メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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音楽の楽しみ方あれこれ

映像はCateen=角野隼人さんの演奏動画。一つ目はショパンのピアノコンチェルト、もう一つはギタリストMarcinとのコラボ演奏。まったく違う「楽しみ方」ができます。
今回のテーマは音楽を聴いたり演奏したりする楽しみ方を考えるものです。
 結論から言えば楽しみ方は人それぞれで制約も定義もない!
では何故ブログのテーマにしたの?(笑)
音楽に限らず人の好き嫌いがあって好きなものは「痘痕も靨=あばたもえくぼ」と言う言葉があり、嫌いなものは「食わず嫌い」と言う表現があります。つまり自分が好きではない音楽を敢えて楽しもうとは考えず、否定的・ネガティブなイメージを持ちがちだからです。
クラシック音楽が好きな人の中に「ロックはうるさい」と思い込む人がいます。ロックやポップスの好きな人は「クラシックは難しくてよくわからない」と言う人もいます。確かに間違っていない一面もありますが(笑)
 好きになる・嫌いになるきっかけも人によって違います。食べ物でも同じです。趣味として楽しむすべての事柄にも共通しています。生まれつきスポーツが好きな人はいませんよね?
 音楽をジャンル分けすることに否定的な私ですが整理するために今回は「クラシック」と「ポピュラー」と言う分類で書いていきます。

まず「聴く楽しみ」について。前提として楽器の演奏技術や楽譜を音にする技術がない「一般の人」を対象にして考えます。言ってみれば日本の義務教育で「音楽の授業」を受けたレベルの知識と技術ですね。
 クラシックもポピュラーも作曲者と演奏者がいます。聴いただけではどちらも分からなくて当然です。音楽の一部を聴いただけで作曲者や演奏者を言い当てられるのは、その音楽・演奏が好きな人ですね。あるいは勉強して知識や経験のある「例外的」な人だけです。
 作曲者・演奏者が分からなくても音楽を聴いて楽しめます。当然です。料理の名前や素材、料理方法を知らなくても美味しいと感じる食べ物はいくらでもあるのと同じです。
 この時点で「好き」か「嫌い」かが決まる場合もありますが、多くの場合は「どちらもでない」はずです。コンサートに行ったりCDを買って聴いたりするのは「好きな人」が殆どです。曲名や演奏者がわかってからの事ですから。
 私たち生活の中で無意識に音楽を耳にすることがあります。正確に言えば音楽を聴こうと思っていない時に「聞こえてくる音楽」です。電車の駅構内で聞こえる発車の音楽。ニュース番組のテーマ音楽や「ジングル」と呼ばれる短い音楽。映画やドラマの中で使われる音楽。ここ20年ほどの間にテレビが衰退しCDが激減して「誰でも知っている音楽」がほとんどなくなりました。それでも無意識に聴いている音楽はたくさんあります。その中で好きになる音楽と出会うこともあります。興味がわいて演奏者や曲名を誰かに聞いて「へー!」っと思う事もあるかも知れません。

クラシック音楽を聴いて楽しむ人でも作曲者を知らない場合や演奏者にはこだわらない人もたくさんいます。むしろ「音楽」として「演奏」として聴くことが好きな人の方が多いと思います。例えば「第九」と聞いて「ベートーヴェン」と答えられる人は多くても有名な「歓びの歌=合唱」が始まるのが何楽章か?とか誰の演奏が好き!と言う人は非常に少ないのが事実です。中には演奏者や作曲者・作品までこだわって「好き」な人もいます。ここまでくるとクラシックファンですね。さらに同じ作品=曲の聴き比べをしたり特定の演奏者のCDを集めたりコンサートに「追っかけ」するようになるとクラシックマニア(オタク)と呼べるかも(笑)
 ポピュラーを聴いて楽しむ人でも楽しみ方とこだわりは様々です。
演奏者=アーティストが好きな人が圧倒的に多いのも特徴的な事です。
同じ曲を違う歌手やバンドが演奏している場合に「これが好き」と聴き分けられるのは「声と音」で聴き分けているからです。つまりポピュラー音楽ファンの多くは「特定の演奏者」へのこだわりが強い場合が多く「マニア」になると時代ごとの色々なアーティストや演奏を比較する多楽しみ方をするようになります。

 ここまで恣意的にクラシック・ポピュラーを分けて考えましたが実のところ共通して「想像力」が関わっています。音楽を聴くことと小説を読むこと、絵画を見ること、自然の風景を楽しむことはどれも「想像力」が活発に働いています。映画でも見る人の勝手な想像力が恐怖心や感動を感じるのであって仮に台詞だけを文字で読んだり映画の音声を消して映像だけ見たりすれば恐怖心も感動も激減します。これは想像させる「映像」や「音」がなくなった結果です。
 音楽を聴いて無意識に感じる悲しさや不安感、風景、演奏している人の姿、作曲者の時代などは「想像力」の結果なのです。当然ですが人によって思う事は違います。同じ演奏を聴いて感じるものが違うのも想像するものが違うからです。
アイドル=偶像も人の想像力から生まれます。ある意味でクラシックの演奏者や作曲者を「きっとこんな人」と思うのも「偶像」を思い描いていることに変わりありません。ベートーヴェンはきっと…とか、演奏している人はきっと…興味がわいて想像して浮かんだ偶像です。
 その意味でクラシックもポピュラーも聴く人の自由な想像で音楽を聴いて楽しんでいる共通点があります。好きになった演奏・音楽に関心がわいてくれば、聴き比べたり調べたりしてさらに関心が増えていきます。その「きっかけ」になるのは偶然出会った音楽を聴いて「想像する」ことです。子供の頃に小学校で給食の時間に流れていた音楽を大人になって偶然聴いた人は「給食の音楽だ!」と思わず叫びたくなるでしょう。それが給食のために作られた音楽でないことは間違いありませんが(笑)人間の想像力は記憶によって生まれます。五感のすべてが記憶に繋がります。香り・音・風景・手触り・味。それらが組み合わされて「想像の世界」が出来ています。音楽は想像=イメージの世界にあるものです。楽譜は記号でしかありませんし設計図です。作るのは演奏家ですから楽譜を書いた人とは違い、想像力で演奏します。聴く人もまた違った想像をします。
 ぜひ!音楽を聴いて「何か」を想像してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

小品は軽薄な音楽?

 映像はドボルザーク作曲の歌曲「私をひとりにして」
昨年(2026年)1月に代々木上原ムジカーザで演奏したライブ動画です。
 今回のテーマは私たち二人が演奏を続けているリサイタルの中心「小品」について考えるものです。ちなみにクラシック音楽で「小品」と呼ばれる曲は演奏する編成や人数が少ないなどとは無関係です。厳密な定義はここでは書きませんが「小品ではない曲」の一例を挙げてみると「交響曲」「ピアノソナタ」「ヴァイオリン協奏曲」などがあります。演奏時間が短いから小品かと思われがちですが演奏のテンポ=速さが遅ければ当然それなりに演奏時間は長くなります。簡潔に説明するなら「1曲で完結する音楽」あれ?ベートーヴェン交響曲第5番「運命」も第9番「合唱付き」も1曲と言えば1曲ですね(笑)交響曲や協奏曲、ソナタは通常、複数の楽章で1曲が構成されています。「第九」の合唱が出てくるのは最終楽章だけです。楽章とは言われませんが「組曲」と呼ばれる音楽もあります。それぞれの曲は小品と言っても間違いではないと思いますが作曲家が「組み合わせてひとつの作品」と言えば複数の曲で一つの完成された音楽となります。ただそのような知識を持たずに音楽を聴くのが普通ですよね?
「クラシックコンサートあるある」の一つに拍手をいつ?するのか分からない!いつ終わるのか分からない!だから途中で寝落ちした(笑)という話があります。私は「これが当たり前」だと思っています。その曲を何度も聴いている人なら楽章の切れ目、曲の終わりも知っているのは自然なことです。好きな映画を覚えてしまう程、何度も見た人は次のシーンまで分かっていますし当然映画の「結末」も知っていますよね?もし映画館や家族・友人と一緒にその映画を見ていいて自分以外の人が初めて見るケースで「あ、この人は実は…」って一番嫌われる人間ですね(笑)ところが何故か?クラシック音楽のコンサートでは「知っている人が拍手したら拍手する」って不思議だと思いませんか?

 少しクラシック音楽から離れて考えてみます。
ジャズ、ロック、J-POPなどの音楽に「楽章」と言う言葉は使われません。映画音楽やドラマの音楽の場合にはシーンによって様々な音楽が用いられます。「メインテーマ」と呼ばれる映画を代表する音楽とは別に不安や緊張感を感じる曲、涙を誘う曲が効果的に使用されます。CDに映画で使用された音楽がすべて収録されている物もたくさんあります。映画音楽の場合には音楽の演奏時間は特段の制限がありません。むしろシーンに応じて切り分けたり一部だけを使ったりテンポを遅くしてみたりします。一方で歌謡曲と呼ばれる音楽の場合は1曲の長さに慣例として「制約」があります。昔は厳密に放送局が時間を指定した時代もありました。「あかしろ歌合戦」と言う番組でも1曲の持ち時間が公平に決められ少しでも長い曲は容赦なくカットするかテンポを異常なほど速くして時間に納めていました。そんな影響もあってポピュラー音楽の1曲ごとの演奏時間は比較的短いものが主流です。言ってみれば小品…ですね。

 私たち夫婦が演奏する曲の多くが小品と呼ばれる曲です。クラシック音楽の定義も様々ですので「小品」と言うカテゴリーの演奏会があっても良いと考えています。ピアノとヴァイオリンの為のソナタは通常のコンサートでは全楽章演奏されます。長い曲だと終楽章が終わるまで30分以上演奏が続きます。聴きなれた人ならともかく普段はクラシックを意識して聴かない人が「いつ終わるの?」と感じながら演奏を楽しめるだろうか…と気になってしまいます。
全楽章の演奏を楽しみにしてコンサートに足を運ぶクラシックファンもたくさんいます。
その方にとって私たちのように1楽章だけの演奏は「つまみ食い」に感じると思います。
映画の一部分だけを切り取ったり小説の最後だけを読むことに近いことかも知れません。
作曲家が心血を注ぎ長い時間をかけて推敲して仕上げた全楽章を演奏しないのは「良くない」と言う考え方も否定しません。コンサートで初めてクラシックを聴く人、初めてヴィオラとピアノのデュオを聴く人が「こんな曲もあるのか」と感じて音楽に関心を持って頂くことが私たちの願いです。
 小品が軽薄なものだとは考えていません。音楽高校と音楽大学で多くの先生方に室内楽やオーケストラの演奏を教えて頂き「座学」でも音楽理論、西洋音楽史、管弦楽史を学びました。その傍らで全国各地の小学校や中学校での音楽鑑賞教室「オーケストラ鑑賞」の演奏者として様々な音楽を体育館、音楽室、公会堂、ホールなどで演奏していました。運命の1楽章、くるみ割り人形の中の一曲、アルルの女やカルメンの一部など子供たちが関心を持てそうな音楽を限られた時間で演奏するのが「音教」と呼ばれる演奏会です。恐らく多くの方が幼い頃に体験していると思います。その思い出は長く残ります。その時に「つまらなかった」と感じればオーケストラはつまらない、クラシックは嫌いと思ってしまうかも知れないのです。
音楽を聴くことが好きな人が忘れてしまった「はじめの一歩」を小品の演奏と言うコンサートで実現していきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レッスンで学べること

映像はドボルザーク作曲の歌曲「私を一人にして」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは私も含めて過去に師匠からのレッスン=指導を受けた経験のある人の当時と現在の違い、さらにその自分が生徒さんに対してレッスンで何を伝えているのか?を考えるものです。
まず何よりも幼いころから私に音楽を指導してくださったすべての恩師に感謝をお伝えしたいと思います。すでにご逝去された先生が増え寂しい気持ちになります。
今更ながら当時もっと真剣に師匠の言葉や演奏、何気ない事も含めて学んでおけば良かったと反省しています。一生涯「学ぶ」事が音楽に関わる人間の宿命でもあると考えています。レッスンで直接指導を受けなくても、音楽家以外の人からも学ぶことはたくさんありますがやはりレッスンで学んだことは特別な意味があると思います。

 昔私がまだ小学生、中学生の頃にNHK教育テレビで毎週決まった時刻に「●●のお稽古」と言うタイトルの番組が放映されていました。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ギターなど日本を代表する演奏家の先生が子供たちにスタジオでレッスンする番組でした。夕方の時間帯で子供も親も一緒にテレビから多くのことを学んでいた気がします。その楽器を習っていない人でも楽器演奏の難しさや楽譜に書かれている記号の意味や演奏方法をなるほど~と思いながら見ることのできる貴重な番組でした。
今と違いビデオも普及しておらずインターネットもYouTubeもない時代ですからテレビでレッスンを見られることは感動的なものでした。今はYouTubeで世界中の演奏家やすでに亡くなってしまった演奏家の演奏動画、音源を気軽に大量に見聞きすることができます。演奏方法を動画で説明するチュートリアル動画は星の数ほど存在します。演奏家なのか?さえ分からない人が語る演奏テクニックや音楽の解釈を見ていると、正直「なんだ?」と首をひねるものもあります。多くのチュートリアル動画は「自分の演奏について」語っています。レッスンを通して演奏技術のアドヴァイスをしている動画は極わずかです。「マスタークラス」と呼ばれる上級者への公開レッスン風景も見つけられます。その中でレッスンを受けている人が今現在、演奏しているのかは定かではありませんが貴重な体験をされている事を感じます。
教育テレビの「○○のお稽古」は全国にレッスンを公開するので受ける生徒の緊張を考えると恐ろしくなります。

私自身がヴァイオリンのレッスンを受けた中で大きく分類すると以下の3つのことに分かれます。
1.演奏技術
2.音楽の解釈や表現
3.練習する内容=課題の提示
上記の1には曲ごとの指使い・ボウイングなども含まれますがすべての曲に共通する「構え方=姿勢」「楽器と弓の持ち方」「手・指の形」「腕・指の動かし方」が最も大切な事だと今でも考えています。
2の解釈や表現の仕方を言葉や演奏で指導される先生もおられましたが何よりも「考え方の違い=演奏の個性」を学ぶきっかけになりました。
3はレッスンで生徒に不足している技術を身に付けるために、どんな練習・練習曲をどのくらいの量と時間で練習すべきなのかを毎週、あるいは不定期なレッスンで指導して頂くことができました。

 自分の演奏を目の前で見て、聴いてレッスンをされる・する事がレッスンだと思います。
「オンラインレッスン」が無意味だとは考えません。遠隔地の先生から指導を受けられるメリットは技術の賜物ですが、限界があることも事実です。音色・音量の微細までは伝わりまん。さらに身体の使い方=力の入れ方・色々な角度から見た手や腕の動きなどは実際に目の前に生徒がいて初めて分かることです。教わる側にしても師匠の演奏=音色などは感じられず自分が見たいと思う動きを確認することはオンラインレッスンでは伝わりません。
これはYouTubeのチュートリアル動画でもまったく同じことが言えます。まして自分の演奏を見聞きして問題を指摘してくれるわけではありません。あくまでも「中の人の個人的な考え」を参考にできるだけです。多くの動画を見ていますが、むしろ見る側の技術と経験が足りなければ、自分に必要な事か?やるべきことか?の判断が出来ないはずです。色々と試すことは面白いかもしれません混乱する結果にもつながります。

 レッスンで学んだことや感じたことを師匠の求めるレベルまで出来るようにするのが練習であり、その過程をレッスンで見てもらい修正されるのもレッスンの意味です。
私は幸運なことに多くの素晴らしい恩師に出会うことができました。本当に幸運でした。
自分自身の練習・努力不足が原因で師匠たちの求めている事の「10%」も理解できていなかった気もしますが、それでも私の恩師はそんな不出来で不謹慎な私を見捨てませんでした。
 レッスンを受けた中には「室内楽」つまりピアノや複数の人たちと一緒に演奏を見て頂くレッスンも受けました。実技=ヴァイオリンのレッスンは中学・高校・大学の間「久保田良作先生」お一人のレッスンを受けることができましたが、学友や知人の中には途中で違う先生に「弟子入り」した人もいました。きっと理由があっての決断だと思います。何よりも師匠と弟子の「相性」が合わなければお互いに不幸です。求めるものを受け入れられない人間関係ではレッスンが成立しないのは当然です。
 レッスンを受けている期間に感じられるものと、時間が経って初めて感じるものがあります。単に「結果」だけを見るのではなく「弟子=学んだ人間」が演奏を続ける間の経験が重なり、挫折したり乗り越えたりする中で初めて感じるのが「レッスンの有難さ」です。
 教える側が「感謝しなさい」と生徒に求めるのは愚の骨頂です。間違っています。
教えることも学ぶことだからです。レッスンをしながら生徒に教えられる=気付くこともその一つです。生徒はすべて違う人間です。真剣に向き合うほど生徒の「人間」を感じられます。
その一人一人に教える自分が順応することがレッスンの技術に繋がります。指導経験の浅い人のレッスンは自分の演奏を生徒に伝えることがレッスンだと感じています。生徒を観察する技術が足りないからです。教えても出来ないのは生徒の努力が足りないから・能力が低いからと考えるのは指導者の傲慢であり指導者としての適格性が足りないと言えます。教え方が悪い、生徒を観察する力が足りない事が原因だと自覚することが生徒の成長を助けます。
 最後に今も音楽に関わって生きていられることを両親とすべての恩師に感謝したいと思います。お読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器で歌う

映像は韓国の作曲家チョン・ファンホ作曲「開花日~花の咲く日」
今回のテーマは以前にも触れたことのある「歌う」ことの意味を考えるものです。
 歌を歌うことが好きな人と苦手な人がいます。子供の場合は小学校や中学校の音楽授業や行事の「合唱」が苦手と言う子供を多く見受けます。大人の場合はカラオケで歌うことが苦手と言う人(実は私もその一人)も多い一方で、カラオケ教室に通う人も相当数いるのが不思議です。声を出すこと=しゃべることと「歌」を歌う事の違いは?音楽を自分の身体で表現する最も手軽な方法が歌ですが、誰かに聴かれることに抵抗があったり自分の声をスピーカーから聴くことが嫌いな人も(これも私です)います。
 私自身は合唱で歌う事は好きでした。中学時代の音楽授業を担当されていた恩師が発声法にとらわれない自由に歌う歌い方で指導して頂いたおかげかも知れません。不自然な大人の真似をしたような発声法で歌っていたら合唱が嫌いになっていたと思います。
 自分の声を聴くのが嫌いな理由は自分でも良くわかりませんが、未だにビデオで自分の声を聴くのも耐え難い苦痛です。本番では恥ずかしさを隠すために必要以上にベラベラしゃべりますが(汗)演奏会のビデオ編集で自分の声を「カット」するのが当然だと思っています。

 自分が歌うことが苦手な人の中にも「歌を聴くのは好き!」という方もいます。
ジャンルに関わらず「歌詞」と「歌声」が魅力だと思っています。
同じ歌詞の歌でも歌手が違うと違う音楽に感じます。また一人の歌手の場合でも歌う曲によってまた聴きたいと思う曲がある場合もあります。歌詞の意味が分からない言語の歌の場合、歌声に惹かれているのだと思います。
 楽器を演奏する時に歌詞はありません。楽器のよって音域が決まっています。歌は歌う人の「声域」がそれぞれにあります。同じテノール歌手でも微妙に声域は異なります。
楽器演奏を指導する際に指導者が言う「歌う」のは実際に声を出して歌ってと言う意味ではありません。では何を?求める言い方なのでしょうか?
歌声はすべての歌手で違う魅力があります。

 弦楽器や打楽器、ピアノなどの鍵盤楽器の場合に呼吸は直接、音との関りがありません。
息を止めていても音は出ます。一方で声楽や管楽器の演奏でも音楽的な抑揚がなかったり音量と音色の変化が乏しい場合に歌っているように聴こえないケースもあります。
 つまり「歌って・歌うように演奏して」と言う指示は単に声を出して歌うことを指していないという事です。言い換えればここで言う「歌う」とは人間が言葉で意志を伝えたり感情を表現するような「演奏者の意図・感情を音量と音色の変化で表す」ことを意味するものだと考えられます。音楽によっては極力「平坦に・起伏や変化をさせない」表現方法を用いる場合もあります。これは他の部分で抑揚があって初めて効果のある方法です。

 歌い方に規則や基準はありません。人と会話する時に大げさに抑揚を付ける場合や意図的に一定の大きさ・話し方で話す場合があるように相手に対して「何を感じてもらいたいか?」を考えれば良いのだと思います。例えば「今日は寒いですね」と相手に話す時「今日は」をゆっくり大げさに強調すると「昨日まで暖かったけれど…」など「今日」が相手に強く伝わります。一方「寒いでね」を強調すると「寒い」と言う感覚を強調することになり「今日は」がなくても同じ意味になります。
 音楽は言葉のように具体的な状態=形容詞・動詞や物の名前=名詞は表現できません。
「悲しい」「楽しい」「不安」「安堵感」「驚き」などの心理状態を直接表す規則もありません。

ただピアニッシモで演奏し続けていて突然フォルティッシモで演奏すれば聴いている人がびっくり!するのは自然な事で音量の変化、音域の変化は多くの作曲家が作品の中で使用しています。しかしこれは「歌う」事とは別物でただ「驚かす」「緊張感を高める」などの効果があるだけです。
 音楽を歌うことは演奏する人の「優しさ」の表れだと考えています。意志を伝える人=相手・聴衆に丁寧に・穏やかに・ある時は大胆に自分の意思・感情を伝えるのが「歌う」ことだと思います。怒鳴りつけたり決めつけたり、言い捨てる話し方は「乱暴な人間」の話し方です。これが「歌っていない」音楽だと思います。
 優しさ=Tenderbessこそが音楽を歌う心のキーワードだと考えています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ライブ演奏ととCDの違い

映像はハリウッド映画「インテルメッツォ」で使用されていたプロボスト作曲「インテルメッツォ」
代々木上原ムジカーザでのライブ映像です。今回のテーマはライブ=お客様の前で「生演奏」した演奏とCDなどの録音での演奏について違いを考えるものです。
 私たちも過去に3枚のCDを録音・作成・販売しています。3枚とも自宅で自分たちで機材のセッティングから編集を行いCDジャケットの作成も「手作り」のCDです。
同じ曲でも録音する場合と生演奏では全く違った演奏になります。

録音の場合には自分たちが納得できる演奏が出来るまで何回でも録音し直すことができます。
1曲録音して聞き返して不満があれば休憩してから録り直す作業を繰り返せます。自宅で録音したので何日にも分けて録音することも可能です。
録音方法の「進化」で多くのレコーディング現場では「部分録音」をつなぎ合わせたりピアノとヴァイオリンを別々に録音する方法が主流になりつつあります。この方法だと納得いかなかった部分だけを録音し直すことで時間の短縮が可能な上、別々に録音することで二人のどちらかがミスをした場合、そちらだけを部分的に録音すれば良いので効率がさらにアップします。
「そんななのずるい!」(笑)と思う方も多いと思いますが、昔から行われていた録音方法です。
二人の音量のバランスも別々に録音すれば後から電気的な処理でいくらでも変更が可能になります。
オーケストラの演奏を録音する場合でも10~20本のマイクをソロのある楽器や音の小さな楽器のすぐ近くに立ててそれぞれを違うチャンネルに録音する「マルチトラック録音」が当たり前になっています。
昔のテープ録音と違い雑音のない音で何度編集してもピッチが変わらず音質も劣化しません。
こうして出来上がるのがCDでありプロオーケストラの演奏動画です。

生演奏の場合、特に拡声装置を使用しないアコースティックでの演奏は演奏のミスもやり直しが出来ませんが音量のバランスも後から変更することは不可能です。
さらに演奏会で1曲だけを演奏して終わる…ことはほぼあり得ませんから、多くの曲を限られた時間内で演奏する集中力と体力が求められます。録音とは全く違う緊張感があり準備の時間も比較にならないほど必要になります。聴く側にしてみればCDを自宅で聴くのも会場で生演奏を聴くのも同じ曲・同じ演奏者かも知れません。CDと同じ演奏をライブに期待する人もいますが正直に言えば意味のない期待です。
CDの演奏が聴きたければCDを聴けば何回でも同じ演奏を聴けます。先述の通り録音され加工された演奏は生演奏とは「別物」です。極論すれば巨大なライブ会場=ドームなどで何百人・何千人の聴衆と一緒に「CDの音」を聴いているケースもあります。CDではなくても予め録音された音を一部使いながらライブを行うバンドも珍しくありません。「一体感」を感じたいのであれば満足なのかも知れません。

生演奏が好きか?CDの演奏が好きか?これは好みの問題=価値観の違いですのでどちらが正しいと言うものではありません。それぞれに良さがあるのも事実です。どちらにも一長一短があります。
 私たち夫婦がコンサートで演奏する場合もっとも重要に考えているのは聴いてくださるお客様への配慮=おもてなしの心です。演奏する本人が練習にどれだけ時間をかけたからと言って聴く人にとって演奏会を楽しめなければ意味のない事だと思っています。時間と体力と交通費をかけてまで会場に音楽を聴きに来られた方に対する感謝と敬意を忘れた演奏は自己満足でしかありません。もちろんすべての来場者が満足できるコンサートは現実にはあり得ないのかも知れません。演奏者のファンだけが集まるコンサートであっても選曲によって不満を感じる人もいます。予め演奏曲が告知されていてもCDと同じ演奏を期待する人には不満があるはずです。
 結論として生演奏でのライブやコンサートは「その時だけの演奏と感動」があることを演奏する側も聴く側も共通理解しておくことが一番大切だという事です。ライブ演奏を録画・録音した映像や音源が世界中に無数にあります。私たちの演奏動画もその中の一つです。コンサートで実際に聴いてくださった方が録画された音を聴いて「なにか?生演奏と違う」と感じて当然です。会場で感じた演奏者の立ち振る舞いや息遣い、会場での音などは「記憶」にしか残りません。聴いてくださった方の良い記憶になるコンサートを続けていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達に必要な基本の「知識」「技術」「練習方法」

映像は2004年みなとみらい大ホールで演奏する中・高校生の部活動オーケストラ定期演奏会。
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の一部です。私の作った部活オケを指揮した最後の定期演奏会でした。中学校に入学しオーケストラに入部して初めて楽器を手にした子供がほとんどです。中高一貫の私立学校で当時、オーケストラは中1~高2までの5学年の生徒が一緒に演奏していました。総勢150名にもなる大所帯。全校生徒1200名の内の150名が参加する部活オーケストラ。
 今回のテーマは部活も含めた「趣味の音楽」を楽しむ上で上達するための「知識」「技術」と「練習方法」を経験を元に考えるものです。

 まず前提として趣味で楽しむ楽器の演奏と演奏の専門家=プロを目指す人の目的は全く違う事を忘れないことです。目指す技術のレベルではなく「目的」の違いです。趣味で音楽を楽しむ人の集まりが部活オーケストラや部活吹奏楽、さらに市民オーケストラもその一つです。プロを目指す人の場合にはまず個人の演奏技術・知識を身に付けることが必須条件になります。多くの仲間と共に演奏を楽しむ「プロ」になるためにはまず個人のスキルが高くなければなりません。
 趣味だから下手でもいいか?結論は「はい」です。演奏する本人・本人たちが楽しめることが最優先であるべきです。その演奏を聴いてくれた人が「ヘタだねー」と言ったとしても気にする必要もないし、趣味の演奏をヘタだじょうずだと言う人が間違っています。演奏する本人・本人たちが「もっとうまく演奏したい」と言う希望・欲を持つ場合に初めて必要になる基本の知識・技術・練習が生まれます。指導者=部活の場合顧問がいくらレベルアップを望んだとしても、演奏する本人たちが望まないのであれば無駄な労力と時間を浪費するだけです。指導者が演奏をレベルアップしたいと考えるなら、まず本人たちが「純粋に」レベルアップを望むように誘導するべきですが「コンクールで上位を目指そう」と言う安直な餌で生徒を釣ることは絶対にやめて頂きたいと教員時代から願っています。趣味の音楽に序列を付けるのは「無意味」でしかありません。コンクールと言う餌がなければ生徒を惹きつけられないのは指導者の「指導能力」「指導経験」が足りないことを証明するだけです。「純粋に」と強調したのはその意味です。演奏する本人が何故?何を?上達させたいと思っているのかという根本的な問題をクリアする必要があります。自分の目指す演奏レベルと自分の演奏の「どこが・どう違うのか?」を知らないのが当たり前です。なんとなく…自分よりうまく聴こえる演奏に漠然と憧れている人に「がんばれ!」って言いますか?スポーツで考えればプロ野球の選手が出来ることを中学生・高校生に真似させて「強く」なれるはずがありません。そもそも指導者が「上達する道を通った経験」がないとしたら?YouTubeや本から得た情報だけで指導ができると思い込むのは「百害あって一利なし」です。間違った指導は成長の未来のある生徒の夢を破壊します。宝石の原石を叩き割るのが無知な指導者です。

生徒が自発的に上達したいと考えているなら…あるいは自分自身がそう思う演奏者なら「足りない技術・知識」を誰かに教えてもらう事です。少なくとも自分よりうまいと感じる人、できれば専門家を目指す人に必要な技術・知識を学んで身につけた人に教えてもらべきです。
 動画で演奏している中高生に音楽の授業を通して「楽典」を教えました。当然ですが部活に所属していない生徒たちにも同様に楽典の授業を中学1年から教えました。特に「音名」「音程」について覚えていて損はしません。当然変化記号=シャープ・フラット・ダブルシャープ・ダブルフラット・ナチュラルや調号の仕組みや名前についても教えました。子供たちにとって覚えることは他教科でも慣れています。覚えさえすれば定期考査で100点を取れます。事実、多くの中学生が楽典のテストで100点満点を取りました。覚える気のない生徒の点数はは一桁でしたが(笑)
 さらに指揮法の図形も授業で教えました。校内の行事で合唱コンクールがあり学級ごとに生徒指揮者、ピアノ演奏者を決め音楽の授業時以外にも担任が立ち会って練習していましたので「指揮法」は生徒たちが求めた技術でもありました。もちろん部活オーケストラで演奏している生徒たちも図形や「点」「叩き」「平均運動」などの意味を覚えました。これも合奏では大いに役に立つ知識です。

最後に趣味の演奏で有効な練習方法について。
一言で言えば「課題を見つけるための練習」をすることです。
一般には出来るようになるまで繰り返すことを練習だと思いがちですが出来ないこと=気付いていない症状を発見する事が優先です。治療は症状と原因を見つけてからするものです。病気と違って楽器の演奏に「予防」はありません。常に自分の演奏の状況を観察し、必要なら録音や録画をして自分の演奏の問題点を見つけ原因を探ることです。この場合も指導者のアドヴァイスは有効です。症状も原因も複数のことが絡み合っている場合が殆どですので「症状を分析する=もつれをほどく」作業が第一です。

例えばボウイングだけを意識して開放弦を練習すると出来ることがスケール=音階になるとできなくなる場合や曲の中で苦手な部分になると何故か?音が小さくなったり汚くなる症状です。気付くためには「観察する=聴くこと」以外に方法がありません。人に指摘されて修正するなら自分の音を聴いていなくても出来ることです。自分で自分の音を聴くのは一番疲れることです。演奏しながら聴くのですから指や腕を動かすことに意識が集中すれば「聴く=聴覚」への集中は落ちてしまします。運動する部分を「ひとつ」からスタートし「足し算」つまり運動する部位を一つずつ増やしながら聴く練習をすることが有効です。一気にすべての運動=右手・左手を動かして曲を弾けばどの運動が原因で雑音が出ているのかは判断できません。引き算しながら練習する方法もありますが、最初はひとつずつ=最初は右手だけ→左手だけでピチカート→両手で演奏のように症状が出始める原因を探すことです。
 練習できる時間は人によって異なります。楽器を使って音を出さなくても上達する練習があります。

ひとつは「頭の中で演奏する=イメージトレーニング」これは電車の中でもできます。もう一つは「楽譜と音楽を一致させる」練習です。楽譜を読む技術向上にもつながります。また色々な人の演奏を聴き比べながら楽譜を見ることで発見もあります。お茶を飲みながらできる練習です。
 技術・知識・練習は「意欲」によって内容も結果も変わります。
モチベーションを維持するのは大変に難しいことです。最大のポイントは「継続は力なり」という言葉だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音量

映像はアンドレ・ギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマはヴァイオリン、ヴィオラの演奏で「音量」を考えるものです。
 前提としてヴァイオリンは管楽器や打楽器、弦楽器の中で音量が大きい楽器ではないことを考えます。確かにギターやマンドリン、リコーダーと比べれば音量=音圧はヴァイオリンの方が大きいと言えます。しかしチェロ、コントラバスと比較すればヴァイオリンは音域が高いとは言え音量で考えれば比較して小さな楽器です。筐体=ボディーの大きさ、弦の長さと太さを考えれば当然のことです。事実オーケストラにおいてヴァイオリンの人数がヴィオラ、チェロ、コントラバスより多いのは音量の問題があるからです。当然フルートやピッコロなどの木管楽器、トランペットなどの金管楽器とは比べようもなく音の小さな楽器です。
 ヴァイオリン協奏曲を考えると明らかにオーケストラとのバランスが悪い楽器とも言えます。多くのレコードやCDで独奏ヴァイオリンの音がオーケストラと対等、あるいはオーケストラ以上に大きく録音されているのは単純にマイクの位置によるものです。会場で聴いた場合のバランスとは全く違います。これはピアノとヴァイオリンの二重奏でも同じことが言えます。
ピアノの音圧はヴァイオリンより遥かに大きく、小さな音の比較ではヴァイオリンと同程度まで小さな音を演奏できる楽器です。だからこそ「ピアノフォルテ」と言う正式な名前がついたわけです。ピアノとヴァイオリンが同時に演奏し、双方が目いっぱいのフォルティッシモで演奏したとしたら、ヴァイオリンの音は完全にマスクされ会場ではピアノの音ばかりが響きます。これはヴァイオリンの楽器がストラディバリウスだろうが新作のヴァイオリンだろうが変わりありません。演奏技術の問題でもありません。構造上の違いだからです。

ヴァイオリンを練習している時にフォルテやピアノ、クレッシェンドなど音量の変化に「基準」があるでしょうか?
どんな楽器の演奏でも最小・最大の音量があります。
音が出ていない状態でも音楽の一部です。休符や音楽の始まる直前、弾き終わった直後も音楽です。実際に楽器で音を出している時の音量は常に相対的な音量の差です。人間の耳は静かな場所では敏感になります。逆に地下鉄の車内や飛行機の中、大音量のロックライブ会場では隣の人の話し声さえ聞き取れなくなります。聴く人と演奏している人で感じられる音量の差=変化が違います。感覚の違いより楽器との距離の問題が一つ。距離が離れるほど微妙な音量の違いは感じられなくなります。特に小さな音の場合には離れた場所では聴こえなくなります。
もう一つ大事なのは演奏者が「大きく(小さく)したつもり」で実際には変化がほとんどない場合です。クレッシェンドしているつもりでも聴いている人には同じ音量に感じるケースです。ヴァイオリンのように最大音量が小さい楽器は音量の変化を「感じてもらう」ことが困難です。もっと大きく!と頑張ると得てして汚い音になりがちです。
音量の変化量=聴いている人が感じる音量の変化量を大きくしたければ「小さい音」を有効に使うべきだと思います。楽器の音量を物理的に大きくする技術や弦を考えることも大切ですが「相対」を大事にすべきだと考えています。
コンサートで物理的な最大音量をさらに大きくしたいのであれば最終的に「電気の力」を借りれば良いのです。野外でのクラシックコンサートでは当然の事ですがマイクとアンプ=電気的な増幅と巨大なスピーカーを多数設置して何千人・何万人の聴衆に音を届けます。
「大音量」で演奏できることが良い演奏だと思い違いをしないことが重要だと思います。そもそも録音するなら大音量はまったく必要ありません。レコーディングの現場は音量の変化は電気的に行うのが常識です。大ホールで演奏する場合に客席の最後列でピアニッシモが聴こえないとしたら?コンサートとして成り立っていません。だからと言って曲全部をフォルテで演奏したら?ダメですよね。
 小編成のアコースティック=電気を使わない楽器の演奏・歌を大ホールで開催することに違和感を持っています。どんなに音響の良い大ホールでも音の届く限界距離があります。無理に大きな音を出そうとするよりも聴衆にピアニッシモが心地よく聴こえる環境で演奏することを考えるべきではないかと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏会場を選ぶポイント

映像は代々木上原ムジカーザで2010年から2026年まで毎年デュオリサイタルを開いてきた私たちの「最初と最後」の演奏をまとめたものです。17年間にたくさんの曲を演奏し本当にたくさんのお客様と出会いました。同じホールで同じピアノを同じ調律師(名取さん)にお願いして、ほぼ同じ時期(1月初旬の土曜日)に開催し続けました。
今回のテーマは「演奏する場所」について考察するものです。

演奏には「聴衆の前で演奏する」場合と「録音や撮影のために聴衆のいない状態」の場合
があります。聴衆がいるコンサートを録画・録音した「ライブ」もありますが聴衆の有無は大きな違いになります。
スタジオで演奏し録音する場合は響きのない室内での演奏になります。
ピアノとヴァイオリンの録音を別々の時間・場所で録音する場合もあります。昔の言い方をすれば「「重ね録り」と呼ばれるものですが、多くはポピュラー音楽の録音に使われてた録音方法です。録音のための演奏なのでノイズ=周囲の雑音を極力減らし、後の編集作業のために残響時間も少ない事が求められます。演奏する人はヘッドホンを装着しメトロノームの音や先に演奏を録音した音を聴きながら演奏=録音します。慣れないと非常に演奏が難しいものです。
 聴衆を前に演奏する「コンサート」の場所は広さ=客席数、音響(残響時間など)が最も大きな違いになります。ホールや演奏場所の立地環境=交通アクセスも聴衆にとっては大きな問題になります。
 あまり大きく取り上げられませんがホールのスタッフと設備・備品は演奏者にも聴衆にも影響します。スタッフが演奏者の立場と聴衆の立場で最善の環境を作る技術と感覚を有していないと演奏が素晴らしくても良いコンサートにはならないものです。また施設や設備が演奏に不向きな場合もあります。エアコンの動作音が大きく演奏の小さい音にノイズが混在するホールもあります。客席の椅子が折り畳みのパイプ椅子で聴衆が長時間座るのが苦痛になる場合もあります。椅子のきしみ音も演奏の妨げになります。

演奏者がホールを選べる場合と、演奏を依頼され場所も予め指定されている場合があります。
後者の場合どんな会場でもその場にあった演奏を限られたリハーサル時間の中で探す技術・経験が求められます。
自分で会場を決める時に最終的に資金的な問題を優先することになります。もちろんこの費用を気にしなくても開催できる演奏者もいます。うらやましい限りですが多くの場合は会場使用料やピアノなどの使用料金、スタッフの費用などを含めたトータル費用とチケット収入の予想をシミュレーションして会場を決めることになります。
 演奏者の好みも分かれます。残響時間、客席の場所による聴こえ方の違い、演奏している音の演奏者自身の聴こえ方などです。資金的な条件の中で自分が最も演奏しやすく聴衆にも自分の理想に近い音で聴いて頂けるホールを選びます。

私たちが二人で演奏させて頂いた色々な会場の中で印象に強く残った会場「杜のホールはしもと」と「代々木上原ムジカーザ」は演奏した回数の多さもありますが残響時間、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランス、演奏者に戻ってくる音など大好きな会場です。杜のホールは525席のホールですがどこで聴いても気持ち良く楽しめる音響です。私たちの最初のリサイタルは長野県松本にある「音文」と呼ばれているホールの小ホールでした。初めて二人で演奏した緊張感もあって音響の事までは記憶に残っていませんが、その年に杜のホールで同じプログラムで演奏した時の感動は鮮明に残っています。
 野木にあるエニスホールも適度な残響とぬくもりのある響きの素敵なホールです。コンサート会場ではないのですが長野県木曽町にある「おもちゃ美術館」に併設されている体育館(実際に昔小学校の体育館だった建物を減築・改築した会場)の響きが忘れられません。

最後になりますが、演奏者にとって演奏会場は自分の演奏を聴衆に届けるための空間であることを書いておきます。自分が演奏者としての立場だけではなく、聴衆としての立場にたってホールを選ぶことです。主催者が自分でない場合、言いにくい一面はありますが演奏する以上「聴いてくださる方」への思いを第一に考えるべきです。
 演奏会場は公共の場です。多くの人が違う価値観を持って集まり共に音楽を楽しむ場です。主役は演奏者だけではありません。聴衆もスタッフも同じ目的=音楽を楽しむ時間と空間を共有する目的を達成するために必要な人です。誰が欠けても目的は達成できません。演奏者・スタッフ・聴衆が等しい関係性でなければ良い結果は得られないことを、まず演奏者自身が理解することが大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏の個性ってなんだろう?

映像は昨年1月に演奏したサン・サーンス「死の舞踏」
原曲は管弦楽で演奏する曲ですがピアノとヴァイオリンで演奏するためにアレンジされたものです。

さて、今回のテーマ「クラシック演奏の個性」ですが、個性的と言う言葉には一般的ではないというイメージがあります。個性が感じられないと言えば、逆に多くの人が認めている事や珍しくないと言う意味を含んでいます。
本来すべての人はそれぞれ違った個性を持って生まれます。どんな演奏であってもすべてに個性があります。歌であれば声・歌い方に個性があります。楽器の演奏でも音色やテンポ、部分的な音量などに個性があるものです。クラシック音楽の場合「楽譜通りに演奏する」と言う特色があり、ジャズやロックのように「楽譜も違う」音楽との違いがあります。
 落語に古典と創作があるように、料理にも創作料理があります。古典落語であっても「ラーメン」でも演じる人・作る人が変われば「個性」があります。この微妙な違いこそ演奏の個性に繋がるものです。
 楽譜に書かれている音符やテンポの指示、強弱の指示に従って演奏しても他人と同じ演奏にはなりません。微妙な違いを聴き分けられる人と気付かない人がいます。単に聴いた演奏の数と時間だけの問題だと思います。違いに気付かないから鈍いとかクラシック音楽を理解していないと考えるのは間違っています。ラーメンを一度だけ=1種類だけを食べた人と、多くの店を食べ歩き様々なラーメンを食べ比べた人の違いと変わりません。
 個性が強すぎると「癖がある」「一線を越えている」と酷評されがちですが「強い個性」の基準もないはずです。元より「初演」される音楽の演奏は比較される演奏がないのですから、次に誰かが演奏するまでは「唯一無二の演奏」になります。

 楽譜を初見で演奏したものと、時間をかけて考え試行錯誤を繰り返し練習した演奏があったとします。初見の技術・能力が高い人の演奏なら多くの人は「違い」を感じないかも知れません。むしろ「え?初めて楽譜を見ただけなのに?すごい!」と初見の演奏に喝采を送るかも知れません。
「間違えないために練習する」必要のない人も現実にいます。ではその人の個性は?
初見能力は演奏の個性とは別のものです。
 演奏する人の「音楽への思い」が個性になります。思いのない演奏がどんなに正確でも聴く人には感情が伝わらないものです。音楽を聴いて感動するのは「音」「音楽」にではなく、演奏する人への共感だと思います。私は演奏する人に「座学」を進めます。楽譜を記号として音にするための読譜ではなく音楽を「感じる」ための時間を取ることです。考えることで初めて自分だけの音楽=個性が生まれると考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

緊張を味方に付ける考え方

映像はオリンピックのフィギアスケート女子シングルで金メダルを取ったアリサ・リュウ選手のインタビュー映像です。
彼女の経歴や国籍、誕生にまつわる話にも興味があり調べましたが、ここでは敢えてそこには触れません。このアスリートが大舞台で見せたメンタルの強さをテーマに考えてみます。
多くの選手たちがプレッシャーに押しつぶされ、恐らく普段の練習や通常の大会では考えられないような大きなミスをしてしまいます。
中には「国家」「国民」からの過剰な期待が原因になる選手もいます。そんな中で彼女の今回の演技は「本人が楽しんでいる」ように感じ見ている私たちも自然に楽しめたように思います。「勝つこと」を何より優先していれば人間の真理として「頑張って」しまいます。
どこにその違いがあり、彼女の意識は何を求めていたのか?

インタビューの中で「対策より経験が第一」と言う言葉が印象的でした。勝つための準備や練習に主眼を置いても経験がなければ勝てない。事実、北京オリンピックで苦しんだ彼女は一度スケートから遠ざかり「普通の生活」を取り戻しました。幼い時からトップの成績で注目を集めた彼女でさえ「苦しんだ」と言う表現をした過去があります。
そして心理学を学んだ彼女の「脳の成長」が新しい人生観をつかむきっかけになったのかも知れません。「人とのつながり」当たり前のようで勝負の世界では必要性の低そうな他人との絆を大事にする考えに感動します。2位3位になった日本人選手について問われると「3人とも人生の違う段階にいます」と答えています。なんと素晴らしい答えでしょう。単に技術を語るのではなく「人生の段階」と言う言葉。まさに経験こそが大切と言う言葉の証明です。

緊張することは自然な生理現象です。不安な気持ちになった時に心拍が速くなったり手に汗をかいたり、膝ががくがくしたりすることは避けることのできない現象です。犬や猫でも不安になった時に普段と違う行動をします。防御本能の表れだと思います。
不安が少なければ緊張の度合いも少なくなります。いつもと違う環境に出ることが予め分かっている場合、例えば演奏会や試合がの前に「本番のイメージ」を頭の中で作って練習・準備することも出来ます。
不安のない普段の練習で本番での自分を想像しながら練習するのが「イメージトレーニング」です。
過去に経験した失敗の記憶も失敗の原因を理解すればイメージトレーニングの材料になります。
不安を完全に消し去ることは不可能です。本番の日、時間が近づくにつれて不安がふくらんでいきます。
極端な場合、本番の直前に楽譜を思い出そうとして「あれ?」とパニックになることもあります。
直前に練習した部分でさえ思い出せない気がする場合もあります。
人間の記憶は「脳」と「身体」の両方で再生されます。主に脳の記憶は冷静な時に「思い出す」事ができる記憶です。一方で身体が覚えている(実は脳の記憶ですが)運動は考えていない時に再生されます。
不安になる時=緊張する時に脳の記憶を無理やり呼び起こそうとするのは逆効果です。かえって不安が増えます。
1曲の演奏時間が5分間だとします。それを本番直前に一瞬で思い出そうとしても無理なのです。練習で演奏している時を考えれば分かります。1小節目を弾きながら最後の小節を考えません。2小節目を弾いている時に1小節目の事を思い出していません。つまり脳は演奏する順序=時間経過で記憶しているのです。常に次の音を考えています。その連続で時間が過ぎていきます。もちろん、練習で曲の途中だけを練習することはあります。この場合に記憶しているのは曲全体の記憶とは違う記憶をしていることになります。むしろ身体が覚えるための練習です。
音楽もフィギアスケートも「時間と運動」が一つ塊になっています。自分だけが記憶している「次の運動」を再生し続けるのが演奏であり演技です。どんなに難しいパッセージでも必ずつながりがあります。突然15小節目から演奏したり、4回転ジャンプをするわけではないのです。
話を戻します。
不安が緊張の原因なので「安心」を感じられる準備をすることです。
人によって安心する環境は違います。信頼できる人と一緒にいるのが良い人。
一人になって集中するのが好きな人。自分が一番穏やかでいられる心理状態を探すことです。
アスリートの中には試合直前に決まったルーティンをする人が多くいます。
陸上短距離のウサイン・ボルト。野球のイチローなどは有名ですね。自己暗示の一種です。
掌に「人」と書いて飲み込む真似をする「おまじない」で本当に安心する=自己暗示が出来るトレーニングをした人なら効果があります。普段から自己暗示のトレーニングをしていない人が同じことをしても効果は期待できません。
練習で「どうすれば成功する=思ったようにできる」かを考えながら身体を使う事も暗示につながります。無意識に繰り返して練習するのは一時的に身体=筋肉・関節が運動を記憶しているだけなので再現性が低くなります。「考えながら繰り返す」ことが重要です。

 緊張を楽しむ発想も有効です。
そもそも普段と違う環境を「非日常」と考えることです。普段の生活で体験できない環境を不安に思うより「期待」することで直前の過緊張から解放されます。どんな演奏でも演技でも同じことは絶対に出来ません。聴く人・見る人も違います。同じ曲を弾いたたとしても演奏は以前とは違うものです。

不安を楽しみに置き換えることは特別な事ではありません。
初めて食べる料理、初めて訪れる観光地などは不安より期待の方が大きいものです。
うまく弾こうとか間違えずに終わることを優先するより、一度しかない演奏の機会を心から楽しむ気持ちを持つ習慣をつけ「経験」を積むことで緊張を活用できるはずです。
 最後に「緊張は生理現象」だという事をもう一度書いておきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介