メリーミュージックブログ

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インボイス制度に反対します。

  2023年10月から多くの国民が反対するなかで、強引に実施される「消費税増税」
インボイスというカタカナでごまかそうとする政府の姑息な手法に騙されている人が多くいます。
「消費税は消費者が事業者に預けている税金」だと間違っている人がたくさんいます。
消費税の条文には「消費者」の文字は一か所も書かれていないのが事実です。
国会でも「消費税は預かり金ではない」「消費税は益税でhない」ことを財務省が明言しています。
司法=裁判所の判例でも「消費税は対価の一部である」ことが示され確定しています。
 さらに「年間の総売り上げが1,000万円以下の事業者は消費税の納税を免除する」ことが、法律で定められています。ちなみに、現時点で「課税事業者」の場合には、消費税を除いた売れ上げ金額が「1,000円以下」なら2年後に「免税事業者」になりますが、現在が「免税事業者」の場合にはなぜか?「税込みの売り上げが1,000万円を超えると2年後から課税事業者になる」という意味不明な基準が合法とされています。これだけでも大きな矛盾を抱えているのは事実です。
 さらに「免税事業者」がどうして?消費税を納めなくてもよいのか?という理由を知らずに「ネコババしている」とか「不幸名だ!」と騒ぎ立てる無知な芸能人やなんちゃって法律家がテレビとネットで大声をあげています。
 日本の税金は「応能負担の原則」があります。わかりやすく言えば「金持ちはたくさん税金を長寝ることで、貧しい人の生活を支える」ことが日本の税金の考え方です。ところが、その原則を無視して「貧しい人にも高い税金を」という制度が消費税という悪税です。
 日本全体が好景気で、多くの人の給与が上がっている状態なら、当然物価も上がります。そんな時にブレーキになるのが「付加価値税」つまり日本で言う消費税です。
 不景気で人々の賃金が下がり、お金が「動かない」状態になった時には「付加価値税」を下げるのが常識です。現実に正解中の先進国では、日本で言う「消費税」を大きく下げています。
不況の中で税金を高くすれば?益々不況になるのは小学生でも理解できることです。
 インボイスは「免税事業者を課税事業者にさせる」制度です。つまり、生活することがやっと…という人たちに対して「もっと税金を払え」「命がけで税金を払え!」という増税です。
「消費者に寒けない」と政府が嘘をPRしています。大須尾です。
 実際に「電気料金値上げ」は「インボイス制度の為」だと明言し政府も認めています。
先述の通り、消費者は消費税を納税していません。支払った「対価=代金」の中から、事業者=お金を受け取った側が「納税」する税金です。
 では、物を売る側=サービスを提供する側=お金を受け取る側は?
お客様からいくら?貰えるかという金額は、売る側が決めます。高く売るほど「儲かる」のですが、お客様に買ってもらえなければ「収入ゼロ」ですよね?だから、買ってもらえる=払ってもらえる金額にするしかありません。そして手西下「代金=売上」の中から、消費税を納めろちうのが消費税です。
 切り詰めてぎりぎりの生活をしている「事業者」が日本中にいます。
その人が地に消費税を払う「お金」があると思いますか?なくても「払え!」って応能負担じゃないですよね。
 消費税がないと「税金がたりない」って大ウソを言う政治家やおばかちゃんがいます。
少なくとも40才を過ぎた人なら、昔の日本を知っているはずです。消費税なんてありませんでした。
「高度成長」つまり日本人みんなが「豊かに暮らせていた」時代がありました。
その頃「贅沢品」には高い「物品税」がかけられていました。
お金持ちほど、高い税金を納めていました。大企業が納める税金にも「当然」高い税率がありました。
だから日本は豊かになれました。
 消費税は日本には不要です。外国が~と騒ぐ人ほど「外国時Hんは非本から出ていけ」と、自分の言っている言葉の意味を理解していません。はっきり言って天然記念物です。
 インボイスに登録しなくても大丈夫です。
動画をよくご覧になってください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ブログ復旧と6月以降のデータ焼失のご報告

 タイトルの通り、サーバーの移行に伴い6月からのデータが消失してしまいました。
申し訳ありません。かろうじて2023年5月までのブログは復旧できました。
これから、すこしじつ書き足していきたいと思います。
まずは、お詫びとご報告まで。


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別する人を軽蔑します

 映像はヴァイオリン製作者陳昌鉉さんが長野県木曽町に贈呈された「木曽号」を使って一昨年秋に木曽町文化交流センターで演奏したときの「鳳仙花」です。
 陳さんは日本が「強制的に統治」していた韓国で生まれ育ち、戦後日本に渡り、独学でヴァイオリン制作者を志した私の尊敬する方です。
 「ヘイト」と言う言葉が明確に何を指し示すのか?について専門家ではないので私には書けません。しかし、私たち一人一人の人間には、必ず「母と父」と言う人間が存在しているのです。仮に会ったことがない「両親」だっとしても、生物学的に考えれば、どんな人にも何代にも遡れる「祖先」がいるのです。祖先のいない人間は誰もいないのです。地球上に「人類」が誕生したときまでさかのぼって考えると、私たち一人一人の「祖先」はその時代にまで遡らなければ、私たちは今生きていないことになります。
 間違いなく言えるのは、自分の「一番古い祖先」を知っている人は、地球上に誰もいないという事です。「日本の天皇家が!」と食いつく人がいそうですね(笑)系譜と言う意味で天皇の家系には「記録が多く残っている…ただし、その記録は「文字」でしかありません。「DNAだ!」へ~。神武天皇の「DNA」ってどこかで調べられるんですか?(笑)
 その話はここまで。要するに私たちは「人種」や「国籍」「肌の色」で人を自分と違う「人種」だと決めつけています。そんな「決まり事」ができたのは、たかだか数百年前からですよね。自分の「祖先」が今、隣にいる人と同じかもしれない…それが真実です。私たちの「差別意識」は「自分が優れている」という傲慢な思い上がりが生んだ不幸な「勘違い」でしかありません。
 音楽家の中にも、情けないことに「〇〇国民は最低だ!」とか「●●人は日本人よりバカだ!」と口にする人がいるのは事実です。よほど自分が優れた生き物だと確信している人だとしか思えません。実際にはかなり頭の弱い方だと思いますがご自分では「俺は賢い」と思っているから差別ができるんですよね。
 音楽は「国境」がまったくいらない「音の芸術」です。
楽譜と言う記号を理解できれば、言葉を交わせない人とでも一緒に音楽を演奏できます。聴くことに至っては、まさに「誰でも」一緒に楽しむことができます。
 争うことが「正義」だと勘違いしている人がいます。正義にも様々あります。
自分を守ることも正義。他人を守ることも正義。安直な考えで人を「見下げる」のは間違っています。
 人間は「考えることができる」のです。
音楽を通して、他人を思いやる思考が大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロだとかアマチュアだとか、どうでもいいでしょ(笑)

 映像はポーランドの初代大統領でもあったピアニスト・作曲家の「パデレフスキー」作曲のメロディー。オリジナルはピアノ曲ですがヴァイオリンとピアノで演奏できる楽譜があります。
 さて、今回のテーマは「プロ」「アマチュア」という「区別」について。
以前にも書いたことですが、この千匹にいったいどれほどの?意味があるのでしょうか。
 「プロなら●●」「プロなのに××」「アマチュアだから★★」「アマチュアの割に△△」という枕詞。単なる先入観と固定観念で話しているとしか感じません。そもそも誰が?どんな基準でプロとアマの「基準」を作れるのでしょうか?
「職業音楽家」がプロだと言う定義を使う場合でも、演奏だけで生活できない・生活していない演奏家は「プロ」ですか?「アマチュア」ですか?
「趣味で演奏する人がアマチュア」だと言う定義の場合にも疑問があります。先述の通り「金銭目当てではなく趣味で」演奏する人はすべてアマチュア?あれれ?
最悪な線引きは「うまければプロ」「うまくなければアマチュア」これ小学生でも間違っていることがわかるレベルですよね。技術の違いだけで区別されるものでもありません。
 結論を言えば、日本語で言われる「プロ・アマチュア」の違いに明確な定義がないと言うことです。職業として「音楽家」でも決まった組織(法人)で給与を受け取れば「会社員」ですから明確な「音楽家」と言う職業さえ存在しないことにもなります。「音楽家」「演奏家」が「プロ」でも「アマチュア」でも
呼び方はど~でも良いと思うのです。
 誰がなんと言おうが、自分が音楽を演奏することが好きなら加賀滝や呼称にこだわる必要はありません。プライドのために「プロ」と言いたい人はそれで良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト…なのか?(笑) 野村謙介

高級レストランやレトルトもいいけど家庭の味が好き

 映像はアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したもの。撮影と録音「コンデジ」(笑)場所駅前教室
 さて、今回のテーマも音楽を「食事」に例えたお話。
家庭の味…おふくろの味とも呼ばれます。それぞれの人に「懐かしい味」があります。家庭でなくても昔の記憶が蘇る「味」「香り」「料理」があるものです。
 私の場合…母の作ってくれた料理が「家庭の味」でした。
・作る時によって違う色のコロッケ(笑)
・最後に焼かずに食卓に出るマカロニグラタン(笑)
・水炊きと言う名の鍋
・まったく辛くないカレー
・バナナケーキ(これはいつも美味しかった!)
・お腹を壊すと食べさせられた南瓜(かぼちゃ)←明らかに逆効果
・鶏肉ご飯と言う名の炊き込みごはん
・コロッケに小麦粉・卵を付ける「前」の具を玉子でくるんだ謎のコロッケ
・あまったマカロニグラタンをケチャップで炒めた「あれ」
思い出してもきりがないほど(笑)
 高級フランス料理店や高級すし店、高級←やたらこだわる(笑)中華料理店には縁のない生活で育ち今でも(笑)
 音楽にも「コース料理」に似たものもあれば「家庭料理」に似たものもあります。ジャンルとは無関係に「音楽を聴く楽しみ方」の問題です。
 形式を重んじるコンサートもあります。ポピュラーのライブでも初めて行くと周りに圧倒される「決まり事」があったりして(笑)
 いつ、だれが聴いても「懐かしい」と感じたり「癒される」と感じるコンサートが私の理想です。聴いたことのない音楽を知らない人が演奏していても「おいしい」と感じる演奏。
 おいしいチャーハンを作りたい!のです。
一見「ただのチャーハン」でも食べ終わって「また食べたい」と感じる「あれ」です。もちろん「非日常」を求めてコンサートに行く方もおられます。
「格式を楽しみたい」方もおられます。それを演奏する人も。
 私は「見栄えより雰囲気」を楽しんでもらいたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏で優先されることの違い

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏した「ダッタン人の踊り」
オーケストラを立ち上げてから21年間、毎年2回の定期演奏会と毎月一回の公開練習を続けて今日も活動を続けています。「継続は力なり」まさに私たちのオーケストラを表している言葉だと思っています。
 どんな演奏であっても「演奏家の魂」があります。魂のない演奏は「音」だと思っています。「魂とは?」哲学ですね(笑)頭の弱い私が表現できるとは思えませんが、少なくとも「目に見えないもの」であり「感情の一部」であることは言えると思います。

 演奏する人・人たちにとって優先するものがあるはずです。
それが「お金」であっても間違ってはいません。「楽しみ」であっても良いと思います。楽しみ方も「自分の楽しみ」だったり「聴く人の楽しみ」だったりしますよね。聴く人の意志とは無関係に、演奏する人の「意思」があることになります。いくつもの意思=狙いがあるコンサートも存在足ます。お金=入場料も必要・演奏者の喜び・聴く人の笑顔・社旗への貢献などなど。
 そんな中で「何を優先するのか?」が大切だと考えています。
優先するものがあれば「我慢する」ことも必然として生まれます。我慢に勝る価値があるから優先するわけです。

 私がメリーオーケストラを立ち上げてから今日まで優先し続けていること。
「誰からの束縛も受けずに好きな音楽だけを演奏する喜び」を得ることです。
音楽性や演奏技術よりも、音楽を演奏すること・できることの「本質」がそこにあると思っています。
 言うまでもなく「自由」を優先することは多くの「壁」を作ることになります。経済的な問題もありますが、一番大きな壁は「継続性」なのです。
 自由に演奏することを、一度だけ実行するなら誰にでもできます。
それを継続して実行することは本来「優先事項」ではないのですが、自分たちの意思で演奏活動できることが、演奏家にとって最も大切なことだと信じている私にとって「やめる」ことは「敗北」を意味します。立ち上げた人間の責任として、自分が指揮をできる間は…期間限定?(笑)続ける意地があります。

 浩子さんとのリサイタルにも同じ「魂」があります。違いがあるとすれば、演奏者の人数だけです。メリーオーケストラの演奏者は、ここ数年70~80名です。
アマチュアもいればプロもいます。プロの方には当日の交通費だけで演奏に参加していただいています。会場の費用や開催に必要な金額は会員と賛助会員の「会費」と会員の参加費で賄います。規模が大きいメリーオーケストラに比べ、夫婦二人で毎年2回の演奏活動を15年間続けて来られたのは、紛れもなく「魂」だと思っています。好きな音楽を演奏したいという気持ちだけです。

 最後になぜ?私が自由を優先する気持ちになったのか…
20年間、学校と言う組織の中で子供たちに「音楽の楽しさ」を伝える仕事をした時の経験が「自由」の大切さを教えてくれた気がします。
 学校でオーケストラ…なんて理解のある学校!外部から見れば間違いなくそう見えたはずです。事実、何度も取材を受けるたびにその言葉を耳にしました。
 現実は?日々、管理職を含めた他の教員との闘いでした。大げさな話や誇張ではなく事実です。当然、教務の仕事など「校務分掌」を当たり前にこなしたうえで、部活動オーケストラの指導をしていましたが、99パーセントの教職員は「音楽活動」を教育活動とは考えていませんでした。管理職に至っては「私立学としての広報」と言う発想さえできない無能ぶりでした。
 簡単に言えば「潰したい部活」がオーケストラで「排除したい教員」が私だったわけです。その中で20年間、最終的には150名のオーケストラを引っ張るための戦いは「自由を得るための闘い」でした。父の介護で退職しましたが、辞めた後も執拗に私への攻撃は続きました。それが「学校」という組織であり、自由と真逆にある組織だったことを学べました。

 演奏する人が何を優先しても良いと思います。
何かを得ようとすることが「煩悩」だとしても、演奏自体が人間の欲求で行うものですから否定されるものではないはずです。堂々と自分の「欲」を表に出す勇気も必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦を押さえる力加減

 映像は代々木上原ムジカーザで演奏したドボルザーク作曲「4つのロマンティックピース」よりロマンスです。この曲でも途中にオクターブの重音が連続する部分があります。重音の中でもオクターブや10度の重音の場合、高い方の音は4=小指または3=薬指で押さえることになり、さらにハイポジションの場合には、その指を指板に「押し付ける」力の加減が極めて微妙です。
 1本の弦を1本の指で押さえる場合でも、弦を指板に「押し付ける力」は感覚的なものなので他人に教えることは困難です。また、自分以外の人が都の程度の力で弦を押さえているか?は判別できません。
 言うまでもなく人によって、指先の硬さが違います。また指の強さも違います。「握力」ではなく、指1本の「握る力と速さ」と「指を話す力と速さ」です。この力と速度は計測の方法がありません。親指の力は弦を押さえる力に反発する力です。弦を強く押さえようとすれば、親指の上方向への力も強くすることになります。その状態でポジション移動をする…矛盾する力の関係です。
 強く押さえればピッチも安定し音色も明るくなります。余韻も長くなります。ただ、ポジションを移動する瞬間に「緩める」事が必要になります。この運動は本来なら少ないのが理想です。一定の「押さえる力」が1本ずつの指にあることが求められます。小指の「弱さ」がオクターブ重音の障害になっている私にとって、未だに解決できない課題です。皆さん、どうしてますか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分に合った指使いを科学する

 映像はチャイコフスキー作曲「ノクターン」
多くのヴァイオリン用の「楽譜」がある中で、楽譜に「指番号」「弦」「ダウンアップ」が記入されていますが、出版社によってそれぞれ違うことが多々あります。中には明らかな「ミスプリント」もあります。
 アマチュアヴァイオリニストにとって、指使いを自分で考えるのはとても難しいことです。初心者向けの教本には指使いが「指定」されている場合がほとんどです。むしろ自分で「選択」する箇所は開放弦「0」か隣の弦で「4」の指を押さえるかのどちらか…位ですよね。また、少し上達してきた人向けの教本には「セオリーと違う」指番号が書いてある場合が出てきます。例えば多くの場合なら「A線のド♯」は2=中指で押さえるのがセオリーですが、すぐ後に「E線のソ」を演奏するならド♯を3=薬指で押さえるのが「効率的」な指使いになります。
 ヴァイオリンの指使いは、ピアノの指使いより「ある意味で」複雑です。
ピアノの鍵盤88の中で「ひとつ」の鍵盤に対して、考えられる「指」は全部いくつ?答えは「10種類」です。右手・左手の指の「どれか」で「ひとつの音の高さ」を演奏します。
 一方ヴァイオリンの場合、押さえるために使う指は左手の「4本」加えて「開放弦=0」で出せる4種類の音。「なんだ!ヴァイオリンの方が全然少ないだろ!」と思われがちですが…
 ヴァイオリンのD・A・Eの3本の弦で出せる音は、それぞれ「その弦より低い=左側にある弦」でも演奏できる!わかりにくい!(笑)
 ここでは説明を省きますが、要するに「同じ高さの音を違う弦でも演奏できる」わけです。
 さらに「フラジオレット=ハーモニクス」と言う倍音を使った演奏技法でさらに「指使いの選択し」が増えます。

指使いは「個人の好み」が許される範囲がほとんどです。作曲者が「指定」するとしても「弦の種類」または「ハーモニクス」までで、どの指で押さえるか?またどの弦で演奏するか?は演奏するヴァイオリニストの「好み」で決まるものです。人によって指の動きは微妙に違います。単に鍛え方の問題だけではありません。指の長さ・指の太さ・てのひらの大きさ・てのひらの厚さ・腕の長さも人によって違います。
 さらに言えば「音色の好み」が違います。その「どれが正しい」と言うものではありません。まさに自分で考えた結果として指使いが決まるものです。
 特にポジションの移動や弦の移動=移弦しなければ演奏できないような部分では、どんな指使いが選択肢として考えられるのか?考えることが必要になります。ポジションを移動する場合でも、どの指で移動するのか?と言う選択肢も加わります。同じ音を連続して演奏する場合にでも、意図的に指を「替える」ことも技術の一つです。

 最後に私が自分で考えて指使いを決めた「ふるさと」の動画をご覧ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

F=自由 A=だが E=孤独

https://youtube.com/watch?v=8-dWottzeEg

 映像はFAEソナタの一部。ブラームス作曲部分です。
FAEは「ファ・ラ・ミ」のドイツ音名でもあります。
 今回のテーマは「自由と孤独」について。
音楽を学ぶ人にとって「自由」は何よりも大切なことです。
音楽家を「自由人」と称することもありますが必ずしもその限りではありません。演奏の対価として、指導の対価として金銭を受け取ることで生計を立てている音楽は社会人としてのコミュニケーション能力が必須です。
 自由だから孤独とは限りませんし、孤独だから自由とも言えません。
社会で言いる上である程度の「束縛」を受けることも事実です。
また退任との付き合いが必要になる場合にもあります。
音楽は「精神」の面と「経済的=現実的」な面の二面を持っています。
自由が嫌いな人はいなくても、孤独を好む人と嫌う人がいます。
考え方、性格の違いです。他人の価値観を否定するのは愚かな行為です。
演奏家でも孤独が好きな人もいます。それを「変人」扱いするのは間違っています。群れることが正しいと信じている人もいます。その集団になじめない人にとって、その場にいなければいけないことは「苦痛」です。社会性の問題ではなく、価値観の問題だと思います。
音楽は常に「自由」な気持ちで演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介