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子どもの心と音楽の関わり

子どもの心と音楽の関わり

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 映像は私が2001年に創設し現在も代表(理事長)と指揮を務めているNPO法人メリーオーケストラの定期演奏会の演奏風景です。
 今回のテーマは幼児期から思春期の子供たちの「心=精神・行動」と音楽の関りについて考察する内容です。
 子供と大人の「関係」には家族・親族との関りと、それ以外の大人との関りで何から何まで違うものです。最も大きな違いは「保護責任」と「同居」の有無です。親は自分の子供に対して他の子供とは違う接し方をする事は「当たり前」に思われがちですが、なぜ?違うのかについて考えることは案外少ないものです。
単に「血縁」だけが家族の絆ではありません。同じように「法的な関係」だけで絆が生まれるものでもありません。

多くの場合「大人」の側に問題がある場合、「子供の心」に歪みが生まれたり精神的な不安定さが現れる様です。特に「親」と言う特殊な立場になると、我が子「だから」と言う気持ちが常に行動に出てしまいます。他人の子供の失敗は許せるのに自分の子供には厳しく当たることは珍しい事ではありません。
 子供と「先生」の関り方の場合、大人=先生の経験と知識・技術によって子供の個性を理解する能力に差が生まれ、当然接し方にも「うまい・へた」と言う差が生まれます。「相性が大事」と言われますが、何よりも先生としての資質・能力があっての話です。

 子供と音楽。あまり関りがなさそうに感じますが、私自身の子供時代の記憶と「中学・高校」の教員として子供に接した20年間の経験、さらにメリーオーケストラとレッスンで子供たちと保護者と接した経験をもとに考えると「子供の成長と音楽」は非常に大きな関連があると確信するようになりました。
 言うまでもなく子供は大人以上に個性がはっきりしています。「子供はみんな一緒」と考えるのは大きな間違いです。身体以上に「精神=感受性の個性」は大人とは比較にならない「差」があります。すべての子供の個性が違うので「ひとまとめ」にすることはできません。分類するのも意味がありません。例えば「内向的・外交的」と言う分け方や「素直・反抗的」「反応の速度」などで区別するのも安直です。子供の内面は大人以上に繊細で複雑です。大人は「自制心」で制御できますし、理屈やTPOで自分の態度を抑制することもできます。言い換えると大人は子供より「鈍くなっている」とも言えます。

同じ年齢・月齢の子供に同じ音楽を同じ条件で聴かせた場合の「反応」は全く違うものです。演奏の技術・楽器・音楽の種類とは無関係です。子供によって「好きな音楽」が明確にあります。もちろん「なぜ?」を言語化する事は子供には出来ません。しかし「反応」は明らかに違います。「親の好きな音楽」とも残念ながらほとんど関係性は見られません。音楽を聞く時の子供の精神状態によっても変わります。音楽に興味を示す子供を「天才」とか「神童」と考えるのは間違っています。どんな子供でも精神状態に波があります。穏やかな時には眠くなります。交感神経が活発になると「元気」「行動的」になります。音楽を聴いて眠る時は精神が穏やかな場合が殆どです。
 小学校や中学校に通う子供たちにとって「音楽」と言えば学校での授業「音楽の時間」が思い浮かぶようです。実際に学校での音楽授業は「鑑賞」「実技=歌唱・器楽」が主な活動になります。鑑賞の教材としてクラシックやポピュラー音楽を聴いて「鑑賞文」を書かせることで「鑑賞の能力」と言う観点が成績=評価の材料になりますが、現実には「作文の能力」を評価しているに過ぎません。また「合唱」「合奏」でも基本的には楽譜を音にする技術・知識を学習する時間はなく、誰かの「真似」をして歌う・演奏するのがもはや当たり前になっています。

 義務教育での「音楽授業」の内容は私が中学校・高等学校の教諭をしていた1980~2000年の頃にも多くの問題が指摘されていました。最大の問題は授業時間数の減少という現実的なものでした。当時の文部省=現在の文科省が示す「標準授業時間数」を基準にすべての教科・科目の週当たり授業時間数が決められていました。週に1時間、多くても2時間が音楽の授業時間数。行事や祝日が重なれば学級によって「月に1時間」になってしまうことも珍しくありません。その時間内で指導する内容も文部省が指定していました。実際には「無理難題」を押し付けられた教員は四苦八苦するのですが、教育委員会も文部省も「知らん顔」です。これが現実です。

 学校教育の音楽授業で子供たちに音楽の美しさや演奏する楽しさを感じさせることは物理的に困難です。小学生7~12歳頃の子供にとって学校での「学び」と「刺激」は生活の大きな部分を占めます。昭和の時代に「国語・算数・理科・社会」と「体育・図工・音楽・道徳」さらに「家庭科」が加わりましたが土曜日が「半ドン=午前中授業」と言う生活が繰り返されていました。当時から音楽の授業は今と大差ありませんでしたが少なくとも現代の小学校のように「あれもこれも」というカリキュラムではなかった記憶があります。

「読み書きそろばん」それ以前は「寺子屋」が子供の学びの中心でした。戦時中を除き「子供の教育」は日本でも国家として重要視されていました。学校で習わない・習えないことは「家庭」に任せられました。子供が多かった時代、家には母と祖父や祖母も一緒に暮らす家庭が多かった時代がありました。昭和の中・後期「高度経済成長」の時代になり徐々に「家庭」の環境が変化しました。核家族化が進み共働き家庭が急増し「かぎっ子」と言う言葉が流行語にもなりました。
子供が学校外で学ぶのは「塾」と「お稽古事」になりました。
 昭和35年=1960年に生まれた私の小学校時代、東京も地方も1クラスが40人以上、1学年6学級以上の子供が学校にあふれていました。
その中で「塾」に通う子供は1学年に数名でした。習い事の多くは「ピアノ」が最も多く、ヴァイオリンを習っているのは小学校で1~2名でした。中学生になった頃にもその人数はあまり変わりませんでした。
1985年に教員になった当時、中学生でピアノを習っている・習っていたと言う生徒がクラスの約半数を占めていました。多くは女子生徒でしたが中には男子もいました。ヴァイオリン、エレクトーンを習っている生徒も1学年に数名いました。多くの生徒は自宅にピアノが「置いてある」時代でした。

 令和の現代で「習い事」が出来る児童・生徒は私が小学校低学年だった頃=1965~1970年頃に戻ってしまったように感じます。
自宅にピアノがある家庭は今や「すごーい」とびっくりされる状態です。住宅街を歩いていてピアノの音が聴こえる事は「過去の話」になりました。アパート・マンションでは「楽器演奏不可」が殆ど。一軒家でも場所を取るピアノは「邪魔」になりました。
 子供たちが学校外で音楽を楽しむ・学ぶ環境が「お金持ちの家庭だけ」になってしまいました。悲しい限りです。
 少子化が進み「高校・大学」に進学する事は以前に比べ簡単になりました。学校を選ばなければ「誰でも」高校・大学に進学できます。入学金・学費を払うために共働き・少子化は益々進行します。
 子供たちにとって「音楽を楽しむ」ことはもはや贅沢なのでしょうか?部活動で合唱や吹奏楽を楽しんでも学校を卒業すれば「終わり」と言う子供が大多数です。

 子供が家族と学校以外で「音楽を習う」ことの特別な意味について最後に書いておきます。
 子供の中には学校での集団生活が困難な子供がたくさんいます。
勉強や運動が得意ではない子供はもっと多くいます。家族にその責任を押し付けるのは間違いです。社会全体の責任です。
 子供一人一人に対して「一人の大人として」接する中で、学校や家庭では感じられない「楽しさ」を感じることもあります。多人数で行動する事に抵抗がある子どもに「〇〇スクール」「〇〇学級」は結局「楽しくない場所」になります。
楽器の演奏は「自分だけの世界」を作ることができます。
出来なかった事が出来るようになる感覚を体感することも出来ます。
先生とのレッスンの中で交わす言葉、態度も不思議なことにレッスンの時間・回数が増すごとに変化していきます。
一言で言えば「子供が心を開く」事です。
成長の過程・速度には大きな個人差があります。幼少期の個人差は家族にとって「もしかしたら…」と過剰に反応しがちです。
集団で授業を行う学校では「個人差」だけでは対応できない一面があります。さらに教員の経験不足によって置き去りにされる子供が存在する結果にも繋がります。
 楽器の演奏には「思考」と「運動」の組み合わせが必要です。多くの場合に「出来ないこと」がストレスになるのは大人も子供も同じです。大人の「指示」に対する容認性は子供によって違います。
それらの「違い」に応じて子供へのアプローチ方法を変える技術が必要です。子供の出来ること、得意な事、好きな事を観察して見つけ「糸口」を見つけることが出来なければ子供のレッスンは子供にとって「命令に従うだけ」の時間になります。

「心」は育てるものではなく「育つ」ものです。子供の精神状態は大人よりも遥かに繊細で敏感ですが「割れもの」を扱うような接し方は逆効果です。もちろん「スパルタ」や「暴力支配」は論外です。恐怖心や「餌」で大人の思った行動をさせるのは「虐待」でしかありません。大人は自分の育った記憶が「教育」のベースになりがちです。
自分が受けた教育や「しつけ」を基準に考えるのは多くの場合不幸な結果を招きます。自分の子供だから「わかる」と思ったり「子供のため」と思い込んだ行動にも落とし穴があります。
 第三者の大人と子供の「信頼関係」は何よりも子供にとって心地の良い体験です。レッスンが子供の「楽しみ」になれば音楽は子供にとって「友達」になります。大人になっても記憶のどこかに「音楽は楽しい」と感じられる人になって欲しい。そのためにも「音楽」という存在を大切にしてほしいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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