メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

未分類

音楽は国境を超える

 映像は韓国の作曲家「チョン・ファン ホ」氏が作曲した曲を「イ・ヘウォン」さんが歌う「あなたは」(日本語直訳)です。
以前にもチョン氏の作品「開花日」を演奏するために楽譜をお願いし日本国内での演奏許諾もお願いしたところ、ご本人から丁寧なメールを頂きました。
 韓国では「アートポップ」という音楽ジャンルが確立され、多くのクラシック歌手・ピアニストが演奏しています。
韓国の言葉で歌う歌詞の内容はすぐに理解できる人と、私のようにAIを使って日本語に訳さないと理解できない人とで楽しみ方は違うのは仕方ないことです。日本の童謡を他国の人がすぐに理解できないことも同じです。それぞれの国で使われる言語が違うのは「文化」の一つです。
 器楽による音楽=歌詞のない音楽にも地域や国の「伝統」が感じられる場合があります。日本で言えば「雅楽」などもその一つです。また身近な音楽では「演歌」の歌い方も演奏法として独特なものがあります。沖縄の音楽も独特な音楽です。
 私たちが当たり前に感じている様々な音楽にも「ルーツ」があります。地球上のあらゆる場所で「人類」が誕生して以来、数知れない音楽が生まれ歌われていたはずです。記録として残っている「音楽」はここ1200年ほどの「最近」の事です。音そのものではなく「楽譜」やその元祖とも言える記号が唯一の記録です。それらの楽譜を「クラシック音楽」と呼んでいますが実のところもっと古い時代にも音楽はあったはずです。「超クラシック」ですね(笑)

 さて話をテーマに戻しますが「国境」とは何でしょうか?
人類の歴史は戦いの歴史だったと言う人がいます。太古の昔から戦争で自分の「国」や「思想」のために殺し合い「国境」ができました。しかし実際に地球に「線」があるわけではないので「大河」や「山脈」が国境になっていた時代が長く続きました。緯度や軽度で国境を分け始めたんは現代になってからです。時には「壁」が国境になりましたが人間の英知があれば、その影が人々の手で打ち壊されて元通りの「国境のない一つの国」になることもあります。
 日本は周囲を海に囲まれた島国です。しかし地球の歴史で言えば、現代の地球上のすべての「陸地」は一つの大陸だった事が分かっています。本当に長い時間をかけて今の「地球」になったわけです。
現在の日本で他国に行こうとすれば海を超える必要があります。船か飛行機に乗らない限り他国の「地面」を踏むことは出来ません。
空気は繋がっていますので「空気にも国境はない」ことになります。
 他国の文化を知らない人同士が「交流する」ために言語はとても重要な「アイテム」になります。リアルタイムに相手の話している内容を感情まで含めて正確に理解する「翻訳機」がすぐに出来るでしょう。今現在は、どうしても他国の言語を理解するためにタイムラグがあります。
 言葉の「壁」を超えて他国の人と交流できるものはたくさんあります。スポーツ、料理、音楽などもその例です。もちろん文化の違いで「理解困難」なケースもあります。例えば日本の国技「相撲」を初めて見た海外の人は「裸で野蛮!」と感じます。またインドの人たちが食事を右手の「指」を使って食べることに「不潔」と感じる人もいます。「生魚」を食べることに違和感のある国の人もいれば、ウサギや鳩を食べる文化、クジラを食べる文化を理解できない人もいます。
 国や地域で異なる伝統と文化があります。そのすべてを誰もが理解できるとは限りません。しかし「否定」するのは明らかに不当な事です。間違っています。少なくても他の人に迷惑をかけない範囲であれば「自国の文化」について他人が口を挟むのは傲慢です。

 音楽に使われる「楽譜」は現在、世界で統一されています。例外はありますが、ほぼすべての国の人が同じ楽譜で同じ音楽を同時に演奏することができます。これが「音楽は世界の共通語」と言われる所以です。
 韓国のチョン・ハン ホさんから頂いた楽譜も「歌詞」と「タイトル」の文字を除いてすべて私たちが理解できて演奏が可能です。
動画で歌っているイ・ヘウォンさんはクラシックのソプラノ歌手としてソウル大学からドイツに留学し、イタリアのオペラでも歌う「現役のクラシック歌手」ですが、クラシックだけではなくポップスも歌える方のようです。歌声を聴いていると引き込まれるのは私だけは無いと思います。素晴らしい表現力ではす。
 チョン・ハン ホ氏がこの曲をの日本人の私たち夫婦がヴァイオリンとピアノで演奏することを「日本で私の音楽を聞いてくださる方が増えるが光栄です」と仰います。素敵な方だと思います。いつか機会があれば韓国で演奏してみたい気もしますが(笑)、この音楽が「韓国の方の作品」と聞いて毛嫌いする人がいたとしたら…情けないと言わざるを得ません。長い人類の歴史を理解すれば私たちが聞く音楽には、すでに国境がないのです。
アメリカの音楽は素晴らしい!でもアメリカの音楽の根源はアメリカ以外の国の人によって作られた音楽です。
ロシアは嫌いだ!と言いながらチャイコフスキーの音楽を知らずに聴いている人もいます。
「偏見」が人間の文化を壊します。「無理」が人を傷つけます。
国際交流は政治家だけの仕事ではありません。私たちが出来る交流を増やしていけば立派な「外交」になります。
 小さな事ですが、これからも色々な国の音楽を演奏していこうと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器と弓を選ぶ技術と経験

 ヴァイオリンやヴィオラを演奏するすべての人にとって「楽器・弓」が必要なのは言うまでもありません。演奏する「きっかけ」も様々です。今回は楽器と弓を選ぶ技術・経験について考えるものです。
 ヴァイオリン・ヴィオラを「楽器」として表記します。
楽器・弓を借りる場合と購入して演奏する場合があります。
学校の部活動や音楽教室で一定期間、無料・有料でヴァイオリンやヴィオラのセット(楽器・弓・ケース・肩当てなど)を借りて演奏する場合を考えます。最大のネックは「メンテナンス状態」です。特に部活動や知人から無償で借り受けて使う場合、その楽器の状態は購入当時=新品だった時と明らかに違う状態になっているはずです。
 楽器を演奏した後に必要な「日常的な手入れ」がどんな楽器にもあります。加えてある一定の期間ごとに必要な点検と必要な修理があります。点検で修理の必要がなくても「交換・補充」するべき事もあります。使用中に楽器に傷を付けたり間違った手入れをしまえば、表面に表れない致命的なダメージがある場合もあります。
 上記の「メンテナンス」を行っていればヴァイオリン・ヴィオラ・弓の「寿命=耐用年数」は数10年、楽器によっては100年以上演奏が可能になります。
 よく「安い楽器はすぐに使えなくなる」と言う言葉を聞きますが本当にそうでしょうか?

私の経験で言えばメンテナンスを怠らなければ、趣味のレベルであれば楽器として演奏できる場合が殆どです。
 むしろ安い楽器を購入する人の多くは「選び方」を知らず、価格だけを基準に選んでいる人です。もちろん購入できる金額に限りがあるのは誰でも同じです。趣味の楽器に10万円なんてとんでもない!と言う人もいて当たり前です。販売されている金額と、楽器・弓の「価値」は比例しません。これはあくまでも「使う人の価値観」で決まるものです。同じ楽器店で10万円の楽器・弓と100万円の物を弾き比べて見れば分かります。まったく違いを感じないケースも良くあります。
価格の安い方が良く感じることもあります。選ぶ「人」によって評価が変わるのがヴァイオリン・ヴィオラ・弓です。
 ではどうやって?選ぶの賢明なのでしょうか?

 「自分で演奏して選べる人」と、演奏の技術が楽器・弓の「個性」を「判別できない人」に分かれます。
 この二つに明確な基準はありませんが、何より重要なことは「多くの楽器・弓を弾き比べた経験」です。当然ですが知識も重要です。何よりも自分で演奏して楽器と弓の違いを言語化し、聴いている人=購入しようとする人が聴いて納得出来る明確な「個性」を見分けられる人に選んでもらうのが理想だと思っています。
 私自身は中学生2年生の時に師匠に紹介して頂いた職人さんから「良い楽器が入りました」と言う電話を受けて、母親と一緒に工房に伺って職人さんの話を聞いて「即決」して…と言っても親が買うのですが(笑)帰りました。当時の私は楽器の「差」など分かる技術も知識も、経験もなく、当然両親も同じでした。師匠を信じた。それだけです。
私の購入方法が正しいのか?と言われれば、すべてのケースで正しいとは言えない気がします。「師匠との信頼関係」がすべてだからです。その意味で楽器店の店員さん、音楽教室の雇われアルバイト講師を「信頼できる」と言う人がいるなら(笑)薦められる楽器・弓を購入するでしょう。
 大切な事を書いておきます。
購入した楽器・弓は「購入者の責任」で選んだことになります。
選定したり薦めてくれた人、楽器店の責任を後になって追及するのは殆どの場合「クレーマー」に近い扱いをされます。楽器店によっては購入した楽器・弓を一定期間・一定の条件で引き取る=売買契約の解除を認めているケースもあります。また、同じ系列の楽器店などで購入した楽器・弓よりも「高額」な楽器・弓に買い替える場合に限って条件付きで「下取りします」と契約時に書き添える楽器店も昔はありました。が…よく考えると一種の「値引き」を提示しているだけです。以前のブログでも書いた通り「利益」が楽器の価格には含まれています。自由主義経済の基本です。その楽器の価値が購入時より高くなり、購入した価格=販売店の利益を含めた価格より高くなっていれば、「買った価格」かそれに近い価格で下取りしてくれる可能性もわずかにあります。今現在で言えば「投資価値」のある楽器・弓にしか当てはまりません。つまり数千万~数10億円で取引されている物だけの話です。買ったら値段は下がる。それをきちんと理解して購入してください。

 最後になりますが楽器と弓の「基本的な選び方」を書いてみます。
自分で楽器・弓の違いを明確に判断できない時や、実際に手に取って演奏して決められない場合のポイントです。
「製作者・メーカー・型番の信頼性」です。
販売されいている楽器にこれらが明記されている場合と「不明=ノーラべル」の2種類があります。ノーラベルは製作者も年代も「何故か不明」なのです。本来は楽器にも弓にもラベルや刻印があるのが常識です。敢えてそのラベルを剥がして販売し弓の刻印を消して販売する「理由」があります。一つはラベルや刻印が明らかに「偽り」の場合です。販売する楽器店が判断して剥がしたり消したりする行為を「詐欺」とは言えません。むしろ良心的な作業かも知れません。
 一方でラベルや刻印があり製作年、型番などが書かれている場合ですが「本当か?」と疑ってかかるのが正解です。もちろんですが「嘘」と分かっていてラベルを張り替えたり刻印を後から押して「本物」として販売する意図があれば「詐欺」に当たります。
しかし実際には「鑑定士」は世界中に数えるほどしかいませんし、鑑定するのはストラディバリウスやらグヮルネリばかり。趣味で購入できるメーカーの量産楽器の「鑑定」など誰もしてくれません。
むしろ量産楽器のラベルをわざわざ作って貼ったりしても利益が出ませんから、多くの場合は「本物」ですが。
次に考えるポイントは「相場」です。今はネットの時代です。
何年に誰が=どのメーカーが作った・販売した楽器なのかを入力すれば「取引価格」を世界中で調べることが簡単にできます。
中古の場合の相場も分かる場合もあります。楽器店で販売された価格は消去されることが殆どです。理由は?お分かりになると思います。信頼が損なわれるのを防ぐためです。
ネットオークションで取引された金額が残っている場合があります。
ただこの数字も信頼するには不安があります。楽器を実際に弾かず、写真だけで入札=購入しようとする人の「眼力」に疑問があります。
私なら相場より安く出品されている楽器・弓は「まず難あり」と判断します。楽器店で買い取ってもらえないからオークションに出品する。という事はその楽器を落札しても実際にはいくらの価値がある楽器なのか判断できないことになります。購入して一生、使い続ける覚悟があるならネット購入も「あり」ですね。

長々と書きましたが「選定」を実際に仕事としてきた私自身、自分が演奏する「以外の楽器」を過去に弓も含めれば1,000件以上関わってきました。「間違いない」と選定しても購入した人が本当に納得して今も使っているのか?までは責任が持てるものではありません。
ただ多くの経験から演奏する人の好み・演奏方法を理解した上で、実際に私が「試奏」する場があればきっと満足できる結果になると思っています。楽器・弓の選定は「出逢い」であると同時に「技術・経験」が不可欠なことです。もしも私がお役にたてるならお気軽にご相談ください。お応えできることもあるかも知れません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音大出たら音楽家になれるの?

 映像は2004年に私が教員だった最後の年、横浜のみなとみらいホールで実施した部活動オーケストラの定期演奏会の一コマです。外山雄三作曲「管弦楽のためのラプソディー」を中学生と高校生が演奏している動画です。

 私のプロフィールに掲載している事ですが桐朋女子高等学校音楽科(共学)を経て桐朋学園大学を1984年に卒業。1985年4月に開校した横浜市内「某」私立中・高等学校の教諭として採用され2004年12月まで務めました。音楽の授業や校務分掌(教務や生徒指導、進路相談など)の業務と部活動の顧問として音楽部オーケストラを学校開校時から指導・指揮を続けました。退職当時に中高合同のオーケストラは150名の部員を抱えるまでに大きくなりましたが1985年当初は11人の男子生徒だけでスタート。その後毎年10~30名の部員が入部しましたがほぼ全員が「楽器初心者」でも合奏は週に一回。いわゆる「ブラック部活」とは無縁の健全な(笑)活動でした。

 退職後にメリーミュージックと言う音楽教室・楽器店を立ち上げ同時にメリーオーケストラの創設と指揮を行って現在に至ります。
 私が現在65歳ですが16歳の時=約50年前に音楽高校に入学してから半世紀が過ぎたことになります。ながい…(笑)
「音大を卒業すれば音楽家になれるの?」の答えは
「いいえ」です。正確に言えば音楽大学を卒業して得られるのは「学士」と言う大学卒業の資格だけです。一般の大学を卒業した場合と全く同じです。つまり「音楽家」と言う職業に関する資格はひとつもないという事になります。医師免許や看護師、薬剤師、調理師などのような国家資格が一つもなくても「音楽家です」と名乗れるのが真実です。
音楽大学に入学するためには「入学試験」に合格する必要があり卒業するためには大学が定めた授業を履修し単位を取得する必要があります。これも一般の大学と変わりません。

 そもそも…ですが音楽家という言葉は「職業音楽家」を指す場合と「アマチュア音楽家」を表す場合があります。これも厳密な定義のない言葉の一つです。少なくとも音楽を作る・演奏する人は音楽家の「仲間」ですが、今は「職業音楽家」を音楽家と限定して話を進めます。
 音楽高校・音楽大学は何のためにあるのか?結論は「音楽を学ぶ環境」指導教員や施設=楽器や練習室・合奏室などを備えた学校で、音楽を学べる教育機施設だと言えます。
 学ぶ意志がある人が試験を受けて入学し、授業料を納めて音楽と一般の教育を受けるのが「音楽学校」です。学ぶ意志のない人にとっては価値のない学校だと言えます。
 数多(あまた)ある音楽高校・音楽大学は何が違うのか?
指導教員と施設、学ぶことのできる内容が違います。
指導教員が違えば学べる内容が変わります。施設が貧弱だったり量的に不足があれば学ぶことに制約が生じます。学べる内容を決定するのは学校です。「必修得」つまり必ず履修し単位を修得しなければ卒業できない「単位」が学校によって大きく違います。
通常なら「楽に=簡単に卒業できる学校」が喜ばれますが、音楽の学校に関して言えば「最悪」の結果を招きます。
少子化の日本で生徒・学生を集めたいという経営的な考えが「入学・卒業しやすい学校」方向に向かえば、学校の質は日々刻々に低下し続けます。学ばない生徒、学生が増えれば、学びたい人のモチベーションも下がります。指導する教員のモチベーションもさらに下がります。最終的に「音楽学校」としての存在意義がなくなります。
 音楽高校・音楽大学を選ぶなら「入学・卒業が最も難しい学校」を選ぶべきです。楽な学校を選ぶのは妥協と言うより時間とお金の無駄になるリスクが非常に高いことを考える必要があります。
「自分だけが頑張れば良い」と言う考え方もありますが「学友」に恵まれることも音楽家として活動する上で必要な経験です。そもそも指導教員がやる気の無い人であれば得られるものは何もありません。

 最後になりますが音楽大学を卒業しても音楽家として生活できない人と、音楽大学を卒業していなくても音楽家として生活できる人の「違い」について考えます。
 先述の通り音大には学ぶ環境があります。一般の大学と比較すれば間違いなく環境は整っています。卒業生の統計的な「就職先」を考えれば音大卒業生でも一般企業に就職する人も多いことがわかります。
 現実に現在の国内で「音楽家の需要」を考えれば明らかに「供給過多」の状況です。
 私見ですが今後AIが進化・普及する中で音楽の専門的な知識・芸術を持つ人の需要が増える可能性を感じています。「逆だろ?」と思われるでしょうがご存知通りAIは「学習する人工知能」です。音楽を作る人の感性、演奏する人の個性を一番求めているのは「AI産業」だと考えています。今現在でも作曲したり演奏する「AI」は存在しますが、さらに高いレベルの音楽を作り演奏するためには優れた音楽家の「データ」が必要不可欠です。
さらに普及しAIを使って演奏を楽しむ人が増加すれば「指導する人間」の必要性も増加する可能性があります。AIが演奏のアドヴァイスをしてくれる時代ですが「人間に習いたい」と言う欲求が生まれる時代が必ず到来します。
 音大を卒業と無関係に「知識と技術を高める意識」と「人間同士の関り」を常に意識しながら時間をかけて「学びの人生」が音楽家の条件になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

優しい音が好きだから

「強くなくても 目立たなくても すごくなくても 優しい音が好きだから」
この言葉を考えたのは私たち二人の演奏をCDに収録し「Tenderness」というアルバムのタイトルを決めた頃です。
文を私たちの生徒さんの中で書家をされている方がおられたので筆で書いて頂きました。
この言葉にある「優しい音」は「優しい人」も暗示的に示したつもりです。私たち夫婦が共感しあえる「優しさ」と言う言葉は「強い」「厳しい」と言う言葉の対義語に思われますが、優しさは強さでもあると考えています。ただ表面的に目立つ強さや他人から「すごい」と評価されることのない、一見「平凡」「自然」に感じる人の優しさの中に、その人の「信念」「気骨」「生きざま」を感じることがあります。例えて言うなら「家族への優しさ」です。
 夫婦、親子、兄弟姉妹と言った関係の中で当たり前のようにお互いを気づかい、いたわる気持ちがあります。「家族なら当然」と思いがちですが悲しいことに「家族なのに…」と言うことも現実には起こります。私たち自身もお互いの人生で経験したことでもあります。
また二人で訪れて演奏の機会を頂いた「医療少年院」で何人もの職員の方々から辛い現実のお話をお聞きし、厳格な規律の中で更生のために生活している子供たちを目の当たりにし「家族の崩壊」を肌で感じた経験からも「優しさ」の欠如が人間を不幸の連鎖に陥れることも学びました。

 以前のブログで演奏者の内面が音楽に現れるテーマについて考えをまとめました。どんな人でも「生きてきた時間」があります。
それが7歳の子供と20際の若者、65歳の「シニア」で同じはずがありません。時間の長さだけの問題ではありませんが「無駄に生きる」人間は地球上にいないはずです。誰もが「誰か」の子供です。生きる間に誰かに愛され誰かを愛します。楽しい経験も辛い経験もすべてが「感情」として記憶されます。どんな経験にも必ず「原因」と「結果」があります。忘れてしまった経験にも同じことが言えます。忘れたくても忘れられない嫌な記憶、辛い記憶にも価値があります。辛くて生きていけないと感じても「生きていれば」必ずその経験よりも楽しい経験をすることが出来ます。「最悪」と思う経験があればその他の辛い経験は「それよりもマシ」に感じます。
たくさんの経験を経て辿り着くのは「優しさ」だと信じています。
人に対して・生き物に対して・物に対して・音楽に対して
優しく接することは最も難しい事だと思います。表面・うわべだけの「優しさ」は人を傷つけます。障がいのある人を見て「かわいそうね」と子供に教えるのは優しさではなく差別の助長です。むしろ優しさは言葉ではなく行動に現れるものです。音楽に現れるものです。
 間違った事をしている人、人を傷つけている人に対して毅然と「間違っているからやめて」と言うことも優しさだと考えています。
立場の弱い人は自分の苦しい・辛い現状を言葉に出来ず、さらに苦しむことが殆どです。逆に「目立つ人・強いと思っている人・すごいと言われる人」の多くは発言力があり声も発信力も持っています。不幸なことにそれらの人が立場の弱い人をさらに追い詰めてしまいます。
その事を知った時に黙っている事は優しさではないはずです。自分も弱い立場の一人だと自覚があれば、言葉で共に戦う事も優しさです。

 最後になりますが私も浩子さんも「不幸自慢」をする人が苦手です。敢えて「苦手」と書きましたが本音は…(笑)お察しください。
もちろん極端に幸せ自慢されても「ムカッ!」としますが幸せを感じている人がうらやましいと思っているだけかもしれません。
 誰でも自分の思っていなかった病気やケガ、環境に直面する可能性があります。どんなに健康に気を使って生活していても突然、大病になってしまうこともあり得ます。逆のケースもあります。人間にはどうしようもない出来事が起こるのが人生です。ラッキー!なことも「最悪」なことも生きていれば出会うものだと覚悟するべきです。
自分の考える「不幸」を家族以外の人に伝えて「気が楽になった」と感じる人もいるのでしょうけれど、聴かされる方は「勘弁してくれ!」と思っているかも知れません。聞いてあげるのも優しさ?でしょうが、何も解決しないことが分かっているとただの「無駄な時間」に感じます。
 私たちが「特別」だとか「選ばれし者」(笑)とか「優秀」などの自己評価をしたことが一度もありません。お互いを褒めること「すごーい」とか「頑張ったねー」とたたえることはありますが、自分の演奏が「素晴らしい」と思ったことはありませんし、今後思えるとも思えません(笑)
絶望しているわけでも「自虐ネタ」でもありません。真実です。
その私たちの「生きざま」が音楽になって、誰かが楽しんでもらえるなら!つたない指導でも技術や音楽をレッスンで伝えられたら!そんな一念で演奏とレッスンをしています。
 もっと優しい音楽を求めて人生を楽しみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏に表れる内面=人間性

 映像はNHKの番組。私の目の病気「網膜色素変性症」患者が薄暗い場所で「光しか見えない」症状=夜盲症で不便な生活をしている人の「QOL=人生の質」を向上させるメガネ型のウェラブルを紹介してくれています。

 今回のテーマは演奏する「人」についての考察です。
プロの演奏家に限った話ではなりません。子供が無邪気に歌う歌にもカラオケを楽しむ高齢者の歌にも「演奏者の性格」が自然に現れるものです。それを日常の会話に置き換えてみると理解しやすいかもしれません。
 幼児は話す相手によって言葉使いを変える語彙を持っていませんが、見ず知らずの人に接する時に態度・行動に変化があります。
 成長すると少しずつ相手によって言葉遣いを変え「社会性」を身に付けていきます。同じ年齢の子供でも言葉遣いや行動、特に他者との関わり方には大きな違いがあります。家庭内での環境も関わりますが、兄弟姉妹でも違いがあることを考えると「性格」による差が大きいと考えられます。性格は個人の価値観と思考パターンの違いとも言えます。
感じ方が人によって違うのと同様に、自分の感情を表現する場合にも個人差があります。
 感じたことを言語や態度に表すことを抑制・我慢するタイプの人と、表情や言葉に出てしまう・出せるタイプの人がいます。前者は「内向的」後者は「外交的」と一般には呼ばれます。
 しかし言葉や態度には出せなくても本人の中では感情の起伏がある場合「感じていない」と周囲が間違った見方をする場合があります。
内向的な人を「鈍い」「感情がない」と思い込むのは大きな間違いです。逆に一見して大げさに感情を表に出す人を「表現力が豊か」「感受性が高い」と言うのも間違っています。

 昔から「人を見た目で判断してはいけない」と言われます。共感します。外見や話し方だけで「人間性=性格」を知ることはできません。同じ家で過ごす家族の事でさえ「性格」がよくわからないというケースは珍しくない話です。一見しただけで理解できるはずがありません。
「人に自分の正体・本心を隠す」場合もあります。単純な「嘘」とは違って相手や自分を見ている人に「違う人格」を感じさせるケースです。俳優と言う職業は見ている人に「本当に」感じさせるのが技術です。悪役なら見ていて「ムカつく!嫌な奴!」と思わせるのが演技力です。

 演奏する人「演奏者」が自分の演奏する音楽に対して何も感情を持たず演奏することがあるでしょうか?
少なくとも「きれいな曲だなぁ」「悲しい音楽」「難しい…」などは感じるはずです。

さらに「ここが好き」「この部分はよくわからない」など音楽の細部にも感じることがあるはずです。練習する間に「ここはもう少し大きく弾きたいな」「この音が綺麗に弾けなくて悔しい!」などの感情も起こるのではないでしょうか?
 私はこれが「楽譜との対話」だと思っています。多くの場合、作曲された音楽は楽譜として残され、演奏者に伝えられます。作曲家の頭の中で生まれた音楽を作曲者自身が演奏し「音」にした場合、その場で音楽は消滅してしまうからです。録音や記憶によって記録されたものを「第三者が」楽譜にしたものは作曲者の「思った通り」とは限りませんが。
その楽譜を音にする過程で沸き起こった感情が対話だと感じる理由です。
 その対話を経て「音楽」が演奏されます。演奏者の性格は既にここまでに演奏に含まれています。本人の意識とは無関係に「対話」の段階で性格が演奏に入り込みます。
例えば「難しい」と感じた部分は無意識に「避けたい・速く通過したい」と言う気持ちが生まれます。自然に音が小さくなったり、テンポが速くなったりします。
「ここが好き!」と言う部分は何度も弾いているのでその他の部分より余裕をもって演奏できるはずです。
これらも「感情の表れ」だと言えます。レッスンで「もっと感情を込めて!」と指導者が生徒にアドヴァイスしますが、私には違和感があります。そもそも感情は意図的に作れるものではなく、自然発生的に生まれるものだからです。さらに感情の起伏は人によって全く違うものです。指導者の感情と生徒の感情が同じである確率は極めてゼロに近いものです。
 無理に感情を沸き起こすことは無駄なことです。美味しいと感じない食べ物を無理やり「美味しい」と思えますか?それと同じです。
嫌いだと思っていた「納豆」がある時から大好物に変わった…私はその一人です(笑)そんなこともあります。
若い頃に大好きだった曲を今聞いても「なんで好きだったんだ?」と不思議になることもあります。
感情=好き嫌いは変わるものです。
練習しながら変わることもあります。その「感情」が無意識に演奏に現れるものです。
 演奏しようと練習して音楽を嫌いになっては意味がありません。
楽譜を「人間」に置き換えて考えれば、相手の性格や好きな一面と自分には理解できない一面も見えてきます。楽譜も同じです。何度も演奏するうちに新しい感情が生まれることもあります。

 長くなりましたが演奏者の性格は「出そうとしなくても現れる」事はご理解いただけたかと思います。「演奏を聴くと人柄を感じる」と言われます。それは「音楽性」や「演奏技術」すべてに演奏者の性格・価値観・人間性がにじみ出るからだと思います。演奏する音楽が悲しい曲でも楽しい曲でも演奏する人の性格は変わりません。
役者が役になり切れるのは「台本」を理解しているからです。演奏者が「楽譜」を理解せずに演奏するのは台詞を棒読みするのと同じことです。ぜひ!時間をかけて音楽と対話してください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオラリスト 野村謙介

 

生演奏は消えるのか?

 今回は演奏を聴いて楽しむ立場で「生演奏」と「録音の演奏」それぞれの楽しみ方を考えるものです。
 演奏する立場での違いも含めて考えていきます。
まず「生演奏」つまり演奏者が実際に演奏する音を聴く場合について考えてみます。
 元より演奏は「人間の前で人間が行う」芸術として誕生しました。
演奏する場所に聴く人が居て、演奏する人が、曲を演奏します。
教会での演奏もあれば、コンサートホールや宮殿での演奏もありました。演奏する人が一人の場合も二人の場合もあれば、オーケストラのように大人数での演奏も昔からありました。演奏される音楽は「その場限り」で消滅するのが当然でした。同じ音楽を同じ人の演奏で「もう一度聴きたい」と思っても実際にはとても困難だったはずです。すべての演奏が「一期一会」で始まったのが音楽の演奏でした。
「電波で音を離れた場所で聴く技術」が発明されて「音を録音する技術」が誕生してから、音楽の聴き方も変わりました。「ラジオ放送」で音楽を聴くことが出来るようになり「レコード」を自宅で再生して音楽を好きな時に聴くことが出来る時代になりました。
 それでも「生演奏」は残りました。ある意味で「どうして?」と言う疑問が生まれます。放送やレコードで音楽を聴くことが出来るのに、わざわざ会場に出向いて音楽を聴く‥なぜ?生演奏が残ったのでしょうか?

音楽を聴く事、演奏することが楽しいと感じる人にとって「便利」「簡単」が優先するとは限りいません。人間の「欲求」として、快楽を求める欲求はどこまでも続きます。一方で「便利」になる発明には「ゴール」があります。「身体を動かさなくても生活できる」ことです。音楽を聴きたいと思えば「音楽を聴きたい」と声に出せばAiが応え好きな音楽を選んで自分の好きな音量、音色で再生してくれる生活は目の前にあります。それ以上に便利にしようとすると?考えただけで「思ったこと」をコンピューターとロボットが叶えてくれる「ドラえもん」の世界観です。
 以前のブログでもこの話題は取り上げましたが、どんなに文明が進化しても人間が自分の身体を使って「楽しむ」事は残すのではないかと想像しています。自分の代わりにロボットが演奏してくれても「演奏を楽しんだ」とは感じません。VRで視覚・聴覚・嗅覚・触覚を疑似体験出来て「旅行してグルメを楽しんだ気分」を自宅に座ったままで体感できる日が間もなく現実になります。自分の足で歩いて旅行するより安く・安全に・簡単に体感できる「VR旅行」
 好奇心が勝る「プロセス」があります。VRコンサートが当たり前になる日、次に求めるのは「実際の生演奏を聴きたい」という欲求だと思います。
 CDの売上より30センチLPレコードの売り上げが多くなってきました。「作れるもの」であれば一度消えてしまった文化=アナログレコードを蘇らせることは可能です。「設計図」と「材料」があればできる事ですが「人間の技」はそうはいきません。
 演奏できる人間の「必要性」が下がれば、あっという間に演奏家と言う職業は消滅します。アイドル歌手のように「容姿」「イメージ」だけで人気が出る職業とは違います。「職人芸」を絶やすことは人類の大きな損失です。すでに世界中で多くの貴重な「技」が絶滅しています。需要がないから・売れないから・もっと便利なものがあるから・もっと安価に作れるから…様々な理由で伝統の技が消えていきます。
 演奏を「人間の技」と考えること。演奏する人間を残せるのは聴く人がいて初めて出来ることです。ぜひ、人間が演奏する「コンサート」に足を運んでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じヴァイオリンでも

 映像はフランスのヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」の演奏。
1997年に89歳で他界。数多くのレコードを残しています。メニューインやヨーヨー・マとの共演は「クラシックとのフュージョン」として話題になりました。
 あえて「ジャズヴァイオリニスト」としませんでした。演奏する曲、ジャンルで肩書きを付けることに抵抗を感じます。ピアニストのばあい「ジャズピアノにスト」と「ピアニスト」とあった場合に後者は「クラシック音楽のピアニスト」を指す事が一般的かも知れません。
 ヴァイオリンの「技法=テクニック」で見たグラッペリの特徴を考えるより「演奏の自由度」がクラシック音楽の楽譜を演奏するヴァイオリニストと明らかに…完全に違います。
 グラッペリが楽譜に従ってクラシック音楽を演奏していたか?出来たか?好きだったのか?それは本人にしか分からないことかも知れません。

上の動画はメニューインとグラッペリの演奏。右のスピーカー(ヘッドホン)から聞こえるのがグラッペリ、中央に定位=両方のスピーカーから聞こえるのがメニューインの音だと思われます。
 グラッペリはメニューインに気を使いながら「ある程度」旋律を崩さないことに主眼を置きながら、それでも自由に即興(と思われる)的な音を加えながら演奏しています。一方メニューインは「予め決めた通りに」きちんと(笑)演奏している気がします。当たり前ですが「どちらが良い」と言うものでもなく、私は二人の音=どちらも大好きです。違いはあります。楽器の個性などよりも「根本の違い」だと思います。

 とても乱暴な表現ですが「なんちゃってジャスヴァイオリン」言い方を変えれば「ジャズ風に演奏するクラシックヴァイオリン奏者」がいます。私自身、過去に「枯れ葉」や日本のPOPSをヴァイオリンやヴィオラでピアノと演奏した際に「なんちゃって」に挑戦して自爆しました。黒歴史の一つです。
 私自身、ジャズの勉強をしていないし経験もほぼ「ゼロ」なので間違っているかもしれませんが、ジャズの演奏に際して独特の「約束」と「セオリー」「理論」があると感じています。もっと言えば演奏者自身が作曲家の知識・技術を併せ持ち、演奏しながら即興で音楽を作る能力を持っている「と思います」(笑)本当に自信がないので保険をかけました。すみません。
 ジャズを専門的に演奏している方の「クラシック音楽演奏」の中に、どこか違和感を感じる事があります。先入観もあるのは否めませんが楽譜の通り「ではある」のですが正直に言って不自然でクラシックの「負のイメージ=楽譜通りに弾かないといけない」事に縛られて窮屈そうに演奏している印象を受けました。何よりも「慣れていない」ことが原因なのか音も美しくなく感じました。

 グラッペリの演奏を「自己流」と言う人がいますがクラシックのヴァイオリニストも最終的には自己流の演奏方法になるので同じことです。ピッチの正確さはメニューインと何ら変わりません。クラシックでヴァイオリンコンチェルトの独奏をする「演奏技法」と違うのは、無理に大きな音量を出そうとしないことです。音色の変化と「より弱い音」への変化量と変化速度の速さでオーケストラに「負けない音量」を無理に出そうとするヴァイオリンより遥かに自然な弾き方に感じます。
 グリッサンド、ポルタメント、ハーモニクス=フラジオレット、それらの演奏技術はクラシックと変わりませんが、ごく自然に混在させるため、特別な事をしているように感じません。実はとんでもなく難しかったりしますが(涙)

 ヴァイオリンに求める音の違いがあります。それはジャズだから・クラシックだからと言う違いではなく「演奏者が求める音」の違いです。「派手な音」「目立つ音」「大きく感じる音」を出したい人がいれば、「音量よりも音色の多彩さ」「柔らかさ」「太さ」を求めるヴァイオリン奏者もいます。
 以前にも書きましたが「生演奏」であっても会場によっては電気的に音を大きくして会場に音を届ける場合もあります。「それはクラシックではない!」とは言えません。事実レコードもCDも「電気的な処理」をしないと録音さえ出来ないのですから。「ソリストは派手な音」が正しいと思っている人が多いように思いますが、私には理解が出来ません。そもそも「ヴァイオリンコンチェルト」で作曲家が独奏ヴァイオリンとトロンボーンや打楽器を「同時に」演奏するように楽譜を書けば独奏者の音が会場で聞き取れるはずがありません。物理的に音圧が違いすぎます。「音が派手なら」それも程度問題です。むしろオーケストラの中で演奏しているヴァイオリン奏者より「派手」な音をだす必然性がありません。
 ヴァイオリンと言う楽器の「特性」があります。演奏者の「こだわり」があります。結果として演奏する会場の大きさ、一緒に演奏する楽器の編成、必要な処理が生まれるのが「ライブ」です。録音は別物です。音色も自由に後から変更できます。もちろん音量も。
 自然に楽器を奏でられたら…そう願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

「偉大な演奏家」の安売りに一言

映像はミルシュテインのヴァイオリン。1935年の録音だそうです。
「偉大な演奏家」と言う言葉を耳にする度に「偉大って何?」と感じます。
ちなみにAIに聴いてみました。
「「偉大(いだい)」とは、並外れて優れており、功績や魅力、存在感が非常に大きいことを意味します。単に大きいだけでなく、多くの人から感心されるほど素晴らしく、尊敬を集める対象に対して使われます。」だそうです。
「凡人」の真逆と考えれば当たらずとも遠からず?(笑)
 今の時代「多くの人」が何を指すのか?昔とは基準になることが違います。
ネットのなかった時代に多くの人が「知る」ためにはテレビ、ラジオ、新聞、書籍が情報のすべてでした。演奏家の評価はレコードの販売数、コンサートの場所・回数・観客数が最も大きな判断材料でした。
 演奏者が「尊敬」に値する人なのか?これは実際に本人を知る人だけが感じられることです。「噂」や「伝説」が真実とは限らない事は今も昔も変わりません。尊敬されるのは「演奏」ではなく「人格」です。大人が子供を「尊敬する」という言葉には無理があります。もちろん大人の中には子供より貧しい考え方の人もいます。ただ「尊敬」は長い時間をかけて築きあげて業績や行動を「敬う」事です。子供の技術が大人より高っかったとしても「尊敬」と言う言葉は相応しい言葉だとは思いません。

 演奏家の「業績」は演奏です。指導者、教育者としての活動は演奏の評価とは別のものです。演奏の評価については以前のブログで書いていますが聴く人によって全く違って当たり前です。演奏技術の「レベル」を云々出来るのは同じ楽器の演奏家だけです。一般の人が聴いた「感想」と「技術」とは違うという事を考える必要があります。
 普通の人=一般の聴衆が「素晴らしい」と感じる演奏をする演奏者で、他の人の演奏を知らなくても「引き込まれる」「感動する」演奏があります。他人の「情報」ではなく自分の耳で聴いた感想が本来の「評価」です。
 音楽以外の世界で「偽マスター」「自称達人」と呼ばれる人がいます。
「格闘技」「伝統武術」などの場合、実際に本物のボクサーや格闘家と対戦すれば結果は誰の眼にも明白になります。
「日本を代表する」とか「世界的な」と言う枕詞も結構怪しい(笑)ケースがあります。
音楽のコンクールにも「ピンからキリ」までレベルや伝統の違いがあります。
高い演奏技術を持っている人でも「偉大」と呼ぶに相応し人もいれば「え?そう?」と多くの人が首をかしげる人もいます。むしろ自分にとって偉大な師匠=尊敬する先生を他の人も「偉大」と感じるかは別の話です。「多くの人」と言う定義もありません。
 ヴァイオリニストで考えれば「ハイフェッツ」「オイストラフ」の名前を知らないヴァイオリニストはいなくても、実際に演奏を生で聴いたことのある人や本人を「知っている」人はほとんどいない時代です。動画のミルシュテインやシゲティ、メニューインなど「有名な」ヴァイオリニストを挙げれば恐らく10人では終わらないと思います。「20世紀を代表する」と言う表現もあります。誰が決めたの?(笑)とも思いますが今現在も演奏活動をしている人に「偉大な」と言う称号を付けて呼ぶのは如何なものかと思います。むしろ後世の人が振り返って「あの人は偉大な演奏家だった」と言うのが本人への敬意を示す言葉だと私は思っています。
「偉大な音楽家に育てたい」と言う言葉にも違和感があります。指導者が優れていて弟子が指導者への敬意を持つ人であれば弟子の技術も高くなります。
「偉大」な演奏家は目指してなるものではないと思っています。自分の評価を高める事を「目的」にする演奏に私は心をひかれません。常に謙虚であり自分の演奏を聴いてくれる人への感謝を忘れない演奏家にこそ「偉大な演奏家」と言う称号が付くべきだと考えています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの成長と寿命

  今回のテーマは理論的な面と主観的な感覚の両面からヴァイオリンの「成長=良い音に変わる変化」と「寿命=良い音が出せなくなる」状態について考えるものです。理論について私の知識では判断できないので論文を解説している動画を使います。感覚的な面は自分が使用してきたヴァイオリン・ヴィオラを元に書いていきます。

 冒頭の動画は理論的なヴァイオリン=木材の経年変化をまとめた部分から再生されるようにリンクを張ってあります。詳細を見たい方は動画の最初から見直すことをお勧めします。
 結論を一言でまとめてしまえば木材を伐採してから200年頃が「固さ」「音の響き」のピークだという事です。それまでの間は特に振動を音に変える効率が上がり続ける「過渡期」であり、一方で木材の「固さ=強度」は150年から徐々に劣化してくことが科学的に証明された事実です。当然、伐採後の防腐処理や使用環境によってこの数値は変わりますし木材の個体差も関係しますが「理論上」とは多くのデータを基に導き出されるものです。演奏家の「感覚」とは別の次元で「正しい」と言えます。
 ストラディバリウスは良い音を出すヴァイオリン。それを否定する意味ではありません。

ただ現実問題として「劣化」は避けられない事実です。修復をすれば元の楽器から徐々に遠ざかっていきます。最終的には表板も裏板も違う部材に変えたとしても「ストラディバリウスです!」と言えば言えます(笑)

 この動画では触れていませんが「名器」と呼ばれるヴァイオリンに使われている木材を分子レベルで解析し「前処理」つまり楽器を作る前に木材にどんな処理をしたか?と言う事を分析する論文もあります。演奏する私たちが知る由もないことですが、ストラディバリもグヮルネリもそれぞれに「薬品」に木材を漬け込んでいた(笑)のは間違いないようです。細胞や分子レベルまでの分析が出来るようになり、楽器を破壊することなく調べた結果なので疑いの余地はありません。
 300年前に今の科学技術があった訳でもなく、さらにその300年前には色々な大きさ形のヴァイオリンがあった事を考えれば、アマティやストラディバリがどれほど優れた楽器製作者だったかを示しています。

 二本目の動画でシューベルト作曲「アヴェ・マリア」の演奏に使用しているヴィオラは陳昌鉉さんが2010年に製作された楽器です。
演奏しているのは2012年12月。5月に陳昌鉉さんがご逝去され、追悼と感謝の気持ちを込めて演奏したものです。
 陳昌鉉さんは常々「ストラディバリのような楽器を作りたい」とお話しされていました。

このヴィオラの顎当てを私好みに削って頂くために工房に伺った際に私が「生まれたばかりの楽器なのに《おじいちゃん》のような深い音」と表現すると陳昌鉉さんは嬉しそうに笑いながら「ありがとうございます!何よりも嬉しい言葉です」と仰っていました。
「ヴァイオリンのメッカ」と呼ばれるクレモナで少し前に「イタリアの楽器は100年経ってからいい音になるんだ!」と自分の楽器について謎の自慢をしていた有名な製作者がいましたが(笑)100年後に製作者も演奏者も間違いなく「お星さま」になっていますから証明できる人はいません。ある意味「言ったもの勝ち」ですが。
ストラディバリの楽器は出来た当時から「素晴らしい楽器だ」と評価され多くの演奏家、楽器商が彼の楽器を買い求めた結果、信じられないほどの数の楽器を生涯にわたって作り続けました。つまり「100年後に!」なんてストラディバリは言っていないし、当時「新作」だった彼の楽器が本当に素晴らしかったことは事実なのです。

 ここまで書いて「ちゃぶ台返し」をします(笑)
ヴァイオリンを作る製作者=職人は何故?自分の作ったヴァイオリンが「良い音」だったり「演奏しやすい」と分かるのでしょうか?製作者の中には自分でもヴァイオリンの演奏ができる人もいます。しかしどう考えてもヴァイオリンとチェロを同等に弾きこなす人だとは考えられませんし、そんな技術も時間もなかったはずです。「演奏者からの意見=評価」に素直に耳を傾ける謙虚さのない製作者が良いヴァイオリンを作れるとは思いません。先ほどの「100年後」を豪語した製作者は、自分の作ったヴァイオリンの「評価」が自分の予想以下だったから「ふっかけた」としか思えません。本当に演奏者が弾いて「素晴らしい」と評価をしていたなら「100年後」と言う言葉は出てこなかったはずです。今現在の音が固すぎたりキンキンしていたり楽器が鳴らなかったりという不満や評価を素直に受け入れていれば、きっといつか本当に良い楽器製作者になれたかもしれません。
 楽器は演奏者が演奏して初めて「楽器」になるものです。どんな楽器でも演奏の技術が優れた人が演奏すれば「楽器の価値」も高くなります。粗雑に扱われ演奏技術の不足した演奏家に乱暴に使われたヴァイオリンに「楽器が良くない」と暴言を吐く人を私は軽蔑します。

 製作されて300年経過した楽器を「最高の楽器」と決めつけ崇める事には違和感しか感じません。既に修復を重ね木材は往年の響きや強さを失っている楽器が最高だとしたら出来たばかりのヴァイオリンを誰が?育てるのでしょうか?あまりにも身勝手な考え方だと思います。

 人間と似ていると思います。子供の頃に親や周囲の人に愛されて、正しいマナーやモラルを身に付けた人と、甘やかされわがまま放題に育った人の違いです。さらに言えば、どんな子供=ヴァイオリンでも大切に愛情を持って育てれば、人=ヴァイオリンとして成熟した大人になります。人もヴァイオリンも「生まれ」が大事なのではなく、育つ過程が一番大切だと思います。

 新作ヴァイオリンは良い音がしない…これははっきり言って「嘘」です。すべての新作楽器を否定するような考え方は間違っています。

 しかしヴァイオリンは冒頭に書いたように作られてから200年ほど経過したときが「全盛期」だと言えます。それまでの200年間、何人ものヴァイオリニストに大切に演奏・管理されればという条件があります。300年経った楽器を大切にするのは「伝統を継承する」意味しかありません。むしろ今後は演奏に使用するのではなく「貴重な歴史的資料」として管理すべきだと思います。若いヴァイオリニストにストラディバリウスを貸し出すよりも「これから成長する」ヴァイオリンを大切に演奏させるべきだと考えています。

 最後までお読みいただきありがとうございますした。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介