メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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2026年

ネットの普及と演奏家の生活

世界はインターネットの普及と共に生活そのもののスタイルが大きく変わっています。
買い物も自宅に居ながら出来る時代です。お金のやり取りも現金ではなくネットからの振り込みや確認が簡単にできます。世界中のほとんどの国の話し言葉や文字をスマホ1台で翻訳できます。世界のどこからでもネットのテレビ通話ができます。
私が生まれた1960年当時にはカラーテレビすら「高級品」でしたし、電話がやっと家庭に一台という生活が当たり前でした。子供の頃「鉄腕アトム」や「エイトマン」を白黒テレビにかじりついて見て「ロボット」は空想の世界にしか存在しませんでした。
音楽を聴く方法は「生演奏を聴きに行く」しかなかった時代から「録音」と言う技術が生まれレコードが誕生。さらに「放送」と言う技術が始まった当初は通信手段の発展したものでした。ラジオ放送で音楽を聴くことが出来るようになり、テレビでも音楽の演奏を見ながら聴くことが出来るようになりました。
やがてレコードはCDに変わり、CDは配信に変わっていきました。テレビはパソコンになり、パソコンはスマホやタブレットに変化しました。
それらの「進化」の影で仕事を失っている人もたくさんいることに目を向けることも大切な事だと思います。音楽に限らず昔で言う「機械化」によって人間の仕事は大きく変化しました。
「便利になった」「楽になった」「手軽になった」と言う陰にあるのは「人間の仕事が減った」ことです。

録音された音楽を製作する現場でも生身の人間が楽器を演奏するケースは激減しました。コンピューターの発達で実際に演奏した楽器の音に近い音で録音物を作れます。人件費を大幅に削減できる上に時間も短縮できます。修正も簡単です。「スタジオミュージシャン」は仕事を失いました。
生身の人間を演奏のために集め拘束した時間に対する対価を支払う必要がなくなったのです。
クラシック音楽の聴き方・楽しみ方は変わったでしょうか?

先述の通りレコード・CDなどの録音とラジオとテレビの普及で音楽を気軽に聴けるようになったことはクラシック音楽業界にとって朗報だったかも知れません。さらにコンサートに行かなくても「良い音」で「好きな時」に「好きな演奏だけ」を極めて安価に楽しめるようになりました。レコードやCDの売り上げは演奏家の収入にもつながりました。配信の中でも「有料」で聴くことが出来るケースもありますが、無料でも聴くことが出来る配信、例えばYouTubeで楽しむことで満足する人が増え有料配信も減少しました。
演奏する「機会」が減れば演奏者の数は自然に減少します。もちろん経済は「需要と供給」のバランスで成り立っています。供給が多すぎると片づけることは簡単です。しかし生の演奏の需要をネットの使い方を間違ったことによって減らしているとしたらどうでしょうか?
インターネットは使い方を誤れば人々の命さえ危険にさらす凶器になります。しかも「匿名」が当たり前の世界です。開示請求してもすべてのケースでIPアドレスを調べてもらえるとは限りません。
コンサートの広報や告知にネットが役立ちます。でも聴いてくれる人・会場まで時間と交通費をかけて出向き入場料を払ってくれる人がいなければ演奏会にかかる費用はすべて演奏者や主催者が負担することになります。「生で音楽を聴く価値・意義」をすべての人が認識してくれればと願っています。

最後に演奏家と言う「職業」が今後どのように変わり行くのかを考えます。
・演奏以外の収入がなくても生活できる演奏家
・演奏以外の業務=仕事もしながら生活出来る演奏家
どちらも主たる職業が「演奏家・音楽家」であることに違いはありません。
日本国内で考えると上記の「演奏だけで」と言う人は両手で数えられる人数です。
プロのオーケストラでも「契約団員」と呼ばれる人以外の演奏者は給与だけで生活するのは非常に厳しいのが現実です。一昔前ならレコーディングやテレビ、結婚式などでの演奏が副収入源=アルバイト先でした。しかし現在はそのいずれもが壊滅的な状況です。音楽高校や音楽大学で教える場合でも「教授」「准教授」「講師」「非常勤講師」「合奏指導員」など多くのランクがあり当然報酬も大きな差があります。ましてや雇用される人数はごくわずかです。
自宅や音楽教室で生徒を取ってレッスンをする演奏家。これが最も現実的と思われがちですが…。お小遣い稼ぎの為なのか?社会奉仕活動と考えているのか?不明ですが町中に「〇〇音楽教室」があふれています。一か月5,000円の月謝と言うのも見かけます。お金の価値は変わりませんが「生活する」ための収入とは言い難い金額で教えている人たちです。プロのオーケストラで演奏した報酬で足りない生活費…にもならないのが現実です。
オンラインレッスン。インターネットを活用した音楽ビジネスですが、コロナの頃に体験した印象を言えば「これがレッスンと言えるのか?」でした。生徒さんの演奏はスマホやノートパソコンに内蔵されたマイクで収音されます。いくらこちら=教える側が良い環境にしても生徒さんに「もっと良いマイクで」とか「画角を色々変えて」とは言えないのが実情です。
会議や会話だけのやり取りならオンラインは有効ですが音楽のレッスンには限界があります。
ただこの分野は今後さらに技術が進むことが予想できますので環境が良くなる可能性はあります。インターネットで演奏を収益化することは上記のどの方法より難しいと言えます。
事実YouTube上には世界中の演奏家たちが「チュートリアル=演奏方法解説」と「演奏動画」を自分で、知人に助けてもらって公開しています。どれも「無料」で視聴できます。世に言う「ユーチューバー」として収入を得られるか?いいえ!(笑)そんなに甘い世界ではありません。チャンネル登録者が1,000を超えて著作権に関わらない音楽で…しかもほぼ毎日のように新しい動画を編集する技術と時間が求められます。演奏よりはるかに難しい!(笑)
 現在の状況で演奏家が昔のように演奏で収入を得ることは無理なのかも知れません。演奏家を夢見ても収入のない職業は職業とは言えません。プライドだけで「演奏家です」と自称するのは個人の自由ですが。「夢を壊すな」「音楽大学への進学希望者を減らすな!」と言われるのを覚悟して言えば、演奏をストレスなく楽しみたいのなら生活できる職業につくべきです。その上で仕事のスキルをあげ「自由な時間を増やす」努力をすれば、演奏を心から楽しめます。
「どうしても演奏だけで生活したい!」と言う人へ。今や国際コンクールで「入賞」しても演奏の仕事はほとんどないと言われています。数年に一度の著名なコンクールで1位になった人だけでも世界中に何十人もいます。毎年行われるコンクールなら毎年1位の人が演奏の機会を待っているのです。プロのオーケストラに入団するのも考えているより厳しい世界です。音楽大学に入れるのは「お金を払う側」だからです。プロオケは欠員がなければ募集しません。国内どこかのプロオケに「団員=社員」として就職できる人数は、テレビ局のアナウンサーになるよりも、パイロットになるよりも「狭き門」だと言う事です。それを承知で覚悟を決めて挑戦する「気持ち」に心からエールを送りたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クールでホットな職人芸

私が大好きな演奏家たち。ベルリンフィル12人のチェリスト。
ベルリンフィルハーモニーの歴史や演奏の素晴らしさをご存知の方多いと思います。
この12人のチェリストの演奏も50年以上の歴史を持っています。
サントリーホールでのコンサートに行った時「絶対!ステージのどこかにヴァイオリニストが隠れ弾いてる!」「いや、バンドネオン奏者も隠れている!」って冗談半分ですが、本当にそんな気がするほどでした。期待を裏切らない演奏とパフォーマンス。演奏者たちが運営するデジタルコンテンツもありますが、世界中で演奏活動をする演奏はYouTubeにもいくつか見つけられます。

動画を見て・聴いて彼らの演奏技術の高さに憧れるのはもちろんですが、一体全体なにが?どう?他の演奏と違うのか色々考えさせられます。そもそもベルリンフィルのメンバーになることは演奏者として最高の名誉ですが、当然、入団するための狭き門は国際コンクールで上位、あるいは優勝した人であっても簡単に通過できるレベルではありません。研修制度もあり、そこでもまた「ふるい」にかけられます。世界の頂点として長い長い歴史を持つオーケストラの底力は個人の卓越した技術と協調性・人間性の面でも「超一流」だと言えます。

演奏技術もさることながら彼らの演奏する曲のアレンジ=編曲がまた素敵です。
彼らだから出来ることを知り尽くしたアレンジャーが書き下ろす楽譜を、誰にも真似のできない技術・パフォーマンスで聴衆を魅了します。その演奏には「クール」に感じる一面があります。冷たいと言う意味ではなく「冷静」で「知性的」という意味です。通常であれば難易度の高い曲を「頑張って」演奏する場合に身体の動きと表情に頑張ってる感(笑)が出るものです。
むしろ簡単な楽譜を世間話をするように「ひょうひょう」と演奏しています。
違う言い方をするなら「暑苦しくない」「自由に楽しんでいる」ように感じます。
その意味ではヴァイオリニストのハイフェッツやオイストラフ、ミルシュテインの演奏も出てくる音楽とは裏腹に「なんでもないけど?」と言う印象の演奏動画を見ることができます。

見た目のクールさとは裏腹に表現される音楽には人間の自然な暖かさ、情熱を感じます。
これが「ホット」と感じる部分です。しかも音楽によって聴く人を笑顔にしたり、思わず「かっこいい!」と叫びたくなる表現、なぜか涙が溢れ出てくる切なさや悲しさも感じます。
映像がなくても伝わる感動は彼らの演奏能力の高さを表しています。12人も演奏者がいれば、感性も違い主張の仕方も違うはずなのに「一体」になれるのは何故でしょう?
同じ編成=12人で演奏している他の演奏者と何が違うのか?
想像で言うなら「歴史の重さ」と「同じ釜の飯を食う人」の絆だと思います。
50年以上続くアンサンブルは、メンバーの入れ替わりがあります。多くの場合には「もっと!」と言う意識が強くなりすぎて先人の残した「伝統」を壊すことの方が多く見受けられます。しかしただ単に「伝統を守る」と言う保守的な発想だけではないと感じます。新たなことに挑戦し続ける精神を全員が持っているから引き継がれるのが伝統です。
普段はベルリンフィルという大きなアンサンブルの中の1パートとして、他の楽器の演奏者と意見を交わし「マエストロ=指揮者」の意図をくみ取りながら一つの音楽を築く「協調性」が彼らから感じられます。チェロパートと言う「ファミリー」があり、さらにベルリンフィルという「社会」の中での自己と相互の関係を築くのは個人の意識の高さこそが重要です。
決して突出せず埋没もしない。迎合も妥協もせずにお互いを認め合いながら自分の能力を高める心が「一体感」を生み出しているのだと思います。同じ目的を達成する「仲間」が奏でる音楽は決して一人では作れません。逆に一人ずつの演奏技術が高くなければアンサンブルのクオリティは高くなりません。音楽に向き合う気持ちを共有することは一番難しいことです。
これからメンバーが入れ替わってもこのアンサンブルは聴く人を楽しませ、さらに高いステージに上って行くと確信しています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

誰もが持っている歴史

映像はメリーオーケストラ第3回定期演奏会
2003年1月13日に杜のホールはしもとで実施しました。
第1回はこの前年2002年1月15日でした。
現在(2026年2月)も活動を続けています。
いつまで?続けられるのか「神のみぞ知る」ことです。
今回の「自分の歴史」は音楽を演奏することを趣味、職業としているすべての人に共通した内容です。

楽器を演奏する「きっかけ」は人それぞれ違います。
幼い頃に習い事で始める人・音楽の授業でリコーダーを初めて演奏した人・部活動で楽器を演奏した人・大人になって憧れの楽器を演奏し始めた人など。
楽器の演奏を始めることに年齢制限は絶対にありません。子供の頃から練習しないと演奏できない楽器は存在しません。逆に幼い子供では演奏できない楽器もたくさんあります。
大人になって始めた趣味の演奏家が口にする「大人からやってもうまくならない」これは思い込みと現実逃避の言葉です。

練習する時間と期間=年月も人によって大きく違います。
仮に毎日2時間以上、集中して練習できる人と30分練習できる人、週末や時間が出来た時にしか練習できない人の「練習量」は大きく変わります。同じ一か月、一年でも練習量は違います。上達に練習が必要なのは明らかでも環境や体力によって練習できる時間は違うのです。
練習できないから演奏をやめてしまう生徒さんも多くいらっしゃいます。
演奏家を目指す決意を持って生活の何よりも練習を優先できる人ばかりではないのです。
仮に練習できず上達がゆっくりでもやめてしまえば楽しみが一つ減ることになります。
長く演奏を楽しむ「秘訣」がここにあると思います。
事実、音楽大学を卒業した人でも、その後音楽から離れることになる人の方が圧倒的に多いのです。ごく一部の人だけが生活の中心を演奏=練習に費やせるのです。それ以外のほとんどの音大卒業生は「趣味」として演奏できれば良い方で、演奏以外の職業や育児、家事が中心で楽器に触れることさえ出来ない日々を送るのが現実です。
私自身、教員生活をした20年間は楽器のケースを開けることさえ一年1度あるか?という生活でした。退職後に演奏活動を再開したのが45歳になった時です。
生きるために演奏から離れる時期があっても、いつかきっと!また練習できる時が来ることを信じて欲しいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

視覚障害と楽器の演奏

「網膜色素変性症」と言う病気を持っている事が判明してたのは私が4歳頃の事でした。
当時暮らしていた団地の玄関で、手探りをして靴を探している私を見て「謙介、なにしてるの?」と両親が不思議に思い声をかけたそうです。「え?靴を探してるの」と当然のことのように答えた私にギョッとした両親が「国立小児病院」で網膜の専門医に診察をしてもらい「網膜色素変性症」と診断された…両親のショックははかり知れません。当時から現在も治療法のない進行性の病気で、多くの場合盲学校に通い失明する確率も高いと言われていました。
ただ奇跡的に私の進行は極めてゆっくりしていて、普通学級で学ぶことが出来ました。
視力は矯正して0.5~0.7程度見えていたので、楽譜も読めましたし、運転免許も取得できました。中学生の頃に「将来」に不安を感じたのは今でも覚えています。
両親が私にヴァイオリンを習わせてくれたのは、この病気があったから…ではなかった(笑)
のですが、今考えれば「神様の思し召し」だったのかも知れません。

生まれつき全盲の人もたくさんいます。耳の聴こえない人もいます。四肢が自由にならない人もいます。その「子供」の親がどんな気持ち…自分の事以上に苦悩することは、大人なら想像できると思います。障害を持っている本人は「それが普通」なのです。先述のように薄暗いところは見えないのが当たり前…周りの人と自分の「どこか?なにか?が違う」ことに気が付くのは自我が芽生える時期です。私の場合には、昼間の明るい場所なら普通に一人で行動できましたから、両親も少し安心したと思います。「進行」を調べるために、毎年定期的に網膜の検査、視野の検査、暗順応の検査を受けていました。
進行はほとんどなく音楽高校、音楽大学でも特に問題なく学ぶことができました。
ただオーケストラの「授業」で二人に1本の譜面台で演奏する時に「ギリギリ」の視力だったため自然に「暗譜」で演奏する習慣がついていました。大学生の時にオーケストラの演奏会で、一緒の楽譜を見ていた先輩に「ちょー迷惑」をおかけしました。暗譜していたので「つい」本来の譜めくりよりずっと早く次のページにパート譜をめくった!隣で演奏していた先輩の「まだ!」「まだ!」と言う囁き声に気付いて「はっ!」と。(笑)
そんな失敗もありましたがステージが暗転したり演出で照明を極端に暗くするお仕事以外は、アルバイトで色々なオーケストラにも出演させてもらいました。

教員を45歳の時に退職しましたが病気の進行が原因ではなく父の介護のために年休を使い果たし、その後も両親の介護の必要があったことが理由です。
同じころに病気の進行を感じ始めました。視野の狭窄=見えない部分が増えていくことと、視力の低下を感じ、思い切って障碍者の認定を受けました。当時「1種2級」という段階でした。
偶然なのか?それまでの過程が持続できなくなった時に浩子さんとの演奏活動を始めていました。二人とも同じような境遇でした。そんなドタバタの中でも演奏活動は続けていました。
教員時代20年間、ほとんど触ることもできなかったヴァイオリン。浩子さんとのデュオリサイタルを開催するための「リハビリ」と自分で立ち上げた会社の経営=朝10時から夜9時までのレッスンを並行して生活を続けました
それから18年の間に病気はゆっくり進行しています。治療法が発見されているのは嬉しいのですが「IPS細胞」を用いた治療が治験すら進んでいないのが現状です。実はIPS細胞で作ったシートを網膜に張って網膜色素変性症の治療に活用する考えが一番最初にありました。
現在国内だけでも3万人以上の患者が治療を待っています。医学的な難しさと資金的な問題があるのであれば諦めも付きますが「役所の都合」が見え隠れしていてイライラするのは私だけではないようです(笑)

最後に視覚障碍者が演奏する場合の様々なケースについて述べます。
生まれつき、あるいは幼い頃に全盲になった人の場合「点字」を学びます。
文字の代わりになる指で触って読み取るものです。楽譜にも「点字楽譜」があります。
全盲の人はこの点字楽譜で楽譜を「読み込む」作業をするのですが、私は未だに点字も点字楽譜も全く読めませんが、点字を指で読めば楽器は弾けません。一度に覚えられる量=長さにも限界があります。細かい音符の場合なら1小節ずつかも知れません。その作業を繰り返すのが点字楽譜を使った場合です。
私の場合、以前は「初見」つまり楽譜を初めて見ながらでも演奏できていました。
楽譜を読みながら演奏できることが「当たり前」だったわけです。その訓練もしていました。
現在、21インチのタブレットにPDFデータにした楽譜を保存し、タブレットを横向きにして「拡大」して1画面に2小節ぐらいの巨大な(笑)表示にして顔を近付けて覚えます。
楽器を持って見るのは無理ですから、点字楽譜を読むのと大差ないと思います。
この作業と同時に「弓」「指使い」を考えて覚えます。書いてあれば覚えてしまえば良いのですが、自分のこだわりで変えていくので覚える情報が増えていきます。
この「記憶方法+練習方法」で数年間、新しい曲を覚えています。
いずれ本当に見えなくなった時に点字を学ぶか?点字楽譜を覚えるか?まだ決めていません。
仮に今決めたとしても、それがいつの日なのか?不安に感じながら生活するのは嫌なのです。
音を覚えて演奏する全盲の演奏者もたくさんいます。元より楽譜がなくても演奏はできるのです。逆に「楽譜がないと演奏できない」のは初見の場合だけの話です。

健常者が当たり前にできること…楽譜を見ながら演奏できることもその一つですが、
人間の感覚「五感」は常にどれか一つの感覚に集中しています。無意識に。
すべての感覚が鈍い状態が「睡眠」です。睡眠の手前の段階では五感が次第に鈍感になります。「居眠り運転」がこの状態です。演奏審しながら居眠りは珍しいとは言え、楽譜をただ漫然と眺めている時、ほとんど「五感」は使われていないのです。
言うまでもなく「聴覚」に集中すべきです。次に「触覚」その後に「視覚」。
聴くことに意識がないときには聴こえていても反応していないことが多くなります。
「見えない」ことでそれ以外の「4感」が鋭くなります。
ぜひ!目を閉じて練習してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別に反対します。

私たちが耳にする音楽。演奏する人が「何人」だとか作曲者が「どこの国の人」だとかで好き嫌いを考える人がいるとしたら…気の毒な人だと素直に思います。
「日本(人)が一番だ」「外国人は嫌いだ」と決めつける人が聴いている音楽のほぼすべては、昔のヨーロッパに住む「外国人」が考え作られた理論に基づいて作られています。そもそも「人間」を国籍や肌の色、話す言語で差別し優劣を付けること自体が「愚かな人間」「歴史を学べない知能程度」だと私は感じます。
日本だけでなく世界を「地球の歴史」だと考える知能がある人なら理解できると思いますが、元々地球には巨大な大陸が「ひとつ」あって、地殻の変動で現在の地球=地理になりました。人類の誕生も科学的な研究を「事実」として認識できる人なら「差別」「区別」が如何にばからしい事なのかを理解できるはずです。
人間は過去も現代も「戦争」を繰り返します。人間が人間を殺しあう行為が戦争です。
戦争は自然現象で起こるものではないことも小学校低学年程度の学習能力があればわかります。どんな戦争もごく少数の人間が「火種」を作り多くの人を騙しながら「戦争」に発展します。戦争が終わって、振り返ることの出来ない人は人間としての知性の欠如した人間です。史実を認めない人は「妄想」「幻想」の世界に浸ることが生きがいなのだと思います。
今、日本で巻き起こっている「〇〇ファースト」ブーム。お粗末な話です。
自分の考えを押し通すために「嘘」と知りながら他人を貶める行為は、もはや人間以外の「けだもの」以下の知能だと感じます。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分が生きるために最低限必要な行為として自分より弱い生き物を食料にします。戦争で他国、自国民を殺傷する人間はどんな生物より下等な存在です。
もし、音楽を「愛する」と感じる人であれば、愛する自由があることを知るべきです。
愛することを他人に強要し「愛さないこと」「憎むこと」も他人に求めるのは、明らかに人間としての「知性」「理性」がない人間だと思います。

どんな人間にも等しい自由があるのが「平和」です。一握りの人間だけが正しいという発想は自滅行為です。他人を見下す人は相手からも見下されて当然です。他人の自由を奪うことに疑問を感じない人は自分の自由を奪われても何も言えないはずです。
「選ばれた」人間が他人を傷つけたり差別したり自由を奪う「権利」はありません。
小学校の学級委員が「明日からみんな僕の奴隷だぞ」と同じレベルです。
私は何よりも「自由に生きたい」と願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術と演奏能力

一般的に技術は「何かを成し遂げる=創り上げる」ために必要な力と言われます。
音楽で言えば演奏者がある曲を表現=演奏しようとするのに必要な技…と言えます。
技さえ身に付けることができれば、表現能力を高められるのか?と言う問題です。
つまり「技術がなければ表現できない」前提で必要な技術は、表現しようとする物=音楽がなければ無意味だという事です。
速く走りたいと思わない人に速く走る技術は不要なのです。
さらに言えば表現したい音楽は、「知性」と「感受性」で出来上がる音楽が大きく変わります。
技術と知性・感受性のバランスこそが大切だと考えています。

技術はあるレベルまでであれば人から習う・教わる事ができます。
知性もある程度は人から学べます。義務教育レベルの理解力があり日々の様々な場面で「学び取る」意識があれば知力は必然的に増えます。演奏に必要な知識も当然ですが学ぶことができます。学ぶ意志があれば…ですが。
「感受性」は感性とも言えます。人によって育つ環境や生活環境が違えば感性にも違いが出ます。同じ環境で育った子供でも異なった感性を持ちます。環境だけではなく、科学的に説明しがたい「脳の働き」の一つだと思います。同じ演奏を聴いて感じるものが違う。同じ料理を食べて美味しいと感じる人と美味しくないと感じる人がいる。これが感性の違いです。
感性は技術のように習う事ができません。育てる方法も実際にはありません。「感受性を高める教育」なんて現実には存在しません。教える側の感性を子供に押し付けるのが「教育」だと思い違いしている人がいます。

音楽を演奏する人にとって知識と技術を修得することが必須であることは誰にでも理解できます。しかし「感受性・感性」が豊かであることの重要性はわかっていても「教えられない」からなのか、軽視される傾向があります。
当然のことですが技術の優劣は機械的に判断できます。正しいピッチ、正しいリズムで演奏できる・できないをAIが判断することも可能です。「カラオケ点数」はAIができる前からありましたね。より速いテンポで正確に演奏できれば「優秀」だと言えます。
感性…音楽では一般的に「音楽性」とか「表現力」と言われますが、これの序列は不可能です。正解がないからです。間違いもないのです。人が変われば表現したい音楽が変わるのです。指導者の感性を生徒・弟子に感じてもらうのは必要なことです。極端に言えば「先生の真似をする」過程もあって当然です。生徒が先生の演奏=音楽性に違和感を感じられるのは成長です。

最後に「能力」つまり音楽の表現力を高めたいと願うのであれば、何を大切にすべきなのか?と言う問題について考えます。
これまで学校、プライベートでレッスン、メリーオーケストラの指導を通じて感じてきた表現の能力の「違い」をまとめます。
☆技術と知性(学習能力)・感受性はすべて比例する
☆表現意欲が高い人は技術・知性が後からでも修得できる
☆いずれかの要素に否定的な人は表現能力が低い
☆他人が教えられない感受性は幼少期から抜きんでている
☆言語化能力が低い=語彙が少ない人は感受性も低い
☆他人に過剰反応する人は技術の習得は早いが感受性は伸びない。

☆技術の優劣に固執する人は感性が乏しい
上記はもちろん私の個人的な印象です。違っていても当然です。
教わる人も教える人も、お互いを信頼できる関係だあることが何よりも大切だと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏とパフォーマンス

動画はNPO法人メリーオーケストラの定期演奏会映像。子供たちが手作りの「コスプレ」をしながらヴァイオリンを暗譜で演奏しています。
「学芸会じゃないんだから」と批判的な意見もあるかも知れませんが、音楽に対する姿勢は見た目だけで判断するべきではないのです。練習に6か月間の期間をかけて楽譜を見ないで弾けるまで子供たちが練習します。初心者の子供が演奏できて、聴いていて違和感のないオリジナルのアレンジをしています。来場されたお客様が楽しんで笑顔になる。子供たちの演奏に惜しみのない拍手を送る。その喝采を受けた子供が達成感と同時に音楽の楽しさを体感すると言う連鎖が生まれます。

音楽を演奏する時、楽譜を元に「音」を第一に考える一面と、曲の組み合わせや音楽の解釈=弾き方を考える一面、さらに曲のアレンジを新たに考えて演奏するケースや、コンサートやライブでの「演出=パフォーマンス」を考える場合があります。
当然「音楽」が一義的に重要です。その他の要素、例えばプログラム構成や楽譜=アレンジの選択、コンサートでの演出は演奏と比較すれば重要度は低いと言えます。

音楽に演奏以外の要素は不要と言う考え方もあります。
しかし、厳密に言えばクラシック音楽を楽譜の通りに演奏する場合でも一音ずつ「音へのこだわり」があります。楽譜に書かれていない「音色」や微細な強弱の付け方を、演奏者の解釈で自由に表現できる範囲があります。これも一種の「演出」と言えます。

演奏を録音しCDなどに記録する場合に「電気的な処理」が不可欠です。
どんな録音方法であっても空気の振動=音を電気信号に変換しない限り、録音はできません。アナログ、デジタルの問題以前の事です。
処理の過程で音量や音色が変化するのは避けられない事実です。
録音会場で聴こえていた音をそのままに録音、再生することは先端技術を持ってしても不可能です。言い換えれば録音・再生される音楽は「別物」だと言えます。
その電気処理でも「演出」があります。音を創るエンジニアの技術と編集・加工の現場で決定権を持つ人の「好み」で生の演奏とは違う音楽が出来上がるのが現実です。CDやYouTubeの演奏に対して「〇〇さんのヴァイオリンは音が小さい」とか「音色が固すぎる」と言う論評は演奏者へ向けたものではなく、電気的に音を処理した「影の人」への言葉なのです。決して演奏者の問題ではありません。

実際に演奏する音をマイクやスピーカーを通さずに「生=アコースティック」で聴く演奏会の場合には演出は不要でしょうか?
例えば舞台の照明と客席の明るさも一つの演出です。
また細かいことで言えば空調=室温も一種の演出です。
クラシックのコンサートで必要以上の演出はむしろ違和感がありますが、
演奏者のトークが不要だという考え方と、あっても良いと言う意見もあります。前者の意見の人もアンコールの前には演奏者の「一言」があるのは許せると言うケースが多いのも事実です。
この問題は当然、演奏者側の考え方で決まる問題です。
トークが「苦手」と言う人は当然演奏だけで終始するでしょう。
お客様との一体感やコミュニケーションを持ちたいと考える人は、曲間にトークを入れるかも知れません。当然、聴く人の好みがわかれますが、私の感じるお客様がクラシックコンサートに抱く印象の中に「怖い顔をして演奏し続けて一言もしゃべらずに終わる」のがクラシックだと思っている人が多いように感じます。音楽だけを聴きに来た人にとってトークは無駄な時間です。
どちらが正しい?と言う答えはありません。
どちらにも一長一短あることは事実です。

最後に演奏会に来場者が期待することについて考えます。
前提として事前に「演奏者」がわかっている事は当然ですね。
一人だけの演奏なのか?二人なのか、ゲスト演奏者がいるのか、オーケストラなのかなども事前に告知されているケースがほとんどです。
演奏曲目がすべて(アンコールを除き)告知されている場合もありますが、ポピュラーのライブのように「当日のお楽しみ」と言う告知の仕方もあります。
演奏の合間のトーク、演奏時間、休憩、椅子の固さなどは当日にならないとわからないのが一般的です。これも聴く人によって印象が変わります。
演奏会に何を期待して行くのか=来るのか?
音楽を聴きに。それは当然です。それだけでしょうか?
聴くだけなら自宅でも外出先でも移動中でも音楽は聴けます。
好みのイヤホンやヘッドホンで、好きな曲を好きな演奏者の録音で聴けばむしろ「音」はそちらの方が好みに近いでしょう。交通費もかからず、時間も必要ありません。入場料もいりません。
演奏会・ライブで「しか」味わえない楽しみや感動とは?
一つには「来場者同士の一体感」があります。
さらに録音物にはない「緊張感」かも知れません。CDに録音された演奏は、100回聞いても変わりません。生の演奏は「一度きり」の出会いです。
自分の好きな演奏ではない演奏になるかも知れません。期待を超える感動を味わえるかもしれません。聴いてみなければ感動は得られません。もしかすると不満だけが残るかも知れませんが…。その「わくわく感」と「ドキドキ感」が生演奏を聴く楽しみでもあります。
演奏する側から考えれば、聴く人が不快に感じない環境を準備することが先決です。会場の温度も照明も大切な「おもてなし」の一つです。
自分のできる最大限の準備をしてお客様を迎える気持ちこそがすべてだと思います。期待に応えられない「かも知れない」のは事実ですから準備は大切です。
パフォーマンスは「コスト」と関連します。つまり聴く人の「満足度」は演奏会のすべてのパフォーマンスによって決まると言えます。演奏だけがすべてではないと私は確信しています。
最後までお読みいただきありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介。

「美しい音」と音の三要素

動画はヴァイオリンとピアノで演奏した「ふるさと」
どんな音楽でも「音」が使われます。当たり前ですが…。
「音の三要素」は一般的に以下の三つを言います。
1.音の大きさ
2.音の高さ
3.音色
これを見て「あれ?音の長さは?」と感じますが、音の長さは「聴こえる音の高さと大きさ」の組み合わせによって決まる者なのです。
さらに「音色」とは?
おんしょく・ねいろ。どちちの読み方も間違っていません。
一見すると非常に抽象的で「色」と言う文字から音を何かに比喩した言葉に見えます。しかし音色は間違いなく三要素の一つなのです。むしろ他の二つより複雑で表現の難しい要素でもあります。

音を分析する時「1.音の大きさ」は「音圧」で表します。大木の場合は「デシベル」と言う単位で表されます。
次に「2.音の高さ」は「空気の振動の速さ」を数値で表す場合と、「ドレミ」などの音に付けた名前=音名で表す場合があります。
一秒間に空気が振動する数を「ヘルツ」と言う単位で数値として表すこともあります。
ちなみに現代のA=ラの音は442ヘルツが一般的です。昔は今よりもずっと低い音の高さ=少ない空気の
動数のA(ラ)で演奏されていました。
最後に「3.音色」の表現に「単位」があるでしょうか?
実はありません。例えば2丁(2台)のヴァイオリンで、それぞれが「442ヘルツのA」を同じ音量で演奏した場合、音色は異なったものになります。高さも強さも同じなのに「音色」だけが異なる…。
そもそも音色ってなんでしょう?
音色を分析する時「周波数特性=音に含まれる異なった高さの小さな音の含まれ具合」を計測するする測定装置「スペクトル・アナライザー」を使用します。簡単に言えば「音色」は「周波数特性」だとも言えます。
442ヘルツの音として聴こえる=周波数が表される場合でも、442ヘルツの音より高い音や低い音が含まれていても「A=442ヘルツの音」といえるのです。
442ヘルツの音だけの「音色」は、音叉を叩いた時の音です。
人間の声は「声帯」が振動して作られた音が、身体の色々な部分を振動させ、共鳴して「声」となります。声を出す原理は皆が同じなのに、同じ声=音色の人は非常に少ないのです。同じ性の家族、例えば父と息子や男兄弟の声はよく似ています。声帯や骨格が似ている事が理由の一つです。

最後になりましたが「美しい」と感じる音…。同じ音を聴いた全員が「美しい」と感じることは確率的には非常に低いものです。
人間は「美しい!」と感じることのできる生物です。
さらにそのことを言語化する知能を持っています。
もし、他の生物が同じように美しいと感じる感覚があっても
下の動画は私のヴィオラとと浩子さんのピアノで演奏しTあドボルザーク作曲の「私に構わないで」の映像です。元の音声と「周波数特性」=音色を機械的に変化させたものを聴き比べられるように作りました。
生の演奏では、こんなに違う事はありませんがホールの響きや、楽器のコンディションによって、同じ人間が同じ曲を演奏しても音色は変わります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

誰がために演奏するのか?

動画はラフマニノフ作曲ハイフェッツ編曲の「ここは素晴らしい場所」と日本名で表される曲です。
自分(自分たち)の演奏を「誰か」に聴いてもらう場合と、誰にも「聴かせない」場合があります。練習を誰かに「聴かれる」ことが嫌だと言う人は珍しくありません。稀に「公開練習」つまり練習風景を誰かに聴いてもらう演奏もあります。通常、練習は誰かに聴かれることを前提にしていません。とは言いながら、誰かのアドヴァイスを受けたいときには、その人の前で演奏し指摘されれば「弾き直して修正する」つまりは練習を聴いてもらうことになります。
誰にも=先生にも自分の演奏を聴かれたくない!と言う人もいます。
一人だけで練習し、誰にも自分の演奏を聴かせないことも演奏のスタイルの一つです。自分が楽しめるなら何も問題ありません。「聴きたい」と言う人がいても「嫌です」で終了です(笑)

「誰かに自分の演奏を聴いてほしい」と考える人はアマチュアの場合、非常に少ないのが実状です。理由は様々です。「人に聴かせるレベルではない」という人も多く「笑われる位なら弾かない」と言う人もいます。「失敗して落ち込むのが関の山」「アマチュアは自分が楽しければ十分!」など、考え方も色々あります。私はそれを否定しません。
「もったいない」と言うのは本人の評価ではありませんから。
「聴かせて欲しい」とお願いしても本人の意思が優先されます。当然です。「公開処刑」「拷問」するのは人間として間違っています。

どんな人が「誰かに聴いてほしい」と思うのか?
演奏の評価は「自己評価」と「他人の評価」があります。
何を基準に演奏のレベルを決めるのか?実は何も基準はありません。
同じ演奏でも聴く人によって「良い演奏」にも「良くない演奏」にもなり得ます。自分以外の「誰かの評価」に左右されるのは自分の評価に自信を持てないからです。「よくわからないけど好きじゃない」とか「音楽を普段は聴かないけれどなんとなく好きな演奏」と言うのが正しい評価なのです。評論家や専門家、マニアの評価が正しいと思い込むのは明らかに間違っています。まさに「それはあなたの考えですよね?」という世界です。

自分の演奏に自信が持てない!これが自然だと思います。
むしろ「自分の演奏は誰かに聴いてもらうべきだ!」と考える人は相当な自信家、自己顕示欲の強い人です。「聴いてもらいたい」と「聴かせてあげる」は全く違います。前者は謙虚な気持ちを持つ人で後者は「思いあがった演奏者」です。そこにはアマチュアも演奏の専門家=プロも違いはありません。
自信過剰な演奏者に言わせれば「自信がないなら人に聴かせるな」と言いそうです。
多くのプロ演奏家の場合、演奏技術がアマチュアの平均より高いとは思います。
例外もあります。これは以前のブログでも述べましたが「アマチュア<プロ」と言うレベルの違いはありません。もちろんプロとして認められる技術には一定の水準があるとは思いますが、先述の通り「評価」は絶対値ではなく聴く人の主観です。
「聴いてもらいたい」と考えるのは自分の演奏で誰かが喜んでくれると言う「体験」をした人に多く見られます。聴いてくれた人が喜んでくれることは、演奏する人にとって至高の喜びです。例え自分の演奏に納得が出来ない場合でも、誰かが喜んでくれることは嬉しいのです。むしろ謙虚な気持ちを持った演奏者の演奏の方が、思いあがった演奏より喜ばれると思っています。プロの演奏でも感動しない演奏があります。もちろん「好み」の問題ですが専門家ではなく、マニアでもない「普通の人」が聞いて感動する演奏は「演奏者の思い」を感じるのです。聴いてもらいたい!一人でも楽しんでもらいたい!という、普通の人の立場で演奏する演奏にこそ感動があります。
マニアや評論家の評価は「言葉遊び」に近いものです。自分は音楽を良く知っている。たくさんの演奏を聴き比べた経験がある!そのことを強調するのがマニア・評論家の言葉です。感動より「優越感」を楽しんでいるように思えます。

演奏できない人にとって誰かの演奏を聴くしか音楽を聴く手段はありません。
演奏する側にとって「誰が?聴いてくれるのか?」を気にする必要なないのです。
自分が出来る練習を精一杯した上で、仮に演奏で失敗しても聴いてくれた人が「良かった!」と思える可能性が少しでもあるなら、演奏をためらう理由はないのです。
評価を求めず「喜び」を求めることが演奏だと私は確信しています。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

「善人」だけの集団「メリーオーケストラ」

「善人」の定義
人は皆、個性を持っています。
私の考える「善人」とは…
自分と他人の共存=仲間としての人間関係を作ろうとする人。
☆他方で「善人」ではない人をここでは「悪人」とします。
「悪人」の定義は…
☆自分が正しい・強いことが優先し他人との共存を望まない人。
ここから音楽を例えにしながら善人・悪人についいて考えます。

「独りだけの世界」
もしも無人島に独りだけで取り残されて、自給自足の生活を余儀なくされたら。
その人が善人でも悪人でもすべては「自己責任」「自己満足」なので、誰からも助けてもらえない代わりに、誰からも批判されることもありません。
聴いてくれる人の誰もいない独奏がこれに当たります。
もし善人なら「誰かと話をしたい」「もっと楽しく快適に生きるために誰かと仲間になりたい」と考えるでしょうね。
もし悪人なら、自分より劣った人がいないことがストレスで、不快な時に八つ当たりする相手がいないこともストレスです。

「二人の場合」
考えられる組み合わせは3つです。
「善人と善人」「悪人と悪人」「善人と悪人」
1.まず善人が二人だけいる世界。
お互いを「仲間」として共存するために自分が妥協することも出来て、相手に理解してもらう努力もおしまない関係です。自分も相手も、今以上に快適に生きるための知恵を出し合い平和に生きることができます。
音楽で例えるなら「2重奏」「2重唱」ですね。
自分と相手の調和・協和・思いやりがなければ音楽になりません。お互いがお互いを成長させることにもなります。
2.悪人が二人だけの世界
結果は2種類です。それぞれが「独り」に戻るか、相手を力で排除して満足するか。相手がいなくなれば結局一人になります。そこに気付かないのも悪人ならではです。
3.善人と悪人の世界
この場合が一番不幸です。善人は相手と共存しようとするでしょう。しかし悪人は善人を自分の「支配下」に置き、善人を「奴隷」として生かすか気に入らなければ善人を排除・亡き者にするでしょう。つまり「異常な世界」が出来ることになるのです。

「3人以上の場合」
1.善人が少なく悪人が多い場合
悪人は本質的に悪人同士でも共存はできません。
しかし根本に「優位性」があるので善人を支配し奴隷化すること・排除することに快感を覚えます。あくまでも「悪人同士」は仲間ではなく序列争いの中に自分をおくだけなのです。善人は悪人からの暴力や排除行為に対して、善人同士の協力で生き抜こうとします。力ではなく「理性と知性」で生きるのが善人です。最終的に悪人はまた「独り」になるしか道は残っていません。
2.善人が多く悪人が少ない場合
悪人は善人と協調することを拒みます。数の論理で善人が中心の社会が出来ても、悪人は力で善人を倒すことしか考えられません。倒せなければ悪人は「孤立」つまり独りで生きるしかありません。

「善人だけのメリーオーケストラ」
子供と大人、初心者と演奏の専門家、考え方も個性も違う多くの人が「オーケストラ」として一緒に音楽を創り出す行為は「悪人」には出来ないのです。
他人を尊重し敬意をもって接する心。
自分のスキルを高めることで他人を助ける心。
目的を達成するための努力を惜しまない協調性。
すべてが「善人」の証です。
メリーオーケストラは「子どもの健全な育成」と「音楽の普及」と言う目的を達成するための活動を「オーケストラ」と言う「社会・集団」で行っています。
家族のようでもあり、学校のようでもあり、大きく言えば一つの「国」にも似ています。
他人と序列を争う事の無意味さを知っているのも善人の集まりだからです。自分と仲間を何よりも大切にすることを「口に出さない」のは当たり前だからです。
「愛国」「愛社」「愛校」を叫び、他人に自分の「愛」の定義を押し付けるのは「悪人の悪人たる」所以です。
メリーオーケストラは誰とも競わずに、日々成長しています。時間がかかるのは別の角度から見れば「持続性が高い」事を表しています。24年間の歴史の中にこそ「悪人のいないオーケストラ」がこれからも善人の集まりだと言い切る証があると思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介