メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

未分類

演奏家の「肩書き」は何のため?

 今回のテーマは「肩書き」についてのお話です。
様々な職種で担当や役職などの「肩書き」と呼ばれるものがあります。
「〇〇部△△課 課長」だとか部長だとかの肩書きもあれば、政治の世界なら「〇〇知事」や「△△大臣」やらも肩書きです。
 その他に「経歴」の中に過去に得た資格や授与された「名誉」を書くことも一つの肩書きと言えます。「〇〇コンクールで入賞」とか「△△音楽大学を優秀な成績で卒業」などの曖昧な物も肩書きに見られる場合もあります。
 演奏家にとってそれらの肩書きは一体どんな意味を持つのでしょうか?
プロの演奏家として「演奏の仕事」を得るため、多くのお客様を集めるために肩書きが使われる場合が殆どです。例えばコンクールでも歴史や権威によって肩書きとしての「レベル」が変わります。ピアノで言えばショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールでの「入賞」は他のコンクールとは別格の「権威」があります。ヴァイオリンでも似たような違いがあります。コンサートを企画する音楽事務所や企画会社にとって演奏者の肩書きは第一に優先される基準になります。マスコミの取り上げるニュースとして扱われるコンクールで「優勝」「入賞」すれば事務所同士の取り合いがあるほどです。コンサートのチケットも1年先まで売り切れ!と言う人も肩書きがあってのことです。

 一昔前…今から50年前なら「ヨーロッパに留学」だけでも立派な肩書きになりました。
また国際コンクールで日本人が優勝したり入賞することも、以前は大きな話題になりましたが、今や「それで?」程度に扱われることも珍しくありません。どれも「マスコミ」が取り上げる話題としての違いであって、演奏者の力量や音楽的な個性とは別の話です。
音楽に限らず「学歴社会」と言う言葉があります。昔なら「東京大学卒業」と言えば「天才」か「神童」と呼ばれていた時代もありました。イメージとして「すごく頭のいい人」と誰もが疑わなかった時代がありました。今は?(笑)昔なら「大蔵官僚」にキャリアとして入省できるのは「まず東大卒」次に「旧帝大」でした。その官僚が本当に賢い人なのか?に疑問がで始め
世界的な「学力基準」で日本の東大のレベルが異常に低い事も今や常識になっています。
 演奏家の「技術と音楽性・個性」をコンクールの肩書きで測れるか?と言う疑問があります。以前にも書きましたがコンクールの序列結果は「審査員の好み」で決まります。世界中のどんなコンクールも基本的には審査員「次第」で順位が決まります。
 審査委員はコンクール参加者より優れた技術を持った人…のはずです(笑)から、1位に鳴った人は2位の人より「優秀」な演奏家のはずです。しかし聴く人によって評価が分かれるのも事実です。同じ演奏でも審査員が変われば順位が変わって当然です。だからと言って審査員を100人、500人並べたから正しい序列が出ると言うものでもありません。実際には非現実的なことです。

 演奏する人間にとって自分の演奏を聴いてもらう「機会」がなければ誰にも聴いてもらえません。評価さえ受けられません。それは一番つらく、悲しいことです。
 演奏家を夢見て毎日休まず何時間も練習し、高い楽器を親に買ってもらい、レッスン代を払ってもらい、高い授業料の音楽高校、音楽大学に通う学費も親に頼ったり「借金」である奨学金を受けたり…ある意味では人生の一番楽しい時期を「音楽」にすべてつぎ込んだ結果が
「誰にも聴いてもらえない」これが殆どの「音大卒業生」の実態です。こんな事を書くと「夢を壊すな」と叱られそうですが事実なので仕方ありません。
 音楽学校に入学して精一杯努力して身につけた知識、演奏技術、経験は本人にとって「かけがえのない宝物」です。それが例え肩書きにならなくても問題にはなりません。
同じようにコンクールでの結果=肩書きは本人の技術とは無関係です。何故なら「コンクールを受けた人の中での序列」なのです。コンクールを受けない演奏者の方が圧倒的に多いのです。「うまい人だけがコンクールにチャレンジする」とは限りません。現実に世界中のソリストと呼ばれる「一流演奏家」の中でコンクールの肩書きのない人はいくらでもいます。音楽大学を卒業していない人も数えきれないほど存在します。
 肩書があれば演奏家になれる…とも限りませんし、逆に肩書きが何もなくても素晴らしい演奏者として多くの人を感動させることも当たり前にあります。
 肩書きは「評価」ではなく演奏の仕事を「もらいやすくする」「とりあえず聴いてもらえる人を集められる」ための道具だと言えます。肩書き「だけ」で演奏を評価するのは根本的に間違っています。自分の耳で聴き、素直に評価するのが正しい姿です。
 演奏者の「努力の結果」として肩書きを得ることも事実です。肩書きの為に努力するのも「手段」として否定はしません。ただ、肩書きがないことにコンプレックスを持つ必要な全然ないのです。自分の演奏を聴いてもらう場を自分で作ることも、かけがえのない経験になります。大手の音楽事務所のように集客できなくても決して悲観しないことです。
「下積み経験」のない役者、芸人はすぐに飽きられることは芸能の世界では常識です。
世襲制度のある伝統芸能でも「皇族・王族」の社会でも「人として」学びのない人は、人間の「底の浅さ」がすぐに見破られます。
 肩書より大切な事が絶対にあります。誇りと謙虚な気持ちを忘れなければ努力の結果を評価してくれる人が必ず増えることを確信して頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンチェルトもソナタも弾き方って同じ?

映像は私の高校3年生当時の演奏。ハチャトゥリアン作曲ヴァイオリンコンチェルト第1楽章。
今回のテーマは演奏する「曲=楽器編成」の違いで演奏方法は違うのか?同じなのか?というお話です。
 ヴァイオリンをレッスンで習う時「音階」「練習曲」「曲」の3種類を師匠に見て頂くことが多いのでは?私は中学・高校・大学と一人の師匠についていましたので他を知らないのですが…。もちろん、指導者によっても生徒のレベルによっても内容は違って当然です。
「教本」と呼ばれるものには少しずつ音階や練習のための短い曲、さらにコンチェルトや小品がばらばらと載せてあります。最初は「1巻」から始めて段々難しい曲が増えてくる。そんな教本が多いように思います。
 そもそも「コンチェルト=協奏曲」の独奏を一体、どれだけのヴァイオリニストが生涯で一度でも演奏するチャンスがあるでしょうか?ちなみに本来コンチェルトは「オーケストラ」と独奏者が一緒に演奏する楽器編成の音楽です。
 ピアノを習っていて小学生や中学生で「コンチェルト」のソロをレッスンで習うことは、ほとんどないと思います。例外的にコンクールで優勝するような子供がプロのオーケストラと共演する話は聴きますが全体の中で「1000人に一人」より少ないケースだと思います。
 音楽高校の入試、学内での実技試験でもピアノ科の課題に「コンチェルト」がないことを昔から「なんで?」と感じていました。逆にヴァイオリンの場合には入試でも学内での試験でも必ず「コンチェルト」の一部が指定され、カデンツァも含まれることが殆どです。
 その違いの最大の原因は?「ピアノには独奏曲がたくさんある」のに対しヴァイオリンは「ほぼすべての曲がピアノかオーケストラ、他の弦楽器などと演奏する」ことだと思います。
ヴァイオリンの無伴奏曲が少ないことは以前にも書きました。
 だから?ヴァイオリンの試験曲はコンチェルトって言うのも「なんだかなぁ」と感じるのは私だけでしょうか?
 コンチェルトの独奏以外にも「小品」と呼ばれるヴァイオリン独奏曲はたくさんあります。有名な作曲家で言えばフリッツ・クライスラーの作品。「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」以外にも多くの小品(演奏時間の長さも様々)がありますが、入試や学内の試験でそれらの曲を演奏することはほとんどありませんでした。「ソナタ」のレッスンは「実技」レッスンとは別に「室内楽レッスン」を受講してレッスンを受けました。
 生徒に何を求めているのか?は学校や指導者によって違う事は当然です。ヴァイオリンコンチェルトのソロが演奏できれば、大体の小品は演奏できますし「ソナタ」にしても技術的な面だけでを考えれば「演奏可能」です。

 本題になります。コンチェルトの独奏を演奏する場合とソナタや小品、室内楽を演奏する時の演奏は「何が?どう?違う」のでしょうか。
 これはピアノでも同じことが言えますが、コンチェルトの場合には「オーケストラ」が一緒に演奏するわけですからたくさんの弦楽器奏者、多くの種類の管楽器と打楽器が独奏者と同時に音を出すことになります。ポピュラー音楽なら歌手はマイクを通してアンプで増幅=大きくした音をスピーカーを通して客席に届けるので「音量のバランス」を歌手もバックバンドや演奏者が気にする必要はありません。どんな小さな声の歌手でもエレキギターやドラムの音、時にはオーケストラの音よりも大きな音で客席に響かせることが出来ます。
 クラシック音楽で「マイク・アンプ・スピーカー」を使うのは特殊な場合に限られます。

 上の映像はベルリンフィルが野外でのコンサートで大観衆に音楽を聴いてもらっている動画です。「生の音」はいかにベルリンフィルでも屋根もない・環境版もない場所で何千人もの人に聞こえる音にはなりません。当然マイクとアンプ・スピーカーが必要になります。

 マイクやスピーカーを使わずにオーケストラを「バック」にして演奏する場合、ピアノコンチェルトなら「フルコンサートグランドピアノ」と呼ばれるピアノを使用するのが一般的です。グランドピアノの中で最も大きく、当然響きも音量も豊かです。オーケストラが全員で演奏しても客席に十分な音量バランスで聞こえる音量があります。
 ヴァイオリンは?いくら「ストラディバリウスは音が大きい」「いやグヮルネリのヴァイオリンの方が…」とは言え(笑)物理的に音圧=デシベル面でも音色の面でもピアノのようには行きません。何故ならオーケストラにはコンチェルトでも20名以上のヴァイオリン奏者が同時に演奏しています。もしかするとその中にストラディバリウスやグヮルネリを使っている人も居て不思議ではありません。しかもオーケストラメンバーも「プロ」です。ソリストが演奏するヴァイオリン独奏を「ちゃらちゃら」っと演奏できるメンバーもたくさんいるはずです。
 そのオーケストラメンバーがいくら「遠慮」して弾いてもヴァイオリンソリストの音の方が「大きい」可能性は極めて低いはずです。放送や録音でソリストの音がオーケストラより大きく聴こえるのは以前にも書いた「電気的な処理」の結果です。
 音量でも音色でもオーケストラの音より「浮き上がって前面に聴こえる」演奏方法・演奏技術が必要になります。一言で言えば「オーケストラより目立つ音」です。

 小学生がレッスンや発表会でモーツァルトやブルッフ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを「バリバリ」弾く姿は今時、珍しくありません。中にはシベリウス、ブラームス、チャイコフスキーのコンチェルトソロを演奏する「子供」もいます。
 では「ピアノとの二重奏」でコンチェルト独奏と同じ弾き方をする必要があるか?必然性があるか?と言うテーマになります。
 ピアノはヴァイオリンよりも大きな音量を出せる楽器です。発音の原理が全く違うので二人での演奏を聴いて「どちらの楽器の音か分からない」という事は心配する必要がありません。明らかに音色が違います。
 ヴァイオリンが「ピアノに負けないぞ!」とコンチェルトソロのように演奏する「意味」があるでしょうか?私はまったくないと考えています。
 もちろんピアニストがヴァイオリンの音に配慮して、音量と音色をコントロールしてくれたら!と言う前提条件があります。さらにヴァイオリニストもピアノの音の多さ、音域を考えた「音量と音色」を考えて演奏する技術が必要です。

 上の映像は今年1月に演奏したラフマニノフ作曲「ここは素晴らしい場所」ヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 私の弾き方も浩子さんのピアノも決して「大きな音量」ではありません。かと言って「物足りない」音量だとも感じません。
 会場で「音」を聴く方にとって「ちょうどいいバランス」を考えた演奏が理想だと思っています。演奏する会場の広さ・残響の長さがすべて違います。聴く場所=座席の場所でも変わります。すべての人が「ちょうどいい」とは思えないのが現実です。好みもあります。
 少なくとも若い頃…音楽高校・音楽大学時代に実技のレッスンで私が師匠に教えて頂いた=レッスンを受けた曲で「小品」は1曲だけでした。大学5年(笑)の最後に「何か弾きなさい」と仰られて「え?え?」戸惑う私に微笑みながら「なんの曲でもいいよ」と優しくおっしゃった師匠に甘え、ヴィタリのシャコンヌを弾かせて頂いた事。
 あ!もう1曲ありました!先生!ごめんなさい!(笑)
大学2年?3年?の時にカルメンファンタジーをレッスンで教えて頂きました。
全然!弾けなかったので記憶から抹消していました。

 最後に。
曲によって演奏の仕方を変える「技術」はあります。ただ自分の理想の音を出す技術は変わりません。「コア」になる音色と・音量があり、そこからのバリエーションを作ることが「技術」です。少なくとも「ヴァイオリンコンチェルト」がヴァイオリン独奏で一番「過酷な条件」になることは事実です。だからと言ってヴァイオリンコンチェルトがヴァイオリンの魅力を最大限に表現できるものとは言えないはずです。無伴奏も、ピアノとのデュオも弦楽四重奏もそれぞれに「弾き方」を考えることがヴァイオリニストに必要な技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

唯一無二の演奏

 映像はカウンターテナーのアンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」私が好きな演奏を「ひとつ」と言われたらこの演奏を選びます。
 演奏は演奏者によってすべて異なるものです。仮に同じ曲を演奏しても完全に同じ演奏をすることは他人はもちろん、本人であっても不可能なことです。演奏者がその瞬間に生きていることの証だとも言えます。録音されたもの=機械で音を鳴らしたものと違い、自然界がそうであるように「ある一瞬」は二度と存在しないのが「摂理」です。
 ショルの歌うこの演奏は私が音楽を聴いてきた中で、他のどの演奏とも違うインパクトがあります。ただ「うまい」とか「すごい」とか技術が…曲が…と言う理屈を抜きにして忘れられない音楽になっています。
 どうしたら?こんな演奏が出来るんだろう?と理屈っぽく(笑)無駄に考えてみます。

 過去のブログで「好み」と言う言葉を使ってそれぞれの演奏者が目指す音楽があり、聴く人にも好みがあることは書いています。
 自分自身がどんな演奏を理想として辿り着けない道を進んでいるのか?考えた時に、自分以外の誰かが演奏する音楽に導かれている事に気付きます。ヴァイオリンでなくてもクラシックでなくても自分の感情を激しく揺さぶる音楽。無意識のうちに自分「も」そんな演奏をしてみたい!と思っているのだと思います。
 自分の好きな演奏との出会いは偶然が重なった結果です。好きな音楽に出会おう!と探して巡り合える可能性もありますが、誰かが演奏した演奏に偶然に出会わなければ「理想」は自然に生まれないことになります。
 人との出逢いにも同じことが言えます。「運命的な出逢い」と呼ばれる出逢いもあれば、本人が気付かないだけで本当は出会っている・出会っていたという事もあり得ます。
 自分の理想を目標にして演奏する。文字にすればそれだけの事ですが実際には自分の演奏は「現実的」に課題や問題ばかりが気になって修正と試行錯誤の繰り返しです。いつの間にか理想…どころか自分が音楽を演奏しているのではなく「音を出す練習をしている」ことに気が付かないのが現実です。
 陶芸作家が自分の作った作品の中で「ダメだ」と感じた作品をその場で地面に叩きつける話はよく耳にします。自分の本意ではない作品が間違って世に出ることを何よりも「恥」と感じるからでしょう。
 音楽の場合、人前で演奏して気に入らないから「今の演奏はなかったことで。忘れてください」って言えません(笑)どんなに演奏者が不満足でも聴いてくださる人の心に残ってしまうのが音楽です。「その場限りの芸術」でもあります。
 自分の理想が聴く人にも理想の演奏だとは限りません。そもそも理想の演奏が出来るようになった!と言う演奏者が存在するのか?と言う疑問があります。私からみてショルの演奏は「神がかった演奏」に感じますが、本人がどう感じているかまったく知りません。
 では演奏は「妥協の産物」なのでしょうか?演奏者の理想には届いていない演奏を、演奏者以外が「理想」と感じる可能性もあることを考えれば「妥協」という言葉は適切ではないと思います。強いて言うなら「演奏者の本質」言い換えれば隠しようのない「人間としての資質」をさらけ出しているような気がします。
 私はアンドレアス・ショルと言う人を「何も知らない」人間です。
生まれ、生い立ち、学歴、経歴、性格などについて一切の「真実」を知りません。それで良いと思っています。評論家はまるで政治家の身体検査(笑)のように演奏家や作曲家の「履歴書」を詳細に知りたがります。演奏する上で役に立つ…と言う考え方も否定はしません。私は「人から聞いた情報」を素直に信じない天邪鬼(笑)です。ベートーヴェンが、ショパンが「どんな人だった」のかを想像するのは個人の自由です。人から聞いたり本人が残した言葉、文章が仮に本物だったとしても心の中まで知ることは不可能です。むしろ本人にとっては「やめて!」と思いたくなることかも知れません。
 例えば私が、あるいは今このブログを読んでくださっている方が誰かに「あの人は〇〇な人らしいよ」「誰かが〇〇な性格だと言っていた」と言う話を聞いて嬉しく感じますか?私は嫌です。中には血を分けた家族にさえ知られたくない「真実」があるかも知れません。
自分の演奏を聴いて「きっと野村謙介は…」と想像して頂くことは光栄なことです。しかしそれは「真実ではない」と言う事を忘れないことです。
 演奏を聴いて感動するのは、もしかしたら?演奏者を知らないからかもしれません。逆のケースもあり得ますが、先述の通りそれは想像でしかありません。つまり演奏を聴く立場の人にとっては「演奏=演奏者」なので、演奏に感動するという事は「理想の演奏者」を偶像として感じていることになります。あくまでも「聴く人にとって」の演奏者の姿です。力強い演奏を聴けば「きっとこの人は」と想像し、優しい印象の演奏をする演奏者は「きっと…」と思うのが人間です。演奏は聴く人に自分を「さらす」ことになるのです。
 演奏者のこだわり・思い・エネルギーは演奏に表れます。聴く人がそれに共感することもあれば「なにか違う」と思われることも「嫌い」と思わえることもあり得ます。それを恐れて隠そうとすれば聴く人には何も伝わらない無機質な「機械的な演奏」になります。
 自分がショルの演奏の真似をしても、誰も感動しないことは分かっています。しかし「分析」することは有意義です。
少しでも理想に近つける演奏を出来るようになりたいと練習しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?音楽で感情が揺さぶられるのか?

映像はオルガンの独奏によるモーツァルト作曲の「レクイエム」の一部分です。
私たちはなぜ?音楽を聴いた時に悲しみを感じたり喜びを感じるのでしょうか?
人によっては何も感じない人も居て当然かもしれません。聴いたことのない音楽で歌詞もない音楽なのに…。
音楽理論で「長音階・短音階」「長調・短調」「長三和音・短三和音」と言う言葉を学びます。難しい話をしません(笑)要するに「明るい・暗い」の違いだと言えます。もう少し正確に言うならば「明るく=楽しく感じる」か「暗く=悲しく感じる」かの違いです。
音楽に照度=物理的な光の多さ・ルーメンなどの単位で表される数値が表現できるはずはありません。感情の話です。人間の感じる喜怒哀楽です。
人は生まれた時から自分の意志を伝える能力を持っています。言語=言葉を話せなくても乳児が泣くのは「息をする」と言う本能と共に「感情を伝える」本能です。生きるために母親からの母乳を求めるのも本能です。母乳を飲み込む行為、空腹が満たされて満足して安心して眠るのも生きるための本能です。五感の中でも「聴覚=音に対する感覚」が母親の体内で最初に感じる感覚だとも言われています。だからと言ってすべての人間が音を感じるわけではありません。生まれつき聴力のない人もいますし、後天的に聴力を失う人もいます。
 どんな音楽も「音=空気の振動」を使って演奏されます。楽譜は音ではなく文字と同じ「記号」です。音を聴いてすべてを「音楽」には感じません。詩的な比喩で「風のそよぐ音楽」とか「小鳥の歌」などと言われることも文学の世界ではありますが実際に「音楽」と定義されるものではありません。現代音楽と呼ばれるジャンルの中には例えば掃除機の音や、ガラスを引っ掻く不快な音を使って「音楽」を作った…「と」作曲家が定義する「音」もあります。
 人によって喜怒哀楽を感じる「対象」も「強さ」も違います。感受性の違い・経験の違い・性格の違いなど色々な要因が考えられます。
 音楽を生徒に教えるレッスンで「感情を込めて!」って強く言う指導者を見ると「誰の感情だよ!」っと突っ込みたくなります(笑)指導者=先生が感じているものを生徒も感じるとは限りません。「ほら、この旋律、悲しいでしょ?」とか「ここは楽しく感じるよね?」とか。おいおい…それは感情の押し売りでしょ?(笑)同じラーメンを食べて「ね!おいしいでしょ?」って一緒に居る人に同意を求める人の「センスの悪さ」ですね。

 話を音楽を聴いた時に感じる感情に戻します。
音楽の理論を例えると「文法」に似ています。文法を知らなくても会話することが出来ます。音楽の文法に「形容詞」や「現在進行形」はありません。クラシックだけに理論があるわけではありません。ロックにもジャズにも演歌にも共通の「文法」があります。それが音楽理論です。
 難しい話はここまで(笑)
中学校1年生の音楽授業を20年担当しましたが「普通の子供たち」に音楽を聴いてもらい「明るい・暗い」と言う印象を尋ねることがあります。結論を言うと音楽によって回答が大きく変わるのです。
・静かでゆっくりした曲が暗いと思い込んでいる場合
・フォルテでテンポの速い曲は明るいと思い込んでいる場合
本来「長音階・長調・最初と最後が長三和音」の音楽が明るく、逆に「短音階・短調・最初と最後が短三和音」だと暗く感じる「ことになっている」と言うのが定説です。曲全体の音量やテンポは本来は無関係なのですが、演奏を聴いて長調・短調を判別できるのは「学習の結果」です。もちろん理論を学ばなくてもたくさんの音楽を聴くことも「学習」の一部です。

 音楽を学んだ人でも「謎」に感じるのは…
なぜ短調の音楽が悲しく感じ、長調は明るく感じるのか?と言うことです。分析する技術に感覚は不要です。理論とは違うことです。
 恐らく論文などを調べれば「推論」は見つかりますが普通に考えてみれば「謎」ですね。文章=言葉の場合、読む人の経験や記憶の中にある「悲しい体験」と結びついたり連想させる言葉が多ければ悲しく感じます。一方で歌詞のない音楽で具体的な「物」「動き」「状態」を伝えることは不可能です。
 音楽を聴いて想像・連想する「物」「人」「経験」は人によって違います。一つの「曲」に長調と短調が混在する音楽が殆どです。
同じメロディーを和声を付けて長調にしたり短調にすることも可能です。
 味覚に似ていますね。「辛みの中に酸味がある」「甘味の中に塩未が加わると甘味を強く感じる」など良く耳にします。ちなみに「辛み」は「痛み」の一種で本来は味とは言わないそうですが。
 自分の感覚と「理論」でこの曲・この旋律は明るく感じるから、他人も明るく感じるとは限らないという事です。
 音楽は最終的に「人間の感覚」に頼るものです。作曲、演奏、鑑賞。すべて自由に感じ、自由に想像するものです。どんな理論があってもそれは分析の手段・結果です。文法を間違っている文章でも奥ゆかしさや新鮮さを感じる時もあります。「ゆがみ」「ひずみ」「ゆれ」が心地よく感じる場合もあります。人間の感性自体が常に変動するものです。音楽の解釈を他人に押し付ける「偉い人」にはなりたくないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アンサンブル=合わせる技術と練習

映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。今年の1月の演奏です。
今回のテーマは誰かと一緒に演奏する=アンサンブルで必要になる技術とその練習方法・時間についての内容です。
 ピアノは1台の楽器を一人で演奏しても音楽を完成させられる「楽譜」が多く、他の人と一緒に演奏しなくても成立する楽器とも言えます。
 一方ヴァイオリンの場合にはほとんどの楽譜=作曲された曲が誰かと一緒に演奏して音楽が完成します。例外的に特殊な曲として「無伴奏ヴァイオリンソナタ」「無伴奏ヴァイオリンパルティータ」をJ.S.バッハが作曲し、他にも数名の作曲家が作品を書き残しています。
 ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスは4本(コントラバスは一部5本)の弦で単音または二つの音を同時に演奏できます。瞬間的なら3本の弦を鳴らすことも可能ではありますがあまり美しいとは言えない音です。
 フルートやトランペットなどの管楽器の殆どは単音で演奏することが基本で特殊な演奏技法で重音を演奏できますがこれも「特殊な音」になります。
 打楽器の場合、音の高さを設定できる楽器=ドレミを設定できる楽器とシンバルや大太鼓のように「ピッチ」の変更に時間がかかる・あるいは楽器を持ち替える必要がある楽器に分類できます。
 声楽は管楽器と同じで「単音」で歌う事が原則です。
上記のような楽器の特性を踏まえて「アンサンブル」を考えます。

 アンサンブルで重要な四つの要素「音の高さ」「音の長さとタイミング」「音の大きさ」「音色」もちろん一人で演奏する場合でも同じように重要ですが一人の場合には他人とのピッチの「ずれ」を気にする必要はありません。また一人なら好きなように音を長くしたり=遅くしたり、短くしたり=速くしたりしても誰も困りません。音の大きさのバランスも考える必要はなく、音色も自分の音だけを考えれば良いことになります。
 1.音の高さ=ピッチを自由に変えられない楽器の代表として「ピアノ」があります。調律師の方が合わせたピッチに他の演奏者が「合わせる」必要があります。
弦楽器や管楽器だけでアンサンブルを行う場合にはお互いのピッチにお互いが合わせる技術を「全員が持っている」ことが必要になります。誰か一人でも技術が足りなければ全員のピッチが揃う事はあり得ません。50人のオーケストラで一人だけが「微妙にピッチが悪い」状態の演奏は聴いていて「何か?おかしい」と感じますが誰が?と言う特定は非常に困難です。
 2.音の長さとタイミング。これはリズムだけではなく「音を同時に出す・止める」事は一緒に演奏するすべての人に必要な技術です。人数が増えるほど困難になるため「指揮者」が重要な役割を果たします。演奏者全員が指揮者に合わせる技術を持っていなければ無意味ですが。
 音を同時に出す・止める=切るために必要な技術「も」あります。身体の動きや楽器の動きを使う場合もあります。「息」を吸う音を使う場合もあります。「も」と書いたのは技術とも言えない「気配」をお互いに感じる場合です。正確に言えば「相手=一緒に演奏する人が音を出す・止めるタイミングをその前に予想=想像する」ことです。
「第六感」と言えるかも知れません。相手が次に「いつ」音を出すか?止めるか?を予測できるのは「相手を信頼している」ことと「相手の音楽の特徴(時には癖と言われるものも)を知っている」事が前提になります。家族や友人の中で本当に親しい関係の人同士は、言葉にしなくても相手の気持ちを察することが出来る場合があります。他の人と違う「相手への思い」がある関係です。恋愛感情とは限りません。友情や師弟関係の中でもあり得ます。

「慣れの問題=練習時間・回数の問題」も無関係ではありません。
プロの場合には演奏する音楽のジャンルや曲の長さや難易度によっても異なりますが「数回の合わせ」で仕上げることが殆どです。一つには「コスト」の問題です。人数が多くなれば日程を合わせるための困難さだけでなく、それぞれの「時給」が発生することになります。
少ない回数・時間で音楽を仕上げるための「個人技術のレベル」によって仕上がりが変わります。演奏者全員が「同じレベルの技術」を持っている事も前提条件だと思います。
アマチュアの場合には何よりも「コスト」は度外視できます。もちろんプロの演奏者や指揮者を呼び「謝金=ギャランティ」を支払う場合には限度があります。アマチュア同士の練習にかかるコストはお互いに公平に負担するのが通常です。会場費なども「割り勘」です。アマチュアの演奏者が納得‥あるいは「妥協」(笑)出来るレベルで合わせる練習は終了します。これがプロとアマチュアの一番の違いです。

 私と浩子さんの場合もアンサンブル演奏をしていると言う意味では他の演奏家の方々と変わりません。二人とも音楽高校と音楽大学で共に学び卒業後に「職業音楽家」としてそれぞれが活動していました。
偶然の巡り合わせで数十年ぶりに再会。学生時代にアンサンブル(ピアノトリオ)でレッスンを受けていましたがそれ以来のアンサンブルでした。二人でデュオリサイタルを初めて開催したのが2008年でした。2026年の今年、18回目(18年目)のコンサートを開きましたが、たくさんの曲を色々な場所・環境で演奏して来ました。
「夫婦」と言う間柄でもお互いが演奏をする夫婦は多くはありませんが、私たちの仲間にも何組かの「演奏家・音楽家夫妻」がおられます。素敵な演奏を聴かせて頂いたこともあります。
 同じ屋根の下で二人と「ぷりん=女の子にゃんこ」と暮らし、好きな時に好きなだけ練習する事が出来る恵まれた環境です。
「プロだから・アマチュアだから」と言う固定観念は持っていません。自分たちの演奏を自分たちが楽しみ、それを聴いてくださる方にも楽しんで頂ける音楽活動。それが私たちの日常です。
 これからも「アンサンブル」の楽しさを一人でも多くの方にお伝えできればと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生き方は弾き方

 映像はケーブルテレビ局「武蔵野三鷹テレビ」の取材を受けた際(2020年)の映像です。
1960年=昭和35年9月生まれの私が60歳(当時)でした。高齢者施設で演奏したときに利用者の素敵なおばあちゃまに「お二人はご夫婦ですって?まぁ!年の差婚ね!」にこやかに言われましたが(笑)敢えて突っ込みません。
 今回のテーマは音楽を「創る・演奏する」事と人間が日々「生きる・体験する・感じる」事の関りを考える内容です。お付き合いください。

作曲家が亡くなった後には「楽譜」が残されます。その作品は作曲家が残した音楽です。
一方で演奏家が没後に残せるものは「録音物」です。実際に人前で演奏する行為だけが演奏だとは言い切れません。演奏する「姿」が映像として残せる時代になってから多くの先人演奏家の演奏する映像を見られるのは科学・文明の進歩のおかげです。
指導者・教育者が後の世に残すのは「人材」です。どんなに優れた楽譜が残されていても、演奏する人を育てる人がいなければ「独学」ですべての知識や技術を身に付けるしかありません。現代ならインターネトや録音・録画の記録、書籍などから知識や情報を得られますが「人間から学ぶ」事とは次元が違うものです。
 すべての音楽家にとって「生きた証」がその人の音楽だと言えます。

 人間は全員が「人と違う生き方」をします。似たような生き方をする人がいたとしても必ずどこかが違います。自然なことです。
 生まれた環境が同じ場合=例えば双子など‥でも、育つ間に異なった環境に出会います。
音楽に出逢い、関りを持ち始める「きっかけ」も人によって全く違います。冒頭の動画の中でもその話題から始まっています。
 きっかけがはっきりしなくても、生きているどこかの時期からそれまでと違う「音楽との関り」が始まっています。
「音楽を生活の糧にする」つまり職業として音楽と関わりを持つ年齢も様々です。一般的には社会に出て独立した生計を立てる年齢で「職業音楽家」になりますが、子供の頃からプロとして活動する人も世界的に見ても珍しい事ではありません。例えば7歳でプロオーケストラと共演したり有名なホールでコンサートを開催する「子供」もいます。当然そこには大人が絡んでいますし「お金」も大人が管理することになります。
 音楽を専門的に学ぶ学校を卒業してプロの音楽を目指す人もいれば一般の4年制大学で音楽以外の学問を学んでからプロになる人も意外なほど多いのが現実です。
 音楽を学ぶだけの生活‥毎日8時間練習する人の場合、起きてから寝るまでの時間で3回の食事以外の殆どの時間を練習に使っていることになります。友達と遊んだり本を読んだり、テレビを見たり時には家族で旅行したり‥そんなごく普通の生活をしながら子供は多くの事を体験し学びます。「勉強」だけではない学びです。他人とのコミュニケーションを学び社会のルールを学び「常識」と言われる事も身に付けていく生活の中で人は成長します。
 子供の頃、特に多感な時期に経験し学んだことは年齢を重ねてから表に現れることが多く感じます。学校であっても会社や企業などの組織でも徐々に自分より若い人と共同で作業することが増えます。
そんな時に無意識に「人との接し方・言葉遣いの違い」が出てきます。他人への配慮が欠けていたり年下の人や「部下」と言われる立場の人に対して高圧的な態度を取る人は、幼い頃からどこか?間違った価値観を植え付けられた人だと思います。
「年功序列」「能力主義」色々な場面で他人とかかわりを持ちます。
音楽を他人と演奏する時に相手をパートナーとして考えられるのはお互いにとって素晴らしいことです。相手を知らず、お互いに他人行儀な関係や「無意味な上下関係」で演奏する場合も多いのが現実です。
動画内で話している通り、私自身はどんな人と演奏する時も「相手を敬う気持ち」を持つことが何よりも大切だと思っています。もちろん「教える側と習う側」の関係性の場合には少し違う意識を持ちます。
しかしアンサンブル‥オーケストラであっても二重奏であっても「対等な関係」の中でこそお互いの音楽に同期し同じ音楽を創ることが出来ると信じています。高圧的な人「カリスマ」と呼ばれる人を中心にした演奏を聴くと「支配する人される人」に感じます。
 どんなに優れた技術を持っている演奏者・音楽家でも同じ人間です。癖もあれば短所もあります。完全無欠な人間は地球上に一人もいません。お互いに欠点を持ち、個性を持っています。認め合って初めて「共感」出来るはずです。

音楽は創造的な活動です。たとえ趣味でも変わりません。
人間の想像力があって初めて成立するのが音楽だと思います。
聴く人が楽しめる音楽を創造し提供することは決して特別な事ではありません。コンビニに並ぶ商品を作る人・運ぶ人・並べる人・売る人すべてが他人の歓びのために生きています。身の回りにあるすべての物や「事」は自分以外の誰かが作ってくれたものです。誰がどこでどうやって作ったものか?誰が運んでくれたものか?それを想像する力があれば「差別的思想」「排他主義」「愛国主義」がいかに愚かな事か理解できるはずです。自分・自分たちだけで生きていくとこは不可能な現代に音楽も同様に「他人があっての音楽」なのです。
 生きること、そのものが音楽なのかもしれません。どんな音楽にも人間が関わっています。演奏者、作曲者が生きていたから生まれた音楽です。聴いてくれる人が喜んでくれるから演奏して嬉しいのです。
 これからも「命」を大切にしながら音楽と共に生きていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術のレベルを考える

今回のテーマは演奏技術について考えるものです。
映像は昨年のハイフェッツ国際コンクールで第1位になったヴァイオリニストの演奏です。
あくまても「好き嫌い」を極力排除して可能な限り「演奏技術」に絞って考えてみたいと思います。
 ヴァイオリンを初めて練習し始めたばかりの「初心者」にも演奏技術は間違いなく存在します。ヴァイオリン・弓などの「楽器の個体差=価格の違い」も問題ではありません。
ヴァイオリンで音を出す技術だとも言えます。どんな音をどんな音色でという視点になると主観的な要素が中心になります。良い音、音量が豊かなどの評価も聴く人の主観です。
1.「正しい音の高さ(ピッチ)」で演奏する精度
2.「雑音を出さない演奏」の確率
3.「楽譜に書かれた強弱・テンポなどの指示通りの演奏」のレベル
この3項目以外に「技術」と呼べるものがあるでしょうか?
音楽を聴く人の「能力・技術の違い」によってはレベルの差=違いが判断できなくて当たり前です。例えば上記「1」のピッチの正確さを聴き分ける耳の精度=感覚は人によって違います。
音の高さを厳密に計測するには本来「周波数」を計測する機械が必要です。
チューナーと呼ばれるものにも様々な物があります。スマホなどのアプリでも周波数を表示できるものがあります。ただ「反応速度」つまり細かい=短い音やピアノの音とヴァイオリンの音が同時に鳴っている時の「ヴァイオリンの音だけ」を計測できるチューナーとなると、一般に使われているものでは計測不可能です。人間の耳は「ヴァイオリン音だけ」を音色の違いから聴き分けることが出来ます。その音の「瞬間的なピッチ」を判断できる耳は演奏者にとって必要な感覚です。正確なピッチで演奏できる人であれば他人の演奏のピッチに対しても精度の高い「評価」が出来ることになります。この精度を高めることもヴァイオリン演奏に不可欠なトレーニングです。
上記「2」の雑音の有無については「どこまでを雑音と言うか?」の基準がありません。
弓の毛で弦を擦った「摩擦」で音を出している通常の演奏方法でも雑音を「ゼロ」にすることは物理的に不可能です。何故なら「摩擦の連続」で発音する以上、常に弦の振動「以外の音」が含まれているからです。ピチカートの場合は指ではじいた直後から「余韻」として音が消えるまでの時間が「音」になりますから摩擦音=雑音はありません。この摩擦音=雑音の量が多ければ「ザラザラ」した印象の音に聴こえ、「ゼロ」にはなりません。当然音量を大きくするために「強い圧力」で弦を擦る必要が生まれるため雑音も比例して大きくなります。
「左手の指が弦を押さえる音」は通常の生演奏では客席に聞こえるほど大きくありません。昔の録音方法では記録されない音量ですが、現在の録音は演奏者に近い位置に小さな音も収録出来る感度の良いマイクを立て、テープレコーダー特有の「サー」っという雑音を一切含まないデジタル録音で記録されますので「弦を押さえる音・離す音」まで記録されます。これを「雑音」と言うか?は個人の見解によって違います。
「3」について、楽譜の出版社によって指示が異なっているの場合が殆どです。特に時代が古くなるほどその「違い」は大きくなります。ある楽譜には「フォルテ」で、違う楽譜には「指示なし」と言う場合です。演奏者が使っている楽譜を確認しながら「あ。ピアノにしては大きいような」と言う主観が入ってしましますが「指示に従った変化ができるかできないか?」と言う意味のレベルです。 

ここまでお読みいただければお気づきのようにいわゆる「じょうずな演奏」の定義が聴く人の能力によって変わってくるという事です。技術の違いがすべて判断できる人は、演奏している人と同等かそれ以上の技術を持った人でなければつじつまが合わない!と言う事になります。
「楽器が弾けなくてもピッチやミスは判断できる!」と言い切る方もいますが実際に自分が出来ないこと=到達していな技術レベルの違いを本当に判断できるのか?と聴かれれば「できない」としか答えられないはずです。違う楽器、例えば私がトランペットの技術のレベルについて何か言えるか?口が裂けても「技術」についてコメントは出来ません。「ピッチ」や「雑音に聴こえた音」「印象」は表現できますが何が難しいのか?知らない人間が技術についてものをいう事は「無礼者!」(笑)だと思っています。その意味では指揮者って最悪の無礼者だと思います。すみません。

 前回のブログで書きましたが「AI」の進化・コンピューターの処理能力の高速化で人間と同じように間違える演奏も機械が考えて「演奏」できる時代です。人間の出したヴァイオリンの音を記録=録音しパソコンに波形データとして取り込みそれを鍵盤に振り分ける「サンプリングキーボード」は20年以上前から実用化されています。ヴァイオリンの音を「生で聴く」時と同じ音色・音量で再現する再生装置も技術的には既に可能です。つまりヴァイオリニストの代わりにその人が出す音とまったく同じに聞こえる音を鳴らすスピーカーです。大した技術ではありません。楽器と演奏者が演奏しながら微妙に動くことで起こる微妙な変化も、スピーカーを同じように動かすことで再現できます。
ましてや「録音物」であれば、もはや人間の演奏と見分けのつかない音を再現することは問題なく出来る時代です。「ビブラートは?」それも再現できます。音色は「好み次第」でどんな音にも作り変えられます。サラサーテだろうがウィニアウフスキーだろうが(笑)どんなテンポでも演奏にミスはありません。
 人間の演奏技術が「ミスのない演奏」こそが高い!とするならそれを聴く人が判断できることが前提になります。一部の人の中で「すごい」だけの話です。
F1やスポーツのように誰が見ても納得できる「技術レベル=数値の序列」を演奏に求めるのは大した意味を持たないと思います。好みが優先して当然だと思います。一部の「レベルの高いヴァイオリニスト」の評価で「きっとこのヴァイオリニストはじょうずなんだ」と思い込み、拝みながら聴くよりも身近な人の演奏に「じょうず!」と拍手する方が人間らしい音楽の楽しみ方だと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

50年前の自分に説教ww

 動画(音声だけです)は私が中学2年生の時に銀座ヤマハホールで
行われた師匠久保田良作先生門下生の発表会で演奏した「ハイドン ヴァイオリンコンチェルト 第1楽章」の録音です。元はもちろんカセットテープの音です。ピアノは‥すみません。情報も記憶もがありません😿覚えているのはこの発表会の数カ月前にヴァイオリンを新調して1808年制の楽器に持ち替えたという事。さらに中学1年生になってから久保田先生のレッスンを受けるまでの約2年間、先生の奥様由美子先生のレッスンをご自宅の2階で受けていたこと。
 当時は東京都小金井市に父が建てた自宅に家族4人で暮らしていました。5年生になるまで父の転勤で社宅を転々とし転校ばかりしていました。なんにしてもヴァイオリンに打ち込む子供ではなかった事は事実です。サラリーマン家庭の我が家にとって似つかわしくない高価なヴァイオリンを買ってもらっておきながら!しかも当時から桐朋学園大学の教授を務められ現在の天皇陛下=当時は浩宮殿下にヴァイオリンを指導されていた高名な先生の門下生に加えて頂いていたにも関わらず!なのです。環境にこれほど恵まれていながら当の本人は?熱心に練習するでもなく将来の夢を「ヴァイオリニスト」と考えるでもなく、いたって平凡な中学生として生活していました。

 ここまで読まれた方はきっと「優しくて子供の教育に熱心なご両親だったんだ」と感じられるはずです。事実、私の両親は今思い返しても優しく子煩悩でした。当時の平均的な生活レベルを正確には知りませんが恐らく「中の上」(笑)位の環境だったのでは?と思います。
お金持ちでもなく貧乏でもない。当時はほとんどの家庭がそんな状況だったように思います。今のような格差も少しはあった気がしますが、それはむしろ「戦後のかけら」とも言える部分だった記憶があります。

 ヴァイオリンのレッスンは週に1回。東中野から徒歩5分ほどの久保田先生のご自宅まで母親と一緒に往復していました。恐らく土曜日か日曜日の日中レッスンが殆どだった記憶があります。武蔵小金井から中央線の快速電車「赤い電車」に乗って中野か三鷹で総武線直通の中央線各駅停車「黄色い電車」に乗り換えて通っていました。
 自宅での練習は?まさに「仕方なく」と言う感じでした。親に言われてから練習するのが当たり前。時間は多分30分。内容はレッスンに持っていくカール・フレッシュのスケール(音階)とクロイツェルやフィロリロなどのエチュード、さらに「曲」と呼んでいたコンチェルトの「一部」をチョロチョロっと弾いて「おしまい!」
 これで上達する子がいれば「むしろ天才」ですが平凡な子供の証のようにレッスンは毎回同じような事の指摘が繰り返される。
母も父も事あるごとに「嫌ならやめなさい」と叱るのですがヴァイオリンをやめたからと言って他にやりたいことがあるわけでもなく、5歳年上の兄のように勉強もスポーツも優秀!になれる希望もなく。
叱られると「やめない」だけの日々が続きました。
なんという!天邪鬼?わがまま?おバカな子供でしょう。
その日々が少しだけ?大きく?変わったのでこの発表会に出させて頂く「お許し」を先生から頂き、レッスン時に一度だけピアノ「の先生」←これが誰だったのかさえ思い出せない‥との合わせがあったのを覚えています。当然「初めてのピアノつき演奏」でした。母も私も妙に感動し(笑)珍しく夜になったレッスンの帰り道「なんか嬉しかったね」と会話したのを覚えています。それまでヴァイオリンは「レッスン」のために練習していた子供にとって「音楽」としてのソロヴァイオリンを経験したのがこの日でした。

「合奏」でヴァイオリンを弾くことの面白さは「部活」ですでに感じていました。公立中学にも関わらず音楽教諭でクラブ活動の顧問でもあった室星先生との出会いも私の人生を決定する大きなものでした。
恐らく私費を使って買い集めたと思われるヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット、メロホン=ピストン式のホルン、打楽器、後は「電子キーボード」での合奏。当時ヴァイオリンを学校外で習っている子供は学校で恐らく私だけでした。当然「スター誕生」ww
何よりもそこで出会ったクラスも学年も違う「仲間」との関係が心地よく楽しかった!初恋の相手‥はそのクラブにはいない女の子でしたが(笑)
ヴァイオリンを弾く楽しさを初めて感じながら自宅での「レッスンの為の練習」には必要性も感じていませんでした。こうなると完全に「豚に真珠」「猫に小判」「宝=ヴァイオリンの持ち腐れ」
「反抗期」とは言えども‥もしも自分の子供だったら?もし自分の生徒さんだったら?考えてみます。

子供の成長過程で「自我」「自立」つまり大人の一般的な「モラル」「マナー」特に他人と自分の関係性を考えた発言などが出来る年齢には大きな個人差があります。総じて女の子は早期に自分と他人との関係性を感じ「おとな」に近い言動が出来るようです。
 自分の子供・自分の親や家族「だから許せない」事と「だから許せる」事があります。これは年齢を重ね経験を重ねるほどに感じるものかも知れません。「許せない」ことは家族の性格から派生する言動・行動に多く感じます。親子は互いに特別な関係=他人とは違う関係性を感じながら生活します。「許せる」中に例えば服装‥家庭によって違いますが‥や約束を忘れた時などの「あまい謝罪」などもありますが、他人だとしても許せる範囲が広がるのは「寛容な心」と考えれば悪い事ではないですね。
 私の「不謹慎」なヴァイオリンへの取り組みを少しでも早期に改めさせていたら?仮定の話は無意味ですが、今現在「子供」を育てている人=大人にとって共通の問題でもあります。

「体罰」を肯定し「必要だ」と主張する人間を心の底から軽蔑します。「言っても分からない人間には体罰が必要!」程度の知能しかない人間は通常の生活をしている人の「害悪」でしかありません。相手を恫喝し怯えさせて自分に従わせるのは「馬鹿でもできる」最も簡単な「抑圧厚意」です。要は相手の恐怖心を利用するだけの「野生動物」つまり言語を持たない生物のする行動です。むしろこの言語さえ理解できない人間が他人に害を及ばす前に病院で隔離するべきです。「人権」を考えるためには言語を理解できる頭脳を持っていることが前提です。
 体罰や「脅し」「ちから」で子供を自分=大人の思ったように行動させることで大人は「良かった」と自画自賛しても子供は不幸なだけです。「服従」させられた子供に演奏の技術が身について「神童」「天才」と呼ばれ、育てた大人たちは自分の名誉のように誇らしく思うでしょう。確かに「大人のエゴのなせるわざ」です。
「子供は大人の言う通りにすれば良い子に育つ」
これこそが間違った教育「大日本帝国」時代の間違った「思想教育」です。

ヴァイオリンを練習すること、それは自らの意志で人に何かを習うことの意義を感じることです。練習の成果だけを評価するのは誰でもできることですが問題は演奏した本人が音楽に向き合う気持ちを持ち続けられるか?と言う事に尽きます。評価が低くても自分の中で音楽を大切にしながら生きることは誰かに言われて出来ることではなりません。私自身、門下生の中で自分が最も「出来の悪い弟子」と感じていながら師匠は私への指導で手を抜くこともなく、諦めることもありませんでした。当然「体罰」など必要とせずに。師匠への尊敬の気持ちと感謝の気持ちを感じ続けたことが今現在も音楽に関わって生きている事の証明だと思います。
 確かにこの演奏をしていた当時にもっと上を目指した練習をする「気持ち」があれば今と違った技術を持っていたかも知れません。
これは良く言われることですが「生きてきた中で不必要な体験はない」と言う言葉があります。挫折や不合理な出来事に直面した時には無駄にしか感じない時間があります。私自身も記憶にあります。
しかしそれも今を生きている自分にとっては通るべくして通った道だったように感じます。中2の下手くそな演奏を聴いて今の自分も下手くそ(笑)に感じるのは当然のことです。何も変わっていない部分が人間の「コア」です。音楽にもそれが現れています。歌い方、感じ方の根っこの部分は恐らく一生変わらないものです。技術の変化はあって当然です。若い頃のエネルギーは「若さゆえ」です。年齢と共に持久力や瞬発力は下がります。その意味では技術が低下します。
 自分の50年後の演奏を想像する人はいませんし考えたところで無意味かもしれませんが、その時に出来る演奏を自分で受け入れることが何よりも重要だと思っています。
 13歳の野村謙介の演奏も「その時だから出来た演奏」だと認めてあげたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を記憶して演奏する道順

 映像は学生時代からの友人作曲家「久木山 直」Kukiyama Naoshiさんが作曲し
「こんなの書いたよ。良かったら弾いて~」と楽譜を送って頂き、お言葉に甘えて練習して自宅で録音した演奏に2014年3月末に私の実家があった東京都小金井市の都立小金井公園の桜を撮影した写真をスライドショーにした映像です。
 久木山氏から楽譜を頂いたのが3月29日の夜。一緒にPCを使った「音源」も頂きました。
桜が散るまでに!とまず楽譜を覚える作業からスタート。
 昨日(4月8日)自宅で浩子さんと演奏して録音しました。
初見でも演奏可能!と言うアマチュアもいると思います。
全体にリズムの変化が少なく、音域もG線の「C=ド」からE線の「D=レ」までの音域。
臨時記号も数箇所だけ。テンポはゆったりした曲です。
「すぐに覚えられる気がする」と感じる方もおられると思いますが私には「超難関!」でした。
何より「旋律」の大きな部品=フレーズが覚えにくかったこと。日本語で例えるなら段落・文節の切れ目が合間になっていて、それぞれが少しずつ違うという特色があります。

 以前のブログでも書きましたが「楽譜を覚える」事と「楽譜を見ないで音楽を演奏する」事は全く違います。演奏しない人の場合=音楽を聴いて楽しむ人が楽譜を一度も見なくても好きな演奏を何十回、何百回と聴くうちに小さな雑音や細かい部分まで無意識に覚えることは珍しい事ではありません。楽譜は作曲者と演奏家をつなぐ「指示書・設計図」です。実際に出来上がったものを使う人にとっては設計図を見る必要などありません。

 今回の「SAKURA」をヴァイオリン・ピアノで演奏した音源はどこにもありませんでした。当然ですよね。作曲者が「こんなの書いたよ」と教えてくれた曲ですから。
楽譜を「見ながら」演奏できる視力が私にあればなぁ‥と考えました。正直に書けばストレスですが受け入れるしかありません。覚えれば良いだけです。
 多くの方が覚えた「九九」をどうやって覚えたか?覚えていますか。
同じように学校で習った「歴史の年号」「国名と首都の名前」「地図の記号」「円周率」「元素記号」「三角関数」など覚えたものの、その後の人生で一度も!思い出す場面がなかった記憶も「苦労して覚えたことは覚えている」(笑)ってありませんか?
 忘れてしまいそうで覚えている事もきっとあります。例えば自転車で片手を離して走ったり「立ちこぎ」した人は多くても大人になってほとんど!自転車に乗っていない人は多いはずです。10年以上乗っていなくてもきっとすぐに走れて片手走行も出来るでしょう。
 鉄棒の逆上がり、水泳なども同様です。何故か?身体が覚えている運動です。
楽器の演奏もとても良く似ています。一度でもヴァイオリンを練習した人は楽器と弓の「持ち方・構え方」をずっと覚えています。

 記憶のひとつ「道順・道程」があります。今ならナビゲーションと言う現代文明のツールを使うでしょうが昔は「地図」と「記憶」がすべてでした。
 目的地までの経路を複数覚えている場合もあります。学校の行きかえりの道順や歩きなれた道で「いつもと違う道」を選んで歩いた経験はありませんか?
「ランドマーク」つまり目印になる建物や看板、風景を記憶して歩くこともあります。
人に道順を教えるケースで「八百屋さんの角を右に曲がって‥」などですね。
 初めて通った道を反対方向「帰り道」に同じ道を歩いているはずなのに「あれ?この道で合ってるのかな?」と感じたことはありませんか?風景がまったく違うので当然のことです。
私たちはGPSで自分のいる場所を確認していません。周囲の風景、見たことのある建物など「記憶」を頼りにしています。

 音楽を演奏する時に楽譜を見ながら演奏するのは地図を見ながら目的地=楽譜の終わりまで進んでいるのとよく似ています。楽譜には次に演奏する音や休符、強弱の指示などが書かれています。地図で言うなら信号の名前やコンビニ、道路の曲がり具合です。
 地図を見ながら車を運転した経験をお持ちの方なら、どれほど危なっかしいことか想像が出来ると思います。膝の上に地図を乗せて信号で止まるたびに地図を見てページの切れ目ではさらに大変でした。
 楽譜を見ながら演奏するのはまさにこの状態だと思います。車の運転と違って演奏で間違えても違反になりませし(笑)誰も傷つけませんが危なっかしいことは確かです。
もし楽譜が風でふわ~っと飛んでしまったら?譜めくりに失敗したら?
楽譜の最後までを、どんな指使い、弓使いでも到達出来て途中の風景を楽しみながら進めるか?だと思います。
「SAKURA」は実は覚えにくい曲でした。今、どこを弾いているのか?迷子になりやすい曲なのです。同じような建物が立ち並ぶ団地の中で迷子になった気分です。
 まず音楽のフレーズ=段落で切ることから始めます。段落ごとに「特色」を見つけます。
最初の音や音型=音の上下などを考える作業です。次にその段落がどんな順序で連結されて全体像としてどこに?山があるのかを考えます。さらに「差分」つまり段落ごとの違いを見つけます。似ている段落の場合やまったく違う音型、独特のリズムがある段落の「並び方」を考えます。
 並行して「音色」を考えていきます。音楽のすべての場所=音符休符には違った風景があります。同じ音の高さ・長さでも異なった風景があります。それを考えて記憶していきます。
弦・指と次の音との「つなぎ方」を決めていきます。この作業は先ほどの「車の運転」では感じない・必要のない事かも知れません。敢えて例えるなら道路が混んでいて「抜け道」を考える時の思考に少し似ていますが「楽しむ」事を目的とする演奏とは意味が違います。

 時間がかかる作業です。見ながら演奏し思いついた指、弓を記入すれば次に演奏する時に見てすぐに分かります。楽譜に色々な事を書き込んで練習した記憶が私にもあります。書いたのに無視したり(笑)間違えることも「ざら」でしたが‥。
 時間をかけて「作った音楽」を何も考えずに最初から最後まで自然に通せるようになるには「身体の記憶」が必要です。逆上がりと似ています(笑)私の場合、回数だけを重ねるよりピアノと一緒に演奏して音の全体像を感じたり「録音」と言う緊張感を作って記憶を上書きする事が効率的ですが人によって違うと思います。
 楽器を持たずに「思い出す」事で記憶の薄い部分が浮かび上がります。これも大切なプロセスです。
 実際に人前で演奏する場合に、記憶した事と違う事を意図的に行ったり、無意識に違う指使いで演奏してしまったりします。本来はない方が良いのかもしれませんが人間なので記憶が薄れることも当然あり得ます。そんな時に「身体の記憶」と「脳の記憶」を組み合わせて次の音に進みます。これが「最終形」なのか?私にはわかりません。
いずれにしても楽譜を覚えることと「音楽を覚えて演奏する」ことがまったく違う事を少しでもお伝え出来たらと願っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

演奏会のマナーとルールって?

 映像はバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」を演奏したときのものです。今回のテーマは主にクラシック音楽の演奏会に行きなれていない人にも、よく聞きに行く人にも考えてもらえたら嬉しいな…と言う内容です。もちろん私個人の「私見」ですのでご理解ください。
 結論を先に述べるなら「思いやり」と「感謝・敬意」さえ忘れなければ難しい事ではない!という事です。

 演奏会の聴き方に厳格なルールや罰則は「ほとんど」ありません。一部「肖像権」「演奏著作権」に関する法律が適用される一面があり、これは「守らなければいけない」規則です。
もちろんホール=建物の中であれば管理する組織や団体が決めた「規則」もあります。客席での飲食の禁止や喫煙、危険物の持ち込みなどは条例などにしたがって責任者が来場者に伝えなければ責任者が罰せられることもあるため来場者として守るべき規則です。
 多くのクラシック演奏会で開演前にアナウンスがあります。
アラームや電子音が出ないようにと言うお願いは来場者同士、演奏する人への配慮です。撮影や録音のお断りは主催する人と演奏者の判断で「許可」されるケースも稀にありますが周囲の聴衆への配慮は当然必要です。
 ここからが「暗黙の」部分です(笑)
・演奏中に客席から移動する
・演奏中に客席ドアを開けて出入りする
・くしゃみや咳を遠慮なく=音を抑えずにする
・大きな物音をたてる

・演奏前や演奏後に拍手をする
・演奏者がステージがら袖に出た後もアンコールを求めて拍手する
・演奏中に居眠りをする
・演奏が気に入らなかったので敢えて拍手をしない
・演奏が気に入らなかったので「ブーイング」する
・演奏が素晴らしいと感じたので「ブラボー!」と叫ぶ
・演奏後に立って拍手する

さぁ、皆さんは上の中で「これはあり」「なし!」と言う項目がありますか?程度問題は前提としてありますが。
実際のところ、これらはすべて厳格な決まりはありません。当然、罰則もありません。さらに言えば時代や演奏する国や地域による文化の違いで「当たり前」だったりすることもあります。
 一つの例で言えば生理現象である「咳・くしゃみ」が我慢できない時は誰にでもあり得ます。体調が良くでも我慢できない場合だってあります。一生懸命に我慢して我慢して「無理!」と思ったら?ハンカチか洋服ででも鼻と口を覆って出来るだけ小さな音で咳をしたとします。それを「マナーが悪い!」と片づけるのは簡単ですが…人それぞれ感覚が違います。小さな物音でもうるさいと感じるも演奏者や聴衆もいます。
 現実にあった事ですが演奏中に携帯電話の呼び出し音がなってしまったり、客席で咳をした人がいて演奏を中断したコンサートがあります。人間誰でも失敗することはありますよね?

電源を切った「つもり」だったのに鳴ってしまったり咳がどうしても我慢できなかったり。
 曲が終わった途端の「ブラボー!」も演奏の「余韻」を楽しみたい人、楽しんでもらいたい演奏者にとっては「うるさい!」としか感じられません。「私はこの曲の終わりを知っているんだ。えっへん!」(笑)そんなに自己主張したければ自分で演奏するか自宅のCDで存分にやって欲しいと思うのは私だけでしょうか?
 海外のクラシックコンサートで演奏に不満だった聴衆が演奏後にブーイングし、足を踏み鳴らしたという事が何度もありました。
会場の聴衆「全員」が本当に不満だったのか?疑問です。少なくとも不満の意思表示を他の聴衆に押し付けるような行為は社会人として大人としてどうなの?とも思います。
 演奏後に拍手しないことで不満を表したり、演奏後すぐに席を立ち客席から出ていく行為。微妙ですが拍手は「良かった!」「満足した!」「演奏を聴かせてくれてありがとう!」と言う気持ちの表現だとすれば「拍手しない」ことも表現する自由があると思います。
 演奏する側から考えれば演奏後に拍手が「まばら」な状態で聞こえれば自分の演奏が気に入られなかった…と感じるものです。拍手の仕方にルールはありません。ましてや「拍手の速さ・大きさ」は人によって違って当たり前です。ひとつ言えるのは客席から演奏者への「感謝」を伝える方法は拍手しかないことです。良かったと思えば精一杯の拍手をするのは良いことだと思います。
 アンコール。これも価値観の違いがあります。ポピュラーのライブでもクラシックコンサートでも「慣例」として行われる事が多い=ない場合も当然あります…だけの事です。特に初めてライブやコンサートに行って「プログラムが全部終わった」から拍手して席を立って帰ろう「と」思ったのにみんなずーっと拍手している状態は?むしろ気の毒だと思いませんか?慣例だから…と言えばそうかも知れません。
これも「程度」問題だと思います。私が指揮をしたり演奏するコンサートではプログラム最後の曲を演奏し終わったら、礼のお辞儀ををしてすぐに客席に向かって「もう1曲だけアンコールで演奏してもよろしいですか?」とお声を掛けます。この一言で「帰りたい」方は堂々と退席できますし、聴きたいと感じた方はその場に残ることが出来ます。演奏する側の「思いやりと感謝」だと私は思っています。これが「正しい」と言うつもりはありません。
 主催する側と演奏を聴く側がお互いに共通した「理解」があれば良いことです。どちらかが高圧的だったり「上から目線」になるのは双方にとって不幸な事だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介