メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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02月

演奏とパフォーマンス

動画はNPO法人メリーオーケストラの定期演奏会映像。子供たちが手作りの「コスプレ」をしながらヴァイオリンを暗譜で演奏しています。
「学芸会じゃないんだから」と批判的な意見もあるかも知れませんが、音楽に対する姿勢は見た目だけで判断するべきではないのです。練習に6か月間の期間をかけて楽譜を見ないで弾けるまで子供たちが練習します。初心者の子供が演奏できて、聴いていて違和感のないオリジナルのアレンジをしています。来場されたお客様が楽しんで笑顔になる。子供たちの演奏に惜しみのない拍手を送る。その喝采を受けた子供が達成感と同時に音楽の楽しさを体感すると言う連鎖が生まれます。

音楽を演奏する時、楽譜を元に「音」を第一に考える一面と、曲の組み合わせや音楽の解釈=弾き方を考える一面、さらに曲のアレンジを新たに考えて演奏するケースや、コンサートやライブでの「演出=パフォーマンス」を考える場合があります。
当然「音楽」が一義的に重要です。その他の要素、例えばプログラム構成や楽譜=アレンジの選択、コンサートでの演出は演奏と比較すれば重要度は低いと言えます。

音楽に演奏以外の要素は不要と言う考え方もあります。
しかし、厳密に言えばクラシック音楽を楽譜の通りに演奏する場合でも一音ずつ「音へのこだわり」があります。楽譜に書かれていない「音色」や微細な強弱の付け方を、演奏者の解釈で自由に表現できる範囲があります。これも一種の「演出」と言えます。

演奏を録音しCDなどに記録する場合に「電気的な処理」が不可欠です。
どんな録音方法であっても空気の振動=音を電気信号に変換しない限り、録音はできません。アナログ、デジタルの問題以前の事です。
処理の過程で音量や音色が変化するのは避けられない事実です。
録音会場で聴こえていた音をそのままに録音、再生することは先端技術を持ってしても不可能です。言い換えれば録音・再生される音楽は「別物」だと言えます。
その電気処理でも「演出」があります。音を創るエンジニアの技術と編集・加工の現場で決定権を持つ人の「好み」で生の演奏とは違う音楽が出来上がるのが現実です。CDやYouTubeの演奏に対して「〇〇さんのヴァイオリンは音が小さい」とか「音色が固すぎる」と言う論評は演奏者へ向けたものではなく、電気的に音を処理した「影の人」への言葉なのです。決して演奏者の問題ではありません。

実際に演奏する音をマイクやスピーカーを通さずに「生=アコースティック」で聴く演奏会の場合には演出は不要でしょうか?
例えば舞台の照明と客席の明るさも一つの演出です。
また細かいことで言えば空調=室温も一種の演出です。
クラシックのコンサートで必要以上の演出はむしろ違和感がありますが、
演奏者のトークが不要だという考え方と、あっても良いと言う意見もあります。前者の意見の人もアンコールの前には演奏者の「一言」があるのは許せると言うケースが多いのも事実です。
この問題は当然、演奏者側の考え方で決まる問題です。
トークが「苦手」と言う人は当然演奏だけで終始するでしょう。
お客様との一体感やコミュニケーションを持ちたいと考える人は、曲間にトークを入れるかも知れません。当然、聴く人の好みがわかれますが、私の感じるお客様がクラシックコンサートに抱く印象の中に「怖い顔をして演奏し続けて一言もしゃべらずに終わる」のがクラシックだと思っている人が多いように感じます。音楽だけを聴きに来た人にとってトークは無駄な時間です。
どちらが正しい?と言う答えはありません。
どちらにも一長一短あることは事実です。

最後に演奏会に来場者が期待することについて考えます。
前提として事前に「演奏者」がわかっている事は当然ですね。
一人だけの演奏なのか?二人なのか、ゲスト演奏者がいるのか、オーケストラなのかなども事前に告知されているケースがほとんどです。
演奏曲目がすべて(アンコールを除き)告知されている場合もありますが、ポピュラーのライブのように「当日のお楽しみ」と言う告知の仕方もあります。
演奏の合間のトーク、演奏時間、休憩、椅子の固さなどは当日にならないとわからないのが一般的です。これも聴く人によって印象が変わります。
演奏会に何を期待して行くのか=来るのか?
音楽を聴きに。それは当然です。それだけでしょうか?
聴くだけなら自宅でも外出先でも移動中でも音楽は聴けます。
好みのイヤホンやヘッドホンで、好きな曲を好きな演奏者の録音で聴けばむしろ「音」はそちらの方が好みに近いでしょう。交通費もかからず、時間も必要ありません。入場料もいりません。
演奏会・ライブで「しか」味わえない楽しみや感動とは?
一つには「来場者同士の一体感」があります。
さらに録音物にはない「緊張感」かも知れません。CDに録音された演奏は、100回聞いても変わりません。生の演奏は「一度きり」の出会いです。
自分の好きな演奏ではない演奏になるかも知れません。期待を超える感動を味わえるかもしれません。聴いてみなければ感動は得られません。もしかすると不満だけが残るかも知れませんが…。その「わくわく感」と「ドキドキ感」が生演奏を聴く楽しみでもあります。
演奏する側から考えれば、聴く人が不快に感じない環境を準備することが先決です。会場の温度も照明も大切な「おもてなし」の一つです。
自分のできる最大限の準備をしてお客様を迎える気持ちこそがすべてだと思います。期待に応えられない「かも知れない」のは事実ですから準備は大切です。
パフォーマンスは「コスト」と関連します。つまり聴く人の「満足度」は演奏会のすべてのパフォーマンスによって決まると言えます。演奏だけがすべてではないと私は確信しています。
最後までお読みいただきありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介。

「美しい音」と音の三要素

動画はヴァイオリンとピアノで演奏した「ふるさと」
どんな音楽でも「音」が使われます。当たり前ですが…。
「音の三要素」は一般的に以下の三つを言います。
1.音の大きさ
2.音の高さ
3.音色
これを見て「あれ?音の長さは?」と感じますが、音の長さは「聴こえる音の高さと大きさ」の組み合わせによって決まる者なのです。
さらに「音色」とは?
おんしょく・ねいろ。どちちの読み方も間違っていません。
一見すると非常に抽象的で「色」と言う文字から音を何かに比喩した言葉に見えます。しかし音色は間違いなく三要素の一つなのです。むしろ他の二つより複雑で表現の難しい要素でもあります。

音を分析する時「1.音の大きさ」は「音圧」で表します。大木の場合は「デシベル」と言う単位で表されます。
次に「2.音の高さ」は「空気の振動の速さ」を数値で表す場合と、「ドレミ」などの音に付けた名前=音名で表す場合があります。
一秒間に空気が振動する数を「ヘルツ」と言う単位で数値として表すこともあります。
ちなみに現代のA=ラの音は442ヘルツが一般的です。昔は今よりもずっと低い音の高さ=少ない空気の
動数のA(ラ)で演奏されていました。
最後に「3.音色」の表現に「単位」があるでしょうか?
実はありません。例えば2丁(2台)のヴァイオリンで、それぞれが「442ヘルツのA」を同じ音量で演奏した場合、音色は異なったものになります。高さも強さも同じなのに「音色」だけが異なる…。
そもそも音色ってなんでしょう?
音色を分析する時「周波数特性=音に含まれる異なった高さの小さな音の含まれ具合」を計測するする測定装置「スペクトル・アナライザー」を使用します。簡単に言えば「音色」は「周波数特性」だとも言えます。
442ヘルツの音として聴こえる=周波数が表される場合でも、442ヘルツの音より高い音や低い音が含まれていても「A=442ヘルツの音」といえるのです。
442ヘルツの音だけの「音色」は、音叉を叩いた時の音です。
人間の声は「声帯」が振動して作られた音が、身体の色々な部分を振動させ、共鳴して「声」となります。声を出す原理は皆が同じなのに、同じ声=音色の人は非常に少ないのです。同じ性の家族、例えば父と息子や男兄弟の声はよく似ています。声帯や骨格が似ている事が理由の一つです。

最後になりましたが「美しい」と感じる音…。同じ音を聴いた全員が「美しい」と感じることは確率的には非常に低いものです。
人間は「美しい!」と感じることのできる生物です。
さらにそのことを言語化する知能を持っています。
もし、他の生物が同じように美しいと感じる感覚があっても
下の動画は私のヴィオラとと浩子さんのピアノで演奏しTあドボルザーク作曲の「私に構わないで」の映像です。元の音声と「周波数特性」=音色を機械的に変化させたものを聴き比べられるように作りました。
生の演奏では、こんなに違う事はありませんがホールの響きや、楽器のコンディションによって、同じ人間が同じ曲を演奏しても音色は変わります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

誰がために演奏するのか?

動画はラフマニノフ作曲ハイフェッツ編曲の「ここは素晴らしい場所」と日本名で表される曲です。
自分(自分たち)の演奏を「誰か」に聴いてもらう場合と、誰にも「聴かせない」場合があります。練習を誰かに「聴かれる」ことが嫌だと言う人は珍しくありません。稀に「公開練習」つまり練習風景を誰かに聴いてもらう演奏もあります。通常、練習は誰かに聴かれることを前提にしていません。とは言いながら、誰かのアドヴァイスを受けたいときには、その人の前で演奏し指摘されれば「弾き直して修正する」つまりは練習を聴いてもらうことになります。
誰にも=先生にも自分の演奏を聴かれたくない!と言う人もいます。
一人だけで練習し、誰にも自分の演奏を聴かせないことも演奏のスタイルの一つです。自分が楽しめるなら何も問題ありません。「聴きたい」と言う人がいても「嫌です」で終了です(笑)

「誰かに自分の演奏を聴いてほしい」と考える人はアマチュアの場合、非常に少ないのが実状です。理由は様々です。「人に聴かせるレベルではない」という人も多く「笑われる位なら弾かない」と言う人もいます。「失敗して落ち込むのが関の山」「アマチュアは自分が楽しければ十分!」など、考え方も色々あります。私はそれを否定しません。
「もったいない」と言うのは本人の評価ではありませんから。
「聴かせて欲しい」とお願いしても本人の意思が優先されます。当然です。「公開処刑」「拷問」するのは人間として間違っています。

どんな人が「誰かに聴いてほしい」と思うのか?
演奏の評価は「自己評価」と「他人の評価」があります。
何を基準に演奏のレベルを決めるのか?実は何も基準はありません。
同じ演奏でも聴く人によって「良い演奏」にも「良くない演奏」にもなり得ます。自分以外の「誰かの評価」に左右されるのは自分の評価に自信を持てないからです。「よくわからないけど好きじゃない」とか「音楽を普段は聴かないけれどなんとなく好きな演奏」と言うのが正しい評価なのです。評論家や専門家、マニアの評価が正しいと思い込むのは明らかに間違っています。まさに「それはあなたの考えですよね?」という世界です。

自分の演奏に自信が持てない!これが自然だと思います。
むしろ「自分の演奏は誰かに聴いてもらうべきだ!」と考える人は相当な自信家、自己顕示欲の強い人です。「聴いてもらいたい」と「聴かせてあげる」は全く違います。前者は謙虚な気持ちを持つ人で後者は「思いあがった演奏者」です。そこにはアマチュアも演奏の専門家=プロも違いはありません。
自信過剰な演奏者に言わせれば「自信がないなら人に聴かせるな」と言いそうです。
多くのプロ演奏家の場合、演奏技術がアマチュアの平均より高いとは思います。
例外もあります。これは以前のブログでも述べましたが「アマチュア<プロ」と言うレベルの違いはありません。もちろんプロとして認められる技術には一定の水準があるとは思いますが、先述の通り「評価」は絶対値ではなく聴く人の主観です。
「聴いてもらいたい」と考えるのは自分の演奏で誰かが喜んでくれると言う「体験」をした人に多く見られます。聴いてくれた人が喜んでくれることは、演奏する人にとって至高の喜びです。例え自分の演奏に納得が出来ない場合でも、誰かが喜んでくれることは嬉しいのです。むしろ謙虚な気持ちを持った演奏者の演奏の方が、思いあがった演奏より喜ばれると思っています。プロの演奏でも感動しない演奏があります。もちろん「好み」の問題ですが専門家ではなく、マニアでもない「普通の人」が聞いて感動する演奏は「演奏者の思い」を感じるのです。聴いてもらいたい!一人でも楽しんでもらいたい!という、普通の人の立場で演奏する演奏にこそ感動があります。
マニアや評論家の評価は「言葉遊び」に近いものです。自分は音楽を良く知っている。たくさんの演奏を聴き比べた経験がある!そのことを強調するのがマニア・評論家の言葉です。感動より「優越感」を楽しんでいるように思えます。

演奏できない人にとって誰かの演奏を聴くしか音楽を聴く手段はありません。
演奏する側にとって「誰が?聴いてくれるのか?」を気にする必要なないのです。
自分が出来る練習を精一杯した上で、仮に演奏で失敗しても聴いてくれた人が「良かった!」と思える可能性が少しでもあるなら、演奏をためらう理由はないのです。
評価を求めず「喜び」を求めることが演奏だと私は確信しています。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

「善人」だけの集団「メリーオーケストラ」

「善人」の定義
人は皆、個性を持っています。
私の考える「善人」とは…
自分と他人の共存=仲間としての人間関係を作ろうとする人。
☆他方で「善人」ではない人をここでは「悪人」とします。
「悪人」の定義は…
☆自分が正しい・強いことが優先し他人との共存を望まない人。
ここから音楽を例えにしながら善人・悪人についいて考えます。

「独りだけの世界」
もしも無人島に独りだけで取り残されて、自給自足の生活を余儀なくされたら。
その人が善人でも悪人でもすべては「自己責任」「自己満足」なので、誰からも助けてもらえない代わりに、誰からも批判されることもありません。
聴いてくれる人の誰もいない独奏がこれに当たります。
もし善人なら「誰かと話をしたい」「もっと楽しく快適に生きるために誰かと仲間になりたい」と考えるでしょうね。
もし悪人なら、自分より劣った人がいないことがストレスで、不快な時に八つ当たりする相手がいないこともストレスです。

「二人の場合」
考えられる組み合わせは3つです。
「善人と善人」「悪人と悪人」「善人と悪人」
1.まず善人が二人だけいる世界。
お互いを「仲間」として共存するために自分が妥協することも出来て、相手に理解してもらう努力もおしまない関係です。自分も相手も、今以上に快適に生きるための知恵を出し合い平和に生きることができます。
音楽で例えるなら「2重奏」「2重唱」ですね。
自分と相手の調和・協和・思いやりがなければ音楽になりません。お互いがお互いを成長させることにもなります。
2.悪人が二人だけの世界
結果は2種類です。それぞれが「独り」に戻るか、相手を力で排除して満足するか。相手がいなくなれば結局一人になります。そこに気付かないのも悪人ならではです。
3.善人と悪人の世界
この場合が一番不幸です。善人は相手と共存しようとするでしょう。しかし悪人は善人を自分の「支配下」に置き、善人を「奴隷」として生かすか気に入らなければ善人を排除・亡き者にするでしょう。つまり「異常な世界」が出来ることになるのです。

「3人以上の場合」
1.善人が少なく悪人が多い場合
悪人は本質的に悪人同士でも共存はできません。
しかし根本に「優位性」があるので善人を支配し奴隷化すること・排除することに快感を覚えます。あくまでも「悪人同士」は仲間ではなく序列争いの中に自分をおくだけなのです。善人は悪人からの暴力や排除行為に対して、善人同士の協力で生き抜こうとします。力ではなく「理性と知性」で生きるのが善人です。最終的に悪人はまた「独り」になるしか道は残っていません。
2.善人が多く悪人が少ない場合
悪人は善人と協調することを拒みます。数の論理で善人が中心の社会が出来ても、悪人は力で善人を倒すことしか考えられません。倒せなければ悪人は「孤立」つまり独りで生きるしかありません。

「善人だけのメリーオーケストラ」
子供と大人、初心者と演奏の専門家、考え方も個性も違う多くの人が「オーケストラ」として一緒に音楽を創り出す行為は「悪人」には出来ないのです。
他人を尊重し敬意をもって接する心。
自分のスキルを高めることで他人を助ける心。
目的を達成するための努力を惜しまない協調性。
すべてが「善人」の証です。
メリーオーケストラは「子どもの健全な育成」と「音楽の普及」と言う目的を達成するための活動を「オーケストラ」と言う「社会・集団」で行っています。
家族のようでもあり、学校のようでもあり、大きく言えば一つの「国」にも似ています。
他人と序列を争う事の無意味さを知っているのも善人の集まりだからです。自分と仲間を何よりも大切にすることを「口に出さない」のは当たり前だからです。
「愛国」「愛社」「愛校」を叫び、他人に自分の「愛」の定義を押し付けるのは「悪人の悪人たる」所以です。
メリーオーケストラは誰とも競わずに、日々成長しています。時間がかかるのは別の角度から見れば「持続性が高い」事を表しています。24年間の歴史の中にこそ「悪人のいないオーケストラ」がこれからも善人の集まりだと言い切る証があると思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介