しめる上に演奏者も自分の演奏した音が返ってくるので安心して演奏できます。

ホールではない場所での演奏も立派な演奏会場になり得ます。
数千から数万人が一度に音楽を楽しめるような野外でのフェス、巨大なドームでのライブなどでの演奏もあります。音は電気的に増幅し巨大なスピーカーから聴こえてきます。演奏者を見るのもスクリーンに投影された映像になります。
ストリートライブや商業施設や駅構内で演奏するケースもあります。
演奏の環境は決して良いとは言えなくても演奏者を間近に感じられるのが最大の楽しみです。
それ以外にもサロンホールでの演奏や会議室、一般家庭のリビングでも演奏できます。広さも音響も様々です。
一度に多くのお客様を迎えられる会場での演奏と数名~数10名程の方に聴いて頂く演奏の違いとは?
一言で言えば「お金」の問題です。
大きな会場は使用するための費用が莫大になります。利益を出すためには来場者からの入場料(チケット代金)×来場者数で決まります。
小さな会場や会議室、リビングのような場所であれば会場費はほとんどかかりませんから入場料や人数を気にする必要はありません。
もちろん大きな利益を望むなら「大きな会場で高い入場料をたくさんの人に払ってもらう」事が条件になります。現在の不景気は日本で高い会場費に見合う集客をすることは極めて困難です。高い入場料を払えない人にとって演奏会が縁遠いものになっています。

そんな現代演奏家が生活する収入を得ることは本当に大変なことです。
「自然淘汰」と言ってしまえば簡単ですが若い演奏家や大手の音楽事務所のプロモートを受けていない演奏家にとって演奏する機会が失われています。
小さな会場でも少ないお客様でも演奏を聴いて頂ける場を提供してくださる方たちが増えることを願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者のメンタルとバイタル

映像は2012年12月に開催した妻、浩子さんとの4回目のデュオリサイタルの本番(演奏会)直前のステージリハーサル風景です。会場は私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホール はしもと」です。
客席数525名で残響時間の長い弦楽器の演奏に適した音楽専用ホールです。
今回のテーマはメンタル=精神や心とバイタル=身体の状態(心拍や血圧など)が演奏者に与える影響について考察するものです。私は心理学や脳科学、医学の専門知識はありませんが演奏者として指導者としてどちらにも深い関心があります。読んで頂く方にも共感して頂ける内容だと良いのですが。

演奏する人の健康状態は演奏に大きな影響を与えます。
精神的な健康は身体的な健康と比例して変化することがほとんどです。
何故か?心=精神の健康について多くの人がネガティブな印象を持っています。

精神を病む…と聞くとまるで不治の病にかかり「ダメ人間になった」と考える人もいます。実際には脳の働きに問題が起こった時の「思考」と「身体」が普段と違う状態になることを指しているので「盲腸になった」「中耳炎になった」のと基本的には同じ「病気の一種」なのです。
また人によって自分や家族のバイタルに神経質になり過ぎている気がすることがあります。

例えば血圧が高い…医師や論文によって危険とされる「高血圧」の数値が全く違います。どれが正しい?という判断は自分自身で行うしかありません。セカンドオピニオン=複数の医師の診断を受けることの重要性はここにもあります。
バイタルに神経質な人はメンタルに関して関心が低い人が多い気がします。むしろメンタルは「どうにもならない性格・気のせい」だと思っている人も見受けられます。ちょっとした身体の変化に気が付く観察力は大切ですが、気になって日常生活や演奏に影響が出てしまうとしたら?もったいない気がします。

人間の体調はどんなに気を付けていても崩れることがあります。ケガも含めて色々は症状で時には医師の診断や治療が必要になったり、処方される薬の効果が出ない場合も良くあります。そんな時にメンタルまで崩してしまうと過剰なストレスが原因になって違うバイタルの悪化が出ることもあり、悪循環に陥ることもあります。演奏会やレッスンに向けて準備したのに思ったように練習出来なくなったり、本番で痛みや違和感を持ったままで演奏することも経験します。そんな時に精神的な強さ・柔軟性が救いになります。
人間は脳の働きでストレスを感じると交感神経が過剰に反応し免疫力も低下します。興奮状態になるとドーパミンが分泌され痛みや疲労に鈍くなります。穏やかな精神状態の時には副交感神経が強く反応し眠気を感じます。
そうした「脳の働き」と共に人間には一定の周期で体内の細胞が代謝=入れ替わりしていますから同じメンタルとバイタルをいつも維持できるとは限りません。いわゆる「波」が誰にもあるものです。経験を重ねる間に自分の波をある程度予測して、意図的に休んで身体を休めながらピークを演奏会に持っていけるような事も可能になります。もちろん予期しないアクシデントはあるものです。弦が切れたり、楽器の剥がれが見つかったり弓に不具合が見つかったりハード面の問題でもメンタルが弱いと対応出来ません。
アスリートの中でも平常から「明るい性格」「人にやさしい人柄」「おおらかな気持ち」の人は順位や結果よりも大切な「目的」と「目標」を持っている気がします。勝つことが目的ではなく、あくまでも「一つの目標」だったり、演技や演奏を自分自身が楽しむことを何よりも大切にしている人のメンタルの強さを見習ってポジティブな考え方で暮らす習慣を持ちたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

一瞬先を予測しながら演奏する

映像は私が一番!暗譜=楽譜を見ないで演奏する…に苦労した曲です。
ヴィオラとピアノによる演奏です。
アルヴォ・ペルト作曲の「シュピーゲル イン シュピーゲル=鏡の中の鏡」は、お聴きの通り非常にゆったりした曲です。「こんな簡単そうな曲が覚えられないの?」と思われがちですが実際に試して見てくださいね(笑)
リズムの変化は1曲の中でほとんどありません。旋律は「順次進行=隣の音に上がる又は下がる」が段々に長くなり最後に「A=ラ」の音に落ち着きます。自分が今、どこにいるのか?わからなくなる!結局私の記憶力が足りないのかも(笑)

今回のテーマは少しSFっぽいイメージがあるかも知れませんが「未来を予測する」ことが演奏に不可欠だと言う内容です。遠い未来…1分とか1日、将来と言う意味ではなく自分がこれから演奏しようとする音=次の音を演奏するための時間です。
当然、いま弾いている音が短い音なら次の音はすぐに演奏する必要がありますから、予測する時間も極めて短い時間にイメージしなければ間に合いませんね。間に合わないからと言って適当に=いい加減に演奏すれば無責任な音を演奏することになります。処理の速度を速くするトレーニングも大切です。

演奏に限らず私たちは日常生活でも無意識に次の行動を準備し、その結果を予測しています。極端な例えかも知れませんが「歩く」時もその一つです。
「足を交互に前に出す」足元に穴があいていたら?大きな段差があったら?
恐らく足元を見ることが出来れば足を下ろす場所の「安全」を確認しているはずです。これも予測です。歩く速度なら足元=次の一歩だけを予測すれば歩けますが自動車で高速道路を時速100㎞で運転している時には、はるか前方を見て危険がないか?予測しているはずです。
演奏で失敗しても怪我はしませんし交通事故にもなりませんが(笑)どんなに長い音を弾いていても常に次の瞬間を予測し続けることです。
音が伸びている状態でも常に身体の筋肉・関節のどこかを動かしているはずですし、呼吸もしています。または息を止めて演奏する瞬間もありますが、長い時間息を止めれば苦しくなるのは当たり前です。
ヴァイオリンやヴィオラの弓で考えれば長い音を伸ばす時、弓を遅く動かし圧力をコントロールしても、いずれ弓の終端に到着して音が切れます。つまり弓の終わる時間を予測して弓の速度を調整しているはずなのです。これも予測です。

次の瞬間を予測するトレーニングの一つに「視唱=ソルフェージュ」があります。初めて見る楽譜を練習せずに音(声)にする技術を身に付ける練習です。楽譜には音の高さ(音名や臨時記号を含む)とリズム(休符を含めた音の長さの組み合わせ)が書かれています。強弱や音色は視唱では必要とされません。いわゆる「譜読み」はこの段階を言います。
文字を読むことに置き換えるとよく分かります。初見で原稿を声に出す職業がアナウンサーです。臨時のニュースや放送中に地震があった場合などに、ディレクターから差し出される原稿を間違えずに読み上げる技術はアナウンサーに必須な技術です。
初見で文字を声にして読む=音読する場合、目で次の文字だけではなく次の文や次の行に書かれている文字を頭の中で考えています。つまり声に出している文字と目で見ている文字は異なっている事になります。声に出す速度=話す速さをゆっくりすれば目で追う文字も多くなります。逆に声にする速度を速くすれば目で追う文字を速く読まないと「読みながら話す」状態になってしまいます。

生徒さんの多くが先を読む技術が未熟であると感じます。
楽譜を読む速度をあげるトレーニングは集中して行えば数カ月から数年で相当なレベルアップが可能です。視唱と聴音=書き取りの組み合わせでさらに効率的に読譜技術が高くなります。
楽譜を読むことが苦手な人や大人の生徒さん、視力が極端に低い(今の私のような)人には楽譜を覚える努力が必要です。覚えるから予測は不要か?答えは「いいえ」演奏する以上は常に先を予測します。楽譜を読む技術が身についている人…例えば音大生の場合でも暗譜は「楽譜を覚える」事と勘違いしていたり、意味もなく楽譜を置いて漫然と楽譜を見ながら演奏している人を見かけます。もちろん初見や初見に近い状態で演奏する時に楽譜がなければ演奏は出来ませんが、楽譜がないと演奏できない「理由」を言葉に出来ない人は演奏中に予測する意識・身体の動きを覚えようとする意識がかけている場合がほとんどです。
どんな楽器の演奏も「運動」を伴っています。無意識に出来る運動もあります。呼吸や健康な時の歩行が該当します。一方で意識を運動に集中しないと出来ない運動もあります。例えば「初めて鉄棒で逆上がり」をする時や「初めて補助輪を外して自転車に乗る時」、「初めて自動車を運転する時」など、身体のどこを?との位の力で?どう使って…と意識しないとうまくだきない段階があります。
ヴァイオリンを演奏する人が無意識に音を出した場合、出てくる音は「偶然に出た音」です。つまり結果だけなのです。経験を積むと意識しなくてもピッチ=音の高さを「ある程度」正確に演奏できるようになります。音色や音量も「なんとなく」なレベルの音は無意識に出せます。自分の演奏した音が「自分の意識していた=予測していた音」だったのか?と言う観察は前提として「出したい音があった」と言う意味です。無意識に出した音の反省を繰り返しても、予測して出した音とは別次元のものです。
繰り返し予測=意識することで、身体が運動を記憶します。ただ運動の記憶は一時的なものなので、繰り返すこと、時間を開けて練習することで脳に記憶されます。同じパッセージを続けて10回練習するより、1回ごとに予測と結果を記憶して数回練習して、違う練習をしてから復習を繰り返す練習が「記憶を長続きさせる」練習になります。ぜひ、お試しください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

指使い(フィンガリング)と弓付け(ボウイング)を考える

映像は14年前のデュオリサイタル4(代々木上原ムジカーザ)での演奏。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」を陳昌鉉さんの作られたヴィオラとベーゼンドルファーのピアノで演奏しています。陳昌鉉さんが客席で聴いてくださった最後のリサイタルとなってしまいました。
 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの演奏で左手の指使いと右手の弓使いについて私見をまとめたものです。

教本の多くは印刷された=指定された指使い・弦・弓使いを厳守して練習=演奏することが求められます。一方で多くの「演奏会用曲=一般の曲」では楽譜に書かれた指示(指・弦・ダウンアップ)が少なくなり出版社や編集者によっては全く違う指示が書かれている事がほとんどです。教本の指定を守って練習することで「セオリー」を覚えます。レッスンで指使いや弓使いが教本と違うと先生に注意される事も当たり前の事のようです。一つは楽譜の指示通りに演奏する技術の修得です。アンサンブルやオーケストラで演奏する場合、特に弓付けの指定は指揮者の要求やトップの指示で変更されることが多く、一人だけ弓が逆になれば見た目でもアウト!です。演奏する弦の指定がある場合も同様です。
もう一つの目的は自分で指使い・弦・弓使いを考えられるようになるためのセオリー=原則を覚える目的です。実際には曲=音楽によってセオリーが変わります。テンポ、音域、音量、リズム、作曲された時代によっても原則は違います。練習する過程で様々な指使いを練習することで「技術のボキャブラリー=引き出し」を増やす事が大切です。単に演奏しやすいだけの指使い・弓使いではなく意図を持って決めることが出来なければ、演奏できる音楽の幅も極端に狭くなります。音階教本のバイブルでもある「カールフレッシュ」の教本を練習し、分厚い教本のすべてをスラスラ演奏できる技術があれば恐らくどんな曲でも演奏可能になると言っても過言ではないと思います。昔イツァーク・パールマンが「どんな練習をすれば?」と言う質問に「私はカールフレッシュの音階だけで十分!」と答えていたのを思い出します。

少しだけ自分で考える指使いと弦、弓使いについて私のこだわりを書いておきます。
前提として演奏者の解釈=好みによって異なる事で正解はないという事を述べておきます。その上で自分の好きな指・弦・弓使いを考えて決めます。当然ですが演奏するすべての音は「1種類」の組み合わせでしか演奏できません。
左手の指=指使いで言えば
1.開放弦
2.1~4のいずれかの指で押さえる
3.自然ハーモニクスか技巧フラジオレット
の中で一つしか使えません。
弦で言えば4本の弦のどれか1本です
重音=和音の場合には上記の1から3の指使いと隣り合った2本の弦を同時に演奏しますが使用する2本弦は
1.EとA
2.AとD
3.DとG
のどれかを選びます。低い音域の場合には限定される場合もあります。
理想的には人差し指=1から小指=4までの4本の指を同じように使えることが理想ですが、人によって掌の大きさ、指の長さ、指の太さが違います。パッセージによってはポジションを移動しないと届かないケースも人によっては考えられます。トレーニングによって改善される指の動きの速さと強さ、開く距離、関節の柔らかさがあります。
演奏する弦の選択は多くの場合に自分の好みの音色と前後の音との関係で決まります。弦を変えても音色を変えない技術も練習で身に着ける必要があります。1本の弦で音域の広いパッセージを演奏する場合にはポジションのスムーズな移動と指の選択が必要になります。
グリッサンドやポルタメントを入れたいのか?入れたくないのか?も選択肢の一つで指使いも変わってきます。

次に弓使いについて。

一般にダウン(下げ弓)アップ(上げ弓)ばかりが注目されがちですが、むしろ一音ごとの発音=立ち上がり→弓の動き→音の終わりの処理が重要です。連続して音を演奏する場合「レガート=滑らかに」演奏したい場合の発音と最後の処理が重要になります。スラー記号があっても音符の上下にテヌートやスタッカート、アクセントの記号が書かれていればレガートではなく「弓の動く方向」を指定=同じ方向に動かすことを指示しています。
スラーがついていなくてもレガートで演奏する技術も必要です。一音ごとのアタックを付けずに弓を「返す」技術とアタックの強さをコントロールして演奏する技術を身に着けることが重要です。

さらにすべての音は弾き始める弓の場所と弾き終わる場所があることを常に考えることです。ダウンを弓のどこから?どこまで使って演奏するのか?が重要だという事です。ピチカート以外のすべての音は、弓の運動で音が出ます。短い音の連続=速いパッセージでも長い音の連続=ゆっくりしたパッセージでも弓の場所と速度が最も大切です。

映像にあるヴォカリーズのように原曲が歌曲の場合には、特に音の強弱と弓の物理的な長さを考えた「弓の速度と場所」が重要になります。長い音の連続する曲やレガートで演奏したい時に「音の長さ」と「弓の長さ」を考えた弓付けが必須になります。弓の運動は通常「往復運動」ですから「つじつま合わせ」が必要になります。楽譜にスラーやダウン・アップの指示がある場合、指示通りに演奏すれば「つじつまが合う」はずですが楽譜によっては頭をひねる事も多々あります。弓付けは音量と音色を決定づけるものですから、指使いと同じ重要性があることを忘れないことが重要です。

指使いや弓付けを考えるために技術の修得と共に経験を積むことが何よりも大切になります。演奏する会場の広さと残響・響きによって変更するケースもあります。大きな音量を必要とする会場の場合と、サロンのように演奏者と客席が近い場合のボウイングや共演するピアニストとのバランスでも弓付けを変えられる柔軟性と適応力は一朝一夕に体得できるものではありません。練習と違う環境で演奏することを前提に色々な組み合わせの指使い・弓使いを考える事も必要になっていきます。
冒頭に述べた通り正解のない自分だけの音楽を創ることに楽しさを感じられるように常に多様性を持った演奏を心掛けたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

敗者のいない勝者はない

映像はオリンピックフィギュアスケート女子シングルで2位になった選手のインタビュー映像です。今回のテーマは序列付け・勝敗について考えるものです。平等という言葉の意味を取り違えると「すべて同じ」が正しいと勘違いします。生き物には個性があります。まったく同じ人間は地球上に存在しません。能力も違います。人間の技術や知識の優劣・序列を決めるケースは日常生活でも珍しい事ではありません。
例えば入学試験は合格者を決めるための序列付けです。もしも試験がなくなれば「くじ」か「じゃんけん」で合否を決めることになります。学校の求める学力や技術の「レベル」は無視されますね。
また勝敗を決める競技の場合には「引き分け」でない限りどちらかが勝者でもう一方は敗者になります。すべての「勝負」で同じことが言えます。一人だけで勝負することは物理的に不可能なことです。
入試であれ勝敗を決める競技であれ、参加する人は自分が不合格・敗者になる覚悟を持って参加します。最初から不合格になる・負けることを望んで参加するのは最近逮捕された変な男性のように「他人を当選させるために選挙に立候補する」ような変人だけです。そんな人に勝っても負けても「胸糞が悪い」と感じるのでは?

話を戻しますが「合格したい・勝ちたい」と思った時から努力が始まります。努力せずに期待する結果を求める人もいるかも知れません。努力の質や量についての基準はありません。人それぞれの価値観で「精一杯の努力」が変わります。他人から見れば「努力が足りない」と思われるケースもあれば「あんなに努力したのに」と思われるケースもありますが、最後に結果が出てから努力について評価しても結果は変わりません。次のチャンスがある人にとっては反省や改善のために「振り返り」は有意義ですが、最後の挑戦だった人にとって負けたこと・合格できなかったことはすべて受け入れなければならない現実でしかありません。「また挑戦すれば」と他人が言えることではありません。本人の決めることです。

さて今度は勝敗・序列のない世界について考えたいと思います。
何よりも「生きること」には勝ち組も序列もないことです。
「社会の勝ち組・負け組」と言う表現を耳にしますが正直に意味がわかりません。生き方に他人が優劣を付けること自体が間違っています。ホームレスの生活を望む人がいて「負け組」と決めつけるのは自分が勝ち組だと思っている証拠です。国会議員になったら勝ち組?それも価値観の問題です。
そもそも自分が誰かと勝負して勝ちたいと思うのであれば、まず自分以外の人と同じ基準・同じルールで勝負することに同意してもらうことが先決です。勝負を望んでいない人と自分を勝手に比べて「勝った!」って喜びませんよね?独り相撲とはこのことです。
音楽で考えます。音楽高校・大学に入学するための試験を受ける人は不合格になる覚悟を持って挑戦します。不合格になったから音楽を捨ててしまう必要があるでしょうか?いくらでも音楽を学ぶ方法が他にもあります。コンクールに挑戦する人は一位=優勝することを目指しながら他方で予選落ちする覚悟も持っています。
入試では全員が不合格になることはほとんどありません。全員が合格することはあり得ます。受験する人の人数と合格できる人の人数さらに合格のボーダーライン(=学校の求めるレベル)によって結果は変わります。同じようにコンクールも参加する人のレベルと人数によって結果が変わります。時によって「1位・2位なしの3位」と言う結果も珍しくありません。参加者全員が1位には絶対になりませんが(笑)
「時の運」とも言える結果で受験した・参加した人の結果が変わります。その人の技術・能力の序列は「その時・その場だけ」の結果です。オリンピックでも同じですが優劣を付けるのは「1回だけ」のことかスケートのグランプリシリーズのように年間の順位で序列を決めるもの…つまり「限られた条件での序列」でしかありません。
条件が変われば結果が変わる「程度」の序列に一喜一憂するよりも自分にしかない個性を活かすことにこそ時間と労力をかけるべきだと思います。音楽の表現方法や演奏するプログラムには制約も年齢制限もありません。自分の好きな方法で好きな音楽を好きなように演奏することで誰かが喜んでくれることが演奏する意義だと確信しています。
演奏に序列を付けることは無意味です。主観に序列は付けられません。人間に価値の差を付けるのと同じ行為です。他人に迷惑をかけない演奏であれば、どんな演奏にも価値があります。自分の演奏に自信を持つことは最も難しいことです。誰かより下手だとか、自分の思い通りに演奏できないから「ダメ」と思うのが普通です。その一線を超えた時に新しい表現が出来るものだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ペアスケート感動!

テレビのない我が家は「ニュース」に追いつけないことも日常茶飯事です。
昔テレビにかじりついて見ていた札幌オリンピック。時代と共に「ショー」になり挙句の果て「金儲けプロジェクト」になり下がった時から見る気をなくしました。
ネットニュースで流れてきた「フィギュアスケートペア」の話題に興味を持ちました。
フィギュアスケートを技術=ジャンプの競い合いで採点する時代になってから「美しさ」は順位にほとんど関係がなくなり、解説が叫ぶジャンプの種類と成功・失敗だけの放送にうんざりしていました。解説のない映像を探して見ていました。
ソロにしてもペアにしてもダンスにしても「音楽と振付」に関心が行ってしまうのは私たち夫婦だけ?かも知れませんが、特に日本選手のスケートと音楽に違和感を感じることが多々あります。昔「コンパルソリー」いわゆる規定競技で正確なスケーティング技術の競技を経てから、ショートやフリーのスケートがあった時代に「音楽のないスケーティング」で技術を競い、音楽=歌のない音楽を流しながら「表現力」を競ったフィギアスケート競技を思い出します。
選曲する段階で音楽の印象と特徴的なリズム・ビートが自分(たち)のプログラム=スケートの組み立てにあっているのか?考えているとは思えない演技も見かけます。
音楽の「切り貼り」は時間の制約があるので必要です。1曲の中で「どこを使うか」もスケートの技の構成を考えて決めているのか?疑問を感じるケースが多い気がします。
スケートの知識も技術もない私が、スケートのうまい・へたを述べる気はまったくありません。音楽を使うなら音楽を聴いて欲しいと感じるだけです。

「りくりゅうペア」の名前さえほとんど聴いたことがなかった私です。
フリーの演技が終わった二人の姿を偶然見た時からなぜか?強い興味を持ちました。
自分たちの演技が終わった後に「感動」をパフォーマンスとして大げさに見せる選手が増えた今、本気で泣いている選手を見るのは久しぶりに感じました。そもそも演技自体も見ていなかったので当然「逆転優勝」も「ショートでの失敗」も知りませんでした。
調べていくうちに興味は益々膨らみ過去の映像なども見返したり他国選手との関わり方、マナーの良さなどの情報にも行きつきました。
9歳の年齢差。7年前にペアを組んだ当時の経緯。その後もお互いのケガや不調を経験したこと。共に生活しながら「パートナー」「チーム」としての意識を持ち続ける精神力。
ショートプログラムでの結果に心が折れた「りゅう君」を引っ張り上げた時「おねえさん」になった「9歳年下のりく」選手。
33歳と24歳の二人から多くの事を教えられ学んだのは私たちだけではないと思います。
「二人」と言う関係性、特に男女だと世間一般ではスポーツ競技や音楽の演奏であっても「夫婦?」とか「付き合ってる?」と言う面に関心が集まり、競技や演奏より先に先入観を持ってしまいがちです。確かに私たち夫婦のような「デュオ」の演奏活動をしている人も多くいます。信頼関係が愛情と重なるのは自然なことです。もちろん恋愛感情なしでパートナーになっている人たちにも尊敬の気持ちを持っています。自分たちの目指す演技・演奏に近づき、さらに高いステージを求める「ふたり」と言う関係は口で言うほど生易しいものではないと思います。お互いに人間として感情がぶつかることもあります。その状態で演技や演奏はできません。解決しながら先に進む時間と環境も必要です。
日本のフィギアスケートの「ペア」が今後さらに盛んになるか?一時的なムーブメントで終わるのか?誰にもわかりませんが狭い意味の「家族観」や「男尊女卑」の考え方を持つ人には絶対に理解できない世界だと思います。人を率直に感動させる行為こそが「人として」正しい行動・思想だと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を作る技術あれこれ

映像はヴィオラとピアノで演奏したアザラシヴィリ作曲のノクターン。4年前の代々木上原ムジカーザでの演奏動画です。
これまでにも演奏の音色について色々な考察をしてきました。
ヴァイオリン、ヴィオラで演奏される「音色」は演奏者によっても楽器個体によっても異なります。演奏者の技術によって音色が決まると言っても過言ではありません。同じ個体の楽器を違う演奏者が演奏すれば違う音色になります。一方で演奏者が違う個体のヴァイオリン、ヴィオラを演奏したときの「違い」は演奏者の違い程に大きなものではないと思います。ストラディバリウスを新作のヴァイオリンに持ち替えて演奏しても聴いている人が気付かなかったという実話を知っています。思い込みで新作のヴァイオリンの音がストラディバリウスだと信じ込み「やっぱりストラディバリウスはいいですねぇ!」と感動しながら話しかけてきた人に思わず笑ったと言うお話です。
楽器を操るのが演奏者です。演奏技術が高いほど「自分の好きな音色」を出せます。初心者の場合、楽器をコントロールする技術が足りないために「楽器固有の音」を自分好みの音に変えることができません。その意味で初心者ほど楽器に依存する面が大きくなります。

音色を「作る」技術には何が必要でしょうか?
まず「微妙な違いを感じる耳」です。
音の高さ・強さと比べて音色の違いは数値化出来ない話は以前にもブログで書きました。誰かの演奏を聴いて同じ音色を再現することは極めて難しいことです。一つの原因は「楽器の場所」が全く違うからです。演奏している時の耳元で鳴っている音と、何メートルも離れ空間に広がり反響音も聴くのとでは「同じ音」でもまったく違って聴こえます。もう一つの理由は「力=身体の使い方」は他人が感じられないからです。自分自身の身体でさえ今、身体のどこに?どの向きで?どのくらいの時間?どのくらいの力をかけているか?を瞬間的に判断できません。同じ音色が出るまで繰り返す間に、指・関節・筋肉をどう?使っているのか観察し続けて初めて同じ音色を再現できるようになります。
似たように聴こえる音色でも集中して聴くと倍音の含まれ方が違うことに気付き、身体の使い方を変えることで修正が可能です。
自分の音色が他人にどう?聴こえているのかをリアルタイムに自分自身の耳で確かめることは不可能です。出来れば何人かの人の「印象=感想」を参考にするのが一番現実的です。聴く人によって聴こえ方が違い、表す言葉も違います。同時に何人かの印象を聴くことでお客様が感じる印象に近いものが得られます。リハーサルがそのチャンスです。自宅で練習する時であれば同じ種類のマイクとヘッドホンで録音したものを聴き比べるのも音色を確認するのには良い方法だと思います。思っているほど=演奏しながら自分の耳で聴いている時ほど、高音が少なくこもった印象に聴こえたり逆だったり。

音色を作る弓の使い方と弦の押さえ方・ビブラートの技術。
・弓への圧力と時間
弦に弓の毛をどの方向でどの位の力で押さえるか?その力=圧力をどれだけ保持するか?
・弓を置く弦の場所
駒からの距離が短いほど高音が多い音色になります。
・弓の毛の量
弦に当たる毛の量は傾きと圧力で変えられます。毛の面と弦が平行になる傾きの時、最も強い圧力がかけられます。少ない毛の量で圧力を弱くすれば弦だけが振動し楽器本体の木を振動させない「細い音」が出せます。
・弓の速度
弦との摩擦=圧力と違い「運動の速さ」を速くすれば弦の振動を妨げず、遅くすれば弦の振動を押さえる働きがあります。音の高さによって弦の振動する速さが変わります。1本の弦で高い音=ハイポジションの場合、弦は速く振動します。弓の速度は毛の表面の凸凹と弦を「引っかく速さ」です。毛の凸凹が小さく・少なくなってしまった毛の場合、松脂で出来た凸凹だけが音を出すことになります。
・弦を押さえる指の場所
指の腹=肉球部分で押さえれば弦の振動を止め切らないので高音が少なく、こもった柔らかい音色になります。余韻はほとんどなくなります。指先の固い部分で弦を押さえれば逆に高音の多い明るい音になり余韻が長くなります。
・押さえる力の強さ
意図的に弱く押さえることで余韻を押さえた音色を作れます
・弦と指の角度=爪の向き
後述するビブラートとの関係で、真上から見た状態で弦に対して45度の角度で押さえるのが原則ですが、ビブラートの深さや速度によっては弦と平行に近い角度で指を置くと音色の変化量を増やせます。
・ビブラートの深さ
音の高さの変化量で大きく動かせば多くの種類の倍音を得られます。
浅くすれば=幅を狭くすれば一定の音色を保つことが出来ます。
・ビブラートの速さ
好みによりますが速すぎると異なった高さの倍音を消してしまい響きが窮屈な音色になります。遅すぎると倍音の余韻が消えてしま詩「波」にしか聴こえなくなります。
・ビブラートをかけ始めるタイミング
音の最初から深さ・速さを変えずにビブラートすれば短い音でもビブラートの効果が得られますが、一方で聴く人の耳に音の高さの印象が残りにくくなります。ノンビブラートの音を意図的に混在させることで音色の変化がフレーズの中に生まれます。

最後に「聴き方=楽器と耳の位置・首の力」の違いについて考えます。
音色の変化は聴き方によって感じやすくも逆に感じにくくもなります。まず楽器と耳の位置と距離が変われば音量も音色も変わって聴こえることです。表板に耳を近付ければ大きく聴こえます。耳を遠ざければ小さく聴こえます。実際に出ている音と関係なく「聴こえる」だけであり会場に聴こえる音の変化ではありません。常に一定の位置関係と距離で演奏すること=姿勢を保持することも音色の決定に不可欠な事だと思います。
また、構え方によって楽器の微妙な音色の変化に気付きにくい構え方もあると思います。首に無意識に強い力がかかっていると、高い音の聴力が下がります。突然大きな音がした時に反射的に肩が上がり、首をすくめる姿勢になるのは人間の防御反応です。首に力を入れ続けた姿勢は音色を聴き分けにくい姿勢だと言えます。
同様に息を止めた状態を続けると、徐々に筋肉が硬直し音への反応が鈍くなります。
大きい音のパッセージを連続して練習した直後には、一時的な難聴状態になっています。特に高音を強く弾き続けた後に高い音が鳴っているように感じるのは、やはり耳が防御反応している証です。
できればしばらく耳を休めてから集中して音が聴こえる状態になってから練習することをお勧めします。

音色に正解はありません。人の声が皆違うように演奏者によって好みの音色が違います。聴く人にも同じことが言えます。好きな歌手の声は理屈抜きに心地よいものです。
音楽によって、旋律や和声によって音色をコントロールするのは、会話や演劇の「台詞」に抑揚や声色を変えて読むことに似ています。
棒読みすれば、どんな素敵な文章や詩も感情のない「声」になります。音楽も同じです。楽譜には書かれていない「音にした時に感じる感情」を演奏者の考える音色で演奏することが、演奏者の個性につながると信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

いのちと平和と戦争

映像は「いのちの歌」村松崇継作曲の音楽をヴィオラとピアノで演奏した音声に、私たちの結婚お披露目に集まってくださった人たちとのパーティーの写真をスライドショーにしたものです。
人との関り…相手によっては好きになれない人がいるのも現実だと思います。考え方や価値観の違う人同士がお互いを理解しあえる関係をお互いが作ろうとしない限り共感しあうことは不可能です。理解しあえなくても共存する知性と理性がある人と、思考を停止し一時的な感情に任せて他人を排除する人に分かれます。

結論を先に書きます。
人間のいのちは誰かとつながっているのです。
私たちの親、さらにその親、さらに…と遡って行くと私たちの「祖先」が必ず生きていた時があったことを理解できます。
例えば千年前の祖先が生きていたからその次の世代の「親になる人」が生まれました。もしも千年前の祖先が子供を作る・生む前に死んでいたら?当然現在の私は存在していないのです。わかりますよね?私たち人間のご先祖様が生きていた時代に、もしも全員が互いに殺しあったとしたら?現在生きている人間の殆どは生まれてこなかったはずです。
病気やケガで命を落とす人も昔は今よりもたくさんいました。平均寿命も現代の半分程度かそれ以下だったと言われています。
それでも「彼ら」が生き残ってくれたので私たちは生まれました。
現代の科学でも地球上に生きる人間すべてのDNAを解析し、祖先をたどることは不可能です。将来それが可能になった時、地球の裏側に澄んでいる見ず知らずの人と「血縁関係」が判明!することもあり得ます。「人種」「国籍」「家族」と声高に叫ぶ人の知能の低さがわかります。自分の祖先=ご先祖様さえわからない人間が、他人を「他国民」とか「人種が違う!」なんて将来の笑い話のネタです。
いのちは世界中の人と、きっとどこかでつながっているのです。

2026年の現在、世界のあちこちで分断が起きています。
そのすべては非科学的な「感情」が原因です。先に述べた通り考え方の違いがあり、生まれた地域や国も違います。肌の色、言語、文化、信仰も人によって違います。厳密に言えばクローンでない限り、すべての人間は異なった生物だと言えます。ただ科学的に考えれば、それらの違いは大きな違いではなく、互いに「自分と違う!」と断言する根拠はどこにもないのです。共存することを平和と言い換えるなら、他人を認めず排除しようとするのが戦争です。共存できない人間は結局は誰とも共存できません。「自分と同じ」と言う根拠がないのですから。はっきり言えば「戦争の行きつく先」は人類の消滅なのです。
自分だけが生き残れると思う知能の低い人間は、結局自分も死滅する事を予測できない低能な人間です。

最後に「いのちの歌」の歌詞を残したいと思います。
作詞されたのは「MIYABI」こと竹内まりや。
この詩を読んで理解できる人なら、現在の「分断」が無意味であることも理解できるはずです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

生きてゆくことの意味 
問いかけるそのたびに
胸をよぎる
愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で
めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも
たいせつな宝物

泣きたい日もある
絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて
寄り添うあなたの影

二人で歌えば
懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの
優しいあのぬくもり

本当にだいじなものは
隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に
かけがえない喜びがある

いつかは誰でも
この星にさよならを
する時がくるけれど
命は継がれてゆく

生まれてきたこと
育ててもらえたこと
出会ったこと
笑ったこと

そのすべてにありがとう

この命にありがとう

二人で演奏する音楽

映像はシューマンの「アダージョとアレグロ」2025年1月の演奏です。
ヴァイオリン、ヴィオラの演奏は多くの場合に自分以外の人と一緒に演奏します。「無伴奏」の曲はまさに一人だけ=1台の楽器だけで演奏しますが、ピアノの場合「無伴奏」って言わないのですよね。ピアノソナタと言えばピアノ一台=一人で演奏する曲になりますが「ヴァイオリンソナタ」は正確に言えば「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」がほとんどです。同じように「独奏」「独唱」の場合、「ピアノ独奏」と言えばオーケストラと一緒に演奏する「ピアノ協奏曲」の独奏=ソロを意味します。クラシック音楽をあまり聴かない方にとってわかりにくい表記だと思います。

二人で演奏することの多いヴァイオリン、ヴィオラですが「二重奏=デュオ」と呼ばれる場合と「ピアノ伴奏」と呼ばれる場合があります。ちなみに伴奏と言う言葉を調べると
伴奏(ばんそう)とは、
西洋音楽で使われる音楽用語で、主たる旋律を演奏する単数または複数の歌手や演奏者に対し、副次的な演奏をすること。(ウィキペディアより)
副次的な演奏ってなんだか曖昧ですが、主旋律を「補助する」意味ではなく主旋律と異なった「音楽」を一緒に演奏するもので「独奏」と「伴奏」があって初めて「曲」になるものえと考えます。

私は(妻も)「ピアノ伴奏」と言う表現が好きではありません。
上記の通りピアノの演奏があって音楽が完成する現実に対し「副次的」言ってしまえば「おまけ・軽視されるもの」に感じられるからです。協奏曲のオーケストラを伴奏と呼ぶ人はいません。どんなに主旋律を演奏する演奏者がうまくても一緒に演奏するオーケストラやピアニストが「へた」でも良い…とはならないはずです。
私たちはどんな曲を二人で演奏する時にも「二重奏=デュオ」と考えプログラムなどにも表記をお願いしています。

二人が共に主役であり脇役でもあるのがデュオです。それぞれが演奏するリズムが異なる部分でも二人がシンクロ=同期し続けることが求められます。お互いの楽器を演奏できる必要はありません。理解していてさえいれば自分が二人分を演奏しているのと同じように一つの音楽になります。「こう弾きたい」と言う解釈がいつも同じとは限りません。言葉で話し合って理解しあう時間も必要です。
最も重要なことは相手の音楽を尊重することです。元より違う旋律、違うリズムを同時に演奏する時に、常に相手の音楽に自分を同期させる気持ちがなければ偶然にピッタリ同期することは確率的にあり得ません。常に相手に自分を合わせる意識をお互いに持ち続けることです。
二人以上の演奏者の「時間」を同期させる方法は「視覚=相手の動きを見る」「聴覚=相手の息遣いを聴く」ことが基本です。ただ最終的に「第六感」とも言える感覚が決め手になります。相手の演奏する音楽から次の音を出す時間を「予測する」ことでもあります。練習やリハーサルの打ち合わせと違う本番の演奏は、お互いの緊張を感じます。良い意味での変化を自分に活かし反応する事が「アンサンブル」です。

違う楽器の音色が同時に響き、異なるリズム・旋律が一つの音楽になる。一人では絶対に出来ない演奏です。聴く人に自分たちの思ったバランスで聴いてもらえるか?これだけは経験でしか判断できません。
自分の音と相手の音のバランスを「想像」しながら演奏し会場の響き、楽器の状態も考えて演奏するのがコンサートです。録音なら後から修正できます。アコースティック=電気で音を増幅しない楽器の演奏ですからリアルタイムにバランスを変更できません。リハーサルはそのために行うものだと思っています。
これからも相手を思いつつ「デュオ」を続けていきたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介