メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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視覚障碍が与えてくれたこと

映像は今年2026年1月のリサイタルで演奏した「グラン・タンゴ」に過去のリサイタルで私たちが演奏した176曲のタイトルと作曲者を入れた動画です。
18年間続けているリサイタルの第1回では楽譜を見ながら演奏することが可能でした。
「網膜色素変性症」と言う進行性の目の病気は生まれつきの病で、現在も治療法が確立されていない難病として認められているもので国内だけでも5万人以上の患者がいます。
 夜盲症の症状と視野狭窄(視野が欠けていく)症状で進行が進むと失明に至ります。
進行の速度や症状には大きな個人差があります。私の場合、4歳頃に診断を受けて以来50年近くの長い間大きな進行は見られず、楽譜を見ながら演奏することも可能でした。
 50歳を過ぎた頃から進行速度が早まり現在は右目の視力は殆どありません。
それでも左目で大きな楽譜を少しずつなら読み取るだけの視力が残っています。
生まれつき、あるいは幼い頃に失明している演奏者は世界中にたくさんいます。
ポピュラー音楽の世界でもスティビーワンダーやレイーチャールズなども全盲です。
クラシック音楽ではヴァイオリニストやピアニストの日本人演奏家も活躍されています。
 私の現在の状態は「半盲」と呼ばれる状態です。いつまで?この状態Gあ維持できるか誰にもわかりませんし、IPSS細胞による治療がいつから認められるのか?も不明です。
不安やストレスがないと言えば嘘になります。今まで出来ていた事が徐々に出来なくなるのは誰でも不安に感じるものでしょう。生まれつきの病気でなくても事故や病気、ケガなどで身体の自由が一部失われることは誰にも起こり得ることです。加齢によって不自由に感じることが増える人も少なくありません。そうした変化をネガティブに考えることは自然な感情ですが、出来ることが少なうなって初めて「出来る」ことに感謝する気持ちGあ生まれることも事実です。リサイタルはこれからも続けていきます。新しい曲を演奏する場合に楽譜を元にして演奏するクラシック音楽の場合に、通常より時間がかかっても演奏することは出来るはずです。
全盲の演奏者が点字楽譜を用いて楽譜を覚える場合や、音と介助者の力を借りて音楽を覚える場合でも最終的に「演奏できる」能力が残っていれば悲嘆することなく演奏したいと思っています。

 視力と視野が普通の人より低く・狭くなった私が感じる演奏と「視覚」の関係について書いてみます。先述の通り以前は初見で楽譜を見ながら演奏することが出来ましたし、音楽高校・音楽大学で楽譜を音にするスキルも身に付けました。アマチュア演奏家が楽譜を音にすることが難しいと感じるのは才能ではなくトレーニングの有無が原因です。楽譜に書かれた記号を楽器や声ですぐに音楽にする技術はトレーニングによって身に付けられます。
 しかしそれだけで「音楽」が仕上がることはあり得ません。どんなに初見の技術Gあ高くなっても「音の羅列」を「音楽=意味・感情を感じるもの」に仕上げるための思考=頭脳を使った練習の時間が必要です。思った通りに演奏できるまでの時間が長い人と短い人はいます。それは「演奏技術の高さ」です。難しい=弾きにくいパッセージを短時間の練習、もしくは練習しなくてもすぐに思った通りの正確さと速さで美しく演奏できる技術もトレーニングで上達します。この演奏技術が高ければ「思ったように演奏できるまでの時間」が短くできるのでより多くの曲を演奏することが可能になります。
 思ったように…言葉では短いのですが「思う」ことが変化=深化します。もっと言えば変化してこそ!音楽が深まる者だと確信しています。

 私たちが生活する中で経験・体験を重ねて多くの「記憶」が脳に蓄積されます。
たとえ無意識であっても良い記憶も恐怖や不安の記憶も脳には残るものです。
楽譜が同じでも感じるもの=想像するものが変化するのが人間です。10際の子供と60歳の大人が同じ絵を見て想像する量も質も違うのは生きた時間=記憶の量による違いです。
年を取ると覚えることが難しくなる…多くの人が口にしますが私は疑問を感じます。
子供は新しいことに出会う=新しく覚えることが多いから覚える量が多いのです。
60歳になっても「初めて」の体験や感覚を感じることはあります。ただ「初めて」と思っていないだけで🅂実は新しい記憶が脳に残されている意味では子供と同じです。
 さらに子供は道筋通りに何かを覚えようとしません。新しい興味があればそれがパオ婚でもスマホでも触って確かめて自分の見たい映像をやゲームを見つけます。ところが大人はまず「壊してはいけない」「間違った操作をしてはいけない」とブレーキをかけながらマニュアルを読んでみたり恐る恐る進みます。当然、たどり着くまでに子供より時間がかかります。
単純に「記憶」することだけを、子供と大人で比べれば恐らく大人の能力農法が勝っている結果になるはずです。ましてや子供にとって興味のないことは覚えようという医師が働きません。「認知症」が高齢になってから発症することが多いのは事実ですが、若くてもアルツハイマーなどの病気の人は記憶が消えてしまいます。「忘れる」のは人間の防御反応の一つだと言う説もあります。また脳の萎縮や組織の一部が病気や事故で傷ついた場合に「記憶障害」が怒ることと通常の記憶力を混同するのは違う気がします。

 私自身の経験ですが視力が低下し視野が狭くなったことで今まで違った演奏が始まった気がしています。簡単に言えば「見ることに頼らない」演奏です。見えないので当たり前ですが(笑)
 見える事が当たり前の人間は当然ですが見た方が簡単なら見ようとします。
楽譜を見ながら弾いた方が暗譜するより楽です。覚える「意義・必要性」を感じないからです。では見ながら演奏することでマイナスになることはないでしょか?
 これを考えるにはまず「見ながら演奏することのメリット=プラス要素」を考えることです。なにかありますか?初見は楽譜が必要です。当然です。その段階から練習る=考える時間があります。考えたことを楽譜に文字や記号で書き込めば後ですぐに思い出せます。
楽譜を見ることが演奏の「プラス」になることはないと考えます。強いて言えば「覚えなくても良いのでたくさん曲を同時に練習できる」ことでしょうか。もう一つは「覚えるまで楽譜を見ることができる」ことです。見えなくなって感じることです。
 昔、試験で弾く曲を暗譜するのが当然でしたから意識せずにある段階から楽譜を水に練習して言ことを覚えています。「いつの間にか覚える」という事です。
楽譜を水に演奏する時に次の音を思い出せなくなる事や「不安」があると、どうしても楽譜を見ながら弾きたくなります。暗譜で演奏することに不安がなくなる状態にする「練習」で何が変わるでしょうか?これが「プラス」の部分です。
 以前にも書いたことがありますが舞台や映画、テレビの役者さんが台本を水に演技するのは見ている人がいつの間にか演技を「本物」に感じさせるために必要だからだと思います。
役者さんが台本を手にして目を落としながら台詞を言えば見ている人は「読んでいる」事で芝居=嘘の世界だと感じてしまいます。ストーリーに入り込めません。当然、感情移入も難しくなります。しかし「朗読」の場合は読み手の「声」だけで聴く人の想像力を掻き立てるものなので「視覚=見た目」は大きな問題になりません。
 音楽も「音」の世界ですから弾く姿や楽譜の有無で評価が変わる事はありません。
レコート、CD、ラジオで演奏者がどんな服装で楽譜を持ていても分かりませんよね。
楽譜を見ずに演奏することは演奏者が音楽「だけ」に集中する上で有意義な事だと思います。
演奏しながら次の音を楽譜から読み取る「視覚からの脳の働き」を無くし、次の音に必要な身体の動かし方と音のイメージを作ることに集中することができます。
 人間は何かに集中すれば他の運動や感覚は「無意識」になります。次に出す音をどうやって?どんな音に?と言うことに集中しているとすれば楽譜は無意識に眺めているだけです。
逆に楽譜からの情報を得ることに集中すれば、音のイメージや身体の動かし方は無意識になります。これは「脳の働き」なのでマルチタスクが得意か苦手か?と言う問題ではありません。
 楽譜は作曲者の考え出した音楽の設計図です。それを実際の「音楽」にするのが演奏家です。楽譜に書かれた曲を自分の技術で音楽にする「練習」の段階で楽譜から離れ、自分の身体と「意思」で音楽を演奏する考えで言えば音楽を覚える事は「自分の言葉で感情を伝える」ことに似ています。他人の書いた言葉=台詞・台本を自分で租借し自分の感情を人に伝える気持ちを持って演奏したいと思います。
 これからも「音の世界」を楽しみたい。出来ることが減っても楽しめると信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

「~ような気がする」落とし穴

 今回のテーマは人間の思い込みと現実に目を向けたものです。
音楽を演奏する時、練習する時にも演奏会で演奏する時でさえ常に自分の演奏に心の底から「満足」出来ることはほとんどありません(私の場合です)
 自分の「実際の顔」を自分の目で見ることは不可能です。鏡やガラスに映った顔は実物ではありませんし、カメラやビデオで撮影した自分の顔も実物ではありません。
 体調の変化を感じる時にも「少し熱があるような気がする」実際に体温計で張ってみると実際に微熱だったり実は平熱だったりと結果は様々です。
 微妙な違いに気が付く感覚も次第に慣れていくと感じなくなることがあります。
「小さなこと」にこだわる性格の人と「たいしたことじゃない」と思える人がいます。
バランス=程度の問題で偏った人の場合「神経質」か「粗雑」と言う分類になります。
 そもそも思い込む=気がすると言う状態は推測あるいは想像している状態で実際に検証した客観的な事実を知らない時、知った後でも納得出来ない時に感じるものです。

 ヴァイオリンの「音」「楽器の価値」について科学的な調査や実験が世界中で行われています。時代と共に調査方法が進化しています。昔は人間の目と耳で感じたり考えたりした事だけでした。どんな経験豊かな専門家や演奏家、楽器製作者でも感覚=主観的な結果でしかありません。現代の科学でヴァイオリン=楽器を調査する方法としてCTスキャンやMRIで楽器の内部=人間の視覚や触覚では感知できないを画像化したり、使用されている木材の組織を分子のレベルまで調べることが可能になりました。近い将来にはさらに細かい事まで分析できるでしょう。「それは科学」と否定する人もいますが私たちの身の回りでも珍しい事ではありません。昔は「血液型」さえ精度が低く曖昧なものでした。事件現場に残された血痕から血液型を調べ、それが犯人逮捕の証拠になっていました。現代はDNA情報で精度が以前の何万、何億倍と言う精度になり誤認逮捕が激減しました。
 楽器の木材としての寿命=楽器としての寿命もコレクターや演奏家の思いとは無関係に
化学分析と統計によって明らかにされています。作られた直後から木材の細胞、組織が常に変化します。表には現れていなくても「分子レベル」で解析すれば劣化は常に進んでいます。どんなに大切に管理しても木材は変化しやがて寿命を迎えます。
 もちろん「用途」によって寿命を過ぎても問題のないケースもあります。
「見た目」を楽しむ美術品であればどんなに劣化した木材でも表面的な大きな変化はありません。ただ「楽器」として木材自体が振動して音を出す場合、組織の劣化は致命的です。「それでも良い楽器だ!」確かに歴史的な価値は上がるものですが現実に出る「音」は木材の変化と共に変わるのです。演奏者が対応すれば?それも可能です。より低いテンション=張力の弦を張り、弱い圧力で弓を乗せれば「独特」の音が出せます。ただそれは「独特」な音でありその楽器の以前の音とは明らかに違う音です。
 古い楽器の良さに固執する人は「新作」の楽器に否定的です。しかしそれは「良いような気がする」と言う思い込みだと言えます。古い楽器も新しい楽器も経年変化します。変化しないヴァイオリンは存在しません。仮に材料である木材を伐採してから「100年後」の楽器だけを集めて演奏した「平均」的な音色と、その楽器をさらに100年経ってから同じ条件で比較した結果を知っている人がいるならば「平均的な楽器の最盛期」が分かるかも知れません。が現在そのような統計データはありません。手を触れずに美術館に飾っておいただけのヴァイオリンでも劣化します。演奏に使用すれば変化は早まります。当然劣化も早くなります。

 楽器の音、自分の演奏を観察して感じる「印象」は一定のものではありません。
どんなに経験のある人でも同じことです。聴覚は日々刻々と変わります。体調によっても変わります。視力検査の結果も同じです。その時々で結果が変わって当たり前です。
 自分の感覚を過信しない・でも何よりも大事にする。
矛盾する事ですがこれも「バランス」の問題です。音色や音量に「感じる」感覚は大切ですが一喜一憂したり偏った「理想」は精神的な健康を害するリスクもあります。
また人間関係を壊すことにもなりかねません。主観で人を批判する場合「表現の自由」と認められるケースと「名誉棄損」に該当したり、相手=批評された人を傷つけることもあります。感じたことをそのまま相手に伝えることを「正直」とは言いません。「無神経」と言うべきです。
 自分の感性・感覚を大切にしながら、自分以外の人の言葉を聴くことは簡単そうでとても難しいことです。すべては「主観=個人の感覚」です。科学的な分析結果ではありません。自分の演奏について少しでも客観的な事を知りたいなら「鏡を見る」よりも「録音を聴く」ことをお勧めします。鏡と同じで「実物」ではありません。マイクの性能、ヘッドホンの特性で音が変わるからです。それでもただ楽器の音をいつものように聞くより冷静に分析できる利点があります。

 理想は理想。現実は別物です。自分の理想は自分だけの感性です。
それを評価するのも自分の感性です。他人の評価は他人の理想に基づくものです。
その意味で音楽はすべて「自己満足」の表れだと言えます。もちろん満足していなくても理想=目標を他人に示す必要などありません。聴く人の感性で「よかった」と思ってもらえればラッキー!なのです。同じ演奏を聞いた人でも「全然よくない」と思う人がいるのも「あたりまえ!」なのです。自分の理想も常に変化して当然です。練習だけに人生の大切な時間を使うのも自由です。私は「生活しながら感じた感覚」を大切にしたいと思っています。練習は理想に近づくための時間ですが、理想を見つけるための時間がなければもったいないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「天才」を破壊する大人のエゴイズム

映像は「渡辺茂夫」と言うヴァイオリニストの特集番組です。
5歳でヴァイオリンを父から習い、毎日8時間の練習を重ね7歳でプロのヴァイオリニストとして演奏活動を開始。国内のオーケストラと共演し来日したハイフェッツに演奏を聴いてもらいアメリカのジュリアード音楽院でガラミアンのレッスンを受けることを勧められ14歳で一人留学。指示したガラミアンから弓の持ち方を変えることを求められ指導に従い…。これらはすべて客観的な事実ですが「彼」の心の中を正しく知る事は誰にもできません。ヴァイオリンから離れ一人暮らしを始め、住んでいたアパートで睡眠薬を大量に服用した事も事実です。
「もし」と言う言葉は本人にとっても、ましてや周囲の人間が後になってから考えても無意味なことです。ただすでに14歳と言う年齢でヴァイオリニストとして必要な技術を身に付けていた「彼」に留学は必要な事だったのか?ハイフェッツに悪意があったわけではなく、恐らく本人も「さらに上達すること」を望んでいたかも知れません。ガラミアンにしても「善かれ」と考えて弓の持ち方を変えることを求めたのだと思います。
 ここからは私の想像です。
音楽に限らず何かを学び高い評価を受けた人はさらに上を目指す気持ちが増幅されるのだと思います。ある意味で人間の限界を超えてしまう次元が「頂点」なのかも知れません。当然ですが人間には超えられない壁が必ずあります。肉体的な限界と精神的な限界です。通常の=平均的な人間の努力や我慢の限界と、それを多少なりとも超える努力と我慢の出来る人の中で「天才」と呼ばれる人が誕生します。多くの人にとって憧れであり「雲の上の人」に感じるその本人にしか感じられないであろう「本当の限界」を超えようとしたときに肉体か精神が破壊されるのではないでしょうか。普通の人間にとって「すごい」ことが普通のように感じるのかも知れません。
 肉体にも精神にも個人差があります。同じ時間同じことをして「辛い」と感じる人もいれば「平気=辛くない」と感じる人がいるのが当たり前です。どちらが正しいとか優れているかの問題ではなく個人差です。一方で一人の人間=例えば自分自身の感覚や肉体が変化することも事実です。練習すること、学ぶこと、経験することで出来ることが増えたり理解できることが増えたりする変化もあれば、加齢が原因で出来なくなる・理解できなくなることが増えることも変化の一つです。

 自分自身を制御することは一番簡単そうで一番難しい事だと思います。だからこそ信頼できる他人からのアドヴァイスと助けが重要だと考えています。
 レッスン=師匠と弟子と言う特殊な人間関係の中では何よりも大切なのは教える側=師匠の「謙虚さ」だと考えています。先述の通り人によって感じ方が違います。同じ言葉、同じ態度でも人によって受け止め方が違います。特に従順=素直な生徒に対して配慮することが出来なければ指導する資格がないと思います。簡単に言えば「教えやすい弟子」へのレッスンが一番危険だと言えます。弟子は師匠に逆らわないことが「善」とされます。
信頼関係と「服従」を混同するのは命に係わる違いです。信頼は双方が相手を認め合い、お互いが謙虚な気持ちの時に初めて成立します。極論すれば「体罰」を容認する人間の勘違い=相手が自分を信頼していると思い込む事で生徒を傷つけても「愛のむち」だとか「言葉で理解でないから仕方ない」と自分を正当化します。これこそが「エゴイズム」です。自分が正しい=生徒が間違っているという考え方は利己主義でしかありません。
 教える側に立つことは色々な場面であることです。それを「上に立つ」と言う表現にすることが危険な一歩です。人を「崇める」のは個人の自由です。しかしそれを他人にも供することは「人を蔑む(さげすむ)」行為になります。価値観や感覚を他人と共有しようとする努力は大切ですが「強要」するのはエゴです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

音楽の楽しみ方あれこれ

映像はCateen=角野隼人さんの演奏動画。一つ目はショパンのピアノコンチェルト、もう一つはギタリストMarcinとのコラボ演奏。まったく違う「楽しみ方」ができます。
今回のテーマは音楽を聴いたり演奏したりする楽しみ方を考えるものです。
 結論から言えば楽しみ方は人それぞれで制約も定義もない!
では何故ブログのテーマにしたの?(笑)
音楽に限らず人の好き嫌いがあって好きなものは「痘痕も靨=あばたもえくぼ」と言う言葉があり、嫌いなものは「食わず嫌い」と言う表現があります。つまり自分が好きではない音楽を敢えて楽しもうとは考えず、否定的・ネガティブなイメージを持ちがちだからです。
クラシック音楽が好きな人の中に「ロックはうるさい」と思い込む人がいます。ロックやポップスの好きな人は「クラシックは難しくてよくわからない」と言う人もいます。確かに間違っていない一面もありますが(笑)
 好きになる・嫌いになるきっかけも人によって違います。食べ物でも同じです。趣味として楽しむすべての事柄にも共通しています。生まれつきスポーツが好きな人はいませんよね?
 音楽をジャンル分けすることに否定的な私ですが整理するために今回は「クラシック」と「ポピュラー」と言う分類で書いていきます。

まず「聴く楽しみ」について。前提として楽器の演奏技術や楽譜を音にする技術がない「一般の人」を対象にして考えます。言ってみれば日本の義務教育で「音楽の授業」を受けたレベルの知識と技術ですね。
 クラシックもポピュラーも作曲者と演奏者がいます。聴いただけではどちらも分からなくて当然です。音楽の一部を聴いただけで作曲者や演奏者を言い当てられるのは、その音楽・演奏が好きな人ですね。あるいは勉強して知識や経験のある「例外的」な人だけです。
 作曲者・演奏者が分からなくても音楽を聴いて楽しめます。当然です。料理の名前や素材、料理方法を知らなくても美味しいと感じる食べ物はいくらでもあるのと同じです。
 この時点で「好き」か「嫌い」かが決まる場合もありますが、多くの場合は「どちらもでない」はずです。コンサートに行ったりCDを買って聴いたりするのは「好きな人」が殆どです。曲名や演奏者がわかってからの事ですから。
 私たち生活の中で無意識に音楽を耳にすることがあります。正確に言えば音楽を聴こうと思っていない時に「聞こえてくる音楽」です。電車の駅構内で聞こえる発車の音楽。ニュース番組のテーマ音楽や「ジングル」と呼ばれる短い音楽。映画やドラマの中で使われる音楽。ここ20年ほどの間にテレビが衰退しCDが激減して「誰でも知っている音楽」がほとんどなくなりました。それでも無意識に聴いている音楽はたくさんあります。その中で好きになる音楽と出会うこともあります。興味がわいて演奏者や曲名を誰かに聞いて「へー!」っと思う事もあるかも知れません。

クラシック音楽を聴いて楽しむ人でも作曲者を知らない場合や演奏者にはこだわらない人もたくさんいます。むしろ「音楽」として「演奏」として聴くことが好きな人の方が多いと思います。例えば「第九」と聞いて「ベートーヴェン」と答えられる人は多くても有名な「歓びの歌=合唱」が始まるのが何楽章か?とか誰の演奏が好き!と言う人は非常に少ないのが事実です。中には演奏者や作曲者・作品までこだわって「好き」な人もいます。ここまでくるとクラシックファンですね。さらに同じ作品=曲の聴き比べをしたり特定の演奏者のCDを集めたりコンサートに「追っかけ」するようになるとクラシックマニア(オタク)と呼べるかも(笑)
 ポピュラーを聴いて楽しむ人でも楽しみ方とこだわりは様々です。
演奏者=アーティストが好きな人が圧倒的に多いのも特徴的な事です。
同じ曲を違う歌手やバンドが演奏している場合に「これが好き」と聴き分けられるのは「声と音」で聴き分けているからです。つまりポピュラー音楽ファンの多くは「特定の演奏者」へのこだわりが強い場合が多く「マニア」になると時代ごとの色々なアーティストや演奏を比較する多楽しみ方をするようになります。

 ここまで恣意的にクラシック・ポピュラーを分けて考えましたが実のところ共通して「想像力」が関わっています。音楽を聴くことと小説を読むこと、絵画を見ること、自然の風景を楽しむことはどれも「想像力」が活発に働いています。映画でも見る人の勝手な想像力が恐怖心や感動を感じるのであって仮に台詞だけを文字で読んだり映画の音声を消して映像だけ見たりすれば恐怖心も感動も激減します。これは想像させる「映像」や「音」がなくなった結果です。
 音楽を聴いて無意識に感じる悲しさや不安感、風景、演奏している人の姿、作曲者の時代などは「想像力」の結果なのです。当然ですが人によって思う事は違います。同じ演奏を聴いて感じるものが違うのも想像するものが違うからです。
アイドル=偶像も人の想像力から生まれます。ある意味でクラシックの演奏者や作曲者を「きっとこんな人」と思うのも「偶像」を思い描いていることに変わりありません。ベートーヴェンはきっと…とか、演奏している人はきっと…興味がわいて想像して浮かんだ偶像です。
 その意味でクラシックもポピュラーも聴く人の自由な想像で音楽を聴いて楽しんでいる共通点があります。好きになった演奏・音楽に関心がわいてくれば、聴き比べたり調べたりしてさらに関心が増えていきます。その「きっかけ」になるのは偶然出会った音楽を聴いて「想像する」ことです。子供の頃に小学校で給食の時間に流れていた音楽を大人になって偶然聴いた人は「給食の音楽だ!」と思わず叫びたくなるでしょう。それが給食のために作られた音楽でないことは間違いありませんが(笑)人間の想像力は記憶によって生まれます。五感のすべてが記憶に繋がります。香り・音・風景・手触り・味。それらが組み合わされて「想像の世界」が出来ています。音楽は想像=イメージの世界にあるものです。楽譜は記号でしかありませんし設計図です。作るのは演奏家ですから楽譜を書いた人とは違い、想像力で演奏します。聴く人もまた違った想像をします。
 ぜひ!音楽を聴いて「何か」を想像してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

レッスンで学べること

映像はドボルザーク作曲の歌曲「私を一人にして」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは私も含めて過去に師匠からのレッスン=指導を受けた経験のある人の当時と現在の違い、さらにその自分が生徒さんに対してレッスンで何を伝えているのか?を考えるものです。
まず何よりも幼いころから私に音楽を指導してくださったすべての恩師に感謝をお伝えしたいと思います。すでにご逝去された先生が増え寂しい気持ちになります。
今更ながら当時もっと真剣に師匠の言葉や演奏、何気ない事も含めて学んでおけば良かったと反省しています。一生涯「学ぶ」事が音楽に関わる人間の宿命でもあると考えています。レッスンで直接指導を受けなくても、音楽家以外の人からも学ぶことはたくさんありますがやはりレッスンで学んだことは特別な意味があると思います。

 昔私がまだ小学生、中学生の頃にNHK教育テレビで毎週決まった時刻に「●●のお稽古」と言うタイトルの番組が放映されていました。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ギターなど日本を代表する演奏家の先生が子供たちにスタジオでレッスンする番組でした。夕方の時間帯で子供も親も一緒にテレビから多くのことを学んでいた気がします。その楽器を習っていない人でも楽器演奏の難しさや楽譜に書かれている記号の意味や演奏方法をなるほど~と思いながら見ることのできる貴重な番組でした。
今と違いビデオも普及しておらずインターネットもYouTubeもない時代ですからテレビでレッスンを見られることは感動的なものでした。今はYouTubeで世界中の演奏家やすでに亡くなってしまった演奏家の演奏動画、音源を気軽に大量に見聞きすることができます。演奏方法を動画で説明するチュートリアル動画は星の数ほど存在します。演奏家なのか?さえ分からない人が語る演奏テクニックや音楽の解釈を見ていると、正直「なんだ?」と首をひねるものもあります。多くのチュートリアル動画は「自分の演奏について」語っています。レッスンを通して演奏技術のアドヴァイスをしている動画は極わずかです。「マスタークラス」と呼ばれる上級者への公開レッスン風景も見つけられます。その中でレッスンを受けている人が今現在、演奏しているのかは定かではありませんが貴重な体験をされている事を感じます。
教育テレビの「○○のお稽古」は全国にレッスンを公開するので受ける生徒の緊張を考えると恐ろしくなります。

私自身がヴァイオリンのレッスンを受けた中で大きく分類すると以下の3つのことに分かれます。
1.演奏技術
2.音楽の解釈や表現
3.練習する内容=課題の提示
上記の1には曲ごとの指使い・ボウイングなども含まれますがすべての曲に共通する「構え方=姿勢」「楽器と弓の持ち方」「手・指の形」「腕・指の動かし方」が最も大切な事だと今でも考えています。
2の解釈や表現の仕方を言葉や演奏で指導される先生もおられましたが何よりも「考え方の違い=演奏の個性」を学ぶきっかけになりました。
3はレッスンで生徒に不足している技術を身に付けるために、どんな練習・練習曲をどのくらいの量と時間で練習すべきなのかを毎週、あるいは不定期なレッスンで指導して頂くことができました。

 自分の演奏を目の前で見て、聴いてレッスンをされる・する事がレッスンだと思います。
「オンラインレッスン」が無意味だとは考えません。遠隔地の先生から指導を受けられるメリットは技術の賜物ですが、限界があることも事実です。音色・音量の微細までは伝わりまん。さらに身体の使い方=力の入れ方・色々な角度から見た手や腕の動きなどは実際に目の前に生徒がいて初めて分かることです。教わる側にしても師匠の演奏=音色などは感じられず自分が見たいと思う動きを確認することはオンラインレッスンでは伝わりません。
これはYouTubeのチュートリアル動画でもまったく同じことが言えます。まして自分の演奏を見聞きして問題を指摘してくれるわけではありません。あくまでも「中の人の個人的な考え」を参考にできるだけです。多くの動画を見ていますが、むしろ見る側の技術と経験が足りなければ、自分に必要な事か?やるべきことか?の判断が出来ないはずです。色々と試すことは面白いかもしれません混乱する結果にもつながります。

 レッスンで学んだことや感じたことを師匠の求めるレベルまで出来るようにするのが練習であり、その過程をレッスンで見てもらい修正されるのもレッスンの意味です。
私は幸運なことに多くの素晴らしい恩師に出会うことができました。本当に幸運でした。
自分自身の練習・努力不足が原因で師匠たちの求めている事の「10%」も理解できていなかった気もしますが、それでも私の恩師はそんな不出来で不謹慎な私を見捨てませんでした。
 レッスンを受けた中には「室内楽」つまりピアノや複数の人たちと一緒に演奏を見て頂くレッスンも受けました。実技=ヴァイオリンのレッスンは中学・高校・大学の間「久保田良作先生」お一人のレッスンを受けることができましたが、学友や知人の中には途中で違う先生に「弟子入り」した人もいました。きっと理由があっての決断だと思います。何よりも師匠と弟子の「相性」が合わなければお互いに不幸です。求めるものを受け入れられない人間関係ではレッスンが成立しないのは当然です。
 レッスンを受けている期間に感じられるものと、時間が経って初めて感じるものがあります。単に「結果」だけを見るのではなく「弟子=学んだ人間」が演奏を続ける間の経験が重なり、挫折したり乗り越えたりする中で初めて感じるのが「レッスンの有難さ」です。
 教える側が「感謝しなさい」と生徒に求めるのは愚の骨頂です。間違っています。
教えることも学ぶことだからです。レッスンをしながら生徒に教えられる=気付くこともその一つです。生徒はすべて違う人間です。真剣に向き合うほど生徒の「人間」を感じられます。
その一人一人に教える自分が順応することがレッスンの技術に繋がります。指導経験の浅い人のレッスンは自分の演奏を生徒に伝えることがレッスンだと感じています。生徒を観察する技術が足りないからです。教えても出来ないのは生徒の努力が足りないから・能力が低いからと考えるのは指導者の傲慢であり指導者としての適格性が足りないと言えます。教え方が悪い、生徒を観察する力が足りない事が原因だと自覚することが生徒の成長を助けます。
 最後に今も音楽に関わって生きていられることを両親とすべての恩師に感謝したいと思います。お読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「絶対音感」の嘘ホント

映像はヴァイオリンとピアノで演奏した「ふるさと」ですが…
ヴァイオリンで弾き始めた最初の音の「音名」がすぐに分かる方は、
もしかすると?絶対音感をお持ちの方かも知れません。
答えは「レ」のフラットです。
YouTubeに動画でも時々「絶対音感」の意味を間違って使っている動画を見かけます。
音楽で使用される「12種類の音」の高さと音の名前が常に一致している状態を
「絶対音感のある人」と言います。絶対の対義語は相対です。相対音感はトレーニングで
絶対音感に近い音感に出来ますが「根本的」に違います。
試すのであれば「ソのシャープ」を歌ってみてください。
その音がピアノの音やチューナーを使って本当に合っているか?確かめてみてください。
前提はこの実験の間に楽器を演奏したり音の高さを知っている曲を聴いた後ではないことです。この状態から音の高さを「測って歌う」「測って音名を答える」のは相対音感の人です。
ラ=Aの音だけなら歌える・聴き分けられるのも「相対音感」が発展したものです。
私自身もその一人です。小学校1年生からヴァイオリンを弾いていますが絶対音感はありません。一般には言葉を覚える幼少期=2~5歳に音の高さと音の名前を繰り返し覚えると絶対音感が身に着くと言われていますが例外もあります。
そもそも鍵盤で1オクターブの中に12種類の音があることを知らない人がほとんどです。
さらに黒鍵にはシャープとフラットだけでも(ダブルシャープ・ダブルフラットを使わない)2種類の「音名」があります。ファのシャープとソのフラットは同じ鍵盤です。
絶対音感を持つ人の場合でもこの「異名同音」をすべて理解しているとは限りませんが、少なくとも「どれか1種類」の音名を間違えずに答えられるのが絶対音感です。
もっと厳密な絶対音感を持った人の場合、A=442ヘルツで記憶している人は444ヘルツ、445ヘルツの音を聴くと「高い」ことを一瞬で聴き分けます。まさに「人間チューナー」ですね。
この厳密な絶対音感のある人から見れば、何種類かの音の名前を答える人が「絶対音感があります」なんて笑ってしまうでしょうね。
絶対音感がなくても演奏できます。音楽の学校にも入学できます。プロの演奏家にもなれます。相対音感を鍛えれば良いのです。ただそれは「絶対音感」とは言いません。
意味を知らないで絶対音感!なんて言わないことです。

インボイス制度に反対します。

  2023年10月から多くの国民が反対するなかで、強引に実施される「消費税増税」
インボイスというカタカナでごまかそうとする政府の姑息な手法に騙されている人が多くいます。
「消費税は消費者が事業者に預けている税金」だと間違っている人がたくさんいます。
消費税の条文には「消費者」の文字は一か所も書かれていないのが事実です。
国会でも「消費税は預かり金ではない」「消費税は益税でhない」ことを財務省が明言しています。
司法=裁判所の判例でも「消費税は対価の一部である」ことが示され確定しています。
 さらに「年間の総売り上げが1,000万円以下の事業者は消費税の納税を免除する」ことが、法律で定められています。ちなみに、現時点で「課税事業者」の場合には、消費税を除いた売れ上げ金額が「1,000円以下」なら2年後に「免税事業者」になりますが、現在が「免税事業者」の場合にはなぜか?「税込みの売り上げが1,000万円を超えると2年後から課税事業者になる」という意味不明な基準が合法とされています。これだけでも大きな矛盾を抱えているのは事実です。
 さらに「免税事業者」がどうして?消費税を納めなくてもよいのか?という理由を知らずに「ネコババしている」とか「不幸名だ!」と騒ぎ立てる無知な芸能人やなんちゃって法律家がテレビとネットで大声をあげています。
 日本の税金は「応能負担の原則」があります。わかりやすく言えば「金持ちはたくさん税金を長寝ることで、貧しい人の生活を支える」ことが日本の税金の考え方です。ところが、その原則を無視して「貧しい人にも高い税金を」という制度が消費税という悪税です。
 日本全体が好景気で、多くの人の給与が上がっている状態なら、当然物価も上がります。そんな時にブレーキになるのが「付加価値税」つまり日本で言う消費税です。
 不景気で人々の賃金が下がり、お金が「動かない」状態になった時には「付加価値税」を下げるのが常識です。現実に正解中の先進国では、日本で言う「消費税」を大きく下げています。
不況の中で税金を高くすれば?益々不況になるのは小学生でも理解できることです。
 インボイスは「免税事業者を課税事業者にさせる」制度です。つまり、生活することがやっと…という人たちに対して「もっと税金を払え」「命がけで税金を払え!」という増税です。
「消費者に寒けない」と政府が嘘をPRしています。大須尾です。
 実際に「電気料金値上げ」は「インボイス制度の為」だと明言し政府も認めています。
先述の通り、消費者は消費税を納税していません。支払った「対価=代金」の中から、事業者=お金を受け取った側が「納税」する税金です。
 では、物を売る側=サービスを提供する側=お金を受け取る側は?
お客様からいくら?貰えるかという金額は、売る側が決めます。高く売るほど「儲かる」のですが、お客様に買ってもらえなければ「収入ゼロ」ですよね?だから、買ってもらえる=払ってもらえる金額にするしかありません。そして手西下「代金=売上」の中から、消費税を納めろちうのが消費税です。
 切り詰めてぎりぎりの生活をしている「事業者」が日本中にいます。
その人が地に消費税を払う「お金」があると思いますか?なくても「払え!」って応能負担じゃないですよね。
 消費税がないと「税金がたりない」って大ウソを言う政治家やおばかちゃんがいます。
少なくとも40才を過ぎた人なら、昔の日本を知っているはずです。消費税なんてありませんでした。
「高度成長」つまり日本人みんなが「豊かに暮らせていた」時代がありました。
その頃「贅沢品」には高い「物品税」がかけられていました。
お金持ちほど、高い税金を納めていました。大企業が納める税金にも「当然」高い税率がありました。
だから日本は豊かになれました。
 消費税は日本には不要です。外国が~と騒ぐ人ほど「外国時Hんは非本から出ていけ」と、自分の言っている言葉の意味を理解していません。はっきり言って天然記念物です。
 インボイスに登録しなくても大丈夫です。
動画をよくご覧になってください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ブログ復旧と6月以降のデータ焼失のご報告

 タイトルの通り、サーバーの移行に伴い6月からのデータが消失してしまいました。
申し訳ありません。かろうじて2023年5月までのブログは復旧できました。
これから、すこしじつ書き足していきたいと思います。
まずは、お詫びとご報告まで。


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別する人を軽蔑します

 映像はヴァイオリン製作者陳昌鉉さんが長野県木曽町に贈呈された「木曽号」を使って一昨年秋に木曽町文化交流センターで演奏したときの「鳳仙花」です。
 陳さんは日本が「強制的に統治」していた韓国で生まれ育ち、戦後日本に渡り、独学でヴァイオリン制作者を志した私の尊敬する方です。
 「ヘイト」と言う言葉が明確に何を指し示すのか?について専門家ではないので私には書けません。しかし、私たち一人一人の人間には、必ず「母と父」と言う人間が存在しているのです。仮に会ったことがない「両親」だっとしても、生物学的に考えれば、どんな人にも何代にも遡れる「祖先」がいるのです。祖先のいない人間は誰もいないのです。地球上に「人類」が誕生したときまでさかのぼって考えると、私たち一人一人の「祖先」はその時代にまで遡らなければ、私たちは今生きていないことになります。
 間違いなく言えるのは、自分の「一番古い祖先」を知っている人は、地球上に誰もいないという事です。「日本の天皇家が!」と食いつく人がいそうですね(笑)系譜と言う意味で天皇の家系には「記録が多く残っている…ただし、その記録は「文字」でしかありません。「DNAだ!」へ~。神武天皇の「DNA」ってどこかで調べられるんですか?(笑)
 その話はここまで。要するに私たちは「人種」や「国籍」「肌の色」で人を自分と違う「人種」だと決めつけています。そんな「決まり事」ができたのは、たかだか数百年前からですよね。自分の「祖先」が今、隣にいる人と同じかもしれない…それが真実です。私たちの「差別意識」は「自分が優れている」という傲慢な思い上がりが生んだ不幸な「勘違い」でしかありません。
 音楽家の中にも、情けないことに「〇〇国民は最低だ!」とか「●●人は日本人よりバカだ!」と口にする人がいるのは事実です。よほど自分が優れた生き物だと確信している人だとしか思えません。実際にはかなり頭の弱い方だと思いますがご自分では「俺は賢い」と思っているから差別ができるんですよね。
 音楽は「国境」がまったくいらない「音の芸術」です。
楽譜と言う記号を理解できれば、言葉を交わせない人とでも一緒に音楽を演奏できます。聴くことに至っては、まさに「誰でも」一緒に楽しむことができます。
 争うことが「正義」だと勘違いしている人がいます。正義にも様々あります。
自分を守ることも正義。他人を守ることも正義。安直な考えで人を「見下げる」のは間違っています。
 人間は「考えることができる」のです。
音楽を通して、他人を思いやる思考が大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介