出逢いと別れ

糸 ヴィオラとピアノ

 還暦とっくに過ぎた爺ちゃんが(笑)何をいまさら?出逢いと別れだとポエマーしてんの?と言われても良いのです!
 いくつになっても、生きている限り体験する「出逢い」と「別れ」2024年5月の出来事は、私にとって一生に関わる出来事でした。

 音楽大学時代の同門(同じ師匠に師事していた門下生)先輩に、現実の問題として今、自分が考えている事を話すことができました。信頼があってこそ、本心で話せて先輩からも本気の答えが返ってきました。
 先輩からご紹介いただいた方との「出逢い」がありました。初対面で話をしだしてから10分も経たないうちに、「信頼できる人」であることを直感的に感じました。
 お会いして30分ほどで、心は決まりました。

 私が50年間「パートナー」として、苦楽を共にしたヴァイオリンと40年間愛用した弓と別れ、別の楽器を新しいパートナーに迎えることになりました。恐らく、間違いなく新しいパートナーと、私が演奏できなくなる日まで傍らに置く楽器です。
 50年前に楽器を斡旋してくださった方がくも膜下出血のために倒れられ、その後はその方の「お弟子さん」だった方にだけ、楽器の調整を任せてきました。それ以外の誰にも楽器を調整してもらう事は「信頼」に至らず、長い年月が過ぎました。その職人さんもご高齢になり(私もですが)、いよいよ楽器の調整は誰にも任せられない段階になって、この話の最初に戻った「出逢い」がありました。

 私の使ってきた楽器と弓は、フルオーバーホールされて、健康な状態に生まれ変わることでしょう。その楽器と弓の「価値」がわかる人によって、また50年、さらに100年と歌い続けてくれると思っています。
やっと!自分が使わせてもらっていたヴァイオリンへの責任を果たした気持ちです。
 新しく我が家の一員になった楽器の詳細は、今この場でお伝えすることは控えます。しばらく時間をおいてから、皆様にご紹介することにします。「なんで?」ち思われる方もいますよね?ヴァイオリンは、演奏家の手から手に渡って生き続けるものです。それそれの演奏家が持つ「思い入れ」があります。悪意を持って情報を拡散する人もいます。ですから今は「新しいパートナー」とだけ書かせていただきます。。

 楽器を扱う事は、人と接するのと同じです。自分が気に入るように相手を変えさせようとするのは「傲慢」な気持ちの表れだと思います。自分の「好き嫌い」があるのは当然です。好きな相手と出会えないこともあります。自分を変える「謙虚な気持ち」があれば、相手(人でも楽器でも)に通じます。
出会った相手の個性を感じ、自分の感性と近いものがあれば私は迷いません。新しい楽器で音を出した瞬間に、何も違和感を感じなかったことが私の心を決めました。
 作った人の名前や値段しか気にしない人にとって「楽器の個性」は二の次です。自分の感性で確かめられて、初めて楽器の価値があると常々思っています。

 明日、私の教室で行いミニコンサートで、初めて人前で演奏することになります。
常に私の背中側で音を聴いてくれている浩子姫曰く「良い意味ですごく自然な音」だそうです。楽器を与えてくれた方に「目で見て演奏する人に出せない、綺麗な音で演奏する方だなと思いました」と言う光栄な言葉を頂きました。「見えなくなることがマイナスだけじゃないんですね」と穏やかに話されたことにも温かさを感じました。
「演奏も調整も、魂ですよね」と言う言葉にも共感しました。技術や地位、お金では得られない「魂」を感じられる演奏をしていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜の「行間」を読むこと

シューベルト「アヴェ・マリア」ヴィオラ

 台本や原稿を、役者さんやアナウンサーが声に出して「読む」ことは、私たちが楽器で楽譜を読んで「演奏する」ことによく似ています。日本語で「行間」と言う言葉があります。現実の行と行の足だの隙間の事ではなく「文字に書かれていないこと」を指しています。AIが進化し、文字を読み上げるソフトも日進月歩の速さで、より自然に近い音声になっています。単語や文節の「切れ目」と「前後の意味」を学習することで、まさに「行間」を読み取っています。すごい技術だと思います。

 さて、音楽の世界で楽譜に書かれていない「歌い方」もっと言えば表現の方法は、演奏する人の「想像力」によって決まります。
作曲する人が、頭の中に音楽を思い浮かべ、楽譜にするように、演奏者もまた楽譜を頭の中で「想像」して音にします。
 正解のないのが「想像」です。人によって違い、同じ人でも感情によって変わるものです。自分の演奏を聴いて、演奏しているその瞬間に思っていたことを思い出すことは出来ません。

 想像の世界を言葉や絵にする必要はありません。その人の記憶や感覚で「感じる」ものです。では、どうすればをれを「音」に出来るでしょうか?
 まず、感覚を敏感にすることです。同じ人間でも、五感が敏感になっている時と鈍くなっている時があります。練習の段階で、楽譜を見てすぐに何かを感じるとしたら「難しそう」とか「音符が多い」とか(笑)
旋律と和声を「音楽」として聴いて、そこから新たな想像力を働かせて、演奏に「色」「奥行」「重さ」などを加えていくのが練習です。音楽に特定の感情(喜怒哀楽)があるとは限りませんが、無色透明・無民衆な音楽は、現代音楽でもほとんどないと思います。

 動画のアヴェ・マリアを聴いてどんなイメージを持ちますか?音楽全体=1曲を聴き終えたあとの印象も大切ですが、一瞬ごとに感じる感情も大切です。
 冒頭のピアノの和音が波のような上行・下降を繰り返しながら、和声の色が変わっていき感情を揺さぶります。
 ピアノの前奏が「沈み切った」ところで歌=主旋律が始まります。歌詞で言えば「A・ア」で音名DIえば「シフラット・B」音階名で表せば「ド」から始まります。
 この最初の音を出す前にイメージを持ちます。聴く人が「初めて聴く」こともあります。演奏者はその先も知っています。
初めて聴く人にとって、感情やイメージは「音が出てから」感じるもなのです。演奏者は音を出す前に既にイメージを持っています。私の場合、弓先でギリギリの弱い音から弾き始めます。聴く人に聴こえない「音」かも知れませんが、やがてはっきりと聴こえてくる「ア」をイメージしながら次第に輪郭のはっきりした音に変化させていきます。
ヴィブラートをいつ?始めるかもイメージの世界です。ヴィブラートの深さ・速さも空想の世界から生まれてきます。楽譜には書かれていない「行間」です。

 音量を「ピアニッシモ」から「フォルティッシモ」などで表すこともできますが、聴いている人が感じるのは「感覚的な音量変化」なのです。高音は大きく聴こえます。さらに、音色によっても感覚的な音量は変わります。音の聴こえない状態を「0=ゼロ」とした場合、聴こえ始める最小の音を「1」に仮定し、最も大きく聴こえる音を「10」だとします。その音量差を「どれだけ細かく変化させられるか?」と「どのくらいの速度で変化させるか?」という二つの視点で考えます。
 初めて聴く人にとって、最大の音量が「いつ・どのくらいの大きさ」になるのかは問題になりません。楽譜の中でどこか一か所に「ff=フォルティッシモ」があるから、そこを最大に演奏する…これ、普通に考えますが、聴く人印盗っては無意味な問題です。
 むしろ音楽が始まってから「時間経過」と共に、音量や音色が変化する中でイメージがわき続けるのです。

 想像力のない人に「想像しろ」と言っても無理なことです。少なくとも、音楽を演奏するのであれば、常に次の瞬間に創り出す「音」を想像することです。何も感じない「音」は「サンド・ノイズ」でしかなく、意味のない「文字」を声にしているのと同じです。例えば「今日は暑くなりそう「ぽ」ですね」と「ぽ」が一文字はいるだけで、意味が通じなくなるのと同じです。
 想像・空想・考える・感じることから音を出すのが「行間」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の練習で得られるもの・失うも

ヴィオラとピアノで演奏する「糸」

久しぶりのブログです。映像は自宅で演奏した「糸」です。中島みゆきさんが作詞作曲され、歌われていた「歌」です。
 私たちがヴァイオリンとピノアのために作曲された曲の他に、いわゆる「歌もの」を多く演奏するのは、第一に旋律が人間の歌える音域で(当たり前ですが(笑))、聴く人が覚えやすいこと。言い換えれば作曲する人にとっては「音域の制約とモチーフの設定」が器楽曲より多く求められることになります。
「大衆音楽」を卑下する人がいますが、元よりクラシック音楽の多くが「大衆音楽」だったことを忘れてはいけませんよね。
 それらの「歌」と今回のテーマである「練習」にどんな関係性があるでしょうか?

 指導者の端くれでもある私が「練習で失うもの」を書くってどんなもの?と思いますが、私が経験し感じてきた自分と、自分以外の演奏家、さらには生徒さんたちを指導してきて思う事は「練習でうしなうものがある」ことtです。
当然ですが「得られるもの」があるから練習するのです。練習しなければ、得られるものはありません。誤解のないように(笑)
 得られるものは?「演奏技術」と「音楽的知識・演奏経験」です。これは、練習の時間にある程度比例して得られるものです。
 同じ人が、毎日1時間練習した場合と毎日4時間し続けた場合、得られる技術・知識・経験は恐らく4倍近い差があるでしょう。
 違う人と比較した場合は?おそらく時間には比例しません。内容と練習の仕方が根本的に違うのですが、結果が違って当たり前です。誰かが毎日4時間練習しているかrあ、自分も同じ時間連取すれば、同じように演奏できるように…「なりません」(笑)
 練習には当然、体力と時間が必要です。前提として「環境」がなければ練習は出来ません。連取する「場所」と「時間」と「体力」、一番大きな要素は「練習する時間、それ以外の事ができない」ということです。
 言ってしまえば、練習するために生活の中の「何か・どこか」を削ることになるのは当然です。子供であれば、遊ぶ時間や勉強する時間を削って練習することになります。
大人であれば、働く時何か休息する時間を練習に充てることになります。だから練習が「悪い」とは言っていませんので悪しからず(笑)

 練習に使う時間が多いほど、その他の時間を多く削ることになります。一日が24時間であること、人間は睡眠したり食事をしなければ生きられないことを考えれば、ある意味で誰もが公平に「時間」を持っています。
 練習することで、充実感を感じたり、技術を得られることが嬉しいのは喜ばしいことです。その人の「幸せ」な時間でもあります。
 よく考えると「もしも練習している時間を違う事に使っていたら?」どんな幸せがあるか?どんな人生になるか?比べることは不可能だという事です。
 病気になった時、薬をの飲んだ場合と飲まなかった場合の「結果」を、同じ人がお暗示時に比較できないのと同じです。「もしもあの時…」で後悔することも、逆に安堵することも可能性としてあり得ます。練習に毎日4時間使ったから、全員が後悔しないとは限らないのです。毎日4時間を例にすれば、一週間で28時間です。丸一日の時間より長くなります。活動する時間が仮に「16時間」だとすれば?約二日分の活動時間を一週間で「消費」したことになります。これを1っカ月、1年続けたら?さらに幼い頃に年々も続けていたとしたら?練習した時間は、取り戻すことはできません。何度も書きますが「得られる結果は全員違う」のですから、良かったと思う人も言えれば、大きな後悔を感じる人もいるはずです。

 音楽の世界で「一流のプロ」と呼ばれる方の多くが、毎日何時間も連取し続けたと語られています。中には練習が嫌いだったと言う人もかなりの割合で存在します。嫌いな練習を続けてきた「結果・成果」として、一流の演奏家の地位・称号を得たのであれば、満足でしょう。それを「素晴らしい」と思うのも当然です。一方で、一流の演奏家の中に、40代の若さで引退宣言し、これから先は好きなことをして暮らしますと笑顔で話す方もおられます。周囲からは「もったいない」という事もあっても、本人の価値観です。
「神童」「天才」と呼ばれた演奏家の中で、絶頂期であるはずの20代で、精神を病む人がたくさんいました。共通しているのは「これ以上うまく弾けない」と言う気持ちと、周囲からのプレッシャーです。幼い頃から「良い子」で「素直」で「真面目」な子ほど上達します。そして、大人になって精神のバランスを崩す結果とになります。

 我が子が毎日、ゲーム三昧で勉強も練習もしないと「ぼやく」のも親です。心配だからですよね。当間の事です。冷静に考えれば、子供が好きなことをして「育つ」のは今も昔も同じです。練習が好きな子供が「仮に」いたとすれば、勝手に練習するはずですが、およそ今まで聴いたことはありません。親の「期待」に応えよるとする、良い子が好きではなくても練習するのを見て「素晴らしい」と思うのは、どこか間違っている気がします。本当に練習好きなのでしょうか?

 練習はしなければ上達しません。練習すれば誰でも上達する可能性があります。
「何歳で・何年度」「どのレベルまで」上達すれば「一流の演奏家なれる」かも、実は決まっていません。統計はありません。もっと言えば、楽器によって違います。声楽を子供の頃から必死になって練習しても無意味なので🅂う。金管楽器を幼稚園児は吹けません。
幼い頃から演奏できる楽器は「鍵盤楽器」とヴァイオリン・チェロ」「ギター」に限定されます。厳密に言えば、ピアノを幼い子供が演奏しても、大人の音は出せません。体格Tと筋肉量が違いすぎるからです。子供用の分数ヴァイオリンで、大人のヴァイオリンの音も出ません。ただ「技術」だけは身につきます。それ、必要不可欠ですか?(笑)
 子供が好きなことをしながら、伸び伸び育つこと。大人が生活のバランスを維持しながら、人生を楽しむこと。それが原点でだと思います。
 何かを魏勢にして得られたものにも、価値はありません。その価値が本当にその人にとって、かけがえのない物かどうか?を思うのは、人生の執着に近いときだと思います。
無理をしてまで練習することの「危険性」を考えるべきです。
 音楽は命を懸けて演奏するものではありません。本人が命を懸けて「楽しみたい」と思える年齢になっても楽しみたいと言うのなら、だれも止められません。ボクシングで、まさに命がけで戦う人たちの心理は、ボクシングを見るだけの私たちには到底、理解不能です。ただ音楽で誰かを傷つけたり、不幸にすることはなく、誰かに勝った!負けた!という事もないのです。あくまで自分の「満足感」だけが欲しいのです。そんなことに、命を懸けさせる親に、私は言いたいです。
「子どもの人生を決める権利は親にはない」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自己主張と協調性

瑠璃色の地球 ヴィオラ・ピアノ

 今回のテーマは、音楽を通して「人との調和」を考えるものです。
戦争という人類が行う「最も愚かな行為」も元をただせば、特定の人間の協調性の欠如と自己主張を止められなくなった暴走による行為です。
 自分の考えを持つことは素晴らしいことです。食べ物の趣向も一つの「考え方」です。問題はその考え方を行動にうつつぃた時、他人を災いや不幸に巻き込むことは、どんな権力がる人であっても許されないことです。
「自分の考え方は正しいのだから、誰も不幸にならない」と思うのは大いなる勘違いです。エゴイズムでしかありません。人それぞれに違った「考え方」を持っています。他人に押し付ける権利はありません。
 音楽を何人かで演奏する時、必ず起こることですが「感じ方の違い」を擦り合わせる作業」が必要になります。テンポや歌い方、揺らし方の好みは違って当たり前です。そのまま同時に演奏すれば、出始めから最後までバラバラで、恐らく最後までたどり着くことさえ不可能です。
 オーケストラで指揮者がいる理由も、ここにあります。単に音ので始めmpきっかけや、テンポを決めるだけではなく「まとめる」ことがその役割です。
指揮者の考え方や指示の仕方に、オーケストラのメンバーが「従う」のは、指揮者を認め信頼しているからです。中には指揮者の感じ方や指示に「違和感」や「反感」を持つ人もいます。
 最終的には、
①その演奏者が我慢して演奏を続けるか?
②指揮者に考え方や指示の仕方を変えてもらうか?②
③演奏者が辞めるか?
④指揮者を辞めさせるか?
のどれかを選ぶことになります。
多くの場合は①、次に③でしょうね。
これは二人で演奏する場合でも同じです。
私たち夫婦の演奏も、常に「擦り合わせ」た結果なのです。

 音楽で意見が合わないからと言って、戦争が始まることはありませんが(笑)
楽器が「武器」に変われば、お互いの命を奪い合う戦争が始まってしまうのでしょうか?武器そのものが悪いとか、不要だとかという議論より「何のために使うのか?が大切な音です。楽器と同じです。ヴァイオリンを燃やして燃料にしようと思う人はいなくても、もし無人島でヴァイオリンしか燃やせるものがなかったら?生きるために燃やすでしょう。自分の生命が本当に危険だと思った時、身を守る「武器」が手にあれば使って生き残るのが本能です。相手がクマであっても、人間であっても同じかも知れません。クマ相手に素手で戦っても人間は勝てません。
 野生の動物たちが、食物連鎖と呼ばれる「弱肉強食」で生き残るための「殺生せっしょう」を行う事を、私たち人類は「可哀そう」と思う反面で「仕方のない事だ」と理解できます。それは「知性と理性」があるから思えるのです。
 必要のない争いをするのが「人間」です。極論すれば、音楽で争いが起きるなら、音楽を捨てても人類は滅びません。だからと言って「音楽はいらない」と言うのは如何でしょうか?
 まだリスクを少しでも減らしたい…気持ちは誰にでもあります。安全な家から出て、外を歩けば「いつ?」車に跳ねられるか?と考えたら外には出られません。
外に出ていて、大地震にあったら?と思ったら出られません。でも、私たちはリスクを忘れて?承知のうえで?外出します。それが「知性」であり「理性」です。

 現代の社会で生活する私たちが「生き残る」ためにすべきことがあります。
最低限の生活を、差別なくすべての人間が営める社会を作ることです。
「最低限」と言うと嫌悪感を持つ人がいます。確かに線引きは誰にもできませんが、少なくとも「生きていけるお金と環境」が最低限だという事には異論はないはずです。「働かない奴が悪い」「外国人が悪い」「病気になるやつが不運なだけ」「自己責任」そうでしょうか?全部、どこか間違っています。
 音楽「ごとき」でさえ、頭を使って楽しむ行為です。
ましてや「最低限の生活をすべての人に」位、誰にでも答えの導ける話です。
「共産主義者か!」「社会位主義者だな!」とか「左翼だ~!」って、言う人。
知能を少しは使ってみましょうよ(笑)
 人間だから!音楽を楽しんだり、文字を読み書きしたりできます。
その人間がお互いをけなしあい、他人を認めず、自己主張だけを繰り返すのって
「ばか」「あほ」だと私は思います。これも「他人を認めていない」と言われるかもしれませんが、他人を認めない人を「認めない」のは自然の摂理だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介