メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

演奏の技術

優しい音が好きだから

「強くなくても 目立たなくても すごくなくても 優しい音が好きだから」
この言葉を考えたのは私たち二人の演奏をCDに収録し「Tenderness」というアルバムのタイトルを決めた頃です。
文を私たちの生徒さんの中で書家をされている方がおられたので筆で書いて頂きました。
この言葉にある「優しい音」は「優しい人」も暗示的に示したつもりです。私たち夫婦が共感しあえる「優しさ」と言う言葉は「強い」「厳しい」と言う言葉の対義語に思われますが、優しさは強さでもあると考えています。ただ表面的に目立つ強さや他人から「すごい」と評価されることのない、一見「平凡」「自然」に感じる人の優しさの中に、その人の「信念」「気骨」「生きざま」を感じることがあります。例えて言うなら「家族への優しさ」です。
 夫婦、親子、兄弟姉妹と言った関係の中で当たり前のようにお互いを気づかい、いたわる気持ちがあります。「家族なら当然」と思いがちですが悲しいことに「家族なのに…」と言うことも現実には起こります。私たち自身もお互いの人生で経験したことでもあります。
また二人で訪れて演奏の機会を頂いた「医療少年院」で何人もの職員の方々から辛い現実のお話をお聞きし、厳格な規律の中で更生のために生活している子供たちを目の当たりにし「家族の崩壊」を肌で感じた経験からも「優しさ」の欠如が人間を不幸の連鎖に陥れることも学びました。

 以前のブログで演奏者の内面が音楽に現れるテーマについて考えをまとめました。どんな人でも「生きてきた時間」があります。
それが7歳の子供と20際の若者、65歳の「シニア」で同じはずがありません。時間の長さだけの問題ではありませんが「無駄に生きる」人間は地球上にいないはずです。誰もが「誰か」の子供です。生きる間に誰かに愛され誰かを愛します。楽しい経験も辛い経験もすべてが「感情」として記憶されます。どんな経験にも必ず「原因」と「結果」があります。忘れてしまった経験にも同じことが言えます。忘れたくても忘れられない嫌な記憶、辛い記憶にも価値があります。辛くて生きていけないと感じても「生きていれば」必ずその経験よりも楽しい経験をすることが出来ます。「最悪」と思う経験があればその他の辛い経験は「それよりもマシ」に感じます。
たくさんの経験を経て辿り着くのは「優しさ」だと信じています。
人に対して・生き物に対して・物に対して・音楽に対して
優しく接することは最も難しい事だと思います。表面・うわべだけの「優しさ」は人を傷つけます。障がいのある人を見て「かわいそうね」と子供に教えるのは優しさではなく差別の助長です。むしろ優しさは言葉ではなく行動に現れるものです。音楽に現れるものです。
 間違った事をしている人、人を傷つけている人に対して毅然と「間違っているからやめて」と言うことも優しさだと考えています。
立場の弱い人は自分の苦しい・辛い現状を言葉に出来ず、さらに苦しむことが殆どです。逆に「目立つ人・強いと思っている人・すごいと言われる人」の多くは発言力があり声も発信力も持っています。不幸なことにそれらの人が立場の弱い人をさらに追い詰めてしまいます。
その事を知った時に黙っている事は優しさではないはずです。自分も弱い立場の一人だと自覚があれば、言葉で共に戦う事も優しさです。

 最後になりますが私も浩子さんも「不幸自慢」をする人が苦手です。敢えて「苦手」と書きましたが本音は…(笑)お察しください。
もちろん極端に幸せ自慢されても「ムカッ!」としますが幸せを感じている人がうらやましいと思っているだけかもしれません。
 誰でも自分の思っていなかった病気やケガ、環境に直面する可能性があります。どんなに健康に気を使って生活していても突然、大病になってしまうこともあり得ます。逆のケースもあります。人間にはどうしようもない出来事が起こるのが人生です。ラッキー!なことも「最悪」なことも生きていれば出会うものだと覚悟するべきです。
自分の考える「不幸」を家族以外の人に伝えて「気が楽になった」と感じる人もいるのでしょうけれど、聴かされる方は「勘弁してくれ!」と思っているかも知れません。聞いてあげるのも優しさ?でしょうが、何も解決しないことが分かっているとただの「無駄な時間」に感じます。
 私たちが「特別」だとか「選ばれし者」(笑)とか「優秀」などの自己評価をしたことが一度もありません。お互いを褒めること「すごーい」とか「頑張ったねー」とたたえることはありますが、自分の演奏が「素晴らしい」と思ったことはありませんし、今後思えるとも思えません(笑)
絶望しているわけでも「自虐ネタ」でもありません。真実です。
その私たちの「生きざま」が音楽になって、誰かが楽しんでもらえるなら!つたない指導でも技術や音楽をレッスンで伝えられたら!そんな一念で演奏とレッスンをしています。
 もっと優しい音楽を求めて人生を楽しみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜が見えないから楽譜を覚える「記憶術」

映像はチョン・ファン ホ氏の作曲した歌で直訳すると「愛する人 その時だけを」私たちが歌詞を和訳して付けたタイトルが「追憶~愛しい人へ」をヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 2026年6月現在、私が生まれついて持っている網膜色素変性症の症状は進行を止めてくれませんが光を感じ、明るい場所なら明暗の区別も出来る視力を保てています。進行の速度や症状は患者一人一人違うのもこの病気の特徴です。若い時…30代までは普通の人と大差ない視力と視野がありました。指揮者のスコアを読むことも出来ましたし、オーケストラで二人で1冊の楽譜を見ながら演奏することも出来ていました。今考えると「うらやましい」自分です(笑)
 楽譜は見えなくても音楽を聴いて頭の中に楽譜をイメージできるのは「聴音」と言う技術を学んだおかげだと思います。多くの音大時代の知人友人は幼い頃から聴音やソルフェージュを学んで受験に備えていたので音楽高校入学当時、当然ですが私の聴音・ソルフェージュのクラスは「最下位レベル」でした。当時、日本で最も合格が難しいと言われていた学校の聴音・ソルフェージュです。以前にも書きましたが、私の場合は音楽高校の存在を知ったのが中学3年生でした。恩師の一言で受験を決意して初めて習った聴音・ソルフェージュ。ドミソの和音も答えられないレベルの中学3年生が「桐朋を受験する」なんて無謀すぎます(笑)が、他にやりたいこともなかった私は指導のおかげで超難関を通り抜けられました。その後も聴音・ソルフェージュは苦手でしたが高校卒業レベル、大学卒業レベルをそれぞれクリアして今に至ります。時々卒業できていない夢を未だに見ます…
 音楽を聴いて楽譜にする技術は恐らく聴覚が不自由な人以外なら誰にでもできます。年齢は関係ありません。文字の読み書きと原理は同じです。

 さて動画の演奏も私が楽譜を見ずに楽譜を覚えて演奏したサンプルです。厳密には数小節の楽譜を21インチのタブレットに表示して見ることは何とか可能なので「見えない」は嘘になりますね。
 そして今日、また新しい曲を1曲記憶しました。この演奏動画と同じ作曲家の「歌」で小節数も音符の数も大体同じ音楽です。
「覚えるためのプロセス」を書いてみると…
1.原曲(歌)を聴きながら「音名」を確認する
2.リズムを考える
3.少しずつ=1~2小節単位で覚えられる部分から記憶する
4.曲全体の構成=フレーズの小節数・近似するフレーズの相違点と分岐点の記憶
特に「4」が最大の関門になります。頭の中で2つのフレーズを2段に重ねリズムの違いと相違点を記憶する作業です。
これが整理できると後はヴァイオリンでもヴィオラでも演奏できます。

 人によって記憶する手順や方法は様々ですが脳の働きから「短期の記憶」と「長期の記憶」は別の部分に記憶されるようです。
音楽の演奏は原則として1小節目の最初の音から順番に演奏されますが「楽譜」を視覚的に考えた場合と聴く人が「音・音楽」として捉える場合には全く違う種類の記憶になります。もちろん聴く回数・時間によって音楽の細部まで記憶されるので「イントロ当てクイズ」のように楽譜とは関係なく記憶されることになります。
音楽を覚えたから上手に弾ける…と言う証明はできませんが、覚えることで自由に演奏できることは確かです。楽譜を思出せずに=忘れて演奏が止まるリスクはあります。楽譜を見ながら演奏すれば「忘れる」ことは回避できます。ただ実際には楽譜を読み取る速度と演奏の速度=楽譜の中で先に進むことを比べると、楽譜の情報を読み取る速度の方が遅くなります。読み取っている時間は他の「考え」は停止し無意識の運動になります。以前にも書いた「ながらスマホ運転」がその一例です。
楽譜をイメージしながら音色や音量をコントロールする演奏を楽しむために「聴音・ソルフェージュ」の技術を身に付けてみては?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾きたい曲を弾きたいように弾く

 生徒さんに「弾きたい曲は?」と尋ねて「特にありません」とか「曲を知らないから」と言う答えが返ってくることがあります。ある意味で無理もない事だと思います。自分が演奏できるのか?難しいのか?分からないので謙虚な気持ちで答えられる生徒さんもいます。本当に曲を知らない…特に子供の場合には無理もないことです。
自分がヴァイオリンで音楽を演奏してる「実感」がないのかもしれません。楽器を「弾く」事がいつのまにか「音を出す練習」になっている場合があります。もちろん自分の出したい音を自由に演奏できるように練習する気持ちは何よりも大切ですが「音楽」に辿り着かないのは少し悲しい気がします。サッカーが好きな人に「基本だから」と言ってボールに触らせずにランニングだけの練習させて「これがサッカーだ」と言っても無理ですよね。

 趣味でヴァイオリンを演奏する人が楽しめる曲・楽譜が少ない!これは昔から感じている事です。ピアノと比較して出版されている楽譜の数が比較にならないほど少ないのです。なぜ?
 そもそも作曲者がヴァイオリン独奏とピアノで演奏できる曲を作曲する「数」が少ない事があります。特にアマチュアの演奏者が楽しめる楽譜がほとんどありません。
プロのヴァイオリニストを目指す人を対象にした教則本・エチュードは「弾いて楽しい」曲ではありません。レッスンで「曲」と分類されるのは圧倒的に「ヴァイオリン協奏曲」です。レッスンでクライスラーの小品やヴァイオリンソナタのレッスンは「上級者」にならないと「先生に見てもらえない」と言う慣習は昔からありました。
ピアノを習う場合に「ピアノ協奏曲」をレッスンで習う事は?
殆どないようです。この違いはどこから生まれるのか?

 プロを目指すのではなく趣味としてヴァイオリンの演奏を楽しみたい人にとって「弾きたい曲を選ぶ」ことがとても難しい事なのです。
「ヴァイオリンの曲」でどんな曲を知っている?と聴かれて一体どれだけの曲名を答えられますか?「聴いたことがある?」と実際にYouTubeなどで演奏を聴いてもらっても「知らない」と答えるケースがほとんどです。
趣味でヴァイオリンの演奏を楽しみたい人に「弾けそうな曲」が極めて少ないのは「需要がない」ことが最大の原因です。と言うよりも楽譜が無いからヴァイオリン人口が増えないのだと思います。
 ヴァイオリンはオーケストラに無くてはならない楽器です。誰もが聴いたことのあるであろう「運命」や「第九」、クラシック音楽を聴くのが好きな人ならよくご存じの「カノン」や「アイネクライネナハトムジーク」はヴァイオリン独奏曲ではありませんし、一人で練習して楽しい曲ではありません。ではクライスラー作曲「愛の喜び」を趣味で弾くってかなりハードルが高くなります。ツィゴイネルワイゼンを弾きたい!と生徒さんに言われたら「う~ん」と思う先生が多いはずです。
 数少ない「ヴァイオリン独奏のための曲」から趣味で弾けそうな曲を選ぶ…重音やポジション、移弦などの「難易度」を考えると「有名な曲」の多くは完成度を求めるのは「酷」と言う曲ばかりです。
それでも生徒さん自身が満足できるなら、私は迷わずにレッスンで生徒さんのレベルを高めながら演奏する方法を指導します。

 私たち夫婦が演奏会で聴いて頂く曲の多くは「小品」と分類される音楽です。「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」は小品とは呼ばれません。「室内楽曲」と言う分類になります。
二人で約20年間、演奏活動を続ける中で新しい曲との出逢いを常に求めてきました。過去に演奏した曲も含めて演奏を聴いてくださる方が楽しめるコンサートにしながら、自分たちも新しい曲を演奏する楽しみを持ち続けたいと贅沢な事を考えています。
「歌」をピアノとヴァイオリン、ピアノとヴィオラで演奏することも多くあります。チェロとハープのために作曲された「白鳥」をヴィオラで演奏することも弦楽合奏で演奏するカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲をピアノとヴァイオリンで演奏することもあります。
「編曲=アレンジ」することで原曲の旋律と和声を極力残しながら自分たちの「弾きたい音」になるように楽譜に手を加えます。
「弾きたい曲」を探すのも演奏する上で大切な作業です。自分たちが好きな音楽を一人でも多くの方に聴いて頂くことが「やりがい」になります。聴く人の好みに合わない場合もあるはずです。「ソナタを弾いたら?」とアドヴァイスしてくださる方もおられます。私たちが「弾きたい」と選ぶ条件として、聴いてくださる方の「客層」を考えていることも事実です。クラシックファンやヴァイオリンのコンサートに行きなれている方をターゲットにしたコンサートと違い、普段クラシックのコンサートに関心のない方が初めて私たちのコンサートで聴いた音楽に「いいな」と感じて頂けることを何よりも大事にしています。

 自分の好きな音楽、弾きたい音楽。「楽譜」がないなら作るしかないのです。私たちは作曲家ではありませんし編曲の技術を習った訳ではありません。色々な音楽をたくさん聴くうちに「この曲、二人で弾けないかな?」と想像するようになりました。
楽譜を探し、どうしても入手できなければ聴音で楽譜を作ります。
同じ曲でも演奏者によってアレンジが違うことも多いので、聴けるものはすべて聴きます。

その中で自分たちが演奏したい「楽譜」に近いものを組み合わせて演奏しています。
もし「楽譜がない」でも「弾いてみたい」曲があれば気軽に相談してください。お役に立てるかも知れません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・iヴィオリスト 野村謙介

演奏に表れる内面=人間性

 映像はNHKの番組。私の目の病気「網膜色素変性症」患者が薄暗い場所で「光しか見えない」症状=夜盲症で不便な生活をしている人の「QOL=人生の質」を向上させるメガネ型のウェラブルを紹介してくれています。

 今回のテーマは演奏する「人」についての考察です。
プロの演奏家に限った話ではなりません。子供が無邪気に歌う歌にもカラオケを楽しむ高齢者の歌にも「演奏者の性格」が自然に現れるものです。それを日常の会話に置き換えてみると理解しやすいかもしれません。
 幼児は話す相手によって言葉使いを変える語彙を持っていませんが、見ず知らずの人に接する時に態度・行動に変化があります。
 成長すると少しずつ相手によって言葉遣いを変え「社会性」を身に付けていきます。同じ年齢の子供でも言葉遣いや行動、特に他者との関わり方には大きな違いがあります。家庭内での環境も関わりますが、兄弟姉妹でも違いがあることを考えると「性格」による差が大きいと考えられます。性格は個人の価値観と思考パターンの違いとも言えます。
感じ方が人によって違うのと同様に、自分の感情を表現する場合にも個人差があります。
 感じたことを言語や態度に表すことを抑制・我慢するタイプの人と、表情や言葉に出てしまう・出せるタイプの人がいます。前者は「内向的」後者は「外交的」と一般には呼ばれます。
 しかし言葉や態度には出せなくても本人の中では感情の起伏がある場合「感じていない」と周囲が間違った見方をする場合があります。
内向的な人を「鈍い」「感情がない」と思い込むのは大きな間違いです。逆に一見して大げさに感情を表に出す人を「表現力が豊か」「感受性が高い」と言うのも間違っています。

 昔から「人を見た目で判断してはいけない」と言われます。共感します。外見や話し方だけで「人間性=性格」を知ることはできません。同じ家で過ごす家族の事でさえ「性格」がよくわからないというケースは珍しくない話です。一見しただけで理解できるはずがありません。
「人に自分の正体・本心を隠す」場合もあります。単純な「嘘」とは違って相手や自分を見ている人に「違う人格」を感じさせるケースです。俳優と言う職業は見ている人に「本当に」感じさせるのが技術です。悪役なら見ていて「ムカつく!嫌な奴!」と思わせるのが演技力です。

 演奏する人「演奏者」が自分の演奏する音楽に対して何も感情を持たず演奏することがあるでしょうか?
少なくとも「きれいな曲だなぁ」「悲しい音楽」「難しい…」などは感じるはずです。

さらに「ここが好き」「この部分はよくわからない」など音楽の細部にも感じることがあるはずです。練習する間に「ここはもう少し大きく弾きたいな」「この音が綺麗に弾けなくて悔しい!」などの感情も起こるのではないでしょうか?
 私はこれが「楽譜との対話」だと思っています。多くの場合、作曲された音楽は楽譜として残され、演奏者に伝えられます。作曲家の頭の中で生まれた音楽を作曲者自身が演奏し「音」にした場合、その場で音楽は消滅してしまうからです。録音や記憶によって記録されたものを「第三者が」楽譜にしたものは作曲者の「思った通り」とは限りませんが。
その楽譜を音にする過程で沸き起こった感情が対話だと感じる理由です。
 その対話を経て「音楽」が演奏されます。演奏者の性格は既にここまでに演奏に含まれています。本人の意識とは無関係に「対話」の段階で性格が演奏に入り込みます。
例えば「難しい」と感じた部分は無意識に「避けたい・速く通過したい」と言う気持ちが生まれます。自然に音が小さくなったり、テンポが速くなったりします。
「ここが好き!」と言う部分は何度も弾いているのでその他の部分より余裕をもって演奏できるはずです。
これらも「感情の表れ」だと言えます。レッスンで「もっと感情を込めて!」と指導者が生徒にアドヴァイスしますが、私には違和感があります。そもそも感情は意図的に作れるものではなく、自然発生的に生まれるものだからです。さらに感情の起伏は人によって全く違うものです。指導者の感情と生徒の感情が同じである確率は極めてゼロに近いものです。
 無理に感情を沸き起こすことは無駄なことです。美味しいと感じない食べ物を無理やり「美味しい」と思えますか?それと同じです。
嫌いだと思っていた「納豆」がある時から大好物に変わった…私はその一人です(笑)そんなこともあります。
若い頃に大好きだった曲を今聞いても「なんで好きだったんだ?」と不思議になることもあります。
感情=好き嫌いは変わるものです。
練習しながら変わることもあります。その「感情」が無意識に演奏に現れるものです。
 演奏しようと練習して音楽を嫌いになっては意味がありません。
楽譜を「人間」に置き換えて考えれば、相手の性格や好きな一面と自分には理解できない一面も見えてきます。楽譜も同じです。何度も演奏するうちに新しい感情が生まれることもあります。

 長くなりましたが演奏者の性格は「出そうとしなくても現れる」事はご理解いただけたかと思います。「演奏を聴くと人柄を感じる」と言われます。それは「音楽性」や「演奏技術」すべてに演奏者の性格・価値観・人間性がにじみ出るからだと思います。演奏する音楽が悲しい曲でも楽しい曲でも演奏する人の性格は変わりません。
役者が役になり切れるのは「台本」を理解しているからです。演奏者が「楽譜」を理解せずに演奏するのは台詞を棒読みするのと同じことです。ぜひ!時間をかけて音楽と対話してください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオラリスト 野村謙介

 

生演奏は消えるのか?

 今回は演奏を聴いて楽しむ立場で「生演奏」と「録音の演奏」それぞれの楽しみ方を考えるものです。
 演奏する立場での違いも含めて考えていきます。
まず「生演奏」つまり演奏者が実際に演奏する音を聴く場合について考えてみます。
 元より演奏は「人間の前で人間が行う」芸術として誕生しました。
演奏する場所に聴く人が居て、演奏する人が、曲を演奏します。
教会での演奏もあれば、コンサートホールや宮殿での演奏もありました。演奏する人が一人の場合も二人の場合もあれば、オーケストラのように大人数での演奏も昔からありました。演奏される音楽は「その場限り」で消滅するのが当然でした。同じ音楽を同じ人の演奏で「もう一度聴きたい」と思っても実際にはとても困難だったはずです。すべての演奏が「一期一会」で始まったのが音楽の演奏でした。
「電波で音を離れた場所で聴く技術」が発明されて「音を録音する技術」が誕生してから、音楽の聴き方も変わりました。「ラジオ放送」で音楽を聴くことが出来るようになり「レコード」を自宅で再生して音楽を好きな時に聴くことが出来る時代になりました。
 それでも「生演奏」は残りました。ある意味で「どうして?」と言う疑問が生まれます。放送やレコードで音楽を聴くことが出来るのに、わざわざ会場に出向いて音楽を聴く‥なぜ?生演奏が残ったのでしょうか?

音楽を聴く事、演奏することが楽しいと感じる人にとって「便利」「簡単」が優先するとは限りいません。人間の「欲求」として、快楽を求める欲求はどこまでも続きます。一方で「便利」になる発明には「ゴール」があります。「身体を動かさなくても生活できる」ことです。音楽を聴きたいと思えば「音楽を聴きたい」と声に出せばAiが応え好きな音楽を選んで自分の好きな音量、音色で再生してくれる生活は目の前にあります。それ以上に便利にしようとすると?考えただけで「思ったこと」をコンピューターとロボットが叶えてくれる「ドラえもん」の世界観です。
 以前のブログでもこの話題は取り上げましたが、どんなに文明が進化しても人間が自分の身体を使って「楽しむ」事は残すのではないかと想像しています。自分の代わりにロボットが演奏してくれても「演奏を楽しんだ」とは感じません。VRで視覚・聴覚・嗅覚・触覚を疑似体験出来て「旅行してグルメを楽しんだ気分」を自宅に座ったままで体感できる日が間もなく現実になります。自分の足で歩いて旅行するより安く・安全に・簡単に体感できる「VR旅行」
 好奇心が勝る「プロセス」があります。VRコンサートが当たり前になる日、次に求めるのは「実際の生演奏を聴きたい」という欲求だと思います。
 CDの売上より30センチLPレコードの売り上げが多くなってきました。「作れるもの」であれば一度消えてしまった文化=アナログレコードを蘇らせることは可能です。「設計図」と「材料」があればできる事ですが「人間の技」はそうはいきません。
 演奏できる人間の「必要性」が下がれば、あっという間に演奏家と言う職業は消滅します。アイドル歌手のように「容姿」「イメージ」だけで人気が出る職業とは違います。「職人芸」を絶やすことは人類の大きな損失です。すでに世界中で多くの貴重な「技」が絶滅しています。需要がないから・売れないから・もっと便利なものがあるから・もっと安価に作れるから…様々な理由で伝統の技が消えていきます。
 演奏を「人間の技」と考えること。演奏する人間を残せるのは聴く人がいて初めて出来ることです。ぜひ、人間が演奏する「コンサート」に足を運んでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「創る人」「演奏する人」

 映像は2026年6月6日(土)に八王子の「ロゴス教会」で開催したコンサートの一幕です。「SAKURA」というヴァイオリンとピアノで演奏する作品を作曲された久木山直(Kukiyama Naoshi)氏をお招きし、SAKURAを演奏する前にお話を伺った場面です。

 久木山氏と私たち夫婦は同じ大学(桐朋学園大学)の卒業生です。
久木山氏は「作曲専攻」浩子さんは「ピアノ専攻」私は「ヴァイオリン専攻」なので細かい履修内容は違いますが、小さな校舎でしたので学内で顔を合わせることもしょっちゅう。授業でも一部(体育)で一緒に学んでいた「学友」です。
 久木山氏のプロフィールを私が偉そうに書くことは余りに失礼だと思うのでこちらでは割愛します。関心のある方はネットで検索してみてください。

 今回演奏させてもらった「SAKURA」はFacebookのメッセンジャーに「こういうの書きました。よかったら弾いてみて」と言う言葉とPDFの楽譜データ、さらに久木山氏がDTM(コンピュータで演奏した音楽)も一緒に送られてきました。
私の反応「え?ホントに弾いていいの?」
音源を聴いた第一印象「桜…」の風景でした。音楽的な事より先に「イメージ」で頭が埋まりました。
自分が演奏すると言った手前(笑)次に「どうやって弾こう」と考えます。楽譜を2小節ほど大きなモニター画面に映して覚える作業と並行して「音源」を聴いて覚えます。
動画の中で久木山氏が話している通り「技巧的には」恐らくアマチュアの方でも演奏できる?「譜面=ふづら」です。四分音符と二分音符」だけのヴァイオリンパート。テンポの指示は「モデラート 四分音符=116 4分の6拍子」…ふと疑問。なんで?二分の3拍子にしなかったんだろう?いつか本人に聞いてみようと思いつつ、コンサート当日も聴き忘れました(笑)

さて久木山氏のお話しの中で「気恥ずかしい・シャイ…まぁ多少嘘なんだけど…」と言う部分がありました。演奏する側も作品=楽譜を解釈する時、さらに人前で演奏する時に「照れる」気持ちがどこかにあります。私の場合は自分の解釈や表現、演奏技術に自信が持てないことが一番の原因です。それでも聴いてくださる方の前に出れば「堂々と」「自信たっぷりに」演奏している「ように見える」ように(笑)自分を鼓舞します。鼓舞と言うより暗示をかけます。
 演奏は本来「その場で消滅する芸術」です。演奏を聴いた人の「記憶」だけに残るものですが、作曲家の「楽譜」は違います。時代を超えて延々と演奏され続ける「後に残る芸術」です。絵画や陶芸の作品に似ています。ただ大きく違うのは楽譜の場合には演奏者が介在して「音」になって人に聴かれる=音楽になるという点です。絵画は描いた人と見る人の「間」には空間だけがあります。
 作曲という特殊な音楽活動がなければ「クラシック音楽」は存在しなかったことになります。「楽譜」があったから300年も昔の作曲家の作品を今、演奏できる。これ、すごいことです。
 その楽譜を書く=作曲をする人が「何を思って作曲したのか」と言う想像は演奏者にとってはある意味で「空想の世界」です。作曲者本人が、ある作品についての「思い」や「背景」を文字として残している場合も稀にあります。作曲者自身が演奏したり指揮をした「録音」が残っている近現代の作品もあります。
 SAKURAが久木山氏の頭の中でどうやって?誕生して楽譜になったのか。その一端を動画の中で聞くことが出来ます。
この動画の前に私のMCで「作文」を例えに出して話をしています。子供に「自由に作文してごらん」と言うと子供が困る。「遠足の事を書いてみよう」と言えば子供は書きやすい。そんな話をしました。
久木山氏が「遠足」と言っているのはその事です。
さらに興味を持ったのが「ホットではなく秩序のある中で美しい音楽」と言うお話しでした。言われてみれば「感情を表に出した音楽」は演奏しやすく感じます。悲しみ、喜びを感じる曲の多い中でSAKURAは聴く人の想像力をより一層強く刺激する気がします。
もちろん私は「桜」そのものをタイトルからイメージしましたが、タイトルがなかったとしても「静」な中に感じる「動」「規則性」「微妙な変化」から連想されるイメージがあったと感じます。

こちらの動画は「アルヴォ・ペルト」作曲の「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏した時のMCと演奏映像です。もちろん久木山氏もペルトの事はご存知でした。「規則性」と言う点でこの曲は「対照図形」を連想させる曲です。旋律は全音符だけ。ピアノは常に同じリズム。楽譜を見ると一見「なに?これ」と思うほどシンプルですが聴いていると不思議な空想の世界を感じます。

 音楽の「種類」を無理にカテゴライズすることに違和感を感じる私ですが、どんな音楽であっても「作曲者」が実在するのが当然でした。過去形にしたのは今後、近い将来にAIが作曲する事が当たり前になれば「作曲者」が実在しないことも当たり前になるかも知れないと考えるからです。「バッハの平均律第1番《風》で短調でメロディーはCからCのオクターブ内。重音はなし。臨時記号は1か所」などの条件を言うだけでAIが作曲する…それを「AIが演奏」する。
 確かに人間の学習能力の限界を超えて「記憶」「分析・解析」「処理」を行える人工知能が現実のものになっています。さらに深化・進化すれば人間の感情を分析した結果をもとに「感情の揺れ」も作曲と演奏に取り入れたコンピューター音楽が誰でも使えるようになるでしょう。
 作曲「者」演奏「者」が居なくなる時に「聴く人」だけが人間になるのかもしれません。それは止められない事であり時代の文化として当然のことかも知れません。
「曲を作る」「音楽を奏でる」行為は人間の欲求として消えることはない…とも考えます。

聴く人にとって、機械が作曲した音楽を機械が演奏していても、全く気付かない日が必ずやってきます。人間が人間のために考えて作った音楽を、想像力を働かせ時間と労力をかけて演奏する人間。その一人として今現在も音楽に関われている事に感謝しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

信じること・疑うこと

映像は2026年6月6日(土)に日本基督教団ロゴス教会で開催したコンサートから「追憶~愛しい人へ」と題した曲の演奏動画です。
キリスト教の教会。私も浩子さんも信徒ではないのですが、教会での開催を快く許可して頂くことが出来ました。
東京都八王子市にあるロゴス教会は傾斜地に建てられた立地を生かし、恐らく4階分ほどの高さのある吹き抜けと、一面全体がガラスの開口部で窓の外には牧草地帯と青空が広がる素晴らしい教会です。
来場されたお客様の中には、この教会で結婚式を挙げられた方、お父様のご葬儀を行われた方などもおられました。
「信仰心」はまさに「信じること」が基本です。
対象が神であれ仏様であれ、人間や「物」であっても「信じる」ことは「疑うこと」の裏側にある言葉だと思います。
今回は音楽を演奏する時に、何を信じ何を疑うべきなのか?について考えるものです。

言葉で「自分を信じる」と言うのは簡単です。実際には自分ほど信じられない存在はないように感じるのは私だけでしょうか?(笑)
「他人の言葉は疑ってかかれ」と言われた経験があります。本来なら人を信じる事は「良い事」ですが、中には悪意を持って他人を騙す=嘘をつく人もいます。「振り込め詐欺」がまさに高齢者の「信じる純粋な気持ち」を逆手に取った卑劣な犯罪行為です。
飛行機や船に乗って旅行する時に落ちないかな?沈まないかな?と不安に感じる人←私もその一人…は安全性に疑いを持っている人ですね。実際には飛行機事故は雷に打たれる確率よりも遥かに低いことは知っていても「絶対」ではないことを考えれば、疑う気持ちもご理解いただけるかと(汗)
 演奏中に一緒に演奏する人を信じることが出来なければ音楽にはなりません。偶然「タイミングがあっただけ」の演奏と演奏者同士がお互いを疑わずに、ある時は助け合い、またある時は感動を共にする演奏が音楽だと考えています。
 自分の楽器を信じることも演奏には不可欠です。演奏中、演奏直前に弦が切れないかな?と不安になるのは自分がメンテナンスを怠った結果「楽器を信頼できない」状態に陥っている状態です。
 ホールのスタッフを信じることも大切です。調律師を信じることも。言い換えれば「疑い」を持った心理状態で音楽に集中することは出来ないという事になります。
 逆に「疑うべき」なのは日頃の練習時、自分の演奏に対する疑いです。常に自分の演奏を第三者の耳と目で観察することは自分を信じないことでもあります。「出来ている」「問題ない」と無意識に感じている時には自分の音を聴いていません。他人の演奏を聴く時には些細なミスや微妙なズレに反応する耳がありながら自分の演奏には反応しない。これが「過信」です。
 演奏会の直前に自分に対して疑心暗鬼になるのはマイナスです。
「自己暗示」で自分を信じるトレーニングをすることも演奏者には必要な訓練だと思います。舞台で演奏する自分は「世界で唯一の演奏者」だと考えることも良いイメージにつながります。

「信じるものは救われる」これは間違っていないと思います。
「ただより高いものはない」これもまた間違っていません。
自分が何を信じるか?何に対して疑いを持つか?その判断が正しかったか?間違っていたか?という結果は判断する時には誰にも分からないことです。
疑う事を前提にすれば「騙される」リスクは減りますが、得られるチャンスや巡り合いを逃すリスクが増えます。
逆に信じることをベースにすれば、良い結果に出会う可能性・確率が高くなる半面、騙されたり失敗の原因になった時の後悔が大きくなります。
 その人の性格によって決まることです。日常生活で選択することは常にあります。その都度、自分の価値観で判断しています。
 楽器を選ぶ、弓を選ぶ際に「何を信じるか?」もちろん、自分の目と耳と情報・知識があれば何も迷う事はありません。しかし実際は自分より専門知識を持つ人や信頼できる人の「言葉」を信じて選ぶことになります。「信じられる人」か?否か?の判断も自分の価値観です。楽器店の店員さんを信じるか?疑うか?
「私を信じてください」と言葉にする人ほど疑ってかかるのは私だけ?(笑)過去の経験からなのか「信じて」と言われると「胡散臭い」と感じます。もちろん「嘘だから信じないでね」と言われて信じる人もいませんが。
 演奏する人を信じたくても信じられない…これは悲惨です。
盲目的に良く知らない人を信頼するのは良い事だとは思いません。
音楽を一緒に演奏する「相手」を一人の人として会話したり一緒に行動した時間の中で感じる「信頼感」があります。感じられない人と一緒に演奏するのは…正直「二度と一緒に演奏しない」と心に誓いたくなります(笑)
 コンサート会場に来場されるお客様は「演奏者に期待する」からお金を払い労力と時間をかけて会場に来られた方です。知らない演奏者なら「期待と不安」が半々?ですね。その期待に応えられれば「信頼」が生まれます。期待を裏切る演奏会なら後はありません。
 教会と言う神聖な場所で演奏させて頂いた経験を、これからの演奏に活かしていきたい…

神に誓えませんが本当にそう思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の環境を考える

映像は五嶋みどりさんのドキュメンタリー番組です。
現在54歳?かな?「天才少女ヴァイオリニスト」と評価を受け世界各地で演奏活動、教育活動に取り組んでいる彼女の生き方に憧れを感じ、心から尊敬するヴァイオリニストの一人です。
 この番組の中で弓の毛を2~3週間に一度張り替えてもらっている事を話しているシーンがありました。いつもそうなのか、現在は?など詳しいことは分かりません。
お寺や学校の音楽室でも「真剣に」演奏する彼女はクラシックヴァイオリニストとして、ましてや世界中から演奏のオファーが来るソリストとして「信じられない悪条件」でも演奏しています。
 今回のテーマは楽器を演奏する際に、どこまで整った=理想的な環境で演奏できるか?を理想と現実の両面から考えるものです。

「演奏する場所」「楽器・弓のメンテナンスと準備」「共演する人との練習時間」など色々な「環境」があります。演奏者が決められない環境もあれば「お金に糸目を付けなければ」叶えられる環境もあります。どの環境も演奏する人の価値観=考え方で本人の満足度も変わります。五嶋みどりさんのように窓もなく雨の吹込みそうな「お寺」で無伴奏の曲を演奏することを「考えられない!絶対に嫌!」と言う人の方が多いはずです。まさに「湿度100%」の環境でも五嶋みどりさんはいつも通りに演奏しています。聴く人に「音」より「五嶋みどりという人間」が感じられるのは彼女の「人間性」だと思います。
 楽器や弓、弦などを「理想の状態」で常に維持し演奏するためには莫大な費用が必要になります。ただ「演奏者の価値観」によってこれも大きな違いがあります。「ストラディバリウス以外は弾かない」と言うソリストもいるでしょう。「弓は〇〇△以外は使い物にならない」と言う価値観の人もいます。弦を演奏会の度にすべて張り替えないと気が済まない人もいます。弓の毛の張替えもその一つです。
 すべてが「演奏者の価値観」で自分にとって納得のできる環境とそうでない=我慢して演奏する・演奏しないことを選ぶ場合があります。
小さなことですがコンサート会場で演奏中に聴衆の「咳」で演奏を中断したソリストもいました。これも「価値観」と言えます。
「妥協」「我慢」と言うネガティブな思考は避けたいものです。
同じ環境でも「これで十分」「これ以上は望まない」と本心から思える思考でありたいと思っています。
 日常生活を送るのにも同じことが言えます。今の環境を「不幸」「不運」「最悪」と考えるか?「生きていてラッキー」「こんな時もある」と受け入れて生きられるか?同じ環境でも「思考」によって幸福にも不幸にもなるのが環境です。「犠牲」とか「我慢」と言う言葉は実はとても贅沢な環境だけを望んでいる時の発想です。
演奏する機会があることは演奏家にとって最大の幸せです。演奏する機会がなければ「頭の中で演奏会」を開くしかありません。
「恵まれた環境」に長く接していると少しでも環境が悪化しただけでも「最悪だ!」と思いがちです。演奏家にとって一番恐れるべき「落とし穴」だと思っています。自分にとって理想の環境で演奏できるとしたら、それは間違いなく最高の幸せかも知れません。しかし「結果」つまり演奏が自分の理想=思っていた演奏が出来るか?出来ないか?は環境とは別の問題です。どんなに理想の環境で演奏しても自分が納得できる演奏が出来るとは限りません。むしろ「環境が悪かったから」と現実から逃避する事になります。もっと良い楽器を!もっと良いホールで!もっと!もっと…まさに「麻薬」のようなものだと思います。
理想の環境には遠く及ばない環境でも「演奏できる」だけでも幸福感を感じられる演奏者は、演奏だけに集中できます。楽器のせい、弓のせい、弦の…弓の毛の…ホールが…など自分の演奏とは無関係な「理想の環境」より現状での精一杯の演奏が出来れば納得できます。

 演奏者にとって理想の環境を常に維持できる生活は「夢」とも言えます。それは音楽を聴く人にも言えることです。毎日のように好きなコンサートに行って最高の席で聴き「タクシー」で会場と自宅を往復し帰りには好きなレストランで食事…それが夢の環境かも知れません。この不景気で「S席」を諦めたり我慢してYouTubeを見て「行ったつもり」を味わう人も多いはずです。
 昔ある生徒さんに「演奏家って夢を見させてくれる職業ですね」と言われたことがあります。なるほど…と思いました。演奏家自身は現実の世界で日々の生活に苦しんでいたとしても、舞台に立って音楽を演奏する時、客席にいる聴衆にとって「夢の時間」であることは事実です。その意味で演奏家の「生活、くるしー!」なんて聞きたくない気持ちもわかります(笑)私から見て「夢のような環境」で演奏をしている知人や友人もいますが、本人たちが幸せなのか?までは知りません。「隣の芝生は…」なのかも知れません。
 自分が今与えられた環境の中で「あるがまま」を受け入れて演奏し、いつか!もう少し!と言う夢を持って生きていたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

とうきょうとっきょきょかきょくに憧れる?

映像はサン・サーンス作曲の「序奏とロンド・カプリチオーソ」
今回のテーマは?そうです「速い曲はかっこいい」と言う憧れについて考える内容です。
「速い」と言う基準はないので「速く感じる」と言うのが正しいですね。人によって感じ方は様々ですが「ゆったり」「ゆっくり「のんびり」の対義語とも言えます。音楽に限らず人間が「身体を速く動かす」事への欲求は本能的なことかも知れません。例えば「狩猟」をするとしたら人間より速く走る「獲物」を追う時に速く走れた方が有利です。敵から逃げる場合にも速く走れることは必要な能力になります。「技術」として少しでも速く身体全体、身体の一部を動かすことはそんな「憧れ」の一端かも知れません。
例えば拳銃の早撃ちは映画などでもよく見かけます。早口言葉は子供の頃に競い合った気もします。職業として「釘打ち」の速度や「キャベツ切りの速さ」も見ていて「すごい!」と感じます。

音楽を聴いて「すごい」と感じるのはどんな時でしょう?
歌であれば「声の高さ」「声の大きさ」にも感じます。楽器を使った演奏の場合にはどうでしょう?「音の高さ」に関してピアノの高い音を聴いて「難しそう」と感じる人はいないのに対してトランペットで高い音を演奏すると「すごい」と感じる人もいます。低い音を出すと思い込んでいるチェロやコントラバス、チューバが高い音で演奏するとやはり「おぉ!」と思う人もたくさんいます。
「速い曲」を聴いた時には声楽であれピアノやヴァイオリンの演奏であれ多くの人がすごい!と感じるようです。「どうすれば?あんなに速く指が動くんだろう?」と思うのは自然な事だと思います。先述のキャベツの速切りやパソコンキーボードの早打ちと違い、演奏は速い動きがそのまま聴衆に届くものです。
演奏家を目指す人が通るプロセスの一つに「速く正確に演奏する」技術を修得することも重要な要素です。音階、練習曲を通して速く正確に演奏する技術を修得するために長い時間をかけて練習します。ただ人によってこの「時間」には差があります。同じ人間なので恐らく「構造的な違い」つまり身体能力的な違いはさほど大きくないはずです。それなのに人によって短期間で速く正確に演奏できる人と「そうではない人=私もその一人」に大別されます。
一番の違いは「練習量」だと思っています。もちろん考えながらの練習で単純な「練習時間」ではありません。指導者からのアドヴァイスや「知識=情報」の多さも関係しますが練習と「意欲」が問題だと思います。
速く正確に演奏することへの「憧れ」の強さが人によって違います。
ある程度=レベルの技術は演奏する人にとって必要になりますが「それ以上」を求めるか?は個人の意識の差です。極論すれば「誰よりも早く正確に演奏したい!」と思う気持ちの有無です。

意欲の違いはあってもアマチュア演奏家にとって「どうすれば?」と言う情報は欲しいものです。私の経験で考えると最も大きな「壁」は「音に対する反応の速さと精度」です。
以前にもブログで書いたかもしれませんが「チューナー」を例に考えると理解できます。

音の高さを視覚的に表す便利な道具が「チューナー」です。その反応速度と精度の問題です。反応速度が遅ければ音が聞こえて「正しい・低い・高い」と言う判断までに時間がかかってしまい短い音には反応しません。精度の低い機会だと「大体あっている」程度で表示されることになります。基本的に12種類の音の高さで表示するため「どれかに近い」だけを表示するチューナーもあります。
 運動として指や腕を「速く動かす」と言うトレーニングは比較的短期間で習得できます。

必要な筋力と瞬間的な運動・筋肉の弛緩=脱力なので無駄な力を抜く「技術」を身に付けることになります。
 一方で音に対する反応の速さ精度を高めるために必要な「トレーニング」と必要な時間は日常生活や楽器の演奏だけで身に付けることは困難です。音の高さに対する感覚=音感のトレーニングは、聴音やソルフェージュによって効率的に高めることが期待できます。聴こえた音の「音名」を短時間で判断する技術と、楽譜上の音を楽器を使わずに「声」で音にする技術を修得することで音感を高めることが可能です。
「速く演奏する」とは「短い音を連続して演奏する」と言い換えることが出来ます。ヴァイオリンの場合には「音を出す右手」と「音の高さを変える左手の指」の運動を「独立」させる場合と「分離」する場合があります。ピアノの場合には音の高さは鍵盤によって決まっており、特定の鍵盤を押し下げれば「決まった音が出る」ことがヴァイオリンと大きく違う点です。
 右手と左手の「独立」と「同期」が短い音を連続するためには避けて通れない「壁」になります。多くのアマチュアヴァイオリニストがこの問題で苦労します。原因は様々ですが最も顕著な例は「どちらかの腕・指の運動にもう一方を合わせようとする」ために同期しないケース。逆に分離が出来ない場合には無意識に両腕・両手が同時に動いてしまうために分離が出来ないケースです。
ピアノで両手の指を使って演奏する場合、左右の手の指を「一つのブロック=運動」として独立・分離していると考えられます。10本の指で違う音を出しながら「ひとつの和声」として脳が意識しているのだと思われます。
ヴァイオリンの場合には、左手指だけを動かしても大きな音は出せません。特殊な奏法を除き=左手指のピチカートなど、開放弦も含めた左手指4本を押さえる・離す事で音の高さを変えながら、右手で押さえた弦・押さえていない弦を「擦って」音を出すので、脳からの指令は「2種類」必要になります。つまり4本の弦の「どれを」「どの指で押さえる・離す」と言う右脳からの信号と、右手=弓がどの弦を弾くと言う左脳からの信号を出している事になります。スラーで1本の弦を全弓を使って音を出しながら、左手の指をその弦で押さえたり離したりすれば音の高さが変わります。同じ左手の動きを「弓を返して」演奏する場合は指の動く速度=タイミングと弓を返すタイミングを「一致させる」場合と「意図的にずらす」場合があります。
多くの「速い曲」の場合は指の動きと弓の動きを同時に行えば演奏できますが、左手で2本の弦を違う指で押さえておいて、右手で2本の弦を交互に演奏するパッセージは多くの曲で用いられる技術です。「左手の指は動かさずに音の高さが変わる」ことになります。

 最後に速い曲とゆっくりした曲で「共通」している技術を考えます。それは「音を出す前にすべての運動をイメージする」ことです。
 イメージせずに音を出して「偶然」思った通りの音が出せる事もあります。例えば左手の指を押さえる位置・タイミングと右手で弓を動かす弦と発音のタイミングがすべて合う場合と左手の指の位置=ピッチや発音のタイミング・弦の種類が合わない場合です。私はこれを「サイコロ」や「じゃんけん」に例えます。偶然に当たることを願っても思った数字が出たりじゃんけんに勝つ「確率」でしかありません。確率を挙げるためにと、何十回繰り返しても変化はありません。
演奏の場合にも似たことをしているケースがあります。失敗しないために無意識に音を小さくして逃げる場合、さらに左手の速さに無理やり右手を合わそうとする場合が該当します。
サイコロと違い自分の身体を思ったように動かすことはトレーニングで成功率を高めることが可能です。
 速い曲もゆっくりした曲も「音の連続」であることに変わりありません。今の音から次の音に「移動する」準備が必要です。両手の動きも常に「次の音」への準備が必要です。
要するに「音と音の連結」が肝だという事です。
どんなに速い運動でも次の運動への「準備」をすることです。
 音を出す前の運動を考えることで自分の思った音が出せるようになる事を意識して練習してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの「子音」と「母音」

 映像はシェリングのロンド。私の世代だと「バッハ無伴奏と言えばシェリング」だったので(私だけ?)試験でバッハの無伴奏ソナタかパルティータを弾く前にシェリングのバッハ全曲集のレコードをカセットに録音してテープが伸びまで(笑)聴いていました。
 今回のテーマはヴァイオリンを演奏する際の一音ごとの「発音」を考えるものです。
日本語は会話の殆どが「母音」か「子音&母音」で出来ています。小さい「っ」や小さい「や行」さらに「長音」の組み合わせで成り立っています。アクセントよりも「音」で意味が伝わる言葉が多いのも特徴です。例外として「あめ」などの場合「雨」と「飴」はアクセントの位置が違います。文字の場合はひらがなで「あめ」と書いてあった場合には、前後の文字から意味を探ります。

 さてヴァイオリンで演奏する場合「スラーの二つ目以降の発音」と「スラーの最初の音や弓を返した時の発音」で子音の作り方が違います。
スラー=レガートで二つの音を演奏する場合、2音目は前の音の「続き」として切れ目なく音の高さを変えることになります。通常であればレガートは「弓を止めないで演奏する」ことを指します。2音目で「移弦」した場合でも2音目の「発音=子音」は弓を返したときの発音と違い「アタックを付けない」事が一般的なレガートになります。
 分かりにくいので「スラーではない場合」つまり一音ずつのアタック=子音を付ける倍を考えてみます。言葉で言うと「ぱぴぷぺぽ」と言う言葉を発音する時に「P」の部分、声を出す前に唇を閉じた状態から開く瞬間の音と母音を使って「ぱ」と発音します。「P」を「B」や「V」にすると「ば」「ヴァ」に変わります。
子音として「K」「G」「S」「Z」「T」「D」「N」「H」「P」「V」「M」「Y」「R」[W」が日本語の発音に使われます。
それぞれに発音の仕方があることを私たちは余り意識せずに会話しています。例ええば「はは」「ぱぱ」「ばば」と言う時に、唇をどうすると…なんて考えずに発音していますよね。
 ヴァイオリンでは?「ドレミ」と言う音名で歌う時には、それぞれの子音と母音を使って歌えます。歌詞が「ア」だけの歌「ヴォカリーズ」を演奏する時に音の変わり目にアタックが付けば「ア」ではなく「タ」とか「パ」になり、強いアタックが付けば「ダ」や「バ」、もっと深く重たいアタックなら「ガ」になります。意図的にアタックを消し「無声音」を含めた発音を意識すれば「ハ」に聞こえる…
 もちろん実際に「ハ」と聞こえるわけはありません。自分の言いたい「子音」の出し方を弓と左手の指を使ってコントロールします。
 話が前後しますがスラーの2音目以降の場合には弓のアタックを付けられません。しかし左手の指の上げ下げ=離す・押さえる時の変化でクリアに音の変わり目を表すことも、わざと曖昧にすることもできます。

 動画のシェリングの音をよく聞いてみると細かい音も少し長い音もフォルテ、ピアノに関わらず全体が「引っ掻けない=アタックの弱い」発音で演奏している事に気が付きます。
 弓への圧力をかけたままで発音すれば「タタタタ」と言う音に聴こえますがシェリングの音は差し詰め「ララララ」か「ヤヤヤヤ」と言った音が多く聴こえます。
 この曲のように短い音が連続する曲をヴァイオリンで演奏する時、一つ一つの音を明瞭に発音させて「角を付けた音」にする場合、弓の毛を弦に乗せた状態で圧力を加え動かす➡圧力を緩めずに次の音も同様に圧力をかけたままで発音することの繰り返しで「タタタタ」と言う言葉に聴こえる演奏することが一般的です。
分かりやすい例の動画です。

バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番プレリュード パールマンの演奏

同じ曲をもう一つ

バッハ プレリュード グリュミオーの演奏

 二つ目の動画、アルトゥール・グリュミオーはピアノの部分になると圧力を弱めてアタックを付けない発音に変えています。
 言うまでもないことですが二人とも「こだわり」があってこうしている事は間違いありません。偶然…とか、なんとなく…と言う発音が一つも見つかりません。物凄い集中力です。感服します。

 人間の言葉で音楽を表現できるのは「歌」だけです。ピアノもヴァイオリンも管楽器も打楽器も「言葉」を発することはできません。
 私たちが日常生活で耳にする音=聴こえる音は様々ですが、人との会話だけは「意味」を聞き取ろうとしています。それほど「言葉」と言う音は特別なのです。楽器の音が聴こえた時に楽器の種類を考えるのは演奏家なら「当たり前」かも知れませんが、普通の人は「音楽」で終わるのだと思います。
 聴く前から「ヴァイオリンとピアノ」と分かっている場合、例えばコンサート会場で聴く場合であれば、聴こえてくる音の中でピアノとヴァイオリンの「聴き分け」は恐らく多くの人が出来ると思います。しかし弦楽四重奏の場合なら、二人のヴァイオリン奏者の「聴き分け」をすることは非常に困難…むしろ不可能かもしれません。見ていれば分かりますし明らかに二人の音色や音量が違えば聴き分けられますがそれは特殊な場合です。
 ヴァイオリンで発音を変えることで「意味」が生まれるわけではありません。どんな発音が正しいと言う正解もありません。
 演奏する人の「個性」が一音ずつのアタックやアタックの後の「母音」に当たる音の音色を変えることで生まれます。
 アタックのない「はひふへほ」も柔らかい発音の「まみむめも」、少し固いアタックの「た」「か」、破裂音に近い鋭い発音の「ば」「ぱ」など、ヴァイオリンの発音をコントロールすることで音楽に「色付け」をする楽しさがあります。ぜひ、自分のヴァイオリンの音を聴いて「子音」を考えてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介