メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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02月

二人で演奏する音楽

映像はシューマンの「アダージョとアレグロ」2025年1月の演奏です。
ヴァイオリン、ヴィオラの演奏は多くの場合に自分以外の人と一緒に演奏します。「無伴奏」の曲はまさに一人だけ=1台の楽器だけで演奏しますが、ピアノの場合「無伴奏」って言わないのですよね。ピアノソナタと言えばピアノ一台=一人で演奏する曲になりますが「ヴァイオリンソナタ」は正確に言えば「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」がほとんどです。同じように「独奏」「独唱」の場合、「ピアノ独奏」と言えばオーケストラと一緒に演奏する「ピアノ協奏曲」の独奏=ソロを意味します。クラシック音楽をあまり聴かない方にとってわかりにくい表記だと思います。

二人で演奏することの多いヴァイオリン、ヴィオラですが「二重奏=デュオ」と呼ばれる場合と「ピアノ伴奏」と呼ばれる場合があります。ちなみに伴奏と言う言葉を調べると
伴奏(ばんそう)とは、
西洋音楽で使われる音楽用語で、主たる旋律を演奏する単数または複数の歌手や演奏者に対し、副次的な演奏をすること。(ウィキペディアより)
副次的な演奏ってなんだか曖昧ですが、主旋律を「補助する」意味ではなく主旋律と異なった「音楽」を一緒に演奏するもので「独奏」と「伴奏」があって初めて「曲」になるものえと考えます。

私は(妻も)「ピアノ伴奏」と言う表現が好きではありません。
上記の通りピアノの演奏があって音楽が完成する現実に対し「副次的」言ってしまえば「おまけ・軽視されるもの」に感じられるからです。協奏曲のオーケストラを伴奏と呼ぶ人はいません。どんなに主旋律を演奏する演奏者がうまくても一緒に演奏するオーケストラやピアニストが「へた」でも良い…とはならないはずです。
私たちはどんな曲を二人で演奏する時にも「二重奏=デュオ」と考えプログラムなどにも表記をお願いしています。

二人が共に主役であり脇役でもあるのがデュオです。それぞれが演奏するリズムが異なる部分でも二人がシンクロ=同期し続けることが求められます。お互いの楽器を演奏できる必要はありません。理解していてさえいれば自分が二人分を演奏しているのと同じように一つの音楽になります。「こう弾きたい」と言う解釈がいつも同じとは限りません。言葉で話し合って理解しあう時間も必要です。
最も重要なことは相手の音楽を尊重することです。元より違う旋律、違うリズムを同時に演奏する時に、常に相手の音楽に自分を同期させる気持ちがなければ偶然にピッタリ同期することは確率的にあり得ません。常に相手に自分を合わせる意識をお互いに持ち続けることです。
二人以上の演奏者の「時間」を同期させる方法は「視覚=相手の動きを見る」「聴覚=相手の息遣いを聴く」ことが基本です。ただ最終的に「第六感」とも言える感覚が決め手になります。相手の演奏する音楽から次の音を出す時間を「予測する」ことでもあります。練習やリハーサルの打ち合わせと違う本番の演奏は、お互いの緊張を感じます。良い意味での変化を自分に活かし反応する事が「アンサンブル」です。

違う楽器の音色が同時に響き、異なるリズム・旋律が一つの音楽になる。一人では絶対に出来ない演奏です。聴く人に自分たちの思ったバランスで聴いてもらえるか?これだけは経験でしか判断できません。
自分の音と相手の音のバランスを「想像」しながら演奏し会場の響き、楽器の状態も考えて演奏するのがコンサートです。録音なら後から修正できます。アコースティック=電気で音を増幅しない楽器の演奏ですからリアルタイムにバランスを変更できません。リハーサルはそのために行うものだと思っています。
これからも相手を思いつつ「デュオ」を続けていきたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏に足りない「味つけ」とは?

私は食通とかけ離れたの「食いしん坊」です。味音痴…かも知れません。ただ「美味しい」と感じるものを食べる・飲むことが大好きです。そんなバカ舌の私が料理の素材や料理=調理の事をテーマにするのもどうかな?と思いましたが、音楽を何かに例える時一番誰にでも理解してもらえるのが「食べること」なので書いてみます。

楽譜に書かれた事を忠実に・正確に音にするだけが音楽ではないと思います。演奏に聴衆が求めているのは「感動」です。聴く人のほとんどは演奏している曲の楽譜を見たこともない一般の人です。だからと言って作曲家の書いた楽譜を軽視して良いと言う意味ではありません。楽譜に書き表すことのできない「音質=音色」や「揺れ」「繊細な音量の変化」が聴く人の心に感動を与えるのだと思っています。
料理に例えるなら「味」「舌触り」「温度」「固さと柔らかさ」などの微妙な違いと組み合わせです。料理に好みがあるように、音楽にも好き嫌いがあります。子供の頃に食べた「母の手料理」が一生涯忘れられないと言う人は多くいます。「ソウルフード」という言葉があるように人それぞれに「思い出の味」があります。美味しい・まずいと言う評価ではなく「記憶に残った料理・味」があるものです。
演奏に関して言えば多くの人にとって共通の音楽はありません。
むしろ初めて聴く音楽や知らなかった楽器の音色を大人になってから聴く人も多いのが現実です。それなのに聴いて心地よく感じ感動する音楽・演奏もあれば、何も感じない「無味無臭」のような演奏もあります。初めて口にする料理、それまで味わったことのない味に感動することもあれば「二度と食べたくない」と感じる場合もあります。
演奏者は何に心を配って演奏すれば聴いてくれる人に喜んでもらえるのでしょうか?

一流と呼ばれる料理人が良く口にする言葉に「料理は愛」について。
愛を定義するのは哲学的過ぎるのですが、少なくとも食べてくれる人への「思い」であることは確かです。家庭の料理がその一つとも言えます。例外はありますが、手作りで見た目も良くない「家庭料理」であっても家族への思いが込められています。どんなに質素な料理でも食べる人のことを考えて作った料理です。音楽で言えば「聴く人への思い」です。自分の演奏を聴いてくれる人が喜んでくれる演奏を目指すこと。一人でも多くの人に感動してもらえる演奏を目指す。
聴く人にとって演奏者がどんな準備=練習をしたのか?わからないのですが、その演奏が自分=聴く人に向けられているか?演奏者の自己満足なのか?は感じられるものです。演奏技術はわからなくても「こだわり」は伝わるものです。簡単に言えば「うまい=じょうず」よい「きれい」や「引き込まれる」ことが大切だと思うのです。
うまいか?へたか?わからなくても、聴いていて「つまらない」「汚い」「うるさい」「飽きる」と言ったマイナスの印象を与えないことが重要だと思っています。
「グルメ」と言われる料理の評価にも大きな幅=違いがあります。
店員の対応、店内の環境、価格などすべての面で経験を積んだ複数の人の評価で「星」を決めるグルメ評価もあれば、怪しげな口コミと書き込みだけで評価をつけるものもあります。
最後は自分の感覚で美味しかった=良かったと判断することになります。音楽も同じです。聴く人の感性で評価は変わります。
だからこそ演奏する人は誰が聴いても美しいと感じ、感動してくれる演奏を目指す「心構え」が必要不可欠だと思います。
漫然と自分の演奏に妥協し人前で演奏することは、あってはならないことだと自戒しています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な演奏を阻む思想

動画は韓国のキム・ヒョグン氏の作品した「初恋」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。「韓国人の作った音楽なんか」と感じる人にこのブログを読んで頂ければ嬉しいです。
音楽は言語と違って「物」「人」「出来事」を具体的に表しません。
演奏する人も聴く人も自由に想像をふくらませることが出来る「音」です。
そもそも人類は地球と言う星の上に誕生した生物の一種です。私たちの周りにある草花、虫、鳥と同じです。唯一、それらの生物と違うのは「無意味に他の生物を消滅させる」生き物だという事です。人間は知能が高い!さて?どうでしょうね。お互いの意志を伝える生き物はたくさんいます。文字を使うのは人間だけですが、人間にはできない方法で意志の伝達をする生き物、人間より優れた嗅覚や聴覚、視覚を持った生き物は人間より劣っているでしょうか?
地球上で起きる自然現象は人間が考えて創り出したものではありません。その自然の「摂理」は誰が決めたものでもありません。知恵や知能に関係なく「宇宙」の一部として変化し続けています。

さて人間が音楽を作り、演奏し、聴くと言う行為から「自由」を取り除いてしまったら?どうなるでしょうか?
感情を「音」にしたものを音楽だと考えれば音楽の感じ方は人間の数だけ存在することになります。自分の感情でさえ自分でコントロール出来ない人間が他人の感情を左右できるはずがありません。感情は知能のレベルで変わるものではありません。犬や猫にも感情があると思います。もしかすると草木にも感情があるのかも知れません。私たちがまだ理解できていないだけかもしれません。他人の感情を考えずに価値観、美意識を押し付けるとしたら。
人間同士の関係の中で「主従関係」「序列」があるのも事実です。野生の動物に明らかに「弱肉強食」の関係があることを考えても理解できます。しかし、意味のない序列、本人同士の望まない主従関係は他の動物にはありません。必要ななく他人を傷つける生物は人間だけです。

音楽を作り演奏し聴く自由を奪う人間がいます。
思想や政治を理由に演奏する音楽を制約し、従わない音楽家を弾圧し排除することが、過去の日本でも「戦争」の時期にありました。
「敵国の音楽」を演奏すれば非国民だと言われ、謂れのないレッテル「共産主義者」とか「反日」と迫害を受けた日本人がいたことを忘れたのでしょうか?国民の戦意をあおるための「軍歌」だけが演奏を許される社会がどれほど異常な事なのかを考えれば、二度と音楽の自由をなくさない国であって欲しい願うだけです。
時代、地域、国を超えて人間の感情を自由に表現できる社会が失われないことを心から願っています。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

あなたの夢は?

自宅でテレビの取材を受けた際にインタビューでディレクター女史から「今後の夢は?」と質問されました。いつもの事ながら(笑)質問の内容も当然の事で私の答えも考えていませんでしたから、とっさに「夢…」と頭の中に色々な夢が思い浮かびました。
インタビューになんと答えたかあまり定かではないので(笑)放送を見直しますが、以前似たような質問を受けた時に「今日を精一杯生きること」的な(笑)答えをした気がします。
今回の取材は私の生まれつきの病気「網膜色素変性症」の症状の一つである夜盲症を持つ患者が使うために開発された「MW10」と言うメガネ型の特殊器具についてのものでした。
ディレクターの期待している答えを想像しつつ、現実に私たちが日々感じる不安…進行する病気で失明する可能性が高い事を知っているので「見える」事の有難さをテレビを見る人に伝えたいと考えて答えました。
今現在出来ることを楽しみたい。少しでも見える今が一日でも一週間でも長く、今の状態が続いたらいいなぁと言う「夢」もあること。その生活のクオリティを高めてくれる器具の開発に関わり製品化された暗所視支援装置に感激したことなどを話しました。

幼い子供が「大きくなったら」と夢を話す時、純粋に憧れている「将来の夢」を話しています。現実的な将来ではなくまさに「夢」ですね。昔ならテレビや漫画のヒーローに憧れる時期がありました。少し大きくなると職業として憧れる「大人」の姿、バスの運転士とか飛行機のパイロット、総理大臣(今の子供は言いそうにない(笑))だったり。

ヴァイオリンを弾く人になりたい…そんな夢を持つ子供に大人、親、指導者はどう?答えるでしょうか。「頑張ってね」「きっとなれる!」と励ます人と「でも他にももっと言い仕事が見つかるよ」「練習が大変なんだよ」と否定する人に分かれます。もちろん子供の年齢にもよります。家庭の環境にも影響されます。「夢を諦めないで」と言葉で言うのは簡単ですし素敵な事だと思います。すべての子供にそう答えてあげたいと思います。

子供の夢は「コロコロ変わる」場合が殆どです。大人にすればいちいち真剣に考えずに「そうだね~」と軽く受け流すのが現実だと思います。ただ「進学」を考える時期になると大人のいう事が「突然」現実的な立場になってしまいます。「なにを夢みたいなことを言ってるの?」と無残な程、子供の夢を否定するケースがほとんどです。もちろん例外もありますが。

子供…何歳までが子供でしょうか?実際の親子と言う関係では、いつまでも「親と子」ですが、それ以外の場合の「子供」の定義は様々です。電車やバスの運賃では中学生から大人料金。日本で成人と認められるのが18歳なのか20歳なのか事案によって違うのは如何なものでしょうか?お酒とタバコは20歳から。選挙権は18歳から。違和感があります。

時代によって「子供と大人」の境目の年齢が大きく変わりました。昔は15歳になれば立派な大人として扱われていました。江戸時代の「子供」と現代の「子供」に夢があることは変わらないはずです。ただ昔は生まれた環境で大人になった時の生活が決まっていましたから「夢」を見ることも難しかった時代です。現代の日本で「生まれ」は関係ないはずですが家庭環境や経済的な格差は子供が選べるものではありません。

大人になってからでも夢を叶えること忘れずにいたいと思います。
子供と違って現実をネガティブに考えるのが大人の悪い癖かも知れません。
もう年だから…今更…あと何年生きられるかわからないから…
すべて「思い込み」から自分の夢を否定的に考えた言葉です。子供とは違い身体的には出来ないことが増えますが、子供にはない「経験」と「知識」が私たちにはあります。学習能力を単に記憶力と勘違いする大人がいますが新しい事を覚える事が難しくなっても新しいことに挑戦し、初めての感動を体感することは「いくつになっても出来ること」なのです。
自分の力だけで叶えられなくても、技術の進歩や他の人の力も借りて感動を得ることが出来ます。
事実医学の進歩で人間の生きられる時間は飛躍的に長くなりました。身体の不自由さを補助する器具も日々進化しています。また自分が出来なくなった事を誰かに伝えることも、同じ環境に悩む人を助けることにつながるかも知れません。見えない人の不自由さを見える人に伝えることも誰かの夢を叶えることにつながります。
夢を持つことを最後の時まで忘れずに生きていたいと思います。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ネットの普及と演奏家の生活

世界はインターネットの普及と共に生活そのもののスタイルが大きく変わっています。
買い物も自宅に居ながら出来る時代です。お金のやり取りも現金ではなくネットからの振り込みや確認が簡単にできます。世界中のほとんどの国の話し言葉や文字をスマホ1台で翻訳できます。世界のどこからでもネットのテレビ通話ができます。
私が生まれた1960年当時にはカラーテレビすら「高級品」でしたし、電話がやっと家庭に一台という生活が当たり前でした。子供の頃「鉄腕アトム」や「エイトマン」を白黒テレビにかじりついて見て「ロボット」は空想の世界にしか存在しませんでした。
音楽を聴く方法は「生演奏を聴きに行く」しかなかった時代から「録音」と言う技術が生まれレコードが誕生。さらに「放送」と言う技術が始まった当初は通信手段の発展したものでした。ラジオ放送で音楽を聴くことが出来るようになり、テレビでも音楽の演奏を見ながら聴くことが出来るようになりました。
やがてレコードはCDに変わり、CDは配信に変わっていきました。テレビはパソコンになり、パソコンはスマホやタブレットに変化しました。
それらの「進化」の影で仕事を失っている人もたくさんいることに目を向けることも大切な事だと思います。音楽に限らず昔で言う「機械化」によって人間の仕事は大きく変化しました。
「便利になった」「楽になった」「手軽になった」と言う陰にあるのは「人間の仕事が減った」ことです。

録音された音楽を製作する現場でも生身の人間が楽器を演奏するケースは激減しました。コンピューターの発達で実際に演奏した楽器の音に近い音で録音物を作れます。人件費を大幅に削減できる上に時間も短縮できます。修正も簡単です。「スタジオミュージシャン」は仕事を失いました。
生身の人間を演奏のために集め拘束した時間に対する対価を支払う必要がなくなったのです。
クラシック音楽の聴き方・楽しみ方は変わったでしょうか?

先述の通りレコード・CDなどの録音とラジオとテレビの普及で音楽を気軽に聴けるようになったことはクラシック音楽業界にとって朗報だったかも知れません。さらにコンサートに行かなくても「良い音」で「好きな時」に「好きな演奏だけ」を極めて安価に楽しめるようになりました。レコードやCDの売り上げは演奏家の収入にもつながりました。配信の中でも「有料」で聴くことが出来るケースもありますが、無料でも聴くことが出来る配信、例えばYouTubeで楽しむことで満足する人が増え有料配信も減少しました。
演奏する「機会」が減れば演奏者の数は自然に減少します。もちろん経済は「需要と供給」のバランスで成り立っています。供給が多すぎると片づけることは簡単です。しかし生の演奏の需要をネットの使い方を間違ったことによって減らしているとしたらどうでしょうか?
インターネットは使い方を誤れば人々の命さえ危険にさらす凶器になります。しかも「匿名」が当たり前の世界です。開示請求してもすべてのケースでIPアドレスを調べてもらえるとは限りません。
コンサートの広報や告知にネットが役立ちます。でも聴いてくれる人・会場まで時間と交通費をかけて出向き入場料を払ってくれる人がいなければ演奏会にかかる費用はすべて演奏者や主催者が負担することになります。「生で音楽を聴く価値・意義」をすべての人が認識してくれればと願っています。

最後に演奏家と言う「職業」が今後どのように変わり行くのかを考えます。
・演奏以外の収入がなくても生活できる演奏家
・演奏以外の業務=仕事もしながら生活出来る演奏家
どちらも主たる職業が「演奏家・音楽家」であることに違いはありません。
日本国内で考えると上記の「演奏だけで」と言う人は両手で数えられる人数です。
プロのオーケストラでも「契約団員」と呼ばれる人以外の演奏者は給与だけで生活するのは非常に厳しいのが現実です。一昔前ならレコーディングやテレビ、結婚式などでの演奏が副収入源=アルバイト先でした。しかし現在はそのいずれもが壊滅的な状況です。音楽高校や音楽大学で教える場合でも「教授」「准教授」「講師」「非常勤講師」「合奏指導員」など多くのランクがあり当然報酬も大きな差があります。ましてや雇用される人数はごくわずかです。
自宅や音楽教室で生徒を取ってレッスンをする演奏家。これが最も現実的と思われがちですが…。お小遣い稼ぎの為なのか?社会奉仕活動と考えているのか?不明ですが町中に「〇〇音楽教室」があふれています。一か月5,000円の月謝と言うのも見かけます。お金の価値は変わりませんが「生活する」ための収入とは言い難い金額で教えている人たちです。プロのオーケストラで演奏した報酬で足りない生活費…にもならないのが現実です。
オンラインレッスン。インターネットを活用した音楽ビジネスですが、コロナの頃に体験した印象を言えば「これがレッスンと言えるのか?」でした。生徒さんの演奏はスマホやノートパソコンに内蔵されたマイクで収音されます。いくらこちら=教える側が良い環境にしても生徒さんに「もっと良いマイクで」とか「画角を色々変えて」とは言えないのが実情です。
会議や会話だけのやり取りならオンラインは有効ですが音楽のレッスンには限界があります。
ただこの分野は今後さらに技術が進むことが予想できますので環境が良くなる可能性はあります。インターネットで演奏を収益化することは上記のどの方法より難しいと言えます。
事実YouTube上には世界中の演奏家たちが「チュートリアル=演奏方法解説」と「演奏動画」を自分で、知人に助けてもらって公開しています。どれも「無料」で視聴できます。世に言う「ユーチューバー」として収入を得られるか?いいえ!(笑)そんなに甘い世界ではありません。チャンネル登録者が1,000を超えて著作権に関わらない音楽で…しかもほぼ毎日のように新しい動画を編集する技術と時間が求められます。演奏よりはるかに難しい!(笑)
 現在の状況で演奏家が昔のように演奏で収入を得ることは無理なのかも知れません。演奏家を夢見ても収入のない職業は職業とは言えません。プライドだけで「演奏家です」と自称するのは個人の自由ですが。「夢を壊すな」「音楽大学への進学希望者を減らすな!」と言われるのを覚悟して言えば、演奏をストレスなく楽しみたいのなら生活できる職業につくべきです。その上で仕事のスキルをあげ「自由な時間を増やす」努力をすれば、演奏を心から楽しめます。
「どうしても演奏だけで生活したい!」と言う人へ。今や国際コンクールで「入賞」しても演奏の仕事はほとんどないと言われています。数年に一度の著名なコンクールで1位になった人だけでも世界中に何十人もいます。毎年行われるコンクールなら毎年1位の人が演奏の機会を待っているのです。プロのオーケストラに入団するのも考えているより厳しい世界です。音楽大学に入れるのは「お金を払う側」だからです。プロオケは欠員がなければ募集しません。国内どこかのプロオケに「団員=社員」として就職できる人数は、テレビ局のアナウンサーになるよりも、パイロットになるよりも「狭き門」だと言う事です。それを承知で覚悟を決めて挑戦する「気持ち」に心からエールを送りたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クールでホットな職人芸

私が大好きな演奏家たち。ベルリンフィル12人のチェリスト。
ベルリンフィルハーモニーの歴史や演奏の素晴らしさをご存知の方多いと思います。
この12人のチェリストの演奏も50年以上の歴史を持っています。
サントリーホールでのコンサートに行った時「絶対!ステージのどこかにヴァイオリニストが隠れ弾いてる!」「いや、バンドネオン奏者も隠れている!」って冗談半分ですが、本当にそんな気がするほどでした。期待を裏切らない演奏とパフォーマンス。演奏者たちが運営するデジタルコンテンツもありますが、世界中で演奏活動をする演奏はYouTubeにもいくつか見つけられます。

動画を見て・聴いて彼らの演奏技術の高さに憧れるのはもちろんですが、一体全体なにが?どう?他の演奏と違うのか色々考えさせられます。そもそもベルリンフィルのメンバーになることは演奏者として最高の名誉ですが、当然、入団するための狭き門は国際コンクールで上位、あるいは優勝した人であっても簡単に通過できるレベルではありません。研修制度もあり、そこでもまた「ふるい」にかけられます。世界の頂点として長い長い歴史を持つオーケストラの底力は個人の卓越した技術と協調性・人間性の面でも「超一流」だと言えます。

演奏技術もさることながら彼らの演奏する曲のアレンジ=編曲がまた素敵です。
彼らだから出来ることを知り尽くしたアレンジャーが書き下ろす楽譜を、誰にも真似のできない技術・パフォーマンスで聴衆を魅了します。その演奏には「クール」に感じる一面があります。冷たいと言う意味ではなく「冷静」で「知性的」という意味です。通常であれば難易度の高い曲を「頑張って」演奏する場合に身体の動きと表情に頑張ってる感(笑)が出るものです。
むしろ簡単な楽譜を世間話をするように「ひょうひょう」と演奏しています。
違う言い方をするなら「暑苦しくない」「自由に楽しんでいる」ように感じます。
その意味ではヴァイオリニストのハイフェッツやオイストラフ、ミルシュテインの演奏も出てくる音楽とは裏腹に「なんでもないけど?」と言う印象の演奏動画を見ることができます。

見た目のクールさとは裏腹に表現される音楽には人間の自然な暖かさ、情熱を感じます。
これが「ホット」と感じる部分です。しかも音楽によって聴く人を笑顔にしたり、思わず「かっこいい!」と叫びたくなる表現、なぜか涙が溢れ出てくる切なさや悲しさも感じます。
映像がなくても伝わる感動は彼らの演奏能力の高さを表しています。12人も演奏者がいれば、感性も違い主張の仕方も違うはずなのに「一体」になれるのは何故でしょう?
同じ編成=12人で演奏している他の演奏者と何が違うのか?
想像で言うなら「歴史の重さ」と「同じ釜の飯を食う人」の絆だと思います。
50年以上続くアンサンブルは、メンバーの入れ替わりがあります。多くの場合には「もっと!」と言う意識が強くなりすぎて先人の残した「伝統」を壊すことの方が多く見受けられます。しかしただ単に「伝統を守る」と言う保守的な発想だけではないと感じます。新たなことに挑戦し続ける精神を全員が持っているから引き継がれるのが伝統です。
普段はベルリンフィルという大きなアンサンブルの中の1パートとして、他の楽器の演奏者と意見を交わし「マエストロ=指揮者」の意図をくみ取りながら一つの音楽を築く「協調性」が彼らから感じられます。チェロパートと言う「ファミリー」があり、さらにベルリンフィルという「社会」の中での自己と相互の関係を築くのは個人の意識の高さこそが重要です。
決して突出せず埋没もしない。迎合も妥協もせずにお互いを認め合いながら自分の能力を高める心が「一体感」を生み出しているのだと思います。同じ目的を達成する「仲間」が奏でる音楽は決して一人では作れません。逆に一人ずつの演奏技術が高くなければアンサンブルのクオリティは高くなりません。音楽に向き合う気持ちを共有することは一番難しいことです。
これからメンバーが入れ替わってもこのアンサンブルは聴く人を楽しませ、さらに高いステージに上って行くと確信しています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

誰もが持っている歴史

映像はメリーオーケストラ第3回定期演奏会
2003年1月13日に杜のホールはしもとで実施しました。
第1回はこの前年2002年1月15日でした。
現在(2026年2月)も活動を続けています。
いつまで?続けられるのか「神のみぞ知る」ことです。
今回の「自分の歴史」は音楽を演奏することを趣味、職業としているすべての人に共通した内容です。

楽器を演奏する「きっかけ」は人それぞれ違います。
幼い頃に習い事で始める人・音楽の授業でリコーダーを初めて演奏した人・部活動で楽器を演奏した人・大人になって憧れの楽器を演奏し始めた人など。
楽器の演奏を始めることに年齢制限は絶対にありません。子供の頃から練習しないと演奏できない楽器は存在しません。逆に幼い子供では演奏できない楽器もたくさんあります。
大人になって始めた趣味の演奏家が口にする「大人からやってもうまくならない」これは思い込みと現実逃避の言葉です。

練習する時間と期間=年月も人によって大きく違います。
仮に毎日2時間以上、集中して練習できる人と30分練習できる人、週末や時間が出来た時にしか練習できない人の「練習量」は大きく変わります。同じ一か月、一年でも練習量は違います。上達に練習が必要なのは明らかでも環境や体力によって練習できる時間は違うのです。
練習できないから演奏をやめてしまう生徒さんも多くいらっしゃいます。
演奏家を目指す決意を持って生活の何よりも練習を優先できる人ばかりではないのです。
仮に練習できず上達がゆっくりでもやめてしまえば楽しみが一つ減ることになります。
長く演奏を楽しむ「秘訣」がここにあると思います。
事実、音楽大学を卒業した人でも、その後音楽から離れることになる人の方が圧倒的に多いのです。ごく一部の人だけが生活の中心を演奏=練習に費やせるのです。それ以外のほとんどの音大卒業生は「趣味」として演奏できれば良い方で、演奏以外の職業や育児、家事が中心で楽器に触れることさえ出来ない日々を送るのが現実です。
私自身、教員生活をした20年間は楽器のケースを開けることさえ一年1度あるか?という生活でした。退職後に演奏活動を再開したのが45歳になった時です。
生きるために演奏から離れる時期があっても、いつかきっと!また練習できる時が来ることを信じて欲しいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

視覚障害と楽器の演奏

「網膜色素変性症」と言う病気を持っている事が判明してたのは私が4歳頃の事でした。
当時暮らしていた団地の玄関で、手探りをして靴を探している私を見て「謙介、なにしてるの?」と両親が不思議に思い声をかけたそうです。「え?靴を探してるの」と当然のことのように答えた私にギョッとした両親が「国立小児病院」で網膜の専門医に診察をしてもらい「網膜色素変性症」と診断された…両親のショックははかり知れません。当時から現在も治療法のない進行性の病気で、多くの場合盲学校に通い失明する確率も高いと言われていました。
ただ奇跡的に私の進行は極めてゆっくりしていて、普通学級で学ぶことが出来ました。
視力は矯正して0.5~0.7程度見えていたので、楽譜も読めましたし、運転免許も取得できました。中学生の頃に「将来」に不安を感じたのは今でも覚えています。
両親が私にヴァイオリンを習わせてくれたのは、この病気があったから…ではなかった(笑)
のですが、今考えれば「神様の思し召し」だったのかも知れません。

生まれつき全盲の人もたくさんいます。耳の聴こえない人もいます。四肢が自由にならない人もいます。その「子供」の親がどんな気持ち…自分の事以上に苦悩することは、大人なら想像できると思います。障害を持っている本人は「それが普通」なのです。先述のように薄暗いところは見えないのが当たり前…周りの人と自分の「どこか?なにか?が違う」ことに気が付くのは自我が芽生える時期です。私の場合には、昼間の明るい場所なら普通に一人で行動できましたから、両親も少し安心したと思います。「進行」を調べるために、毎年定期的に網膜の検査、視野の検査、暗順応の検査を受けていました。
進行はほとんどなく音楽高校、音楽大学でも特に問題なく学ぶことができました。
ただオーケストラの「授業」で二人に1本の譜面台で演奏する時に「ギリギリ」の視力だったため自然に「暗譜」で演奏する習慣がついていました。大学生の時にオーケストラの演奏会で、一緒の楽譜を見ていた先輩に「ちょー迷惑」をおかけしました。暗譜していたので「つい」本来の譜めくりよりずっと早く次のページにパート譜をめくった!隣で演奏していた先輩の「まだ!」「まだ!」と言う囁き声に気付いて「はっ!」と。(笑)
そんな失敗もありましたがステージが暗転したり演出で照明を極端に暗くするお仕事以外は、アルバイトで色々なオーケストラにも出演させてもらいました。

教員を45歳の時に退職しましたが病気の進行が原因ではなく父の介護のために年休を使い果たし、その後も両親の介護の必要があったことが理由です。
同じころに病気の進行を感じ始めました。視野の狭窄=見えない部分が増えていくことと、視力の低下を感じ、思い切って障碍者の認定を受けました。当時「1種2級」という段階でした。
偶然なのか?それまでの過程が持続できなくなった時に浩子さんとの演奏活動を始めていました。二人とも同じような境遇でした。そんなドタバタの中でも演奏活動は続けていました。
教員時代20年間、ほとんど触ることもできなかったヴァイオリン。浩子さんとのデュオリサイタルを開催するための「リハビリ」と自分で立ち上げた会社の経営=朝10時から夜9時までのレッスンを並行して生活を続けました
それから18年の間に病気はゆっくり進行しています。治療法が発見されているのは嬉しいのですが「IPS細胞」を用いた治療が治験すら進んでいないのが現状です。実はIPS細胞で作ったシートを網膜に張って網膜色素変性症の治療に活用する考えが一番最初にありました。
現在国内だけでも3万人以上の患者が治療を待っています。医学的な難しさと資金的な問題があるのであれば諦めも付きますが「役所の都合」が見え隠れしていてイライラするのは私だけではないようです(笑)

最後に視覚障碍者が演奏する場合の様々なケースについて述べます。
生まれつき、あるいは幼い頃に全盲になった人の場合「点字」を学びます。
文字の代わりになる指で触って読み取るものです。楽譜にも「点字楽譜」があります。
全盲の人はこの点字楽譜で楽譜を「読み込む」作業をするのですが、私は未だに点字も点字楽譜も全く読めませんが、点字を指で読めば楽器は弾けません。一度に覚えられる量=長さにも限界があります。細かい音符の場合なら1小節ずつかも知れません。その作業を繰り返すのが点字楽譜を使った場合です。
私の場合、以前は「初見」つまり楽譜を初めて見ながらでも演奏できていました。
楽譜を読みながら演奏できることが「当たり前」だったわけです。その訓練もしていました。
現在、21インチのタブレットにPDFデータにした楽譜を保存し、タブレットを横向きにして「拡大」して1画面に2小節ぐらいの巨大な(笑)表示にして顔を近付けて覚えます。
楽器を持って見るのは無理ですから、点字楽譜を読むのと大差ないと思います。
この作業と同時に「弓」「指使い」を考えて覚えます。書いてあれば覚えてしまえば良いのですが、自分のこだわりで変えていくので覚える情報が増えていきます。
この「記憶方法+練習方法」で数年間、新しい曲を覚えています。
いずれ本当に見えなくなった時に点字を学ぶか?点字楽譜を覚えるか?まだ決めていません。
仮に今決めたとしても、それがいつの日なのか?不安に感じながら生活するのは嫌なのです。
音を覚えて演奏する全盲の演奏者もたくさんいます。元より楽譜がなくても演奏はできるのです。逆に「楽譜がないと演奏できない」のは初見の場合だけの話です。

健常者が当たり前にできること…楽譜を見ながら演奏できることもその一つですが、
人間の感覚「五感」は常にどれか一つの感覚に集中しています。無意識に。
すべての感覚が鈍い状態が「睡眠」です。睡眠の手前の段階では五感が次第に鈍感になります。「居眠り運転」がこの状態です。演奏審しながら居眠りは珍しいとは言え、楽譜をただ漫然と眺めている時、ほとんど「五感」は使われていないのです。
言うまでもなく「聴覚」に集中すべきです。次に「触覚」その後に「視覚」。
聴くことに意識がないときには聴こえていても反応していないことが多くなります。
「見えない」ことでそれ以外の「4感」が鋭くなります。
ぜひ!目を閉じて練習してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別に反対します。

私たちが耳にする音楽。演奏する人が「何人」だとか作曲者が「どこの国の人」だとかで好き嫌いを考える人がいるとしたら…気の毒な人だと素直に思います。
「日本(人)が一番だ」「外国人は嫌いだ」と決めつける人が聴いている音楽のほぼすべては、昔のヨーロッパに住む「外国人」が考え作られた理論に基づいて作られています。そもそも「人間」を国籍や肌の色、話す言語で差別し優劣を付けること自体が「愚かな人間」「歴史を学べない知能程度」だと私は感じます。
日本だけでなく世界を「地球の歴史」だと考える知能がある人なら理解できると思いますが、元々地球には巨大な大陸が「ひとつ」あって、地殻の変動で現在の地球=地理になりました。人類の誕生も科学的な研究を「事実」として認識できる人なら「差別」「区別」が如何にばからしい事なのかを理解できるはずです。
人間は過去も現代も「戦争」を繰り返します。人間が人間を殺しあう行為が戦争です。
戦争は自然現象で起こるものではないことも小学校低学年程度の学習能力があればわかります。どんな戦争もごく少数の人間が「火種」を作り多くの人を騙しながら「戦争」に発展します。戦争が終わって、振り返ることの出来ない人は人間としての知性の欠如した人間です。史実を認めない人は「妄想」「幻想」の世界に浸ることが生きがいなのだと思います。
今、日本で巻き起こっている「〇〇ファースト」ブーム。お粗末な話です。
自分の考えを押し通すために「嘘」と知りながら他人を貶める行為は、もはや人間以外の「けだもの」以下の知能だと感じます。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分が生きるために最低限必要な行為として自分より弱い生き物を食料にします。戦争で他国、自国民を殺傷する人間はどんな生物より下等な存在です。
もし、音楽を「愛する」と感じる人であれば、愛する自由があることを知るべきです。
愛することを他人に強要し「愛さないこと」「憎むこと」も他人に求めるのは、明らかに人間としての「知性」「理性」がない人間だと思います。

どんな人間にも等しい自由があるのが「平和」です。一握りの人間だけが正しいという発想は自滅行為です。他人を見下す人は相手からも見下されて当然です。他人の自由を奪うことに疑問を感じない人は自分の自由を奪われても何も言えないはずです。
「選ばれた」人間が他人を傷つけたり差別したり自由を奪う「権利」はありません。
小学校の学級委員が「明日からみんな僕の奴隷だぞ」と同じレベルです。
私は何よりも「自由に生きたい」と願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術と演奏能力

一般的に技術は「何かを成し遂げる=創り上げる」ために必要な力と言われます。
音楽で言えば演奏者がある曲を表現=演奏しようとするのに必要な技…と言えます。
技さえ身に付けることができれば、表現能力を高められるのか?と言う問題です。
つまり「技術がなければ表現できない」前提で必要な技術は、表現しようとする物=音楽がなければ無意味だという事です。
速く走りたいと思わない人に速く走る技術は不要なのです。
さらに言えば表現したい音楽は、「知性」と「感受性」で出来上がる音楽が大きく変わります。
技術と知性・感受性のバランスこそが大切だと考えています。

技術はあるレベルまでであれば人から習う・教わる事ができます。
知性もある程度は人から学べます。義務教育レベルの理解力があり日々の様々な場面で「学び取る」意識があれば知力は必然的に増えます。演奏に必要な知識も当然ですが学ぶことができます。学ぶ意志があれば…ですが。
「感受性」は感性とも言えます。人によって育つ環境や生活環境が違えば感性にも違いが出ます。同じ環境で育った子供でも異なった感性を持ちます。環境だけではなく、科学的に説明しがたい「脳の働き」の一つだと思います。同じ演奏を聴いて感じるものが違う。同じ料理を食べて美味しいと感じる人と美味しくないと感じる人がいる。これが感性の違いです。
感性は技術のように習う事ができません。育てる方法も実際にはありません。「感受性を高める教育」なんて現実には存在しません。教える側の感性を子供に押し付けるのが「教育」だと思い違いしている人がいます。

音楽を演奏する人にとって知識と技術を修得することが必須であることは誰にでも理解できます。しかし「感受性・感性」が豊かであることの重要性はわかっていても「教えられない」からなのか、軽視される傾向があります。
当然のことですが技術の優劣は機械的に判断できます。正しいピッチ、正しいリズムで演奏できる・できないをAIが判断することも可能です。「カラオケ点数」はAIができる前からありましたね。より速いテンポで正確に演奏できれば「優秀」だと言えます。
感性…音楽では一般的に「音楽性」とか「表現力」と言われますが、これの序列は不可能です。正解がないからです。間違いもないのです。人が変われば表現したい音楽が変わるのです。指導者の感性を生徒・弟子に感じてもらうのは必要なことです。極端に言えば「先生の真似をする」過程もあって当然です。生徒が先生の演奏=音楽性に違和感を感じられるのは成長です。

最後に「能力」つまり音楽の表現力を高めたいと願うのであれば、何を大切にすべきなのか?と言う問題について考えます。
これまで学校、プライベートでレッスン、メリーオーケストラの指導を通じて感じてきた表現の能力の「違い」をまとめます。
☆技術と知性(学習能力)・感受性はすべて比例する
☆表現意欲が高い人は技術・知性が後からでも修得できる
☆いずれかの要素に否定的な人は表現能力が低い
☆他人が教えられない感受性は幼少期から抜きんでている
☆言語化能力が低い=語彙が少ない人は感受性も低い
☆他人に過剰反応する人は技術の習得は早いが感受性は伸びない。

☆技術の優劣に固執する人は感性が乏しい
上記はもちろん私の個人的な印象です。違っていても当然です。
教わる人も教える人も、お互いを信頼できる関係だあることが何よりも大切だと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介